2014年9月2日火曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集


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2014年9月1日月曜日

●月曜日の一句〔長嶋有〕相子智恵



相子智恵







鯖雲や犬の興味は他の犬  長嶋 有

句集『春のお辞儀』(2014.4 ふらんす堂)より。

脱力して、ふっと笑ってしまう句だ。犬が興味あるのは他の犬……そりゃそうだろうなぁ、と思う。たとえば犬を飼うとき、人間は飼い犬に対して深い愛情を注ぎ、犬も自分に対して何よりも興味を持ってくれているだろうと信じたいけれど、犬にとって一番の興味は、人間ではなくやっぱり〈他の犬〉なのだ。

高い空にあるモコモコとした〈鯖雲〉が長閑で、私は飼い犬を散歩している秋の昼下がりの風景を想像した。犬は散歩中に他の犬と出あい、興味を持って尻を嗅ぎあったりしているのだろう(吠えあうには鯖雲が暢気すぎるので、尻を嗅ぎあうくらいの友好的な興味の持ち方ではないかと思う)。

個別の犬の描写ではなく、犬一般のこととして、漠然と定義付けをしているゆるさが、茫洋と広がる鯖雲とよく響きあっていて、心地よい脱力感を誘うのである。

2014年8月30日土曜日

【柳誌を読む】/形(たち)の家 『Senryu So 時実新子2013』を〈カタチ〉から読む 柳本々々

【柳誌を読む】
人/形(たち)の家
『Senryu So 時実新子2013』を〈カタチ〉から読む

柳本々々



たましいのかたちとわれてまるくかく  時実新子

『Senryu So 時実新子2013』(石川街子・妹尾凛・八上桐子 発行・2013年早春)からの一句です。

この句にあるような「かたち」から時実新子さんを捉え直してみたいというのが今回の文章の趣旨です。

文章をはじめる前に樋口由紀子さんの時実新子さんについての次の一節をみてみたいと思います。
川柳の「私性」ですぐに思いつくのは時実新子の「私の思いを吐く」である。
(……)
時実新子は時実新子という物語の「私」という場で川柳を書いた。しかし、多くは時実新子の現実の出来事の「私」として川柳を書いたと錯覚した。大切なのは「私性」を感じさせる面白味を言葉のどこでどのようにして関係づけていくかである。言葉より思いの方を重視して、言葉より自分の思いを優位に置き、そこで川柳は「私性」を作り上げてきた。

樋口由紀子「川柳における「私性」について」『川柳×薔薇』(ふらんす堂、2011年)p15-18
時実さんの川柳はおそらく〈私性〉から読まれることが多いのではないかと思うんですが、樋口さんが述べているように「大切なのは『私性』を感じさせる面白味」としての「言葉」の問題を「どこでどのようにして関係づけて」さぐりなおしていく/いけるか、ということにあるのではないかと思うのです。つまり、「思い」から「私性」をたどり直すのではなく、「言葉」から「私性」を考えてみようとすること。

たとえば、時実さんの句の強度というのは実は〈私〉以外のところにもあったりするのではないかと思うんです。

もっというと〈私〉を突き詰めていった結果、〈私〉を超えて、〈私〉の彼岸のようなところにたどりついたからこそ、かえって〈私〉臭さがぬけて〈私性〉が成立しえたようにも思うのです。

〈私〉をもし描くのだとするならば、そうした〈私〉の超越にこそ、逆説的ではあるけれど、〈私性〉というものがあるように思うんですね。

これは、〈私=詩性〉川柳と一見相反するような時事川柳やユーモア川柳もそうで、おそらく、時事川柳やユーモア川柳も、それをとことんつきつめてゆけば、時事やユーモアの彼岸にたどりつくように思うんです。

たとえば、月波与生さんに次のような句があります。

悲しくてあなたの手話がわからない  月波与生(「尾藤三柳 選・時事川柳」『川柳マガジン』2014年2月号、p43)

これはもともとマンデラ元大統領追悼式典の手話通訳のひとの〈でたらめ〉な手話の事件が起きていたときの〈時事川柳〉として『川柳マガジン』に投稿されたものです。

けれども、月波さんのこの句にある、〈時事〉を通してほどこされた〈仕掛け〉は、そうした時事的な手話の非交通と誤配のありかたを、日常的に〈私〉=誰もが体験するかもしれない〈悲しみ〉に起因する非交通と誤配の文脈に置き直し、時事川柳でありながら時事川柳の彼岸にもちこんでいます。時事的な〈でたらめ〉としての手話の〈わからなさ〉と、私事的な〈かなしみ〉としての手話の〈わからなさ〉を、〈わからなさ〉において共約しつつも、差異化しています。ここに私はひとつの時事川柳の可能性があるのではないかと思います。

そしてそうした〈仕掛け〉のなかにこそ、実は〈私性〉が胚胎しているのではないか。

時実新子さんは〈私性〉から読まれることが多いのではないかと述べましたが(それは『有夫恋』といったような〈私秘的〉な句集のタイトルが要請するコードの強さもあるようにも思いますが)、《あえて》時実さんの川柳を〈私〉を突き抜けた「かたち」の主題的側面からみてみるとどうなるのか。

そこで『Senryu So 時実新子2013』から、〈かたち〉を軸に時実さんの川柳をいくつか抜き出してみます。

たましいのかたちとわれてまるくかく

月を四角と言い張る涙こぼしつつ

寒天とおなじ形に冷えてゆく

じっと見ていると花かたばみも父

母が病む 爪のかたちの十二月

子に遠く海老の形にねむり落つ

これらの〈かたち〉というテーマをもたせることができる時実さんの句をみていえることは、〈かたちはひとつの事件なんだ〉ということなんだと思うんです。

たましいのかたちをまるくかいてしまうことも、月を四角といいはって泣くことも、なにかをじっと見ていたら花の形をとったことも、子から遠く離れて海老の形にねむったことも、〈かたち〉をとおした〈事件〉です。

そしてこのとき、〈かたち〉とは〈私性〉の濃度をどれだけあげようとしても、それをはねつけるものとして機能しているように思うんです。

なぜなら、〈かたち〉とは(たとえそれが語り手の投影された想像的形象であるとしても)依然として〈普遍化〉されたマテリアルなものであり、いったん語り手の言表が〈かたち〉としての〈カタチ〉を取ってしまった以上は、語り手の投影効果を〈異化〉する作用としても機能するからです。

たとえば、「かたばみも父」と「かたばみ」の〈かたち〉が「父」に形象化されたとき、「かたばみ」と「父」を〈かたち〉によって統合しつつも、依然としてそこには「かたばみ」と「父」という分離化された解消できない距離があることに読み手はすぐに気がつくことができます(この重ね合わせつつも・完全に・重ね合わすことができない〈距離〉があるからこその語り手の「かたばみも父」だと思います)。それは語り手が表象=代行として形成している〈かたち〉ですが、〈かたち〉とはそのように形成化されたときに読み手がすぐにきづくことができるような詠み手と読み手の折衝の〈場〉ということができるはずです(つまり、わたしの〈私〉とあなたの〈私〉がぶつかりあうような、〈私〉をめぐる〈私〉を超えた〈場〉です)。

だからこそ、時実さんの川柳は、時実さんだけの〈私〉ではなく、読み手の〈私〉をもつきつけあう交渉の〈場〉が〈かたち〉を通して行われているのではないかと思うのです。

そして、そうした〈かたち〉の主題=仕掛けをみつけたことが時実さんの句の〈私性〉を〈言葉〉の側面から補完する役割として機能していたようにも思うのです。

だからこそ語り手はこんなシーンにもとうとつに読み手をひきこむことができるのではないかと思うのです。

たとえば、すこし、こっちへ、きてみてください。

ここに、人〈形〉がいます。人/形、です。

ここに、くるとわかります。

みてください。人形です。一体では、ありません。

カタチを取った人形が、

それも百体 人形が目をひらく  時実新子

2014年8月29日金曜日

●金曜日の川柳〔飯島章友〕樋口由紀子



樋口由紀子






仏蘭西の熟成しきった地図である

飯島章友 (いいじま・あきとも) 1971~

地図を長いこと見ていない。子どもの頃は目的もなく、なんとなく、地図を見て、勝手にわくわくしていた。宝探しの地図なんか作って、遊んでもいた。地図には夢があった。気持ちがどこかに飛んでいっていた。

「熟成しきった」とはどんな地図だろう。なんとも意味深であり、奇妙な感覚を読み手に残す。その地図が何を表しているのか。どこにあり、誰が見ているのか、これは情景なのか状況なのか、あれこれ想像させる。切り取りのセンスがいいから、言葉が確実に働きかけてくる。

一句の中に問答があり、定番のオチがある定番の川柳とは異なるが、これも川柳の一つのかたちである。前句を考えてみるのもおもしろい。〈寝坊したロックスターのでんぐり返し〉〈コーラひとくちアムトラックが走り出す〉 「川柳カード」6号(2014年7月刊)収録。

2014年8月27日水曜日

●水曜日の一句〔仁平勝〕関悦史



関悦史








夏物をしまふと秋のさびしさが   仁平 勝

一見大した内容もなさそうに見え、実際に大した内容は詠まれてのだが、初学者にはまず出来ない、力の抜き方のうまさが際立っている句である。

ここに詠まれた感慨は当たり前といえば当たり前のことであり、誰でも感じたことはあるのだろうが、それがこういうすんなりした句に成るについては、志向性と技術力による、ほとんど嫌らしいほどの微調整が要る。

まず因果関係で展開している句(駄目な句とされる典型的なパターン)のように見えながら、「しまへば」ではなく「しまふと」と理詰めの野暮ったい窮屈さをあっさりいなしており、さらに「さびしい」と何の含みもなく心情をじかに説明してしまっているように見えながら、「さびしさが」と無生物たる「さびしさ」の方を主語に据え、句の前半まではたしかに「夏物をしまふ」能動的な立場を占めていたはず作中主体を瞬時に「さびしさ」に襲われる儚くも不定形の存在へと変換してしまうことで、一句は心情吐露の重ったるさから、これもあっさり身をかわしているのである。

そして「夏物をしまふ」ような地に足の着いた丁寧な暮らしぶりゆえに、不意に「秋のさびしさ」にその身を占められてしまうこの作中主体は、「夏物」の重量を手放してほとんど虚空そのものと化しながら、そのことに限りない満足を抱いているようにも見える。

観念的な言葉遣いとも宗教的道具立てともおよそ無縁にそうした事情を描き出し、危険なものかもしれない空虚さを手近な玩具のように慈しんでしまうさまが、この句の魅力の淵源であり、また何やら落ち着かない気分にさせる当のものでもある。


現代俳句文庫75『仁平勝句集』(2014.6 ふらんす堂)所収。