2010年2月23日火曜日

●コモエスタ三鬼08 圧倒的に「ガバリ」


コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第8回
圧倒的に「ガバリ」


さいばら天気



三鬼に一句、特別な句があるとしたら、この句だろう。

  水枕ガバリと寒い海がある  三鬼(1936年)

最もよく知られる三鬼句というだけではない。三鬼にとって特別な意味をもつ。
この句を得たことで、私は、私なりに、俳句の眼をひらいた。(俳愚伝)

(…)それまでの私は、私自身を発見することが出来ず、作品はただ修辞の羅列であった。そのために私は焦慮し、懊悩したが、大患に罹って、その最中に、計らずも「水枕」の句を得て、ようやく俳句というものが、わかりかけ、細い一本の道が、未知に向かって通っているのが見えた。(同)
いくつもの述懐から、この句が三鬼にとっていかに重大な出来事であったかがわかる。

引用中「大患」とあるのは「肺結核の急性症状」(同)。高熱の続く日々を過ごすなかから、この句が生まれた。

句集『旗』では「三章」のうち一句として収録。の水枕の句を、「小脳を冷やし小さき魚を見る」「不眠症魚は遠い海にゐる」の2句が挟む。病中、身体と海が繋がるイメージから、何句か句作を試みたと推測できる。「小脳」の句、「不眠症」の句は、いずれも想念が勝ち、また詩的な設え。「水枕」の句は、水枕という確かなブツが存在する点で、他2句とは、出来映えのみならず、句の成り立ちからして違う。



この句について「一句観賞」のようなことをいまさらここで繰り返すこともないかもしれないが、話題として、いくつか。

『円錐』第44号(2010年春)掲載の沢好摩・山田耕司対談「新興俳句(4) 西東三鬼」で、山田は、「寒い海がある」の「が」に注目する。
(…)例えば「海である」だったら、もうこれはただ水枕の解説なわけですね。水枕を使っているときに水がガバリと動いて、水枕が寒い海に感じられたというような解説が多いわけですが、それでは「ガバリの寒い海である」だと思うんですよね。「水枕」と「海がある」というところの論理とは、かなり切れていると思うんです。
たしかに、「海である」では水枕の描写にとどまる。「海がある」は、文字どおり海の存在をそこに置いたものだろう。前者は、海が小さく身の元へと縮小された感、後者は逆に、水枕が海の大きさへと拡張された感という違いがある(こう読んでは、山田氏が言うようには「切れ」ないかもしれないが)。

水枕の水が動いて、との読みは、あり得るだろうが、違和感がある。「動く」の省略とは読まなかった。水が動く・動かないにかかわらず、「ガバリ」と「寒い海」はそこにあるのだ、と読んでいた。

一方、「がばり」ではなく「ガバリ」。この点はどうだろう。私は表記フェチではないが、存外この箇所にひっかかった。

歌人の河野愛子は、
「水枕がばりと」よりは「ガバリ」のほうが、ずっとガバリ感がはっきりし、水枕に即いている感じを受ける(…)
と書いている(『西東三鬼全句集』栞)。「ガバリ」のほうがガバリ感がはっきりする、とは、これでもかの同義反復だが、とてもよくわかる気がする。

寒い海には、「ガバリ」のとんがった字でなくてはならない。「がばり」の柔らかい字の形ではダメだ。同時に、あの水枕の、ゴム感(ベタッとした感触、肉色のあの色、匂い)を伝えるには、やはり「ガバリ」だろう。

「水枕」の句の魅力については、韻律がもたらす効果も大きい。この句のビート感。その芯を成すのが「ガバリ」の3音である。

加えるに、誰にも(俳句読者でなくとも誰にも)句意、句が描く世界がよくわかるという点は、この句の最大の美点かもしれない。

この句よりももっと好きな三鬼句が少なからずある私も、「水枕」の句が圧倒的な存在感をもつこと、いってしまえば偉大な句であることを強く思う。

そして、これが、作句を始めて2年余でもたらされたという事実に、ちょっと驚く。

たった2年?

でも、そんなものかもしれない。「俳句の書き手は、いきなり出来あがって登場することがある。」(上田信治)。

処女作や一年目で「出来上がった句」「代表作」をものにする俳人に比べれば、三鬼は2年余の「焦慮」「懊悩」ののち、である。「俳句の天才」とはいえない。しかしながら、圧倒的な一句、偉大な一句をもたらすことは、「俳句の天才」であることよりもずっと稀有なことだろう。

(つづく)

〔参考〕
『西東三鬼全句集』沖積舎・2001年
「俳愚伝」:『俳句』1959年4月号~60年3月号(『神戸・続神戸・俳愚伝』出帆社1975年所収)

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3 件のコメント:

猫髭 さんのコメント...

これはオモテでやってる『温泉みみず芸者』じゃなかった『温泉こんにゃく芸者』でもない、ええとあのシリーズは『温泉あんま芸者』『温泉ポン引女中』『温泉こんにゃく芸者』『温泉みみず芸者』『温泉スッポン芸者』『温泉おさな芸者』と続いたうちの、ああ最初の『温泉あんま芸者』でした(笑)、それとも絡みがあるのですが(何か卑猥)、「水枕」の句は、沢木欣一・鈴木六林男『俳句シリーズ人と作品 西東三鬼』(昭和54年、桜楓社)の中で自句自解をしていて、「寒い海」というのは実在ではないと述べて無季であることを明かしているため、学研の『現代俳句歳時記 無季』の「枕」の無季題の傍題「水枕」に例句として、三鬼の自句自解を長々と載せて解説しています。御参考までに。

わたくしは有季でも無季でも、これだけの句になると御託は関係ないと思います。

tenki さんのコメント...

自句自解はサマリーを読みました。

実在ではない=無季 というのもヘンな話ですね。俳句世間の実態とそぐわないです。

取り合わせの句の多くは無季になってしまいそうです。

『現代俳句歳時記』は1999年版がトンデモなので、未見です。別物なのでしょうか。

有季とか無季とか、ほとんど興味がありません。もうすぐ更新の本誌、真説温泉いそぎんちゃく芸者・第2回は、それに関連した話題です。

猫髭 さんのコメント...

わたくしが持っているのは五巻目の『無季』だけです。あとの春夏秋冬は、「生活実感にあわせ、春は3月4月5月・・・」といった、ちょっと陰暦とか陽暦とかとはかけ離れた区分けをしているので今のところ論外です。版は2004年版で文庫版です。以前の版の多少の問題点を改訂したものとあります。