2008年11月15日土曜日

●あたらしい俳句の登場 さいばら天気

あたらしい俳句の登場 衆目のなかの角川俳句賞

さいばら天気



「週刊俳句」で角川俳句賞・落選展が開かれているが、インターネット上で受賞作や『俳句』誌の選考に触れる記事は数少ないようだ。

五十嵐秀彦・『俳句』2008年11月号を読む in週刊俳句

神野紗希・これでしょ?アヤカちゃん☆ in鯨と海星

2008-10-28 in和人のお仕事&俳句日記

テクノラティ等のブログ検索を使っても、この3つ程度しか見つからない。もっとも、これはネット上に限ったことではない気がする。リアルの誌面・紙面でもほぼ同様と思しい。プライヴェートな会話の中ではいろいろと話題にのぼっても、記事としては書きにくい事情は理解できる。とりわけ選考内容についてオープンに論じるのはむずかしい。

さて、一般に、この手のコンテストは、〔従来的で安定的な作品vs新鮮で独自の作品〕という図式をとることがしばしばで、そうした対照は誰の目にもわかりやすい。
可能性をとるのか完成度をとるのか、その折り合いをどうつけるのかという毎度おなじみの選考意見をひきずりながらの、やはり消去法による受賞かという印象。≪五十嵐秀彦・上記記事
角川俳句賞の場合、いろいろ討議はあっても受賞は前者で決まるというパターンが目立ち、そうした流れに苛立ちのようなものを感じる向きもある。

私自身、この角川俳句賞に限らず、俳句コンテストの受賞作を拝読して、「こういう句をつくる人って、たくさんいますよね。この人でなくても」と思うことがたいへん多い。もちろん、そうした作品が受賞して、なんのさしつかえもないのだが、「新しさ」「そのひとらしさ」を求めるかのような心持ちが、審査員自身の発言にお垣間見えたりするだけに、コンテストの観客(読者)にしてみれば、「で、結局、選ばれたのがこれか」という肩透かしを少しばかり味わったりもする(コンテスト参加者はどうなのだろう?)。

だが、一面、角川俳句賞ではこれからもずっと〔従来的で安定的な作品〕が選ばれ続けるということであっても、それはそれで興味深い事態かと思う。〔新しいもの〕は次点に位置するという図式。これは意外によくハマっている。いわばアンシャンレジームの象徴として、この手のコンテストがあり続けるというのも悪くはない。皮肉な言い方に聞こえるかもしれないが、そうではない。例えば、〔新鮮で個性的な作品〕がブレイクスルー(突破)を成し遂げると、それまで歯痒い思いをしていた観客は、案外、気が抜けたような状態に陥るのではないか。

この手のコンテストの受賞が、俳句世間に及ぼす影響の多寡についてはよくわからないが、それほど過大に見積もることもないように思う。神野紗希氏が言うように(上記ブログ記事)、「どっちにしても、俳句が面白くなるかならないかは、どんな人が活躍するかってことだと思うし、その指標の大きなひとつである角川俳句賞の結果は、俳句が面白くなるかどうかを、大きく左右する」ものだとしても、指標はひとつではない。

あたらしい俳句、まだ私たちが経験していない俳句(そんなに大袈裟に考えなくても、「おっ、ちょっと新鮮」ということでも充分に好ましい)の出現する場所は、可能性としてたくさんあるはずだ。

(…)本当にすぐれた俳人は、ただ一人の例外もなく、そのときどきの俳句形式にとって予想外のところから、まさに新しく俳句を発見することによって、いつも突然に登場して来たのである。≪高柳重信・『鳥子』(攝津幸彦)「序」
井の中の俳句はそれ自体の水位を上昇させる以外に他の文芸と交差する方法を持たない。ときに井水を溢れせしめ、俳句らしからぬ俳句の出現を待望してやまない。≪佐々木六戈・『俳句研究』2005年12月号
俳句コンテストがどうしたって〔俳句の枠内〕であることからすれば、そこに本当のブレイクスルーはないともいえる。けれども、どこから現れるかわからないという事態は、ずいぶんと楽しく、心躍ることだ。

一方、万が一、そうした作品が審査の俎上に上ったとすれば、審査員諸氏にとって素晴らしい幸運であることだろう。その際の審査員がどんな顔ぶれかはわからないが、観客としては、その契機を見逃さないだけの見識を備えた人たちが審査の席にいてほしいと願うしかない。


〔付記1〕
審査という仕事はたいへんだ、と、いつもながら感じる。選考過程のこうした披瀝
(『俳句』2008年11月号・選考座談会)においては、候補作品を多くの目に触れる以上に苛酷に、審査員のスタンスや見識があらわになる。人によってはみずからの存在感やステータスを高めるためのポジションと見る向きもあるようだが、それだけで出来るものではない。ある種の侠気、献身の精神がないと務まらない仕事だと思う
〔付記2〕
伝聞の範囲だが、以前の俳句賞の結果は、結社のパワーバランスを色濃く反映するものだったようだ。近年、その傾向はそれほど露骨ではないと見る向きは多い。観客にとってはシラける要素が減じ、実際、「今年の角川俳句賞の選考は例年になくおもしろかった」という声も聞こえてきている。
〔付記3〕
ブレイクスルーを達成する圧倒的な作品・作家を待望する半面、俳句はそれだけではない。たくさんの「小さなブレイクスルー」は現に起こっていると思う。それもまた楽しいことなのだ。

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