2016年7月29日金曜日

●金曜日の川柳〔櫟田礼文〕樋口由紀子



樋口由紀子






誘われて鳥獣戯画にまぎれ込む

櫟田礼文 (いちだ・れぶん) 1948~

こう暑いとどこか別の場所に逃げ出したくなる。でも、鳥獣戯画とは、たいそうなところに行ってしまったものである。夢の中の出来事だろうか。

「誘われて」だから、誰かに誘われてで、間違ってとか、偶然とかではない。最初は自分の意志ではなかったが、たぶん前々から興味はあったのだろう。そうでなければいくら誘われてもついて行くところではない。鳥獣戯画に誘うって、どんな人なのかと思う。

「まぎれ込む」だから、正面からではなく、混乱などに乗じて入ったのであって、ここでは自分が異質であることはもちろん重々承知している。気づかれなかったか。さて、そこはどんなところか。ひょっとしてこっち側には帰って来れないかもしれない。「苫小牧市民文芸」(2015年刊)収録。

2016年7月28日木曜日

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2016年7月27日水曜日

●水曜日の一句〔大崎紀夫〕関悦史


関悦史









ががんぼが窓かきむしり港に灯  大崎紀夫


ががんぼがかきむしるのは壁ではなく透明な窓であり、ががんぼはおそらくそこにガラスがあると理解できない。「かきむしる」にも、単に垂直面にとりつこうとしているというのを通り越した必死さがある。

いずれにしても、室内にともにいる虫の生態から引き起こされたもののあわれやおかしさが、作句意欲をかきたてたという句と見えるが、下五「港に灯」で少々様子が違ってくる。ががんぼの生態と、窓の外の叙景の取り合わせとなってくるのだ。

「港」という全体を俯瞰したような捉え方から、ホテルの上階の眺めのように思えてくる。しかし下五は「港は灯」ではなく「港に灯」である。つまり港一面に灯がともった見事な夜景ではない。港の規模が小さいか、あるいはまだ灯がともり始めたばかりの時刻ということである。取り合わせ上のバランスから考えても、一面に灯がともった夜景では、ががんぼが埋もれてしまうからこれで適切なのだろう。

結果として句は、ややものさびしく、その中でががんぼの動作が苦しげでありながら可笑しいといった情調に落ち着くことになる(ががんぼ自身が夜景を愛でたりはおそらくできず、自分がどう見られているかといった自意識もないのでなおさらのことだ)。

その情調は視点人物、ひいては作者自身にも及ぶ。「窓」一枚で表象される数十年規模しか持たない建築に隔てられ、港へじかに到達できない点では、人とががんぼの間に大差はない。地に足のつかない高層階となれば、そのよるべなさは一層増す。そうしたよるべなさを、ががんぼとともにすることで得られた叙景が「港に灯」なのだ。


句集『ふな釣り』(2016.7 ウエップ)所収。

2016年7月26日火曜日

〔ためしがき〕 不安 福田若之

〔ためしがき〕
不安

福田若之

今日、電車に乗ってぼーっと窓の外を眺めていたら、ふいに路線を間違えた気がして、慌てて電車の行き先を確認してしまった。

僕は、ときどき、自分が乗っている電車が僕をどこか間違った行き先へ連れて行ってしまうんじゃないかと不安に思うことがある。

2016/6/13

2016年7月25日月曜日

●月曜日の一句〔岡野泰輔〕相子智恵



相子智恵






目の前の水着は水を脱ぐところ  岡野泰輔

句集『なめらかな世界の肉』(2016.07 ふらんす堂)より

海でも川でもよいのだが、私はプールを想像した。目の前を泳いでいた人がざぶんと水から上がる。ぴっちりと体を覆っていた水から、ぬっと体を抜き出すのは、なるほど言われてみれば〈水を脱ぐ〉感じがある。もちろんこれは「水着を脱ぐ」を連想させることは織り込み済みだろうから、何となくエロスを感じさせるのも面白い。

〈目の前の〉と〈ところ〉で画角がが決まっている。まず〈目の前〉で水着がクローズアップされる。読者は目の前の水着しか見えなくなる。そして下五は、たとえば「脱ぎにけり」でもよいわけで、この「ところ」は〈鳥の巣に鳥が入つてゆくところ 波多野爽波〉と同じ手法だ。辞書の意味で言えば「話題として取り立てる部分」ということになるだろうが、読者はスローモーションのように、そこに視点を集中させることになるのである。

映画のワンシーンのようにアングルを定めて、一句が印象的になっている。