2010年9月6日月曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔33〕芋

ホトトギス雑詠選抄〔33〕
秋の部(九月)

猫髭 (文・写真)


諭されて醜女娶りぬ芋の秋 武子 大正8年

茨城県の那珂湊は、那珂川の河口にあるので、海水と川の水の混じる汽水であり、ドックには牛蛙の馬鹿でかいお玉じゃくしが泳いでいたり、浅瀬では蜆が獲れるし、夕方も親戚の釣太公望がフッコを釣ったと言うので、自転車で見に行くと、これはもう鱸と呼んでいい60センチを越える大物だった。野締め(鰓と尾に包丁を入れて血抜きをする)をしてあったので、一匹もらって、半身を氷水で締めて洗いにし、腹の部分は塩焼き、頭と中骨は潮汁にして食べ、残りの半身は立て塩をして昆布締めにして冷蔵庫で寝かせた。釣り立ては、活け締めなので血の匂いも無くごりごりして美味だった。もともと鱸は血が少ない白身の美味な魚だが、旬は格別である。幸田露伴の『幻談』は、その語り口が神品ともいうべき鱸釣の名短編だが、一種の怪談なので、鱸は捨てるところがなく、内臓はソテーにするとうまいとはいえ、どうもこの小説を読んでしまうと、腸は新鮮でうまそうなのだが食指が動かない。しかし身は、泥臭さもなく、すっきりとした脂で、誰が考えたか、昆布締めの玄妙とも言える味わいは、思わず母と顔を見合わせて頷きあう旨さだった。

真鰯の稚魚、白子(しらす)もまだ獲れる。昨日などは船方がバケツに二杯も持ち込んだので、近所に配りまくるという大盤振る舞いである。生姜醤油でどんぶりに山盛りでぶっ掛ける、いわゆるシラス丼にするのが豪快だが、最近は白子のフリッターが流行である。実は母が生をそのまま食べるのは苦手だと言うので、わたくしが母のために考案した料理で、小麦粉に溶き卵を落して、そこに豪勢に白子をぶちこんで塩胡椒して粉チーズを挽き入れ、フライパンにオリーブオイルをたっぷり敷いて、お好み焼きのように焼くだけだが、ふわりと焼いてもカリカリに焼いても、ビールに良し飯に良しで、近所の評判になり、醤油を垂らしたり、マヨネーズを塗ったり、ソースをかけたりと各家庭、老若男女に合わして好評を博している。それはそうだ。獲れ立ての刺身で食える新鮮な白子をびっしりぶち込んで焼くのだから、具だけで出来ているようなもので、85歳の母もぱくぱくお替りをする。

かように、海のそばなので新鮮な魚介類には事欠かない。魚市場も目の前なのだ。まだぴんぴん跳ねているやつを捌くのだから、口中に常陸の海や那珂川の恵みが広がる。

だが、どういうわけか新鮮な野菜を売っている八百屋が少ない。自転車で遠出をすれば湊大橋の手前に地産地消の生産者の名前入りの野菜はあるのだが、歩いてすぐのところには少ない。半年ほど那珂湊に戻って母の介護をしてみてわかったのは、年寄りが多いので、彼らが老後の嗜みとして自分の家に皆家庭菜園を持っていて、野菜どころか西瓜や花まで栽培して、自給自足していることだ。母は父が死んでから6年ほど一人暮らしだったが、昔世話になったからと、三日に空けず、猛々しい野菜や果物が届く。今年は炎暑が続き、西瓜などは皮の際まで真赤に熟れて白いところがほとんど無く、驚くほどの甘さだったが、熟し過ぎて、毎日どこやらかから届くと、さすがに腹の中で飲み込んだ西瓜の種が芽を出すような気がしてくる。

九月になって毎日届けられるのは、赤紫の薩摩芋である。ヒネ芋から、育ち過ぎの芋から、焼芋屋でも開けというのかとばかりに届き、これに母を慕う元博徒系のやくざ上がりの古物屋も、姉貴が畑で作った芋を食べてくんちょと、ごろごろ置いてゆく。

わたくしは毎日母のおさんどんを担当しているが、芋は蒸かして食うぐらいしかやったことがないので、昼飯の代わりに蒸かしてバターを付けて食うぐらいしか思いつかず、子どものちんちんのようなヒネ芋や、農婦の尻のようなデカ芋を前にして、困り果てているところだ。

そこで掲出句である。いきなり醜女(しこめ)が出て来る。今で言うブスのことだが、これは母の周りにつどう老婆たちの井戸端会議を聞いていると、那珂湊はこの手の、言っては何だが、破れ鍋に綴じ蓋夫婦が多いようである。嫁さんは器量は悪いが、働きもんでしっかりしているといった話が頻繁に出て来る。水上瀧太郎が名作『大阪の宿』(大阪版「坊ちゃん」)で、ひっくり返してみんことには男か女かわからん蟹のような宿の女将といった言い方をしていたが、湊の荒くれに揉まれて男勝りの女性が多いのは事実で、シコメという言い方には、ブスという侮蔑の意味合いとは違う土地に根付いた逞しさがある。

思い出してみると、母のところには能く若い嫁が隣町の平磯からも訪れては愚痴をこぼして泣きに来ていた。土地柄、亭主は漁師が多い。遠洋漁業の船乗りもいる。留守を守るのは嫁であり、嫁姑の諍いは、いくら仕えても、何代にも亘って漁師町には続いている。母も大洗から嫁いで来て、姑にいびられて海門橋まで実家に帰ろうかと戻った時もあったと言う。そういう時、近所のお婆さんが仲立ちに入って慰めてくれた。そのお婆さんは、わたくしは婆っぱちゃんと呼んで懐いていたが、自分の孫のようにわたくしを可愛がってくれた。婆っぱちゃんが年をとってから、母は能く面倒を見ていた。自分が若い頃世話になったからだと言う。

漁師町の女たちは、何百年もそういう嫁の苦しみを他家の年寄りに助けられ、その年寄りたちが老いさらばえると、昔世話になったからと、自分の親のようにそれとなく面倒を見てくれるという、海へ繋がれた日々を繰り返している。親に言われた通りに嫁ぎ、情に篤く、素朴な人間関係だけを頼りに生き抜いている。わたくしの知る漁師の妻たちは本当に能く働く。チェーホフが妻のオ-リャに手紙で言った「ふさぎこんではいけない。働くことです。」という言葉を誰もが知っているように、赤銅色になって働く。舅や姑に仕え、亡くなると、人が変わったように明るくなって車の免許を取って、陸に上がって宿六になった亭主を盛り立てて、というか尻を叩いて、仲良く暮している夫婦が多い。

掲出句を読むと、わたくしは毎日出会う漁師町の女たちのひとりひとりの顔を思い出し、そのバイタリティと、ひとりひとりの若い頃の事も思い出し、いい夫婦になっているなあと思う。醜女と句では言っているが、わたくしは一度も彼女たちを醜女だと思った事は無い。彼女たちの笑顔が輝いているからだ。皆海の匂いのするいい顔をしている。多分、この作者もそうだろう。

作者の武子については、どこの人で、男か女かもわからない。たけこと訓むなら女性だが、もし自分の事を詠んでいるなら、恐れいった愛嬌の醜女さんである。亭主に同情していることになる。しかし、やってゆく自信はあるのだろう。

山畑や石芋掘つて立ちかゞみ 武子 大正8年

という句が同時に採られているから、山村の俳人だということぐらいしかわからないが、この「諭されて醜女娶りぬ」には、この嫁は見てくれはいい方ではないが、能く働くしっかり者で、舅や姑を大切にするといった、仲人の将来を見据える確かな目があると思える。

ヘルマン・ブロッホが手紙に書いていた「人類は認識に飽き飽きしているのではないでしょうか。本当に必要なものは、認識ではなく、素朴で誠実な人間関係といったものではないでしょうか」という言葉を思い出す。彼はその後『誘惑者』という素晴らしい小説を書き、ノーベル文学賞を受賞し、訳者古井由吉を作家に向かわせる。

ところで、薩摩芋だが、母が女学生時代、水戸の銀杏坂にあった大学芋がおいしかったと言うので、そう言えば那珂湊も、子どもの頃、四郎介神社の隣にあって、経木(菓子・料理の包装などに用いる杉・檜などの木材を紙のように薄く削ったもの)を三角に折り、そこに大学芋を入れて売っていたなと、わたくしも懐かしく、谷中の大江戸屋台村の大学芋の垂れもうまかったが、どう作るのかわからないので、多分、澱粉から作る水飴を使うのは間違いないが、明治屋の水飴は那珂湊は売っていないので、猫髭式で作ることにした。

先ず、芋を蒸し器で十分ほど蒸かす。冷めたら皮を剥いて、乱切りにする。フライパンに胡麻油をたっぷり入れて、芋を入れ、表面がカリカリ狐色になるまで炒める。油で揚げるのは苦手なので、一種のズルだが、蒸かし過ぎた芋が大学芋に変身、という横着技である。

一度、狐色に炒めた芋を取り出し、油を切っておく。垂れは、カナダから帰国した句友がくれたメープルシロップがあるので、これを水飴代わりにフライパンに垂らし、砂糖黍の粗製糖を大匙四杯ほど、マスカットのスパークリング・ワインを水代わりに少々、母の健康のためとくっつき防止でリンゴ酢を大匙一杯、これに醤油を色付けにかけて、とろみが出るまで煮て、あまり粘りが出る前に、さきほどの芋を入れて、手早くからめ、黒胡麻を振って、猫髭式大学芋の完成で~す!。韃靼蕎麦の実を煮出して、冷めた奴を冷蔵庫に入れて冷茶として添えて、さあ、どうぞ。

さっぱりとした甘さで、お母ちゃんはぱくぱく晩御飯を食べられないほど食べて、うまかったと言い、盛大にげっぷをした。


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