2016年7月1日金曜日

●金曜日の川柳〔 林ふじを〕樋口由紀子



樋口由紀子






悔いるだけ悔い悔いなしと言ひきれ

林ふじを (はやし・ふじお) 1926~1959

「悔い」という語を一句に三度も使っている。その繰り返しにまず気をとられる。「悔い」の持つ意味度はかなり重い。

これから行なうことはたぶん後悔するだろうが、それでも実行し、とことん悔いて、悔いなしと言い切るのだという。「悔い」という気持ちを無垢に表現している。しかし、言いきって気持ちが楽になったわけではないだろう。「悔いなしと言いきれ」と自分に言いきかせることで崩れそうになる身を守っているのだ。痛々しいほどに自分を見据えている。だから必要以上の「悔い」なのだ。

林ふじをは、〈子にあたふ乳房にあらず女なり〉〈抱きよせてわが子の髪の素直さよ〉〈接吻のまま窒息してみたし〉〈ギリギリに生きる私に墓はいらない〉など、わずか三、四年の間に衝撃的な川柳を数多く生んだ。

2016年6月30日木曜日

【評判録】小池正博『転校生は蟻まみれ』

【評判録】
小池正博『転校生は蟻まみれ』(2016年3月/編集工房ノア


≫榊陽子

≫なかはられいこ:感謝まみれと、蟻まみれ

≫瀧村小奈生

≫柳本々々

≫岡田由季

≫西村麒麟:蟻にまみれているところ

≫大井恒行


〔週刊俳句〕

≫山田ゆみ葉

≫小津夜景:水と仮面のエチカ

≫西原天気:はじめてください、川の話を

2016年6月29日水曜日

●水曜日の一句〔平松彌榮子〕関悦史


関悦史









めがねはづせば蝶の声あり杉並区  平松彌榮子


言葉の繋がり具合が何とも不思議な句である。「めがねはづせば」は、それ自体としては何の変哲もない動作、ところがそれがただちに「蝶の声あり」なる少々異界的な事態の原因となり、最終的には「杉並区」というおよそ詩性のない予想外な行政区分の名へと続いて一句は終わる。

「蝶の声」は蝶の羽音ではない。眼鏡を外し、視界がぼやけ、その分聴力が鋭敏となり、蝶の羽ばたく音までが聴こえそうだという誇張法とは異なるのである。眼鏡を外しただけのことが、世の常のものではない「蝶の声」を容易に呼び込んでしまう、ある危機感をも伴うような局面にこの語り手はおそらくいる。「蝶の声あり」の後にすんなりと異界への憧れや移行を示す文言が続くのであれば、それはそれでよい。ファンタジー的であるとはいえ、それなりに安定した世界と生ではあろう。

ところがこの句では「蝶の声」を聴きとってしまう主体は、いずこへかと旅立つこともなく、そのまま何の変哲もない生活空間「杉並区」に居続けるのである。いわば、二つの領域に引き裂かれた在り方が日常化してしまっているのだ。「蝶の声」を含み込んだ、それでいて定常的な日常とは、生がそのままカタストロフであり続けている状態なのではないか。

蝶の飛び方というのが見ようによってはまさにそうしたもので、ランダムに位置を変え続ける不規則極まりない蝶の飛行は、力学的に解析するのは困難であるらしい。その蝶の飛行は今、眼鏡を外した状態では見えていない。見えなくなった不規則さは、ただちに「声」へと変じ、聴覚を襲う。目は閉じられても、耳を塞ぎきることはできない。そうしたおそるべき身心の変動の舞台として「杉並区」はある。

ところがこのことは、べつに変動と日常とのコントラストを成すわけではない。この主体には何の動揺も見られないのだ。主体はすでに「蝶の声」を受け容れ、その位相に同化しているようにすら見える。怖れを感じるべきは主体の方ではなく、このような主体に介入された「杉並区」の方であるのかもしれない。


句集『雲の小舟』(2016.5 角川書店)所収。

2016年6月28日火曜日

〔ためしがき〕 子規の俳句の数え方 福田若之

〔ためしがき〕
子規の俳句の数え方


福田若之


子規が俳句を数える際の助数詞は、最晩年の『病牀六尺』に至っても、「句」だったり「首」だったり、一貫していない。他の散文でも、しばしば、俳句を一首、二首と数えているのが見受けられる。それも、短い一節のなかで、二種類の数え方が混在していたりする。明確な基準があって書き分けているわけでもなさそうだ。要するに、筆まかせなのだろう。

おそらく、書き損じというわけではない。調べたわけではないので仮説でしかないけれど、当時はまだ、俳句は「首」とも「句」とも数えうるものだったのではないだろうか。たとえば、写真などは、もちろん一枚、二枚と数えることもできるけれど、ほかに、一葉、二葉と数えることもできる。俳句も同様だったのではないだろうか。

僕らが自然なものだと信じている常識は、しばしば、歴史的なものにすぎない。もちろん、今日においては、俳句は一句、二句と数えるものだということになっているし、そのことが子規によって覆されるわけでもないのだけれども。

2016/5/26

2016年6月27日月曜日

●月曜日の一句〔坪内稔典〕相子智恵



相子智恵






合歓咲いて空の渚であるような  坪内稔典

稔典百句製作委員会編『坪内稔典百句』(2016.05 創風社出版)より

夏の夕暮れ、空高く伸びた合歓の樹を見上げる。中央の白から先端に向かって徐々に薄紅色になっていく、刷毛のような合歓の花がたくさん咲いている。夕方になると咲く花だ。細い葉も相まって、まるで空からさざ波が打ち寄せているように見える。言われてみれば〈空の渚〉とは、なるほどと思う。美しい例えである。〈合歓咲いて空の渚〉の、NとSの音が繰り返される囁くような音も、さざ波のように感じられてくる。

短い俳句の言葉の中で暗喩を使わず、〈あるような〉と直喩にするところに、この例えに対する作者のかすかな含羞が感じられる。誰に同意を求めるでもない、夕空にすーっと溶け込むようなつぶやき。

夜になると眠るように閉じる合歓の樹の、その直前の夢と現実のあわいのようなひととき。滲みあう昼と夜の間で、すべてがぼんやりと夢うつつの美しさに包まれている。