2010年2月27日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔8〕実朝忌

ホトトギス雑詠選抄〔8〕
春の部(二月)実朝忌

猫髭 (文・写真)


庭掃除して梅椿実朝忌 星野立子 鎌倉 昭和8年

初島は沖の小島よ実朝忌 遠藤韮城 東京 昭和14年

実朝忌由井の浪音今も高し 高浜虚子 昭和16年

虚子編『新歳時記』の二月の終わりの季題は「実朝忌」である。すなわち今日である。
陰暦一月二十七日は鎌倉三代将軍源実朝の忌日である。二十七歳右大臣に任ぜられ、翌承久元年この日鶴岡八幡宮にその拝賀の儀を行なつた帰途、甥の公暁のために殺されたのは皆人の知るところであらう。和歌は藤原定家の教を受けたことがあつた。家集金塊集は蒼古雄勁、独自の調をなしてゐる。鎌倉扇ヶ谷寿福寺では毎年実朝忌を修してゐる。
寿福寺は、左手から墓所に上がると、右手の実朝の墓がある窟(やぐら。山腹に横穴を掘って墓所としたもの)の手前の窟に虚子の墓があり、立子、年尾、つる女と一族の墓が囲繞して、彼岸ともなれば「ホトトギス」俳人日和になるほど掃苔で賑わう。つまり、寿福寺は実朝の菩提寺であるとともに虚子の菩提寺でもある。

虚子は、歳時記を陰暦から陽暦へ舵を切った近代歳時記の生みの親だが、すべてに舵を切ったわけではない。例えば「実朝忌」。陰暦1月27日をそのまま陽暦に移せば、実朝忌は1月の季題になるが、『新歳時記』は2月の陰暦のままである。寿福寺の実朝忌が2月27日に修されるためである。「芭蕉忌」もそうで、「時雨忌」と言われる以上、陰暦10月12日で陽暦にそのまま移行すると秋になり「時雨」が陰暦10月を「時雨月」とも言うように、そぐわないので「芭蕉忌」は11月の陰暦の季題のままとなる。「蕪村忌」は逆で、蕪村は陰暦の12月25日が忌日なので、陽暦では陰暦は1月25日になるが、歳末の忌日を新年を迎えての忌日に移行させるのもおかしいので、そのまま新暦12月の季題に据え置く例外としている。

もともと月の満ち欠けの運行354日を基準とした陰暦と、太陽の黄道上の運行365日を元とした陽暦とでは年11日のずれがあるから、3年でひと月近いずれとなり、陽暦が閏日を挿入して誤差を調整するところを、陰暦はひと月の閏月を挿入して調整しなければならないため、陰暦から陽暦への完全な移行には無理があるので、こういう例外は少なからずある。

実朝忌は、鎌倉では2月27日に寿福寺で修されるが、京都の大通寺では平成8年より陽暦の1月27日で実朝忌が修されている。角川書店の『新版季寄せ』(傍題が豊富)では「実朝忌」は陰暦正月27日として、冬の部としている。

鎌倉三代将軍源実朝は『金槐和歌集』(岩波文庫)一集を遺している。「金」は鎌倉の「鎌」の偏、「槐」は大臣の意で鎌倉右大臣集という意味になる。歌人の斎藤茂吉が貞享四年の古写本を元に校訂したが、その後、昭和四年に佐々木信綱によって、それよりも古い健暦三年の、実朝の師である藤原定家が自ら巻頭を記した古写本が発見されるという劇的な出来事があり、茂吉はその対校半ばで他界したので、後世が定家所伝本を含む異稿を注に並べているため、興趣尽きない名歌集となっている。

実朝のよく知られた歌を定家本に添っていくつか挙げてみる。

萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきがはかなさ

箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ

おほ海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも

くれなゐのちしほのまふり山の端に日の入るときの空にぞありける

山は裂け海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

遠藤韮城の句は、実朝の「箱根路」の歌への返句と言える。「初島は沖の小島よ」と本歌取りして「実朝忌」の季題を付けただけだから、付き過ぎとも言えるが、忌日句は付き過ぎるくらいに思い入れて詠むものと言われるので、忌日句の見本のような句でもある。
韮城の生年月日は不明だが、この句の翌年昭和14年に、虚子は百花園で韮城の古稀祝に参じており、『武蔵野探勝』(有峰書店新社)にも同行して、韮城宅でも句会に参じているため、虚子には近い人である。昭和25年に虚子の序文で遺稿集『韮城句集』(潮花会)が出された。

虚子の掲出句も「おほ海の」の歌に照応した一句である。この句は同時に三句詠まれた実朝忌の句のひとつで、他の二句は以下の如し。

鎌倉に実朝忌あり美しき    昭和16年2月3日

寿福寺はおくつきどころ実朝忌  同上

「鎌倉に」の句は歳時記でよく見かけるが、虚子自身は掲出句を『新歳時記』には残している。虚子のスローガンと言えば「客観写生」と「花鳥諷詠」だが、「美しき」と言われても、実朝忌がなぜ美しいのかはわからない。虚子しか与り知らぬ主観句だからであり、この句が詠まれたのは2月3日とあるので、実朝忌の法要に際しての句ではないから、「寿福寺は松高く苔清らかな寺である」という法要の景でもない。この「美しき」は虚子が何を美しいと感じたかの伝達性が無い句と言える。にも関わらず「美しき」の句は「鎌倉右大臣実朝の忌なりけり 尾崎迷堂」という、どかんとした一句と並んでよく引かれる。

手毬唄かなしきことをうつくしく 虚子 昭和15年12月1日

という、この「うつくしく」のようには一読響かない。この「かなしきことを」受けての「うつくしく」には、そのまま手毬を唄と同時に渡されたような手触りがある。つまり、心情という主観を客観として虚子は詠んでいることになる。

忌日句を味わうには、実朝への読者の思い入れが必要となるということになるだろうが、28歳で弑された青年歌人への哀惜が「美しき」という言葉を導き出していると解しても、実朝の歌を知らない読者には伝わらない。が、幸いな事に、教科書で実朝の歌が載らない古典はないから、「箱根路」や「おほ海の」の歌は人口に膾炙しており、これらの歌は虚子も述べているように「蒼古雄勁」と解されることが多い。

とはいえ、小林秀雄の『実朝』(昭和18年)のように「大変悲しい歌」と読む者もあり、「おほ海の」歌も「かういふ分析的な表現が、何が壮快な歌であらうか」と「誰も直かに作者の孤独を読まうとはしなかつた」と子規だけが実朝の孤独に驚嘆したと書かれると、実朝の歌が皆悲劇の歌のように思えて来るという小林節の強烈さはある。

つまり、虚子の「美しき」の句は実朝の歌へと誘うが、それは各読者の解釈によって「美しき」は千差万別であり、虚子は、逆に伝達性のない詠み方をすることによって、読者の恣意的な読みをすべて包含してしまう、ということになり、その各人が「実朝忌」を修することへの誘い水のような詠み方が印象に残るので、よく引かれるのかもしれない。

わたくし個人にとってみれば、実朝と言えば「萩の花」の歌が白眉である。

萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきがはかなさ

幽玄の極致とも言える美しさで、我が家のそばの巡礼古道の入口は秋になると萩の花が咲き乱れるが、月の美しい夜はひとり萩の道を歩き、ひそかにこの歌を偲び、この道を「実朝の道」と名づけている。富士の見える高台まで行けばそこには「実朝の海」が月光に光る。

それにしても、冒頭の星野立子の、

庭掃除して梅椿実朝忌 星野立子

の明るさは際立つ。忌日という思い入れには一切ふれずに、このように普段着で「実朝忌」を詠める自然さに驚く。「梅」「椿」「実朝忌」と季ぶくれ三連発だが、「庭掃除して」という毎日の繰り返しの中で、梅が綺麗、椿も綺麗、で、実朝忌だったわ今日は、といった風情で、実にさりげなく季題が納まる。まさしく、「あるがままをあるがままに」という「客観写生」であり「花鳥諷詠」であり、それも虚子のように御託を並べずに、作品ですっと差し出す。虚子が写生を立子に逆に教えられたと言うのもむべなるかなの自由な一句である。

今週は「春寒」から一転、気温が20℃近くまで上がる春一番が吹きまくり、26日より風雨となって、夜半に入って鎌倉は篠突く雨となった。2・26事件の時は雪だったが、今年は雨である。今朝も雨脚は衰えて春雨の風情となり、谷戸の上から見下ろす鶴岡八幡宮は霞んで見えない。写真は4日前の23日の快晴の日の、鶴岡八幡宮の実朝を暗殺した公暁が隠れていたとされる大銀杏の写真である。見上げると真上に上弦の昼の月がかかっていた。実朝が弑された時、実朝が最後に見たものはこの昼の月だったかも知れない。


補遺

本連載第三回の「大寒」の「大寒や白々として京の町 木犀 昭和三年」について「作者の木犀は、大阪の俳人とのみで、詳細は不明。識者の助言を乞う。」と書いたところ、「ホトトギス」の今井肖子氏が、昭和二年と三年すべての「ホトトギス」を調べるという労をおとりくださり、作者は桂木犀氏と判明した。そればかりか、雑詠に掲載された桂木犀氏の句を拾い出して送っていただいた。佳句が並ぶ。記してここに感謝と敬意を表したい。

鬼灯の色つくまゝに枯れにけり   昭和2年1月号

燈籠のまたゝき細り消えにけり   同2月号

雲雀野をめぐる内山外山かな    同5月号

春の夜の石段上る女かな      同7月号

大琵琶の水ひく池や濃山吹     同9月号

簀の影の顔に流るゝ茶摘かな    昭和3年7月号




2010年2月26日金曜日

2010年2月25日木曜日

●ペンギン侍 第25回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第25回 かまちよしろう

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つづく

2010年2月24日水曜日

●三寒四温

三寒四温

返信の来ずに三寒四温過ぐ  上田五千石

七曜をつなぐ三寒四温もて  鈴木栄子

贋作師三寒四温の壺作る  西村我尼吾

Wikipedia
気象予報士三井良浩のお天気裏話

2010年2月23日火曜日

●コモエスタ三鬼08 圧倒的に「ガバリ」


コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第8回
圧倒的に「ガバリ」


さいばら天気



三鬼に一句、特別な句があるとしたら、この句だろう。

  水枕ガバリと寒い海がある  三鬼(1936年)

最もよく知られる三鬼句というだけではない。三鬼にとって特別な意味をもつ。
この句を得たことで、私は、私なりに、俳句の眼をひらいた。(俳愚伝)

(…)それまでの私は、私自身を発見することが出来ず、作品はただ修辞の羅列であった。そのために私は焦慮し、懊悩したが、大患に罹って、その最中に、計らずも「水枕」の句を得て、ようやく俳句というものが、わかりかけ、細い一本の道が、未知に向かって通っているのが見えた。(同)
いくつもの述懐から、この句が三鬼にとっていかに重大な出来事であったかがわかる。

引用中「大患」とあるのは「肺結核の急性症状」(同)。高熱の続く日々を過ごすなかから、この句が生まれた。

句集『旗』では「三章」のうち一句として収録。の水枕の句を、「小脳を冷やし小さき魚を見る」「不眠症魚は遠い海にゐる」の2句が挟む。病中、身体と海が繋がるイメージから、何句か句作を試みたと推測できる。「小脳」の句、「不眠症」の句は、いずれも想念が勝ち、また詩的な設え。「水枕」の句は、水枕という確かなブツが存在する点で、他2句とは、出来映えのみならず、句の成り立ちからして違う。



この句について「一句観賞」のようなことをいまさらここで繰り返すこともないかもしれないが、話題として、いくつか。

『円錐』第44号(2010年春)掲載の沢好摩・山田耕司対談「新興俳句(4) 西東三鬼」で、山田は、「寒い海がある」の「が」に注目する。
(…)例えば「海である」だったら、もうこれはただ水枕の解説なわけですね。水枕を使っているときに水がガバリと動いて、水枕が寒い海に感じられたというような解説が多いわけですが、それでは「ガバリの寒い海である」だと思うんですよね。「水枕」と「海がある」というところの論理とは、かなり切れていると思うんです。
たしかに、「海である」では水枕の描写にとどまる。「海がある」は、文字どおり海の存在をそこに置いたものだろう。前者は、海が小さく身の元へと縮小された感、後者は逆に、水枕が海の大きさへと拡張された感という違いがある(こう読んでは、山田氏が言うようには「切れ」ないかもしれないが)。

水枕の水が動いて、との読みは、あり得るだろうが、違和感がある。「動く」の省略とは読まなかった。水が動く・動かないにかかわらず、「ガバリ」と「寒い海」はそこにあるのだ、と読んでいた。

一方、「がばり」ではなく「ガバリ」。この点はどうだろう。私は表記フェチではないが、存外この箇所にひっかかった。

歌人の河野愛子は、
「水枕がばりと」よりは「ガバリ」のほうが、ずっとガバリ感がはっきりし、水枕に即いている感じを受ける(…)
と書いている(『西東三鬼全句集』栞)。「ガバリ」のほうがガバリ感がはっきりする、とは、これでもかの同義反復だが、とてもよくわかる気がする。

寒い海には、「ガバリ」のとんがった字でなくてはならない。「がばり」の柔らかい字の形ではダメだ。同時に、あの水枕の、ゴム感(ベタッとした感触、肉色のあの色、匂い)を伝えるには、やはり「ガバリ」だろう。

「水枕」の句の魅力については、韻律がもたらす効果も大きい。この句のビート感。その芯を成すのが「ガバリ」の3音である。

加えるに、誰にも(俳句読者でなくとも誰にも)句意、句が描く世界がよくわかるという点は、この句の最大の美点かもしれない。

この句よりももっと好きな三鬼句が少なからずある私も、「水枕」の句が圧倒的な存在感をもつこと、いってしまえば偉大な句であることを強く思う。

そして、これが、作句を始めて2年余でもたらされたという事実に、ちょっと驚く。

たった2年?

でも、そんなものかもしれない。「俳句の書き手は、いきなり出来あがって登場することがある。」(上田信治)。

処女作や一年目で「出来上がった句」「代表作」をものにする俳人に比べれば、三鬼は2年余の「焦慮」「懊悩」ののち、である。「俳句の天才」とはいえない。しかしながら、圧倒的な一句、偉大な一句をもたらすことは、「俳句の天才」であることよりもずっと稀有なことだろう。

(つづく)

〔参考〕
『西東三鬼全句集』沖積舎・2001年
「俳愚伝」:『俳句』1959年4月号~60年3月号(『神戸・続神戸・俳愚伝』出帆社1975年所収)

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2010年2月21日日曜日

●おんつぼ28 ジョルジュ・エネスコ 関悦史


おんつぼ28
ジョルジュ・エネスコ
Georges Enesco/George Enescu
ピアノ四重奏曲第2番

関悦史

おんつぼ=音楽のツボ

田中裕明の「夜の形式」を読んでいて、直接には何の関係もないのだが夜ということで思い出した作曲家がいる。ルーマニアのジョルジュ・エネスコ(1881 - 1955)である(これはフランス語に拠った表記で本当は「ジョルジェ・エネスク」が正しいらしいのだが、ここでは慣例により「エネスコ」としておく)。

一般的には作曲家としてよりも名ヴァイオリニストとして知られている存在で、自作としては「ルーマニア狂詩曲」のみが親しまれているという印象、今後真価が見直され、広く親しまれるといったことになる可能性もおそらくあまりない。

才能がないわけではない。むしろ一代の異才というべきなのだが、リヒャルト・シュトラウス並みに豪華な響きの交響曲や管弦楽曲にしても、沈潜した内省的な作りの室内楽曲にしても、曲の構成や展開が極めて把握しにくく、その局面その局面でメロディーは確かにあるにもかかわらず、正直にいえば、何回聴いても全く覚えられないのだ。

夜ということから連想したのはもちろん室内楽曲の方で、最初、ピアノ五重奏曲を紹介しようとしたのだが動画が見当たらず、ピアノ四重奏曲第2番を取り上げることにした。

廉価盤レーベルのナクソスから出ているCDではこの2曲が1枚に収められているのだが、作風は互いによく似ていて、ロマン主義から出た作曲家の作とはいっても、己の情念にこもるというよりは、むしろ夜の草原を吹き渡る風のように自然の霊気に深いところで繊細精妙に寄り添い、幾多の音型がそれぞれ異なる精霊たちの情意を媒介して立ち上がりゆらめくとそれがおのずと曲をなすといった風情の成り立ちで、風になびく草一筋一筋の動きが記憶しにくいのと同じようにこれらの曲は記憶しにくいのである。

少々人間離れした感のある希薄さ、恭しさ、非定形性が作品に大きな霊気を親しげに呼び込んでいる点が田中裕明を連想させたのかもしれない。


幼児にとっての闇のような異世界現出度  ★★★★★
睡眠導入度   ★★★★



2010年2月19日金曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔7〕春寒

ホトトギス雑詠選抄〔7〕
春の部(二月)春寒

猫髭 (文・写真)


春寒やぶつかり歩く盲犬 村上鬼城 大正6年

穴掘りて人沈み行く春寒し
 田中王城 大正9年

そこらまで出て春寒をおぼえけり
 田畑三千女 昭和4年

春寒や乞食姿の出来上がる
 中村吉衛門 昭和8年

今日19日は、二十四節気の「雨水」。陰暦正月の中、「立春」から十五日後に当たる。「気雪散じて水と為る也」(『暦林問答』)、「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれば也」(『暦便覧』)と言われるが、それは明治5年までの旧暦の話で、新暦の今週は、霙あり雪ありと、まさに「春寒し」という日が続いた。この寒さの中で一昨日鎌倉の段葛の桜がほころびはじめたのにも驚いたが、今朝の温度は6:30で3℃。小綬鶏の鳴き声が谷戸の方からチョット来イチョット来イとけたたましい。朝焼けが綺麗だから、昨日よりは温かくなるかも知れない。

村上鬼城(慶応元年~昭和13年)は、若くして耳を患い重度の障害者だったことから、その俳句もそこに関連付けられて、「ぶつかり歩く盲犬」も自画像として読まれやすいが、作品と作家の境涯を過剰に短絡するのは読む者の貧困につながる。特に鬼城の場合は、境涯俳句や療養俳句とは一線を隔している。どこが違うかというと、自分の障害にもたれかかっていないので、読者にももたれかからない。鬼城に境涯句俳人というレッテルを貼ることは、作品の創造的な読みにはつながらないのではないか。

田中王城(明治18年~昭和14年)の句は、自分の墓の穴を掘っているようなブラック・ユーモアすら漂う句で、虚子も新年早々一体何を考えておるのかという、

酒もすき餅もすきなり今朝の春 虚子

といった脱力系の句を詠むが、こういった何も言っていないが、不思議な景の句も飄々と採る。

田畑三千女(明治28年~昭和33年)の句も「そこらまで出て」と無造作に詠んで、俳句になっている只事ぶりに驚く。こういう多くを語ろうとしない、言い換えれば、いろいろ詰め込んで読者を説得しようとしていない、すっと肩から羽織を外す仕種のように肩の力を抜いた句というものは、何も語らない分、こちらも何も言う必要がなく、出されたものを一服のお茶のように味わえばよいというような佇まいを持つ。

中村吉衛門(明治19年~昭和29年)の句も「乞食姿の出来上がる」の「出来上がる」に、歌舞伎役者の役作りの一齣が鮮やかに決まる一句で、この句は名前も作品の内という一句になっている。「大播磨」と呼ばれた名優吉衛門の春寒の乞食姿である。さぞかし、うらぶれながらも花のある乞食姿だろうと歌舞伎ファンならずとも想像する楽しみを名前から手渡される。

俳句に限らず、初めて出会う作品は何であれ無名にひとしい。この場合、人の好奇心は作品主義の目で見られる。そしてその作品に惹かれたとき、人は誰がこれを作ったのだろうという作家主義の目を持つ。もっとこの作家の作品に出会いたいという思いが、やがて、次の無名の作品へ駆り立て、その蓄積がその人の俳句の吃水線の深さとなる。



俳句には俳句特有の言葉や言い回しがあり、俳句を始めた頃、「春寒」と書いて「はるさむ」と訓読みするのだと知った時は違和感を覚えた。訓読みなら「春寒し」であり、「春寒」と表記するなら「春寒料峭」、いわゆる「春は名のみの風の寒さや」(『早春賦』)といった意の四字熟語があるので「シュンカン」としか音読み出来ないのではないかと思ったからだ。わたくしは「新明解国語辞典第四版」を句会には必ず持参するので、確認すると、やはり辞書には「春寒(シュンカン)」しか載っておらず、【春先の寒さ。〔主として、手紙文の書き始めに使う〕「春寒料峭の候」】と書いてあり、形容詞ク活用の「寒し」の語幹「さむ」と併せて名詞化した「春寒(はるさむ)」という造語が舌足らずな日本語に思えた。まさか童歌の「大寒小寒、山から小僧が飛んで来た」に語呂合わせをしたわけではあるまいが・・・。

今は「春寒(はるさむ)」には慣れた。それぞれの世界には業界用語というか、符牒が付物で、これもまた俳語という符牒なのだと合点したからだ。「春寒」と書いて「はるさむ」と誰が読ませたか、誰が最初に詠んだのか、なぜそれを俳語として受け入れられるかが、今回の話である。

昨年末に出た西村睦子の労作『「正月」のない歳時記-虚子が作った近代季語の枠組み』(本阿弥書店)には、「春暁」と「春潮」の項目で、堀井憲一郎の「ホリイのずんずん調査」顔負けの展開を見せる「春が新年と決別し、本来の春を意味するようになり、何でもシュンと発音するその新鮮な響きが好まれ、明治30年代から流行が始まった。「春暁」、「春光」「春日」「春昼」、「春陰」「春霖」、「春潮」、「春泥」、「春眠」、「立春」などの一連の季語が続く。この「シュン」ブームの仕掛人も虚子である」という、その虚子が、なぜ「春寒」という「シュン」好みの季題を、わざわざまげてまで「ハル」にこだわったのだろう。

吉衛門の句など、「春寒」を「シュンカン」と読めば、「俊寛」を連想して面白いが、確かに「はるさむ」と読んだ方が「はる」という耳になじむ言葉で景が引き寄せやすい。

虚子編『新歳時記』には「春寒(はるさむ)」という季題のみで、傍題はない。したがって、訓読み以外はないということになる。実は歳時記で類似の題を「傍題」としてまとめたのも虚子に因を発したものらしく、虚子は傍題も取捨選択が必要と述べているので、「春寒」から傍題を全く省く独断から、「春寒(はるさむ)」という季題を作ったのは間違いなく虚子ではないかと思えた。

虚子の解説は「春が立つて後の寒さの謂である。余寒といふのと大体は同じであるが言葉から受ける感じが違ふ」とあり、どう違うのかは書いていない。
では、「余寒」はどうかというと、「寒があけてからの寒さをいふのである。春寒といふのとは心持に相違がある。残る寒さ」と、こちらは「残る寒さ」という傍題がある。

「春寒」は「余寒」と言葉から受ける感じが違い、「余寒」は「春寒」と心持ちが違うという。虚子は、あとは例句を見ればわかるといった感じで、最小限しか言わない。

山本健吉編『最新俳句歳時記』では「春寒し」が竪題で、横題(傍題)として、「料峭」「春さむ」「春寒(シュンカン」の三つがあるから、「春寒」をどう読むかは読者の恣意にまかされることになる。もっとも、「ホトトギス」に投句する以上、皆「はるさむ」で詠んでいると思われるが。

歴代の虚子選を見ると、いかにも客観写生という句もあるが、「春寒」という体外の感覚である抽象的な「時候」を季題に立てて、「料峭」という、より肌身に近い具体的な体表感覚を詠むというように「春寒」は詠まれている句の方が興趣があって印象に残る句が多い。掲出句の「ぶつかり歩く」「人沈み行く」「そこらまで出て」「乞食姿の出来上がる」というように。

「ホトトギス」の重鎮、富安風生編『歳時記』は、ふつつかな日本語に五月蝿い点ではゴジラが火を吹くように怒るから「春寒」はどうか見ると、「春寒(はるさむ)」が竪題で、しかし、横題は、「春寒(シュンカン)」「余寒」「料峭」「残る寒さ」を置いて「春寒」に「余寒」を組み入れている。「春寒と余寒は、ほぼ同じことだが、語感に、微妙な差がある」とコメントがあるが、耳目を集めるのは、
春寒を場合により特に「しゅんかん」と読ませて悪いわけでもないが、みだりにすべきではない。
と、風生節をぶっていることだ。山本健吉のニュートラルな解釈も認めつつ虚子を立てているといった物言いであるのが面白い。例句も、虚子、碧悟桐、鬼城、草城と並べるところなど、風生でなければ出来ない芸当だろう。

虚子に対するしがらみがなく、しかも虚子の言わんとしたことを的確に述べていると思えるのが、水原秋桜子・加藤楸邨・山本健吉監修の『カラー図説日本大歳時記』(講談社)の「春寒(はるさむ)」の解説を書いている飯田龍太である。傍題は「春寒し・寒き春・春寒(シュンカン)・料峭」。全解説を引く。
古くから用いられている春寒料峭というあの感じである。料峭は春風(東風)の肌にうすら寒く感じさせるさま。つまり、余寒と同じ内容であるが、同じ寒さでも、春の一語にこころを寄せたところがある。また、春さむ、春寒しも全く同義であるが、春寒(しゅんかん)と音読した場合とではそこにおのずからひびきの強弱があり、表現効果に剛柔の微妙なちがいが生まれる。
例句の選も永井荷風から「ホトトギス」からの選も多いが、虚子の句は無い。

これをもっと端的にまとめたのが、平井照敏編『季寄せ』(NHK出版)。傍題は「春寒し・寒き春・春寒(しゅんかん)・春の寒さ・料峭」。
余寒と同じことだが、余寒は寒さの方に中心があり、春寒は春の方に中心がある。まだ寒くはあるが、春の気持はたしかに感ぜられる、ほのかな明るさ。
例句は一句のみ。

春寒し水田の上の根なし雲 河東碧梧桐

ここで、最初に戻って大正4年発行の最初の『ホトトギス雑詠集』(四方堂、50銭)で、誰が最初に「春寒(はるさむ)」と詠んでいるのかを調べてみる。第一集は、まだ旧暦のままで「春寒」の項目には「余寒」の句も入っている。一句だけあった。

春寒や砂より出でし松の幹 虚子 大正2年

虚子本人である。次に虚子が「春寒」の句を残すのは12年後の、

春寒のよりそひ行けば人目ある 虚子 大正14年

である。

おそらくこういうことだと思う。

「春寒や」と初めて虚子が詠んだ時、「シュンカン」という響きより「はるさむや」の方が、明治30年代に自分が仕掛けた「シュン」という響きが新鮮だと感じたように、大正2年の自句の「はるさむ」の方がより春に添うように感じられて、この句を、大正4年の第一集に、「鎌倉を驚かしたる余寒かな 大正3年」と並べて「春寒」に載せたのである。「春寒」の項に、同じような意味だが、「ヨカン」と「はるさむ」という剛柔の組合せを置いて、詠み分けると同時に読み分けたのである。

そして、掲出句のように、第二集で鬼城の「盲犬」の句が、第三集で王城の「穴掘りて」の句が出て、虚子は「春寒」の季題が秀句を得る事で完全に俳語として認められたことを了解したのである。


上田信治【俳句関連書を読む】西村睦子『「正月」のない歳時記』




2010年2月18日木曜日

2010年2月17日水曜日

●ペンギン侍 第24回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第24回 かまちよしろう

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つづく

2010年2月16日火曜日

●コモエスタ三鬼07 このつまらない世界

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第7回
このつまらない世界

さいばら天気


橋本多佳子と三鬼の対談「逃げられた對談」(註1)中、多佳子の「(…)三鬼さんはシンガポール時代、俳句なさったの?」との質問に、三鬼はこんなふうに答えています。
三鬼 (…)学校を出たばかりで、世の中が面白くて堪らない時代ですからね。そんな時には俳句は始めませんよ。俳句は世の中が面白くないことに気がついてからでないと出来ませんよ。
ちょっと斜に構えた答え方ですが、実際、そのとおりだったのでしょう。

俳句は世の中が面白くないことに気がついてからでないと出来ない」という箇所、前にも聞いたことがあると思い、思い出してみると、雪我狂流さんでした。

1948年、日本に生まれる。
1964年、ビートルズに狂う。
1967年、ゴダールの「気狂いピエロ」に狂う。
1977年、パンクロックに狂う。
1991年、俳句に出会う。

以上が狂流さんの略歴です。俳句に「狂う」とは書いていなところがミソです。子どもの頃、若い頃、ビートルズやゴダールやパンクロックに出会い、熱狂する。

対象を換えれば、誰にでも当てはまる経歴です。世の中が「面白いこと」で溢れているような気がする。眠る暇さえ惜しい。ところが、やがて、そうでもなくなる。なんか違う。少なくとも、わが身を「面白くてしかたのない」熱狂に置き続けることはなかなか難しい。社会の成分、世界の成分、それから「自分」の成分のうち半分以上は「つまらない」「退屈」です。

狂流さんは「俳句のおかげで社会復帰できた」あるいは「軌道修正できた」とも言っていました。面白くもない世の中で暮らしていくには、パンクよりも俳句だ、というわけです。

世の中が面白くないことに気づかないうちは、俳句なんて始めない……三鬼は、シンガポールを離れるとき、その地にあった自分の「熱狂」にサヨナラしたのでしょう。

あきかぜの草よりひくく白き塔  三鬼(1935年)


(つづく)

(註1)『天狼』1950(昭和25)年3月号掲載・『西東三鬼の世界』(東京四季出版/1997年1月)所収。

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2010年2月15日月曜日

2010年2月14日日曜日

●おんつぼ27 エリオット・スミス 松本てふこ


おんつぼ27
エリオット・スミス Elliott Smith



松本てふこ

おんつぼ=音楽のツボ



エリオット・スミスについて誰かと話したことはほとんどない。大学生の頃、新聞で死亡記事を読んで、親に「私、この人好きだったんだけどな」とぼそっと呟いたくらいだ。好きといっても持っているCDは、彼の作品で一番売れたと言われる『XO』1枚きり。買ったのは99年だから高校生の頃、好きなバンドのメンバーが絶賛していたから、という実によくある話である。他のアルバムを1枚聴いてみたがいまいちピンと来ず、『XO』は大好きだからこれ1枚を聴き続けていればいいや、と思っていた。

彼の死亡記事を読んでからも、私はそんな調子だった。誰かと音楽の話をして「何かオススメある?」と聞かれても、人を部屋に呼んでかけるCDを探す時も『XO』を選ぶことはなかった。寒いなあ、だるいなあ、お腹減ったなあ、あれ面倒だなあ、そんなことを考えながら、濃くて安い味の紅茶をいれて、たったひとりで聴く音楽だった。

去年の秋くらいから「毎日が忌日」への投句にハマった。俳人や文学者にとどまらない人選が嬉しくて、自分でもwikipediaで好きな物故ミュージシャンの忌日を調べているうち「エリオット・スミスって、忌日いつだっけ」と思い立った。調べてみたら、その日の二週間か三週間前だった。見落としてたかと思って見返した「毎日が忌日」に彼の名前はなかった。ケルアックとトリュフォーと川崎洋と同じ忌日。丸山薫、アラカン、笹沢左保も。他の日と比べるとずいぶんたくさんいる。

だけど、だけどだ。エリオット・スミス、載せたらいいのに。あんないい歌、歌うのに。ごつめの顔から想像できない(失礼!)繊細で素敵な声なのに。こんなことを思い、けっこう真剣に落ち込んでいる自分がいて、びっくりした。一度自覚してしまうと病は深まるばかりで、今さらながら他のCDを買ってみたり、ブックレットの解説を熟読してみたり。

新撰21のイベントである方に「私、今度エリオット・スミスについて書こうと思うんです」と話したら、「メジャーじゃん」と言われた。自分以外のリスナーの存在を忘れさせるような静かさが彼の作品にはあって、メジャーかマイナーかなんて考えてもいなかったので、一瞬ぼんやりしてしまった。もっといろいろお話したい気持ちはあったが、話はそこで終わってしまった。というわけでいつかエリオット・スミスの話をしましょう、Sさん。

  ポストからつぽエリオット・スミスの忌     てふこ

寒さに似合う度  ★★★★★
声が可愛い度   ★★★★


[オススメアルバム]『XO』




「知らない町の吹雪のなかは知っている」という佐藤文香さんの句を読んで、この歌を思い出した。

「週俳」投句ボード

「週俳」投句ボード

兼題 「石」「橋」「楽」「器」「梅」「田」「店」

コメント欄に御句そのほかを、
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締切:2010年3月6日(土)
当季(無季アリ)
他誌・他サイトとの重複投句はご遠慮ください。

2010年2月13日土曜日

●ペンギン侍 第23回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第23回 かまちよしろう

前 回






つづく

2010年2月12日金曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔6〕梅

ホトトギス雑詠選抄〔6〕
春の部(二月)梅

猫髭 (文・写真)


我れ去れば水も寂しや谷の梅 渡辺水巴 大正2年
朝靄に梅は牛乳より濃かりけり 川端茅舎 昭和12年
梅白しまことに白く新しく 星野立子 昭和13年
来て見れば来てよかりしよ梅椿 星野立子 昭和18年
縁に手をつきて簷端の梅仰ぐ 星野立子 昭和19年
紅梅や人の若さの妬まるゝ 美智子 昭和4年

渡辺水巴(明治15年~昭和21年)は、内藤鳴雪門下で、明治41年10月号の第一回「ホトトギス雑詠」の巻頭12句の栄を26歳で浴し、虚子の雑詠代選も勤めた。虚子句集の選も担当。
掲出句の「水も寂しや」など、独特の情緒を持っている。

水無月の木蔭によれば落葉かな

櫛買へば簪がこびる夜寒かな

窓に月のありけり雛は既に知る

日輪を送りて月の牡丹かな

夜濯ぎの心安さよ螢とぶ

これらは虚子が『進むべき俳句の道』の最初の俳人論「渡辺水巴」に挙げた句だが、「子規居士の主張と、今日の我等の俳句ならびに俳句に対する主張と著しく相違しているのは主観的なることである」という子規との違いを鮮明にする意図を背景にした引用である。最初から虚子は「客観写生」を説いたわけではなかった。子規の「ただありのままの事物をありのままに」(『俳諧大要』)という論を、「客観の写生をおろそかにしないで、どこまでも客観の研究に労力を惜まないようにする」修学の言葉に替えて踏まえた上での新しい「主観的の句」に到達する道筋を先ず説いたのである。

川端茅舎(明治30年~昭和16年)は、藤島武二絵画研究所で絵を学び、岸田劉生に師事して春陽会に入選するほど画家として頭角を現わすが、肺患のため断念、俳句に専念し、虚子から「花鳥諷詠真骨頂漢」と呼ばれたほどの愛弟子。肺患のため44歳で逝去。

余談だが、茅舎亡き後、野見山朱鳥の登場に、虚子は茅舎と似た天分を感じ、その第一句集『曼珠沙華』の序に「曩(さき)に茅舎を失ひ今は朱鳥を得た」と書いたが、朱鳥も茅舎と似て画家を志し、病を得て俳句に専念した経緯を持つ天才だった。その絵は宮崎美術館で見られる。燃えるような暗い赤が特徴的な絵である。朱鳥の鑑賞文の切れ味も素晴らしい(註1)

茅舎の掲出句の元句の「牛乳」にルビはないが、山本健吉編『最新俳句歳時記 春』に「ちち」とルビがある。五七五の定型律に納まるにはこの訓みしかない。詩や小説では常套だが、わたくしは俳句は外連の無い表記の方が俳句に適っていると思うので、「乳」でいいと思う。読者が「牛乳」と取れば「朝靄」は牧場の朝の景になるだろうし、たらちねの母の「乳」を連想する者には、母の温もりの残る幼き日の朝を思い浮かべるだろう。読者を信じていいのだ。

虚子は「選は創作なり」と言った。もとより諷詠は創作である。しかし、読むことも一種の創作なのだ。作者がこういうことを表現したかったということには一理ある。しかし、それは一理でしかない。表現は何であれ、常に作者を裏切る。表現者は表現してみなければ自分が何を表現したかったかを知ることは出来ない。俳句も詠んでみなければ自分の言葉が人に伝わる形に成ることは無い。しかし、表現された途端、それは作者から離れる。離れることで、読者(作者も自作の最初の読者である)の自由な解釈に表現は委ねられ、作者の所有物から読者の所有物に変わる。そして、読者が作者の思い以上に作品を新しい地平に飛び立たせる時、その解釈は一種の創作となる。その時、作品は初めて読者を得たことになる。ああ、自分はそういうことを表現してしまったのかと驚く読みに出会った時、作者の創作は完成するのであり、それまでは俳句は未完の作品としてまだ見ぬ読者を待つのである。

朝靄に梅は乳より濃かりけり

この一句は、このように読むことでわたくしの一句になる。天才茅舎の独特の句の世界は「茅舎浄土」と呼ばれた。

約束の寒の土筆を煮て下さい 茅舎 昭和16年

と並んで(句集『白痴』中「二水夫人土筆摘図」を見ての連作の一句)、わたくしには「茅舎浄土」の一句である。
勿論、こういう「私有化する読み」は例えばの話で、虚子のように本当に自分が選んだ雑詠は自分が詠んだものだとまで入れ上げるつもりはない。それはそれで凄いが。

その茅舎が、

紫の立子帰れば笹子啼く 茅舎

と挨拶句を詠んだ星野立子(明治36年~昭和59年)は、虚子の次女であり、虚子には八人の子供と十九人の孫がいたが、句作を「私の方から勧めたのは、星野立子一人である」(『晴子句集』序文)とあるように(註2)、虚子一族では虚子も「写生といふ道をたどつて来た私はさらに写生の道を立子の句から教はつた」(『立子句集』序)と脱帽するほどの天分を持っていた。虚子の宝石を原石のうちに見抜く目は凄い。

掲出句を読めばわかるが、虚子が「自然の姿をやはらかい心持で受け取つたまゝに諷詠する」と評したそのものである。

梅白しまことに白く新しく

「付き過ぎ」といった御託は引っ込むくらい、というか、そういうことをあげつらうのが野暮なほど「ただありのままの事物をありのままに」詠んだだけであるが、こんな風に詠んで句になることに驚く。眼前に満開の白梅が光る。

二句目は「梅椿」という梅の種類があるわけではない。「梅も椿も」という意味である。これも「季重ね」がどうこうという口先を「来て見れば来てよかりしよ」のあっけらかんとした喜びがチャックをかけてしまう。「梅椿」と言えば、

庭掃除して梅椿実朝忌 立子 昭和8年

これなど季語が三つも季ぶくれているが、季語同士が喧嘩をしていない。「ただありのままの事物をありのままに」「自然の姿をやはらかい心持で受け取つたまゝに諷詠する」だけだから、俳句自慢の邪気が一切ないからだろう。

三句目は「簷端(のきば)」と訓む。高浜年尾が、父は住むところに注文を付けることはなかったが、隠居部屋を建てるときだけは「縁側を広くしてくれ」と一度だけ注文を付けたそうである。立子が父の部屋の縁側に手をついて、梅を仰いで父と話しているような景である。

美智子は、根室の俳人とのみしか判らず。識者の教えを乞う。
掲出句は「疎まるゝ」ではなく「妬まるゝ」であることが「紅梅」のあでやかさと相俟って艶がある。波多野爽波が愛誦した句でもある。



虚子は膨大な「ホトトギス雑詠選」を残しているが、「ホトトギス五百号記念」の刊行物の一つとして、自句を除いて「ホトトギス」の明治41年10月号から昭和12年9月までの雑詠約4万句のなかから3千余句を選抜して中間選集を昭和17年に出している。これが現在絶版に近い朝日文庫の『ホトトギス雑詠選集』全4巻である。虚子は更に厳選して決定版を出したがったが、これは時間的に不可能で、中断されたまま虚子は老年になってしまい、昭和26年3月号から長男の年尾に雑詠選を譲っていた。

年尾は、それ以降も優れた俳人が続出していることから、中断されているのを残念に思い、昭和12年以降から昭和26年までの続編を父虚子に打診した。77歳の虚子は熟考の末、大変な労力を要するところであるがと賛意を表し、昭和27年1月号から「虚子選ホトトギス雑詠選集予選稿」を、昭和34年の死によって打ち切られるまで続けた。それが3年後の昭和37年に刊行された、昭和12年10月号から昭和20年3月号までの再選を収めた『虚子選ホトトギス雑詠選集』(全2巻、新樹社)であり、これが虚子の最後の刊行物になった。

したがって、戦前までで、戦後の俳人は結局虚子の死によって再選されることなく終わったため、虚子の「ホトトギス雑詠選集」は昭和17年と昭和37年の計6冊が定本となり、わたくしの連載もこの6冊を定本とし、つどの「ホトトギス雑詠全集」を参照している。

この虚子最後の『虚子選ホトトギス雑詠選集』の年尾の序文に、虚子の雑詠選にかける思いを表すエピソードが載っている。
当初私は父に毎月二月分づゝの発表を希望した。ところが父は色を作して云つた。
「父さんにそんなに努力を要求するのか。」
私は父のその言葉に驚いた。かほど迄に父は大きな努力を払つて予選して居つたのであつたのかと、選する父の労力を軽く見て云つた私の言葉を恥ぢた。
池田澄子は、キュリー夫人の使用した計算用紙の彼女の指痕が未だにガイガー探知機に反応することを知って「<入れ上げる>ということはこういうことだ」と述べているが(註3)、虚子の「ホトトギス雑詠選」の営為にもまた同じ思いを感ずる。

(註1)野見山朱鳥『忘れ得ぬ俳句』(朝日選書、昭和62年)。名著。
(註2)虚子の末っ子上野章子の回想「父と私」(虚子全集月報)に寄れば、16歳のとき、マルセーユまで虚子と二人で船旅している中でノートを渡され俳句を作ってごらんと勧められ、「玄海の大波の上に春の雨」と詠んで◎を貰ったことが俳句をやる動機だと書いているから、虚子の言葉を字義通りに取る事は出来ないが、立子が別格だったのは間違いない。
(註3)『池田澄子句集』所収「キュリー夫人の指痕」(ふらんす堂、現代俳句文庫29、平成7年)。

2010年2月11日木曜日

■新刊情報

新刊情報

『今、俳人は何を書こうとしているのか』2010年2月10日/邑書林
副題--新撰21竟宴シンポジウム全発言
2009年12月23日に行われた『新撰21』刊行記念シンポジウム-新撰21竟宴-の全発言記録

詳細・購入≫邑書林サイト・新刊棚

2010年2月10日水曜日

2010年2月9日火曜日

●コモエスタ三鬼06 密柑山でもやりたまえ

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第6回
密柑山でもやりたまえ

さいばら天気


三鬼1933~34年の句作約140句、とは、すなわち第一句集『旗』(1935年からの句作を収録)以前の140句。ここには、連作あり、ひらがなばかりで17字をまとめた3句組あり、意外に伝統的な出来もあり。また、ラガー、防空燈、異人墓地、洋書部、裸婦、サーカス、工場祭、ホテルの灯など、近代的な素材にも手を伸ばしている。試行錯誤と言っていいのだろう一年間に、大きな成果と呼べるような句は見つからない。そのなかで目を引いた句をいくつか。

裸馬ぽくぽく捨てた煙草は草の芽に(註1)  三鬼(1934年・以下同)

野遊びの籠のくさぐさ草の上に

このあたりはちょっと今風(2010年時点の今風)の軽み・脱力があり、写生風。三鬼作としては意外な感じだ。

鞦韆の振り子とまれり手をあたふ

大きく切れずに、添えるように置く座五「手をあたふ」には、やはり「今どき」を感じてしまう。三鬼作としては凡庸の部類だろうが、悪くはない。いかにも俳句らしい興趣ともいえよう。昔も今もこのあたりにとどまる俳人・俳句愛好者はきっと多い。三鬼は俳句一年目で、このあたりを済ませていたということか。



山口誓子の第一句集『凍港』の刊行は1932年(昭和7)。その序文で虚子は誓子を「辺境に鉾を進める征夷大将軍」と評した。「私(ホトトギス)からどっか遠くへ行っちゃったのね」というわけで、誓子を尊重しながらも、例によって冷淡かつシニカル。『凍港』は、ホトトギスなる旧体制からの離反を内外で認められたということだろう。

『凍港』刊行は三鬼が俳句を始める前年。初学における三鬼はこれに強く魅了された。
(…)私は「凍港」一巻に没頭するだけで、俳壇の事情は一切知りもせず、興味もなかった。私は「凍港」の著者と「走馬燈」選者の草城が、私より一歳、年下であることに、大層劣等感を持った。(「俳愚伝」:『俳句』1959年4月号~60年3月号)
新興俳句の諸氏諸々の句作に目を向けるというより、もっぱら「凍港」一巻に心が向いていたという三鬼が、それとは別に、注目した句作があった。
(…)ある時「走馬燈」の会で、先輩の幡谷(東吾)が「京大俳句」の藤後左右の句だといって

  帰国して密柑山でもやり給へ

を披露し、幡谷も私達も大いに笑った。笑ったあとで、私はこの句が、従来の俳句的発想と古い表現を脱ぎ捨てていること、ユーモアがあってのびのびしていること等に次第に感心し、同じ作者の

  室内や暖炉煙突大曲り
  横町をふさいでくるよオーバ着て

という句を知るに及んで、ウーンと唸り「凍港」の他にも、こういう句があるなら、遅まきながら大いにやる甲斐があるぞと、今から考えれば、とんでもない野望を抱いたのであった。(前掲)
三鬼にしてみれば、「帰国して」という部分で妙に自分に引き寄せて読めたのかもしれない。兄らから、「帰国して、地道に歯科医をやりたまえ」などと説教を食らっていたかもしれぬ。そう想像すれば、三鬼の大笑いは、さらにコクの深いものとなる。

私は「俳愚伝」を読んで初めて「帰国して密柑山でもやり給へ」という句を知り、藤後左右(とうごさゆう)という俳人(註2)を知ったのだが、この句の飄逸、趣向、力の抜け方にはちょっと驚いた。「凍港」の世界とは、まあ、対照的と言っていいだろう。「密柑山」の句が「凍港」とともに三鬼を俳句に導いたという事実は、なかなかに楽しいことである。

(つづく)


(註1)「ぽくぽく」の後半は繰り返し記号。以降、断りなく同様処理。
(註2)藤後左右(1908 - 91)は他に…
  チキンライスと滝の睡眠不足な味
  山羊が来て苦労をともにすると云う
  志布志の家百舌と女が走っていた
  大文字の大はすこしくうは向きに
…といったおもしろい句を残している。

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〔link〕旧かなvs新かな

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高山れおな・愛と仮名しみの暮玲露:豈 Weekly

2010年2月8日月曜日

■新刊情報

新刊情報

●『うしろすがた いろんな人の俳句』(めくってびっくり俳句絵本 4)
村井康司・編集/のりたけ・イラスト/岩崎書店/2010年1月26日
●『俳句、はじめました』岸本葉子/角川学芸出版/2010年1月14日
●矢島渚男『俳句の明日へⅢ 古典と現代のあいだ』紅書房/2010年1月12日

2010年2月7日日曜日

●ペンギン侍 第22回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第22回 かまちよしろう

前 回




つづく

2010年2月6日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔5〕雪解

ホトトギス雑詠選抄〔5〕
春の部(二月)雪解

猫髭 (文・写真)


雪解川名山けづる響かな  前田普羅 大正4年

大正二年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎」と虚子が「ホトトギス」大正3年の正月号に書いた、村上鬼城、飯田蛇笏、原石鼎と並び大正時代の虚子門四天王と称された前田普羅の清冽な一句である。

この句を収めた『普羅句集』には、自筆の「小伝」が付いており「大正元年七月はじめてホトトギスに投句す、時に横浜にあり。爾来大正九年又は十年頃まで断続して投句せしやに記憶す、ホトトギスへの投句は生涯の最初にして最後の投句なり、大正十三年五月職務のため灰燼の横浜より(註1)未知の越中に移る。越中移住後は俳句の機会多かりしも、職務繁多のため(註2)之れに傾倒する能はざりき。昭和四年末「辛夷」(註3)の経営に当る、且つ越中に移り来りて相対したる濃厚なる自然味と、山嶽の偉容とは、次第に人生観、自然観に大なる変化を起しつつあるを知り、居を越中に定めて現在に至る」とある。句集は他に『春寒浅間山』『飛騨紬』『能登青し』三部作。虚子の言葉に添ったように新学社の近代浪漫文庫22は『前田普羅・原石鼎』を組んでいて簡便。

「小伝」中にみずから述べているように「越中に移り来りて相対したる濃厚なる自然味と山嶽の偉容」を詠ませたら、掲出句も素晴らしいが、普羅の右に出るものはあるまい。

駒ケ岳凍てゝ巌を落しけり

奥白根彼の世の雪をかゞやかす

雪山に雪の降り居る夕かな

「ホトトギス」投句以前の普羅の消息は、虚子の『進むべき俳句の道』の「前田普羅」の項に詳しい。虚子宛の普羅の手紙を虚子が公開して話しているからである。これは石鼎などもそうで、まるで人生相談のように彼らは虚子に頼り、虚子も親身に相談に乗っている。大正当時の師弟関係の一端を覗かせるものとして興味深い。『普羅句集』にも、「初めて虚子先生に見ゆる日」と題して、

喜びの面洗ふや寒の水  普羅

という句を詠んでいる。波多野爽波も「ホトトギス」に投句する時は、必ず手を洗って背筋を正してから机に向かったという。師恋にひとしい。



わたくしの手元に一冊の古書がある。改造社「俳句研究」昭和17年5月号である。「敵機最初の帝都来襲は、校了前の印刷所出張中のことであつた」と編纂後記が始まる戦時中であり、「このことは戦争といふものが決して何千里の彼方に行はれることではなく、我々の国土そのものが戦場であるといふことを、現実感情として我々の胸に一層強く植付けることにはなつたであらう。もはや前線も銃後も一つのものである。銃後の我々と雖も、大君のもと捨身して死地に赴くことが出来るのである」と編纂の山本三生は恐い事を述べている。

この号に前田普羅の「国家が文学統制を要する場合-危態、世界主義的俳句論-」という寄稿がある。これは普羅が請われて越中のある工場に俳句を教えに行った時に、東大経済学部出身の若い幹部に、季感を必要とするために俳句詩の世界的進出が否められるのであれば、季感に関連を持たない方が、俳句が世界的に進出する機会を多からしめるのではと言われて、普羅が立腹してかなり居丈高な書き方をしている文章である。
日本を忘却する如き教育を受け、新しき学問と云ふだけの自負の下に、浅墓にも日本民族性に深く根ざす文学芸術に批判を加ふる門外漢が、組し易しとして俳句に口を出す事が多くなつたのは、近年の著しい俳壇の情勢であつた。又甚だしい通弊でもあつた。従来俳句の批判が常にかゝる浅墓至極なる者の手に依り口先により、面白おかしく劣性なる俳壇人を左右した傾向は恐怖に値する。俳句は先づ壮麗だが愚にも付かない世界主義的文学論の煙幕から脱出し、せまくとも内に深く反省包蔵するの勇気を持たねばならない。
虚子であれば、言わせておけばいいと黙殺するだろうが、普羅は「恐怖に値する」と、強制と感じたようだ。まるで桑原武夫の『第二芸術論』を念頭に置いたような筆舌だが、桑原の論は戦後であり、世界俳句の夏石番矢もまだ生まれていない。ここから普羅の論は飛躍する。
こゝに於て私は、文芸活動に対する国家の指導と或る時には統制とを考慮しなければ成らない。もともと文学芸術は突き詰めれば常に至上主義に達し、其処に絶対なる自由主義的世界を幻出せしめなければやまないので有る。文学芸術に至上を求むるならば、一応は此の至上主義自由思想は許されてよいが、危険の種子は其処に発芽して、風に逆らう大樹たらんとしてゐる。私は言ふ、文学芸術にも国家統制の手を加えねばならぬ、と。

何となれば、文学芸術は飽くまでも快楽を目ざしたものである。少なくとも快楽を通じて人生に浄化せんとするものである。快楽を追求する人間性は止む時が無い。そして快楽の追求のために国も民族も亡びるのである。民族の血と繁栄とを永遠につづける為には、文化に殊にその一面なる文学芸術に永遠に国家が統制の手を加へ、至上主義に陥らぬやうにせねばならぬ。
古代ローマが繁栄した原因の一つとして清貧に甘んじていたからで、文化が高まると同時に、快楽の追求が激しくなり亡びたという、『ローマ帝国興亡史』のギボンや『ローマ人の物語』の塩野七生が聞いたら仰天するような大雑把な史観が、レッシングの「ラオコーン」を我田引水して展開するが、支離滅裂なので割愛。

わたくしが最も注目したのは次の発言である。
俳句に国家統制の時代の有つた事も忘れてはならぬ。しかも余り遠くない過去に於てだ。その統制が俳句の名誉作者の名誉のために有つたとは考へられない。非日本的な俳句作者に対して求めた転向なのだ。一種の刑罰だつたのだ。如何にも残念な事であつたけれど、見方によれば為政者が自ら誤り育てた事に鞭を加へて不心得を叱つたのである。共に共に、祖国愛、国土報恩の思念の下に立つたならば、再び鞭を振ふものも、又鞭うたるゝ者も無いのではあるまいか。若し又文学者芸術家にして、このわきまへなき時こそ、国家は絶大なる統制力を加ふるべきである。
普羅が言う「俳句に国家統制の時代の有つた事」とは、昭和8年の京大「滝川事件」を発端とする自由主義的な言論への弾圧が、昭和15年2月14日の第一次「京大俳句」弾圧事件にまで波及した、昭和18年12月6日の「蠍座」(秋田)弾圧事件までの4年間にわたる一連の新興俳句弾圧事件を指すと見て間違いないだろう。

この時検挙されて投獄された俳人橋本夢道の『橋本夢道全句集』(未来社)を読むと、当時、反体制で逮捕されたために苛酷な赤貧を強いられて、「不心得を叱つた」というような生易しいものではなかったことがわかる。

この新興俳句弾圧事件の黒幕とされたのが、日本文学報国会の常務理事である小野蕪子だった。俳句部の会長だったのは高浜虚子だが、虚子は戦時中は「ホトトギス雑詠」の選に没頭して「花鳥諷詠」を貫いており、戦争咏は「八月二十二日。在小諸。詔勅を拝し奉りて、朝日新聞の需めに応じて」と題した、

敵といふもの今はなし秋の月  虚子 昭和20年

という、見方によっては随分とぼけた一句だけだった。

問題は、新興俳句弾圧事件の際、特高の警部が挙げた密告者の中に、小野蕪子と並んで前田普羅の名前があったことだ。(註4)

普羅が密告者だったかどうかはわからない。だが、この一文を見る限り、自由主義的新興俳句を「恐怖に値する」と恐れ、官憲の弾圧を「至上主義に陥らぬやうに統制力を加ふるべきである」と容認していたのは間違いない。

ただ、わたくしは作者の政治的な思惑と作品の表現してしまったものは必ずしも紐づけられるものではないと考えているので、作者=作品という方程式は採らない。普羅が密告者だとしても、作品の素晴らしさを貶めるものではないと思う。逆説的だが、前田普羅という作者を殺すまでに作品は作者から自立して輝いていると言えなくもないのである。


(註1)大正12年9月1日、関東大震災。普羅一家が九死に一生を得た経緯は普羅の随筆「ツルボ咲く頃」に詳しい。
(註2)報知新聞富山支局長。
(註3)昭和4年より前田普羅主宰。昭和21年の戦後復刊時の表紙を飾っていたのは福光町(現南砺市)に疎開していた版画家の棟方志功。
(註4)田島和生『新興俳人の群像—「京大俳句」の光と影 』(思文閣出版)

2010年2月5日金曜日

〔link〕俳句自動生成ロボット

〔link〕俳句自動生成ロボット

ねここ ≫こちら

キヨヒロー ≫こちら

木枯二号 ≫こちら

一色悪水 ≫こちら

2010年2月4日木曜日

●立春

立春

春立や星の中から松の色  上島鬼貫

寝ごころやいづちともなく春は来ぬ  蕪村

ちぐはぐの下駄から春は立ちにけり  一茶

さざ波は立春の譜をひろげたり  渡辺水巴

■新撰21竟宴

新撰21竟宴

若手俳人らがシンポジウム 目立った「身体性」重視の志向
毎日jp 毎日新聞 2010年2月3日 東京夕刊
21世紀に入り活躍を始めた若い俳人たちを中心に、俳句の現在と未来を語り合うシンポジウム「新撰(しんせん)21竟宴(きょうえん)」がこのほど東京都内で開かれた。40歳以下の俳人21人の作品を収めた『セレクション俳人 プラス 新撰21』(邑書林)の刊行を記念して開かれたもので、約200人が参加した。「竟宴」は、平安時代に勅撰和歌集の撰進などが終わった際、宮中で設けられた宴を指す言葉。

3部構成のシンポジウムは、第1部で『新撰21』編者の筑紫磐井さんと池田澄子さん、小澤實さんのベテラン俳人が、この本に作品を寄せた若手を交え、出版の意義を論じた。筑紫さんによると、俳壇では1990年代半ば以降、新人だけのアンソロジーは出ていなかった。小澤さんは「常に新人を見いだすという姿勢を、平成の俳人は忘れていたのではないか」という。

俳句の形式や自然をテーマに意見を交わした第2部のパネルディスカッション、自由な発言の場となった第3部まで、若い俳人らが積極的に率直な意見を述べたのが新鮮だった。

76年生まれの相子智恵さんは、単純に新しいことを目指す「素朴な進歩史観」が成り立たなくなった時代認識を前提に、「俳句という形式の恩寵(おんちょう)を受けて、自分の外の世界とつながっていたい」と願望を語った。85年生まれの佐藤文香さんは小学生の時、神戸から松山へ転居した際の体験を「自然に対する感覚はテーマパークに近いものだった」と語りつつ、「実感のある自然を、言葉で再確認するのが俳句の面白さだ」と話した。

作句のうえで「身体性」を重視する発言が相次いだのも興味深かった。85年生まれの山口優夢さんは「体を通して出てきたものしか(作品に)書けない」と述べ、相子さんも「自分を取り巻く世界の質感、手触りをぐいっとつかみたい」と語った。

また、83年生まれの神野紗希さんは「俳句の世界はすごく島宇宙で、自分の理解者たちの中に閉じこもってしまう」と指摘した。「もう少し島宇宙から出て、少し汚い空気に触れるのも大事だと思う」。若手主体ながら俳壇内の関心に集中しがちな面もあったこの日の議論の中で、「外の目」を意識した発言として印象に残った。【大井浩一】


邑書林ホームページでも購入可能。

2010年2月3日水曜日

2010年2月2日火曜日

●コモエスタ三鬼05 新興俳句の夜明け

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第5回
新興俳句の夜明け

さいばら天気


三鬼先生は雑俳屋にはなれそうもないから、本格的に俳句をおやんなさい……患者の一人にそう言われ、紹介されたのが「走馬燈」という同人誌。1933年(昭和8)創刊の同誌には清水昇子(のちに天狼、青玄)がいた。16ページ。雑詠選は日野草城。表紙題字は山口誓子揮毫。

この「走馬燈」1933年11月号掲載の2句「寝がへれば骨の音する夜寒かな」「秋風や五厘の笛を吹く子供」が、全句集(註1)に依拠する限りにおいて三鬼最古の句。

翌1934年(昭和9)になると、「走馬燈」のほか「天の川」「青嶺」「京大俳句」「ホトトギス」「馬酔木」に続々と俳句を発表。全句集に補遺として収録された1934年作はおよそ140句にのぼる。

「天の川」は九州で吉岡禅寺洞が主宰。1927年(昭和2)に横山白虹編集となって社会派新興俳句を推し進めることとなった(註2)。「京大俳句」は1933年(昭和8)に平畑静塔らによって創刊。「馬酔木」は、1928年(昭和3)に水原秋桜子を主導として「破魔弓」(1922年=大正11年創刊)を改題して再出発した。

新興俳句は、水原秋桜子が1931年(昭和6)「ホトトギス」を離脱するをもって、そのスタートとされる。このあたりの俳壇の流れを、三鬼は次のように振り返っている。
昭和8年「走馬燈」創刊までの俳壇を見ると、昭和2年に虚子は「俳句は天下無用の閑事業としておくのが一番間違ない」(虚子句集序文)といった。同じ頃その「ホトトギス」の同人である草城は、「客観写生は平板無味だ、自然から偶意を感じ知る事が詩人の務めだ」(京鹿子)といい、同じく誓子は「在る世界から、在るべき価値の世界の形成を目指す」(ホトトギス)といっている。(「俳愚伝」:『俳句』1959年4月号~60年3月号(註3)
虚子の「俳句=天下無用の閑事業」発言は、意気軒昂の若い俳人には、気に障るものだったろう。
秋桜子は、昭和6年に、高野素十の句風が、植物の芽の形態などに拘泥している事を鋭く非難し、次いで「自然の真と文芸上の真」という、有名な主張を発表して「ホトトギス」を離脱した。(前掲)
槍玉にあがったのは高野素十の有名句「甘草の芽のとびとびのひとならび」。この句に代表される素十の近景描写は、「主観」の秋桜子にしてみれば、「なんだ、これは。見たままを俳句にして、どーする」ということになる。

ただ、秋桜子と素十の作風の隔たりはここに始まったものではない。1928年(昭和3)時点ですでに虚子は、秋桜子と素十を作風上の二極と捉えている。
元来広く文芸といふものには二つの傾向があります。一つは心に欲求してをる事即ち或理想を描き出さうとするもの、一つは現実の世界から自分の天地を見出すものとの二つであります。(高浜虚子「秋桜子と素十」『ホトトギス』昭和3年12月号所収)
秋桜子のホトトギス離脱は、ホトトギス=上記の二極のうち後者、すなわち〔「現実の世界から自分の天地を見出す」=素十〕から離脱にほかならないわけだが、この二極の対照は、昭和初期固有のものではなく、今もなお、連綿と続く対照とすることもできる。

ざっくりいえば、主観vs客観、こころvsモノ。誤謬を怖れずさらに展開すれば、私性vs非・私性。秋桜子系の俳句と素十系の俳句の対照(あるいは対立)は、2010年の俳句のうち数多くに当てはまるように思う(註4)



ともあれ、三鬼の俳句デビューは、新興俳句の黎明期にあたった。これを、歴史の偶然とすることもできようが、半面、新興俳句以前の「ホトトギス」系俳句に、三鬼がはたして深入りしたかというと、あまりそう思えない。

三鬼の句作全体を眺めると、圧倒的な句がいくつも存在する一方、器用に、俳句的技巧を駆使できるタイプではない。もし三鬼が伝統的俳句をつくっていたら、という「もし」は無意味だが、大家を為すところまでは行かなかったのではないか。また、それよりも、師匠・弟子関係を長らく維持して、じっくり俳句の研鑽を積む、といったことができたはずはない、とも思えてくる。

なんでもそうかもしれないが、歴史が人を生み出す。新興俳句がなければ、俳人・三鬼は生まれなかった。

(つづく)

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(註1)『西東三鬼全句集』沖積舎・2001年
(註2)秋尾敏「新派・新傾向・自由律・新興・前衛」(『俳句の広がり』角川学芸出版2009所収)等による。
(註3)西東三鬼『神戸・続神戸・俳愚伝』出帆社・1975年
(註4)秋桜子系vs素十系の一例として、松本てふこ「バター」7句をめぐる『俳句』2009年5月号「合評鼎談」の議論に思い出した。その概要については、
高山れおな「俳誌雑読其の七」:豈 Weekly
自己表現としての俳句:僕が線を引いて読んだ所
…の2記事を参照。
もうひとつの山場は、「俊英7句」欄の松本てふこの「バター」という作品についてで、

今井 私は、あっけらかんと、ちょっと可愛い、ではダメだと思うのです。
本井 どこに書いてあるんですか、そんなこと。

といったあたりにぐっときた。

今井 何か表白したい強烈なものがない限り、やる必要がないんです、文芸なんて。大袈裟に言うとデモーニッシュなものがないんだったら、なぜ、自己表現をするんですか、何のために、という感じがするんです。ここに何か、松本てふこさんの人生のどろどろ、垢、生きていくエネルギーみたいなものが反映されないと。
(高山れおな「俳誌雑読其の七」)
鼎談記事では本山英vs今井聖という図式だが、実質的には、松本てふこvs今井聖の対照(対立)である。「童子」の松本てふこの師系が、辻桃子→波多野爽波→虚子と遡るのに対して、今井聖は加藤楸邨→水原秋桜子。符帳が合う。

「気のせゐのやうな福茶の甘さかな」(松本てふこ)はけっして素十的ではないが、今井聖の言う「デモーニッシュなもの」「人生のどろどろ、垢、生きていくエネルギーみたいなもの」といった≪観念≫の出自を辿れば、昭和初期の秋桜子に行き着く。



〔link〕俳句研究

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俳句研究2010年《春号》:喜代子の折々