2010年1月31日日曜日

〔人名さん〕冬木立

〔人名さん〕
冬木立

百人のゴルゴ13冬木立  斉田仁

だいたいはラーメン屋で油の滲んだ漫画本をめくったそのなかにいる「ゴルゴ13」は物陰に隠れるように立っている姿ばかりが記憶に残る。

100本の冬木立が冬木立の陰に隠れるように重なり合うのと同じく、100人のゴルゴ13は、おたがいの陰に隠れるように、びっしりと林立する。なんと怜悧な景色だろう。

(さいばら天気)

〔link〕星野しずる・新作

〔link〕星野しずる・新作

星野しずる 冬のゆびさき(20首連作)

google

2010年1月30日土曜日

【評判録】小久保佳世子『アングル』

【評判録】
小久保佳世子句集『アングル』

2010年1月29日/金雀枝舎

都市という枯原:僕が線を引いて読んだ所
句集「スモークツリー」と「アングル」:喜代子の折々
tweet:Seki_Etsushi
2009/1/31 追加関悦史・閑中俳句日記(22):豈 weekly

金雀枝舎⇒http://hiniesta.blog42.fc2.com/blog-entry-13.html



2010年1月29日金曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔4〕氷柱

ホトトギス雑詠選抄〔4〕
冬の部(一月)氷柱

猫髭 (文・写真)


遠き家の氷柱落ちたる光かな 高浜としを 大正9年

小さき葉も小さきつららや皆つらら 高木晴子 昭和11年

今週は「氷柱」の句を二句置いた。としを句は望遠レンズでとらえたような景であり、晴子句は接写レンズでとらえたような景で、対照的だが、波多野爽波が「季題とは立体的多面的なもので、たくさんの稜(かど)を持ったミラーボールのようなものです。ミラーボールはその捉え方によって返ってくるものが違ってきます(註1)といった言葉に添うような句だなと思ったからである。

波多野爽波は、自身が主宰の結社「青」の弟子たちに「ホトトギス雑詠選集抜粋」を月二十句づつ原稿用紙に書き抜いて、それを音読し、写経ならぬ写俳をさせていた。爽波は、「単に眼で活字を追うのではなく、耳から聴いたものがすぐさま文字となる。これに勝る勉強法は他に無いのではなかろうか(註2)とまで言っている。上記二句も爽波抜粋の一月の句の中に入っている。

また、どちらも虚子編『新歳時記』に収録されている。ただし、晴子句の「ホトトギス」初出は「小さき葉もちさきつらゝや皆つらゝ」と「小さき」「ちさき」と表記が分かれ、繰り返しの「ゝ」を使っている。晴子と虚子とどちらが表記を推敲したかわからないが、初出をそのまま載せるか、推敲があればそれを載せるかは作者に任されていたと記憶するので、晴子による推敲と思われる。推敲した表記の方が外連が無く読みやすいと思われたので、掲出句は後出の表記を載せた。

としを・晴子とも虚子の実子である。虚子には八人の子供と十九人の孫がいた。高浜年尾は長男。当初「としお」を俳号とし、昭和13年から「俳諧」を主宰して後「年尾」に改めた。昭和26年に虚子より「ホトトギス」主宰を継いだ。高木晴子は虚子の五女で俳誌『晴居』主宰。

高浜年尾は「氷柱」では他に、

  月の夜の氷柱の軒に戻りけり としを 大正11年

  つまづきて滝の氷柱の躍り落つ としを 昭和11年

の二句が採られている。

昭和6年発行の『ホトトギス雑詠全集』第十巻「冬の部」には、七十七句「氷柱」の句が並ぶ。後に京大俳句事件の黒幕となった小野蕪子や、山口誓子、水原秋桜子、山口青邨の若書きも見られるが、昭和17年の『ホトトギス雑詠選集』第四巻「冬の部」では十句に絞られ、青邨以外、蕪子も誓子も秋桜子も落とされている。いずれも佳句だが、虚子は昭和の句を多く選び、新しい「雑詠」の秀句を多く世に問おうとしていた。青邨は昭和6年には二句選ばれ、昭和17年には一句落とされたが、残った一句がまたいいのである。

  みちのくの町はいぶせき氷柱かな 山口青邨 昭和5年

「鬱悒(いぶせ)き」が効いている。


(註1)西野文代編『爽波ノート』所収「いのち」より(「文」創刊五周年記念)
(註2)『波多野爽波全集 第三巻』所収「俳句の書き取り」より(邑書林)

2010年1月28日木曜日

〔link〕ネットとメディア

〔link〕ネットとメディア

≫第1回 もう引き返すことはできないのか? ネットとメディアの関係:上杉隆×小林弘人
≫第2回 なぜ紙メディアは“四苦八苦”しているのだろうか 以降続篇

伝書鳩がつぶやくのは、誰のメッセージなのだろう:小田嶋隆
結局、この種の「関係を媒介するツール」は、それに関わる人間の関わり方によって、どうにでも姿を変えてしまうもので、そもそも用語欄で定義できる対象ではないのだ。/画材についてどんなに詳しく語っても、絵画という芸術を解説したことにはならない。/結局、道具は、説明するべきものではなくて、使うべきものなのだ。

2010年1月27日水曜日

●ペンギン侍 第21回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第21回 かまちよしろう

前 回

つづく

2010年1月26日火曜日

●コモエスタ三鬼04 トリッペルの旦那衆

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第4回
トリッペルの旦那衆

さいばら天気


時間に添って話を進めてきましたが、どこまで行きましたっけ? あ、そうそう、昭和3年(1928)、シンガポールから帰国して、大森に歯科医院を開業したところでした。

この歯科営業は長くは続かず、4年後の昭和7年(1932)には廃業、埼玉県朝霞綜合診療所歯科部長の職を得ます。ところが就職して3か月でこの診療所がなくなり、次には、東京神田の共立病院で歯科部長。ここで、俳句に手を染めることとなるのですが、このあたりの事情については、「俳愚伝」(『俳句』1959年4月-60年3月)の冒頭に記述があります。
俳句、このへんてこなもの。短小で、不自由で、むつかしくて、そして魅力絶大なもの。こういうものに、とっつかれたのは、全く私の不運という他ないのだが、その不運が落ちかかったのは、私が三十三歳の働き盛り、昭和八年であった。(「俳愚伝」)
直接のきっかけは、共立病院の同僚、泌尿器科の医師の誘いでした。患者たちの作った句をプリントにするから、三鬼にも句を出せ、という話です。

泌尿器科というのがわりあい重要で、患者たちというのは、「近所の質屋、家具屋、菓子職人、口入業、左官屋などの若旦那」(「俳愚伝)。トリッペル(淋病)ほか性病はむかし「花柳病」と呼ばれたように、遊びでもらってくるのがもっぱら。遊び人の旦那衆の暇つぶしに付き合わされて、三鬼は俳句を始めたというわけです。
私は子供の時からの文学好きではあるが、俳句に興味を持ったことはないし、そんな「古臭いもの」は嫌いだからと断ったが、いつか顔なじみになっていた、その道楽息子達が、つぎつぎ歯科へ押しかけて来て勧誘するので、ついふらふらと承諾してしまった。/かくして私の不運は、不潔な淋菌を死者として、全く偶然に私をとらえたのである。
「三鬼」という俳号は、そのときとっさに付けたものだといいます。さて、句を記したプリントの次は、句会でした。街で催されている「運座」に誘い出され、顔を出す。ああ、もう、こういう感じ、俳句を始めるときって、80年前も今でも同じですね。

ところで三鬼は、出かけた街の句会(一、二度しか出たことがないそうですが)に「雑俳」という言い方をしています。雑俳は、俳句よりも川柳・連句に近いもののようですが(註1)、三鬼の書いているのを読むと、どうも「正式の雑俳」とも少し違うようにも思えてきます。そのへん、よくわからないのですが、言葉遊びの要素の強い俳句に「雑」の卑称を冠したものかもしれません。「運座」では高得点をあげると賞品がもらえ、みな賞品目当てでウケを狙った句を出したようですから、この点でも遊戯性の強い句会です。

三鬼はこの「雑俳」時代をきわめて短い期間で終え、「本格的な俳句」にハマっていくのですが、それは次回の話に。

で、まったく余談になりますが、雑俳をググっていて、春風亭柳昇の落語が見つかりました。「雑俳」というより単なる言葉遊びですが、柳昇がとてもおもしろい。いいかげんな落語をやっていて、この「いいかげん」というのが、とてもいいのです。

春風亭柳昇『雑俳』 1/2
http://www.youtube.com/watch?v=nOjhPBa4RW4
春風亭柳昇『雑俳』 2/2
http://www.youtube.com/watch?v=mN6Uv1qDLe4

ね? おもしろいでしょう? 柳昇。

(つづく)


●承前のリンクは貼りません。既存記事は記事下のラベル(タグ)「
コモエスタ三鬼」をクリックしてご覧ください。

(註1)雑俳=俳諧様式の一群の総称。1692年(元禄5)ごろから,俳諧から独立した前句付(まえくづけ)が,単独に万句合(まんくあわせ)興行として行われるようになり,以後,笠付(かさづけ)や折句(おりく)を加えて盛行,そこから種々の様式も考案され,最後には川柳風狂句を生み出した。この興行では月並み,点取,景品というような条件を伴い,純粋俳諧とはやや存在の意味や目的を異にするので,一括して古くは〈前句付〉と呼んでいたが,明和(1764‐72)ごろの大坂で〈雑句・雑俳〉の語が人事句を主とするところから使用されはじめ,前句に代わって総称となった。ただし尾張では〈狂俳〉をもって総称とするなど,地域や時代によって種々の呼称が用いられていた。(鈴木勝忠)平凡社『世界大百科事典』

2010年1月25日月曜日

■新刊情報

新刊情報

●『季題別石田波郷全句集』角川学芸出版/2009年11月
●坪内稔典『モーロク俳句ますます盛ん 俳句百年の遊び』岩波書店/2009年12月
●坪内稔典『正岡子規の<楽しむ力>』日本放送出版協会/2009年11月

〔links〕俳句甲子園と海南タイムズ(松山ローカル)

〔links〕
俳句甲子園と海南タイムズ(松山ローカル)

一人の愛媛県人として~「俳句甲子園」中傷記事:夏井いつきの100年俳句日記
お恥ずかしい批判:やのひろみ公式ブログ
松山の俳句が危ない?:らくさぶログ
trick or treat:Sakaish!!!

≫俳句甲子園、全国俳句界の重鎮が相次ぎ批判、松山の俳句が本旨から逸脱 (2010-1-21)
海南eタイムス【有料】


2010年1月24日日曜日

■俳人協会賞など決まる

俳人協会賞など決まる
優れた句集、評論を選ぶ俳人協会(鷹羽狩行会長)の各賞が23日、決まった。ベテラン対象の第49回俳人協会賞は、榎本好宏さんの句集「祭詩」(ふらんす堂)と栗田やすしさんの「海光」(角川書店)に決定。
第33回俳人協会新人賞は、加藤かな文さんの「家」(ふらんす堂)▽金原知典さんの「白色」(同)▽森賀まりさんの「瞬く」(同)。第24回俳人協会評論賞には、角光雄さんの評論「俳人青木月斗」(角川学芸出版)▽日野雅之さんの「松江の俳人・大谷繞石(じょうせき)」(今井出版)が選ばれた。
毎日新聞 2010年1月24日 東京朝刊

2010年1月23日土曜日

2010年1月22日金曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔3〕大寒

ホトトギス雑詠選抄〔3〕
冬の部(一月)大寒

猫髭 (文・写真)


大寒や白々として京の町  木犀 昭和三年

【大寒(だいかん):二十四節気の一。太陽の黄経が三〇〇度に達した時をいい、現行の太陽暦で一月二〇日頃に当たる。一年で最も寒い季節。一二月中気。[季]冬】(大辞林)。

「小寒の後十五日目、大抵一月二十一日頃に当り、最も寒気凛冽である」と虚子編『新歳時記』にある。山本健吉編『最新俳句歳時記』には「二十四気の一、陰暦十二月の中で、小寒の後十五日、すなわち一月二十二日、三日にあたる。寒威酷烈を極むる時である」とある。

掲出句は、底冷えの京都の、その大寒の夜明けの一段と冷え込んだ姿を詠んだもの。白は百より一足りない九十九を意味し、物事の終りの意があるが、どん詰まりの寒さを表わしているようだ。

虚子が、

  鎌倉を驚かしたる余寒あり 虚子 「ホトトギス」大正3年3月

と詠んだのは大正3年2月1日で、「余寒(よかん)」は寒があけてからの寒さをいうが、木犀の句は「大寒」の「最も寒気凛冽」たる姿を静かに詠んでいる。

作者の木犀は、大阪の俳人とのみで、詳細は不明。識者の助言を乞う。

虚子、健吉とも、口を極めて大寒の寒さを言うも、今年平成22年庚寅(かのえとら)の大寒はといえば、20日13時23分。「十月和暖如春」の小春日和以上の馬鹿陽気で、東京は17℃の気温を越えて4月の「清明」から「穀雨」の頃の陽気となり、鎌倉は夕方から海が冷えたせいか夜中の2時過ぎまで風が荒れて、谷戸(やと)は虎落笛が吹き渡り電線を鳴らし続けた。



「大寒」の句で思い出したが、虚子には有名な「大寒」を詠んだ句がある。

明治41年10月号から昭和12年9月号の雑詠を選抜した『ホトトギス雑詠選集』には、虚子は自分の句を省いているが、つど編まれた『ホトトギス雑詠全集』には自句も載せている。虚子の『高濱虚子全俳句集』(上下二巻、毎日新聞社)には、虚子の「大寒」の句が四句収められている。

  大寒にまけじと老の起居かな   「ホトトギス」昭和15年1月 

  大寒や見舞に行けば死んでをり  「玉藻」昭和15年3月

  大寒の埃の如く人死ぬる     「ホトトギス」昭和16年1月

  大寒といふといへどもすめらみくに 同上

虚子が『新編歳時記』に収めた自句は「大寒の埃の如く人死ぬる」だが、「玉藻」の「大寒や見舞に行けば死んでをり」が何と言っても不謹慎なほどのインパクトがある。しかし、虚子の句や小説を辿ると、虚子は、唯ありのままをありのままとして詠んでいるだけなのだ。

鎌倉の寿福寺の虚子の墓のそばに「白童女」という小さな墓がある。虚子は、大正3年4月22日、六という名の三歳の四女を亡くしており、「白童女」とは虚子が六につけた戒名である。虚子は我が子の看病を一人で献身的にするのが常だった。次女立子が肺炎になって医者が見放したにも関わらず献身の看病で生き返らせた。六の時も虚子は必死に看病するが、命は取り留めたものの脳に障害が残り、子は寝たきりになり、医者から虚子の看病は旧式だと指摘され、虚子はずっとその負い目を背負い、やがて再び六が肺炎に冒されたとき、虚子は「凡てのものの亡びて行く姿を見よう」とする。
三歳の少女は父母にも抱かれずに、風の空洞を吹くやうな声を残してそのまま瞑目してしまつたのである。(虚子『落葉降る下にて』)。
虚子は、美しい子だった六に白の面影を見ていた。

  白芥子の咲かで散りたる我子かな 虚子 大正3年5月

また、昭和4年には、六を一番可愛がってくれた三女の宵子の娘が生れて八十日ほどで風邪で死んでしまう。我が子の死も悲哀の極みだが、孫の死もまた切なるものだった。虚子は、

  雛よりも御仏よりも可愛らし 虚子 「ホトトギス」昭和4年4月

という句を『贈答句集』のなかに残している。

我が子と孫の死を引き受けざるを得なかった虚子は、俳句や小説によって、凡てのものの亡びて行く姿を見届ける目を通して、子規が『病牀六尺』の七十五節で言っているように「あきらめるより以上のことをやつて居る」のではないだろうか。


2010年1月21日木曜日

〔人名さん〕冬帽子

〔人名さん〕
冬帽子

冬帽が飛んだマイケルジャクソンも  坪内稔典

昨年11月、『This Is It』を観た。マイケル・ジャクソンのリハーサルを追ったこの映画、演奏や歌やダンスの素晴らしさとは別に、マイケル・ジャクソンが、汗をかかないことに驚いた。若いバック・ダンサーたちが汗だくで動いている、その中心で、マイケル・ジャクソンは誰より激しく踊り、しかもジャンパーなどを着込んでいるのに、汗ひとつかいていない。健康状態を反映したものかどうかはわからないが、そういえば、昔から、マイケル・ジャクソンは冬っぽい。いわゆる冬の季感がある。

冬帽が飛び、マイケル・ジャクソンが飛ぶ。マイケル・ジャクソンには、帽子が、つきものであるからして(参考)、この句、一分の隙もない一句なのだ。

掲句は週刊俳句・第141号 新春特別作品「梟と豚まん」より。

(さいばら天気)

2010年1月20日水曜日

●ペンギン侍 第20回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第20回 かまちよしろう

前 回


つづく

2010年1月19日火曜日

●コモエスタ三鬼03 乳香と没薬の日々

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第3回
乳香と没薬の日々

さいばら天気



1900年(明治33年)5月15日、岡山県苫田郡津山町大字南新座84番地(現在の津山市南新座)に生まれた三鬼が、生地にとどまるのは18歳まで。6歳で父を亡くし、18歳で母を亡くし、このとき長兄・武夫にひきとられ、藤沢市鵠沼(神奈川県)に移り住む。この年1918年の冬に、青山学院中等部に編入、1920年には同高等部(旧制ですから今なら大学)に入学した。

※このあたり『西東三鬼全句集』所載の年譜(鈴木六林男編)による。

前回、「狂騒の1920年代」を三鬼は如何に、と話題をつないだ。三鬼の1920年代は、東京の高等学校で幕を開けたわけである。ところが、青山学院高等学校は半年で中退、翌21年4月には日本歯科医学専門学校(1909年設立・現日本歯科大学)に入学。

関東大震災(1923年)は、在学中の出来事。しかし、三鬼と関東大震災を結びつける記述をまだ目にしていない。

日本歯科医学専門学校は、現在の日本歯科大学の所在地と同じ、千代田区富士見(飯田橋駅の南、靖国神社の裏手)にあった。麹町区(当時)は、震災被害が東京東部と比較すればそれほどではなかったものの、三鬼も罹災者のひとりであったにちがいない。

以降、年譜をかいつまむと…
1925年3月 日本歯科医学専門学校を卒業。
同年11月 結婚
同年12月 歯科開業すべくシンガポールへ。
シンガポール行き(註1)は、日本郵船シンガポール支店勤務の長兄の指示に従ったもの。6歳で父を亡くした三鬼にとって、長兄は父親のような存在だったのだろう。

三鬼は8歳のとき、この長兄の当時の勤務先、上海に1カ月間出かけている。今のように誰もが海外に出かける時代とは違う。むかしの日本郵船といえば、大商社と並んで「海外」を象徴する企業。長兄・武夫にはグローバルビジネスの最前線で颯爽と活躍する姿が想像できよう。武夫は日本郵船ロンドン支店長、上海支店長などを歴任後、大日本航空(JALとは無関係。為念)の副総裁に就任。職業人として一流の人のようだ。

閑話休題。シンガポールに渡った三鬼の暮らしぶりについては、鈴木六林男による年譜の一年分をそのまま引くことにする。
1926年 昼はゴルフに熱中。夜は近東の友人と交遊。観光日本人のガイドをつとめる。即ち、熱帯の夜々、腋下に翼を生じて、乳香と没薬の国を遊行。ために医業大いに怠る。岳人三田幸夫を知る。日本から古典文学書をとりよせ耽読。
つまり、ろくに仕事もせず遊び呆けていたということですね。

乳香(にゅうこう)と没薬(もつやく)を、その字面から…

  セックスとドラッグ?

…と早合点しそうだが(私だけ?)、そうではない。ともに樹脂。香料などに用いられる(註2)

文中「岳人三田幸夫」の岳人はアルピニスト。日本山岳会会長も務めた三田幸夫は、貿易会社「紀屋」を経営しており、のちに三鬼はこの会社に勤めることとなる(1938-42)。

その「紀屋」に押し掛け三鬼に弟子入りする三橋敏雄の証言(『俳句現代』2001年1月号)によれば、三鬼は、シンガポールに開いた歯科医院の二階ホールで、現地の日本人にダンスを教えていたという。

南方の楽天地で大いに羽根を伸ばした三鬼だが、渡航の翌々年1928年にチフスに罹り、熱心でもなかった歯科医院は開店休業状態。長兄の指示により医院を畳み、帰国することとなる。シンガポール滞在中にこしらえた借金は兄たちが処理。りっぱな兄、どうしようもない弟。対照くっきり、である。

なお長兄・武夫は1953年11月5日に死去。

死顔や林檎硬くてうまくて泣く  三鬼(1953年)

この句を含む5句は『変身』(1962年・角川書店)に収録されている。

さて帰国後は、東京・大森区入新井(現在の大田区大森北。JR大森駅の南あたり)に住み、歯科を開業。1929年には長男・太郎が生まれる。



というわけで、三鬼の1920年代は、前半が東京での学生生活、後半がシンガポールでの遊行・放蕩。

「狂騒の20年代」という世界潮流とあざやかにクロスする、というわけには行かなかったが、「享楽」という部分で、時代の空気を存分に吸っていたと言えなくもない。この時点で、私が三鬼に思うのは…

  ええかげんなやっちゃなあ

…ということ。

とても親しみを感じる。


(来週の火曜日につづく)

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(註1)戦前の英領シンガポールへの渡航を、当時の絵葉書をからめておもしろくまとめたサイトがあった。
こちら≫http://www4.big.or.jp/~naomy/acard/singapore/sgp.htm

(註2)「乳香と没薬」の表現は、三鬼自身が、帰朝後の生活を描写した一文にも現れる(年譜はここから採られたのだろう)。
東京外神田の、ある組合病院の歯科部長が、私の職であったが、私は不忠実、不熱心な部長であった。それは私が去らざるを得なかった、赤道直下の乳香と没薬の国の魅力が、いつも私の心をとらえていたからである。/その熱帯の港町へ、私は東京から出発したのであるが、再び帰り着いた東京で、私は亡霊のような異邦人であった。(「俳愚伝」・『俳句』1959年4月-60年3月)
シンガポールから日本に帰り、勤め人の職を得たあとも、「赤道直下の乳香と没薬の国の魅力」を忘れることができず、腑抜けのような暮らしを送っていたというわけである。病院への就職は1932年。帰国してから4,5年も経とうかという時期にこれだから、南方の経験がそれほど強烈だったのか、あるいは三鬼という人、よほど怠け者なのか。

■電話セールス

電話セールス

奈良だけでなく全国展開の模様。
「新聞に短歌や俳句載せる」、奈良で掲載料要求電話相次ぐ
「新聞に短歌や俳句の作品を載せる」などと持ちかけ、掲載料名目で15万~25万円を求める電話が奈良県内で相次いでいることが、県消費生活センター(奈良市)などへの取材でわかった。これまでに被害は確認されていないが、昨年4月から約5件の相談が寄せられており、新たな手口の振り込め詐欺の恐れがあるとして、関係者らは注意を呼びかけている。/14日午後3時頃、県北部に住む短歌愛好家の80歳代の女性宅に、全国紙の社員を名乗る男から、「新聞で全国の歌人40人の特集を組むが、あなたが選ばれた」と電話があった。作品4首で掲載料24万円と言われ、女性は断ったが、しつこく何度もかけ直してきたという。
2010年1月16日 読売新聞
参考A ≫参考B ≫過去記事(ウラハイ)

2010年1月17日日曜日

おんつぼ26 ガリーナ・ウストヴォリスカヤ 関悦史


おんつぼ26
ガリーナ・ウストヴォリスカヤ
Galina Ustvolskaya
交響曲第4番《祈り》


関悦史

おんつぼ=音楽のツボ


ガリーナ・ウストヴォリスカヤ(1919年 - 2006年)については、私もあまりよく知らない。録音や演奏の機会も多くはなく、現代音楽の歴史のなかで中心的な扱いを受ける存在でもない。現代ロシアの女性作曲家でショスタコーヴィチに師事。師と恋愛関係にあったともいう。

そのウストヴォリスカヤの交響曲第4番《祈り》(1985年)を、ケント・ナガノがベルリン・ドイツ交響楽団を率いて2003年に来日した際、ベートーヴェンの第9と合わせて公演プログラムに組み入れていた。日本ではこれが最も多くの聴衆に生で聴かれたウストヴォリスカヤ作品ということになるのかもしれない。

交響曲とはいっても単一楽章で、演奏時間も全曲で7分前後、編成もトランペット、タムタム(銅鑼)、ピアノ、アルト独唱だけと、きわめて小規模で凝縮したもの。

神秘性の強いロシアの女性作曲家としては他にソフィア・グバイドゥーリナが有名だが、グバイドゥーリナにはまだ世界の違和とゴツゴツとかかわりあいながら、その手応えでもって上昇を図り、作品を構築していくといった趣きがある。

ウストヴォリスカヤとなるとそれがさらに垂直性を増し、修道院の個室か断崖のようなところで天と地をのみ直に相手にし、魂を音響のうちに組織づけているといった印象。余分なものが皆そぎ落とされている。

ウストヴォリスカヤと何の共通点もない、というよりもある意味正反対の作風だが、同じ現代ロシアの小説家ウラジーミル・ソローキンの長篇に『ロマン』という上下二巻本の奇怪な長篇がある。

若い二人の牧歌的な恋愛が古きよき19世紀ロシア文学のごとく緩やかに繰り広げられる長大な作品だが、その終盤、恋人たちが結婚式を挙げるシーンで、斧を手にした新郎が何の理由も必然性もなく、突然村人全員を虐殺し始める。

つまりこの打上げ花火のごとき最後の大破壊が書きたいがために、孜々として19世紀ロシア文学の模造品を作りあげてきたという、極めて凶悪なポストモダン的長篇なのだが、ここで気になったのは終盤の無意味=非意味=超意味の大虐殺シーンで、斧を振りかざして走り回り、殺戮の限りを尽くす新郎の後を、実直にずっとついて回る新婦が鈴を鳴らし続けていることだ。どういう意味合いの行為なのかは定かでないが、これ以上ないというほど殺伐としたクライマックスに、不可思議な宗教儀礼的気配を濃厚に添える行為である。

ウストヴォリスカヤにせよソローキンにせよ、どこまで純粋化しても、どこまで過激化しても、その足元には常にロシアの大地が濃密に不透明に、母胎のごとくに濁った重力を働かせている。その混濁との遠心力において、ウストヴォリスカヤは、この世のものならぬ恐怖に充ちた黙示録的ヴィジョンを顕現させる。

絶句度 ★★★★
打撃音頻発度 ★★★



2010年1月15日金曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔2〕小豆粥

ホトトギス雑詠選抄〔2〕
冬の部(一月)小豆粥

猫髭 (文・写真)


明日死ぬる命めでたし小豆粥  高浜虚子

今日は十五日、小正月で、餅を入れた小豆粥を食べる習わしがある。前の日から丁寧に灰汁抜きを繰り返す手間はあるが、余り甘くしないでいただくと、素朴な味でおいしく、「粥節句」という節目のようなものである。

『虚子編新歳時記』(三省堂)には、「十五日あづきがゆを煮て天狗を祭れば、年中の邪気を除く」という曲亭馬琴編『俳諧歳時記栞草』(岩波文庫)に載る「世風記」の古説を引いているが、屠蘇と同じで厄払いである。『栞草』には「冬至粥」として「赤豆の粥」も出ており、こちらは中国の歳時記を引くが、これも厄払いである。

山本健吉編『最新俳句歳時記』には、「粥占(かゆうら)」という粥箸(「粥杖」)で、小豆粥をかきまわしてその年の豊作を占うとあり、また、新嫁の尻を叩くと子に恵まれるというので「嫁叩き」という風習もあったそうな。この粥に入れた餅を「粥柱」とも言うとあり、大正九年の虚子の掲出句とともに、原石鼎最晩年昭和二十六年の、

  鵯鳴いて相模は晴れぬ粥柱 原石鼎

という大きな句が並んでいる。

角川文庫の『俳句歳時記第四版 新年』(俳人への全国雑煮アンケートが付録で付いていて楽しめる)には、「十五日粥」を竪題として「小豆粥」は横題になっており、満月の日の粥という意味で「望の粥」とある。で、今宵はというと、真っ暗の朔の月である。実は今年は元旦4時13分が満月で、かつ月食(交食)だった。つまり、今年は「望の粥」ではなく「朔の粥」を食すことになる。こういう変なことになるのは、新暦だからである。月の満ち欠けを元とする旧暦ではありえない。

小正月の日に小豆粥の虚子の句を引いたのは、「小正月」の句を引こうとして、どの歳時記にも「小豆粥」は小正月に食すとあるのに、『虚子編新歳時記』には「小正月」が出て来ないため、不思議に思って調べた結果でもある。驚くべき事に「正月」もない。

虚子の俳句革新は、「雑詠」という名の元に自由にあらゆるものを詠ませる闊達さを当時の俳人たちに与えたと同時に、虚子は『虚子編新歳時記』を昭和9年に世に問うことによって、新暦に添って、歳時記から春夏秋冬も撤廃し、時候・天文・人事等の区分けもなくし、現在の一月から十二月までのすべての移ろいを詠める新しい季題へと革新することも試みたのである。『虚子編新歳時記』の表紙には「花鳥諷詠」と大書されているが、虚子の「花鳥諷詠」というのはそういう自然も人事も区別なく詠むということに他ならない。

「風雅におけるものの造化(天地・宇宙・自然)にしたがひて四時(四季)を友とす。見るところ花にあらずといふ事なし。おもふところ月にあらずといふ事なし」(『笈の小文(おいのこぶみ)』)という芭蕉の言葉を、つづめて「花鳥諷詠」と言っただけなのだ。

掲出句には、一休宗純(立川談志師匠にそっくり)の「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という風狂はない。どちらかというと子規の『病牀六尺』二十一の、
余は今まで禅宗のいわゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合でも平気で生きて居る事であつた。
に連なる諷詠である。掲出句の出典は昭和七年版『ホトトギス雑詠全集十二』。



2010年1月14日木曜日

●おんつぼ25 バド・パウェル 山口東人


おんつぼ25
バド・パウェル
Bud Powell


山口東人


おんつぼ=音楽のツボ


バド・パウェルがアメリカからパリへ向かったのは1959年。パリ行きは、以前からの麻薬の影響だったのか、精神の病が理由だったらしい。ジャズは健康体よりも病んでいたほうが似合う、その代表格がバド・パウェルだ。そのパリに、テナーサックスの名手デクスター・ゴードンがいて『デクスター・ゴードン・イン・パリ』のなかで二人は共演している。

バド・パウェルの演奏で最良のアルバムといえば世間では「アメイジング」と相場が決っている。それを否定しないが、彼が病んでパリに渡ったあとの演奏はもっといいんじゃないか。アーティストは絶頂期のみならず最期まで生きた時間の中で評価すべきだ。

したがってぼくのベストアルバムは『バド・パウェル・イン・パリ』となる。はじめて聴いたのは、とうの昔になくなった八重洲口のジャズ喫茶『ママ』でのこと。その当時、「クレオパトラ」ばかりかかっていたから、こりゃいったい誰の演奏かと疑った。ジャケットが見えた。ブルーノートとは違う枯れたデザインだ。負のインパクトのような、そんな頼りない感じがして新鮮だった。

このアルバム、パリのサンジェルマンの小さなジャズクラブで録音されている。そんなバドにゆかりの店“シャ・キ・ペシュ(魚を釣る猫)”がまだあるというので、いつか行ってみたいと思っていた。極寒の一夜、まったく知らないパリの街を探し、細い路地でようやく見つけたのが1977年冬のこと。あいにく地下にあったその店は閉まっていた。そこでマル・ウォルドロンの演奏を聴こうとして同じように店に訪ねてきていた英国青年と出逢った。彼は、パリでカバンを作っている職人だという、自分が作った厚手の皮のしっかりしたショルダーバッグを気前よくくれた。そのとき彼はどういうわけかフランス語の禅の本もくれたのだった。気前がいい彼はヒッピー、これから地中海の島イビサに行くと言っていた。

パリにおけるバド・パウェルの演奏は、アメリカ時代の神懸かり的なピアノタッチはまったく消えている。一曲目「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」での、らしからぬテンポの高揚感。次の「懐かしのストックホルム」では、演奏中に突然起こす和音のズレが侘びている。3曲目「ボディ・アンド・ソウル」は妙な流れだ。このあたりで切れそうだ、と思わせてからいきなり湧き起るアイデア。そして無理矢理につないでしまう。こんな具合で全曲なんともスリリングな展開である。ときどき見せるもたつき加減は、どこか鷹揚で晩年の志ん生に似ている。それにくらべたら初期の「クレオパトラ」など芸が幼い。

やっと人生の安寧を得たのか、味わい深いアルバムを残したパリでの5年間だった。アメリカへ帰国して2年後の1966年にバド・パウェルは亡くなる。

志ん生度 ★★★★
滋養度 ★★★★


『バド・パウェル・イン・パリ』
デューク・エリントンのプロデュースによりビ・バップの名曲を中心としたパリ・レコーディング。(インフォより)
バド・パウェル(p),ギルバート・ロヴェール(b),カール・ドネル(ds)

2010年1月13日水曜日

〔link〕句帳

〔link〕句帳

作った俳句の行方:B.U.819
句帳いろいろ:俳句
句帳:不作法サムライ
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2010年1月12日火曜日

●コモエスタ三鬼02 狂騒のトゥエンティーズ

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第2回
狂騒のトゥエンティーズ

さいばら天気


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さて、1920年代。

いまここから1920年代を眺め、3つのポイントを挙げてみます。第一は、アメリカの好景気。第一次世界大戦(1914-18)後のアメリカ経済は、1929年10月24日「暗黒の木曜日」(=世界恐慌のはじまり)までは、たいそうな勢いで、世界最富国の地位を盤石とし、同時に、その後100年近くに及ぶ「大量生産・大量消費」の流れがこの時期に決定づけられた。

景気がいいので娯楽にもエネルギーが向かう。ジャズは、音楽ジャンルを超えて「享楽」の象徴となる。陰々滅々、内省に向かう遙か以前のジャズです。だいたいがダンスとセットの、高らかな調子(いわゆる「テンション、高い」)。人が集まれば(つまり都市)、大いに騒ぐ。まさに「ローリング・トゥエンティーズ」(狂騒の20年代 Roaring Twenties)というわけ。



第二は、パリやベルリンの芸術運動・芸術振興。例えばダダ(イズム)はすでに1910年代半ば、チューリッヒで始まっていて(トリスタン・ツァラですね、ダダの命名者)、続くニューヨーク・ダダ(ピカビア、デュシャン等)は1910年代後半。1920年代になると、パリが盛り上がる。フランスの芸術家(ブルトン、エリュアール、ルイ・アラゴン等)だけでなく、ピカソがいたり、アメリカからヘミングウェイやフィッツジェラルドが来たりで、いわゆる豪華な芸術サロンが出来上がる。

パリの1920年代は、20世紀の芸術革新(シュールレアリスムやらなんやら)の原典というか、揺籃というか、まあ、「ここから始まった」感が強い。その意味で、1920年代は特別な時代といえる。

ベルリンでも、ロシア革命(1917)後の芸術家の流入やらで、大いに盛り上がる。カフェ文化、キャバレー文化が花開いた。表現主義映画の名作が多く作られたのもこの時代(フリッツ・ラング「メトロポリス」は1927年)。また、ベンヤミンがスイス・ベルン大学からベルリンに戻ってくるのが1920年。しばしばパリに出かけ、フランス題材の仕事も多く残すこととなる。

このあたりの事情については、本がたくさん出ています。例えば『現代思想』増刊「総特集:1920年代の光と影」(青土社1979年6月)は、当時、オシャレ系の人(とくに美大出身系)の書棚にはかなりの高確率で立て掛けてあったように思う。この1冊でてっとり早く(アメリカや日本の1920年代も含め)、美味しいツマミ食いができます。

パリでサロンの中心人物のひとりだったガートルード・スタインの『アリス・B・トクラスの自伝 わたしがパリで会った天才たち』(筑摩書房1971)、『パリ フランス 個人的回想』(みすず書房1977)は絶版のようですが古書で容易に入手できます。そのほか参考文献は数限りない。一冊おすすめするなら、『優雅な生活が最高の復讐である』(カルヴィン・トムキンズ/新潮文庫)。題名どおり優雅な交遊のさまが描かれたノンフィクション。

アメリカやらパリやらのお祭り騒ぎは、旧来の出版メディアだけでなく、このころ本格的に盛んになったラジオやレコードでたくさんの人にその気分が伝わったことも付け加えておいていい。20世紀は「大衆の世紀」と言われますが、それはメディア(ラジオ)や複製技術(レコード)の広がりと密接です。



最後、第三は、日本。アメリカの好景気とは遠く、日本の1920年代は不景気でした。第一次世界大戦中は軍需景気にわいたものの、戦後はすぐに景気悪化。1923年の関東大震災、1927年3月の金融恐慌と、良い目は出ず。で、あげくが1929年の世界恐慌だから、なんとも苦しい10年間。

ただし、日本の1920年代で注目したいのは、景気ではなく、関東大震災です。

たしか小林信彦が言っていたのは(『私説東京繁盛記』)、東京は三度破壊された、と。最初は関東大震災によって、次は太平洋戦争によって、最後は東京オリンピックによって。

東京にとって、関東大震災が巨大な衝撃だったこと、それはそうなのですが、歴史的な大きな節目になったとも言えそうです。太平洋戦争(とりわけ敗戦)が分水嶺と考えられることが多く、それはそれで当たっていますが、文化的側面、とりわけサブカルチャー分野では、関東大震災の「前」と「後」で大きく違う。変化のひとつを約言すれば、ヨーロッパからアメリカへ。日本における「海外」性のシフト(註1)

日本文化史というと、和製の響き、三味線が鳴って猪脅しがカッポーンてな具合に思うかもしれませんが、明治以降は「海外」という要素は存外大きい。そこで、関東大震災ですが、その以前から以後へ、海外の主成分がヨーロッパからアメリカへ、急激にシフトするのですね。

これにはアメリカの伸長が影響大。日本が輸入する映画が、震災以前・以後で欧州映画から米国映画へ、本数からして明らかにシフトするのは、チャップリン映画が世界的に大当たりしたことがあります。でも、それだけでもない。文化的覇権の欧州からアメリカへの移管について、日本では、関東大震災という大事件が、変化を変化としてくっきりと浮き上がらせる働きをしたといえそうです。カタストロフは、いわゆるガラガラポンの役割を果たしますから、旧から新へ、大変化の契機としては申し分ない。関東大震災については、ほかにも興味深いことがたくさんありますが、別の機会(って来るのか?)に譲ります。

まとめると、三鬼が20歳代(青年期)を過ごした1920年代は…

 アメリカの伸長と拡大
 パリやベルリンでの芸術革新の始まり
 日本の関東大震災

…と、この3つの大変化が生起した、その後の100年を決定づけるような大激動の10年間だったといえます。

そこで、さて、三鬼が、この10年をどう過ごしたか。そこが肝腎なわけですが、次回、それを見ていくことにします。

(つづく)


(註1)くだけた言い方をすれば、日本人の「アメリカ好き」は、敗戦後の「ギブミーチョコレート」に始まったのではない。すでに1920年代、アメリカ文化の受容は始まっていた。以来、現在に至るまで、その傾きは変わらず継続。太平洋戦争の4年間だけを例外的な「絶縁期間」と捉えるのがよいと考える。

  ハルポマクルス神の糞より生れたり  三鬼 (1936年の作)


2010年1月10日日曜日

〔人名さん〕湯冷め

〔人名さん〕
湯冷め

湯冷めとは松尾和子の歌のやう  今井杏太郎

湯冷めを「音」にした俳句はひょっとしたら、これがはじめてかもしれません。しかも絶大な説得力をもって。

松尾和子(1935 - 1992)と今井杏太郎(1928年生まれ)とは7つ違い。松尾和子をリアルタイムで聴いていた世代ならではの句とも。

(さいばら天気)

松尾和子の歌(動画)はこちら

2010年1月9日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔1〕屠蘇

ホトトギス雑詠選抄〔1〕
冬の部(一月)屠蘇

猫髭 (文・写真)


屠蘇つげよ菊の御紋のうかむまで 本田あふひ

今年から高浜虚子選「ホトトギス雑詠」の中から毎週ほぼ一句ずつを御紹介する。先ずは新年を寿ぐ一句。昭和七年の作。

屠蘇は正月の御節料理に欠かせない、日本酒に屠蘇延命散(山椒・細辛・防風・桔梗・乾姜・白朮・肉桂などを調合)の入った袋を浸して味醂を混ぜて甘くした延命長寿の縁起による厄落としの仙酒で、御節料理とともに、朱塗りの銚子と大中小の三盃を重ねて盃台に載せて出される。

我が家では無地の朱盃だが、松竹梅などの縁起模様が銚子や盃に描かれた豪儀なものもある。掲出句は「菊の御紋」なので、作者本田あふひ(註1)の夫は貴族院議員だったから、宮中より賜わった盃を屠蘇で満たしているのだろう。

高浜虚子の最大の遺産はと言えば、わたくしは「ホトトギス雑詠選」にあると断言して憚らない。「選もまた創作なり」という虚子の雑詠選は、虚子の選によって名を成した綺羅星の如き俳人たちの作品を見れば、ある意味、原石を玉と見抜いた虚子の眼力による創作だったと言える。

「ホトトギス」に初めて雑詠欄が設けられたのは明治41年10月号からで、翌明治42年8月号で、虚子が小説に専念するために中断し、三年後の大正元年(明治45年)7月号から再開され、昭和26年3月に高浜年尾に選を譲るまで、主だった「ホトトギス雑詠全集」だけでも、約30年にわたり全29冊約24万句を数える。この膨大な「ホトトギス雑詠全集」から、虚子は闊達自在な句を例句として採用し、古い季語は取捨選択し、新しい季題を採用して「虚子編新歳時記」を編んだ。

虚子選「ホトトギス雑詠」は、一結社としての「ホトトギス」の至宝に止まらず、俳壇の至宝でもあり、日本文化の至宝でもある。

残念ながら、「ホトトギス雑詠選」は、ホトトギス百年記念として『ホトトギス雑詠巻頭句集』と『ホトトギス雑詠句評会抄』が出ているだけで、その遺産の全貌を開陳するまでには至らず、明治41年から昭和12年までの通巻500号雑詠入選句10数万句から約1万句を厳選した袖珍版の『ホトトギス雑詠選集』(朝日文庫、全四巻)も、長らく絶版のまま打ち捨てられており、わたくしは俳句愛好者の一人として満腔の不満を申し上げるものである。

ここは是非、虚子の『俳句とはどういうものか』『俳句の作りよう』子規の『仰臥満録』を復活させた角川ソフィア文庫から、『ホトトギス雑詠選集』だけでも再刊してもらいたい。

なお、西村睦子『「正月」のない歳時記 -虚子が作った近代季語の枠組み』(本阿弥書店、3500円)が昨年末刊行された。虚子の功罪を論ずるもの、ほとんどが「ホトトギス雑詠全集」と「虚子編新歳時記」の営為に敬意を払わぬ拙速な論議を重ねるばかりの中で、近来稀に見る労作を喜ぶ。

註1:本田あふひ(1875‐1939)大正-昭和時代前期の俳人。明治8年12月17日生まれ。甥の島村元とともに高浜虚子に師事する。夫の貴族院議員本田親済と死別後、「ホトトギス」同人となり、婦人俳句会、武蔵野探勝会などを指導。謡曲にもすぐれた。昭和14年4月2日死去。65歳。没後に「本田あふひ句集」が刊行された。東京出身。華族女学校卒。旧姓は坊城。本名は伊万子。(「講談社 日本人名大辞典」+Plus)

2010年1月8日金曜日

●絶賛投句受付中

絶賛投句受付中

もうひとつのスピンオフ「毎日が忌日」で絶賛投句受付中
毎日が忌日

2010年1月7日木曜日

●七日

七日

何をもて人日の客もてなさん  高浜虚子

人日や十顆の胡桃減りもせず  佐藤鬼房

人日の椀に玉子の黄味一つ  野澤節子

人日のこころ放てば山ありぬ  長谷川双魚

人日の雨青年をおびやかす  原 裕

七日客七種粥の残りなど 高浜虚子

2010年1月6日水曜日

〔人名さん〕年始客

〔人名さん〕
年始客


鬼太郎のような男で年始客  斉田仁

鬼太郎が人かどうかは別にして、俳句では口うるさいことをおっしゃる方がいるもんで(ここ、落語風に)、固有名詞はいけねえ、人名なんぞもってのほか、てな調子で、他人様が好きで捻る句に、なんやかんやと難癖・御助言をくださる。飲み屋街を歩けば「先生」「社長」」とやたら声がかかるが、社長はともかく俳句世間ほど先生様の多いところもございませんですよ、ええ。

と、まあ、与太はこれくらいにして、実在・架空を問わず人名の入った句を取り上げるのが新シリーズ〔人名さん〕です。そんな俳句は外道俳句とおっしゃる方は怒りながら、そうでない方は心穏やかに読んでいただければ幸いです。

さて、年始。

昭和戦後は、親戚への挨拶よりむしろ商売・ビジネスがらみの「年始まわり」が目立つように思うのですが、どうでしょう。上司の私宅への年始、それから仕事始めの数日を得意先への年始にあてるとか、ですね。『大衆文化事典』(弘文堂1991)によれば、江戸末期から明治には、商家の主人が使用人を伴って年賀に歩いたといいます。

「鬼太郎のような男」は、なぜかは知りませんが、ひとり、のような気がします。玄関に出てみると、ぼそっと突っ立っていて、ああ、今年も来たか、なんて。

親戚の感じはしない。会社の部下のような気は、少しはしますが、ちょっと違う。不思議な知り合いというのが誰にもあるもので、この人は、そのたぐい。一年に一度、この年始のときだけ、顔を見る感じです。

  御年始の返事をするや二階から  小林一茶

年始は、目下が目上を訪ねるものと、一茶(1763-1828)の時代から決まっていたようです。

(さいばら天気)

2010年1月5日火曜日

●コモエスタ三鬼01 20世紀よりひと足早く


コモエスタ三鬼
第1回
20世紀よりひと足早く

さいばら天気


咳きて神父女人のごと優し  西東三鬼    咳きて=しはぶきて

第一句集『旗』(昭和15年=1940年・三省堂)冒頭に配された「アヴェ・マリア」5句(1935年作)。その4句目。

私が十代の頃に知っていた神父はベルギーの人で「女人のごと優し」い人だった。咳ではないけれど洟を噛むとき、ポケットから白いハンカチを出し、噛んだ。しわくちゃのハンカチをもっとしわくちゃにしてまるめ、またポケットにしまう。日本人には、ハンカチをこのように使う習慣はない(本来そう使うものであろうけれど)。寛容というものをまだ学習していない子どもの目には、神父の行為がなんだか汚く映った。そうしたちょっとした違和感は、洟を噛んで赤くなった鼻、とても高い鼻と併せ、「とても外国」なのだった。



さて、西東三鬼。生年は明治33年(1900年)。19世紀最後の年。

同じ生年の人を拾ってみると、日本では、石坂洋次郎、稲垣足穂、大宅壮一、杉原千畝、永田耕衣、中村汀女、平野威馬雄、二村定一、三好達治。海外では、ナタリー・サロート、サン=テグジュペリ、イヴ・タンギー、ルイス・ブニュエル、クルト・ワイル。

こう並べても脈絡は見出せないが、時が経てば見出せるかもしれない。

なぜ、生年にとりあえずこだわっているのかといえば、1920年代を、20歳代で過ごした。そのことが気にかかったから。いまは何かを言うことはできないけれど、そのうち何かがわかるかもしれない。

ついでに1歳年長。すなわち1899年生まれは、阿波野青畝、石川淳、右城暮石、川口松太郎、田河水泡、田谷力三、橋本多佳子、丸山薫、宮本百合子、山手樹一郎。海外では、フレッド・アステア、デューク・エリントン、ジェームズ・キャグニー、エーリッヒ・ケストナー、グロリア・スワンソン、ウラジーミル・ナボコフ、アルフレッド・ヒッチコック、フランシス・プーランク、アーネスト・ヘミングウェイ、ハンフリー・ボガート、アンリ・ミショー。

もうひとつついでに1歳年少、1901年生まれ。秋元不死男、小栗虫太郎、海音寺潮五郎、川崎長太郎、神吉晴夫、木村伊兵衛、高橋新吉、円谷英二、中村草田男、羽仁五郎、阪東妻三郎、村野四郎、村山知義、柳家金語楼、柳家三亀松、山口誓子。海外では、ルイ・アームストロング、ゲイリー・クーパー、クラーク・ゲーブル、エド・サリヴァン、アルベルト・ジャコメッティ、マレーネ・ディートリッヒ、ウォルト・ディズニー、ヤッシャ・ハイフェッツ、アンドレ・マルロー、ジャック・ラカン、アンリ・ルフェーヴル。

こうした人たちはみな、みずからの20歳代と世界の1920年代をほぼ重ね合わせて暮らしたのですね。



というわけで、「コモエスタ三鬼」と題して、西東三鬼のことを何回か書きます。長い連載になりそうですが、まとまった論考にはなりません。一本一本さえ、まとまらない断片。覚え書き。そのときの気分でスタイルも変わっていきそうです。そんなこんなですが、よろしけば、お付き合いください。当面は毎週火曜日掲載を基本にいたします。

いまのところの主な参考文献は次のとおり。

『西東三鬼全句集』沖積舎・2001年
『西東三鬼集』朝日文庫(現代俳句の世界9)1984年
西東三鬼『神戸・続神戸・俳愚伝』出帆社・1975年
『俳句現代』2001年1月号(角川春樹事務所) 読本 西東三鬼

その他の参照・引用を含め適宜示すこととします。

(つづく)

2010年1月3日日曜日

2010年1月1日金曜日

■2010新年詠 大募集


2010新年詠 大募集

応募要綱はこちら▽
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/12/2010.html


2010/1/3 追記
2010新年詠 59人集 ≫こちら(第141号)

●A HAPPY NEW YEAR

A HAPPY NEW YEAR