2010年8月28日土曜日

●主体は変容するのか 2/2 橋本直

主体は変容するのか 2/2

橋本 直

ところで以前、高柳克弘さんも週ハイで触れていた(→参照)けれども、文科省の次期教育指導要領の方針では、巷間指摘された若者の表現力不足対策の一環(多分)から、小中の国語における短詩型文学の創作(例えば中学なら学年段階ごとに1詩→2短歌→3俳句)がこれまでより重視されてカリキュラムに組み込まれることになるはずである。つまり、いままでなんとなく指導書通りにすましたり、時間数がきつくなってささっととばすこともあったような俳句の授業を、読むだけでなく作る教科としてとりあげないわけにはいかなくなろうとしている。

ちょっと大上段な物言いの仕方になるのだが、学校社会において教員は、生徒にとって絶大な権限を持つし、生徒のためのあらゆるお手本を示せる立派な大人の代表(よき統率者)としてちゃんとつとめなければならないものだ。教科ならば何を問われても頭の中に正解があって、見解をだせることが日々要求される。しかし、俳句はそれがなかなか困難な表現分野であるだろう。

今回の俳句甲子園ムックに紹介されている優れた指導者達はかなり例外の側で、多くの国語教師は詠み方も読み方も確固たる自信を持って提示することができないと推定する(そのふりはできるだろうが)。もちろん指導書通りにやるのなら何も難しくはないし、作句そのものは五七五にするだけならお手軽ではあるので授業で詠ませることはできるだろう。が、新しく生まれたその作品群の「正しい」評価のモノサシはどこにあるだろう?今、ほとんどの場合教員自身の判断はなされないまま大量の「俳句」が伊藤園や神奈川大などの学生俳句賞に投稿されているのが現状であろう。しかし、教員が判断を丸投げするなどということは、制度にそれをとりこむ立場からすれば、あってはならないことだ。石原千秋氏がセンター試験問題を批判する文脈の中で書いているが、従来の国語の授業とは、実は規範的な既存の道徳判断に沿った小説の読解と感想文書きを要求される時間でもあったわけで、過去のセンター試験の選択肢は道徳的判断で良いセンまで解が導けてしまう。歴史的に「国文学」と「国語」はそのような経緯をもつしろものだったりするけれども、その中にあって俳句は、これまで例外的な位相にあったと思う。モノサシがないゆえに。

俳句甲子園が俳句にディベートの形式をもちこみ、詠み方/読み方を提示していくことや、その出身者が大活躍して詠み方/読み方を自信を持って書いていくことは、実は当の本人達には無関係に、世の教員や文科省にとっては非常なる福音なのである。それをふまえた俳句のディベート法とか読み方の本が今後企画されるかもしれない。先の関氏の時評を併せて考えてみると、結果的にそれはまさに権力側の引いた補助線の上でその意図にかなう動きが展開しているという視点が提示される。善悪の判断はその主体に任されないままに状況はどんどん俳人の外で動いている、とでもいえようか。

冒頭の話にもどる。俳句甲子園が今ほど世に知られてなかった頃、あれは松山のある商店会が中心になって立ち上げたもので、地元の俳人は基本的に非協力的だったと噂に聞いたことがあった。今回商売の神様を祀った神社に句碑が建ったというのは、そういう中で長く頑張って盛り上げてきたけれども自分たちは何か遺すわけでもない商人たちの、裏方としての「生きた証」としての象徴的交換価値としてではないだろうか。

これは「新しくて古い」作家と「パトロン」とサロンの関係の話とも考えられる。俳句実作に関わらない商人から見れば今も俳句は一種の「芸」ということ。そうだとすればこの立場からみれば明治の宗匠俳諧と平成の俳句甲子園はある種イーブンである。明治の宗匠俳諧のころは大旦那がいて、さまざまな芸達者が周りに集まった例があるが、もはやかつてのような趣味人の「大旦那」は出てこないだろう。今はどのような価値が俳句に求められているのか。今回の句碑建立が悪趣味としても、それ以上の交換価値のあるものを俳句の主体にいる者が外に対して生み出してこなかったのは、果たしていけないことなのか、素敵なことなのか。

(了)

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