2015年4月24日金曜日

●金曜日の川柳〔飯島花月〕樋口由紀子



樋口由紀子






道具屋は赤い鰯をかついで来

飯島花月 (いいじま・かげつ) 1863~1931

「赤い鰯」に首を傾げながら、新鮮の鰯だからそう言ったのだと思った。でも、それは大きな間違いで「赤い鰯」は「錆びた刀」のことだと知らせてもらった。句意がまったく違ってくる。調べてみると、「きさまたちの赤鰯で、なに、切れるものか」(滑稽本・膝栗毛)にあるように、刀の手入れが悪く、赤錆びだらけになった刀を赤鰯と皮肉を込めて呼んだそうだ。

どおりで道具屋だったのだ。古道具を背負って家々を訪ね歩き小売りしていた人が一昔前にいた。もちろん、必要なものもたくさんあっただろうが、そのなかに「赤い鰯」があった。役に立たないものをわざわざ持ってきたと、そこだけを誇張して、ユーモアを込めて、揶揄した。

2015年4月22日水曜日

●水曜日の一句〔涼野海音〕関悦史



関悦史








桜咲くゼロ系新幹線の鼻  涼野海音


絵葉書のような平板でめでたい絵柄の句と初めは見えた。

ゼロ系新幹線は東海道新幹線が開業する時に開発された初代車両で、2008年には営業運転を終え、引退したらしい。新幹線といえば最初に思い浮かぶ白地に青のあの車両だが、その後新型が次々に出てきたので、この辺の印象も世代によって違ってくるのかもしれない。

句の制作年代を知らなくても、句のなかに「ゼロ系新幹線」と書かれている。初代しか走っていなかった頃ならば「ゼロ系」と書かずとも「新幹線」といえばあれに決まっていたので、既に姿かたちの違う新型車両が一般化した後のこととわかる。晴れやかな印象の句だが、昔の物という認識が入っているのだ。

初代新幹線が開通した頃といえば高度成長期であり(これは私の年でも実見はしていない)、「桜咲く」が似つかわしいが、これを時代の隠喩とばかり取ると重くなるので、どちらかというと単なる絵柄と取る方を優先したい。

「鼻」の一語で像が決まる。諧謔的な働きのために入っているというよりは、ピントを合わせるための「鼻」だろう。これがなければ、花時をを遠景として通過していく列車や、桜前線や新幹線の路線網といった地図を俯瞰するようなイメージまでが混ざってしまう。

顔の部分を強調したことでブロマイドじみた図柄となり、これも「桜咲く」ともども鄙びたキッチュさの味わいを増す。その平板さが、懐旧の重さに陥ることを防いでいるので、失われた物を詠んでいながら、めでたい句と見えるのだが、そのネガとして、廃車両を前に情緒的な廃墟趣味に溺れた句という相もひそんではいる。

どちらに見えるかはその人次第なのだろうが、やはり俳句のなかの時空に華やかな姿が保存された、めでたい句と取っておきたい。


『関西俳句なう』(2015.3 本阿弥書店)所収。

2015年4月21日火曜日

〔ためしがき〕 散文としての俳句 福田若之

〔ためしがき〕
散文としての俳句

福田若之


富澤赤黄男もまた「俳句は詩である」と書いた。それは、彼においてはおおむね正しいと言えるだろう。彼の俳句のうちの最良のものは、どれも、疑いようもなく詩である。

 草二本だけ生えてゐる 時間   富澤赤黄男

詩であるということは、この句における「時間」の一語がその極致であるように、言葉がものとして立ち上がっているということであり、もはや意味を伝達するための道具として言葉を用いる手つきがそこには認められないということだ。僕は、たとえば高柳重信や阿部完市の俳句の多くが、違うやり方で、しかしながら同様の意味で、詩であることを知っている。

 身をそらす虹の
 絶巓
      処刑台    高柳重信

 たとえば一位の木のいちいとは風に揺られる   阿部完市

「俳句は詩である」という力強いアフォリズムは、彼らの仕事によっても実証されているかのように見える。

しかしながら、俳句の多くは詩であるよりもずっと散文である。俳句を書く人が、それによって言葉の質感よりはむしろ意味を伝えようとするとき、その俳句は散文として立ち現れることになる。

 おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ  御中虫   *「何度」に「なんぼ」とルビ

もちろん、この句が主張するところは文字通りのものではないだろう。しかし、挑発的な態度によって言葉の質感よりはむしろ意味を投げかけようとするこの句は、その限りで、間違いなく散文である。

こうした散文としての俳句は、決して新しいものではない。

 これよりは恋や事業や水温む    高濱虚子
 在る程の菊投げ入れよ棺の中    夏目漱石

また、次のように、命令形や呼びかけを伴わなくとも(すなわち、句が二人称の他者の存在を必ずしも示唆していない場合にも)、言葉がその意味によってことがらや情景を伝えることに費やされる場合、その句は散文であると言える。

 をととひのへちまの水も取らざりき 正岡子規
 ひつぱれる糸まつすぐや甲虫    高野素十
 滝の上に水現れて落ちにけり    後藤夜半
 まつすぐな道でさみしい        種田山頭火

そもそも、芭蕉の俳諧の発句からして、そのいくらかは散文の一部としてこそ最大の活力を持ったのではなかっただろうか。

人が「散文的」という言葉を俳句に浴びせるとき、それはほとんどの場合、否定的なニュアンスを伴っている。 俳句が詩であるとは簡単に認めない人たちでさえ、俳句が「散文的」であることを良しとすることはほとんどないし、ましてや俳句が散文そのものであることを許すことなどまるでないといっていいだろう。だが、散文としての俳句の潜在的な力は、もっと認められてもよいのではないだろうか。人の胸を打つのは、詩の言葉ばかりではない。散文もまた、人の胸を打つ。そして、俳句が人の胸を打つのは、しばしば言葉の質感によってではなく、言葉の意味によってである。すなわち、詩としてではなく、散文としてである。

そして、今日において、その極北に位置づけられている作家こそ、おそらく筑紫磐井その人なのだろう。

  俳諧はほとんどことばすこし虚子  筑紫磐井

もちろん、こうした例は、ただちに俳句とは散文であるということを意味するのではない。実際、筑紫磐井の句にしても、たとえば〈吾と無〉といった句があることを忘れてはならない。こうした例は、俳句においては詩と散文が未分化であることを示唆している。ジャンルとしての俳句は、未‐詩であり、未‐散文である。いま、もし「未‐」と書くことが僕らに許されたのであれば、詩や散文や俳句と呼ばれているこれらのジャンルは、状態であるか、あるいは動きであるということになるだろう。仮にジャンルとしての俳句をひとつの動きとみなすならば、それは震えであるように思う。俳句というジャンルにおいては、言葉は詩と散文のあいだで震えている。

僕らは、この震えの最も激しい顕在化の例を渡辺白泉の句に見ることができるはずだ。

  戦争が廊下の奥に立つてゐた    渡辺白泉
  銃後といふ不思議な町を丘で見た

これらの句における「戦争」や「銃後」は、言葉の質感と意味のあいだで繊細な震えを保っている。これらの句を、一般に「震災詠」と呼ばれたもろもろの句――そのほとんどが散文としての俳句であって、それゆえにこそ書き手の社会参加(サルトル的な意味での「アンガジュマン」)を可能にした――と比べれば、両者は実に対照的だ。

たしかに、僕らはしばしば完全に詩であるような俳句や完全に散文であるような俳句に出くわすことがある。しかし、それらの句がそうであることは、ジャンル全体から見れば、さしあたり、どれも偶発的なことにすぎないように思われる。だから、たしかに、ほとんどの句については、それらを散文としての価値によってのみ判断するわけにはいかない。しかしながら、同様にして、それらを詩としての価値によってのみ判断するわけにもいかないのである。

2015年4月20日月曜日

●月曜日の一句〔小野あらた〕相子智恵



相子智恵






ぎゆうぎゆうに整列したり遠足子  小野あらた

『ガニメデ』63号 「お気に入り」(2014.4 銅林社)より

思い起こせば遠足の始まりも終わりも、整列をしたものだった。校庭や園庭に整列をして先生の話を聞くことから遠足は始まり、解散する時もまたそうして終わったものである。それだけではない。目的地に着いた時も、休憩から出発するときも、何かと言えば整列した。

〈遠足子〉だから、園児か小学生でも1年生くらいだろう。小さな子どもたちがリュックサックを背負ってワクワクしながら整列している。子どもたちの整列は、体が小さいからか、たしかに間隔がぎゅうぎゅう詰めに見える。〈整列〉というと「静」のイメージだが、〈ぎゆうぎゆう〉という措辞によって、この句からは犇めき合うエネルギーを感じ、静よりも「動」を感じる。そのギャップが面白い。そして何より〈遠足子〉がいきいきと眼前に見えてくるところが楽しいのである。

2015年4月18日土曜日

【みみず・ぶっくす 20】 空港で、休日の匂いを。 小津夜景

【みみず・ぶっくす 20】 
空港で、休日の匂いを。

小津夜景








     空港で出発を待つあいだ、なんにも
      することがないものだから、鞄の中
      から数十枚ものコピー用紙を引っぱ
      り出して、くんくん嗅いでいた。

      コピー用紙には小説が印刷されてい
      て、どれも休日の匂いがする。この
      人の書く小説は、働いている描写に
      さえ休日の匂いがして、上昇志向が
      ぜんぜんなくて、お洒落だ。

      休日の匂いのする小説を書くこの人
      に直接会ったことがある。女の人が
      かわいくて、男の人がのんびりして、
      品の良い描写が好きですと言ってみ
      たら、その人は「いえ、実は18禁
      がどうのこうのという描写もありま
      す。すみません」と申し訳なさそう
      にして可笑しかった。

     それから、この人が夏目漱石が好き
      というので漱石の話をした。夏目漱
      石って女性を書くのが上手いですよ
      ね。『草枕』のナミさんとか。『
四郎』のミネコも不思議。でも、な
      んといっても一番素敵なのは『猫』
      のミケコだと思います。背中の流線
      加減。物憂げにちょい、ちょい、と
      動く耳。春日の中、品良く控えつつ
      満身の毛を風なきにむらむらと微動
      させているさま。こういうのを読む
      と、漱石って自分の書く女性に恋し
      ながら書いてるんだろうなあって気
      がするんです。

      私がそういうと、この人はうんうん
      と深く頷いて、実はうちにもミケコ
      くらい美しい猫がいるんです、とス
      マホをちゃかちゃかいじりだした。
      しばらく横から覗いていると、スマ
      ホ画面にぱっと整った顔立ちの、た
      いそう清涼感のある猫が現れた。

      あらら。

      目が凄い。美猫だ。小説の感じから、
      この人は生き生きしたキュートな女
      の子が好きなのかなと思っていたが、
      本当は美女好みだったのか。

      いや違う。たぶん休日好みなのだ。
      だって休日というのはどこかキュー
      トで、人をうきうきさせて、かつ絶
      世的美貌の高貴な香りもする。

      飛行機がもうすぐ出るらしい。私は
      コピー用紙を鞄にしまった。



囀やサンデーごとに寄る本屋
ネーブルの響きを包み新聞紙
モレスキン手帖に挟む菫かな
読み終へて眠ればかしこ花曇
春の戸にもの問ふ鳥の時刻表
残花よりましろき紙は葬りけり
乗る雲をうらうら選ぶ喪の川辺
春の手はのつぺらばうのやうでした
たれかその浮き橋わたる春の暮
豆の花ひとつの空を描きはじむ