2017年5月30日火曜日

〔ためしがき〕 隠棲のレッスン 福田若之

〔ためしがき〕
隠棲のレッスン

福田若之


たとえば、ほんの一日二日、メールを返すのをやめてみる。そうするだけで、ずいぶんと気が楽になり、どんなメールにも返信が書ける気がしてくる。

レッスンとしての隠棲は、別に必ずしも全面的なことではなく、また、長期的なことでもない。ある場からすっといなくなってみることが、精神的な安定のために必要になることがある。

場というのは必ずしも地理的なことだけではなく、話題の磁場のようなものの場合もある。すこし考えごとのあるとき、けれど、ずっと悩んでいては気が滅入ってしまうとき――要するに、自分の歩調の確認が必要になるとき――、僕はそうした磁場から離れた疑似的な隠棲の状態に入る。

疲れたときは、ぐーすか眠ることだ。隠棲のレッスンは、睡眠による体調管理に似ている。

重要なのは、気が重くならない範囲で、隠棲を自分でしっかりと管理することだ。 そうしないと、隠棲は怠惰に変わってしまう。これは、おそらく、長期的で全面的な、要するに本格的な隠棲についてもいえることだろう。たとえば、大作を書くための隠棲は、ただ引きこもって時間をつくるだけでは、とてもその目的を達成することはできないだろう。隠棲が成果をあげるためには、そこでひとつの身体がたえず生き生きとしているのでなければならない。要するに、隠棲もまたある種の活動なのであって、しかも、実のところ、かなりの活動なのだ。

だから、隠棲のレッスンのさなかにあっても、いまの僕には、ためしがきを欠かすことはできない。

2017/5/28

2017年5月29日月曜日

●月曜日の一句〔長谷川晃〕相子智恵



相子智恵






玉葱の薄皮ほどの今朝の夢  長谷川 晃

句集『蝶を追ふ』(2017.05 邑書林)より

玉葱が夏の季語であることで、この句の背景が夏の朝であるとの連想が働く。夏の夜明けは早い。目が覚めて、まだ眠れるな…と二度寝した時に見た夢が〈今朝の夢〉だと想像される。

〈玉葱の薄皮ほどの〉によって、その短さ、儚さが質感として伝わってくる。薄いヴェールのような夢だ。夢の内容は思い出せないけれど、何か夢を見ていたことだけは覚えている……後にはそんな感覚しか残らないくらいのぼんやりとした夢なのだろう。

〈玉葱の薄皮ほどの〉が〈今朝の夢〉につながることの意外性と、それがすっと詩になったときの静かな快さ。

儚く寂しい、けれどもほの明るい朝の夢である。

2017年5月28日日曜日

●新幹線

新幹線

新幹線待つ春愁のカツカレー  吉田汀史

頬かぶり新幹線にて解きにけり  和田耕三郎

みかん置く新幹線の小さき卓  齋藤朝比古〔*〕


〔*〕『豆の木』第21号(2017年5月5日)より。

2017年5月26日金曜日

●金曜日の川柳〔柏原幻四郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






人を焼く炉に番号が打ってある

柏原幻四郎 (かしはら・げんしろう) 1933~2013

言われてみて、はっとした。確かに火葬場の炉には生前の名前ではなく、番号が表示されている。何番のところに来てくださいと係りの人は言う。「炉に番号が打ってある」というだけで、とやかくは言ってないが、人と番号の見えなかった関係性を気付かせる。物を入れるコインロッカーのようである。しかし、そこには死んだとはいえ、人がいる。

柏原はよみうり時事川柳の選者で、「川柳瓦版の会」の代表であった。共通番号(マイナンバー)制度を政府は導入した。国民一人一人に12桁の番号が与えられ、ついに生きているうちにも番号が付けられてしまった。行政の効率化、国民の利便性の向上のためだというが、人はますます管理され、モノ扱いされる。共謀罪法案が衆議院を通過した。このような現状を柏原ならどう詠むだろうか、私も声をあげなくてはと思う。〈われもまた中流なれば貧しきよ〉〈人の世の重い電話が不意に鳴る〉〈霊柩車の屋根に此の世の雨が降る〉〈銭の音 人はやさしい顔にする〉

2017年5月24日水曜日

●水曜日の一句〔山口昭男〕関悦史


関悦史









一本の線より破れゆく熟柿  山口昭男


エロティックなようでもあり、不穏なようでもあり、何かが開示される啓示的瞬間のようでもある。

熟柿といえば〈いちまいの皮の包める熟柿かな 野見山朱鳥〉のように、破れやすさをはらみつつも、全き姿のままに描かれる句が多い気がする。食べられたり鳥につつかれたりしている場面を詠んだ句をべつにすれば、みずから破れていく局面を掬った熟柿の句というのは、案外少ないのではないか。

その破れも、この句では一本の「罅」や「裂け目」ではなく、一本の「線」からはじまり、広がってゆく。三次元の具体物に走る裂け目というよりは、それを絵に描くときの二次元的に抽象化の度合いを上げた認識法が、具体物たる熟柿にじかに貼りついているのである。その抽象化がはさまっているからこそ、逆に「熟柿」の物体としての存在感が際立ってくる。

物と認識のはざまを高速で揺れ動きながら、熟れきったゆえに自壊してゆく熟柿は、現前と絵画的な再表象の境目で引き裂かれてゆきながら、そのこと自体を深く愉しんでいるようで、在ること自体の恐怖と快楽が、あまり観念化されることなく、静かに、しかし激しく句に書きとめられている。


句集『木簡』(2017.5 青磁社)所収。