2010年6月30日水曜日

●目薬

目薬


砂漠に一滴目薬落ちて炎上す  八木三日女

目薬の鼻腔たどりてかはづ鳴く  中原道夫

目薬の睫毛におちる月はじく  川口重美

目薬の一滴硬し春の草  小川軽舟

2010年6月29日火曜日

●コモエスタ三鬼22 読解と曲解

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第22回
読解と曲解

さいばら天気



白馬を少女涜れて下りにけむ  三鬼(1936年) ※涜は正字

「後年『白馬』を白馬岳と解した人が出て来たには驚いた」と三鬼が自句自解。下山? 笑い話のような曲解だが、俳句の読みでしばしば起こる。ある一句に、ある種の「謎」が宿るとしても、それを読むことは、パズルを解くような読み解きではなく、あるいは読み手の「器」に矮小化する作業でもなかろう。

そうではなくて、その謎を、読み手のなかで謎のまま輝かせる作業というか、なんというか。

三鬼は、自句自解でまた、この句が乗馬会で作った句とも述懐。それを知る前は、もっと神話的なシーン、例えば森から現れた白馬と少女、のようなシーンを想像していた。いずれにしても、聖的な光景をしっかりと定着させて、シンプル。


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2010年6月28日月曜日

2010年6月26日土曜日

〔人名さん〕顔力

〔人名さん〕顔力

渚より片桐はいり来て笑う  近藤十四郎

テレビなどで「目力(めぢから)」という語を聞くようになった。俳優やタレントの長所として、目になにか訴えかけるような力があることを言うのだろう。片桐はいりは「顔力(かおぢから)」があると評される。簡単にいえば、顔がすごい。演技以前に、顔がすごい。

その顔が、よりによって「渚」からやってくるのだ。おまけに笑うのだ。

映像はここで止まる。衝撃力をもって、われわれを突き刺すというより、押し潰す。

(さいばら天気)


2010年6月25日金曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔24〕翡翠

ホトトギス雑詠選抄〔24〕
夏の部(六月)翡翠

猫髭 (文・写真)


翡翠の影こんこんと遡り 川端茅舎 昭和8年(「こんこん」は「くの字点」表記)

翡翠(かわせみ)はその字の通り、宝石の翡翠(ひすい)に譬えられる背中の「鮮明な碧空(へきくう)色」(『新歳時記』)が美しい鳥だが、頭と嘴が大きく、胸が朱色で白い襟巻とカラフルなので愛嬌もある。『古事記』にも「そにどりの青き御衣(みけし)をまつぶさに取りよそひ」と歌われたように、古来からその美しい青を愛でられた鳥でもある。

昔、国分寺の恋ヶ窪に住んでいた頃は、五日市街道を抜けて奥多摩の秋川渓谷まで、オートバイを飛ばしてよく翡翠を見に行った。水面すれすれに飛ぶので、掲出句のごとく鮮やかな瑠璃色が渓流を遡るように見える。翡翠の光り輝く色彩を滾々と湧き出る泉の如く形容した天才茅舎の感性が際立つ一句でもある。空の青にも水の青にも染まらずに、ひときわ光り輝く青い影なのだ。「カワセミは本来は青くなく、光の加減で青く見える。これを構造色といい、シャボン玉がさまざまな色に見えるのと同じ原理」とWikipediaに載っているが、確かに見る場所によって様々な青を見せる。

「渓流の宝石」と呼ばれるように、渓谷まで出向かなければ見られない鳥だと思っていたが、逗子と鎌倉の谷戸に引っ越してきた途端、鎌倉八幡宮の源氏池では、

はつきりと翡翠色にとびにけり 中村草田男 昭和5年

あるいは、

翡翠が掠めし水のみだれのみ 中村汀女 昭和7年

といった景が欄干から見られ、新逗子駅のそばを流れる田越川では、

翡翠の飛ばぬゆゑ吾(あ)もあゆまざる 竹下しづの女 昭和13年

といった具合に、湘南では身近で見られる鳥だった。

殊に、泉鏡花の代表作の一つ『春昼・春昼後刻』の舞台になった逗子の岩殿寺(いわとでら)には、山頂近い本堂そばの鏡花夫妻が寄進した瓢箪池に、冒頭の写真のように一羽の翡翠(下嘴が赤いのは雌)が住んでおり、わたくしが谷戸歩き方々訪ねると、いつも瑠璃色に輝く姿を現す。鏡花の幻想小説のヒロインは、玉脇みを子という人妻なのだが、鏡花の名づけた「みを」という名前は、澪(みお)からの命名であり、
渚の砂は、崩しても、積る、くぼめば、 たまる、音もせぬ。ただ美しい骨が出る。貝の色は、日の紅、 渚の雪、浪の緑。
という哀しくも美しいラストシーンに響きあい、時に「浪の緑」を日差しにきらめかせる岩殿寺の翡翠を、わたくしはひそかに「みを」と呼んでいる。『本朝文選』(「風俗文選」)の「百鳥譜」にも、蕉門の各務支考(かがみ・しこう)が「翡翠といふ鳥は、いかなる美人の魂にかあらむ」と歎じているではないか。

2010年6月24日木曜日

●ペンギン侍 第29回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第29回 かまちよしろう

前 回


つづく

2010年6月23日水曜日

〔ぶんツボ〕リブチンスキ 『ねじとねじ回し』

〔ぶんツボ〕
ヴィトルト・リブチンスキ
『ねじとねじ回し この千年で最高の発明をめぐる物語』

文庫のツ ボ、略して「ぶんツボ」
野口 裕


大学に残って実験をしこしことやっていた頃、ちょくちょくプラスドライバー礼賛論を聞いた。生来の怠け者で手先の器用でない当方にも、サイズのぴたりとあったプラスドライバーが+の溝にしっくりとはまり、手元の力をムラなくねじ山に伝える気持ちよさはわかる。それは、マイナスドライバーではちょっと味わえない。マイナスドライバーはサイズがぴたりとあっている場合も、若干の不安な気分が残る。足場が悪い場合や、途中に障害物があり、ドライバーをねじ山に対して真っ直ぐに立てられない時は、ねじ山を潰してしまうのではないかと不安は一層つのる。そこで、プラスドライバー礼賛論者は、-の溝を+にするという、たった一手間でねじ山の崩壊を見事に回避した工夫をおりに触れては讃えるのである。

しかし、いつ頃こんな工夫が生まれたか? その点については礼賛論者も口を噤む。というよりも、そもそもそんな疑問を抱いたことがないだろう。かりに疑問を持ったとしてもどうやって調べれば良いか途方に暮れるのが関の山ではある。

本書、『ねじとねじ回し』の著者、ヴィトルト・リブチンスキが置かれた状況は、さらに茫漠としている。二十世紀が終わろうとしている頃、つまり、ミレニアムとかいう言葉が取りざたされた時期に、この千年間に発明された道具で最高のものは何か、その道具についてエッセイを、と編集者から注文を受けたのである。どうもそれがねじであるらしい、と見当をつけるまでにも、紆余曲折すったもんだが相当にある。

ほとんどの道具は千年以上前に発明されており、候補からずり落ちてしまうのだ。定規、水準器、のこぎり、かんな、のみ、槌、釘、釘抜き、錐、おおかたの道具の場合、古くは古代エジプト、遅くとも古代ローマにその原型がある。どうしても、適当なものが見つからないので、錐の発展型でお茶を濁そうかと考えていたところで、ブレイクスルーがやってくる。

一体なにがあったのかは、本書をひもといてもらうとして、とにかく彼は、古代ローマ人はねじとねじ回しを思いつかなかった、と知ったのだ。著者も驚いているように意外な事実ではある。そこから、最古のねじとねじ回しを探求する彼の旅が始まる。それは二段階に分かれ、まず最古のねじ回し、次に最古のねじ(ねじとねじ回しをセットで考えているので、この辺は若干曖昧ではあるが。)を探すという本書の進行になる。

ねじ回しの探求では、OED(オックスフォード英語辞典)から始まり、ディドロとダランベールの『百科全書』に突き当たる。ねじの探求では、アルブレヒト・デューラーの版画が登場する。もちろんその間にも、当方の知らない本がわんさか登場する。最古のねじとねじ回しがいかなるところに潜んでいるかは、これも本書にあたってもらおう。私なりのヒントを付け加えると、訳者あとがきにもそれについてのエピソードが添えられているように、日本の戦国時代と関連する。

最古のねじとねじ回しの探求が一段落すると、著者の関心は、ねじとねじ回しの発展史に向かう。ねじとねじ回しが、この千年で最高の発明ということを保証するのは、実はこの部分だ。ねじの発展は産業革命と密接に関係している。最初の計算機械、ディファレンス・エンジンもねじの発展なくしてあり得なかった。そして、アメリカ大陸に渡って後は、工場での大量生産の基礎を担う。

この歴史の中で、プラスドライバーも登場する。プラスドライバーが用いられる+の形状のねじ山はフィリップスねじという。しかし、著者のご贔屓はねじ山に四角い穴のある、ロバートソンねじにある。この文の冒頭で言及したフィット感を比べる限り、ロバートソンねじに軍配が上がるようだ。ではなぜ、フィリップスねじの方が使われるようになったのか?これも本書に当たっていただきましょう。

本書はこのあと、ねじを生産する機械としての旋盤の歴史(レオナルド・ダ・ヴィンチが顔を見せる)、グーテンベルグの印刷術を媒介として、ねじの前史に移る。最後にねじの父としてアルキメデスが賞賛されて、終わりを迎える。

文庫本として、最も薄い部類に入る本だが、内容は濃い。たとえば、本書の最後部にある一文、「ねじは古代中国で独自に生み出されなかった唯一の重要な機械装置である。」だけを取り出しても、西洋文明と東洋文明の違いなど、あれこれと考え出すきっかけをあたえてくれる。本書全体を貫く、道具に対する愛情も快い。文庫本の解説にあたる小関智弘氏の肩書、「元旋盤工、作家」がぴたりとはまり、イギリスの小説家アラン・シリトーの自伝などに触れた話題が、画竜点睛となっている。一読して損のない本であることは疑いない。

2010年6月22日火曜日

〔news〕芝不器男俳句新人賞〔続〕

〔news〕芝不器男俳句新人賞〔続〕

承前:芝不器男俳句新人賞、決まる
芝不器男俳句新人賞 御中さん(大阪)受賞
愛 媛新聞 2010年06月21日(月)
新鮮な感覚を持った将来性ある若い俳人に贈られる「第3回芝不器男俳句新人賞」(県文化振興財団など主催)の最終選考会が20日、松山市道後町2丁目のひめぎんホールであり、「こないだはごめんなさい春雷だつたの」などと詠み、新しい俳句の可能性に挑戦していると評価された大阪府枚方市の御中虫(おなかむし)さん(30)が選ばれた。奨励賞には松山市余戸西6丁目の岡田一実さん(33)ら5人に決まった。 /同新人賞は松野町出身の俳人・芝不器男(1903~30年)を顕彰し、若い才能を発掘しようと2002年から4年ごとに40歳未満を対象に1人100句を1作品として募集。今回は全国から107人が応募、一次選考を通過した30人の作品を公開審査した。

2010年6月21日月曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔23〕蠅・下

ホトトギス雑詠選抄〔23〕
夏の部(六月)蠅・下

猫髭 (文・写真)


承前

蠅というと、能く知られた句が、

やれ打つな蠅が手をすり足をする 小林一茶『梅塵八番』

だが、虚子の『新歳時記』には載っていない。写生の範にならないということだろう。歳時記の解説で、ずば抜けて面白いのは富安風生編の「ぼやき」だが、虚子編にも面白いものがあり、「蠅」などはそうである。「蠅には随分色々な種類があり数も多いが、愛されるものは一匹もゐない。蠅を打つ。」と、一茶の有名句もあるのだから、そこまで言わんでもという決め付け方だが、逆に言えば、「広辞苑」並みに【幼虫はいわゆる「うじ」。イエバエ・キンバエ・ニクバエ・クロバエ・サシバエ・ヤドリバエなど種類が多く、伝染病を媒介して人に害を与える。】(第二版補訂版)とまでこだわるということは、虚子が「蠅」に並々ならぬ興味を持っていたということでもある。その証拠に、「蠅」以外に「蠅除」「蠅帳」「蠅叩」「蠅捕器」とすべて傍題ではなく、首題として挙げている。

殊に「蠅叩」は完全に虚子のツボである。以下は虚子が、その死によって刊行出来なかった未完の句集を、虚子が死んだ昭和34年4月8日が「ホトトギス」の748号に当っている機縁で、高濱年尾、星野立子の二人が選抜して『七百五十句』として刊行した晩年の句集から選んだ。

一匹の蠅一本の蠅叩 昭和29年
蠅叩に即し彼一句我一句 昭和29年
蠅叩とり彼一打我一打 昭和29年
蠅叩き座右に所を得たりけり 昭和29年
山寺に蠅叩なし作らばや 昭和29年
仏性や叩きし蠅の生きかへり 昭和29年
山寺に名残蠅叩に名残 昭和29年
蠅叩にはじまり蠅叩に終る 昭和29年
去年残し置きたるこゝの蠅叩 昭和30年
蠅叩われを待ちをる避暑の宿 昭和30年
必ずしも蠅を叩かんとに非ず 昭和30年
蠅叩作り待ちをる避暑の寺  昭和31年
蠅叩手に持ち我に大志なし  昭和31年
用ゐねば己れ長物蠅叩  昭和31年
昼寝する我と逆さに蠅叩 昭和32年
新しく全き棕櫚の蠅叩 昭和32年
籐椅子は禅榻(ぜんとう)蠅叩は打棒 昭和32年

虚子というと『五百句』が最も名高いが、わたくしは虚子が虚子らしくツボに自然に自在に俳句を詠んだのはこの晩年だったように思える。

二つある籐椅子に掛け替へても見 昭和29年
風生と死の話して涼しさよ 昭和32年
掃く時も佇む時も落葉降る 昭和33年
ほこほこと落葉が土になりしかな 昭和33年
白波の一線となる時涼し 昭和34年
幹にちよと花簪のやうな花 昭和34年

といった句が、これらの「蠅叩」の句に混じってほこほこ出てくるのに出会うのは楽しいひとときである。

2010年6月20日日曜日

〔news〕芝不器男俳句新人賞、決まる

〔news〕芝不器男俳句新人賞、決まる

第3回芝不器男俳句新人賞が6月20日(日)に決定。受賞作品はこちら(↓)です。
http://www.ecf.or.jp/shiba_fukio_haiku2/result01/029.pdf

このほか審査員奨励賞など ≫こちら
※公開審査の模様がツイッターで中継されていました ≫こちら

追加一次選考通過作品一覧

●ホトトギス雑詠選抄〔23〕蠅・上

ホトトギス雑詠選抄〔23〕
夏の部(六月)蠅・上

猫髭 (文・写真)


客の前蠅来て匙をなめにけり 皿井旭川 昭和12年

なんとも接客した主の面目まるつぶれのとほほな句だが、心尽くしの冷し物にではなく、掬う匙に蠅がたかるところが、笑える。夏料理のデザートという感じもする。昭和12年というと、瓜だろうか。西瓜は今は早生物が五月から出回るが、当時はまだ早過ぎるような気がする。旭川はドイツに留学しているから冷菓のたぐいかも知れないが、読者がそれぞれ楽しめればいいと思う。わたくしは茨城の瓜連(うりづら)の瓜を井戸端で冷した懐かしい記憶があるので瓜の甘みを楽しんだ。

鎌倉の谷戸歩きでは、虫除けスプレーをしないと軽装では歩けないほど汗に薮蚊が寄って来るが、蠅はめっきり見かけなくなった。厠が汲み取り式ではなく水洗になり、下水も整備されたためだろうが、那珂湊の実家は、いまだに汲み取り式で、海のそばなので犬は放し飼いのようなもので、野良犬も餌を貰える家を渡り歩き、母の飼犬以外にも住み着いている野良犬がいたほどで、出物はところ構わず、緑色に光る金蠅も盛大に唸りながら宴会をやっている。冷房など古屋には無いから開け放して風を入れているので、蠅が自由に出入りしており、母との食卓には、

蠅とびてあそびゐる身にめしまづし 森川暁水 昭和10年

なので、

蠅打つて母は一時をがへんぜず 喜美 昭和19年

とばかりに、食卓の頭上には蠅取りリボンがぶら下がり(→)、壁には蠅叩きが吊り下げられ、足元にはベープマット、サイドテーブルにはキンチョールが置いてある。台所には加えてゴキブリホイホイが長屋のように並ぶ。どれだけ盛大に蠅や蚊や油虫が跋扈しているかわかろうという古屋である。だが、これでも昔に比べれば閑散としている。

昭和20年代には那珂湊の海沿いの道という道に煮上がった鰯が干され、それも、干し台を20段ほど積み重ねているから、町中が煮干の匂いで、蠅も浄土のようにたかっていた。乾燥芋の季節になれば一面に乾燥芋が干しあげられて並んでいたから、これまた蠅にとっては極楽で、今は専用の大きなプレハブの乾燥室で衛生的に作られているが、天日干しの方が味がいいのは、蠅にとっても同じことだった。

蚊柱やマクナギ(メマトイ)も家の前の空地で小さな竜巻のように音もなく渦巻いているから、夕方になると燕が飛び交い、日が落ちると蝙蝠がひらひら舞っては虫たちを捕獲しているのは、昭和の頃と変わらない湊町の夕暮である。

皿井旭川(さらい・きょくせん)。明治3年~昭和20年。本名立三郎(たつさぶろう)。岡山県の士族武市文太郎の二男として生まれ、皿井安太郎の養子となる。明治28年、三高医学部(現岡山大学医学部)卒業。同校講師、外科長拝命後、渡独ベルリン大学で聴講の後、ロストック大学卒。帰国後大阪で開業。皿井耳鼻咽喉科医院長。大正13年、高浜虚子に師事、昭和12年「ホトトギス」同人。句集は『旭川句集』(昭和18年、天理事報社) 。同名で昭和46年に私家版。高浜年尾は虚子の勧めで『猿蓑』輪講を行い「俳諧」に尽したが、そのメンバーに山岡三重史と奈良鹿郎と共に旭川も参加している。

あまたるき口を開いて茘枝(れいし)かな
龍の髭に深々とある龍の玉
健啖の己ともなし薬喰
己が囲をゆすりて蜘蛛の憤り
雑魚と置く赤鱏の眼の憤り
杣がさす鋭鎌の先のしめぢかな
横向いて真黒き顔の鶲かな
はでやかに羽づくろひせる鶲かな
苗代の水張りきつて波もなく
磨崖仏宇陀の菫に立ち給ふ
ほがらかに鍬に砕けて春の土
嵐山うつる大堰の濡れ燕
初御空八咫の鴉は東へ

(つづく)

2010年6月19日土曜日

●桜桃忌

桜桃忌

他郷にてのびし髭剃る桜桃忌   寺山修司

傘のしずくで線ひく遊び桜桃忌  寺井谷子

水中にくもる白日桜桃忌  鷲谷七菜子

桜桃忌蝙蝠 傘を持ち歩く  柿本多映

ただ今でございましたと桜桃忌  如月真菜

過去記事

〔news〕第3回芝不器男俳句新人賞・最終選考会

〔news〕第3回芝不器男俳句新人賞・最終選考会

(公開選考会)
20日(日)13:00~(17:00終了予定)
ひめぎんホール(愛媛県県民文化会館) 3階 第6会議室
愛媛県松山市道後町2-5-1
http://www.ecf.or.jp/shiba_fukio_haiku2/schedule_01.html

2010年6月18日金曜日

〔news〕昭和文学会春季大会

〔news〕昭和文学会春季大会
19日13時半、東京都渋谷区東の国学院大120周年記念1号館1101教室。テーマは「定型詩の現在」。研究発表2題と、歌人の穂村弘さんの講演「短歌の正体」、編集者・俳人の齋藤愼爾さんの講演「俳句はなぜ廃れたか」。無料、申し込み不要。問い合わせは笠間書院(電話03・3295・1331)へ。
毎日新聞 2010年6月16日 東京夕刊

2010年6月17日木曜日

●ペンギン侍 第28回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第28回 かまちよしろう

前 回


つづく

2010年6月16日水曜日

2010年6月15日火曜日

●コモエスタ三鬼21 ドラマのような

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第21回
ドラマのような

さいばら天気



湖畔亭にヘヤピンこぼれ雷匂ふ  三鬼(1938年)

調べてみると、洞爺湖やら榛名湖やら中禅寺湖やら全国各地に「湖畔亭」がある。三鬼の「自句自解」によれば、信州での句作。固有の宿屋とばかり思わず、一般名詞的に解してもよさそう。

江戸川乱歩に「湖畔亭事件」(1926年)という女風呂の覗きから始まる小説がある。覗きではなくとも、宿にヘヤピンとなれば、やはりそうとうに艶めかしい。そこに雷。ドラマチックに仕立てられ、「匂ふ」が、そのドラマ性をさらに高める(過剰なまでに?)。

ただ、今となっては、このドラマの質、「火曜サスペンス」的ともいえる。チョビ髭の三鬼は、その夜たまたま泊まっていた探偵役か、いかにも怪しい宿泊客Aか、あるいは世を捨てた風情の宿の主人か。


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2010年6月14日月曜日

2010年6月13日日曜日

●ペンギン侍 第27回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第27回 かまちよしろう

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つづく

2010年6月12日土曜日

●けっこう長い

けっこう長い



採取&copyright 笠井亞子

2010年6月11日金曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔22〕五月雨

ホトトギス雑詠選抄〔22〕
夏の部(六月)五月雨

猫髭 (文・写真)


さみだれのあまだればかり浮御堂 阿波野青畝 大正13年

「五月雨(さみだれ)」とは五月の雨のことではない。「梅雨時の霖雨(りんう)である。陰暦五月に降るのでこの名がある。さは五月の略、みだれは水垂れかと。五月雨(さつきあめ)。さみだるる。」(虚子『新歳時記』)。

「五月雨」は上古の『万葉集』には見えず、中古の『古今和歌集』以来用いられてきた雅語で、「梅雨(つゆ)」は俗語と言える。五月雨が降ることを「五月雨(さみだ)る」と言い、和歌では「さ乱れ」の心を掛けて詠んだ。『万葉集』の「橘の匂へる香かもほととぎす鳴く夜の雨にうつろひぬらむ 大伴家持」を本歌取りしたような西行の歌がある。

橘のにほふ梢にさみだれて山ほととぎす聲かをるなり 西行

花の香が「にほふ」と声が「かをる」という嗅覚と聴覚の間に「さみだれ」という視覚が挟まれて、けぶるように五感をつつむ調べだ。

近世では「五月雨」と言えば、芭蕉と蕪村の教科書に並載される有名な句がある。

五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉
さみだれや大河を前に家二軒 蕪村

子規が『仰臥漫録』で、この二句を並べて、
芭蕉の句は俳句を知らぬ内より大きな盛んな句のやうに思ふたので今日まで古今有数の句とばかり信じて居た。今日ふとこの句を思ひ出してつくゞゝと考へて見ると「あつめて」といふ語は巧みがあつて甚だ面白くない。それから見ると蕪村の句は遥かに進歩して居る。(明治34年9月23日)
と書いたことが特筆される。わたくしも「あつめて早し」が巧みだと学校で教わったが、それは褒め言葉としてだった。別に俳句でなくとも、年季を重ねれば経験の喫水線は深くなるから、変化をしないほうが稀なので、巧みが良いか悪いかという次元ではない。蕪村を発見した子規だからこそ言えた言葉だろう。

『現代詩手帖6月号』の座談会「滅びからはじめること」で、小澤實が、
晴天の平泉に行ったのに「五月雨の降のこしてや光堂」とやるわけですからね(笑)。
と発言している句も、「降のこしてや」に巧みがあるが、光堂の句が作品として光っているかどうかを見れば、これは見事な句だと言える。

子規の『俳人蕪村』には芭蕉と蕪村の句を比較する個所も多いが、「五月雨」句の比較には芭蕉の光堂の句は挙げられていないし、

さみだれや仏の花を捨に出る 蕪村

という蕪村のしみじみとした一句も挙げられていない。虚子は『新歳時記』の「五月雨」の季題で、すべて例句として採り上げている。

こういう有名な句がある場合、後世が「五月雨」でこれに匹敵する句を詠むことは難しいが、何事にも例外があり、掲出句の阿波野青畝の一句はほれぼれとするような美しい調べを持つ秀句である。

青畝は、

湖の水まさりけり五月雨 去来

に少しでも及びたいと思ったところからこの句を発想したという。

浮御堂は滋賀県大津市堅田、琵琶湖畔の臨済宗大徳寺派海門山満月寺にある湖上に突き出た仏堂である。近江八景「堅田の落雁」で名高く、青畝の句碑をはじめ、

(じょう)あけて月さし入れよ浮御堂 芭蕉
湖もこの辺にして鳥渡る 虚子

の句碑があるという。以前写真を見て、虚子の句碑は湖上に立っているので面白いと思ったことがある。青畝の句の調べは見事だと思ったが、本当に味わったのは実は二日前のことだった。

暦上では梅雨入りを控えた二日前、雨が降り、那珂湊の実家の近くの水神宮へ、福田平八郎の名画「雨」(→)ではないが、雨垂れと雨に濡れた瓦を撮ろうと出向いた。朽ちかけた瓦屋根に樋はないから、雨垂れは境内の地面に直接水銀が糸を引くように光って落ちる。雨垂れはどこから落ちるかタイミングが難しく、瓦だけ撮って、階段に座り、雨の音を聞いていた。ふと、浮御堂の瓦屋根にも樋はないはずであり、同じように雨垂れはあちらこちらから水滴を光らせるはずだが、琵琶湖に落ちるのだと気づいた途端、瓦を打つ雨の音と地面に落ちる雨垂れの音が「Samidareno Amadarebakari」と聴こえた。青畝は幼時からの難聴のために、中学で進学を断念していることを思い出した。「さみだれのあまだればかり」という平仮名表記は、雨垂れを聞くことが出来なかった青畝が視覚で聴いた音なのだった。そう合点がいった時、遠く離れた浮御堂の雨垂れの湖面にたてる音を聴いたように思った。

2010年6月8日火曜日

●コモエスタ三鬼20 ここで一服

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第20回
ここで一服

さいばら天気



わが来し天とほく凍れり煙草吸ふ  三鬼(1939)

戦前の三鬼に多い飛行機の句のひとつ(と解するべきだろう)。当時は禁煙ではないが、空の旅程を振り返り、煙草を一服つけるときの爽快感は、煙草を吸ったことのある人なら、よくわかるはずだ。

冬でなくとも、高高度なら凍るほど冷たいのだが、やはり、夏や春では「一服」の雰囲気が出ない。


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2010年6月6日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔21〕鰹・下

ホトトギス雑詠選抄〔21〕
夏の部(六月)鰹・下

猫髭 (文・写真)


承前

初鰹の句と言えば、人口に膾炙している句は、山口素堂の、

目には青葉山ほとゝぎすはつ鰹

だろう。俳句としては、夏の季語三連発と季膨れている句だが、唯一の例外として名句とされており、これはわたくしが住んでいる逗子の小坪港で詠まれた句である。虚子の言う「相州初鰹」にあたる。

実は、小坪で詠まれたというのは懇意にしている釣船「鮎丸」の船長から聞いた。で、船長は、有馬朗人文部大臣が小坪港に来た時に、この句がここで詠まれたと聞き、ここに素堂の句碑を建てなければならないねと言ったとのことで、あの句碑を建てる話はどうなったかと、わたくしが俳句を詠むことを知って聞かれたが、そんな偉い人と面識があるはずもないし、俳人はおおむね貧乏で、政治家となれば二枚舌が常だから、それは御愛想だろうと言うと、実に心外な顔をする。小坪は小さな漁港で、釣船も数隻しかないが、みな小坪の海を大切にしているので、有馬大臣も罪な戯言を言ったものだ。

ところで、足の速い鰹を、江戸時代の冷凍技術が無い当時は、どのようにして食べていたのだろうか。

赤穂浪士の大高源吾は俳号を子葉といい、芭蕉の弟子宝井其角と交流があり、『松浦の太鼓』という芝居で、両国橋で討ち入りの前夜、元禄15年12月13日に、二人は出会い、

  年の瀬や水の流れと人の世は 其角
  明日待たるるその宝船 子葉

と挨拶を交わす。これは後世の創作だが、実際に二人は交流があり、幕府の赤穂浪士追善供養の厳禁令にも関わらず、其角は子葉を偲んで、

  うぐひすに此芥子酢はなみだかな 其角

と、『五元集』で子葉の初七日に詠んでいる。これは子葉の、

  初鰹江戸のからしは四季の汗 子葉

を踏まえて詠まれている。つまり、江戸時代には小坪沖で獲れた初鰹を江戸っ子は芥子酢で食べていたのである。この話は、柴田宵曲や加藤郁乎や半藤一利が触れている。実際にわたくしも子葉や其角に倣って、芥子に酢を溶いて食べてみたが、なかなか乙な味で、土佐の叩きの板前も、これはいけますねと感心していた。

個人的には、那珂湊で鰹を食べて育ったせいだろうか、土佐の叩きは苦手である。稲藁で焼いて黒酢で表面を叩き、冷してなじませて食べると悪い味では無いが、やはり初鰹は銀皮造りを生姜醤油でさっぱりと食べるのが一番初鰹の香りを楽しめると思う。銀皮造りとは腹の脂が乗った部分を皮付で刺身で食べる事で、初鰹は戻り鰹と違って、まだ皮が薄いのでこの食べ方が出来るのである。戻り鰹は脂が乗り過ぎているので、生姜醤油に大蒜を擂って浅葱を添える。

もうひとつ那珂湊での初鰹でなければ出来ないものは、鰹の塩辛である。内臓を酒で洗って、粗塩と生姜の千切りで漬けたものだが、戻り鰹は脂が強過ぎて腸が溶けてしまうので、これは初鰹しか出来ず、各戸で作る。腸を切らずに丸ごと漬けて、冷所に保存し、三ヶ月ほど毎日一回掻き混ぜて慣らすと、これは史上最強の酒の友である。写真がそうで、一ヶ月ほどの物を待ち切れずに、食べ易い好みの大きさに切って、晩酌に毎晩つまんでいるものである。

塩が少ないと生臭くなり、多過ぎると辛過ぎるので、塩梅が難しいが、今年は我ながら満足の行く出来映えだと思う。行き付けの酒家に持って行って、酒の肴にしてもらう。よほど好きでないと強烈な臭いと味わいなので無理強いはしないが、気に入っていただける呑み助たちと呑むのも一段とおいしいものである。

2010年6月5日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔21〕鰹・上

ホトトギス雑詠選抄〔21〕
夏の部(六月)鰹・上

猫髭 (文・写真)


船著けばたちまち立ちぬ鰹市 名古屋 中根道草(註1) 昭和11年

鰹さげて門の娼婦に話しかけ 伊豆 関萍雨(註2) 昭和12年

那珂湊は、白亜紀層の岩盤が海に露出してミネラルが溶け出し、黒潮と親潮の接点でもある豊かな魚場を沖に持っているから、鰹が黒潮に乗って北上し、丁度5月から6月、まさに「目には青葉」の頃に常陸沖を鰹が通るので、鰹船は茨城県内唯一の鰹の水揚げ港である那珂湊漁港に水揚げして競りにかけるので、昔は焼津を抜いて那珂湊が日本一の鰹の漁獲量を誇る港だった。まさしく「船著けばたちまち立ちぬ鰹市」だった。今でも5月のGW前後は初鰹の水揚げで賑わうが、昔ほどではない。那珂湊は鰯漁が盛んで、道端には鰯が干されて山と積まれており、鰯の活き餌を使う鰹漁には打って付けだったこともある。今は鰯が獲れなくなり、鰯獲りの名人もたった一人の老漁師だけになってしまったと聞く。

今は、那珂湊と言うと「お魚市場」という、土日は我が家の前まで県外から来る観光客で賑わう市場で有名だが、地魚よりもロシアや中国や県外の魚の方が多い観光客用の市場で、冒頭の写真も、千葉県産の一匹1500円の「房総初鰹」である。観光客用というのは、「お魚市場」は鮮度を値段の安さで割り引くところがあるからで、地元の人間はわたくしも含めて、昔ながらの地物を売る魚屋で買うし、もっとすれっからしは、漁師と地縁血縁が多いから、「お魚市場」のドックの向かい側にある魚市場の競りのときに、仕入れ値で分けてもらう。我が家はそういう抜け駆けはしない。実家が船舶無線の販売と修理が家業なので、漁師達が只でお裾分けしてくれるからである。あ、一番タチが悪いか。

黒潮を秋口に南下して産卵に向かう「戻り鰹」は、脂が乗り切っているから、当たり外れは余りない。しかし「上り鰹」、いわゆる「初鰹」は、これから鰯や沖醤蝦(おきあみ)を食べて肥えるから、脂の乗りよりも香りを楽しむ魚であり、鮮度が命だが、かと言って鮮度が良いからうまいかというと、硬いだけでうまみが足りないので、ちょうど良い具合に脂がうっすらと乗った初鰹に出会うのは稀である。捌いてみないとわからない魚なのだ。したがって、鰹の漁港と言われるには競りの目利きである一本釣の仲買がいないと成り立たない。港だからどこでも鰹が水揚げ出来るわけではないのである。活き餌の鰯、目利きの仲買、ベルトコンベアと氷結機能がなければ鰹の漁港足り得ない。

母の話だと、家の前を捩り鉢巻をした漁師たちが札びらを切って歩いていた頃は、那珂湊にも女郎屋があったそうで、特に大洗は、海門橋(かいもんばし)の大洗への玄関である祝町に上る坂沿いにずらりと遊郭が並んでいたという。ずっと昔と言うから、どのくらい前のことだと聞くと、10年前だという。んな馬鹿な。海鳴に女郎たちの泣く声が聞こえるので、今でもその辺りの土地は売れないと母は恐いことを言うが、実家の向かいにはひたちなか市民謡連合の会長だった白土先生が住んでいるので、昔の話を聞くと、遊郭があったのは売春防止法が施行された昭和31年頃までだっぺと言う話である。だっぺな。

この白土先生の話が面白かった。驚いたことに日本三大民謡として名高い「磯節」の合いの手がその遊郭の女郎さんに関わる。
磯で名所の大洗さまよ 松が見えますほのぼのと
(合いの手:いささかりんりん 好かれちゃどんどん はあ~さいしょね)
と合いの手が入るのだが、祝町の女郎屋の坂が磯坂(いささか)と言い、そこをりんりんと馬車の鈴を鳴らして女郎を買いに行く。道路の向い側は天妃(てんぴ)さんと地元で親しまれる海の守神の神社があり、この遊郭のある山をどんどん山と言う。それと「好きになったらどんどんお出で」を掛けているらしい。サイショネーというのは「磯節」の合いの手として有名だが、調子を取るための意味のない合いの手だと思っていたが、「回し(遊女が客を何人も掛け持ちして取ること)はしないであなたが最初の相手よ」という意味だと。仰天。祝町の船着場の上にある岩は「呼ばれ岩」と言って、女郎衆が向こう岸の男衆を呼んだために名づけられたそうな。いやはや、この世学問である。

祝町の遊郭と渡し舟を作ったのは水戸黄門様で、元禄8年(1695年)、光圀により那珂川対岸の祝町に遊郭が置かれ渡船も設けられた。黄門様や岡倉天心御一行様はじめ、多くの著名人が祝町にゆかりがあるのは男衆の道理であるとは、白土先生の御明察なり。女郎買いに来てたのかよ、天心さん。ハア、サイショネー。

海門橋が掛けられるまで、那珂湊の最盛期には一日700人から800人がこの渡しを利用したという。船橋聖一畢生の名作『悉皆屋康吉』にもこの渡しの話が出て来て忘れ難いが、わたくしも子どもの頃、磯浜(現大洗町)の母の実家へ遊びに行くのに利用していた。渡し賃は確か10円だったと思う。昭和31年までは、この渡しを使って「鰹さげて門の娼婦に話しかけ」といった景も見られたことだろう。

掲出句は、『ホトトギス雑詠選集』では「鰹」という季題に載っているもので、「初鰹」はない。『新歳時記』には、「初鰹」と「鰹」と季題を分けて立て、掲出句は「鰹」に入る。掲出句に、名古屋と伊豆という地名を記したのは、「初鰹」は、「江戸時代には、その夏初めて漁獲された鰹を特に珍重する風習があつた。鎌倉から来るものは特に有名で、相州の初鰹といつて江戸ッ子に歓迎された。初松魚。」と『新歳時記』にあり、江戸時代に女房を質に入れてでも江戸っ子が見栄を張って初鰹を珍重した故事が有名なので、伊豆や名古屋まで南下すると、初鰹とは言わないためである。

「鰹」の解説には「鰹は暖流に乗じて回遊する活発な魚で、東海方面では初夏はじめて其姿を現はす。これが初鰹であるが、盛漁期は真夏の頃だ。土佐・房総は有名な産地で、天候静穏の時、夜中から沖に漕ぎ出し、長い竿で生鰮を餌にして釣る。鰹釣。鰹船。」とあり、

松魚船子供上りの漁夫もゐる 虚子

の句が末尾に載る。『ホトトギス雑詠全集』を調べた限りでは、初鰹の句は虚子の一句のみであった。

江戸滅ぶ俎板に在り初鰹 鎌倉 大正2年 虚子


(註1)中根道草(なかね・みちくさ)は名古屋の俳人とのみしか分からない。漱石の妻、中根鏡子にちなんで「道草」と号したわけでもあるまいが。

(註2)関萍雨(せき・ひょうう)明治13年~昭和32年。本名は正義。旧号は飄雨・縹雨。

2010年6月4日金曜日

【評判録】髙柳克弘句集『未踏』・続

【評判録】
髙柳克弘句集『未踏』・続

上田信治・髙柳克弘の一句 ほんとうの問題:週刊俳句第159号(2010年5月9日)
びっくり:junk_words@
ぎょうざ again:きつねの望遠鏡
問題:曾呂利亭雑記
山口優夢・神を追い求める男と地に足をつけた女:週刊俳句第161号(2010年5月23日)
「未踏」論争の外で:俳句的日常
高山れおな・寓句たのしや、未踏論争もちょっと:豈 Weekly 第93号
2010/6/4:たじま屋のぶろぐ

2010年6月3日木曜日

●おんつぼ32 辻井伸行の「展覧会の絵」 四ッ谷龍


おんつぼ32
辻井伸行の「展覧会の絵」

四ッ谷 龍


おんつ ぼ=音楽のツボ


2010年5月28日、NHKテレビで「ピアニスト辻井伸行~心の目で描く“展覧会の絵”~」という番組をやっていた。

辻井は一年前にアメリカの大きなコンクールで優勝し大きな話題になっていたから、彼の名を知る人は多いだろう。

辻井はこの4月、アメリカ各地で演奏会を開くツアーを行った。プログラムの柱として選んだ曲が、モデスト・ムソルグスキーの「展覧会の絵」であった。

番組は、彼がこの曲の演奏に取り組み始めてからツアーを終えるまでの一連のできごとを撮ったドキュメンタリーであった。

新たなレパートリーとして挑戦を始めたが、なかなか自分なりの曲のイメージをつかむことができず、辻井は悪戦苦闘する。アメリカのツアーが始まってからも、迷いは続く。彼がとくに悩んだのは、第9曲の「バーバ・ヤーガ」から第10曲の「キエフの大門」へと連続してつながっていく部分をうまく解釈できない点であった。だが最後の演奏を前にして、彼は問題の解決に到達する。

たいていの演奏家は、激しく音を叩きつける第9曲の勢いをそのまま引き継いで、第10曲を豪華壮麗に演じてみせる。ホロヴィッツの演奏もしかり、辻井が影響を受けたキーシンの演奏もそうである。

ところが、辻井の演奏は、第10曲に入ると少し音量を落として、弱音ぎみに開始したので、聴いていた私はびっくりした。こんな演奏を聴くのははじめてであった。

辻井は「キエフの大門」を、華麗な大建築としてではなく、心の中の小さな門として把握したようであった。

困難を乗り越えて、著名なピアノ賞を受賞した彼が、難曲中の難曲「展覧会の絵」を携えてアメリカに乗り込むと聞けば、誰しも「どんなに華やかな演奏をするのだろう」と期待するだろう。しかし辻井は予想を覆して、小さな、天国的な演奏を提示したように思われる。(番組では演奏の一部しか放映されなかったので、断定的なことは言えないが。)このような彼の思考を、私はとても詩的だと思う。

辻井の演奏は、「展覧会の絵」という曲について新しい発見を私にさせた。第1曲の「プロムナード」が非常に人間くさい、リアリズムを感じさせる曲であるのに、同じテーマが第10曲で再提示されるときは、天上的な夢幻性を帯びて表現される。ということは、「展覧会の絵」とは、人間が多くの詩的な経験を経て天上へと至るプロセスを描いた、一大絵巻なのではないだろうか。

辻井の「展覧会の絵」のCDは、この秋に発売予定だという。今からそれが待ち遠しい。

それまでは、リヒテルの演奏ビデオでもお楽しみいただきましょうか。

思考の深さにびっくり度 ★★★★★
今から待ち遠しい度 ★★★★★



2010年6月1日火曜日

●六月

六月

ろくぐわつの腐りはじめの鳥のこゑ  八田木枯

六月の万年筆のにほひかな  千葉皓史

甘納豆六月ごろにはごろついて  坪内稔典

六月を奇麗な風の吹くことよ  正岡子規

六月の造花の雄しべ雌しべかな  高柳克弘