2009年2月16日月曜日

●さいばら天気 マイナー性にまつわる彼らの気分 〔下〕

マイナー性にまつわる彼らの気分 〔下〕

さいばら天気

『俳句空間・豈』第47号(2008年11月)より転載
※この原稿は「青年の主張」特集の依頼に応じて執筆したものです
俳句がマイナーであることにまつわる「負」の心持ちは、あるぶぶん私たちの世代も共有するところではあろう。だが、深刻さが違う。残された時間の量がまったくもって違うのだ。

俳句がこのまま手習いの趣味として、狭く身内にしか読者をもちえないままであるとしても、私たち年寄りにはそれほど気にならない。「変わり難い現実」に対す る諦観もあれば免疫もある。だが、「彼らにとってどうだろう?」と想像したとたんに心が痛む。せっかく若くして俳句を知り、愛したのだから、長く愛しつづ けてほしい。まだ二十代の彼らがこれから迎える長い長い時間、俳句がこのままマイナー感をまといつづけるとしたら、あまりにも悲しいことではないかと、他人事ながら胸がつまる。

ところが、彼らがこうしたマイナー性に真っ向から立ち向かい戦い打破しようとするのかというと、そうでもない。これが前述のアンビバレンツの片一方。

先般、早稲田大学俳句研究部・十周年記念シンポジウムで、話の流れのなから発せられた「エイリアン」という語への若者たちの肯定的な反応が私には印象的だっ た。世の中から見ればエイリアンたる俳人。そのことは先ほどからいうマイナー性とはまた別の要素やニュアンスをもつにしても、異人であること、マイナーであることを一方で良しとする心性がたしかにある。

手習い俳句を忌避するが、かといってその「非・文学性」から逃れるために「文学的」な俳句へと傾斜するかといえば、そうではない。もっと微妙な線を狙う。悧巧だな、ずいぶん洗練されているな、と思う。

いまの青年たちの作る句は総じておとなしくわかりすい。だが、これも、俳句のオーソドキシーへの敬意を賢くも備えているとともに、難解=文学的とでも言いたげな「へなちょこアヴァンギャルド」の滑稽さをすでに知っているともいえる(他方、彼らが意味伝達性の高い句を志向するのは、現在の俳壇の評価傾向に敏感 なせいでもある。現実的=現金な事柄が理由であると、私は踏んでいる)。

ともあれ、要は、いま見えている「俳句の風景」、言い換えれば「俳句世間のありよう」が変わってほしいのか、ほしくないのか、という話だろう。自分たちが変えていくのだと考えてい る青年はたくさんいる。どう変えていくかは置くとしても、きっと「主張」では変わらない。俳句に、声高で無粋な物言いは向かない。それは俳句の得意とする ところでもない。

さて、この特集を読むのを楽しみにしながら、いま書いている。若い執筆者たちが「主張」というテーマをどう捉え、そこでどんな芸を見せてくれるのか、それが楽しみだ。

あの頃、NHKホールの壇上で、オトナが喜ぶような主張を、オトナに馴化された口調と所作で述べ立てていた青年と、それを皮肉な目で眺めていた青年と、どちらが俳句なんぞに手を染めるかといえば、やはり後者なのだ。

ものごとを俳句的に処理できる「俳句的な智恵」に長けた青年たちが、俳句の風景をさわやかに変えていってくれる、その兆し・はじまりを見るまでは生きて、俳句と関わり、さらに口幅ったいことを言えば、彼らのサイドにつきたいと、これは本気で思っている。


〔参照〕

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