2009年5月31日日曜日

〔ネット拾読〕鳴らなくなったアンプを叩いて鳴らす

〔ネット拾読〕03
鳴らなくなったアンプを叩いて鳴らす

さいばら天気


先週5月24日のネット拾読で、歌人の荻原裕幸氏のブログ記事を引かせていただいたところ、荻原さんのブログに早速この記事が。

●2009年5月24日(日)from ogiwara.com
http://ogihara.cocolog-nifty.com/biscuit/2009/05/2009524-75f6.html
ポストモダンの文脈で俳句を考えず、俳句の文脈でポストモダンを考えることもできるのではないだろうか。(…略…)発句を単独で俳句/文学/詩とするような行為を、モダン化だと考えるならば、俳句におけるポストモダンは、発句の変容のなかにあるのではなく、俳諧の平句にあるプレモダン的なものがそれにあたるのではないかという気がする。
ポストモダンの潮流について、短歌の場合、先週の記事にも書いたように、通時的に整理がつくようなのだが、俳句の場合は、小野裕三さんの把握(やはり先週に触れた)によるなら、俳句史上に「ポストモダン俳句」は現れなかった(上田信治氏は、ポストモダン「的」な出来事として坪内稔典「三月の甘納豆のうふふふふ」をピックアップされたのだと解する、この場合の「的」は「っぽい」とか、そういう…)。

荻原氏の「俳諧の平句(プレモダン)=ポストモダン」との把握・着想は、「プレ」という歴史的経緯の要素を横に置いておけば、共時的に捉えらえる(通時がダメなら共時というわけで)。つまり、発句に端的なモダン性と平句のポストモダン性の対照

たいへん興味深いが、ここからさらに先は、私には荷が重い。

すこし話が逸れるのを覚悟で、ふたつの話題が頭に浮かぶ。ひとつは四童さんと歌仙(連句)についてしゃべったときに出た「平句復権」というか「平句礼賛」の気分(こちら「アフター両吟歌仙 第三夜」を参照)。もうひとつは、今の若い人に「深い切れ」を嫌う傾向があるということ(なんとなくの印象だが)。

ここからさらに憶測というか随想を広げれば、切れや二物衝撃が俳句の近代化に寄与してきた部分があるという前提で、そこから離れ、平句へと「いまの気分」が向かっているという言い方もできるかもしれない。あるいは、また違う比喩になるが、かつての時代の「りっぱな俳句」の剛構造とは違う、柔構造の俳句が生まれている。例えば鴇田智哉の俳句。さらに言えば、それは「空気のような平句」とも、私には思える。

とまあ、いろいろ思い浮かぶことはあるが、悲しいかな、まとまりきらない。


で、この話には関係がないが、この「ウラハイ」のなんだかわからない記事を、あの(!)荻原裕幸氏がお読みになったという事実に、まず、うろたえてしまい(もちろん有り難いことなのだが恐縮至極という…)、これで内容・筆致に自省が働けばいいのだが、なかなかそうは行かず、今回もバカを承知で長くなりそうですから、皆さん、御覚悟を。

 * * *

●前向きで行こう~相対性俳句論(断片)2009/5/24 from たじま屋のぶろぐ
http://moon.ap.teacup.com/tajima/740.html

むかしのテレビ番組『三宅裕司のいかすバンド天国』の話題。シロウトが「映像作品」を応募するこの番組、私も楽しみに観ていた。今でも憶えているのは、新聞の天気図(等圧線)を連続して何日も一齣ずつ撮影してアニメにした作品。台風が天気図の上を北上していき、日本地図と絡む。とても洒落ていた。

YouTube動画として貼られた「前向きで行こう」という作品も憶えている。青春青春した感じは、あの頃のああいう髪型(刈り上げ? テクノカット?)とともに、ちょっと気恥ずかしいが、それは時間が経って、私が年老いたからというのではなく、当時も、恥ずかしい感じは抱いたのだ。だが、そうした恥ずかしさ「込み」で、青春というものがあり、それはそれで価値がある。恥ずかしいけれど、それだから切実感が胸に迫ってくるのだ(いや、逆か。切実だから恥ずかしいのか)。切実じゃなければ、引きずるものもなく、カッコ悪いこともなく、したがって恥ずかしくない。でも、それには、それほどの価値はない。

「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」早川義夫

この数分間の「前向きで行こう」、そこらの青春ドラマより、いいと思います。いま観ても。

 * * *

豈weekly・第40号(2009/5/24)には、読み応えのある書評が4本並んだ。

●空とは何か 阿部完市句集『水売』を読む 山口優夢
●書評 小池正博『蕩尽の文芸――川柳と連句』 湊圭史
●一杯の茶と出っ歯の冒険 デイヴィッド・G・ラヌー『ハイク・ガイ』を読む 高山れおな 
●春日武彦『奇妙な情熱にかられて―ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』から 関悦史

このうち春日武彦『奇妙な情熱にかられて―ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』にとりわけ大きな関心を持った。
その第2章「ミニチュアとしての文章」に、春日武彦が勤務先で見かけたいきなり「私を捨てないで下さい」とだけ書かれた謎の木片、「ますように」とだけ書かれて七夕竹から下がっていた短冊、さらに詩人フランシス・ポンジュの短い死亡記事(…略…)といった雑多な事例に混じって俳句の話が出てくるのだ。
関悦史・上記 http://haiku-space-ani.blogspot.com/2009/05/08.html
さまざまな片言と同じ俎上に載せられる俳句。

むかし新聞の求人広告(1~3行です)の文言を大量に読んだ時期がある。趣味・遊びではなく仕事として、それを材料に雑文を書いたのだ。例えばパチンコ屋さんのそれには、「毎日ジュース・タバコ支給」に笑ったり、「駅を降りたら即電話」「身ひとつで来てください」など、失踪者・蒸発者の受け入れ先を自認しているかのようなコピライトにちょっとじ~んと目頭を熱くしたことを思い出した。

新聞広告に限らず「1行」の片言のおもしろさは世の中のいろいろなところにある。俳句も、そうした「1行で勝負するもの」のひとつと、つねづね考えていたので、関氏のこの書評を読んで、すぐさま春日武彦のこの本を注文した(ついでに春日武彦と平山夢明の対談本『「狂い」の構造 人はいかにして狂っていくのか?』扶桑社新書も注文)。

そういえば、さきほど触れた田島氏の記事にあったヴィデオ作品「前向きで行こう」でも、片言が次々と飛び出し、そこに「片言的」映像がシンクロする。

さらに例えば思い当たるのは、イラストレーター山本祐司さんのサイト「トコトコネット」にある「1日ひとこと」というページ。
http://www31.ocn.ne.jp/~y2u2j2i2/800.1hi1koto.html


読者(サイト閲覧者)を楽しませようとする意図、つまりウケ狙いがなく、そのぶん味わい深い。

 * * *

「たじま屋のぶろぐ」からもう1本。
僕たちのちょっと前の世代くらいから、若い人達の間で、この「無垢なる天才」というキャラクター設定が増え始め、最近では若い人自身がナマの自分自身を、そのような立ち位置でイメージしているんじゃない?と感じることが多い。
●MR.BRAIN その2 2009/5/27 from たじま屋のぶろぐ
http://moon.ap.teacup.com/tajima/743.html
「ドラゴンボール」の孫悟空や「Dr.スランプ」の則巻アラレが「無垢なる天才」というキャラクターの例。
「天才」だとしても、裏で汗水たらして努力しているようなのはダメで、「無垢」だとしても、アホな者は主役になれない。(同)
天才と無垢の相性の良さは、昔からのことだと思うが(無垢には社会性の欠如とかも含まれる。「世故に長けた天才」がなんだかヘンテコリンな矛盾に思えるのは、そのせいだ。天才=無垢が古くからのお馴染みの物語だとしても、田島氏が指摘する「世代」の傾きは、なるほど、そういう感じかもしれないとも思う。

ただし、この記事後半には…
現在の時代背景が求めているのは、そのような「無垢なる天才」ではなく、むしろ「仕事において職人的な能力を発揮しながらも、常に悩み、苦しみ、微調整を繰り返す」というWBCのイチローのような人間モデルなのじゃないでしょうか。
…とあり、つまり、「若い子たちよ、この時代、無垢なる天才じゃやってけないよ」ということを、田島氏はおっしゃりたいのか。

なお、俳句に絡めての話題も(少々強引だが)、この記事にはある。引いておこう。
「私」という「無垢なる主体」は「天才的な能力」を選択的に発揮する。これが、理想的な自我なのである。この「無垢なる主体」が「能力」から分離している、という感じ方は、俳句の世界にも影響を及ぼしている。

つまり優れた作品は「無垢なる主体」から生まれるのであって、「無垢なる」主体とは俳句的な「作為」に汚れていない、ということであって、これといった理屈や理論や方法論抜きに、対象と一対一で対峙したときに「無垢なる主体」が強烈な集中力(これが「天才的な能力」なわけですね)を発揮して、信じられないような作品を生み出す。…という、文字で書くとすごい神がかりなイメージ。
この部分、どの程度、事実を言い当てているのか、私にはよくわからない。やや思念的すぎるようにも思うが、田島氏には、このような抽象化(モデル化)へと到るに妥当な材料があるのだろう。すなわち御自身で見聞きした具体的な事実。そこがこの記事で知り得ないこともあって、首を縦にも横にも振れない。ただ、世間一般の成功モデルの世代的変化が、俳人(俳句作家)の性向に反映されることは、あり得ない話ではない。

 * * *

小野裕三氏の書評記事から、以下。季語を鍵に、俳句と川柳の対照が鮮やか。
(…)季語に一句の方向が集中することによって、作者の感情はそれに比べて相対的に「客観的」なものとして定着する。「最後に自分に突き放す」機能を季語は持っているというわけだ。池田氏の言い方を借りれば、「作者をも季物の一つとして豊かなものにする」ということだろうか。このような相対的世界観は、確かに俳句の大きな特徴だ。例えば季語を制度として持たない川柳はいつもひりひりするような「世界」と「私」の端境にいる。そのこと自体は、別に俳句と比較して優劣を言うことでもない。それぞれの文芸の特徴でしかないからだ。ただ、俳句を見慣れた眼からすると、川柳の世界はどこか生過ぎるというか、対象物が近すぎるというか、映画館の一番前の席でスクリーンを見ているような雰囲気を感じてしまう。俳句は、季語を導入することによって、それが世界にも私にもフィルターのようになって働く。フィルターによって一度整序された対象物を見るので、そこにはある意味での箱庭的安定感がある。
●池田澄子『休むに似たり』 2009/05/25 from ono-deluxe
http://www.kanshin.com/diary/1829038
川柳の部分、首肯しながら読み、週刊俳句第7号掲載の「「水に浮く」×「水すべて」を読む ……上田信治×さいばら天気」を思い出した。この記事は、自分の週俳でのベスト・パフォーマンスのひとつと思っている(昔のほうが良かったですね、わたしの場合)。

と、まあ、ネット拾読は、そろそろこのへんで。

(ああ、やっぱり、長くなってしまった)

それでは次の日曜日に、またお会いしましょう。

2009年5月30日土曜日

〔俳誌拝読〕『現代俳句』2009年6月号

〔俳誌拝読〕
『現代俳句』2009年6月号(通巻493号)70p


現代俳句協会の機関誌。ふだん読むところはほとんどないが、今月号は、「特集・第9界現代俳句大賞」(期せずして阿部完市追悼特集になった)と青年部シンポジウム「前衛俳句は死んだのか」での金子兜太講演録を掲載。読み応えがあります。

まず阿部完市特集から。

宇多喜代子「阿部完市の句業~次の何かを思わせる」2頁を導入に、安西篤による80句抄出と遺作となった『水売』から自選12句が続き、宇井十間氏による阿部完市論「一回性の詩学」。そこで引かれる阿部完市のことばが興味深い。
私は、私の心というものを--いつも何かきまりきって考え、同じ答えを出し、同じ行動を示させる--をあまり信用しなくなった。「今まで」でない「今」を、「今までの心」でない、心の「今」を、真実の「今」をみたい思いたい。
興味深いのだが、出典(参照)の表記がない。この手の遺漏はどうにかならないものか。
(阿部完市には)反復性、意味性、ないし構築性といったような現代的な言語表現の特性を、さまざまな方法で揺さぶるような作品が多くある。(宇井十間・上掲)
いわば紙の上の印字に定着しない一回限りのテクスト、という把握。

さらに「アベカン、眼中の一句」として、池田澄子、酒井弘司、塩野谷仁、鈴木明、鳴門奈菜5氏の短文と愛誦15句が並ぶ。5氏全員が「愛誦15句」に収めたのはざっと見て次の3句。

  少年来る無心に充分に刺すために
  ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん
  栃木にいろいろ雨のたましいもいたり

まぎれもない代表句ということになるのでしょうが、私などは1句目の「少年来る~」は良さがまったくわからない。選が「時事」に流れたとは思わないが(なにしろ5氏全員、満票なのだ)、他の多くの句に備わる不思議な感触のない直截的な句だけに、いまひとつ納得が得られないでいます。

さて次は金子兜太講演録。これについてはすでに「豈weekly」誌上での関悦史氏による詳細レポートがあり、いま読み比べてみても、関氏のレポートは抄録をはるかに超えて、今回の「公式記録」に遜色はない。あらためて驚愕。

この講演でトピックと思ったのは、すでにいくつかの場所(ブログ等)で指摘のあるように、高柳重信の「前衛俳句」への貢献を大きく評価している点、物と情(こころ)の二元論にかなりの重点が置かれているところ、この2点。まとまりのある話とはいえませんが、話題豊かな講演だったようです。

(さいばら天気)


【参考リンク】
週刊俳句・追悼阿部完市
週刊俳句・現俳協シンポジウム「前衛俳句」は死んだのか
ウラハイ・「前衛俳句」は死んだのか・その後

2009年5月28日木曜日

2009年5月27日水曜日

●祐天寺写真館13 木魚のほおかむり

〔祐天寺写真館 13〕
木魚のほおかむり

長谷川裕


ぼくの おなかは
ぼんのうが いっぱい
ぼんのうは たたくと でていくよ
だから みんなが たたくんだね
ぽくぽくぽく

Canon IXY DIGITAL 320 5.4-10.8mm F2.8~F4.0

2009年5月26日火曜日

●五月雨をあつめて早し最上川

五月雨をあつめて早し最上川

2009年5月24日日曜日

〔ネット拾読〕殿山泰司がやたら心にしみてくる夜

〔ネット拾読〕
殿山泰司がやたら心にしみてくる夜

さいばら天気


新シリーズ「ネット拾読」の第2回です。繰り返しますが、タイトルに意味はありません。

まずは身近な話題から。句会の話です。
でも、個人的に結構凹んだことがあって(点が入らなかったことよりも)、
それは選が人とほとんど被っていないこと! 高点句を書き留めてもいなかったし。
●仮名句会5月 2009-05-16 from wwwqpwww
http://ameblo.jp/wwwqpwww/entry-10262437554.html
選(評価)が句会全体と自分で大きく食い違うという経験は、誰にもある。これを、どう解するべきか。ごく普通の退屈なことを言えば、先生のような存在の人がいるなら、その人の選と自分の選を見比べればよい(結社の句会はこれが基本なのだろう)。そうした人がいない互選句会でも、自分で「目利き」と決めた人の選を参考にするなど方策はある。ま、このあたりの処置法は人それぞれだろう。

いずれにしても、あまりに自分の選が浮くようなら、そこには2通りの事情があると思っていい。ひとつは、自分の選がまずい、というか違う方向という事情、もうひとつは他の人の選が違う方向という事情。シンプル。

他の人たちと似通った選をする必要はないが、いつもいつも遠く隔たっているようなら、それは「人それぞれ」というのではなく、句座の不幸(自分にとって幸福な句座ではない/句座にとって幸福な自分ではない)と解することができそう。

しかしながら、そんな悩みっぽいこともあるから楽しいという面もあります。句会とは、ほんと、うまいこと考えられたゲームですね。

 * * *

5月13日、東京・神田一ツ橋の学士会館で催された現代歌人協会の公開講座「モダン vs ポストモダン/時代はどう超えられるか」についての記事。
短歌における自分のポストモダン観は単純なものだ。明治以後、短歌否定論が何回か繰り返された。否定されたその内容は、近代の社会や近代人の複雑化した思想を表現するのに、文語や定型の短歌には限界があるということ、つまり、短歌はモダンではないということである。否定論のたびに、新しい短歌の表現が模索された。最後の否定論は、戦後の第二芸術論で、これに応えたのが前衛短歌である。以後、この種の否定論は出ていないので、暫定的に、前衛短歌の時点で短歌のモダン化が完了したと考える。一方、ポストモダンとは、長期間にわたってモダン化した短歌から逸脱しようとする意識、あるいは実際に逸脱した表現だと考える。一九八〇年代の女歌やライトバースは、たぶんこれに該当するだろうし、一九九〇年代のニューウェーブについても、自身が渦中にいたので客観的な判断はできないが、やはりポストモダンの範疇に入るものだと思う。
●2009年5月13日(水)2009-05-13 from ogiwara.com
http://ogihara.cocolog-nifty.com/biscuit/2009/05/2009513-6c35.html
コンパクトかつ明快な解説。門外漢にもざっくりとは理解できた気になる。

一方、俳句側からの講座見聞録はこちら。
(…)「里」2009年4月号(だっけ?)に、上田信治さんが、坪内さんの「三月の甘納豆のうふふふふ」をポストモダン的だと言っていたのを思い出す。そして、ポストモダンは、過去のある時期の潮流だった、とも。
だから、きっとポストモダンの後続世代というのは、ぜったいにあるのだ。
●で、ポスモって何? 2009-05-13 from 鯨と海星
http://saki5864.blog.drecom.jp/archive/412
ブログ書き手の神野紗希氏が参照した上田信治氏の一文(成分表)では、ポストモダンを一過性の文化流行と捉えている。
ポストモダンという言葉があった。あれは1980年代だから「ひょうきん族」とか浅田彰の時代だ。好んで使われたのは「大きな物語の終焉」というフレーズで、ものごとの良し悪しを一元的に判断できる価値基準はもう無いのだ、というような話だった。(『里』2009年4月号・通巻73号)
思い出せば、たしかに1980年代前半に湧き起こり、80年代後半には早くも廃れ始めた短い文化流行と捉えられなくもないが、ポストモダンというカタカナ語がさかんにマスコミの話題にのぼったという狭くて卑近な面ばかりでなく、構造主義や文化相対主義といった文化人類学ほかによる学問成果を背景にした概念としての「ポストモダン」にも、不案内なりに一瞥をくれるなら、「ああ、そういうの、あったよね」といったノリではなく、少し正面から考えてもいい問題だと、私自身は思っている。

なんてことを言うと、「しちめんどくさい」と煙たがられて、その雰囲気こそが、ポストモダンを一時の文化流行として消費してしまった80年代と、それ以降の心性なわけで、それはそれと承知のうえで、いや、しかし、「大きな物語」もその「終焉」も、実はそれほど軽い話題ではないのですよ、と、ちょっと真顔で言ってみたくなる。

例えば「ポスト・ポストモダン」といった代物が、言葉の遊びならともかく、実体をともなって、となると、それほど気軽に登場するものでもないだろう、と踏んでいるのだが、それはそれとしても、前掲ブログ記事中で「ポストモダンの後続世代」という言い方には、「ポストモダンって世代なのか?」と、しょうじき吃驚してしまう部分がある。とはいえ、これも、ポストモダンが80年代の流行語に過ぎないなら、世代と捉える考え方もありうるのだろう。

けれども、神野氏が「新しい物語の構築への意図がある」として挙げた…

「水菜買いにきた」
三時間高速を飛ばしてこのへやに
みずな
かいに。         今橋愛

…ほかがいずれも、それこそきわめて「ポストモダン的」(文芸脈絡でのポストモダン的)であるように思える。ただし、このあたりは難しく微妙。

で、話が空中分解する前に(もう、してる?)、俳句はどーなの?というほうへ。

小野裕三氏の記事に、ちょうどいいのがあった。
本当は八十年代か九十年代に「前衛運動」を乗り越えるものとしての「ポストモダン俳句」運動があってしかるべきだったのだ。それが起きなかったために、「新傾向」「新興俳句」「前衛俳句」と続いてきた俳句革新運動が「一回休み」のような状況になった。そのことが、今「前衛」という言葉を巡って起きている混乱の根本にある。
●仁平勝『俳句の射程』 2009/05/14
from ono-deluxeの空間
http://www.kanshin.com/diary/1816326
俳句の世界にポストモダンは訪れなかった、というわけだ。別の歴史認識ももちろんあるだろうが、私自身は、小野氏の言うとおりなのだろうな、と思っている。

ここから思い切って言うなら、短歌や俳句がそれまで纏い、依拠してきた「大きな物語」とは「詩」ではないかと考える。「それまでの詩」と呼んでもいい。詩が終わったあとの短歌・俳句、それまでの詩が終わり、新しい詩のなかに置かれるべき短歌・俳句。

短歌では、ひとつには短歌の外部に在ったことばと気分(多くはサブカルチャー的な脈絡にあることばと気分)を取り込むことで、伝統/前衛というモダン=それまでの詩とは違うポストモダン的な作品群が登場した。詩語の編成が一変した、言い換えれば、それまでの詩語が一掃されたのだと思う。

一方、俳句にポストモダンは訪れなかった(上田信治氏に添うなら「三月の甘納豆のうふふふふ」を除いては)。それは何故か。わからないが、憶測すれば、アルチザン(伝統派)とアーティスト(前衛派)双方が、「大きな物語=詩」という牙城を守りきり、今もその状態のままなのだ、ということかもしれない。

ポストモダンという、ややこしいことを、やめておけばいいのに書き始めてしまったものだから、無用に記事が長くなってしまった。反省。

いや、私だって、ふだんは距離を置く話題なのです。ポストモダンについて議論が熱くなってきたら、あるいは、なんだかちゃらちゃらと知的っぽい話が始まったら、

  新築のポストがモダン南風

…などと一句捻り、隣から「いや、そうじゃなくって」とツッコんでもらうほうが、よほど趣味に合っているのですが、いちおう「拾い読み」という記事を書かねば、ということで。

はい。読者の皆様に置かれましては、読み捨て、で、お願いいたします。

 * * *

俳句とは無縁のブログにも触れます。

●永江朗と松岡正剛の「明日の出版」 2009-05-23 
from 編集集団140Bブログ
http://www.140b.jp/blog/2009/05/post_397.html

出版事情というよりメディア事情。

まず永江朗「若者と書店 置き去りの末」(朝日新聞2009年5月21日夕刊)からの引用。
たとえばいま、学生たちのあいだではフリーペーパーづくりが盛んである。(中略)書き手・作り手の側に立ちたい者ばかりのカラオケ化かと思いきや、読む方も熱心だ。彼らは同世代が何を考えているのかに強い関心を持っている。私がいま20歳の学生だったら、フリーペーパーとインターネットと携帯電話があればそれで充分だと思うだろう。
新聞・雑誌が読まれなくなった、というとき、入れ物としてのメディアの側面に議論の重点を置きすぎるきらいがある。人が読んでいる/読みたいのは、新聞・雑誌という「かたち」ではなく、内容(コンテンツ)である、という当然の事情。
先月、早稲田の永江研究室にお邪魔した際に、彼がこんなことを語ってくれた。
「大学2年の35人に、免許持ってる人は?って訊いたんです。するとねぇ、手を挙げた人はたったの2人。新聞購読率は3分の1ぐらいだったかな。免許より多い? でもマスコミを専攻している学生ですよねぇ……で、もっとスゴいのはドラマ見ている子が1人しかいなかったこと」
興味深い事実です。

 * * *

この「ネット拾読」は毎週日曜日・掲載予定。書き手は変わるかもしれませんが、せいぜい続けたいと考えています(深夜枠=ウラハイからゴールデンタイム=本誌・週刊俳句への昇格も、長い目で目論んでいたりしますが、その一方で、打ち切りとなり個人ブログに撤退という事態にも、心の準備はできています)。

2009年5月22日金曜日

●シネマのへそ09 三文役者 山田露結


シネマのへそ09
三文役者 (新藤兼人監督・2000年)

山田露結




愛すべきダメ男。

酒、女、ジャズ、ミステリー小説、そして芝居。

破天荒で天衣無縫なバイプレイヤー、殿山泰司の半生を描いた伝記的映画。

自虐的とも思われるアルコール漬けの日々、そして死ぬまで続いた妻と愛人との三角関係。


しかしながら、ダメ男ってやっぱりキュートなのです。

こんなにも滅茶苦茶な人生がこんなにもステキに描かれるなんて。


殿山泰司役を竹中直人が怪演。

愛人役の荻野目慶子のオッパイぽろりには思わず「やったー!」です。


役者バカ度 ★★★★★
アルコール度 ★★★★★

2009年5月21日木曜日

●シネマのへそ08 夫婦善哉 山田露結


シネマのへそ08
夫婦善哉 (豊田四郎監督・1955年)

山田露結






「タリないお馬鹿さん」をやらせたらアンナ・カリーナしかいないだろう、と思っていたら日本に淡島千景がいた。

原作は織田作之助の有名な小説。

映画の中に描かれている大阪の町並が何とも美しい。

船場の化粧問屋のぼんぼんで遊び人の柳吉(森繁久彌)は曽根崎新地の芸者・蝶子(淡島千景)と駆け落ちをする。

生まれながらのぼんぼん気質でダメ男の柳吉を芸者をしながら面倒を見る蝶子。

惚れた男に尽くす女のけな気な姿がタマリマセン。

そして、当時流行語にもなったという「おばはん、たよりにしてまっせ」という柳吉の台詞。

女に世話を焼かせるダメ男に憧れてしまいます。

「自由軒」のカレーが食べたくなる。


放蕩度★★★★★
人情度★★★★★

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(歌仙「百年」「百号」が200個突破です)

2009年5月20日水曜日

●祐天寺写真館12 囚われのイグアナ

〔祐天寺写真館 12〕
囚われのイグアナ

長谷川裕


あっ はらぺこの いぐあなだ
にげろ にげろ きんぎょくん
たべられてしまうぞ
ううん だいじょうぶだよ
だって くさりにつながれているもの

RICOH GRD 5.9mm F2.4

2009年5月17日日曜日

〔ネット拾読〕塩昆布さえあれば茶漬け三杯はいける

〔ネット拾読〕
塩昆布さえあれば茶漬け三杯はいける

さいばら天気


インタネット上の俳句関連記事(ブログ等)を拾い読むという新コーナー。昔ならネット・サーフィン(死語!)だが、今は「RSS」という便利なものがある(この語がわからないという方は検索で調べてください)。いわば記事クリッピングサービス。登録しておけば、新しい記事を知らせてくれる。私は「はてなRSSリーダー」(http://r.hatena.ne.jp/)というサービスを使い、俳句のほか時事記事も、これを頼りに閲覧している。

なお、〔ネット拾読〕の下に付したタイトルには意味がない。複数のブログ記事を断片的に紹介するこの記事には全体を貫くタイトルが付けようがないので。


●海図のアポリア 2009/04/08
from Tedious Lecture
http://haiku-souken.txt-nifty.com/01/2009/04/post-34b1.html

橋本直さんのブログから1本。前半は4月4日神奈川近代文学館で催されたシンポジウム「虚子の客観写生」のレポート、後半は小誌「週刊俳句」第102号掲載の「前衛俳句は死んだのか」についての記事に触れる。雑記風の筆致ながら読み応えがあります。

ここでの「海図」が小川軽舟著『現代俳句の海図』が踏まえたものであることは明らか。雑駁にせよ精緻にせよ俳句の海図を描き出すことはアポリア(難題)である。虚子=ホトトギスと前衛俳句とを仮に両極とする海図もまたとうぜん考え得るわけで、そのすると、小川軽舟氏の「海図」は、良い意味でも悪い意味でも「大洋」よりむしろ静穏な「内海」の海図であったかもしれない。
(客観写生の可能性について)岸本さんは 虚子、素十、素逝らの例句をいろいろあげて客観写生表現を説明し、100%は無理だがまだまだ行けるという風なことを仰った。主観は消せないが読む人によってぶれないことばを使う、とも。思うに、この「ぶれない」ということへの信頼と態度の問題が個々の差異のモトになるのだろう。これは〔信じる/信じない〕と〔やる/やらない〕のマトリックスで四つの態度があり得る。
後半からも引いておく。
今回のシンポを含めて、カッコ付きの「前衛俳句」について、それが何であったのかを定義していくことの困難よりも、そのような「前衛俳句」(あるいは「客観写生」)をめぐる言説の構造について論じる方がよほど面白いだろうとは思う。
その「よほど面白い」実例として、「和漢の儒家の「鬼神論」の解釈論的な知の構図のありよう」が参照される。
例えば諺では「鬼神」やら「怪力乱神」を語らないはずの儒家達の、有鬼・無鬼(有季・無季みたいでしょ)についてとってもべらべら論じているその態度のラディカルさ加減といったらこれぞ風狂って感じでたまらないのである。
例えば「こころ」という概念がある。ここからは、曲解・誤解・不適切な単純化の誹りを怖れず言うのだが、「こころ」という文学者も心理学者も誰も最終的な(究極の)定義を為し得ない代物について、ひるまず定義を試みるよりむしろ、「こころ」について何が語られたか(その言説の集積は実際おそるべき膨大さである)を、眺め腑分けし定位していく作業のほうが実りが多い、といったことがある。

「前衛俳句」という言葉が指示するものが人と脈絡と時代によってぶれにぶれ、定義の困難・不可能性がますます顕著になっていき、そこから生じる紛糾に頭を悩ませるとしても、それはそれとして「語られることの豊かさ」に目を向けるべきということか。


●鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ 林田紀音夫 2009/05/11
from 僕はどんな夢を抱かなかったか
http://sternskarte.blog.drecom.jp/archive/459

表題の有名句に「今の自分の気持を自分が忘れないために、消える鉛筆ではなく、消えないペンで書くのだ」という一般とは異なった福永法弘の解釈があることを、栗林浩『続俳人探訪』から引いて紹介。鉛筆かペンか。ペンというのは意表として興味深いが、無理があるように思った。


●列島最後の桜 2009/05/12
from 無門日記
http://blog.livedoor.jp/mumon1/archives/51166397.html

小誌「週刊俳句」第107号掲載の「季語って何だ!?」に触れ、「9月11日」を取り上げる。
「9月11日」という日付の持つ何らかの力は、おそらく今後50年程度は生き延びるのではないか。しかし、この日付が人々に与えるイメージは、原爆忌などとは大きく違っているように思う。これをテロによる人類の悲劇と受け取る人もいるはずだ。しかし同時に、アメリカの身勝手な被害者意識を煽った日、という受け止め方もかなりあるのではないか。9月11日に匹敵するほどの惨事を世界中にふりまいているのが米国という存在であれば、なぜこの日を特別なこととしなければならないのか、という意見だって当然あるはずだ。
書き手の五十嵐秀彦氏は、「9.11」に関する認識について相対化、多視点を提示する。納得である。となると、この「新季語」の「本意」とは?

私個人としては「新季語」認定というものにまったく興味がないが、「9月11日」が季語として論議され、題詠の対象とされていることには、そうとうの違和感をもつ。

この日、直接の被害者としておよそ3000人が死に、この日の出来事に連なる長い時間のなかでさらに膨大な人が死んでいったという歴史があり、この日を契機にしたアメリカの行動のなかでさらに膨大な人が死に、これからも死んでいく現在と未来がある。死者だけを言うのではない。「他者からの攻撃による死」を、なんらかの大きな不幸の、わかりやすい一側面、一結末として挙げたに過ぎない。前掲、五十嵐秀彦氏によるふたつの観点の並置は、そうした事実認識を含むものと解する。

「9.11」を俳句に盛り込むには、それなりの覚悟が必要だろう。「季語になるか、ならないか」といった論議、題詠は、暢気な座興にしか映らない。

善人ぶるつもりはないし人道主義者でもない。反米でも親米でもない。見識があるわけでもない。しかし、慎みというものを人並みに知っているつまりなわけで、重大な事案について「黙する」という態度もまた、節度ある行動のひとつだと思っている。

2009年5月16日土曜日

●『週刊俳句』読者マップ

『週刊俳句』読者マップ
アクセス元(直近1カ月間)データ
google analytics による

今後の重点強化地域は、北海道東北部、仙台あたりでしょうか(笑。

ともあれ、全国からたくさんのアクセスをいただいております。あらためて多大なる感謝であります。

2009年5月15日金曜日

●シネマのへそ07 パリ、テキサス 山田露結

シネマのへそ07
パリ、テキサス Paris, Texas
(ヴィム・ヴェンダース監督/1984年)


山田露結




愛するって何なのだろう。愛されるって、いったい…。

本当に大切なものを失ったとき、人はどうなってしまうのだろう。

そもそも本当に大切なものとは?

記憶を失い、言葉を失い、廃人となって放浪する主人公が息子と再会し、失踪した妻を探す旅に出る。

荒寥としたテキサスの砂漠を覆うようなライ・クーダーのスライド・ギターが鳴り響く中、映画は何ともやるせない愛の形を静かに静かに映し出していく。

映画を見た後、もう一度「愛」について深く考えてみたくなるのです。


寂寞度 ★★★★★
空虚度 ★★★★★


2009年5月14日木曜日

〔俳誌拝読〕ぶるうまりん第11号

〔俳誌拝読〕
ぶるうまりん 
第11号(2009年4月30日発行)70頁



須 藤徹氏が編集・発行。同氏による編集後記に、2008年12月、第10号をもって5周年を迎えた旨。「私がこの五年間で努力したことは、何よりも作品中心 の会にすることで、そのためにひたすら句会を運営してきた」とある。今回拝読した第11号も俳句作品を多く掲載。須藤氏による巻頭40句、特別作品30句 が2つ、同人9氏が20句ずつ。

作品傾向(という言い方自体ざっくりとしすぎて不本意だが)は、伝統俳句か現代俳句かでいえば明らかに後者、「俳」か「詩」かでいえば後者。無季の句も多い。以下、何句か気ままに。

  はっけよいああ白居易を脱臼し 須藤徹

  猫みかん三日月うるうる  野谷真治

  広辞苑くる日くる日も蜻蛉のやう  浅井一邦

  冬蚊とぶ延床面積の右側  杉山あけみ

  あじさいの末枯れ俳句のスイッチバック  平佐和子

上に掲げなかったが、あえて、だろう、生硬にドラマチックな仕立て、現代詩・現代俳句に頻出する概念語、主情的な語を思いきりよく盛り込んだ句も多い。

俳句作品のほか、巻頭近くに特集「芭蕉の晩年」。ゲスト執筆者を含め4氏の論考。


小野裕三氏による『ぶるうまりん第11号』評は≫こちら
須藤徹氏のブログ「渚のことば」は≫こちら

(さいばら天気)

2009年5月13日水曜日

●祐天寺写真館 11 緑に白く

〔祐天寺写真館 11〕
緑に白く

長谷川裕

まちはだれでも げいじゅつか
どこにかいても いいんだよ
みどりにしろが きれいだね

あっ おまわりさんだ
おこられるぞ にげろ にげろ

RICOH GR Digital 5.9mm F2.4

2009年5月11日月曜日

●中嶋憲武 ねむりひめ

〔中嶋憲武まつり・最終日〕
ねむりひめ

中嶋憲武


ヒヨミは寝ている。

むかし、「ライオンは寝ている」というタイトルの曲があったが、この場合、ヒヨミは寝ている、というのが概ね正しいだろう。

5センチほど開けてあるアルミサッシの戸から、夜の風が入ってきてレースのカーテンを、ときおりまるく持ち上げている。室内はすでに限りなく透明に近いブルーだ。

俺は、いい加減眠るのにも飽きて3時頃むくむくと起き、服を着て、ヒヨミがまだ寝ていたので、ひとり散歩にいった。小一時間ほど歩いて戻ってくると、まだヒヨミは寝ていた。

すぐ下の階の住人は、どかんどかんとロックを鳴らしている。テーブルで本を読んでいたが、腹が減ってきたので、ゆうべ寝る前にヒヨミが、明日はオムライスが食べたいといっていたのを思い出し、オムライスでも作ってみようかと冷蔵庫を開けた。卵はちょうど4個。野菜室には、ピーマンとタマネギ。ケチャップも充分にある。鶏肉が無い。仕方なく買い物に出た。

買い物から戻ってみると、ヒヨミは寝ていた。階下の住人は、ロックを鳴らすのをやめて、ラジオでナイターを聞いているらしい。それにしてもよく寝るやつだ。肩甲骨を剥き出しにしてうつぶせに寝ている。

卵を割って、ボウルに移し、菜箸で切るようにしてよく溶く。かちゃかちゃかちゃかちゃ。菜箸がボウルに当たる音が、白い蛍光灯に響く。かちゃかちゃと卵を溶いていると、ヒヨミが起きてきた。ヒヨミは俺の隣に立つと、「なに作るの?」と聞いた。「オムライス。顔洗ってきなよ」というと、ヒヨミは「わーい」と、洗面所へいった。

ヒヨミが隣で、タマネギを刻んでいるあいだ、俺は鶏肉を切っていた。
「泣けてくるよう」といいながらヒヨミは刻んだ。
「俺のゴーグルをするといいよ」
「そっか」
ゴーグルを取ってきて掛けると、
「ペバーミントいろの夜になりました」といいながら刻んだ。

ヒヨミの刻んだタマネギとピーマンと、俺の切った鶏肉を塩コショウで味付けしながら炒め、鶏肉がもういいかなと思えてきたころ、ご飯を入れて炒めた。ヒヨミがケチャップを振りかける。「もうすこし」というと、ケチャップの出が悪いのか、ヒヨミは大仰にケチャップを振ると、いちどきに多量のケチャップが出て、フライパンのまわりに飛び跳ねた。俺の額へもすこしかかった。

「出過ぎちゃったかしら」
「よい具合です」
「偶然だね」
「そうだね」

もうひとつのフライパンに油を引き、さっき溶いた卵をまるく流し込み、へらで掻き回す。ここへ炒めておいたチキンライスを落し、フライパンを持つ手首のあたりを、こぶしでとんとんとする。傾けているフライパンの端に、卵にくるまれたチキンライスが徐々に寄っていき、頃合いを見計らって、えいやっとフライパンを返すと、楕円形のオムライスのかたちになっている。ヒヨミが用意した大皿へオムライスを移す。

大きな白い皿ふたつに、黄色い楕円形のオムライスがそれぞれ載っている。ヒヨミがケチャップを持って、俺のオムライスの上に顔を描いた。アーモンド型の平べったい笑い顔だ。俺はヒヨミのオムライスの上に猫を描いた。なんだか細長い猫の顔になってしまった。

「いただきます」
「いただきます」と、ヒヨミは胸の前で両手を合わせた。
「やっぱり、ちょっとケチャップの味が濃いね」と、ひとくち食べてヒヨミはいった。
「いや、こんなものだよ。八重洲で食べても」
「え?八重洲?知らない。ひとりで行ってるんだ」
「こんど、行こうよ」
やはり空腹であったのか、俺とヒヨミはたちまちオムライスを平らげてしまった。

「延長に入ったみたいだよ」
と、ヒヨミは紅茶のティーバッグの紐を持ってゆすりながらいった。階下の住人のラジオがずっと野球放送を流しているのだ。ヒヨミは、ティーバッグをスプーンの上に乗っけると、紐をティーバッグへチャーシューを作るみたいに、ぐるぐる巻き付けて絞っている。
「それ、気持ちわるいよ」と、俺はいった。

ふたりで紅茶を飲んでいると、満腹になったせいかすこし眠くなってきたようだ。ヒヨミもあれだけ寝たのに、眠いといっている。

「すこし、横になるか」といいながら、隣の部屋へ行った。

ヒヨミと向き合って横になっていると、野球は佳境に入っているようだ。解説者とアナウンサーが声高になにかを喋り合っている。目をつむりながら、野球場の様子を想像してみた。ノーアウト満塁ツースリー。アナウンサーが興奮して絶叫、また絶叫。

「ヒヨミ、さよならホームランだって」と、俺がいうと、ヒヨミはもう小さな寝息を立てていた。

2009年5月10日日曜日

●中嶋憲武 小池さんのラーメン

〔中嶋憲武まつり・第24日〕
小池さんのラーメン

中嶋憲武


南千住で降りる。改札を出るとすぐに、歩道橋の大きな丸い柱。ちょうど、昼時でどこかで飯を食おうとあたりを見回したが、駅前には何もない。大通りにも車は少なく、それらしい建物が見えないので、ちょっと行ったところの横町を曲がる。布団屋、総菜屋などの店が並び、そば屋があったが、店構えが気乗りのしない店で、ちょっとパス。もうちょっと探してみようと歩く。

前方に見知った人影が歩いている。ジュールとマリーだ。100メートルほど離れていたが、忽ち追い付いて、こんにちはというと、ジュールが、そば屋がないんだよといった。ぼくがさっきのそば屋、入る気がしなかったというと、ジュールも俺もだといって笑った。

結局、三人でもと来た道を引き返す。さっきパスしたそば屋はかけそば280円という貼り紙が出ていたので、値段に惹かれてその店に決める。マリーが戸を恐る恐る開け、出て来たおじさんに、そば、ありますか、やってますかと聞くと、おじさんは、そばはやってないといったので、戸を閉める。

そば屋の前から、もと来た道を5メートルほど引き返し、人がわりと入ってる中華屋のなかを覗く。マリーが、オムライスとかカレーもあるよ、といい、ジュールもここにしようかというので、中華に入ることにする。店のなかには、近所のご老人の常連と思われる人がカウンターに5、6人、奥にご婦人がひとりいる。棚の上にテレビが点いていて、カウンターの上にサトウハチローの色紙が貼ってあり、テレビの横の棚に、中華街で買ってきたと思われるこじんまりとした中華ふうの装飾品が「うちは中華料理屋です」と申し訳のようにぶらさがっている、そんな店だ。

マリーはオムライス、ジュールはたんめん、ぼくは半チャンラーメンを頼んだ。

三人で上を向いて、テレビをぼうっと見る。注文した品はなかなか出て来ない。厨房のなかは、グッチ祐三が老けたような親爺さんがひとり。ジュールが、問わず語りにこんな話をする。中華に入って、餃子とビールを注文すると、ビールがすぐに出てくる。ビールを飲んでいると、餃子がなかなか出てこない。餃子が出てきたころにはビールが空になっていて、もう一本注文することになる。そこで、つぎに入ったときには餃子を先に注文してみたら、餃子がなかなか出てこない。店の親爺と我慢比べのように牽制しあって、根負けしてビールを注文する。そしてビールを飲み終わったころ、やっと餃子が出てくるので、もう一本ビールを注文する。いずれにしろ、餃子とビールを注文したときは、ビールを二本飲むような仕掛けになっているのだと。そんなものですかねえと笑っていると、料理が出てくる。

マリーがオムライスをひとくち食べて、なつかしい味といった。オムライスは見ためはフヨウハイのような卵のかんじである。中身のチキンライスもすこしはみ出ている。ケチャップは、まんなかのあたりで、一文字に横切っている。ケチャップの横切っている春の昼ってかんじで。マリーにひとくちもらう。タマネギや肉がかなり大きく切られているが、なるほど、悪くない。むかしどこかで食べたような味である。

ぼくの頼んだ半チャンラーメンも悪くはなかった。ラーメンのスープは醤油味で濃いめ。四角く刈り込まれたチャーシューと四角く切られた海苔、ほうれん草と葱がちょいちょいと乗っかって、ナルトが一枚。それぞれの具が、浸食せず、すこし隙間があるくらいの距離感のたたずまいを見せている。この隙間のかんじはなんだか懐かしい。むかしオバケのQ太郎で小池さんが食べていた、あのラーメンのたたずまいではないか。面はやわらかめでややちぢれている。小池さんがラーメンを食べているのを見ると、不思議とラーメンが食べたくなったものだ。小池さんのラーメンにはとくに具は入っていないように、記憶しているが、このすかすかな感じが、まさに小池さんのラーメンだと、ほぼ確信して啜る。

三人で店を出て、もう一度店をふりかえる。

2009年5月9日土曜日

●中嶋憲武 DOKUTSUBO『真剣師 小池重明』

〔中嶋憲武まつり・第23日〕
DOKUTSUBO~読書のツボ
真剣師 小池重明

中嶋憲武


『真剣師 小池重明』団鬼六著(幻冬舎アウトロー文庫)。

ひとは、桁外れに強いもの、ずば抜けた才能などに、特に強く惹かれるようである。

ひさびさに面白いものを読んだ。2日で読了。
1989年に団氏は断筆宣言をし、この作品によって1995年に復活した、いわば記念碑的な一作だ。団氏のものは、「花と蛇」「鬼の花宴」「お柳情炎」など悪魔的な小説のイメージが強く敬遠する人はするだろうけれど、この作品や、「蛇のみちは」(団氏の自伝)、「外道の群れ(責め絵師伊藤晴雨伝)」「最後の浅右衛門」など自伝や歴史上の人物に焦点を当てたものなど、時間を忘れて読んでしまうくらい面白い。最近出た「我、老いてなお快楽を求めん」というエッセイ集は痛快無比な面白さで、電車のなかで読んでいて思わず声を出して笑ってしまった。

さて、この作品であるが、「真剣」とは賭け将棋のことで、「真剣師」とは、賭け将棋で渡世するギャンブラーの謂である。

父は偽の傷痍軍人を業とし(業というのか?)、母は娼婦という家庭に生まれた。将棋は高校のころに目覚め、その面白さに憑かれ学校の勉強そっちのけで猛勉強。「将棋で生計を立てたい」という一心で高校中退。上野の将棋センターに住み込みの従業員として働きながら、将棋の腕を磨く。と、こう書いていくと青雲の志を立てて、上昇していく立志伝のようであるが、そうは行かないのが小池重明という孤高の天才棋士の生涯。

あまりに強かったがゆえの悲劇か喜劇か。将棋以外は何も出来なかったという文字通りの天才。生活の軌道が乗っていったかと思うと、必ず女性や借金の問題で挫折を繰り返す破滅型性格。プロを目指すも、プロにはなれず、常に退廃的な自堕落な生活を選んでしまう性癖の持ち主。自分にそういう傾向があるせいか、このような人物は、ぼくにとっては大変魅力的である。

一睡もせずに対局に臨み、対局中に居眠りしながらも勝ってしまったり、スナックで酔って暴行事件を起こし、留置場でひと晩眠り、翌朝留置場から会場へ向かい、大山康晴名人と対局するも短時間で勝利してしまったり、真剣師として彼に勝てる者はなく、「新宿の殺し屋」と異名を取ったり、世話になった恩人の金庫から金を持ち逃げして女性と駆け落ちしてしまったり、とにかくエピソードには事欠かない一生である。多くの人に愛され、多くの人に憎まれた男の一生に、惜しみない賛辞を送りたい。



2009年5月8日金曜日

●中嶋憲武 4B

〔中嶋憲武まつり・第22日〕
4B

中嶋憲武


仕事なので、いつも通り6時に起きる。

左腕が義手のように硬く強張っている。

寝違えたかな。いや、思い出した。

そういえばゆうべ飯を食ったあと、うたた寝をしていたら肩口のところから一本の鉛筆になってしまったのだった。

ちょうど中指の先に当たる位置のところはまっ黒な芯になっていて、鋭く尖っている。暗澹とした気持ちになる。おまけに外は雨が降っているらしい。

今朝食べようと思って、昨日の夕方パンとピーナツクリーム、バナナ、ヨーグルトを買っておいたのだが、どうにも食べる気になれない。

しげしげと左腕をみると、暗緑色のてかてか光る六角形の木の棒が、ずどーんと伸びている。うっすらと木の香りもする。くんくんと嗅いでみる。いい香りだ。春だ、という気分になる。鋭く尖った芯のほうから、黒鉛の香りもするようだ。紛れもなく鉛筆だ。

肘が無くなってしまったので、すこぶる難儀だ。服の袖を通すことが出来ない。上腕から眺め回すと、白い字で「GENERALWRITING」と書かれてあり、肩のあたりに「4B」と書かれてあった。

「俺は4Bか」と、ぼんやり思った。

最近ずっと、絵を描いていないので、きっと絵の神様のバチが当たって、左腕が鉛筆になってしまったのかなと思ったけれど、なんで?どうして俺が?

なんとか右腕で上着を引っ掛けて外へ出た。

腕を通していない左袖は、風に吹かれてぷらぷらしている。右手は傘を持っているので、バランスが悪い。人間は歩くとき腕を振らずに、歩くことが出来ないように出来ているらしい。左腕を振り子のようにして、中指を立てて歩いている感覚がある。

電車の中では、座ると左腕の置きどころが無いので、立っていることにした。土曜日の朝なので、JR山の手線は、比較的空いていて、俺の腕をじろじろと見る人もいない。

勤め先に着くと、恋人のヒロミコがデスクに座っていた。

なんとなく沈んだ様子だったので、近づいて行って「おはよう」と声をかけると、ヒロミコは赤墨色の瞳をあげて俺をみると、
「今朝から2Hになったの」と意味不明なことを言いやがるので、まさかと思って、「そんなら、俺は4Bだ」と言うと、ヒロミコはにっこりとして、羽織っていた紺のスーツの上着を取ると、俺のほうに左腕を差し出した。

ヒロミコの左腕も鉛筆だった。ペパーミント色の地に三角形のコーリン鉛筆のマークが入っていて、肩口のあたりに「2H」と書かれていた。

俺も左腕を見せた。ヒロミコは、
「まあ、本当に4Bね。あなたって、やわらかいのね」と言って笑った。
恋人にやわらかいと笑われた俺は、俺だって、いつだってやわらかいわけじゃない。硬いときだってあるんだ。と、叫んでやりたかったが、フェミニストを気取っている俺は、ぐっと堪えて「君はおカタイんだね」と、誰が活けてくれたのか卓の花瓶のヘリオトロープを見やりながら言った。

言ったあとで、甘い香りがほんのすこしした。

2009年5月7日木曜日

●中嶋憲武 シモキタ

〔中嶋憲武まつり・第21日〕
シモキタ

中嶋憲武


下北沢へいった。

晩春の夜、知人の家の水槽の水替えを手伝った。水槽の水は生温かった。水槽の水がだんだん下がると、小さな魚たちは口々に、天井が下がってくるよ、どうしよどうしよ、この世のおわりだーと言っているように見え、水を入れて水位がだんだん元の通りになると、魚たちは勢いよくのびのびと泳ぎはじめ、新しい朝がきた、希望の朝だ、きゃははははと笑っているように見え、その明暗の落差が傍目に見ていておもしろいのであった。

知人の家を出るとき、ついでに頼まれてくれろと、帰る途中下北沢のレンタル屋へDVDを返すよう言われて、てくてく夜道を歩いていった。

途中、「すかんぽ」という小さなバーがあった。とても繁盛しているようだった。また「AVRIL」という明るい雑貨屋があった。店員が店頭に座り込んでヒマそうにしていた。

下北沢は学生の頃、よく来た町だ。行くのはたいてい決まってレコファン。そこで長い時間をかけて中古レコードを探す。これはという掘り出し物を手に入れることが出来る時もあり、二時間くらいかけて一枚もいいものが見つからないときもあった。そんなときはジャズ喫茶マサコでコーヒー飲んで文庫本を読みながら、午後の時間を潰した。

DVDを返して、もと来た道を戻り、空腹だったので「千草」へ行った。ここは自然食定食屋と銘打っている良心的な店だ。二階は「バーキタザワ」という古いバー。アンクルトリスが看板になっている。ぼくが飲めるタイプであったならば、間違いなく入っていた店だろう。

「千草」は夕食どきで混んでいた。しばらく待つ。席が空いて卓に着き、「厚揚とチンゲン菜のピリ辛煮定食」を注文したが、終ってますと言われた。それで「ぶり焼定食」を頼むと、いまはぶりの季節でないのでやってませんと言われた。ううむと唸り、冬が旬のぶりが無いなら、秋の旬のさんまもないだろうと思いつつ、「塩さんま定食」を注文すると、オーダーはすんなりと通った。有線でダウンタウンブギウギバンドが流れている。多分「知らず知らずのうちに」という曲だ。ダウンタウンが終ると、河島英五の「酒と泪と男と女」がかかった。うしろの席のひとが、「忘れてしまいたいことや」の部分をハミングしている。「飲んで飲んで」の部分に差し掛かると、一緒に歌い、「飲まれて飲んで」のあとは「なんとかかんとか」と歌っていた。

塩さんま定食は旨かった。頭からさんまを食べる。さんまの黒く苦いところが好きだ。みそ汁がお代わり自由なので、お代わりをすると二杯目は熱かった。むかし、豊臣秀吉が近江あたりのなんとかという寺へ、夏の暑い盛り、鷹狩りのあとに寄って喉が渇いていたので、お茶を所望すると、少年が差し出したお茶はぬるく、秀吉はがぶがぶと飲んだ。二杯目を所望すると、少年は熱いお茶を出した。一杯目は喉が渇いているのでぬるいお茶を出し、二杯目はお茶の味をよく味わってもらおうと、熱いお茶を出す少年のその機転に、いたく感じ入った秀吉はその少年を家来にした。少年の名は佐吉と言った。のちの石田三成である。と、いつか琵琶湖あたりをバスで巡ったとき、バスガイドがこういう話をしていたのを思い出した。

熱いみそ汁を飲んでいると、店員さんが「大根おろしもどうですか」と言うので、お代わりを貰った。たいへんに旨い飯だった。満腹になって、駅前を歩いていると、若い辻楽師がフォーク調の歌を歌っていた。その隣には、コミックの単行本を並べて売っていて、店主は長髪に白いタオルを巻き、薄い髭を生やし、ぺらぺらのジージャンを着て、ひとりの学生風を相手になにかのコミックのセリフを声高に演劇調に読んでいるのだった。この光景はイヨネスコの演劇のように不条理なものを感じさせた。

猫が歩いてきたので、声をかけてみた。

「こんばんは」

「……」

猫は終止無言であった。

2009年5月6日水曜日

●中嶋憲武 対象外 10句

〔中嶋憲武まつり・第20日〕
中嶋憲武 対象外

RE:値段俳句7500円(さいばら天気)

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2009年5月5日火曜日

●中嶋憲武 サマーランドまで 後篇

〔中嶋憲武まつり・第19日〕
サマーランドまで 後篇

中嶋憲武



左側に東京サマーランドの観覧車が見えてきた。あそこでお茶でも飲もうと話しながら、歩く。

滝山街道を越えて歩いていると、サマーランドは向こう岸だ。行く手に橋らしきものは見えない。仕方がないので、堰のテトラポッドを伝って行こうかと話す。

河原まで降りて、テトラポッドの配置を見ていると、なんなく渡れそうな気もする。でもテトラポッドの丸っこい三角錐の離れ具合が、微妙な距離で、小さなテトラポッドの上に立つと、バランスも悪く、次のテトラポッドへ渡るには、勢いをつけて義経の八艘飛びのような芸当でもしない限り、渡れないということが判明した。

堰の放水路は3つあって、2メートルくらいずつ離れている。堰を渡るにしても、放水路のところを立ち幅跳びの要領で飛んでも、次の放水路の仕切りの幅が狭く、前へつんのめって川に落ちるということも充分考えられる。正面の山に日が沈んだ。

川を渡るのは諦めて滝山街道まで戻り、橋を渡った。はじめからこうすれば良かったのだ。橋を渡ると、道に山が迫っていて、急に空気がひんやりとして来た。深山のあの独特の香りもする。橋を渡っただけでこうも空気が変るものか。

だらだら坂を登り、サマーランドに着くと、営業時間は終っていた。サマーランド経由のバスを待つことにし、ベンチに座る。日が暮れてしまって、あたりは薄暗くなりはじめていたので、山の冷気も手伝ってすこし心細い。山の冷気は土の冷たさなのだろうか。

最終便のバスに、友人とぼく、女の子の二人連れが乗った。バスは低い山の暗闇のなかを走った。途中から乗ってきた少年が、途中の停留所で降りた。こんなところに民家があるのだろうかというような場所である。少年はぬらりひょんとかべとべとさんだったのかもしれない。

うとうとして目が覚めると、八王子の市街地を走っているようである。駅が見えてきた。

バスを降り、どこで何を食べようか迷った挙句、一番最初に目に付いていたとんかつ屋に入った。とんかつは肉がやや堅かったけれど、まあまあで、量も申し分のないものだった。それに安い。ロース定食700円でございます。
ぼくはロース定食、友人はミックス定食を食べた。

とんかつ屋を出ると、コーヒーが飲みたくなり、スターバックスへ入った。向かいの「そごう」の赤い電器の文字が消えるまでいて、京王八王子駅から京王線に乗った。耳の中ではまだ鷽の鳴き声がしていた。

(了)


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2009年5月4日月曜日

●中嶋憲武 サマーランドまで 前篇

〔中嶋憲武まつり・第18日〕
サマーランドまで 前篇

中嶋憲武



ある夜、「体力強化月間」という件名のメールが届いた。友人からだった。散歩のお誘いだった。

国分寺駅に待ち合わせて、西武国分寺線に乗り、ふたつめの「鷹の台」駅で降りる。ちょうど昼どきなので、目に付いた中華食堂へ入る。つまらないバラエティー番組をやっていた。向かい合って黙々と定食を食べる。

食堂を出て、玉川上水に沿って歩き出す。日がきらきらとして、風も心地いい。この時期の空気は風合いがよい。この間歩いたときの終点だった「玉川上水」駅を通過する。柏町、砂川町、上砂町、一番町と歩く。喉が乾く日だ。いくら歩いてもコンビニエンスストアーの類いが皆目無く、白茶けた日が注ぐ。大きな通りにぶつかり、やっと店を見つけミネラルウォーターを買って飲む。この辺はとても田舎でゴルフコースなどもある。

「ゴルフ、やったことある?」と友人に聞く。
「あるよ。なにが楽しいのかわからんね」

拝島の駅を過ぎて、国道16号線にぶつかったところで玉川上水と別れ、左に折れる。多摩川の支流がいくつもに分かれ、秋川に沿って進む。「マムシに注意」という立て札が目に付く。よほど、マムシが出没するのであろう。心中、密かに草むらから這い出しては来ないかと期待する気持ちもあったのであるが、マムシは出なかった。マムシは出なかったが、轟音がしてジェット機が飛んだ。

「ジェット最終便だね」と、ぼく。
「朱里エイコか」と、友人。

秋川は蛇行しながらのんびりと流れている。川の向こうはなだらかな丘陵で、道もだいぶ草深くなっている。モーテルなども見える。日も傾いてきて、一人ではとてもこんなところは歩けないだろう。いろいろな鳥の声がする。鶯がすぐ近くで鳴いていて、その姿も見えた。口笛のように聞こえるのは、あれは鷽だろうか。

友人は、i-podにスピーカーをつけているので、音楽を聞きながら歩いていた。ミニー・リパートンの「ラヴィン・ユー」がかかった。

「SEがなくても、自然の鳥の声で充分だね」
「そうだね」

友人は突然、スイッチを切ったのでどうしたのかと思ったら、道の先に望遠レンズを構えている人がいたのだ。近づいていくと、そのカメラマンは「雉子がいるんですよ」と言った。見ると、たしかに草むらを雉子が歩いていた。悠然と歩いている。やがて草のなかに入ってしまって、見えなくなった。

(明日に続く)


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2009年5月3日日曜日

●中嶋憲武 宇宙人襲来 シーズン2

〔中嶋憲武まつり・第17日〕
宇宙人襲来 シーズン2

中嶋憲武

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太田うさぎ 宇宙人襲来 シーズン1

2009年5月2日土曜日

●中嶋憲武 昭和五十六年のカケフ 下

〔中嶋憲武まつり・第16日〕
昭和五十六年のカケフ 下

中嶋憲武


ぼくは、「いいよ。いつにする」と聞き返した。サカノはちょっと考えて、冬休みに入ったらかな」と「北の家族」の赤い灯を見ながら言った。サカノはすでに就職を決めているらしく、冬休みといっても受験勉強の必要がないのであった。こいつ、本当にぼくの家に来るつもりなのかなと考えていると、向こう側に準急が来た。準急のドアが開いて白い蛍光灯の光のなかから、たくさんの着膨れた人々が降りて、この各停にどっと乗り込んで来た。席を詰めるためにサカノは、ぼくにぴったりと肩を寄せた。一気ににぎやかになった電車のなかで、ぼくとサカノは顔を見合わせて微笑んだ。

クリスマスまであと一週間と年の瀬も押し詰まり、大学ではぼちぼち期前試験が始まっていた。フランス語の試験を終えたぼくたちは、学内の喫茶室でお茶を飲んでいた。「カケフが藤田平と一緒にベストナインに選ばれとるやん。こいつ、打席に入ると自分のバットを必ず見るだろ?」とニッカンスポーツを読んでいたイデが言った。阪神のカケフは4番に定着し、われらがエガワと幾多の名勝負を繰り広げていた。確かにカケフは、打席に入ると一回自分のバットを拝むようにして見上げる。「来年もエガワ、20勝するかな?」と、神戸生まれの神戸育ちにも関わらず、巨人ファンのイデがぽつりと言った。ぼくはエガワの来年の20勝よりも、今夜のササモトさんとのデートの方が気になっていた。

ササモトさんとその彼とは、いまだに全く切れてはいないらしいが、かと言って逢ってもいないようだった。ぼくは、ササモトさんにとって復縁までの彼の代用品であることは、うすうす分かってはいたけれど、頻繁にササモトさんの家に行ったり、逢ったりしているうちにササモトさんの態度にいらいらするようになっていた。ササモトさんの態度?いや、ササモトさんに対する自分の態度に、であろう。ササモトさんを好きになったとは自覚していなかったのだけれど、第三者からみればありありと分かった筈だ。この半年という期間は長過ぎた。半年前の梅雨のある夜、沼袋の駅で降りて、ふたりでベンチでライオンズジュースを飲んだ。そのときからぼくは多分ササモトさんを好きだったのだ。蹉跌となる前に一度、その事をじっくり考えてみるべきだったのだ。ササモトさんの本当の気持ちというものとともに。

サカノは、ウチに遊びに来る気はないようだった。「今度、お邪魔するね」と口では言うものの、具体的なその段取りとなると、いつの間にか鳥は飛んで行ってしまうのだ。女子高生の気まぐれという奴だったのであろう。アルバイトの帰りに混んだ電車のなかで、座ることが出来ず、春日部まで立って帰ったその夜、映画に誘ってみた。サカノはとても喜んだ。20日から冬休みだから、その第一日めにということで、銀座に封切られたばかりの「レイダース」を観に行くことになった。

約束のその日、朝から雪が降りそうな寒い日で、おまけに劇場はとても混雑していた。最初は調子よく画面に見入っていたのであるが、寒くて朝からコーヒーを飲み過ぎたせいか、トイレが近くなっていた。後半のラスト近くなって、画面を観ていることさえ辛くなってきた。「おしっこがしたい」という欲望が強くしゃしゃり出て来て、ついに我慢の限界を超え、「ちょっとトイレに行ってくる」とサカノに囁くと、人をかき分け通路に出、非常口から廊下に出た。廊下もトイレも、いまのように完全入れ替え制ではない時代だったので、次の回を待つ人でごった返していた。いらいらとトイレで並び、用を済ませて席へ戻ると映画は終っていて、マーチ風のテーマ音楽が流れ、スタッフのクレジットがロールアップしているところだった。サカノはいいところでひとりにされたので、とても不機嫌になっていてろくすっぽ返事をして貰えなかった。映画館を出て、お茶でも、と言うと、これから友だちと待ち合わせてるから、ここで、と言う。マリオンの前でサカノと仕方なく別れた。サカノの後ろ姿を悄然と見送って、有楽町をすこし歩いて、コリドー街の古い喫茶店に入った。

サカノは、一緒に映画を観て以来、アルバイトにも顔を出さなくなり、ひとりで帰る日々が続いた。店長に何気なくサカノのことを尋ねると、卒業や就職のことで忙しく、アルバイトも辞めるかもしれないと言ってきたということだった。

店は大晦日に近づくにつれ、忙しさの度合いが増した。アルバイトが終るとどっと疲れてしまって、まっすぐ家に帰るようになった。ササモトさんもこの頃、アルバイトに顔を出さない。今夜、電話をしてみようと思った。

(了)

2009年5月1日金曜日

●中嶋憲武 昭和五十六年のカケフ 上

〔中嶋憲武まつり・第15日〕
昭和五十六年のカケフ 上

中嶋憲武


その当時ぼくは授業が終ると、真っ直ぐにアルバイト先へ行くのが日課のようになっていた。ほとんど毎日アルバイトを入れていたし、休日ともなると開店から閉店まで12時間、アルバイトを入れた。そのような入りかたは「通し」と呼ばれ、アルバイトの仲間からは、畏怖とも尊敬ともいえるようなまなざしを送られた。無論、ぼくの他にも「通し」をする者はいて、ある者は5日連続を敢行し、これはアルバイト仲間の伝説となった。

ぼくのアルバイト先は、銀座にある飲茶の店で、点心類をワゴンに載せ、ゆっくりと店内を廻って売り歩くのがセールスポイントとなっていた。デリカテッセン、海鮮、焼き物、鹹点心、甜点心とワゴンは全部で5台あった。デリカテッセンのワゴンは、蒸し鶏や鴨のロースト、ピータン、バラ肉などの皿が載り、海鮮のワゴンは、シジミを醤油で煮たもの、烏賊のボイル、海老のボイルなどの皿が載り、焼き物のワゴンは、注文を受けてからワゴンの上の鉄板で大根餅、湯葉などを焼いて出し、鹹点心のワゴンは、焼売、肉饅、包子、春巻きなどの蒸篭が載り、甜点心のワゴンは、月餅、マーラーカオ、薩奇馬、杏仁豆腐などのデザート類が載った。

アルバイトの仲間たちは、それぞれ相性のいいワゴンというものがあり、海鮮ばかり廻す者、焼き物ばかり廻す者、デリカばかり廻す者と暗黙のうちに廻すワゴンが決まっていた。ぼくは、おもにデリカのワゴンを廻し、ときどき焼き物のワゴンを廻した。焼き物のワゴンは、高橋国光を崇拝するキタさんが主に廻していたのだが、キタさんが休みのときや、パントリーに入っているときは、ぼくが廻していた。キタさんは休日はもっぱらツーリングに行くという大のバイク好きで、店がヒマなとき、焼き物のワゴンがカーブに差し掛かると、リーンインの体勢を真似て、「ばばばば、ぎゅいーん」などと言いながらコーナーを廻って、デリカのワゴンのぼくを見返ってにやりとしたりした。

ぼくのうしろに海鮮のワゴンを廻しているササモトさんが続いた。ササモトさんはぼくより2つ下で、新宿にあるキーボードの専門学校に通っていた。彼とあまりうまく行っていないようで、なにかと相談に乗ったりしているうち、ふたりで会うようになり、半年前ササモトさんの家へ上がってしまってから、ササモトさんの妹の留守(ササモトさんは妹と二人暮らしをしていた)のときはササモトさんの家へ行くようになっていた。

ササモトさんは、カチューシャの前髪を気にするしぐさをした。ぼくは、あごを触った。これはふたりだけのサインで、前髪を気にするしぐさは「今夜、ウチに来ない?」と言っているのであり、あごを触るのは、「いいよ」と言っているのである。「今日はだめだな」と言うときは、鼻をこするのである。そのようなやりとりを、ササモトさんのうしろにいるデザートのワゴンを廻すサカノが見ていた。サカノは大きな悪戯っぽい目でぼくを見ていた。ぼくは、悟られたわけでもないのに、どぎまぎとした。蒸し鶏に添えるシャンツァイを長い象牙の箸で、意味もなく掻き回した。

サカノは、ぼくと同じく春日部に住む春日部女子高の3年生だった。目が大きく、色が浅黒く、ちょっとエキゾチックな顔立ちをしていた。アルバイトが一緒に終るときは、サカノとぼくは春日部駅まで一緒に帰った。サカノと肩を並べて東武電車に座り、せんげん台駅で準急待ちをしているとき、「準急が来るから乗り換えようか」とサカノに言うと、「疲れちゃったから座っていこうよ」と言った。準急が来るまで、開きっぱなしのドアから見える真っ暗な風景を見ていた。暗闇に「北の家族」の赤い灯が寒そうに瞬いていた。サカノは出し抜けに「こんど、家に遊びに行ってもいい?」と言った。

(明日に続く)