2016年4月30日土曜日

●燐寸

燐寸

三月や燐寸の棒は四角柱  雪我狂流〔*〕

花種用喇叭印の燐寸箱  池田澄子

燃えさしの燐寸の頭春深し  小川軽舟〔**

昼寝覚マッチの頭燃え狂ふ  小林恭二

秋雨の瓦斯がとびつく燐寸かな  中村汀女

一本のマッチをすれば湖は霧  富沢赤黄男

秋の夜の燐寸の火色さす畳  加藤楸邨

数へ日や茶筒のうへに燐寸箱  小原啄葉


〔*〕雪我狂流句集『開運出世大黒天』(2016年2月/私家版)より

〔**『鷹』2016年5月号より



2016年4月29日金曜日

●金曜日の川柳〔佐々木久枝〕樋口由紀子



樋口由紀子






なのはなのなのはなのなかのはつねつ

佐々木久枝 (ささき・ひさえ) 1940~

表記がすべてひらがなである。<NANOHANANONANOHANANONAKANOHATUNETU>、前半はA音とO音だけ、あとにU音とE音が加わる。音韻の効果はよくわからないが、ぼおっとした景が一気に引き締まったような気がした。

一面に菜の花が咲いている。その痛いような黄色に自分と同じような発熱を感じたのだろうか。漢字にすると〈菜の花の菜の花の中の発熱〉。漢字の方が句の意味はわかりやすい。しかし、句の内容はさほど重要ではないというか、取り立てて言うほどのことを書いているわけではないと言っているようにも思う。わかってしまうことで終わってほしくないためのひらがななのか。それともそんなたいそうなことではなく、彼女らしい遊び心の表れなのかもしれない。ともあれ、不思議な存在感を醸し出している。「aの会」(1980年)。

2016年4月27日水曜日

●水曜日の一句〔加田由美〕関悦史


関悦史









落椿蛸這ひ上る崖といふ  加田由美


落ちる椿と這い上がる蛸。下降と上昇の相反する動きが一句に同居していて、こうした句はともすると一般論的な平板さに至ってしまうのだが、この句の場合、二つの動きが円環運動をかたちづくる趣きこそあれ、その中に妙なずれと諧謔が感じられる。落ちていった椿が蛸となって這い上がってくるという、奇怪なメタモルフォーゼのイメージが一句に仕込まれているからである。

この下降と上昇の円環を、くり返される生と死の生成運動の寓意などと取ってすませるには、椿と蛸という組み合わせが少々突拍子もなくて、さながら木の実から鳥が生まれる中世ヨーロッパの博物誌的図像につうじる味わいがあるのだが、それと同時に、実際にそうした場に作者その人が足を運んだのであろうという物質界の手応えをも、このメタモルフォーゼが宿らせることとなっている。

頭でこしらえるには組み合わせが意外過ぎるからということももちろん理由ではあるのだが、措辞の上でもそうした手応えをもたらしている箇所があるのだ。それが、ただの伝聞であることを明らかにしてしまうために、一見間接性が手応えを鈍らせてしまうかに見える、結びの「といふ」なのである。

いかなる必要に迫られてかは知らないが、ご苦労にも崖を這い上がってくる蛸は、さしあたり句中の語り手の前にも現前してはいない。そういう、おそらくは語り手にとっても思いがけない不意打ち的なものであろう情報が与えられた「崖」があるだけである。

この不在が、本当に蛸は上ってくるだろうかという興趣と期待の感覚を切り開く。そしてこの期待感に裏打ちされた想像は、「崖」にもわれわれ読者にも、蛸の足にまさぐられるのを待ち受けるような、それだけでくすぐったくなる実在感をもたらしてしまうのだ。

いわばこの句においては「崖」を中心とする風景全体が不在の這い上がる「蛸」によって異化されているのである。


句集『桃太郎』(2016.4 ふらんす堂)所収。

2016年4月26日火曜日

〔ためしがき〕 短歌と読む俳句、俳句を読む短歌 福田若之

〔ためしがき〕
短歌と読む俳句、俳句を読む短歌

福田若之


銅と同じ冷たさ帯びてラムうまし。どの本能とも遊んでやるよ   千種創一

『砂丘律』(青磁社、2015年)におさめられたこの一首は、おそらく、金子兜太の次の句を踏まえたものだろう:

酒止めようかどの本能と遊ぼうか   金子兜太

「酒止めようか」の句では、さしあたり、酒を止めることが何かしらの本能と遊ぶことの契機であるように読める。すなわち、酒を止めるとき、はじめて、何かしらの本能と遊ぶことになるということ。あるいは、酒を呑むことも本能のひとつだとするならば、それを止めるとき、はじめて、別の本能と遊ぶことになるということ。

だが、こうした読みに対して、「銅と同じ冷たさ」の歌では、別の読みが示唆されている。酒を止めることは何かしらの本能と遊ぶこと自体の契機ではなく、むしろ、遊び相手とする本能をどれかに絞ってしまうことの契機であるという読みの可能性が提示されているのだ。だとしたら、酒を止めなければ、遊び相手となる本能を選ぶことも必要ではなくなる。どの本能とも遊ぶことができるのだ。「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」という問いは、あたかも酒を止めなければ何らかの本能と遊ぶことなどできないかのように、僕たちに選択を迫る。だが、この歌において示唆された読みにおいては、これは偽の問いだということになる。だからこそ、一首は、この問いに真面目に回答するのではなく、問いを無効にすることによってそれに応答しているのだ。

ところで、この一首は、もしかすると、俳句を参照しながら「銅と同じ冷たさ帯びてラムうまし」という一節を「。」で閉じることによって、この一節を短歌に含みこまれた俳句として提示しているのかもしれない。この一節は、ラム酒という液体を、俳句めいた仕方で、ある程度まで即物的に把握している。僕には、「酒止めようか」の句のほうが、書きぶりとしては、「銅と同じ冷たさ帯びてラムうまし」というこの一節よりも短歌めいているようにさえ思える。

それだけであれば俳句として読むこともできたかもしれない言葉に、下の句がつくことで、短歌として仕上がっている。だが、この下の句こそが、特定の俳句への参照にほかならない(「どの本能とも遊んでやるよ」という言葉がなかったなら、兜太の句とのつながりは明確にならなかっただろう)。だから、もしかすると、この短歌は、ある俳句に応答すると同時に自らが俳句であることを失った言葉なのかもしれない。「あとがき」に「感情は、水のように流れていって、もう戻ってこないもの、のはずなのにシャーペンや人差し指で書き留めた瞬間に、よどんだ湖やまぶしい雪原になる、感情を残すということは、それは、とても畏れるべき行為だ、だから、この歌集が、光の下であなたに何度も読まれて、日焼けして、表紙も折れて、背表紙も割れて、砂のようにぼろぼろになって、いつの日か無になることを願う」と記す書き手の歌として僕の心を強く惹きつけるのは、たとえば、《月の夜に変電所でみたものは象と、象しか思い出せない》や《一葉の写真のせいで組みなおす鳥居と鳥居の後の記憶を》などの、記憶の風化を言葉にした歌なのだけれど、「銅と同じ冷たさ」の一首にも、もしかすると、俳句であることを失うという仕方での記憶の風化を読むことができるのかもしれない。

2016/3/29

2016年4月25日月曜日

●月曜日の一句〔嵯峨根鈴子〕相子智恵



相子智恵






逃げ水やむりよくむりよくと噛む駱駝  嵯峨根鈴子

句集『ラストシーン』(2016.04 邑書林)より

砂漠の逃げ水である。

地面が熱せられて水溜りができたように見え、近づくと遠方に逃げて行ってしまうように見える蜃気楼の一種、逃げ水。そんないつまでもたどり着けない水溜まりを背景に、駱駝はただゆっくりと口を動かし、食べたものを反芻するのみである。砂漠の水溜りといえば貴重なオアシスを思うが、それが逃げ水なのだと想像されてくる。

〈むりよくむりよく〉は「無力無力」だろうか。水にたどり着けない駱駝に悲壮感はまるでなく、ただのんびりと、無力、無力と口を動かしている。明るい内容ではないのに、ほのかな諧謔があり、口の中で唱えていると不思議と安らかになってくる一句である。