2010年5月30日日曜日

●coffee and cigarettes

coffee and cigarettes



桃食うて煙草を喫うて一人旅  星野立子

よこたはる煙草いつぽん冬帽子  秋元不死男

ひとり夜の煙草火で焼く蝗かな  赤尾兜子

セルの袖煙草の箱の軽さあり  波多野爽波


珈琲濃しあさがほの紺けふ多く  橋本多佳子

あたたかしのむコーヒーも濃く甘し  京極杞陽

コーヒ店永遠に在り秋の雨  永田耕衣

珈琲を飲むとき冬の日は斜め  今井杏太郎

2010年5月29日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔20〕麦・下

ホトトギス雑詠選抄〔20〕
夏の部(五月)麦・下

猫髭 (文・写真)


「麦の秋」とは「秋は百穀成熟の時であるが、麦は夏日の下に黄熟する。それでかういふ名がある。まだ烈日といふ程でもなく、満目新緑のなかに麦が黄熟するのは美しい。麦秋(むぎあき)」(虚子『新歳時記』)。

「麦秋」をどうして虚子はバクシュウではなく、ムギアキと読ませたのだろう。

というのは、短く鋭い音を好んだ虚子であれば「ムギアキ」という間延びした音韻ではなく「バクシュウ」という締まった音韻を好むような気がするし、何と言っても「麦秋」といえば、昭和26年の小津安二郎の最高傑作『麦秋(ばくしゅう)』(英語名『Early Summer』)がある。個人的には、これが世界映画史上の最高傑作でもある。

詩人の田村隆一も常連だった鎌倉の『映画館』の主、新井勝さんは小津映画を語らせたら左に出る奴はいるかもしれないが右に出る奴はほとんどいないほどの小津は俺のもんだという筋金入りの小津ファンで、わたくしも原節子の紀子三部作(『晩春』『麦秋』『東京物語』)に憧れて、彼女の家の近くに引っ越したほどだから、この二人が『麦秋』の話を始めると、ほとんどセリフも言えるので、今日はどっちの役やる?二本柳寛の息子役、杉村春子のお母さん役、などと、とっかえひっかえ再現シーンを果てしなくやるという映画馬鹿である。それほどこの映画は、ファーストシーンからラストシーンの麦畑まで、間然として見果てることのない映画人の思いが込められている。

虚子は鎌倉を舞台にした小津映画をどう見ていたのだろう。小津も俳句をやるが(艶っぽい俳句を詠む)、虚子とは関わりがなかったのだろうか。わたくしの行きつけの天婦羅屋や呑屋には小津安二郎や小林秀雄や永井龍男などの名前がついた食べ方があるが、わたくしが知らないだけかもしれないが、虚子の行きつけの店は鎌倉で出会ったことがない。小津ファンであれば「麦秋」はバクシュウだが、虚子はムギアキとわざわざ読ませている。まさか、小津に張り合っているわけではあるまいが、いや、案外、虚子は変に見栄っ張りなところがあるから、映画ではバクシュウかもしれませんが俳句ではムギアキです、なんぞと言い張っていたのかもしれない。

それは冗談だが、麦の句は佳句が並ぶ。

麦刈や娘二人の女わざ 鬼城 大正2年
麦秋や頬を地につけて風呂火吹く 泊雲 大正6年
麦秋や病馬厩に吊られ居り 崑山 大正10年
麦の穂はのびて文福茶釜道 風生 昭和5年
たふれたる麦の車の輪が廻る 橋本鶏二 昭和7年
道しるべ多き嵯峨野の麦の秋 倉西雅三 昭和10年
麦の秋夜な夜な赤き月を待つ 池内友次郎 昭和12年

2010年5月28日金曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔20〕麦・上

ホトトギス雑詠選抄〔20〕
夏の部(五月)麦・上

猫髭 (文・写真)


紙の様な月が出てをり麦の秋 岡康之 昭和8年

「紙の様な月」というとナット・キング・コールの往年のヒット曲「It's Only a Paper Moon」(1935年)を思い出す。この歌を主題歌にしたライアンとテイタムのオニール親子の演じたピーター・ボグダノビッチ監督の白黒映画「ペーパー・ムーン」(1973年)も思い出す。そうすると三日月にまたがっているオニール親子のポスターを思い出して、この「紙の様な月」は腰掛けられる三日月だと思うだろうが、当時の月齢はわからないが、三日月ではないように思える。

昨夜は那珂湊は小雨が降って月は出なかったが、今朝は快晴。そして今宵は五月唯一の満月なので、五月も末の月は当時も今もそれほどのずれはないように思うので、吉行淳之介の小説『星と月は天の穴』ではないが、今宵はぺらっとした天のカーボン紙に開いた丸い穴ということになる。

朧なる春高楼の月でもなく、秋のひときわ澄んで煌々と照り輝き豊穣の証しとして供え物をする中秋の名月でもなく、青白く小さく凄惨なほどしんしんと月光すら凍てつく冬の月でもなく、はつなつの五月の月を紙の様に薄っぺらな切絵細工のような芝居の書割のように見立てたのが面白い趣向の句である。風渡る芭蕉の葉の上ではなく、「麦の秋」の上であることが、月と秋の対比で、まるで秋の月の書割であるように見える趣向が、これは企みではなく、あるがままに感じたがゆえに「軽み」のある句にもなっている。

秋の月の書割というと、やはり三日月ではないが、掲出句が詠まれた昭和8年は西暦1933年ということに気づいた。It's Only a Paper Moonという歌は、ミュージカルの挿入歌で、ミュージカル自体はヒットしなかったが、この歌が1933年に映画『テイク・ア・チャンス』でジーン・ナイトとバディ・ロジャーズが、

I never feel a thing is real
When I’m away from you
Out of your embrace
The world’s a temporary parking place

というヴァース(歌に入る前の前置きの韻文で「スターダスト」のverseが最も有名)から歌ってヒットし、ナット・キング・コールのヒットにもつながるわけである。「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」も素敵なヴァースを持つが、ミュージカルは忘れられたが、この歌だけは2月14日になると世界中で歌われて残るように、ミュージカルから生まれたスタンダードは枚挙に暇がない。

普通「ペーパームーン」というと、映画「月世界旅行」(1902年)で三日月に座る月の女神がヒットし、そのお陰で三日月に腰掛けて写真を撮ること自体が「楽しい思い出」ということになるが、この映画での月は満月で、二人が乗るのはベニスのゴンドラという趣向で、確かにゴンドラは三日月の形をしているという洒落が効いている。勿論最後はゴンドラの中のキスシーンで、これは「007ロシアより愛をこめて」のラストシーンでもお約束のように出て来る「ペーパームーン」の定番となっている。

作者の岡康之がハイカラな人で、当時のアメリカの流行歌を知っていたとしたら、掲出句の月は、実際には満月だとしても、軽快で楽しいラブソングの三日月が重なるようで楽しい。

Say, its only a paper moon
Sailing over a cardboard sea
But it wouldn’t be make-believe
If you believed in me

写真は、わたくしの郷里ひたちなか市の阿字ヶ浦の海浜公園から那珂湊の間に広がる麦畑である。麦畑の彼方の防風林の向こうは海である。麦畑の畦を雲雀が歩いていた。

岡康之(おか・やすゆき)は虚子の『五百句』に、「御室田に法師姿の案山子かな」に「昭和三年十月二十三日。洛西、岡康之の岳父石井氏邸にて」とあるので、親子で虚子ゆかりの俳人と思われるが、詳細不明。京都の俳人で、インターネットで調べた限りの句は下記の一句のみ。

ふところに山を鎮めの蓴池

(明日につづく)

2010年5月27日木曜日

●俳句+ダンス+マンボ

俳句+ダンス+マンボ

2010年5月26日水曜日

●さくらんぼ

さくらんぼ

聖くゐる真夜のふたりやさくらんぼ  日野草城

茎右往左往菓子器のさくらんぼ  高浜虚子

じゃんけんできめりゃいいのよさくらんぼ 雪我狂流

美しやさくらんばうも夜の雨も  波多野爽波

2010年5月25日火曜日

●コモエスタ三鬼19 冷房

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第19回
冷房

さいばら天気



冷房の時計時計の時おなじ  三鬼(1937年)

冷房(エア・コンディショナー、電気による近代的な冷房装置)の歴史は意外に浅い。ウィリス・キャリア(Willis Carrier 1876-1950)が米国特許を取得したのが1906年(30歳の青年実業家ですね)。そのキヤリア社の日本法人、東洋キヤリア工業株式会社設立が1930年のことだから、三鬼が詠んだ「冷房」は当時最先端の設備だったはず。

掲句と並んで発表された句、

巨き百合なり冷房の中心に  三鬼(1937年)

これ、百合の花弁や花粉まで見えるようで、いいな、と思う。冷房の中心に置く花として百合にまさるものはない。そう信じ込まされるのも、俳句の愉しさのひとつ。冷房が夏の季語となり、季語2つが嫌われる風潮のなかでは生まれにくい句かもしれない。








ウィリス・キャリアと当時のエア・コンディショナー(戦後?)






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2010年5月23日日曜日

●バナナ

バナナ

夜の航武器のごとくにバナナを持ち  金子兜太

川を見るバナナの皮は手より落ち  高浜虚子

バナナ・コレラを花鳥と呼べりさう思ヘ  筑紫磐井

バナナ食ふ女のエゴはゆるすべし  行方克巳

2010年5月22日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔19〕苗・下

ホトトギス雑詠選抄〔19〕
夏の部(五月)苗・下

猫髭 (文・写真)


写真は、宮沢賢治が朝顔と間違えたハマナスの花。那珂湊の那珂川沿いに立つ反射炉の下に咲いていた。

「週俳」のオモテで、上田信治氏が高野素十を取り上げていたとは、インターネットの環境の無い那珂湊の田舎にいたので露知らず、ウラで素十を取り上げたのは偶然である。実は、わたくしが高野素十の句の面白さを知ったのは上田信治氏のブログ「胃のかたち」の発言(今回の特集記事の再録文)と、「素十を巡る断章」に引かれた野見山朱鳥『忘れ得ぬ俳句』を読んでからで、こう読むのかと目から鱗だったので、偶然とはいえ、上田氏の素十論が多くの人の目にとまるのは嬉しい。

思うに、高野素十は「ホトトギス」の試金石であるばかりではなく、「俳句」の試金石でもあるのだろう。一番有名な句を例に取れば、稲畑汀子が『よみものホトトギス百年史』で「写生の模範と賞賛される一方、他派からは草の芽俳句と侮蔑を込めてよばれた有名な句である」と述べた、

甘草の芽のとびとびのひとならび 昭和4年(「とびとび」は、くの字点表記)

が百家争鳴だった。

この句の初出は「ホトトギス」昭和4年6月号の巻頭句4句の最後の句としてである(稲畑汀子監修『ホトトギス巻頭句集』小学館刊)。前月の5月号の巻頭5句も素十だったので、9句をここに掲載してみよう。

額の芽の一葉ほぐれて枯れ添へる 昭和4年5月号巻頭句(以下同)
青みどろもたげてかなし菖蒲の芽
おほばこの芽や大小の葉三つ
朝顔の双葉のどこか濡れゐたる
邪魔なりし桑の一枝も芽を吹ける

風吹いて蝶々迅く飛びにけり 昭和4年6月号巻頭句(以下同) 
初蝶にかたまり歩く人数かな
ひとならび甘草の芽の明るさよ
甘草の芽のとびとびのひとならび(「とびとび」は、くの字点表記)

「花冷」の項でも触れた、日野草城が昭和5年に「天下の愚作」と断定した「風吹いて」や、秋桜子が昭和6年に「芸術の領域に入るものではない」と論じた「甘草の」の句がこの中にあり、「草の芽俳句」と言われた「おほばこの芽」の句もこの時期で、今回取り上げた「朝顔の双葉」もそうだから、毀誉褒貶句がごっそり呉越同舟という体を成して面白い。

当の素十は、

志文芸になし更衣 昭和27年
スケートは小説よりも面白し 昭和35年

といけしゃあしゃあとした句を詠む、文武で言えばLiterary派ではなくMilitary派だから、文に関しては「どれにしようかな、神様の言う通り、杓子持ってかんまわせ(かき回せ)」(茨城の鬼決め歌)で、俳句に関しては「虚子の言う通り」で通していたから、草城や秋桜子が虚子に対する反感を素十に代理戦争を仕掛ける事自体筋違いだが、そういう政治的な事件が、素十の作品を直截的に読むことから遠ざけている由縁のひとつでもある。

「ホトトギス雑詠全集」への所収は、昭和7年版だが、ここでは「芽」の「雑」で採られている。昭和13年版の「選集」では「名草(なぐさ)の芽」(虚子や素十は「めいそう」としても詠んでいる)の項に再録される。『新歳時記』では「草の芽」に収録される。西村睦子の名著『「正月」のない歳時記』に、この辺の経緯と虚子の主旨が書かれているが、「実際にふだん目にする対象を客観写生して詠ませる方針」で、写生に適した「位相を詳しく個々の首題にするのは虚子の特徴」として「瓜」や「苗」や「若葉」「落葉」を挙げている。この「芽」もまたそうであり、「名草(なぐさ)の芽」は「伝統的美意識で詠むというニュアンスがあって、すべて捨て去っている」。

このため、これだけ有名な「甘草」の句が、「ホトトギス雑詠」が編まれるたびに、収録される季題が変るので、探して照応する手間が大変で、西村氏の労は敬服に値する。「ホトトギス」の人がこういうことをやらなくてはいけないんですがと、氏はお会いした時に話されていたが、わたくしは自分でやってみて、誰もが出来ることではなく、西村氏だからこそ出来た営為だと心から思う。

で、これからわたくしがこの句を誤読していた話に移るが、初めて読んだときは、この句のどこが俳句として凄いのかよくわからなかった。西東三鬼の、

枯蓮のうごく時きてみなうごく 『夜の桃』昭和23年

の方が、鎌倉の源平池の枯蓮を見慣れていたから、風が吹いて遅れるように一斉に揺れる枯蓮の騒擾が見えて、写生句としてはこちらの方が一発でグッと来た。これはひとつは植物の知識の有無による。蓮はすぐ目に浮かぶ。甘草って何?

当時は、先ず「甘草の芽」が見たことがないからわからない。「甘草(アマクサ)」で「広辞苑」を引くと、【①カンゾウの異称。②アマチャヅルの異称。】とある。さて、どっち。カンゾウで引くと、ありました「甘草」が。【中国北部に自生するマメ科の多年草。高さ約一メートルで全体粘質。葉状複葉。夏、淡紫色の蝶形花を穂状につける。根は赤褐色で「甘根」と呼ばれ、特殊の甘味を持ち、欧州産の類似種も含めて鎮痛・鎮咳剤によく使われ、また醤油などの甘味剤となる。アマキ。アマクサ。】。甘茶蔓の方は【ウリ科の多年生蔓状草本。茎は巻ひげがあり他物に巻きつく。葉は五小葉が鳥の足状に広がる。雌雄異株。秋、黄緑色の花を小穂状に開く。熟した果実は小球状、黒緑色。葉は甘みがあり、甘茶にする。アマクサ。ツルアマチャ。絞股藍。】とあるので、後者は「茎は巻ひげがあり他物に巻きつく」から「芽のとびとびのひとまはり」になってしまい、間違いなく前者である。

と調べるからわかるので、甘草を見た者でなければ、それも芽を見た者でなければわからない句である。わたくしは日本的な草花だとこの句を見て想像していたが、実物を見たのはずっと後で、横浜の港の見える丘公園に咲いていて、吟行のとき、句友の書家の石田遊起さんに、これが甘草の花よと教わった。思っていたよりも派手な花で、紫の花穂には熊ん蜂が黒光りする大きな尻を蠢かせて潜り込んでいた。茎の芽も確かに「とびとび」だったが「ひとならび」からは等間隔に整然と芽が並ぶ様をイメージしていたのとは違い、少し不揃いだった。ハテナである。実はこの句を誤読していたのである。

『高野素十自選句集』(永田書房、昭和52年)を実質的に編んだ村松紅花は、素十の言として、
「とびとび」ではなく「とびとび」であることによって、下に通っている根茎に従って、いろいろな運命のなかで、こっちは石ころの下へ出てきたかもしれないし、こっちは日当たりのいい所に出てきたかもしれない。そんなようなのがひとならびの甘草の芽だ。哀れがあるじゃないか。
と語ったと伝えている(『よみものホトトギス百年史』)。

つまり、「薔薇の芽」や「楤の芽」の木の芽のように、甘草の花芽の並びをわたくしは「甘草の芽」に読んでいたが、そうではなく、地面の下から筍のように生える根茎の芽を素十は詠んでいたのである。「ひとならび甘草の芽の明るさよ」もまた茎の花の芽ではなく、地に芽を出した甘草の草の芽を詠んでいるのだ。虚子が最終的に『新歳時記』に「草の芽」の首題に収めたのはそういうわけである。とはいえ、この句の「の」に素十の見たような「もののあはれ」を見るのは容易ではない。きっこさんに猫が素十を分かるにはあと30年かかるわよと揶揄される由縁である。ああた、もう草葉の陰で読むしかないですがに。



2010年5月21日金曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔19〕苗・上

ホトトギス雑詠選抄〔19〕
夏の部(五月)苗・上

猫髭 (文・写真)


朝顔の双葉のどこか濡れゐたる 高野素十 昭和4年

写真は、常陸の國那珂湊の実家前の「角セ」から頂いた朝顔の苗である。「角セ」というのは屋号で、姓は磯前だが、わたくしが生まれた隣町の大洗はじめ、この辺は「磯で名所の大洗樣よ」と「磯節」に歌われるほど、地名が磯崎とか磯浜とか言うように、磯前とか磯崎とか磯がつく家がやたらと多く(出雲大社に連なる大洗磯前神社もそう)、どこの磯前さんかわからないので、屋号で呼び合う。その「角セ」のおばさんがくれた朝顔の苗は紫紺の花が咲くという。

朝顔の紺の彼方の月日かな 石田波郷 『風切』(昭和18年)

を思い起こすが、掲出句は、写真のように、右の双葉を見れば朝露をとどめているのがわかるから、「どこか濡れゐたる」と、見ればわかることを持って回った言い方をしている、というわけではない。複数の朝顔苗が植えられているのである。「特に二葉の頃揚巻貝を開いたやうな風変りな葉をしてゐるのが異色である。葉は光沢がある。他の苗類よりも少し遅れる」と虚子が歳時記で解説した双葉の形は、誰もが小学校で観察記録を書かせられたからすぐわかる親しい形出、実際に濡れていなくても「どこか濡れゐたる」と覗き込むような低い姿勢を読者に取らせる。上田信治氏が「無意識の共感能力」と呼んだのは、まさしくこの俳句というこの世でもっとも目線の低い文芸の姿勢へと読者を誘う「どこか濡れゐたる」という俳言だろう。これからどんな色の花を咲かせるのだろうという恵みを期待させる瑞々しい句でもある。

十年ほど前になるが、雨季の初めより、門の前の石垣の下のわずかな土くれにしがみつくように朝顔の双葉が生え、大谷石を伝いフェンスにからみ、などかくは美しき水無月の終わりより葉月を盛りに、大輪の紅紫の花が咲き乱れた。ちょうどボストンの友人が遊びに来ていたので、これをしも何と言うとたずねればMorning glory、すなわち彼の国のひとびとは「朝の栄光」と呼ぶ。そう言えば、宮沢賢治の詩「オホーツク挽歌」(『春と修羅』所収)には、
しづくのなかに朝顔が咲いてゐる
モーニンググローリのそのグローリ
という一節があったっけ。もっとも、それは朝顔ではなく、
朝顔よりはむしろ牡丹(ピオネア)のやうにみえる
おほきなはまばらの花だ
まつ赤な朝のはまなすの花です
だったが、確かに遠目に見ると、はまなすは紅の朝顔のように見えない事も無い。

そうか、アメリカにも目覚めの恵み(glory)として朝顔はあるかと気づき、種類はと問えば、いろいろあるらしく、いま覚えているのはMilky way(天の川)。これなどゆかしい。命短しと日本で言えば花のようにと来るが、アメリカでは何と言うか聞いたところ、Life is short. Like a dog.と言ったのが可笑しかった。プラグマティズムのお国柄ではある。
  
ところで、この大ぶりの紅の朝顔はいずこから流れ来たるやと怪しめば、我が家の五軒ほど上に、朝顔協会(というのがあるらしい)の会長さんの家があって、そこから流転の旅をしてきたらしく、ある朝、その朝顔老人が我が家の前に立ち、カミサンにそのやんごとなき貴種流離のいわれを述べたという。それが「左京一笑」なり。

丹精に咲かせてくれたと(勝手に根付いて勝手に咲いたのだが)、その朝顔老人がほかにもいろいろと種をくれたのが、紅色の「左京一笑」。
茶色は二種類あって「清山」と「団十郎」。
水色は「初瀬空絞り」で、まさしく空の色をしぼったごとく。
桃色は「萬代の桃源」といって、これも美しい桃源郷から流離したかという彩りを庭に投げ打つ。

我が家の裏手は、逗子と鎌倉をつなぐ巡礼古道と呼ばれ、馬手にくだれば、竹の寺報国寺(川端康成の小説『山の音』の舞台なり)、弓手に谷戸を歩けば曼荼羅堂から切り通しを抜けて小坪の海へとつらなり、衣張山(きぬばり)、浅間山(せんげん)という小高い丘のような山々が散歩道で、富士山が一番よく見える見晴台の傾斜には薄が生い茂り、この薄の枯枝を刈って、それをタコ糸で括り、アニメ『もののけ姫』の物見の砦のように組んだものが、御近所名物の我が家の朝顔の砦だった。薄の枯枝を推奨したのは朝顔老人だったが、薄と馬鹿にするなかれ、2メーター近くあり、結構太く、朝顔につるべとられてもらい水にはうってつけの素材だった。

種をどこにしまったか失念して朝顔砦は滅びてしまったが、「左京一笑」の種など一粒何千円と聞いて、いや、惜しいことをしたと思った。俳句に親しむと赤貧に甘んじる定めらしい。

(明日につづく)

〔link〕ほめほめ詐欺

〔link〕ほめほめ詐欺

google

ついに登場した「短歌詐欺」「俳句詐欺」が語る、「弱者ビジネス」の「闇」。紳士録商法から地名総覧まで、悪党のやり方を全部書く!
http://www.nikkeibp.co.jp/article/sj/20100517/226191/?P=1

※記事の信頼性いかんについては読者がご判断ください。

2010年5月20日木曜日

●上京

上京




春月や東京近き汽車の窓  高野素十


2010年5月19日水曜日

〔link〕『新撰21』関連

〔link〕『新撰21』関連

『新撰21』を読む(前編):短歌行

関悦史・「鬣」2010年2月号:閑中俳句日記(別館)



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●コモエスタ三鬼18 月蝕のドラマ【補遺】

コモエスタ三鬼 第18回 月蝕のドラマ 【補遺】

さいばら天気



コモエスタ三鬼・第18回に関して、島田牙城さんからツイッター上、三鬼の句がつくられた1936年に実際に皆既月蝕があったことを教えていただき、あらためて調べましたところ、とてもいい資料がウェブ上に見つかりました(便利な時代だなあ)。『天文月報』第29巻第1号/1936年1月(→PDFファイル)。p16に月蝕の記述があります。

この年、日本で月蝕は2回見られ、このうち1月9日が皆既日蝕。月蝕のはじまりは、午前1時28分。終列車の時刻とほぼ合います。

ちなみに、この年のもう1回の月蝕は7月5日早暁。三鬼の句「汽車と女ゆきて月蝕はじまりぬ」は『俳句研究』7月号が初出ですから、1月の皆既月蝕の際の句と思っていいのではないかと思います。

あらためて、島田牙城さんとツイッターに感謝。

2010年5月18日火曜日

●コモエスタ三鬼18 月蝕のドラマ

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第18回
月蝕のドラマ

さいばら天気


汽車と女ゆきて月蝕はじまりぬ  三鬼(1936年)

この年1936年に月蝕があったのかどうか調べようとしたら、結論は得られなかったものの、月蝕の頻度が思っていたよりも高いことを知る(≫Wikipedia)。21世紀の100年間で合計合計142回(皆既月食85回、部分月食57回)。もっとめずらしいものだと思っていた私が無知。

この句、ドラマチック。俳句でドラマチックは褒め言葉にならない場合が多いけれど、安物のドラマではなく、作者の「いっちょやったろか」感が過剰ではなければ、ドラマもまた良し。

汽車にはその女ひとりしか乗っていないかのような、焦点の絞り方がいいじゃないですか。

で、行ってしまってから始まる月蝕。

ルナティックな三鬼を感じさせる一句。


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2010年5月17日月曜日

【評判録】男波弘志『阿字』

【評判録】男波弘志句集『阿字』

田工房/2009年11月

:岩淵喜代子:喜代子の折々

関悦史・閑中俳句日記 (30):俳句空間―豈weekly 第87号

高山れおな・猿を着る人ステテコに鯵の風以下に:俳句空間―豈weekly 第91号

2010年5月16日日曜日

〔人名さん〕アイスクリン

〔人名さん〕アイスクリン

バカボンのパパとバカボンアイスクリン  齋藤朝比古

順番が大事。「バカボンとバカボンのパパ」では、なんだか無機質に並んだかんじで、温かみが出ない。バカボンのパパ → バカボン → アイスクリン と収斂していくようで、いい。そして「ン」の脚韻。「ん」の音は、しばしば人を幸せにする。(さいばら天気)

2010年5月15日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔17〕罌粟の花・下

ホトトギス雑詠選抄〔18〕
夏の部(五月)罌粟の花・下

猫髭 (文・写真)


星野立子の句に、

午後からは頭が悪く芥子の花 星野立子 昭和15年

という、初夏の陽気に頭がうまく回らないという軽みの句があるが、表記が罌粟ではなく芥子であり、罌粟の種子は芥子菜の種子に似ていて、室町時代に誤用されてそのまま異名として定着していると云われる。芥子粒は微小なものの喩で、アンパンなどにも振られて食用になる所為もあり、危険な匂いはしないが、この句も雛罌粟ではなく、阿片罌粟である。

というのは、虚子は「罌粟の花」と「雛罌粟」を明確に分けて季題を立てているためである。「ホトトギス雑詠」では「罌粟掻」という季題を立て、

罌粟掻女罌粟に沈みて一たばこ 五十嵐播水 昭和7年
罌粟の毒乾きて黒くなりにけり 同上

と阿片を掻く句を載せて、阿片罌粟と雛罌粟を分けている(『新歳時記』では、「罌粟掻」を落として「罌粟坊主」を立てているが)。戦前にはモルヒネを精製するための薬草として広く栽培されていたためだろう。阿片罌粟の栽培が禁止され阿片法が昭和29年に施行されるまでは、医療の鎮痛剤として広く栽培されており、余り規制はされていなかったということになる。戦後は、我々が見る罌粟はすべて雛罌粟であり、冒頭の写真も那珂湊の近所の蔵の前に咲いている雛罌粟である。阿片罌粟に黄色はないので、写真のオレンジも雛罌粟の色である。

罌粟はモルヒネ・阿片を採るので麻薬というイメージが強いが、社会問題になったのは、阿片ではなく覚醒剤のヒロポンである。戦後、阿片法より早く覚醒剤取締法は成立している。しかし、ヒロポンのアンプルなどは仕事で徹夜したあとなど、一発でスッキリするから疲労がポンと抜けると(ヒロポンは商品名でギリシャ語の「労働を愛す」に由来)、わたくしが大洗で板金工だった昭和40年代頃は、工場長や近所の人も、小さな灰色のハート型の鑢でアンプルの首をこきこきぺキンと折っては飲んでいたから、疲労回復薬として一般的だった記憶がある。ヒロポンは昭和26年に覚醒剤取締法により使用や製造は制限されているが、田舎では薬局で半ダースの箱に入って売っていたと思う。買いに行かされて、未成年は買えないわよと言われたと記憶する。わたくしの感覚では、都会と田舎では10年くらい時差が違うような気がする。わたくしがヒロポンをやらなかったのは、自分の意志を越えたところで自分が制御できない状態になるのが不快だったからに過ぎない。

たかしは「罌粟」と書き、立子は「芥子」と書く表記の件だが、俳句以外でも表記はまちまちで、塚本邦雄『詩歌博物誌 其之壱』(弥生書房)から、罌粟の秀歌を並べて見ると、

南方を恋ひておもへばCampagna(カンパニア)の野に罌粟の花ちる 斎藤茂吉『遠遊』
ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟(コクリコ) 与謝野晶子『夏より秋へ』
罌粟さきぬ思ふは矮(ひく)き屋根裏の夕焼に寝て吸ひし唇 与謝野寛『相聞』
恋すてふ浅き浮名もかにかくに立てばなつかし白芥子の花 北原白秋『桐の花』
罌粟の実のまろく青きがそよぎ居り清涼寺よりわが出で来れば 若山牧水『砂丘』

白秋の「芥子」と牧水の「罌粟の実」が正しいとされる。『言海』を引けばわかるが、「罌粟」という字は栗を入れる罌(かめ)の形だから、厳密に言うと「罌粟」の字は「実」のことを言うから花には使えないということになる。「芥子」が字の本義ということになるが、芥の字は漢音がカイで呉音がケのためケシと誤用されたとかで、結局、どちらもうるさく言えば誤用なので、どちらでもいいということになる。

とはいえ、稲畑汀子編・著の『よみものホトトギス百年史』には、たかしの句の表記は「芥子」になっている。オリジナルは「罌粟」であり、虚子の『新歳時記』の表記も「罌粟」だから、これは編集の誤植だろうが、どちらも併用されるので、どちらでもいいとはいえ、たかしの句は「罌粟」表記がふさわしいと感じる。


2010年5月14日金曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔17〕罌粟の花・上

ホトトギス雑詠選抄〔18〕
夏の部(五月)罌粟の花・上

猫髭 (文・写真)


罌粟咲けばまぬがれがたく病みにけり 松本たかし 昭和7年

俳句では「罌粟の花」と言えば、先ず松本たかしのこの句が頭に浮かぶほど印象が強い句である。「まぬがれがたく」という重い措辞ゆえに、園芸種の雛罌粟(ポピー、虞美人草)ではなく、阿片罌粟をイメージする。また、そういう自分ではどうすることもできない宿痾を作者は「病みにけり」という強い断念で受け止めているようにも見える。阿片からはモルヒネを鎮痛剤として精製するから、たかしの句からはモルヒネを服用していた子規の姿も重なる。
此ごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽みとなつて居る。けふは相変わらず雨天に頭がもやもやしてたまらん。朝はモルヒネを飲んで蝦夷菊を写生した。一つの花は非常な失敗であつたが、次に画いた花はやや成功してうれしかつた。午後になつて頭はますますくしやくしやとしてたまらぬやうになり、終には余りの苦しさに泣き叫ぶ程になつて来た。そこで服薬の時間は少くも八時間を隔てるといふ規定によると、まだ薬を飲む時刻には少し早いのであるが、余り苦しいからとうとう二度目のモルヒネを飲んだのが三時半であつた。それから復た写生をしたくなつて忘れ草(萱草に非ず)といふ花を写生した。(正岡子規『病牀六尺』86、明治35年)
俳句世間の外では、病める花と言えば薔薇であり、ウィリアム・ブレイクの詩「病める薔薇」の第一節「O Rose, thou art sick!」を、佐藤春夫が『田園の憂鬱』の中で、「おお、薔薇(そうび)、汝病めり!」と訳したのが、日本では夙に知られており、このゲーテの「薔薇ならば花開かん!」で始まり、丹精をこめた薔薇が畸形で虫に汚されていたというラストのブレイクの絶叫は、堀辰雄の『風立ちぬ』のエピグラフに引かれ、文中に立ち現れるポール・ヴァレリイの詩「Le vent se lève, il faut tenter de vivre.」の訳「風立ちぬ、いざ生きめやも」と並んで、人口に膾炙した。わたくしもまた愛誦した。

それゆえに、俳句を詩として見ると、「罌粟、汝病めり」と「罌粟咲けばまぬがれがたく病みにけり」を罌粟自体が病んでいると先ず読んでしまう。詩は、実生活という現実は生きれば済む事で、生きれば済むことを詩はわざわざ歌わないから、そう読むのが詩としては当り前なのだが、俳句は虚ではなく実に根ざした構造なので、「病める」のは罌粟ではなく作者というように目玉を切り替えて読まなければならない。病んでいるのは作者であり、罌粟の咲く夏の初めの頃にという鮮やかな背景と阿片のイメージが「罌粟咲けば」という因果を反転させて、冷たいような微熱を湛えている秀句となっている。

薔薇咲けばまぬがれがたく病みにけり

と花を置き換えてみれば、薔薇の香水のような濃密な匂いと、罌粟の腐った紙のような臭いと、全く句の姿が変る事に気づくだろう。それが腐臭ではなく、凛然と罌粟の花の色が見えるのは、たかしの冷徹と言えるほどの美意識による。

松本たかし。明治39年~昭和31年。神田生まれ。幕府所属宝生流座付能役者の家に生まれ、父長(ながし)は名人と歌われた。たかしは病弱のため能を断念。大正10年頃から俳句を始め、虚子に師事。昭和21年、「笛」を創刊主宰。句集『松本たかし句集』(昭和10年)『鷹』(昭和13年)『野守』(昭和16年)『石魂』(昭和28年)『火明』(昭和32年)。

チチポポと鼓打たうよ花月夜 『鷹』

が余りにも有名だが、切れ味鋭い秀句を数多詠んでいる。

白菊の枯るゝがまゝに掃き清む 昭和四年三月「ホトトギス」巻頭句
狐火の減る火ばかりとなりにけり
赤く見え青くも見ゆる枯木かな 昭和5年2月「ホトトギス」巻頭
水仙や古鏡の如く花をかゝぐ 昭和6年3月「ホトトギス」巻頭句
枯菊に紅が走りぬ蜘蛛の糸 昭和6年4月「ホトトギス」巻頭句
遠き家のまた掛け足しゝ大根かな
蝌蚪生れていまだ覚めざる彼岸かな 昭和6年6月「ホトトギス」巻頭句
たんぽゝや一天玉の如くなり
流れつゝ色を変へけりシヤボン玉 昭和7年5月「ホトトギス」巻頭句
日の障子太鼓の如し福寿草 昭和8年3月「ホトトギス」巻頭句
雲霧の何時も遊べる紅葉かな 昭和9年1月「ホトトギス」巻頭句
炭竃の火を蔵したる静かな 昭和15年3月「ホトトギス」巻頭句
在りし世の羽子板飾りかくれ住む
箱庭の人に大きな露の玉 昭和16年10月「ホトトギス」巻頭句
冬山の倒れかゝるを支へゆく 昭和19年3月「ホトトギス」巻頭句
雪満目温泉(ゆ)を出し女燃えかゞやき 昭和23年5月「ホトトギス」巻頭句

(明日につづく)

2010年5月13日木曜日

■新刊情報

新刊情報

2010年5月12日水曜日

【評判録】木附沢麦青『馬淵川』

【評判録】木附沢麦青句集『馬淵川』

閑中俳句日記(32):豈 Weekly

2010年5月11日火曜日

●コモエスタ三鬼17 ピアノ鳴る

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第17回
ピアノ鳴る

さいばら天気


三鬼が残した句集は『旗』(1940年)、『夜の桃』(1948年)、『今日』(1952年)、『変身』(1962年)の4冊。今のちょっとした(してなくても)俳句作家の刊行ペースからすると、ずいぶん少ない。

『旗』と『夜の桃』の間に、河出書房刊『現代俳句』第三巻所収『空港』(187句)があるが、その多くは『旗』からの再掲(『夜の桃』にも『旗』『空港』からの再掲が多い)。つまり、同じ句が複数の句集に登場する。このあたりも、昨今の句集刊行事情とは異なる(初期ビートルズのアルバム構成を思い出す)。また、自註句集『三鬼百句』(現代俳句社/1948年)が全句再掲(新作なし)のスタイルで刊行されている。

さて、そこで、再掲といっても、少しだけ変えた句も少なくない。例えば…

ピアノ鳴りあなた聖なる冬木と日  三鬼(1937年)『旗』

ピアノ鳴りあなた聖なる日と冬木  同 『三鬼百句』

日本語の問題というか言語の問題というか、修飾がどこまで係るのかが判然としないケースが多々ある。2つ並べたこの句の場合、「聖なる」は、冬日か木か、それともどちらもか。

前者(『旗』版)では、「聖なる」なのは冬木と日のどちらも、と読める。ところが、後者では、「聖なる日」がフレーズとして完結し、そこに冬木がプラスされる感じ。

さらには、前者と後者で「日」の意味合いも違って読める。すなわち、前者は「日のひかり daylight」、後者は「day」。

冬木と日の語順を入れ替えただけの改変だが、句の内容がガラリと変わる気がする。

どっちがいいんでしょうね?

私は、『旗』版の「ピアノ鳴りあなた聖なる冬木と日」のほうがだんぜんいいと思う。


※承前のリンクは 貼りません。既存記事は記事下のラベル(タグ)「コモエスタ三鬼」 をクリックしてご覧くだ さい。

2010年5月10日月曜日

●本



2010年5月8日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔17〕五月・下

ホトトギス雑詠選抄〔17〕
夏の部(五月)五月・下

猫髭 (文・写真)


承前

日本であれば五月の歌の花は、さしずめ卯の花だろう。「卯の花のにおう垣根に、時鳥早ももきなきて、忍音もらす 夏は来ぬ」(作曲小山作之助・作詞佐々木信綱「夏は来ぬ」。明治29年5月『新編教育唱歌集(五)』所収)は余りにも有名だから。佐々木信綱は歌人だから、57577の三十一文字の短歌のリズムに、タイトルの5の音数律を重ねたわけで、今でも歌えるから、子どもの頃に言葉の調べで覚えたものは死ぬまで忘れないようだ。

だが、時鳥と花の取り合せは「卯の花」に限らず、「梅と鶯」のように、『万葉集』では、「橘と時鳥」を合わせるのが慣しだった。

橘の花散る里の霍公鳥片戀しつゝ鳴く日しそ多き 大伴旅人 巻8-1473

「あやめ草」もそうで、『古今和歌集』の、

郭公なくや五月のあやめ草あやめも知らぬ戀もするかな よみ人知らず

の一句あるがゆえに、「よみ人知らず」の秀句として後世に数多く本歌取りされた。

佐佐木信綱が「橘」でも「あやめ草」でもなく「卯の花」を選んだのは、空木が咲くと日本人は田植を始めるという農暦的な日本の稲作の大切さを「教育唱歌集」として盛り込んだためという気がする。「夏は来ぬ」の2番は、その証拠に、「さみだれのそそぐ山田に、早乙女が裳裾ぬらして、玉苗ううる 夏は来ぬ」と続くから。

リラの花の歌も、ニワトコやスミレではなく、リラでなければならないフランス的なこだわりがあるようだ。というのは昭和3年以前、エルネスト・ショーソン (1855-1899)歌曲集で、ショーソンの代名詞にもなっているほどの美しい歌曲が「リラの花咲く頃」Le Temps des Lilas(1886) という、フランス人にとってはそのまま「美しい季節」を意味するタイトルとしてあるからだ。これはモーリス・プショール(1863-1909)が詩をつけており、

Le temps des lilas et le temps des roses
Ne reviendra plus à ce printemps-ci;
Le temps des lilas et le temps des roses
Est passé; le temps des œillets aussi.
Le temps des lilas et le temps des roses
Avec notre amour est mort à jamais.
リラの花咲く頃も 薔薇の花咲く頃も
この春にはもうめぐってこないだろう
リラと薔薇の日々は
過ぎ去った 撫子もまた
花咲くリラと薔薇の日々は
我が恋とともに永遠に過ぎ去った

というように、アポリネールの「ミラボー橋」(Le pont Mirabeau堀口大學訳)、

Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Et nos amours
Passent les jours et passent les semaines
Ni temps passé
Ni les amours reviennent
Sous le pont Mirabeau coule la Seine
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
日が去り、月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰って来ない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる

のシャンソンと同じで、「白いリラがまた咲く頃」(Quand refleuriront les lilas blancs)の明るさは微塵も無く、ハンカチを握りてよよといふ形、といった感じである。

同じ「リラの花咲く頃」Le Temps des Lilasのタイトルでバルバラ(1930-1997)が歌うシャンソン(1962)もある。バルバラの歌は、わたくしも知っている新しい歌なので、当然のことながら昭和13年にはまだ歌われていない。フランスへ留学していた小川国夫は『リラの頃、カサブランカへ』という中国人とフランス女性の三角関係というオートバイ小説を書いているから(小川国夫自身は捨石と言っているが、実にスリリングで切なくも魅力的な作品である)、こちらはバルバラかと思ったが、小川国夫が渡仏したのは1953-1956の3年間なので、まだバルバラの歌は生まれていない。「リラの頃」というタイトルはショーソンの美と哀愁のLe Temps des Lilasにこそふさわしいようにも思う。

また、リラの花というと、現代詩を齧った者なら誰でも日本の戦後詩の開闢を告げる鮎川信夫、北村太郎、中桐雅夫、加島祥造、三好豊一郎、黒田三郎、高野喜久雄、田村隆一、野田理一、吉本隆明らを輩出した同人詩誌「荒地」の名前の由来となった、イギリスのE・H・エリオットのApril is the cruelest month(四月は残酷な月だ)で始まる『The Wasted Land』(荒地)の「The burial of the Dead」(死者の埋葬)の冒頭の詩を連想するだろう。

April is the cruelest month, breeding 四月は残酷な月だ、
Lilacs out of the dead land, mixing  リラの花を死の土地から咲かせ、
Memory and desire, stirring      追憶と欲望を掻き混ぜ、
Dull roots with spring rain. 鈍感な根っこを春の雨で揺り起こす。

つまり、リラの花と言えば、吉田健一が「英国の近代はワイルドから始まる」(『英国の近代文学』)と果敢に断定したように、「現代詩はエリオットの四月から始まる」(by猫髭)という連想をしがちで、リラの花=酷薄なイメージになる。

ところが友次郎の句は、ウィーン、パリとパリっ子の愛誦歌が生まれる過程をすべて見て来た若き日の体験が、「巴里子」と「五月」と「歌」の取り合わせの「の」によるリズミカルな並列で等価に響き合い、「は」の抱え字で「リラの花」に収斂して一気に薫風が吹くような律動があり、音楽と詩とのコラボレーションで後世を楽しませる海外詠ならではの一句となっている。ずっとリラの花というとエリオットのイメージだったが、友次郎の句に出会って開放されたような気分である。

虚子は『渡仏日記』で海外詠を沢山詠んでいるが、エスプリの国に「花鳥諷詠」の季題趣味をそのまま移植することは困難である由を後に語っている。友次郎の句を読むと、虚子のような俳句への使命感のようなものから自由だった分、掲出句のような、フランス人でも素直にわかる句を詠むことが出来たように思う。

池内友次郎(いけのうち・ともじろう)。明治39年~平成3年。虚子の次男。父方の本家を継ぎ池内姓を名乗る。昭和2年、パリ・コンセルバトワール音楽学校に日本人として初めて入学。昭和12年帰国。東京学芸大学作曲家教授。日本音楽会の草分けでもある。『よみものホトトギス百年史』によれば、虚子は友次郎を「お前は俳句の専門家とはいへない。而も俳句界に一家を為すところの素質を供へてをる」と評した。句集『結婚まで』(三省堂、昭和15年)『調布まで』(臼井書房、昭和22年)『池内友次郎全句集』(深夜叢書社、昭和53年)『米寿光来』(永田書房、昭和62年)。

雪の夜の物語りめく寺院かな 昭和10年4月「ホトトギス」巻頭句 巴里
パリの月ベルリンの月春の旅 昭和11年
囀に古城の塔の時計かな 昭和11年7月「ホトトギス」巻頭句 巴里
春の絵の枠とも野行く汽車の窓 同上
祖父の太刀抜きとくと見る蝶の縁 昭和16年6月「ホトトギス」巻頭句 東京
萌ゆる芽のよびよせ誘ふ色ならめ 同上
除草夫の手が伸び草がつかまれし 昭和19年11月「ホトトギス」巻頭句 調布
秋風や嘘言はぬ人去つて行く 昭和24年1月「ホトトギス」巻頭句 吉祥寺(年尾選)
国道は野山に浮かぶ秋の風 同上

2010年5月7日金曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔17〕五月・上

ホトトギス雑詠選抄〔17〕
夏の部(五月)五月・上

猫髭 (文・写真)


巴里子の五月の歌の花はリラ 池内友次郎 昭和13年(巴里)

今年のGWは40年ぶりの好天だったそうで、わたくしの郷里那珂湊も先月の一寒一温が嘘のように真夏日が続いた。廃線を2年前に免れた湊線は無人駅の水田の中を走ったが、花冷えの影響で苗が育たず、例年はGW中に済ます田植も今年はずれ込むと聞いた。我が家の前の荒地には一八が咲き乱れ、白い花弁から暑さに喘いで舌を出す犬のように黄色い蘂を垂らしていた。夕暮になると夥しい数の蝙蝠が空を乱舞する。滅びゆく湊町で、蝙蝠たちは朽ちかけた網元の倉に巣食って50年前と同じ姿を見せる。

リラ(Lilas)はマロニエと並ぶフランスの代表的な花。英語ではライラック(Lilac)で、リラはフランス語である。虚子の『新歳時記』には四月の季題として「ライラツク」を挙げ、「紫丁香花(むらさきはしどい)ともいふ。観賞用として庭園に培養される。大きな円錐花序に四裂筒状淡紫色の小花を綴る。香気が強く、香水の原料となる。リラの花」と解説しており、春の花である。「ホトトギス雑詠選集」のライラックの選句がまた実に魅力的。

うしろより縋り匂ひぬライラック 広瀬盆城 昭和7年(平壌)
騎士の鞭ふれてこぼるゝライラック スコット沼蘋女(しょうひんじょ) 昭和8年(ヴィクトリア)
懐かしき名なりしフリダリラのこと 池内友次郎 昭和11年(巴里)
舞姫はリラの花より濃くにほふ 山口青邨 昭和12年(伯林)

友次郎の詠んだ「フリダリラ」とは、ドイツ語で接骨木(にわとこ)を意味し、リラの意味もあるフリーダー(Flieder)の発音に近いが、そうは発音出来ないように思うが、「ライラック」として虚子は選をしている。

掲出句に出て来る歌はパリっ子が歌うから、勿論シャンソンである。実は、宝塚のテーマ・ソング「すみれの花咲く頃」がその歌である。サビの部分が「すみれの花咲く頃 始めて君を知りぬ 君を思い 日ごと夜ごと 悩みしあの日の頃 すみれの花咲く頃」と明るく甘いメロディを持つシャンソンであり、「白いリラの花咲く頃」(Quand Refleuriront Les Lilas Blancs)が掲出句の本歌である。したがって「リラの花の咲く頃」と歌えば、意味は本歌通りになり、友次郎の句のリズムと響き合う。

ところが、このシャンソンにも本歌がある。

和泉晃一「草木名の話」と二木紘三の「うた物語」に寄れば、昭和3年、オーストリアで「白いニワトコがまた咲く頃」(Wenn der weiße Flieder wieder blüht)という歌が流行った。フランツ・レーデの作曲である。翌年、これが、ウィーンからパリへと流行が移り、カジノ・ド・パリのレビューで「白いリラがまた咲く頃」(Quand refleuriront les lilas blancs)というシャンソンへ編曲され演奏された。ニワトコがリラへと置き換えられたのである。昭和5年、パリ留学を終えた新進の演出家・白井鉄造は、最新流行のシャンソンを帰国土産に持ち帰り、「すみれの花咲く頃」と装いをあらため、宝塚少女歌劇団のレビュー「パリゼット」の主題歌として上演し、これが大ヒットして、宝塚のシンボル・ソングとなり、日本でシャンソンが受け入れられる嚆矢ともなった。

友次郎は昭和3年から10年間フランスに滞在しているから、このシャンソンの経緯をすべて実体験として知っている事になる。オリジナルの歌はドイツ映画にもなったが、友次郎は映画もレビューも見ていると思われる。「懐かしき名なりしフリダリラのこと」には友次郎のそういう思いがあったのかもしれない。

(明日につづく)

●「週刊俳句」創刊3周年記念懇親会・補遺

「週刊俳句」創刊3周年記念懇親会・補遺

提供:岡本飛び地さん

本誌 「週刊俳句」3周年記念懇親会レポート

2010年5月5日水曜日

●立夏

立夏

瀧おもて雲おし移る立夏かな  飯田蛇笏

海の色まだ定まらぬ立夏かな  中村苑子

のらのらと生きて立夏のうすき汗  大木あまり

手が水に洗はれてをる立夏かな  依光陽子

街角のいま静かなる立夏かな  千葉皓史

2010年5月4日火曜日

●兜太から九堂夜想への講評 関悦史

兜太から九堂夜想への講評 「雪梁舎俳句まつり」余聞

関悦史


先日新潟市の雪梁舎美術館で行われた第十一回「雪梁舎俳句まつり」では、『新撰21』は宗左近俳句大賞を逃したが、同時に募集されていた一般投句の部の最高賞「雪梁舎賞」に九堂夜想の一句が選ばれた。

宗左近俳句大賞の選考に引き続いてその講評と表彰が行われたので、そこまで記録してあった。せっかくなので、その中から金子兜太による九堂夜想への講評を紹介しておきたい。当の九堂夜想がこのアドバイスを聞き入れるかどうかは保証の限りではないが。
(以下:金子兜太講評)

一言だけ言うとね、雪梁舎賞の《虹色に濡れて海市から来たという》。これは「カイシ」と読むわけでしょうね。
この句は好きでして、この作者は知ってるので、これはこのさっき問題になったあれ(『新選21』)の、当選されてる若い…、まあ年は実際にはアレだけど、若手新人の一人ですよね。
この人の句はよく知っている、仲間(「海程」の)といっていいですが、この方がこれくらいの句を作り続けたらばねえ、これはこの賞も可能だと思うんですが、日ごろは小難しい句ばかり作って、私でもよくわかんねえような句が多いんでね。この際、この場所を借りまして、軽いアドバイスをしたいと思います。何言ってやがんでえと思ってるかもしれないけれども、一言申し上げたい。
このくらいでちょうど良いんですよ。
これくらいで我慢して作り続けたら、あんた良い句集が出来るんだよなあ、もったいねえ。…という感じでございました。雪梁舎賞に新人によるこういう句が出たということが、私には非常に新鮮な気持ちです。

(以上)

関悦史 宗左近俳句大賞公開選考会レポート、または『新撰21』はいかにしてほぼ決まっていた「特別賞」を逃したか:豈 Weekly 第89号



邑書林ホームページで も購入可能。

2010年5月3日月曜日

●井口吾郎 男体へ


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2010年5月2日日曜日

●おんつぼ31 ダリダ 四ッ谷龍


おんつぼ31
ダリダ Dalida
「ひとりで生きないために」

四ッ谷 龍



おんつ ぼ=音楽のツボ



ダリダの歌声からは、女性の女らしさがジュワーッとにじみだしてくるように感じられる。iPodでダリダの曲を聴いていると、女らしさに包まれて自分の身も心もとろけるような気配がする。

ダリダ自身の人生は、悲しみに覆われたものだった。なにしろ、付き合った男性が3人も自殺してしまったのだ。カンツォーネ歌手のルイジ・テンコ、ラジオディレクターのリュシアン・モリス、そして自称伯爵のリシャール・シャンフレイ。

ダリダはエジプト生まれのイタリア人だが、フランスで成功し、出す曲出す曲、みんな大ヒットになった。生涯で55回、ベストヒットNo1を獲得したという。多くのファンに幸福と喜びを与えながら、最後はそんな生活にも疲れてしまい、彼女自身が睡眠薬で自殺した。大輪の花のような美貌と悲劇的な結末の対比はショッキングなものであった。

そのダリダの永遠の名作が、「ひとりで生きないために」である。

 ひとりで生きないために
 人は犬と暮らしたり
 薔薇とともに生きたり
 信仰とともに生活したりする
 ひとりで生きないために
 人は馬鹿騒ぎをしたり
 思い出とか、影とか、そのほか何でも
 大切にしたりする

最初は、このように、ごく普通に歌い出されるのだが、次の節に行くと「おや?」と思う。

 ひとりで生きないために
 女の子が女の子を愛したり
 男の子が男の子と
 結婚したりする
 ひとりで生きないために
 子どもをつくる人もいる
 ほかの子どもと同じくらい
 孤独な子どもを

ここに来て、歌詞のイロニーにわれわれは気づく。そして後半、さらに強烈な表現が待ち受けている。

 ひとりで生きないために
 友だちを作ったり
 つらい夜が来たら
 友だちを集めたりする
 お金や夢や
 豪邸のために生きたりする
 だが二人で入れる棺桶を
 作った者はいない
 ひとりで生きないために
 私はあなたと生きる
 あなたといると私は孤独だ
 私といるとあなたは孤独だ
 ひとりで生きないために
 私たちは生きる
 まるで 自分たちはひとりで生きていないという
 まぼろしを持とうとする人間たちのように

「ひとりで生きないために」というタイトルだが、結局この歌が言おうとしているのは、人はひとりで生きていくしかないものだという事実である。

孤独の癒され度 ★★★★
美貌に癒され度 ★★★★★




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2010年5月1日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔16〕シクラメン・下

ホトトギス雑詠選抄〔16〕
春の部(四月)シクラメン・下

猫髭 (文・写真)


その死により結果的に最終選となった虚子の『ホトトギス雑詠選集』は、雑詠の始まった明治41年10月号(第12巻1号)から昭和12年9月号(第40巻12号)までを「中間選集」として出した昭和17年の『ホトトギス雑詠選集』(全4巻)と、続編として、昭和12年10月号(第40巻13号)から昭和20年3月号までの雑詠を「予選稿」として出した昭和37年の『ホトトギス雑詠選集』(全2巻)の計6冊である。高浜年尾も後者の序文で断っているように戦前の分で虚子の選は終わっており、戦後の分には全く手を触れられなかった。これは象徴的なことだとわたくしには思われる。

人がその死によって動かなくなるように、「ホトトギス」もまた、子規の死、虚子の死によって、何をこの二人の創生者が成し遂げたか、何を後世に託す形になったかを形として後世に残す。虚子は自分の責任分担を戦前として区切った。結果的に戦後は後世に託したということになる。勿論、これらは死によって、生きている者が歴史をゴールから見るという「祭の後」の目から見た不遜とも言える評価になるが、あの人がもし生きていたならという、そういう死者の目が背後にあるように、後を継ぐ者が、駅伝の襷を託されたように繋ぐ思いが、また新たなる歴史になるのであり、「ホトトギス」の場合は、年尾が虚子に「ホトトギス雑詠」の選の続編を乞わなければ、虚子の戦前までの選をすべて終えるという区切りを演じられなかったし、杞陽の一句も残らなかった。年尾は見事に父の生を完成させ、後世としての役割を果たしたと言える。

杞陽は虚子と昭和11年のベルリンの虚子歓迎句会で出会い、「はじめは物を浅く写すことからはじめる」という教えを終生かけて信じて、魅力的な句を数多く残した。虚子亡き後も年尾選を受け続けた。虚子に対する信奉は信奉として、後を継ぐ者、年尾や汀子に対する杞陽の眼差しの暖かさは特筆に価する。

はじめは物を浅く写すことからはじめる」という虚子の見事な言葉は、杞陽が主宰の「木兎」に載せた言葉だが、普通は「徹底的に様々な角度から見ることで他の人の詠まなかった眼目を見つける」というように教わり、「観察」を繰り返す先に「写生」に行き着くと言われる。「物を浅く写す」とは何と見事な俳句への水先案内の言葉だろう。また、何と見事に杞陽の俳句の真髄を射抜いている言葉だろう。いや、俳句そのものの真髄と言っていいかも知れない。

京極杞陽(きょうごく・きよう)。明治41年~昭和56年。本名高光。兵庫県豊岡藩主14代当主(子爵)。大正12年9月1日、関東大震災にて父母、祖母、弟妹各二人を失い、姉とただ二人の生存となる。後日焼け落ちた玄関に正座して焼死している老僕兼吉の姿を杞陽は見ていると森田昇の「評伝・京極杞陽」は記している。櫂未知子の杞陽論のサブタイトル「喪失という青空」はこの凄まじい杞陽15歳時の悲劇に由来する。昭和3年東北大学文学部進学。1年で京大文学部に移る。翌年東大文学部に入学。昭和8年、大和郡山藩主長女昭子と結婚。昭和9年東大卒。昭和11年、ヨーロッパに遊学。11年、ベルリンで渡欧中の虚子歓迎句会に出て虚子の選を受ける。帰国後、偶然ホテルのエレベーターで帰国した虚子と同乗し、これらの縁で虚子と師弟関係となり、終生虚子に傾倒。昭和12年11月、「ホトトギス」初巻頭。昭和15年「ホトトギス」同人。昭和21年、「木兎」主宰。貴族院議員。翌年、新憲法により貴族院議員の資格を失う。昭和31年、波多野爽波の第一句集『鋪道の花』に解説を書く。句集は『くくたち』(装幀星野立子のシンプルで美しい句集)『但馬住』『花の日に』『露地の月』『さめぬなり』(遺稿集)。

美しく木の芽の如くつつましく 昭和11年 『くくたち上』
都踊はヨーイヤサほほゑまし
汗の人ギユーツと眼つぶりけり
天の川鹿の子絞りとなりにけり 「ホトトギス」昭和12年11月巻頭句
香水や時折キツとなる婦人 「ホトトギス」昭和12年11月巻頭句
ワンタンとありおでんとありセルロイド提灯
白魚と銀貨とどこか似てをらずや 昭和13年
浮いて来い浮いて来いとて沈ませて
鷹匠が二人一人は鷹を手に
春雨を枕に耳をあてて聞く 昭和17年 昭和11年 『くくたち下』
靴を穿く今が一番寒い時 昭和18年
春風や但馬守は二等兵 昭和19年
春川の源へ行きたかりけり 昭和20年
詩の如くちらりと人の炉辺に泣く 昭和21年 『但馬住』「ホトトギス」9月巻頭句
この子亦髮伸びてきて風邪らしも 昭和23年「ホトトギス」6月巻頭句
妻いつもわれに幼し吹雪く夜も
蠅とんでくるや箪笥の角よけて 昭和24年
ハンカチは美しからずいゝ女
余花の駅のりおくれたる漁婦らしき 昭和25年
はしりすぎとまりすぎたる蜥蜴かな 昭和26年
スエターの胸まだ小さし巨きくなれ
貧乏は幕末以来雪が降る 昭和28年
野菊にも雨ふりがちの但馬住
王の風邪癒えて王女の風邪心地
桃一つながれて来ずや岩の間を
西行忌なり昼の酒すこし 昭和29年
親切のマツチあかりが稲架てらす 「ホトトギス」4月巻頭句(年尾選)
春風の日本に源氏物語 「ホトトギス」昭和30年4月巻頭句
秋風の日本に平家物語 「ホトトギス」昭和30年4月巻頭句
業平はいかなる人ぞ杜若 「ホトトギス」10月号巻頭句
熊野(ゆや)の如朝顔の如金魚かな 「ホトトギス」昭和31年10月巻頭句
ががんぼのタツプダンスの足折れて 「ホトトギス」10月巻頭句 
どの蟻の智もまさらずにおとらずに
蟻の居て寝釈迦の如く蝉死して 「ホトトギス」昭和33年8月巻頭句
電線のからみし足や震災忌 「ホトトギス」12月巻頭句
燃えてゐし洋傘や震災忌 「ホトトギス」12月巻頭句
雪国に六の花ふりはじめたり
桐の花虚子なき月が上りたり 昭和34年 『花の日に』
ことと音又も深雪にことと音 昭和37年
黄を金といふ一例や金鳳花 「ホトトギス」6月巻頭句
うまさうなコツプの水にフリージア 昭和38年
飾りたる夏と冬との陣羽織 「ホトトギス」6月巻頭句
綿菓子をたべんと口を春風に 昭和40年
蛤のうす目をあけてをりにけり 昭和43年 『露地の月』
皆大江山に尻向け田を植うる
初湯中黛ジユンの歌謡曲 昭和44年
汀チヤンにどの冬山の名教へん
空蝉のすこしよぢれてをりにけり 昭和46年
過ぐといふこと美しや初時雨
梨むけとナイフ十挺ほど出され 昭和47年
歌歌留多式子内親王が好き 昭和48年
うしろ手を組んで桜を見る女
BONNE・NUIT(おやすみ)といふ名の薔薇の散終り
熱燗を二十分間つきあふと
智恵の輪にさしこんでをる冬日かな 昭和49年
欠伸忌とおもうてもみる虚子忌かな
蟻地獄鼻唄まじり来し蟻を
ベルベツト裾長く着て青き踏む 昭和50年 『さめぬなり』
ピツチングローリングして兜虫 
真言の秘密々々の滝の音
猫の姫猫のごんたと恋をして 昭和51年
城山は桜点々辛夷点々
どことなくジプシー風の薔薇なりし 昭和52年
割烹着はづせば冬のバラに似て
羽子板のこれぞめ組の辰五郎 昭和56年
朝寝してスペースシヤトル飛ぶがまま

妻の昭子も俳句を能く詠み、「ホトトギス」巻頭を年尾選で二回取っている。

シユーベルト恋ふ子は楽譜読みはじめ 「ホトトギス」昭和31年1月巻頭句
遊船に乗るかと問はれ牡丹雪 「ホトトギス」昭和35年3月巻頭句