2009年3月30日月曜日

●B.U.819企画「呼ばれなかった私達が勝手に祝う週刊俳句101号」を読む

B.U.819企画「呼ばれなかった私達が勝手に祝う週刊俳句101号」
を読む


さいばら天気


B.U.819企画「呼ばれなかった私達が勝手に祝う週刊俳句101号」(2009/03/29リリース)、佐藤文香さんの「後記」に次のようにある。
ほんとは、「ウラハイ」に寄稿しようと思ったんですけど、
あ、喉から手が出るほど欲しかった。
なんだかもったいなくなって(笑)、
自分のブログに載せました。
わかります。
みなさんありがとう!!
良いお友だちをお持ちです。
そして、週俳101号おめでとう!!
誠にありがとうございます。











では、さて、読みます。

熊蜂の桜をまへにしてゐたる  生駒大祐
熊ん蜂の複眼いっぱいに桜。これは壮観。

春昼の無音のなかを天守閣  中村安伸
天守閣が天空へとゆっくりと離陸していく感じ。しかも無音のなかを無音で。かつて稲垣足穂があれほどまでに愛した天守閣のセクシーな宇宙性をいままた目にするとは! 至福の瞬間。

ざばざばと百一個目の山笑う  松野ひかる
百ではなく百一というのが新しい始まりを言い得てめでたい(200個目へ何千個目へと山は笑い続ける)。「ざばざば」とのオノマトペは意表と納得の良きバランス。耳のなかで気持ちよく響き続けます。

シェパードを連れて火星の話など  山口優夢
ヒューストン詠の一句。ぴんと姿勢の良いシェパードとその主。20世紀の最も優雅な点景のひとつ。

さくらさくらきみのにゆうりんともちがふ  PrinceK
さくらもふたつ、にゆうりんもふたつ、けれども、ものの峻別はする。ていねいで誠実な愛し方。

空間や吊られて回る銅の三日月  佐藤文香
空間も時間(月が回る)も、ひょっとするとそれほど違わない。どちらも私や私たちには茫漠として、貧相な想像の外へ外へと逃げてしまう。けれどもときどきそのふたつともが掌中に収まったかのような錯覚が得られたりもする。それは、とある一句によって。

2009年3月29日日曜日

●かまちよしろう「ゴンちゃん」スタート

かまちよしろう「ゴンちゃん」スタート



ウラハイでの連続漫画「ペンギン侍」、週俳でのシリーズ「そんな日」でおなじみのかまちよしろうさんの4コマ漫画「ゴンちゃん」が4月1日より、全国13紙でスタートします。

注目です。


〔掲載紙〕
静岡新聞、山梨日日新聞、山形新聞、福島民報、北日本新聞、宮崎日日新聞、新日本海新聞、長崎新聞、四国新聞、岐阜新聞、石巻河北新報(以上朝刊)
神戸新聞、中国新聞(以上夕刊)

2009年3月28日土曜日

●祐天寺写真館09 傘と箒 長谷川裕

〔祐天寺写真館 09〕
傘と箒

長谷川裕


彼等の相性がいいのは、どちらも人の手とかかわるからかなあ。


Nikon D300 Nikkor 18~70mm F3.5~4.5G ED

2009年3月25日水曜日

●ペンギン侍 第16回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第16回 かまちよしろう

前回


つづく

2009年3月22日日曜日

●歌仙「百号」会場

■歌仙「百号」会場
 
燕来る頃を百号来たりけり   小雨  晩春
  腰の高さに木瓜の生垣   天気  晩春
床屋から坊主頭の子の出でて  敦   雑
  本塁打王さても大望    銀河  雑
舟の上に透き通るまで月眺む  遥   月の座・仲秋
  鳴子かすめて走るあやかし  恵  三秋
〔初折裏〕
首筋に塗るお白粉へ秋の風   由季  三秋
  接吻の痕疼く早番     お気楽堂 恋
片陰の陰も君へとしなだれる  ねこ  恋/晩夏
  シャーレに咲ける塩の結晶 藤幹子 雑
雪深きここを果無山といふ   銀河  晩冬
  羊数へて寒月の宿     三だる 冬・月の座
いみじくもベジタリアンの大嚔  由季/うさぎ 三冬
  噂の元はとあるウェブログ お気楽堂 雑
ねんごろに筆の穂先を整へて  敦 雑
  すめらみくにのもとの一滴 分度器 雑
下戸ばかりようも揃ひし花の宴 お気楽堂 春・花の座
  鵯越の霜の別れぞ     遥 晩春
〔名残表〕
陽炎に包まれ世界新記録    三だる 三春
  皮から作る餃子パーティー お気楽堂 雑
難事件アガサの霊に訊いてみよ 七 雑
  そして誰もが虹を見上ぐる 三だる 夏
金魚売ゆるりゆるりと橋渡り  由季 三夏
  六道辻の喧嘩えれじい   七 雑
侍の扮装のまま歯科医院    恵 雑
  親の知らない逢瀬かさねる 銀河 恋
前戯なき戦い若さゆゑ許す   分度器 恋
  いきなり終はる半島の道  由季 雑
海亀の涙に映る夜半の月   廣島屋 秋・月の座
  どぶろく仕込む卓球少女  恵  晩秋
〔名残裏〕
御法度の金糸銀糸に木の実降る 由季 三秋
  紅い小鳥の群れる山頂   M玉 雑
水曜のメリーゴーランドに一人 三だる 雑
  裏の川まで馬を洗ひに   お気楽堂 雑
あまたなる泡のごとくに山桜  敦 春・花の座
  つひに見えなくなる凧  三だる 挙句

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●歌仙「百年」会場

■歌仙「百年」会場

囀や築百年の時計塔       恵  三春
  額あかるく仰ぐ春天      天気  三春
つるりんと卵は殻を抜け出して  うさぎ 雑
  制服のまま通ふ雀荘     淡水魚  雑
月の鉤垂れて天帝ひとを釣り   鮟鱇 月の座・仲秋
  うまく抓めぬ虫籠の蓋    恵  三秋
〔初折裏〕
割箸を割る音ひびく紅葉狩    敦  晩秋
  三倉茉奈佳奈どちらがお好き 三だる 雑
抱かれて通天閣の灯が窓に    遥  恋
  空港で待つむかしの男    淡水魚 恋
亡命のサイン打合せと違ふ    うさぎ 雑
  バレーボールのネットに土鳩  恵 雑
竜笛に光を増せる夏の月     三だる 夏・月の座
  信濃太郎の逆鱗に触れ    廣島屋 三夏
今朝もまた気象予報の大外れ   七 雑
  バウムクーヘン工場の怪   三だる 雑
煙突が花屑ひとつ吐き出して   由季 春・花の座
  調書をとりし後にぶらんこ  廣島屋 三春
〔名残表〕
おづおづと子猫手を出すやじろべえ お気楽堂 晩春
  東海道に巣食ふ山賊     恵 雑
指先に残る飯粒ぺろりんと    敦 雑
  切手五枚で九円を足す    お気楽堂 雑
街角のギターケースに降る木の葉  三だる 三冬
  禁じられたる冬野に遊び   由季 三冬
寝たばこの火を昂ぶりに置きかへて 銀河 恋
  君と暮らした洞窟を去る   M玉 恋
迷子札付けてフレンチブルドッグ 由季 雑
  ソースの付きし白衣を着替へ 遥 雑
月明かりさす舞台へと奈落より  廣島屋 秋・月の座
  夜業に直す女形の鬘    恵 晩秋 
〔名残裏〕
アラジンのランプこすれば霧出でて 由季 三秋
  仁丹の粒ひとつ転がる    敦 雑
はやばやと達磨に目玉描き入れむ 遥 雑
  雲を数へてゐてつい遅刻   三だる 雑
翁童の逢ひ別れしか花の谿   銀河 春・花の座
  春を送りて響く鐘の音  お気楽堂

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2009年3月21日土曜日

●おんつぼ17 ザ・クラッシュ 山田露結


おんつぼ17
ザ・クラッシュ The Clash

山田露結







中学生の頃、ザ・クラッシュの「コンバット・ロック」というアルバムを買いました。

それまで“パンク”を聴いたことがなかった私はその“パンク”という言葉の響きに憧れ、かなり自分なりのイメージを持って、期待に胸膨らませ、ドキドキしながらレコードに針を落とした記憶があります。

ところがっ!

スピーカーを通して出てきたサウンドは私のイメージしていたものとは全く違っていました。

「これがパンク???」

たしかに硬派な男臭さは感じたのだが“歪んだギターでジャーン!”というロックンロールを期待していた私にとってそのサウンドはとても理解できるモノではなかったのです。

数ヶ月後、友人宅で彼の兄が持っていたセックス・ピストルズのレコードを聴いたとき、「これだ!これだよ!これ、これ!」と叫んでしまいました。それこそが、まさしく私の求めていた。”パンク”の音だったのです。

そんなわけで、それからしばらくの間クラッシュのレコードは棚の隅に追いやられてしまいました。

それから数年が過ぎ、高校生になったある日、私の部屋で弟が聴き覚えのないレコードをかけていました。

「これ何!カッコイイじゃん!」とたずねると「兄貴の持ってるクラッシュのレコードだよ。」と答えました。

ショックでした。こんなにカッコイイ音だと気付かずに棚の隅に追いやっていたこと(ジョー・ストラマー兄キ!ゴメンナサイ! )、しかも弟は私より先にそのカッコ良さにハマっていたこと。

“パンク”を音楽的ジャンルにカテゴライズせずに、レゲエ、ファンク、ヒップホップ、ロカビリー、ジャズなどさまざまな音楽のあらゆる要素を持ち込んで作り上げられたクラッシュ・サウンド!(この言い方、ちょっとダサイ?)

しかし“パンク”の精神性は貫き続けています。

今聴いても全く色あせないカッコ良さ。

アルバム「コンバット・ロック」は僕にロックの本当のカッコ良さを教えてくれた永遠のバイブルなのです。

硬派度 ★★★★★
ごった煮度 ★★★★★


おすすめアルバム「コンバット・ロック


2009年3月19日木曜日

●虚子没後50年

虚子没後50年


来る2009年4月8日で高濱虚子(1874 - 1959)没後50年。神奈川近代文学館で記念イベントが催されています。

虚子没後50年記念「子規から虚子へ」
詳細≫http://www.kanabun.or.jp/te0519.html


〔週刊俳句・虚子関連記事〕
■小特集 俳句と詩の会 「高浜虚子を読む」  ≫読む
■復刻転載 山国の蝶 虚子と小諸時代  ≫読む

2009年3月18日水曜日

●「前衛俳句」は死んだのか・その後

「前衛俳句」は死んだのか・その後


去る3月7日、「第21回現代俳句協会青年部シンポジウム・「前衛俳句」は死んだのか」が開催されました。
週刊俳句でのお知らせ ≫こちら

【その後のブログ記事リンク集】現時点・ブログ検索による

橋本直さんのブログ Tedious Lecture
http://haiku-souken.txt-nifty.com/01/2009/03/post-2ad9.html
城戸朱理さんのブログ
http://kidoshuri.seesaa.net/article/115365227.html
荻原裕幸さんのブログ
http://ogihara.cocolog-nifty.com/biscuit/2009/03/200937-86e9.html
橋本直さんのuni掲示板への書き込み
http://www4.rocketbbs.com/141/uniuni.html
野口る理さんのブログ
http://ameblo.jp/wwwqpwww/entry-10223296465.html
須藤徹さんのブログ
http://blog.goo.ne.jp/blue1001_october/e/2f3925c2a6ffbc0761c27a9d278bc96b
山崎百花さんのブログ
http://momoka.livedoor.biz/archives/51615821.html
神野紗希さんのブログ
http://saki5864.blog.drecom.jp/archive/360

2009年3月15日日曜日

●「週刊俳句」100号記念歌仙のお知らせ

「週刊俳句」100号記念
歌仙スタートのお知らせ



「週刊俳句」は2009年3月22日号をもちまして100号を数えます。これもひとえに読者・執筆者の皆様のおかげです。厚く御礼申し上げます。

さて、100号を記念いたしまして、歌仙(連句)を巻きたいと存じます。会場はここ「ウラハイ」。まずは発句を募集させていただきます。

●発句条件
1)当季
2)「百」を盛り込んでください。
3)や・かな・けりetc切れ字を入れてください。
●投句方法:コメント欄に書き込んでください。≫コメントの書き込み方 
●期限:3月20日(金)24:00

3月22日(日)に発句を発表。以降の詳しい手順についてはその折にお伝えしますが、この時点でいくつか。
1)緩いルールで行きます。
2)誰でも参加できるオープン形式:一定の付句投句(コメント欄への書き込み)受付期間ののち、1句を採用。
3)捌き(交通整理)は不肖天気が務めさせていただきます。

なお、ご不明の点あれば、tenki.saibara@gmail.com までお問い合わせください。

それではまずは発句。よろしくお願いいたします。

2009年3月14日土曜日

●ブリキと茸 saibara tenki

ジョン・ケージ拾読:引用の断章 1/4
ブリキと茸

compiled by saibara tenki


4回決め打ちです。

人が茸に熱中することによって、音楽についての多くを学ぶことができる。私はそういう結論に達した。その目的のために、私は最近田舎に引っ越したのだ。そして菌類の「野外採集の友」の熟読に多くの時間を費している。そういう本は、よく古本屋で半額で見つかるのだが、そんな古本屋はごく稀に、ページの端が捲れてしまった楽譜を売る店の隣りにあったりする。そんなときには、私のしていることが正しいという動かぬ証拠を見た思いに心浮き立つ。
(「音楽愛好家の野外採集の友」ジョン・ケージ:『音楽の零度』近藤譲訳/朝日出版社1980所収)

猿の腰掛のような茸と音楽の女神を結合させてしまったからといって、私が不真面目で軽率で、悪く言えば「ごたまぜ趣味」だ、と思われないために、作曲家はいつも音楽を他の何かと混ぜ合わせているのだということを考えてほしい。(同)

森の中で、私の沈黙の曲の演奏を指揮して、私は多くの楽しい時間を過ごした。聴衆はたったひとり私自身だけだから、その曲は私が出版した一般に知られている長さよりずっと長い。(同)




私は、音と音との間の関係に興味がないのと同じように、茸と茸との間の関係にもそれ以上の興味はない。そうした関係というのは、この世界では場違いなばかりか、時間の浪費でもあるような論理の導入に深く関わってしまうことになる。(同)

つまりそれ故に、私達は、ひとつひとつのものを直接に、それが在るがままに見極めねばならない。ブリキ製のホイッスルの音であっても、優雅な傘茸であっても。(同)

2009年3月12日木曜日

●ペンギン侍 第15回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第15回 かまちよしろう

前回


つづく

2009年3月11日水曜日

●近恵 しょーいぐんじん

しょーいぐんじん

近 恵


渋谷の歩道で、義足をガードレールに立てかけ、軍人のような作業着のような、なんかそんな格好をした60代ぐらいのおじさんが座っていた。なんか看板が掛かっていたが、見ないで通り過ぎた。「しょーいぐんじん」のようだと思った。

子供の頃、田舎の町中にときどきそういうふうなおじさんが座っていた。うすよごれた軍服を着て、いや、白い服だったか、ゲートルを巻いて、片足や片手がなかったりして、ハーモニカをふいてることもあった。座った前にはアルミの弁当箱とかが置いてあったりした。

看板が掛かっていて、戦争に行ったこと、怪我をして帰ってきたこと、その怪我のせいで片足や片腕を無くしたこと、そんなことが書いてあったように思う。

私はもっと看板をよく読みたかったし、その片足がなかったり、片手がなかったりして、でもハーモニカの悲しい音色を立てているそのおじさんがなんだか可哀想に思え、近づこうとしたのだが、母に止められた。あれは「しょーいぐんじん」だとそのとき知った。「しょーいぐんじん」は物乞いをしている人だった。そして「しょーいぐんじん」が傷痍軍人だと知ったのは、もうすこし後になってからのことだった。

そして、傷痍軍人でなくても、どこかで怪我とかをして働けなくなったりした人が「しょーいぐんじん」になったりすることや、やくざやさんでそういうことをする人がいるということは、さらにもう少し大人になって知った。

さて、今日渋谷で見かけた「しょーいぐんじん」。もし本当に傷痍軍人ならばたいがい恩給とか出てるし、もう80から90歳近くになる人たちであろうから、今更そんなことはしないだろうと思う。もっと若かった。60代ぐらいのように思えた。あれはただの物乞いだったんだろうか。

3月10日は東京大空襲のあった日。

2009年3月10日火曜日

●祐天寺写真館08 収集日 長谷川裕

〔祐天寺写真館 08〕
収集日

長谷川裕


よく路地のゴミ箱に身をひそめてかくれんぼをしたものだ。紙切れにまじった茶殻、吸い殻の匂いはいまでもよく覚えている。町工場のゴミ箱からは、ベークライトの破片を拾い集め、それをセメダインでくっつけ、いろんなものを作って遊んだ。ドブ川に沿った空き地にゴミ捨て場があり、ちいさなスモーキーマウンテンのようになっていた。そこからあれこれ掘り出して、家へ持ってきては叱られた。他の空き地には、おそらく映画会社かなにかの撮影用だと思うが、シボレーのパトカーが捨てられており、それに乗り込んで警察ごっこをした。楽しかった。ゴミや廃棄物には魅力がある。街のゴミをせっせと拾い集め、自宅をゴミ屋敷にしてしまう人がいるそうだが、きっと子どものころのままなのだろう。


Nikon F3 Ai-S Nikkor 35mm F2

2009年3月9日月曜日

●ペンギン侍 第14回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第14回 かまちよしろう

前回


つづく

2009年3月8日日曜日

●Re:細見綾子くるかも

Re:細見綾子くるかも



細見綾子くるかも。(上田信治「『俳句』2009年3月号を読む」


  ●細見綾子(1907-1997)抄

死ぬふりを子蜘蛛ながらにして見する

そら豆はまことに青き味したり

ぬくい日寒い日春を暮らすなり

つばめつばめ泥が好きなる燕かな

黄金虫行くところ無き羽たゝむ

以上『桃は八重』1930-1941

春近し時計の下で眠るかな

青梅の落ちたる音のひろがらず

鶏頭を三尺離れもの思ふ

片方の足袋のありしは障子ぎは

以上『冬薔薇』1942-1951

風邪の子に屋根の雪見え雀見え

以上『雉子』1952-1555

枯野より戻りビー玉で遊ぶ

肉買ふや冬の太陽熟して落つ

一日こもる水栽培の青き芽と

胸うすき日本の女菖蒲見に

秋日沁むふとんの縞のたてよこに

以上『和語』1956-1968

木蓮のため無傷なる空となる

水仙の切り時といふよかりけり

以上『伎藝天』1969-1973

春の雪地につくまでを遊びつつ

紫のぶだうを置いて雨の音

犬ふぐり海辺で見れば海の色

今立ちしばかりの虹に春田打つ

以上『曼陀羅』1974-1977

compiled by tenki

2009年3月7日土曜日

●祐天寺写真館07 HDR 長谷川裕

〔祐天寺写真館 07〕
HDR

長谷川裕


露出を数段階ずらして撮影、一枚の画面に統合するHDR(ハイダイナミックレンジ)合成がブームである。暗部、明部のディテールが精細に描き出され、写真というよりは絵画の描写に近い。デジタルならでは可能な画像だ。一見、異様に見えるが、それは従来の写真に私たちが慣らされてきたからであって、私たちの意識はむしろこのように外界を見ているのだと思う。おそらく、すぐ飽きられる。従来の写真のように「見えない部分」がないからだ。絵葉書的にすべてを説明されてしまうと写真はつまらない。写真は意識がコントロールする「肉眼」とはべつの画像だからこそ面白い。つぶれた暗部や飛んでしまったハイライトに隠されたもの、それが写真の魅力だ。なんでもそうだが、いわずもがなの説明過多はお楽しみを奪ってしまう。


Richo GRD 5.9mm F2.4

2009年3月6日金曜日

●シネマのへそ05 ベンジャミン・バトン 村田篠

シネマのへそ05
ネガとポジと
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』 
(2008年 デビッド・フィンチャー監督)


村田 篠


ラブストーリーだと思って観ると、荒唐無稽でしかないかもしれない。だいいち、主人公が年齢とともにだんだん若返ってゆく、という設定は、小説やドラマの台本など「物語をつくること」を志した人なら、一度は「なんとかものにしよう」と考えたくなるようなアイデアでもある。

この映画を観ていて、「だんだん老いてゆく人生」より「だんだん若返ってゆく人生」の方がいい、と思う人は、おそらくほとんどいないのではないだろうか。つきつめてしまえば、いずれ最後に待っているのが「死」であるのならば、その経緯がどうであれ、どちらでも同じことだ。問題は、自分以外のすべての人が老いてゆくなかで、自分ひとりだけが若返ってゆく、という特殊性がもたらすものがなんなのか、ということなのだから。

みなが同じ方向へ向かってゆく、ということは、誰もが平等に「未来を知ることができない」ということでもある。永遠などというものはないのだ、と頭では分かっていても、いまの状態はいつか終わってしまうのだ、というようなことを、人はあまり積極的に考えない。

でも、ベンジャミン・バトンは、人が一番最後に行き着くところから、人が誰でも通り過ぎてきたところへ人生が逆行するために、他人とは違う未来をもつことを余儀なくされた。人と出会うことは、ベンジャミンにとっては例外なく「すれちがう」ことだった。いまの状態がいつか終わり、ずっとつづくわけではないことを、わりと人生の早い段階で知ってしまうわけである。

幼い日に出会った初恋の女性・デイジーとベンジャミンとの恋人としての時間が交差するのは、43歳と49歳のときだ。ふたりの時間は重なり、交差して、また離れていってしまう。その幸福な時間はほんの一瞬のように短いのだけれど、遠くない未来にやがて終わってしまうことを知っているがゆえに、きらきらと美しい。

原作がスコット・フィッツジェラルド、と聞いて、ああ、そうか、と思った。このきらめきは『グレート・ギャツビー』を思い出させる。そういえば、ギャツビーが思いを寄せた女の名もデイジーだった。

しかし『グレート・ギャツビー』が「永遠のきらめき」を求めて得られなかった一瞬の夏の物語だったのと対照的に、この話は、永遠につづくものなどないことを知っていた男の一瞬の夏を見せながらも、「決して不幸ではない一生」の物語になっている。ほんとうにまるでネガとポジのように、このふたつの話は照らし合っているのだ。

『グレート・ギャツビー』の有名なラストの一文を思い起こすと、ますますその意を強くするのだが、ちょっと引いてみよう。

 ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に――
 だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。
(村上春樹訳『グレート・ギャツビー』中央公論新社刊)

なんだかんだいっても、人は、物語を必要とする。私は、そう思う。

ところで、この映画は第一次世界大戦に始まり、ニューオーリンズの大洪水で終わる。それはおおざっぱに言えばほぼ「アメリカ合衆国の20世紀」であり、数多くの父親や母親が描かれることでもあり、主人公を巡る物語の底を見え隠れしながら音楽のように流れ、観客が「時間」を意識するためのもうひとつの設定になっている。ハリウッドにまだこういう映画を作る膂力があったことが、なんとなくうれしい。


甘美度 ★★
数奇度 ★★★★★


「ベンジャミン・バトン」オフィシャルサイト ≫こちら

2009年3月5日木曜日

●さいばら天気 星野立子というキャラ

星野立子というキャラ

さいばら天気


星野立子句集『月を仰ぐ』(西村和子編・ふらんす堂1997)から。

  目の前に大きく降るよ春の雪   立子(以下同)

  鞦韆に腰かけて読む手紙かな

  鉛筆で髪かき上げぬ初桜

  いつの間にがらりと涼しチョコレート

  たはむれにハンカチ振つて別れけり

  香水の正札瓶を透きとほり

  桃食うて煙草を喫うて一人旅

  わが前に落ち来る如く星流れ

  楽屋口水の江滝子ジャケツ着て

  一月十二日とペンで卵にかく


こう並べると、作者が、少女漫画あるいは少女小説の主人公ように思えてくる。

星野立子(1903-84)は、俳句を始める前に結婚しているので、その俳句に「少女」を冠するのは無理がある。27歳で長女を産み、吾子俳句も多い。それでも、この10句からは少女漫画、少女小説の主人公のような「作者像」が立ち上がる。

もし挿画を付けるなら、高野文子がいいと思いますが、いかがでしょう?

こんな感じ。

2009年3月4日水曜日

●lugar comum; artist unknown

artist unknown

lugar comum


その音楽を誰が演っているのかという部分には、ほとんど興味が無くなった。店舗で掘るときの、タグ用途以外のなにものでもない。LPで買っても、いずれ曲単位もしくはその断片しか使わないわけで。いっそ、アーティスト・アンノウンの方が清清しい。

そんな感じで、最近はライブラリとか、知らん映画のサントラばっかり。板、高いが、財力にモノいわせて棚買い。「Tighten up」とか「soulful strut」みたいなトラックないかなーと捜す。で、ハズしまくる。自分の耳とか嗅覚などというものを、ゆめゆめ信用してはいけない。

で、回りにいる物持ちDJとか職業選曲屋に聞く。…ほら、大体これ位のBPMで、ドラムがスタタンとシンコペイトして、グルーヴィーなベースラインで、そこにギターのカッティングがフィルインしてきたり、フェンダーローズがピローンと乗っかったりするの、無い?

じゃ例えば、と。

「kpm big beat vol.2」(独1970) 〔*1〕












…ホントだ、soulful strut風。


〔*1〕この盤の場合は一応クレジットあり。全曲Alan Moorhouseとあるが、誰?

2009年3月3日火曜日

●ペンギン侍 第13回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第13回 かまちよしろう

前回


つづく

2009年3月2日月曜日

●祐天寺写真館06 龍 長谷川裕

〔祐天寺写真館 06〕

長谷川裕


その夕暮、東へ向かって数匹が群れて泳いでいった。なるほど、それから雨になった。


Canon IXY DIGITAL 320 5.4~10.8mm F2.8~4.0

2009年3月1日日曜日

●さいばら天気 題詠と嘱目

題詠と嘱目

さいばら天気


「で、お題は?」と、句会となれば訊くタイプの人がいます(私も、そう)。出句のルールにはおおまかに題詠(兼題・席題)と嘱目(自由題)のふたつがあるわけですが、波多野爽波におもしろい記述があります。
私の手許には毎月五十冊を越える雑誌が贈られてくるのだが、それらの雑誌の「句会案内」の欄を見ると句会ごとに「兼題」の出されているものは殆ど見当たらないことに気付いて驚いた。よその結社では「題詠」ということが行われていないのだろうか。
(…)虚子先生の出席される句会にはすべて兼題が出ていて、また句会当日には必ず会場に席題が貼り出されてあって、締切のぎりぎりまでみんな必死になって席題と取り組んで、句を作ったものだ。私の初学の頃は、句会といえば出句は兼題と席題の句にのみ限られていて、これが普通の句会形式であった。それがいつの間にか「属目」も許容されるようにあり、それと共に相対的に兼題、席題の占める位置が低下して、現在に至っているようだ。……波多野爽波「題詠とは」(1986)『枚方から』〔*〕所収
私のなかには、結社の句会は嘱目、また伝統派は嘱目というイメージがなんとなくあったので、これを読んだとき、ちょっと意外でした。

兼題・席題は、吟行句会でも同様だったと、爽波は言います。
折角こんな所に来たのだから大いに写生に専念しなさい。しかし肝腎の心の方がお留守になって想像力、集中力が散漫になってはダメだから題詠で大いにそれを鍛錬なさいという先生(虚子・筆者註)のお諭しであったと思う。
俳句とはもともと題詠で勝負するもの。その題詠で存分に想像力をはばたかせ、集中力をぎりぎりのところまで凝縮させるために、常々写生の修練を怠らずに努めて強靱な足腰を養っておく。これが真剣な句作りの構図とも言うべきものであろう。……同
この部分も意外。「勝負」は嘱目で、題詠は常々の訓練、というアタマがありましたが、爽波の流儀は、その逆です。いわば、写生は日々のトレーニング、題詠が本番の試合。

いや、意外でした。

もっとも、ここで言われている「題」は、季題なのかもしれません。私の参加する題詠句会は季語を題にすることはほとんどありませんが、ところによっては、題といえば季語/季題ということらしいですし。


〔*〕『枚方から』は波多野爽波の短文連載を集めた私家版冊子。贈呈を賜りました猫髭さんに感謝。