2015年3月30日月曜日

●月曜日の一句〔佐藤文香〕相子智恵



相子智恵






おなじ布団ぬけだし花の空がちかい  佐藤文香

句集『君に目があり見開かれ』(2014.11 港の人)より

日本人にとって桜の花ほど、一輪の開花から散るまでの「開花期間」に注目される花はない。他の花も咲いて散るのは同じなのに、桜の花を見るときだけ、私たちは花だけではなく、花に内蔵された「有限の時間」を見ようとする。

掲句、性愛の後の恋人同士が、同じ布団を抜け出して二人で桜を見にゆく。いや〈花の空がちかい〉の、ふいに〈花の空〉に出会った感じからいうと、わざわざ見に行った桜ではなく、情事の帰り道に咲いていた近所の桜だというふうに読める。あえて〈花の空〉といっているのだから、夜ではなく空の表情も見える日中の空、いわゆる「後朝の別れ」である。

桜の花が頭上に近く、その上の空ごと二人の上に覆いかぶさっている。〈花の空がちかい〉の〈ちかい〉で、二人だけの世界には花と空以外の何も見えなくなる。それは二人の濃密で幸せな時間の喜びと、喜び以上の不安を思わせる。その不安こそが「有限の時間」なのである。

〈おなじ〉〈ぬけだし〉〈ちかい〉この、漢字でも書ける言葉をあえて平仮名にしている幼なさが、心の退行による時間への抵抗のように感じる。また呆けたふりをして言葉から意味を引きはがし、至近距離の〈花の空〉以外の現実のあれこれの意味を考えないようにしているようにも感じてしまう。だからこそ読者である私は、抵抗し切れないその時間を逆に強く感じ、うっすらと悲しくなってしまうのである。



2015年3月28日土曜日

【みみず・ぶっくす散歩篇 2】 フランスの本屋で「俳句」をさがしてみた〜前半。 小津夜景

【みみず・ぶっくす散歩篇 2】 
フランスの本屋で「俳句」をさがしてみた〜前半。

小津夜景 


フランスの本屋に、俳句の本がどのくらいあるのか?といった今回の調査。私が訪れたのはニース中心街に位置するコンビニ2件分ほどの広さの本屋である。ここを選んだ理由は、店内のスペースの1/3が文学・エッセイ、1/3がミステリ・SF・漫画、そして残り1/3が学術・生活・趣味の比率となった、昔ながらの「町の便利な本屋さん」に見えたからだ。

どうってことのない店内。


さっそく詩の棚へ。想像していたより広い。全体をざっと眺める。するとたちまち信じ難いことに気がついた。上の写真が棚全体で、左三列が個人名の詩集。最右列最上段はフランス詩の企画本。で、その下が外国詩のアンソロジーだったのだが、このスペースがほとんど俳句で埋まっている(ちなみにその下はもう本でなく詩誌)。つまりこの本屋で「どこかの国の詩をまとめて読んでみようかな…」と棚に手を伸ばすと知らないうちに俳句を買うはめになるのだ。そんなことってあるだろうか。いきなりこれでは「詩を読むフランス人にとって俳句はとるに足らない身近なジャンル」と即断せざるを得なくなってしまう(しかしこの予感は次の本屋で確信に変わる)。

俳句の本を数えてみる。鴨長明の歌論、千利休の茶詩、現代詩などに混じって17冊。思わず「地方都市なのにいっぱいあるよ!」と興奮したものの、それは無知ゆえの浅はかな感動にすぎなかった。というのも、帰宅して本屋のサイトを見ると、この店で扱う俳句の本は全部で211冊存在したのである(http://www.librairiemassena.com/listeliv.php?RECHERCHE=simple&LIVREANCIEN=2&MOTS=ha%EFku&x=0&y=0)。書誌分類を見るに、どうやら芸術、児童、自然、小説、エッセイと店内をくまなく見て回るべきだった模様。とりあえず詩の棚周辺にあった分は以下の通り。

『俳句365句〜永遠なる瞬間』
『俳句カウンター便り』
『ジャック・ケルアック句集』
『夏目漱石句集』
『俳句書き方マニュアル』
『俳句の味』
『日本の俳人アンソロジー』
『一茶』
『庵の主人 芭蕉全集』
『芭蕉111句』
『良寛99句』
『自然の鏡〜俳句拾遺』
『俳句〜日本の短詩アンソロジー』
『20世紀俳句〜今日の日本短詩』
『月と我 今日の俳句全集』
『唇に紅 日本俳人アンソロジー』
『現代の俳句 黛まどか』

棚板の分類タグによれば、本来ここは外国詩アンソロジーなのだが、ほとんど俳句。

平積みの俳句本をコクトーの前に並べておいた。


『俳句365句』は今まで住んだどの土地でも見かけた本だ。一句一頁のレイアウト、かつ原文併記であるせいか、日本語を少しだけ齧ってみたい人々から魅力的に思われているらしいが、読んでみるとかなり難しい。私が個人的に興味をもったのは『俳句カウンター便り』。著者のジャン=マリー・グリオは、最近不運にも有名になってしまった『シャルリエブド』の前身にあたる『ハラキリ』の創設に関わり、副総編集長も務めた人物(『ハラキリ』が三度目の発行停止を命じられた際、編集部が「誌名の改称」なる対抗手段によって、命令の翌週もいつも通りの内容で発行したのが『シャルリエブド』)である。『ハラキリ』は妄想実演を主軸とした奇天烈系アンダーグラウンド・ペーパーで、フランソワ・ラブレーの「暴飲暴食裸体糞尿楽園」の忠実な再現を目指したがゆえか「レベルが高すぎる」と再三言われつづけきた鬼畜雑誌。特に肛門方面が凄いそう(私は未見)。それゆえ彼の俳句も相当にアナーキーなのかなあ……とおそるおそる中を覗くと奇を衒った感じもなく、また時に思索的だった。

『HARA-KIRI』。こういうのが平気な人は « hara-kiri couvertures »で画像検索すると色んな表紙が見られます。

作風は明るくせつない。へえ、グリオってこんな人だったのか、としばしその場で『俳句カウンター便り』を読みふけった私。実はこの時点で今回の【みみず・ぶっくす】に書くネタはたっぷり収集した気分になってしまっていたが「いやいやいや。眺めているだけでは分からないこともある」と思い直し、勇気を出してお金を使う決心をする。悩んだ末、グリオの句集と、コリーヌ・アトラン&ゼノ・ビアヌの監修・翻訳による『俳句〜日本の短詩アンソロジー』&『20世紀俳句〜今日の日本短詩』の函入りヴァージョンを自宅に持ち帰ってきた。

『俳句カウンター便り』。表紙の中央に栞付き。

栞を取り外すと、本体に葉脈の刻印が。


グリオの句集は部屋で眺め直しても『ハラキリ』の首謀者とは思えないノリ。しかも栞が四葉のクローバーである。かわいい。十代の頃だったら迷わず即買いしただろう。ここまでアレだと「もしかして、わざとやってる?」という気もしてくるが、別にそういう訳でもなさそうだ。なお収録句については通常の【みみず・ぶっくす】でいくつか翻訳する予定なので今は触れずにおく。で、もうひとつはこれ。

函に収めた様子。香水のパッケージ風。

『俳句〜日本の短詩アンソロジー』表紙と函。

『20世紀俳句〜今日の日本短詩』表紙と函の裏面。

大きすぎず、小さすぎないサイズ。


函の内側。


写真の通り、ずいぶんと可憐で清潔なセンスの本だ。持ち歩くのに手頃な大きさ。しかも二冊のデザインの落差が「老舗菓子店とそのセカンド店か!」と言いたくなるくらいキャッチーに仕上がっている。さらには函の内側にまで印刷が施されているといった、まさかのおもてなし。これでなんとたったの1800円(14,20€)である。売れない訳がない。これを「お買い得品」だと思わない消費者はいないだろう。このアンソロジーは、日本の俳句に対するフランス人の印象を決める重要な役割を確実に果たしているに違いない。実際、私の周囲にもこの本をもっている人がいるし、アマゾンのジャンル別売り上げランキングでも『俳句』の方は堂々の第一位となっている。

さて肝心の中身はどうなのか。まず『俳句』には、15世紀の山崎宗鑑と荒木田守武から現代の住宅顕信まで、総勢132名447句が収録されていた。芭蕉は生年月日順で数えてエントリ8番だ。片や『20世紀俳句』は1874年生まれの高浜虚子から1973年生まれのたかはししずみまで、総勢136名456句。

次に収録句数を数える。『俳句』は一茶56句、蕪村46句、子規45句、 芭蕉41句、山頭火16句、放哉13句、漱石13句、虚子13句、とここまでが図抜けて多く、日本人の常識とほとんど変わらない。一方『20世紀俳句』の方は個性的で、上位10名が

17句 寺山修司
14句 今井聖・加藤楸邨
13句 金子兜太
12句 星永文夫 ・住宅顕信
11句 冬野虹・黛まどか・水原秋桜子
10句 小澤實

である。ちなみに次点は三鬼と草田男の9句。虚子は5句しかないが『俳句』と『20世紀俳句』の両アンソロジーを足せば全18句になるので十分だろう(但しこの2冊は別売りもされている)。あと、どちらのアンソロジーからも漏れた俳人の顔ぶれが割と面白くて、こんな感じ。

0句 相生垣瓜人・赤尾兜子・芥川龍之介・阿部青鞋・阿部みどり女・池田澄子・今井杏太郎・宇多喜代子・ 大木あまり・小川双々子・ 大野林火・岡井省二・加藤郁乎・加藤かけい・鎌倉左弓・岸本尚毅・京極紀陽・黒田杏子・久保田万太郎・齋藤玄・澤好摩・下村槐太・攝津幸彦・高野ムツオ・竹中宏・筑紫磐井・対馬康子・辻桃子・坪内稔典・夏石番矢・鳴戸奈菜・ 仁平勝・林桂・林田紀音夫・日渡周平・眞鍋呉夫・八田木枯

日本語ウィキの俳人一覧を参照しつつ「ゼロ句俳人」をざっと拾ってみた(ウィキのない俳人はキリがないので割愛)。さほど無理をしなくても、けっこう救済できそうな人数だ。加藤郁乎・攝津幸彦・坪内稔典・夏石番矢あたりは入れないでおく方が困難なように思えるのだが、一体どういった基準なのか。あと個人的には、岡井省二や齋藤玄の翻訳を読んでみたかったと思う。と、こんな風に書いても分かりにくいだろうから、とりあえず1930年以降生まれの俳人で、この2冊に収録されていた俳人を全部書き出してしまう(人名表記は多少自信なし。全く分からなかった名はカタカナにした。なお数字は収録句数)。
1930年代生まれ
有馬朗人(2)
黛執(7)
ヨモギダケイコ(1)
稲畑汀子(1)
河原枇杷男(4)
鷹羽狩行(1)
原裕(1)
鍵和田秞子(4)
ナガシマヤスオ(1)
平松良子(1)
鈴木明(1)
上田五千石(4)
星永文夫(13)
折笠美秋(2)
寺山修司(17)
安井浩司(1)
大串章(2)
高橋睦郎(4)
森田智子(1)
須川陽子(4)

1940年代生まれ
堀本吟(1)
角川春樹(3)
冬野虹(13)
石寒太(1)
吉村侑久代(2)
千葉皓史(5)

1950年代生まれ
秋尾敏(1)
今井聖(14)
白石司子(1)
中原道夫(4)
正木ゆう子(3)
長谷川櫂(5)
木村敏男(4)
小澤實(10)
鈴木伸一(5)
石田郷子(1)
四ッ谷龍(8)
田中裕明(2)
日原傳(2)
藺草慶子(1)
高田正子(2)

1960年代生まれ
櫂未知子(4)
住宅顕信(25)
黛まどか(11)
ヤマグチリュウジ(1)
五島高資(3)
杉浦圭祐(2)

1970年代生まれ
庄野毅(3)
たかはししずみ(1)

以上の人選である。また現在75歳以下(戦中以降)で、両アンソロジー共に収録句のあった俳人は冬野虹、住宅顕信、木村敏子、四ッ谷龍の4名だった。

それにしても、住宅顕信が一人でこんなに幅を利かせていたとは。あまりの想定外である。私も顕信の句は好きだ。しかしわざわざ「日本短詩のアンソロジー」と銘打ったシリーズ本に、彼一人から25句採ってしまう監修者の知性には不安しか感じない。彼を半分にするだけで、前述の「ゼロ句俳人」が1/4も収まるというのに。もっともこの情報収集の手軽な時代に、コリーヌ・アトランほど名の知れた翻訳家が「ゼロ句俳人」を知らないはずはなく、ガリマール社からこの手の選集を出すのに日本人の協力者が皆無だったということも、また「ゼロ句俳人」全員から借用を断られたということも考えられないので、コリーヌ本人が前述俳人の句に対し純粋に「採るに及ばぬ作品」という印象をもったのかもしれない。もしそうだとしたら、たいへん素晴らしい見識である。

今回はこれでおしまい。予想していたより書くことがあって自分でもびっくりした。後半はFNAC(フナック)という文化関連商品&電化製品を扱う全国大型チェーン店のレポと、この調査の総括をするつもり。ではまた来週。



追記1 『ハラキリ』は『美しいグラビア版』とか『偽広告版』とか『漫画版』とか『骨の髄までハラキリ』とか、テーマごとのムックを色々と出版していますが、その内のひとつ『最悪版ハラキリ1960-1985』の紹介文が「どどいつ文庫」というサイトにあります(リンクは貼りません)。

追記2 アンソロジーの発行年月日を記すのを忘れていました。『俳句』が2002年11月13日で、『二十世紀俳句』が2007年12月6日。それから『俳句カウンター便り』の値段は15€(1890円)。グリオはこの『カウンター便り』シリーズで「ブラック・ユーモア賞」という文学賞を獲っていて、去年は映画にもなりました。ちなみに「カウンター便り Brèves de comptoir」という表現のアクチュアルな意味は「盛り場の箴言」くらいの感じです。

2015年3月27日金曜日

●金曜日の川柳〔森井荷十〕樋口由紀子



樋口由紀子






今朝もまた新聞が来てゐる悲し

森井荷十 (もりい・かじゅう) 1885~1948

じんとくる。新聞が届いたから悲しいのではない。新聞が来るということは、今日も一日が始まるということである。眠っているうちにあの世にいくことなく、「今朝もまた」目覚めた。世の中にうまく対処できないで今日もおろおろと生きる。人はそのようにしてでも、それでも生きていかなくてはならない。それが「悲し」なのだろう。

「悲し」に愛しさと哀しさが凝縮されている。真摯に生きているからこそ「悲し」なのだろう。生きるとはなんだろうかと考えさせられ、自分自身が揺らぐような気分になった。荷十は川柳の詩派を標榜した作家たちと「矢車」を創刊し、川柳ポエジー化の先駆けとなった。〈罪の子の暮れて行く日に指を折り〉〈死ねば秋虫の鳴いてる旅の空〉

2015年3月26日木曜日

●『ザジ』と「第二芸術」 直後

『ザジ』と「第二芸術」 直後


福田若之〔ためしがき〕『ザジ』と「第二芸術」



天気から若之へのメール

発表年(第二芸術、ザジ)を追記しておきました。

第二芸術論は、句を並べて選ばせるところが有名だけど、あれはまあ、今となってはねえ。

私はそこよりも「俳壇」だとかサロン的な人間関係に触れたところが興味深い。

で、ひとつ思うのは、「芸術」とか「文学」とか「インテリ」の価値が、当時と今ではまったく違うということで、そこはバイアスがいると思います。

当時の衝撃は、当時若者だった田沼さんの回顧(http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/06/blog-post_8332.html)が、なんかリアル、と思っています。

駄話、ごめん。

で、ついでに。

ウラハイの記事、映画には触れていないけれど、ルイ・マル監督の映画、大好きなんですよね。

原作は読んでない。原作には、映画のラスト、「何をしてたの?」「1日ぶん年をとった」はあるんだろうか?


若之から天気へのメール

どうもこんにちは。

言葉の意味合いの違い、確かにありますよね。フランスでもクノー以前と以後で〈文学〉の意味合いに違いがあるというようなことが、『零度のエクリチュール』にちらっと書いてあったりするんです。もっとも、ここでいう「クノー」は、時期的に『ザジ』よりもっと前ではあるんですけれども(ちなみに、バルトによる『ザジ』論もちゃんとあって、新訳ではタイトルが『批評をめぐる試み』と訳されている『エッセ・クリティック』に収録されています)。
クノーは、書かれた言説における話し言葉の汚染がそのあらゆる部分で可能なことを明確に示そうとしたのであって、その彼の作品においては、文学言語の社会化がエクリチュールのあらゆる層つまりは書記法や語彙――そして、それらほどには注目を浴びないがより重要なもの――語り口を同時にとらえる。(中略)少なくとも、初めて、文学的なのはエクリチュールではなくなっている。〈文学〉は〈形式〉から追い立てられている。すなわち、それはもはやひとつのカテゴリーでしかない。〈文学〉は皮肉である、言語がここにおいて深みのある経験をかたちづくっているから。あるいはむしろ、〈文学〉は、言語についてのひとつの問題提起へと、あからさまに還元されている。実際、〈文学〉とはもはやそれでしかありえない。〔*〕
うーん、言葉の主述関係や修飾関係を厳密に訳そうとするとかえって分かりにくくなっちゃいますね。要約すると、
クノーは、話し言葉を書き言葉にひっきりなしに混ぜこもうとする。すると、表記や言葉や言葉遣いの選択は、さまざまな話し方をする人間たちが暮らす社会のなかでの選択になる。だから、クノーが出てきてはじめて、〈文学〉は書かれるものを規定する唯一無二の〈形式〉としての地位を失って、ひとつのカテゴリーに過ぎないものになる。その結果、もはや、〈文学〉は、皮肉というか、言語についての問題提起のひとつでしかなくなる。
こんな具合でしょうか。

今回は、この〈文学〉という概念自体の違いをあえて利用してみました(その違いのせいで節を二つに区切りたくなったのかもしれません)。

「第二芸術」のなかで、いちばん鋭くて、かつ、いまも生きているのは俳壇の内向的なあり方についての議論(この話題について、ペドロさん、U.J.さんからもコメントをいただきました)、というのは同意です。だからこその『ザジ』、みたいなところもあって。

ただ、俳壇のあり方についても、本格的に議論するなら「第二芸術」から秋桜子の俳論へと場を移す必要があると思います。これは今回ぜひ書いておきたかったことの一つです。「第二芸術」が書きものとしてオリジナルなところは、議論の鋭い部分とは別に、まさしく俳句を第二芸術と呼んだことそれ自体ではないでしょうか。 「第二芸術」は、あらゆる場面で優劣の確定を希求するほとんどリビドーのようなものに貫かれていて、それがあの文章をして俳句を第二芸術と呼ばせた、という感じがします。そこで、今回の「『ザジ』と「第二芸術」」では、そのリビドーのようなものが、優劣のものさしを求めて最終的に「文化国家」にもたれかかってしまうという問題を批判的にとりあげたわけです。

『ザジ』については、僕は映画の方を観ていません。あれをどう映像にするんだろうなあと気にはなりつつ。小説もやっぱり同様のやりとりでオチます。


〔*〕«Queneau a voulu précisément montrer que la contamination parlée du discours écrit était possible dans toutes ses parties et, chez lui, la socialisation du langage littéraire saisit à la fois toutes les couches de l'écriture: la graphie, le lexique - et ce qui est plus important quoique moins spectaculaire -, le débit.... Du moins, pour la première fois, ce n'est pas l'écriture qui est littéraire; la Littérature est repoussée de la Forme: elle n'est plus qu'une catégorie; c'est la Littérature qui est ironie, le langage constituant ici l'expérience profonde. Ou plutôt, la Littérature est ramenée ouvertement à une problématique du langage; effectivement elle ne peut plus être que cela». 
(Roland Barthes, Le Degré zéro de l'écriture (1953), in Roland Barthes, Œuvres complètes, Paris: Seuil, 2002, t.1, pp.220-221)

2015年3月25日水曜日

●水曜日の一句〔森島裕雄〕関悦史



関悦史








レジ台をぶち壊す刻冬の雁  森島裕雄


書店を経営していた作者が店をたたまざるを得なくなり、店の解体工事が始まったときの句。

この句の前後には〈シャッター閉づ冬満月に貫かれ〉〈冬薔薇の棘太かりき閉店す〉〈解体の書棚直立冬木立〉〈レジ台に電動鋸の刃入りぬ寒〉といった句が並ぶ。小なりといえども一つの滅亡である。

文字通り身を切られるような痛みを具体的に詠んでいるという点では〈レジ台に電動鋸の刃入りぬ寒〉の方が踏み込んでいるが、それだけに余裕がなく、「寒」がほぼ心情の直接説明になっている(それしか付けようがないとはいえ)。

掲出句は、下五が「冬の雁」で、空から俯瞰する客観性を伴いつつ《花鳥》が入り、また「刻」の一字にも、いずれ来るとはわかっていた避けようのない事態がついに来たという宿命観のような認識が宿っている。

人の力では如何ともしがたい大きな流れのなかで迎えた破滅の相としてレジ台はぶち壊され、語り手はその局面に立ち会わなければならない。《花鳥》による救いが入っているようでありながら、それはほとんど放心や意識の空白に近い。語り手の心情とは無関係に、必然としてレジ台はぶち壊されるのだ。

「ぶち壊す」という俗語的な表現が、語り手の絶望や憤懣を担う(作者の事情を知らずとも「冬の雁」からは喜んで破壊衝動に身を任せているという読み方は出て来ない。解体業者の立場で詠んでいるという読み方もありうるが、その場合はルーティンワークであり「ぶち壊す」などと力む必要はない)。

「ぶち」がなかった場合、冷厳さや客観性は増すかもしれないが、その後語り手が再起できそうにない雰囲気も出てくる。ちなみに作者の森島氏はこの後50代で営業マンに身を転じ、60代で住宅設備の会社を企業することになる。


句集『みどり書房』(2015.3 金雀枝舎)所収。