2015年7月4日土曜日

【みみず・ぶっくす 29】 書かない人生 小津夜景

【みみず・ぶっくす 29】 
書かない人生

小津夜景








【みみず・ぶっくす29】
書かない人生     小津夜景

 まずなにも言葉を書かない時間というのが長い間あった。書くことがなかったし、書きたいとも思わなかった。なにも読まない時間はさらに長かった。わたしの生活は言葉よりむしろ海に近く、毎日乾燥しきった石畳を下っては、砂浜に出した二、三のテーブルに竹の日覆いをかけただけの喫茶店に入り、日がな海を眺めていた。
 なにも読まない時間が十数年を過ぎた頃、たまたま短い詩に出会った。そして思わず読んでしまった。その詩はあまりに短すぎたのだ。わたしは困惑し、書きたくないと苦しみつつその感想を書いた。なぜ苦しんでまで書いたのか、といえば、言葉から遠のいていた時間があまりに長すぎたせいで、作品とは作者に黙って読んでも失礼にあたらない、ということを完全に忘れていたからだった。
 だがこのことがきっかけとなって、わたしは言葉と関わることを思い出した。
 最近わたしの書いた言葉を読んで感想をくれた人がいる。わたしがお礼を言うとその人は「でも僕の感想は、あなたの言葉に敗れ去るといいなって思っているんです。」
と言った。
 私の書いた言葉とその人の感想は、競いあうためのものではない。その人もそれをわかった上で敗れたいと言っているらしい。わたしは尋ねる。
「つまりあなたにとって感想というのは恋のようなものですか。相手を征服したい気持ちと、相手に指一本すら届かない気持ちとの両方を味わいたい、という。」
「そうです。感想は権力ですから。僕はそれを自覚していかなければならないと思っています。もう十年以上。」
「……」
「だから僕、日々、だいそれたことをしているなあって。できたら次の人生は、感想をいっこも書かない人生にしたい。」
 なにも書きたくないというのはこれっぽっちも複雑な感情ではない。それは触れることで対象を壊したくない、ということだ。また書きたいという感情も至って単純で、それは敗れ去ることで対象への想いを昇華したいということだろう。相手に与えた疵と自らの負った疵とを相互貫入的、かつ想像的な親密性として抱きつづけること。それが書く欲望の始まりであり、わたしはそのメランコリーを嫌ったからこそ書くことも読むことも止めたのだった(なぜなら読む時、人はすでに書いている)。では現在書いている理由は? それは書くことが決して疵をめぐる作業ではなく単なる無意味な運動であること、つまり書くとは〈とりあえず〉書くことであり、書かないことと大差ないと思うことにしたから。いつか、たまさか、触れてしまうために。

感想をいっこも書かない人生 / 柳本々々  


仙人掌やそろりと月の丘に立ち
ボサノヴァの夜を編んだる籐枕
洗ひ髪しぼる手前のもの忘れ
健忘と明るい部屋の金魚かな
黄ばみたることば遊ばす黴の棚
風鈴を聞きこぼしたる作者の死
ぼうたん溺る鍵穴のまばゆさに
夕立や文庫の匂ひたちこめる
便箋にしばらく旅の夕映えが
耳栓をはづして虹の桟橋へ

2015年7月3日金曜日

●金曜日の川柳〔松木秀〕樋口由紀子



樋口由紀子






いっせいに桜が咲いている ひどい

松木秀 (まつき・しゅう) 1972~

「ひどい」に肩透かしをくらった。が、現実感を強く感じた。いっせいに咲いてしまうからか。いっせいに咲くとあまりにインパクトが強いからか。まだ桜が咲く受け入れ準備ができてないのに、もう咲いている。あわただしい。急かされる。いずれにせよ、的確とは到底思えなかった「ひどい」が実にぴたりと嵌っている。

松木は『5メートルほどの果てしなさ』で第一回現代短歌協会賞を受賞した歌人でもある。掲句も短歌っぽいところがある。短歌っぽくたって、俳句っぽくたって、私はいいと思っている。要はそこからどうするのかである。

「ひどい」は綿密に計算された言葉である。一字空けも他にも「ひどい」があると思わせる。修辞を駆使して、新たな言葉の世界を開いていくやり方を学びたい。「おかじょうき」(2015年刊)収録。

2015年7月1日水曜日

●水曜日の一句〔藤井あかり〕関悦史



関悦史








稜線の一樹一樹や稲光  藤井あかり


一瞬の閃光に照らされて、山の稜線に生えた木々がひとつひとつ克明に浮き上がる。

しかし句には「照らされて」や「浮き上がる」などという言葉は入っていない。「一樹一樹」と「稲光」の組み合わせがおのずとそういうシーンを思い浮かばせるというだけであり、説明的な要素は削られている。

動詞や形容詞もなく、季語が入り、五七五定型きっちりの音数で、切れ字の「や」まで入る。

文体的には有季定型・客観写生の見本のような、ゆるみのない楷書体の句だが、静かで劇的な瞬間を拾ったためか、狭苦しさはない(季語としての「稲妻・稲光」は秋であり、夏の「雷」と違って音は伴わない)。

位置関係としては、稜線に並んだ樹木たちに見下ろされている形となる。相手は多勢であり、上を取られているのだ。映画の合戦シーンで、同じように敵陣の旗指物がずらりと並んだら、これは命の危機である。

しかもおそらく、この句の場合は稲光によって、稜線の木々が闇の奥から不意に現れたのである。軽い戦慄と畏怖の感情が呼び起こさたとしても不思議ではない。

木々もまぎれもなく生き物(それも巨大な)であり、あえて季語に引きつけて読んでしまえば、稲を実らせると信じられた「稲光」をも含めた、自然界の大きな連関のなかにあって聳えたっている。

その崇高さは、決して語り手を圧倒し、屈服させるものとしては描かれていないが、静かな句であるだけに、かえって潜在するものの力を窺わせはする。

句を読んだあとに残るのは、一瞬の木々の姿よりも、むしろその前後に果てしなく延長される秋の闇の大きさなのではないか。


句集『封緘』(2015.6 文學の森)所収。

2015年6月30日火曜日

〔ためしがき〕 書き果たすこと、書き継ぐこと 福田若之

〔ためしがき〕
書き果たすこと、書き継ぐこと

福田若之


ふと、書き終える書き上げる書き切る書き尽くすのほかに書き果たすという動詞がないものだろうかという思いを抱き、調べると、すでに書き果たされているのだった。

ものねだり肩につかまる幼子の手を抑へつつ文書き果たす   三ヶ島葭子

書き果たすというこの言葉が、すでに書き果たされているのを見て、僕は嬉しくなる。この言葉が書き果たされていることで、僕は書き継ぐことができるからだ。

書き上げられたもの、書き切られたもの、書き尽くされたもの――これらのものを、僕らは書き継ぐことができるだろうか。書き上げられたもの、書き切られたもの、書き尽くされたもの、そして、書き果たされたものは、すべて書き終えられたものには違いない。しかし、その中で、僕らが書き継ぐことができるのは、ただ書き果たされたものだけではないだろうか。

書き果たされたものにだけは、応えることができる。だから、手紙は書き上げられても、書き切られても、書き尽くされてもいけない――もとい、いけないことはないかもしれないが、そうした手紙にはどんな返信もありえないだろう。

しかし、返信――誤配の通知までをも含めた、あらゆる返信を考慮に入れるとして――のありえない手紙などというものがありうるだろうか。そんな手紙は、まだ書き終えられていない手紙だけではないだろうか。

おそらく、投函されなかった手紙にさえも、返信が来る可能性があるのだ。なにしろ、手紙は盗まれることさえあるのだから。したがって、手紙を書き終えるということは、すなわち手紙を書き果たすということでもあって、あとは書き終えるという言葉と書き果たすという言葉のあいだに、わずかなニュアンスの違いがあるだけなのだろう。

おそらく、書き終えるという言葉は、ただ、書き終える動きだけを意味している。すなわち、書くという動きの静止。この動詞の意味はただそれだけだ。

それに対して、書き果たすという言葉は、書くことによって書くことそれ自体を果たすという、どこかメタ的なニュアンスを孕んでいる。そこでは、書くというこの動きが、果たすというこの動きと一体になっている。

終える書くと接触しているが、重なってはいない。なぜなら、書くは幅を持っているのに対して、終えるは一瞬だからだ。

それに対して、果たすには幅がある。果たすには工程がある。書き果たすにおいては、その工程こそが書くという作業なのである。

では、手紙以外はどうか。本当に書き上げられたもの、書き切られたもの、書き尽くされたものというのが、実は思いつかない。書く人間は誰でも、何かをいまだ書かないうちにこの世を去るだろう。

たとえば、『カラマーゾフの兄弟』――これこそ、ドストエフスキーが、潜在的には他のあらゆる作品においてさえ、すなわち、生涯を通じて、書き上げようとしていたものに違いないだろう――は、書き上げられても書き切られても書き尽くされてもいない。つまり、ドストエフスキーはその文学を決して書き上げなかったし、書き切らなかったし、書き尽くさなかったし、おそらくはそれこそがドストエフスキーの文学だったのだ。

プルースト。遺された『失われた時を求めて』は完結しているものの推敲段階で、やはり、書き尽くされてはいなかった。仮にプルーストがあとどれだけ長生きしたとしても、おそらく、死ぬまで推敲を続けたのではないだろうか。

これらの例が恣意的であるというなら、ランボーはどうだろう。たしかに、完成品を残して、詩人であることを辞めた。しかし、それは彼が書き尽くしてしまったからだとはどうにも思えないのである。ランボーは詩作の(表面上の)放棄のあとにも、まだ作品を書いていたことが明らかになっているという。これらの人々もまた、結局のところ、ただ書き果たしたのだといえるだろう。

蓮實重彥は、昨年ようやく書き果たされた『『ボヴァリー夫人』論』に、こう書いている。
まず、書物一般についていうなら、いかなる書物も「完成」の瞬間など持ちうるはずもなく、すべてはとりあえず終止符がうたれたというにすぎず、その意味でなら、どれもこれもがいわば出来損ないの書物たることをまぬがれていない。出来損ないというのは、時間的な余裕の有無、物理的かつ心理的な限界、身体的な疲労の許容度、等々、理由はあれこれ考えられようが、あらゆる著者は、誰もがこれという正当な理由もないまま、ここでひとまず筆を措かざるをえまいと感じたときに書き終えるしかないのである。 
(蓮實重彥『『ボヴァリー夫人』論』、筑摩書房、2014年、13頁、強調は原文では傍点)
まあ、この本に巻かれた帯には、誰のものとも知れない言葉で「歳月をこえた書き下ろし2000枚、遂に完成!」と印刷されていたりもするのだけれど。

人は偉大な作品を前にして、「力強く書き上げられている」、「巧みに書き切っている」、「すべてがここに書き尽くされている」などと感銘の声を上げるが、おそらく、こうした紋切り型は、『『ボヴァリー夫人』論』の帯文がまさしくそうであるように、「書き果たされている」ということに対する感動を梱包して流通に載せるための、一種のオブラートに過ぎないのである。

2015年6月29日月曜日

●月曜日の一句〔笠井亞子〕相子智恵



相子智恵






脳内の庭師がメダカ飼い始む  笠井亞子

「脳内目高」(「はがきハイク」12号、2015.6)より

ちょっと昔に「マン盆栽」というのが流行った。盆栽に鉄道模型用のフィギュア(人形)などを置いて、盆栽の世界に人を登場させて一つの世界とするものだ。ジオラマや箱庭に近い遊びだろうか。

盆栽は樹木を自然状態に似せて小さく育てて成形し、部屋の中で鑑賞できるようにしたものであり、盆栽だけなら世界の主体はこちら側(鑑賞者のいる現実)にあるのだが、そこに人(人形)を登場させることで、一気に世界はパラレルワールドめいた入れ子状態になる。見ている私の世界と、小人の世界が並行して動き始めるのである。

掲句、脳内の映像は変幻自在であるが、〈脳内の庭師〉だけなら、ふつうは等身大の庭師を想像する。どこかの大きな屋敷の庭を任される庭師だ。そこにいきなり広大な庭と縮尺のかなり異なる〈メダカ飼い始む〉がすとんと現れることで、この脳内の庭師が一気に小人めく。メダカは庭師が造園した池に放たれる錦鯉の代わりであるかのように思え、ジオラマのようなキッチュな庭の風景が浮かび上がるのである。

俳句は読者の脳内(=想像力)で実景に変換されるので、〈脳内の〉は一見余分なメタ的言及に思えるが、この〈脳内〉の一語が庭師の縮尺を自在に小さくする役割を持っていて、不思議への回路の鍵となっている。