2016年2月8日月曜日

●月曜日の一句〔市川葉〕相子智恵



相子智恵






後の世はゆつくりと来よ桃の花  市川 葉

句文集『市川葉俳句集成』(2016.1 邑書林)より

死後はゆっくり来い、という。親しい人を送ったり、死を身近にする体験がなければ、なかなかこのような句はできないだろう。つつがなく生きている、この日常の奇跡を淡々と実感できる年齢や境遇にならなければ。句の背景に年齢を持ち込むことには慎重にならねばならないが、それでもやはり、あるべき時に書かないと説得力がない句というものもある。

その思いを強くするのが「桃の花」である。桃の花は現世の花でありながら、死後の世界にも通じるような気がするし、さらには「桃源郷」も思い出して、全体がふわりと俗世間を離れているような味わいがある。

現実世界も、死後の世界も、詩の世界も、すべてが地続きなのだ。だからこそ「死後はゆっくりと来い」という言葉に悲壮感がなく、微笑みを浮かべながら書けるし、読める。ふうわりと今の時間と向き合う作者の心の自在に、こちらの心もほぐれてくる。


※執筆後に著者のご訃報に接しました。ご冥福をお祈りいたします。(相子)

2016年2月6日土曜日

【みみず・ぶっくす 57】枡野浩一とピタゴラス 小津夜景

【みみず・ぶっくす 57】
枡野浩一とピタゴラス

小津夜景



 大喜利短歌のことをぼんやり考えていたら、ふと枡野浩一の存在が頭に浮かんだ。
 枡野の短歌がそうだというのではない。昔、彼が「マスノ短歌教」の教祖として信者を導いていた頃、ひとつ変わったレッスンがあったことをぐうぜん思い出したのだ。
 それは「どうぞよろしくお願いします」とか「今日のごはんはカレーにしよう」といった、彼の提示する下の句に対し五七五の前句を附けるといった遊びで、日夜マスノ教信者たちは競いあうように川柳の腕を磨いていた。短歌教、にもかかわらず。
 もっとも短歌でなく川柳を書かせることの意味は端から見ても明快だった。まず状況を「発見」するエスプリをもつこと。そしてそのエスプリを文学の象徴作用に頼らずに言葉にしてみること。こうした練習に、なるほど伝統川柳はふさわしい。
 初学者というのは技法を身体的痕跡として受け入れる。才能のある者ほど技法を内在化し、たとえそれを使わない時でも可能性としてのそれを無視できなくなる。たとえば子供が作曲を学ぶとき、ふつう現代の音階は勉強しない。しかしたった一度でもそのしくみに身を浸せば、たとえソナタを書いている最中でも、調性音楽以外の音の響きが頭から消え去ることはないだろう。
 音楽の例を上げたからというわけでもないけれど、じぶんを教祖と称したり、物事を発見するエスプリを磨いたり、世界を詩的表象ではないやり方で定式化したり、現代の短歌界に計り知れない言語的影響を与えているのにその存在がひっそりとしか業界で扱われなかったりと、枡野浩一ってプラトンとアリストテレスを生んだピタゴラスに似てるかも、なんて思う。


ピタゴラス春の空気を汲みにけり
アルバムに日付のなくて暖かし
てのひらを太古にかざす鳥の恋
うぐひすや私の声が飲茶と言ふ
ふつくらと水気のかよふ春の燭
整数のとなりでシクラメンの咲く
ぶらんこの廃材めきて雨上がり
閂に余寒のゼリーフィッシュかな
人生のどの路地からもしやぼん玉
なにをうつでもなく春の砧かな

2016年2月5日金曜日

●金曜日の川柳〔江口ちかる〕樋口由紀子



樋口由紀子






カミサマはヤマダジツコと名乗られた

江口ちかる (えぐち・ちかる)

「ふらすこてん」新年句会での兼題「神」の一句。一読して度胆を抜かれた。「川柳で大嘘を書きたい」と言ったのは石部明だが、掲句も見事な大嘘である。どこで出会ったのか、いつ言ったのか、カミサマは日本人だったのか、女性だったのか。突っ込みどころはいくらでもある。決してそういうことはないとわかっていても、この大嘘にのっかかって、一緒に納得し、一緒におもしろがりたいと思った。

「ヤマダジツコ」が絶妙で曲者。ありそうでなさそうな、リアリティのぎりぎりの巧みな名前設定である。そして、「かみさま」でも「神さま」でも「神様」でもなくカタカナの「カミサマ」。何の根拠もなく、理由もないが、唐突さに、不思議に説得力があった。

2016年2月4日木曜日

〔人名さん〕腰のあたり

〔人名さん〕
腰のあたり


ああ立春の腰のあたりがプレスリー  佐山哲郎

『東京ぱれおろがす』(2003年4月・西田書店)より

2016年2月3日水曜日

●水曜日の一句〔秋山泰〕関悦史


関悦史









冬銀河どこまで繰っても前掲書  秋山 泰


学術書の巻末にはよく註がついていて、出典が明記してあるのだが、同じ本を何ヶ所も参照している場合「前掲書」が並ぶことになる。それをどこまで遡っても書名にゆきあたらないというのが七五の句意だが、「冬銀河」という助詞のない上五でやや日常から遊離したイメージが広がることになる。

冬銀河のもとで語り手が本を繰っているとするのが一般的な解であろうが、そのほかにも、本のページを遡り続けている間に冬銀河にまで遡ってしまう、冬銀河を本のようにどこまでも繰っている、冬銀河が本をどこまでも繰っているといったイメージが重なりあうことになるのである。

句集は全句、新かな、口語調で書かれているのだが、この句の場合の「繰っても」(「繰れど」ではない)は、中八になることとも相俟って、句を音読(それは黙読の仕方にも影響する)する速度を上げさせ、繰る動作への集中をより強めさせる。あまり銀河の始原にまで遡り、宇宙論に食い込むような深読みには誘わない。

「冬銀河」の透徹のもと、微小きわまる一冊の本にも至極あっさりと迷宮は潜んでいるのだが、それはたとえばボルヘスの「砂の本」のような最初と最後の部分を開くことがどうしてもできない本当の迷宮ではなく、単なる注意力と根気によって克服されるはずの迷宮に過ぎない。「冬銀河」が卑俗さから句を解放する役割を果たしてもいるのだが、同時に「冬銀河」の謎も日常レベルの平板さに引き下ろされ気味となる。それはそれで滑稽ではある。

いや、しかしひょっとしたらこの本には本当に無限が潜み入っているのかもしれない。「本という宇宙」がものの例えとしてではなく、不意にでくわしたただの物件として現前しているとしたらという、軽さのなかの恐怖をこそ掬すべきか。


句集『流星に刺青』(2016.1 ふらんす堂)所収。