2008年7月23日水曜日

彼はことばがわからない

彼はことばがわからない ● さいばら天気



むかしファクス句会で、こんな句が出てきた。

  ある限り朝日がころんだにわとり朝日ありがとう

なにがなんだか、わけがわからない。前衛・シュールというにも、わけがわからなさすぎる。こういう事件か事故のような句は貴重だ。迷わず選にいただき、選評には「作者は日本語がわからないとしか思えない」と書いた(日本語を知らない外国人にも、こんな句はできないだろうが)。

披講となって作者が5歳の男の子とわかった。ファクス句会だから、誰が参加するかわからないが、5歳児が参加するとはゆめにも思わない。意表。5歳児が口にした「俳句」を親御さんが書き留めて投句したのだろうが、それにしても意表。

私やこれを読んでいる人は、日本語が使える。どのように使うか、どの程度に達者かはそれぞれだが、日本語の語彙やいちおうのルールを知っていて、俳句を作るときは、その効果のようなものも狙っていたりする。

ことばというのは、創造的なものでなはなくて、いわば因習的なものだ(まるっきり創造的だと何を言っているのか誰にもわからない)。因習(というシガラミ)の中から、創造的とまでは行かなくても「新鮮」な俳句を作ろうとするとき、〔ことばがわかる〕ことは、邪魔になったりもする。〔わかる〕ことが、ことばにとって大きな束縛にもなる。

ことばがわからないかのように、ことばを発することができないか。

単純に言ってしまえば、そんな野望のための試行が、鴇田智哉「俳句と何か~俳句における時間」(「雲」2007年に12回連載。週刊俳句・第47号~第59号に転載)で繰り広げられている。いわば、俳句の冒険、ことばの冒険。
私は言葉を知りませんから。(…)だいたい、あまり意味を踏まえていないんです。それに、あなたが言うように、「言葉を使っている」という意識はありません。あえていうなら「言葉を話している」という感じです。いや、むしろ「言葉が言っている」と言ったほうがいいかも知れません。(鴇田智哉「俳句と何か~俳句における時間」第12回より)
  

マルセル・デュシャン「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(通称「大ガラス」)を、「宇宙人から見た地球上の恋愛」と解した人がいた(出典失念)。地球人に了解された「恋愛」の意味や脈絡を、宇宙人は知らない。この解釈を読んでから、大ガラスの不思議な形を見るときの不思議さがさらに増した。

最初に挙げた「朝日・にわとり」の句は、宇宙人が地球の朝を〈ことば〉にしたら、こうなる、という句なのかもしれない。

それについて何も知らずに、何もわからずに、何かを見ることは、限りなく困難なことだ。ことばの決まりを何も知らずに、〈言語という因習〉から自由に、言葉を発することもまた、じつに困難なことだ。俳句においてそんなことが(5歳児ではなくオトナに)可能なのか。

あきらめたら、そこでゲームが終わってしまうから、やはり、それは可能と、ふわっと曖昧にでもいいから信じておくことにする。

0 件のコメント: