2015年9月1日火曜日

〔ためしがき〕 素焼き 福田若之

〔ためしがき〕
素焼き

福田若之

素焼き:メモ書きに対する物質的な隠喩としては、おそらく最適なもののひとつ。→原始的(ただし、これは素朴さ、仮組み、宙吊りであって、〈起源〉ではない。∵素焼きはすでに焼かれている);ざらつき(素材の質感):釉薬のなさ。

釉薬のなさ≠文飾のなさ。∵文飾は推敲ぬきにも存在しうる。アラ・プリマ絵画にも彩りはある。

釉薬とは皮膜である。 ∴素焼き:言葉を包み隠すことなく焼くということ。

素焼きは、なによりも本焼きと対比されるだろう。→本焼き:清書?

2015/8/14

2015年8月31日月曜日

●月曜日の一句〔西宮舞〕相子智恵



相子智恵






木の洞に溜る浜砂雁渡し  西宮 舞

句集『天風』(2015.5 角川学芸出版)より

「雁渡し」は、初秋から仲秋にかけて吹く北風で「青北風」ともいい、この風が吹き出すと潮も空も急に秋らしく澄むようになる。歳時記によれば、志摩や伊豆の漁夫の方言であるという。

防風林の一樹だろうか。海辺の木の洞に浜砂が溜っていた。ただそれだけの景である。しかし「雁渡し」という季語によって風に思いが向けられ、「いまは雁渡しの秋風が吹いているが、ここに溜った浜砂は長い年月をかけ、それぞれの季節の風に運ばれてきた砂なのだ」ということに気づかされる。洞ができているくらいだから古木なのだろう。風は絶えず吹きめぐり、季節はめぐり、木は生き延び、浜砂は徐々に溜まっていった。

ある季節の一時点の景を描いたスケッチのような写生句でありながら、その後ろには大きな時間が捉えられていると思う。雁渡しが吹くころの秋天の広さが思い浮かぶことも、掲句に時間的、空間的広がりを持たせている。

思えば句集名も『天風』で、これは〈鷹渡る天上の道風の道〉という句から採られているが、風に代表されるような「留まらざるもの」への作者の関心の高さが思われてくる。

2015年8月29日土曜日

【みみず・ぶっくす 36】読む男 小津夜景

【みみず・ぶっくす 36】 
読む男

小津夜景






 前衛とは、また後衛とはなにか。
 この問いに、ある人はこう答えたそうだ。
 前衛であるというのは、死んだものが何であるかを知っているということ、そして後衛であるというのは、死んだものをまだ愛しているということである、と。
 この答えを知って以来、わたしはことあるごとに前衛と後衛について思いをめぐらすようになった。そしてある日とうとう「本を読むとは、この前衛と後衛とを同時にやってのけることではないか」と考えるようになった。
 読書の快楽とは、思い出に浸りつつ、いまだ見ぬ世界を歩くことだ。それは記憶を掘り返してはその中から非・記憶ばかりを拾い出すような、どこか奇妙な旅でもある。
 ちなみに読むことは男にこそふさわしい。そう言いきれる理由は、今わたしが座っているカフェの端に、紙に目をぐっと近づけて、ぶあつい電話帳を読み耽っている男がいるから。男は別段狂っている風でもなく、グレン・グールドのように、活字を指で丹念に拾っている。たぶんあの男にとって未知の名前の羅列は、記憶と非・記憶とが重なり合う、とても眩しい宝島なのだろう。

 ゆふさりのひかりのやうな電話帳たづさへ来たりモーツアルトは / 永井陽子
 

読む男ありけり今朝の小鳥くる
いちくの籠をあふれて休館日
白秋のページの縁を切りおとす
天高き日の木製の手すりかな
あまでうすあまでうすとぞ豊の秋
隣室に律の調べをしつらへる
鰯雲やかまし村の迷ひ子に
扇置くやうにペーパーナイフ置く
鹿垣やいつもきのふの色をして
跡形もなきところより秋めけり

2015年8月28日金曜日

●金曜日の川柳〔早良葉〕樋口由紀子



樋口由紀子






狐とも蛇とも別れ老いゆくよ

早良葉 (さわら・よう) 1929~

もともと夏に強い方ではないが、今年の暑さにはまいった。これが「老いゆく」ことなのかと思ったりもした。そんなときにこの句に出合って、気弱になっていた心が少しだけ軽くなった。

確かにこれは老いの一つの形である。若かりし日はどうしても「狐」や「蛇」が気になった。その一方で持て余してもいた。そういうものをだんだんと気にしなくなるのも「老い」の恩寵。そして、いままで見えなかった世界が見えてくるかもしれない。

「老いゆく」のは不安で寂しいもので、ついマイナス面ばかりに目がいってしまう。けれども、そればかりではないのだ。掲句は「狐」や「蛇」を登場させているが、重苦しさはなく、からりとしている。諧謔味がある。作者のユーモアを感じ、同時に作者の生真面目さも見える。

2015年8月26日水曜日

●水曜日の一句〔東金夢明〕関悦史


関悦史









棲むたびに蔵書に埋もれ浮寝鳥  東金夢明


蔵書家共通の悩みだが、面白い句にはなりにくいところを「浮寝鳥」がうまく掬っている。

「棲むたびに」は、何度か転居しているのだろう。その都度、蔵書の整理はしているはずだが、またすぐに溜まっていき、本の隙間に埋もれて暮らすことになる。

本の重量も大変なもののはずだが、その重量はどっしりした定住感覚には全く繋がらず、置場の不足からかえって漂泊中のような思いを催させる。自分の死後の蔵書のゆくえなどを考えればなおさらのことだ。

その頼りない生活感情を担っているのが「浮寝鳥」なのである。穏やかに見えはするだが、地に足がついていない。

つまり「浮寝鳥」が暗喩になっている格好で、これは重く陳腐化しやすい方法だが、句と作者の自己との距離が絶妙なのか、ここではかえって、ナマな生活感情を落ち着いた風格のある句に仕上げることとなっている。

作者自身が「浮寝鳥」にどっぷり自己投影されているというよりは、いわば諺や格言のように話を一般化しているのだ。その一般化が、自分の感慨から遊離しきらない有機的な繋がりをどこかに保っている辺りが、この句の安定感と慕わしさの理由なのだろう。


句集『月下樹』(2015.5 友月書房)所収。