2010年9月30日木曜日

●ペンギン侍 第36回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第36回 かまちよしろう

前 回


つづく

2010年9月29日水曜日

●鹿

鹿



自転車に子供を乗せて鹿の中  岸本尚毅

2010年9月28日火曜日

〔人名さん〕くつくつ

〔人名さん〕
くつくつ


歌丸のくつくつ笑ひ菊膾
  中原徳子

くつくつ。

じつに。

掲句は『恒信風』第13号(2005年10月)より。

(さいばら天気)

2010年9月27日月曜日

●続・人妻

続・人妻

承前


人妻に囲まれ滝は涸れてをり  横山白虹

人妻の乳房のむかし天の川  林田紀音夫

人妻ぞいそぎんちやくに指入れて  小澤 實

人妻にうしろまへある夕立かな  間村俊一

2010年9月26日日曜日

●天の川

天の川


うつくしや障子の穴の天の川  一茶

on「うつくしや」

2010年9月25日土曜日

●熊本電停めぐり05 杉搪 中山宙虫

熊本電停めぐり 第5回 段山町(だにやままち)

中山宙虫

3号線上熊本駅前~健軍町の5番目の電停。
上熊本から所要時間4分。


9月21日(火)
18時。
熊本市内は、祭りのあとの雰囲気。
「藤崎宮大祭」が終わると、熊本の暑さもひと段落する。
昔からそういう言われ方をしていた。
昨日、祭りが終わり、そういう空気がどんよりとしている。
この「上熊本駅前」からこの「段山町」まで、線路はまっすぐ延びている。
3号線はここから、くねくねと曲がりながら熊本城の周辺を走っていくことになる。

もうひとつ上熊本駅前からJR鹿児島本線とも並走している形になっているが、この電停を最後にJRとも離れていく。
いま、九州新幹線の試運転が始まっている。
この電停から新幹線の高架がよく見える。


かつて市電とJRの間には病院などが建っていたが、いまは更地となっている。
この高架のおかげで道路の事情も変わってきた。
電停のすぐそばを跨線橋が渡っていたが、取り壊されて、橋が続いていたトンネルだけが残っている。
このトンネルは熊本城公園の端をくぐっていて、上熊本方面の住宅地と市街地を結んでいたが、時は流れてその役目を終えたことになる。
そんなことを考えていると、跨線橋のなくなった空は広くも感じるし、別の意味でさみしくもある。


格段に景色が変わっているとも言えない周辺だが、新幹線が走りだすとたぶん新しい音や風やひとの流れがこのあたりを変えてしまうかもしれない。
新幹線が通る。
それがどういう将来を産み出すのか。
市民はどこか醒めた目で見ている部分がある。
さらに熊本市は平成24年4月政令指定都市を目指している。
この街が政令指定都市・・・・。
どこか違う感覚がある。
政令指定都市。
人口百万人の都市。
すごい大都会だというイメージがあった。
いまや、普通の街が政令指定都市になれる時代。
目の前に電車の広告が。


さて、市電の線路はこの「段山町」から左へカーブする。
昔ながらの生活が見える町に入っていく。
そのカーブのところに地蔵を見つけた。

「三面地蔵尊」。

時々お参りをしているひとを見かける。
こういった地蔵や観音などが町内ごとにある。
見て回るのも楽しいかもしれない。
三面地蔵は本当に顔をみっつ持っていた。



地蔵と別れて、電停へ引き返す。
まっすぐな線路を電車がやってくる。
信号機が赤になるたびにとまりながら。
新幹線と並走する。
なんだか可笑しい。
その電車がやっと。
今日はこれで帰宅する。






次の電停は「蔚山町」。

2010年9月24日金曜日

●ペンギン侍 第35回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第35回 かまちよしろう

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つづく

2010年9月23日木曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔36〕無月

ホトトギス雑詠選抄〔36〕
秋の部(九月)無月

猫髭 (文・写真)


かけてある芭蕉の文(ふみ)も無月かな 加藤霞村 昭和8年

女傘さして出でたる雨月かな 加藤霞村 昭和8年

那珂湊のわたくしの実家の風呂場は、中秋の名月を見るために建てられた、わけではないが、戸を開けると、湯舟に背を凭せながら、昨晩9月21日は、待宵(まちよい)の月と左下に木星が綺麗に見えて、月見風呂を楽しめた。

今日22日は十五夜だが、昨日のNHKの天気予報ではお天気お姉さんの半井小絵(なからい・さえ)が「関東地方も明日は夜から雨になるでしょう」と言っていたが、那珂湊は朝から雲ひとつない32℃の真夏日だった。午後2時過ぎから涼しい海風が吹き始めたので、乾物ネットに秋鯖と烏賊を開いて軒先に吊るすと、いい塩梅に日差しと風が交差して、3時間ほどでしっとりと干し上がった。夕方になると平磯の山の方から雲が低く走り出し、海鵜や海猫や鴉も翼を広げたまま横ざまに滑るように塒へ飛んでいった。西日避けの麻簾を吹き上げる風は、紛れも無い秋風の肌触りだったが、日没には野分のように強くなり、雲も厚くなって夜の色を刷いた。

満月は明日「彼岸中日」23日の「秋分の日」の18時17分だが、陰暦8月15日は今日9月22日に当る。『源氏物語』の「夕顔」に「八月十五日、隈なき月影」とあるのは古来よりの美意識で、清少納言は、それを踏まえて、「秋は夕暮」と新しい美意識を打ち出したが、それに対して「月はくまなきをのみ、見る物かは」と異を唱えたのは兼好法師で、『徒然草』の百三十七段に、
望月のくまなきを千里(ちさと)のほかまで眺めたるよりも、暁近く成りて待ち出でたるが、いと心ふかう青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたるむら雲がくれのほど、又なくあはれなり。椎柴、白樫などの、濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらむ友もがなと、宮恋しう覚ゆれ。すべて、月花をば、さのみ目にて見るものかは。
と、源氏の「隈なき月影」を真っ向から批判している。この辺が清少納言の、腹の中では紫式部と張り合っても、面には出さない雅さとは異なる兼好法師の一言多いところで、本居宣長が「後の世のさかしら心のつくり風流(みやび)」と『玉勝間』で扱き下ろす所以だが、この大国学者も私生活は、懸想していた女が寡婦になるや、長年連れ添った女房を離縁して再婚するという下種野郎だから、どっちも性格は好いほうではないので、後世の我々は「月」に対する美意識を立体的に、それぞれの月齢の趣きを楽しめばいいということになる。

お天気お姉さんの言葉に違わず、那珂湊は深夜1:30から雨になった。冒頭の叢雲の月の写真は、21:00頃の、風の押し出す叢雲のつなぎ目に、一瞬垣間見えた名月で、後は無月だったので、掲出句は無月の句を挙げてみた。この辺がインターネットの臨機応変なところで、総合俳句誌だと二ヶ月も先に名月を詠むから、全国的な土砂降りでも皓々と隈なき月が出ていたりする。

加藤霞村(かとう・かそん)は名古屋の俳人で、弟の俳人加藤かけい(註1)と名古屋ホトトギスを結成した。『牡丹』主宰。句集に『游魚』 (昭和21年)がある。

『ホトトギス雑詠全集』を調べた限りでは、霞村は「隈なき月影」を詠んでおらず、「無月」と「雨月」の闇夜ばかり詠んでいる。名古屋俳壇の重鎮だが、面白い俳人である。掲出句の「無月」の句は、爽波も九月の秀句として抜萃しているが、「芭蕉の文」がわかりづらい。というのは、「無月」に関する文を芭蕉が残していて、それをかけてあると読めるが、「無月」は虚子以前に例句も和歌も見当たらず、虚子が流行らせた季題かもしれないと思えるからだ。

「雨月」の句は、「雨の月」として、芭蕉がまだ「伊賀松尾氏宗房」の作者名を名乗っていた頃の寛文9年(芭蕉26歳)に「かつら男すまずなりけり雨の月」があるが、「無月」という季題は見当たらない。虚子は「無月といへば雨月をも含んだ広い意味になる」と解説しているが、当時はそういう即物的な言葉ははばかられていたのではないかと思われる。紫式部の「隈なき月影」の美意識から言えば、「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かな 紫式部」(『新古今和歌集』)というように、「雲がくれの月」と婉曲に言うはずであり「無月」という即物的な言い方は忌むと思われる。

芭蕉の文で、今年のように待宵が「月殊に晴たり」と言えて、十五夜が「雨降る」という記述は『おくのほそ道』の最後「名月は敦賀の湊にと旅立つ」に出て来る。「月清し遊行(ゆぎやう)のもてる砂の上」と詠んだ待宵の月に「あすの夜もかくあるべきにや」と宿の亭主に問えば「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と言われて、果たして雨が降る。

名月や北国日和(ほくこくびより)(さだめ)なき

と芭蕉は詠んで、婉曲に無月を表わしている。

かけてある芭蕉の文も無月かな

もまた、その伝で行けば、無月と詠んで名月を詠んでいるわけである。


(註1)冨田拓也『俳句九十九折』「俳人ファイルⅩⅩⅨ 加藤かけい」

2010年9月22日水曜日

2010年9月21日火曜日

●稲妻

稲妻


稲妻やうつかりひよんとした顔へ  一茶

稲妻をふみて跣足の女かな  高浜虚子

いなびかり北よりすれば北を見る  橋本多佳子

稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ  中村汀女

水面に表裏あり稲光  池田澄子

稲妻や着てゐるものがひらひらと  岸本尚毅

2010年9月20日月曜日

●人妻

人妻


人妻に春の喇叭が遠く鳴る  中村苑子

人妻のうつくしいのは貌ばかり  筑紫磐井

2010年9月19日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔35〕子規忌

ホトトギス雑詠選抄〔35〕
秋の部(九月)子規忌

猫髭 (文・写真)


明治35年9月19日・未明子規歿す
子規逝くや十七日の月明に 高浜虚子 明治35年

糸瓜忌や俳諧帰するところあり 村上鬼城 大正3年
正岡常規(つねのり)、又ノ名ハ処之助(ところのすけ)、又ノ名ハ升(のぼる)、又ノ名ハ子規、又ノ名ハ獺祭書屋(だっさいしょおく)主人、又ノ名ハ竹(たけ)ノ里人(さとびと)。伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス。父隼太(はやた)、松山藩御馬廻加番(おうままわりかばん)タリ。卒(しゅつ)ス。母大原氏(註1)ニ養ハル。日本新聞社員タリ(註2)。明治三十□年□月□日没ス。享年三十□。月給四十円(註3)
(註1)子規の母方の祖父大原観山を指す。藩学の重鎮だった。
(註2)日本新聞社長は陸羯南(くが・かつなん)。『近時政論考』『原政及国際論』を著し、近代ジャーナリストの草分けとされる。子規の物心両面にわたる最大の庇護者。
(註3)【今ハ新聞社ノ四十円ト「ホトトギス」ノ十円トヲ合セテ一ヶ月五十円の収入アリ】(『仰臥漫録』明治34年9月30日)。
大正15年5月20日発行の初めての『子規全集』(アルス)、「第十三巻 俳論俳話・下」を開くと、巻頭に折り畳んだ和紙が添付されている。広げると、子規の自筆の墓誌銘が現れる。冒頭の写真と文がそうである。御覧のように原文は漢字カタカナ表記だが、ルビと句読点を補い、若干註を付して引用した。

柴田宵曲(しばた・しょうきょく)の『評伝 正岡子規』(岩波文庫)は、この墓誌銘から説き起こされる。この墓誌銘は、明治31年7月31日、河東碧悟桐の兄である河東銓(せん)への手紙に添えられたものである。宵曲曰く。
居士の一生はほぼこの百余字に尽されているように思う。処之助と升とはともに居士の通称である。前者は四、五歳までのもので、爾後用いられる機会もなかったが、後年『日本人』誌上に文学評論の筆を執るに当り、居士は常に越智処之助なる名を用いていた。越智はその系図的姓である。升の名は親近者の間に最後まで「のぼさん」として通用したばかりでなく、地風升(ちふう・のぼる)、升、のぼるなどの署名となって種々のものに現れた。子規は現在では居士を代表する第一のものになっているが、元来は喀血に因んでつけた一号だったのである。獺祭書屋は書物を乱抽して足の踏場もないところから来たので、出所は李義山の故事(註4)にある。居士が獺祭書屋主人の名を用いる時は、すべて俳論俳話の類に限られた。竹の里人は居士の住んだ根岸を、呉竹の根岸の里などと称するところから来ている。新体詩、和歌、歌論歌話などに専らこの名が用いられた。居士の文学的事業の範囲は、自ら「マタノ名」として墓誌に挙げたものの中に包含されるのである。
(註4)李商隠 [813〜858]中国、晩唐期の詩人。字は義山。二十四節気・七十二候の雨水初候に獺祭魚(ダッサイギョ。たつうおをまつる・かわおそうおをまつる)に因む。【カワウソの習性として捕らえた魚を人間が先祖を祭るときの供物のように川岸に並べることから、書物を多く紐解き、座右に並べて詩文を作ること、また好書家、考証癖、書癖などを言う言葉にもなった。唐の李商隠がこの名で呼ばれ、正岡子規がみずから獺祭書屋主人と称した。このことから子規の命日である9月19日を獺祭忌と呼ぶこともある。】(ウィキペディア)。この墓誌は、昭和9年の三十三回忌に、北区田端の大龍寺(だいりゅうじ)の墓畔に建てられた。アルス版の『子規全集』内容見本では題字は違う字体だったのに、自筆墓誌銘の「子規」の字体に改めたのは、『子規全集』の企画者、寒川鼠骨(さむかわ・そこつ)である。以来、改造社、講談社とも踏襲している。

昔、この墓誌銘を初めて見た時、その簡潔さに驚いた。なかんずく、最後の「月給四十円」に驚いた。当時の企業物価指数や消費者物価指数と現在のそれとは単純に比較できないが、現在の40万円前後だろうか。自分の死の値段を平然と月給に換算しているような気がした。正岡子規については、それまで教科書に載っているほどの事しか知らなかったが、この墓碑銘は強烈な印象を残した。

昭和50年に講談社から『子規全集』が刊行され、その第一回配本が晩年の四大随筆『松蘿玉液』『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』だった。読んで、更に驚嘆した。殊に『仰臥漫録』は発表を意識したものではないため赤裸々で、石川啄木の『ローマ字日記』や徳富蘆花の『蘆花日記』と同じく、読むとこれまで抱いていた作家の顔が全く違って見えるという驚くべき日記だった。『仰臥漫録』は、ここまで死を間近に見詰めてもがき苦しみ、そして楽しんだ人間を初めて見た驚きに打たれた。以来、この四大随筆は現在に至るまでわたくしの座右の書である。

柴田宵曲の『団扇の画』(岩波文庫)所収の「無始無終」という寒川鼠骨追悼文を読むと、このアルス版の『子規全集』を企画したのが鼠骨であり、彼を師と仰いだ宵曲が請われて、子規庵に日参して子規の原稿をほとんど独力で浄書し、鼠骨と二人で校正編纂した経緯が書いてある。宵曲は江戸学の三田村鴛魚(みたむら・えんぎょ)の口述筆記者でもある。宵曲は中学一年で、家業が傾き退学せざるを得なかったが、上野図書館に日参し、古典、現代を問わず博く渉猟し、森銑三と並ぶ稀代の碩学となった。鼠骨と宵曲の無私の営為に支えられているから、今わたくしたちは子規を読めるのである。前年、大正12年9月1日の関東大震災で、鼠骨は倒れた汽車の窓から這い出して一命を拾い、幸い上根岸にある子規庵も鼠骨宅も中根岸にある宵曲宅も無事で、鼠骨は震災で子規庵以外の一切の紙型が烏有に帰したことを知り、灰燼の底で、全集を推進し、宵曲は子規庵の病床六尺の机で、膨大な子規自筆の稿本を浄書し続けたのである。

子規を支えた陸羯南といい、子規を慕いその全集を企画した寒川鼠骨といい、鼠骨を師と仰いで、慫慂されて、膨大な子規稿本を浄書して、大正13年から昭和6年までアルス版『子規全集』(全十五巻)、アルス版『分類俳句全集』(全十二巻)、改造社版『子規全集』(全二十二巻)の編纂に従事した柴田宵曲といい、ほとんどおのれを語る事のなかった無私に徹した人たちであったと言っていい。殊に、宵曲柴田泰助をわたくしは理想の通人として敬愛する者である。

子規忌を修する時、わたくしの脳裏に浮かぶのは、この三氏である。虚子や碧悟桐も全集の編纂に名を連ねているが、実際は鼠骨と宵曲の仕事である。安政以来の大震から一年も経たずに上木されたアルス版『子規全集』第一巻を紐解けばわかる。天金に焦茶色の表紙の手触りの暖かさ、見返しの青梅とさくらんぼの子規の彩色画の美しさ、コットンペーパーの用紙の柔らかさ、木版印刷の冒頭の子規自筆短冊や鶏頭の写生画の素晴らしさ、すべて鼠骨の意見に基づくものだが、無署名の編纂後記の奥ゆかしい文体は紛れもなく宵曲その人のものであり(最終巻の「総後記」に至って編纂の経緯が語られる)、子規がこれほどの短歌や俳句の革新、驚くほどの好奇心と卓見、また晩年の「この人を見よ」と言うしかない四大随筆を遺せたのは、彼らの子規に対する敬愛の深さである。

子規亡き後の双璧と言われた虚子と碧悟桐には、その大いなる業績に見合う、『子規全集』に匹敵するような全集が無い。毎日新聞社の『高濱虚子全集』など、抜萃ばかりで、角川書店の『飯田龍太全集』もそうだが、胸糞が悪くなるほどの杜撰な糞全集としか言いようが無い。全集ではなく選集に過ぎない。

虚子の「子規忌」の『新歳時記』の解説を見てみよう。
九月十九日。正岡子規は松山の人。升と呼ばれた。明治三十五年、年僅に三十六を以て東京根岸に逝いたが、その業績は不滅のものである。歿する前日紙に認めた「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」「をとゝひの糸瓜の水も取らざりき」「痰一斗糸瓜の水も間に合はず」の糸瓜三句が絶筆として残つてゐる。著書多く、悉く子規全集に収まつてゐる。墓は田端の大龍寺にある。忌は全国の俳句団体で盛んに修せられてゐる。糸瓜忌。獺祭忌。
悉く子規全集に収まつてゐる。」は、田中裕明が「悉く全集にあり衣被」で引いた一節だが、虚子の不滅の業績は、虚子没後五十年を経ても、未だに悉く全集にありとは言えない。子規が試みた『分類俳句全集』は最新の『子規全集』にあるが、それに倣った虚子畢生の『ホトトギス雑詠選集』は『高濱虚子全集』にはない。単行本もすべて絶版のままである。鼠骨・宵曲を継ぐ者おらずや。

掲出句の村上鬼城の一句は、まさにアルス版の『子規全集』あればこそ言える一句である。子規の原本を浄書して悉く残してくれたがゆえに、俳人には「子規」という帰る場所があるのだ。


2010年9月18日土曜日

●ペンギン

ペンギン



秋の翳にはペンギン鳥をひとつおく  富澤赤黄男

寒いペンギン考えは今首の中  墨谷ひろし

ペンギンの一羽おくれし春の月  有馬朗人

昼の字のペンギンに似て七月や  竹本遊児

2010年9月17日金曜日

●熊本電停めぐり04 杉搪 中山宙虫

熊本電停めぐり 第4回 杉搪(すぎども)

中山宙虫

3号線上熊本駅前~健軍町の4番目の電停。
上熊本から所要時間3分。


9月13日(月)
18時。
夕暮れが随分早くなってきた。
雨が降ったりやんだり。
今年の気候は、どうなっているんだろうか。
いつまでも暑い。
それでもやっと気温が下がり始めたようだ。
いつものように市電の電停にやってきた。
この「杉塘」の周辺には車の販売店や葬祭場などが並んでいる。
これといったものは何もない。
しかし、この電停は、実のところ熊本市のシンボルである熊本城公園に一番近い電停かもしれない。
街の中心地には「熊本城前」という電停があるのだが、実のところ信号や距離から考えるとここが一番便利だ。
電停から見えるこんもりとした森が熊本城公園の一番端にあたる。


葬祭場の裏へまわると、すぐに石垣が続いて大きな楠が立っている森が見えてくる。
その一角にあるのが「二の丸広場」への入り口。
熊本城公園には、さまざまな施設があるが、ここから近いのは「熊本市立博物館」や「熊本県立藤崎台球場」など。

また、細川刑部家の屋敷もここに移築されて「旧細川刑部邸」として一般公開されていて、この入口がもっとも近い施設のひとつだ。
案外、この事実は市民でもあまり知られていないらしくこの入口からの利用者はそう多くはない。


そのほか、小さな公園が小段となった石垣にいくつかあって、ゆっくりすることができる。
夕方ではあるが、この日この周辺には誰もいなかった。
人が通らないと、鬱蒼とした森は少々怖いものがある。
この電停から市電3号線は熊本城の西側および南側をめぐっていくのだが、熊本城天守閣を見ることは簡単にできない。
こうやって、市電の路線をまわっているとそういったことに気づく。

※旧細川刑部邸についてはこちら
http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=436

この時期、熊本市内に溢れる音がある。
ラッパと鐘のにぎやかな音。
今年は9月20日に本番となる「藤崎宮大祭」の神幸行列の練習の音なのだ。
好きなひとはとことん好き。
または、すごくうるさいと思っているひともけっこう多い。
とにかくにぎやかになる時期である。

さて、次第に暗くなってきた。
この電車に乗って帰路に着く。


次の電停は「段山町」

2010年9月16日木曜日

●ペンギン侍 第34回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第34回 かまちよしろう

前 回


つづく

2010年9月15日水曜日

●老人

老人

老人の春機炭火の匂いして  斉田仁

老人の手の淫すなる牡丹かな  岸田稚魚

老人の歯ぐきを使ふさくら餅  大木あまり

老人はとしとりやすし小鳥来る  橋本榮治

肌着替ふとき老人に日短し  飯田龍太

生きてゐるうちは老人雁わたし  八田木枯


2010年9月14日火曜日

2010年9月13日月曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔34〕二百十日・颱風・野分・秋出水〔下〕

ホトトギス雑詠選抄〔34〕
秋の部(九月)二百十日・颱風・野分・秋出水〔下〕

猫髭 (文・写真)


山川に高浪も見し野分かな 吉野 原石鼎 大正元年

吹かれ来し野分の蜂にさゝれたり 鎌倉 星野立子 昭和6年

秋出水家を榎につなぎけり 丹波 西山泊雲 大正5年

今回初めて日本に上陸した颱風9号は、静岡で熱帯性低気圧に変わったので、那珂湊では、颱風というよりも降ったり止んだりの断続的な暴風雨という感じで、翌日は風だけが残ったので、野分という「秋の疾風」という気配だった。野分は昔の颱風だが、昔から和歌に俳諧に多く詠まれてきたので、雅語という感じが強い。『ホトトギス雑詠選集』の颱風関連の季題では、「野分」は35句と例句も多い。石鼎の句は、その巻頭の句であり、これは石鼎の「ホトトギス」初投句中の一句で、大正元年12月号に掲載されている。

鹿垣(ししがき)の門鎖し居る男かな
空山(くうざん)へ板一枚を荻の橋
頂上や殊に野菊の吹かれ居り
山川に高浪も見し野分かな
山の日に荻にしまりぬ便所の戸
鉞(まさかり)に裂く木ねばしや鵙の贄

「ホトトギス」の大正黄金時代の嚆矢となった石鼎の深吉野時代はここに始まる。掲出句は、わたくしが那珂湊の河口で見た防波堤の高浪を想起させた。

鎌倉の谷戸の野分を探りたくて、颱風一過の翌日の午後、逗子へ戻って、「秋草の野を吹き廻り、垣根等を倒した野分後(のわきあと)のありさまも哀れにもまた興趣が深い」(『新歳時記』)という「野分後」を歩いた。谷戸の入口には白萩が散り、芙蓉や槿(底紅)が蝶や蜂を蘂にからめて咲き乱れていたが、芙蓉と槿のトンネルを潜ると、その先は揺れる紅萩の道が続いていた。野分には萩が似合う。紋黄蝶や蜆蝶や蜂が飛び交い、見惚れていると、蜂の羽音が首筋に寄るので、掲出句の星野立子の句のようになっては堪らんと首を竦めながら、行ったり来たりしたが、残り蚊も野分で餓えていたのだろう、足首やジーパンの破れ目から膝小僧をだいぶ吸われた。

この萩の道をわたくしは「実朝の道」とひそかに呼んでいることは「実朝忌」を書いた時に触れたが、まさに今がその盛りであり、

萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきがはかなさ

という実朝の歌を心に今宵も歩いたが、一昨日の颱風の日が朔月だったので、星の光しか見えなかった。それでも、この歌は昼の萩の哀れと夜の月光をまざまざと見せてくれる。23日秋分の日が満月だが、それまで萩は咲いていてくれるだろう。枯れる萩も紅の色あいが深い紫を帯びて趣が深いのである。

那珂湊も逗子も、秋出水には幸い遭わなかったが、昔、国分寺の恋ヶ窪に住んで、郵便配達や牛乳配達をしていた頃は、颱風の豪雨で郵便局の前の路地のマンホールが下水が逆流して溢れ出し、配達に往生した事があるから、都市型の下水出水は三十年以上前からあったわけだが、田舎では、能く水戸の桜川が氾濫して、川側の家の下を削って傾かせたり、橋の上まで川の水位が上がり、秋出水と言えば川の氾濫だった。掲出句は、家を榎につなぐというところが、悲喜劇である。泊雲は「ホトトギス」の高弟だが、その生業は丹波の銘酒「小鼓」の酒造主であり、この「小鼓」も虚子の命名で、石鼎も「ホトトギス」で「小鼓」の販売や掛取りの手伝いをしている。丹波は、用水のような川も多く、出水も頻繁にあったのだろう。

「でみづ」というと、わたくしは幸田文の自伝エッセイ『みそっかす』を思い出す。隅田川が氾濫して、叔母の家に預けられ、母を幼くして無くしたので文は幸田露伴の男手ひとつで育てられていたから野生児で、躾がなっていないと叔母に怒られたり、家へ帰ると、家中に泥水のあとが一線を引いている様や、父が大切にしていた本が水に漬かって膨れ上がり、それを細引きを張って干している父の姿や、夭折した姉のために父が大切にとっていたお雛様が流されて首のない骸となって散乱した無残さなど、人の形をしたものの恐さ、自然の暴威のおぞましさが、生き生きとした筆致で描かれていて、何度読んだかわからないほどのわたくしの座右の書のひとつである。余談だが、「あばあさん」という章には智永の「千字文(せんじもん)」の手習いの話が出て来るが、ここに出て来る「金出麗水」は「金生麗水(金は麗水に生じ)」の誤植である。昔は書の手習いと言えばこの「千字文」と王羲之の「十七帖」が手本だった。幸田文の新しい版や全集が出るたびに、この誤植はそのままになっている。わたくしだけが知っていると出版社の無知を笑っていたが、もう余生に入ったので、いつポックリ行くかわからないので、ここに記しておこう。

2010年9月12日日曜日

●追悼・谷啓

追悼・谷啓



谷啓(たに・けい、本名・渡部泰雄=わたべ・やすお)さんが11日午前5時7分、脳挫傷のため東京都内の病院で亡くなった。78歳。10日夕、東京都三鷹市内の自宅で転倒、病院に運ばれていた。(毎日jp

2010年9月11日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔34〕二百十日・颱風・野分・秋出水〔上〕

ホトトギス雑詠選抄〔34〕
秋の部(九月)二百十日・颱風・野分・秋出水〔上〕

猫髭 (文・写真)


帆襖(ほぶすま)や二百十日の沖つ凪 佐世保 松永晩羊原 昭和2年

颱風に遭ひたる船のつきにけり 阿蘇丸 上ノ畑楠窓 昭和6年

颱風に吹きもまれつゝ橡は橡 東京 富安風生 昭和11年

『ホトトギス雑詠選集』『新歳時記』とも、九月は「二百十日」「颱風」「野分」「秋出水」と颱風に関わる季題が並ぶので、今回は関連して取り上げたい。

今週9月8日、颱風がこれほど待たれた年はないだろうというほど、颱風9号(アジア名マーロウ/Malouは、マカオ語で瑪瑙を意味する)は、一日だけとはいえ、本来の9月の涼しさを思い出させてくれるほど、「猛暑日」という下品な日本語の暑苦しさを見事に一掃してくれた。前日と同じTシャツと短パンの格好だと肌寒いほど、那珂湊は風が通った。都会と違い、漁村はすべての路地が海へ繋がっているので、風自体が涼しいし、わたくしの実家が、隙間風が縦横無尽に駆けずり回る古屋のためもあるが、日当りに出ると、皮膚をじりじりと音を立てて噛むような強烈な日差しは嘘のように消えた。降り始めの雨は傘も差さずに濡れたまま老犬と家の側の水神宮を散歩しても気持ちのいいものだった。

老犬は海まで散歩しようとすると、風に腰砕けになっていやいやをするので、ひとりで自転車で那珂川河口の海門橋まで行った。漕がなくても追い風が背中を押してくれるほどの、行きは良い良いの強風だった。那珂湊は、海へと下り来る那珂川の淡水と、川へと打ち寄せる常陸沖の海水がせめぎあい、颱風の余波で打ち寄せる波も、河口では打ち消しあって、いつもと変わらないうねりがあるだけだが、川を遡る風紋は、水を凹ませて、細かい影の漣を幾重にも広げた。支流のどぶ川は海から逆流する波がいつもより喫水線を上げており、颱風、というか熱帯性低気圧に変わった名残を残している。しかし、沖から寄せる波は、やはり颱風一過の後だろう、堤防から鎌首を持ち上げる恐竜のような不思議な波柱を立てていた。

「颱風」の語源は様々で、三つほど、いかにもという説がある。①台湾や中国福建省で「大風(タイフーン)」といい、それがヨーロッパ諸国で音写されてtyphoonとなり、それが逆輸入して「颱風」となったのが語源(台湾付近の風という意味で福建省あたりで颱風が使われていたという説あり)。②アラビア語で、ぐるぐる回る意味のtufanが語源。③ギリシャ神話の風の神「typhon(テュフォン)」が語源。

マイケル・オンダーチェの小説『イギリス人の患者』(土屋政雄訳)には、②に基づいた、詩的で美しいアラビアの風の名前が次々と現われる。
モロッコ南部の旋風はアージェジ。農夫はこれにナイフで立ち向かう。秋の風アルムはユーゴスラビアから吹く。アリフィは無数の舌を持ち、大地を焦がす。砂漠の謎の風「・・・」。ある王子がこの風の中で死に、以来、王がその名前を消し去った。
といったように、七色の旋風はアラビア海、エーゲ海を渡ってとどまることを知らないが、日本にも風の名前だけで一本が編めるから(高橋順子編『風の名前』)、番号に颱風の名前が変わったのは、世界共通というグローバリズムの流れとはいえ、大工の世界が未だに尺で無いと日本の家屋は作れないと言うように、漁師達もまた風が読めないと漁ばかりではなく生死に関わることがあるので、例えば「いなさ」(南東の風)は颱風の季節に吹くので嫌われる。逗子でも北風なら多少は荒れていても船は出すが、南風は出さない。沖に出ていても南が吹き始めると、すぐ寄港する。あっと言う間に暴風になるからだ。靄もそうである。ほわほわと靄が波紋にそって湧き出すと、一目散に船を返す。数分としないうちに、目の前に見える港が掻き消される冬の靄は本当に一気に視界を奪い、すぐ晴れるだろうと高を括ると遭難する。

掲出句の「二百十日」は「九月一・二日の前後は気候の変り目で、暴風雨が襲来することが多い。立春から二百十日目に当るのでかう呼ばれてゐる。丁度稲の花期で、農家では特に此日を警戒する。二百二十日は二百十日から十日目で、二百十日と同様、南洋方面からの颱風が恐れられる。農家ではこの両日を厄日としてゐる。」(『新歳時記』)とあるように、荒れるはずの二百十日が凪いで、漁の帆が襖のように並ぶ様が、安堵して詠まれている。「いなさ」もそうだが、風に関する言葉は、農事と漁にちなんだ名前がほとんどである。日本では風の名前を知る事は、暮しを知ることでもある。

作者の松永晩羊原は、まつなが・ばんようげんと訓むのだろうか、佐世保の俳人としかわからないが、句集『秋韻』を出しており、

東風の空紺きはまりて心飢う
土用浪紺青の夜を追ふごとし
臭木の実熟れて鳴瀬の水早し
鶫鳴く湖真つ青に照る日澄む
氷雨して野は竹馬の子に光る
おもふことつきず師走の雨に濡れ

といった句が、インターネットの検索で拾える。

颱風の掲出句は、昭和16年の『ホトトギス雑詠選集』ではこの二句のみが選ばれている。

阿蘇丸という投句地は船上句を意味し、上ノ畑楠窓(うえのはた・なんそう)は、虚子が昭和11年2月16日より6月11日まで渡欧した箱根丸の機関長であり、寄航先で虚子と同行している俳人である(註1)。「颱風に遭ひたる船」の「遭ひたる」は遭難の「遭」であるから、それだけで満身創痍の船と乗客が見える。

風生の句は、橡は臼になるほど大きくなる木なので、颱風にも幹はどっしりとし、その長く大きな葉がばさばさしている姿が見えるが、柄の長い葉なので、揉まれ撓いつつ、大木の羽ばたくような姿は「橡は橡」という断定に納得させられる。

颱風9号は、9月3日15時に発生し、9月8日11時過ぎに観測史上初めて北陸福井県に上陸し、15時に静岡県で熱帯性低気圧となって、関東地方を横断して消滅した。まさに「二百十日」(9月1日)と「二百二十日」(9月11日)の間に、発生した颱風と言える。


(註1)楠窓で思い出すのは、杉田久女が狂女であったという、虚子の流布の根拠のひとつとなった渡仏時の門司寄航の際の彼女の奇行のエピソードに、その名前が出て来ることだ。帰航時の門司寄港の際、久女が機関長の楠窓に面会し、何故虚子に逢わせてくれぬのかと泣き叫んで手のつけられぬ様子であったと言い、渡された色紙の字は乱暴な字で書きなぐってあって、虚子は一字も読めなかったと言う。だが、実際の運行記録は違う。船は帰りには門司に寄港していない。渡仏時の出航の際には門司に寄港するが、この時も久女は船を仕立てて先頭に立ち、箱根丸を沖まで追ってくるので気違いじみていて辟易したと虚子は言っているが、久女は虚子の出航を待たずに級友と電車で帰宅している(増田連『杉田久女ノート』)。杉田久女への虚子の狂女虚構への姿勢は謎が多い。虚子には『国子の手紙』という虚子宛の久女の手紙をパラフレーズした小説があるが、久女の仮名である国子の名前は、もうひとりの虚子を慕う愛弟子森田愛子の住む三国から取られたもので、虚子の森田愛子を書いた連作小説『虹』を読むと、その扱いに雲泥の差があるのに驚く。にも関わらず、虚子の作品の選の目は曇らない。依怙贔屓がないと言えば嘘になるが(森田愛子は巻頭が取れるほどの俳人では無いが、虚子は一度だけ採っているから)、作品の選は、小説の扱いとは違って久女と愛子では雲泥の差があるからだ。それは『ホトトギス雑詠選集』と『新歳時記』を読めば歴然としている。

(つづく)

2010年9月10日金曜日

●ペンギン侍 第33回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第33回 かまちよしろう

前 回


つづく

2010年9月9日木曜日

●三越

三越

三越を歩き呆けや花氷  中村汀女

三越のはじかみ売場二度通る  山尾玉藻

幾千代も散るは美し明日は三越  摂津幸彦

2010年9月8日水曜日

●おんつぼ34 笠置シヅ子 さいばら天気


おんつぼ34
笠置シヅ子

さいばら天気


おんつ ぼ=音楽のツボ



日本歌謡史をひもとけば(なんちゃって)、ブルースと言っても、それは音楽形式の「blues」ではなく、暗鬱な歌程度の意味でして、ブルースの女王・淡谷のり子には、「blues」形式に近い曲を含めても1曲あるかないか。

ところが、ブギと言えば、それはもう正真正銘の「boogie」なのでした。これは服部良一の大きな功績。

笠置シヅ子「東京ブギウギ」は1947年、終戦まもない頃の大ヒット曲。この曲にしても、「買い物ブギ」にしても「ブギ」の付いた曲はだいたい、どこに持っていても「boogie」で通用する(「ジャングル・ブギ」はちょっとアヤシイ)。

では、聞いてみましょう。「買い物ブギ」です。笠置シヅ子自身の映像付きの動画もありますが、ここは、音に集中していただくため、ちびまるこちゃんのアニメ版で。

買物ブギ(歌:笠置シヅ子/作詞:村雨 まさを/作曲:服部 良一)


カッコいいです。メロディに和物の成分がかなり混じりますが、もう、文句なしにカッコいい。買い物に出かけた主婦という設定がまずファンキーだし、途中には魚屋と掛け合いになるという趣向もナイス。



で、ちょっと話は変わりますが、ポップス(特に日本)には、恋愛の歌が異常なまでに多い。病気か?というほど多い。9割以上でしょうか。これって、どうなのだろうという話です。

世の中の9割以上が恋愛? 世の中が恋愛だらけ? いったいどれだけ貧相な世界なのか!

しかし、実際に、そんな貧しい世界に私たちが住んでいるかというと、そうではありません。さまざまなものがあって、いろいろなことが起こる。まあまあ豊かな世界。

その点、笠置シヅ子は、ネタの幅が広い。恋愛ばかり歌っているわけじゃありません。なにしろ「ホームラン・ブギ」ですから。



そうこうするうちに、ブライアン・セッツァー・オーケストラの「ダーティ・ブギ」(1998年)というアルバムを聞いて、びっくりした。笠置シズ子/服部良一と、めちゃくちゃ近い感じだったからです。

Brian Setzer - The Dirty Boogie


おお、これは、これは。

ビッグバンド編曲のこの感じ、ブライアン・セッツァーが歌い出すまでのイントロは、笠置シズ子そのものです。

ブライアン・セッツァー・オーケストラの伴奏で、笠置シズ子に歌わせたかった。

ブライアン・セッツァーは1959年、米国ニューヨーク市生まれ。ストレイ・キャッツというロカビリー・バンドで人気を博したミュージシャン。個人的な話になるが、俳句結社「豆の木」にいらっしゃる久保庭さんを見るたびに、ブライアン・セッツァーを思い出します。

笠置シヅ子(1914-1985)とブライアン・セッツァーは生年に半世紀近い隔たりがあり、邂逅は不可能。笠置シヅ子はずいぶん前に亡くなってしまったし。

それでも共演を夢見てしまうのが、音楽のおもしろさだと思います。アルバム「ダーティ・ブギ」をCDプレーヤーで鳴らしながら、頭のなかでは笠置シヅ子が歌っている、という脳内セッションができるのは、音楽のおもしろさ、すばらしさ。

どちらの音も、私には、一生モノです。


戦後復興しまっせ度 ★★★★★
ソウルシスター度 ★★★★

2010年9月7日火曜日

●工場

工場


春三日月も砂糖工場の灯も淡し  石田波郷

夜へ継ぐ工場の炎や半夏雨  角川源義

真っ直ぐあるいて消える人体広い工場  島津 亮

働けば工場の花もちりにけり  原月舟

2010年9月6日月曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔33〕芋

ホトトギス雑詠選抄〔33〕
秋の部(九月)

猫髭 (文・写真)


諭されて醜女娶りぬ芋の秋 武子 大正8年

茨城県の那珂湊は、那珂川の河口にあるので、海水と川の水の混じる汽水であり、ドックには牛蛙の馬鹿でかいお玉じゃくしが泳いでいたり、浅瀬では蜆が獲れるし、夕方も親戚の釣太公望がフッコを釣ったと言うので、自転車で見に行くと、これはもう鱸と呼んでいい60センチを越える大物だった。野締め(鰓と尾に包丁を入れて血抜きをする)をしてあったので、一匹もらって、半身を氷水で締めて洗いにし、腹の部分は塩焼き、頭と中骨は潮汁にして食べ、残りの半身は立て塩をして昆布締めにして冷蔵庫で寝かせた。釣り立ては、活け締めなので血の匂いも無くごりごりして美味だった。もともと鱸は血が少ない白身の美味な魚だが、旬は格別である。幸田露伴の『幻談』は、その語り口が神品ともいうべき鱸釣の名短編だが、一種の怪談なので、鱸は捨てるところがなく、内臓はソテーにするとうまいとはいえ、どうもこの小説を読んでしまうと、腸は新鮮でうまそうなのだが食指が動かない。しかし身は、泥臭さもなく、すっきりとした脂で、誰が考えたか、昆布締めの玄妙とも言える味わいは、思わず母と顔を見合わせて頷きあう旨さだった。

真鰯の稚魚、白子(しらす)もまだ獲れる。昨日などは船方がバケツに二杯も持ち込んだので、近所に配りまくるという大盤振る舞いである。生姜醤油でどんぶりに山盛りでぶっ掛ける、いわゆるシラス丼にするのが豪快だが、最近は白子のフリッターが流行である。実は母が生をそのまま食べるのは苦手だと言うので、わたくしが母のために考案した料理で、小麦粉に溶き卵を落して、そこに豪勢に白子をぶちこんで塩胡椒して粉チーズを挽き入れ、フライパンにオリーブオイルをたっぷり敷いて、お好み焼きのように焼くだけだが、ふわりと焼いてもカリカリに焼いても、ビールに良し飯に良しで、近所の評判になり、醤油を垂らしたり、マヨネーズを塗ったり、ソースをかけたりと各家庭、老若男女に合わして好評を博している。それはそうだ。獲れ立ての刺身で食える新鮮な白子をびっしりぶち込んで焼くのだから、具だけで出来ているようなもので、85歳の母もぱくぱくお替りをする。

かように、海のそばなので新鮮な魚介類には事欠かない。魚市場も目の前なのだ。まだぴんぴん跳ねているやつを捌くのだから、口中に常陸の海や那珂川の恵みが広がる。

だが、どういうわけか新鮮な野菜を売っている八百屋が少ない。自転車で遠出をすれば湊大橋の手前に地産地消の生産者の名前入りの野菜はあるのだが、歩いてすぐのところには少ない。半年ほど那珂湊に戻って母の介護をしてみてわかったのは、年寄りが多いので、彼らが老後の嗜みとして自分の家に皆家庭菜園を持っていて、野菜どころか西瓜や花まで栽培して、自給自足していることだ。母は父が死んでから6年ほど一人暮らしだったが、昔世話になったからと、三日に空けず、猛々しい野菜や果物が届く。今年は炎暑が続き、西瓜などは皮の際まで真赤に熟れて白いところがほとんど無く、驚くほどの甘さだったが、熟し過ぎて、毎日どこやらかから届くと、さすがに腹の中で飲み込んだ西瓜の種が芽を出すような気がしてくる。

九月になって毎日届けられるのは、赤紫の薩摩芋である。ヒネ芋から、育ち過ぎの芋から、焼芋屋でも開けというのかとばかりに届き、これに母を慕う元博徒系のやくざ上がりの古物屋も、姉貴が畑で作った芋を食べてくんちょと、ごろごろ置いてゆく。

わたくしは毎日母のおさんどんを担当しているが、芋は蒸かして食うぐらいしかやったことがないので、昼飯の代わりに蒸かしてバターを付けて食うぐらいしか思いつかず、子どものちんちんのようなヒネ芋や、農婦の尻のようなデカ芋を前にして、困り果てているところだ。

そこで掲出句である。いきなり醜女(しこめ)が出て来る。今で言うブスのことだが、これは母の周りにつどう老婆たちの井戸端会議を聞いていると、那珂湊はこの手の、言っては何だが、破れ鍋に綴じ蓋夫婦が多いようである。嫁さんは器量は悪いが、働きもんでしっかりしているといった話が頻繁に出て来る。水上瀧太郎が名作『大阪の宿』(大阪版「坊ちゃん」)で、ひっくり返してみんことには男か女かわからん蟹のような宿の女将といった言い方をしていたが、湊の荒くれに揉まれて男勝りの女性が多いのは事実で、シコメという言い方には、ブスという侮蔑の意味合いとは違う土地に根付いた逞しさがある。

思い出してみると、母のところには能く若い嫁が隣町の平磯からも訪れては愚痴をこぼして泣きに来ていた。土地柄、亭主は漁師が多い。遠洋漁業の船乗りもいる。留守を守るのは嫁であり、嫁姑の諍いは、いくら仕えても、何代にも亘って漁師町には続いている。母も大洗から嫁いで来て、姑にいびられて海門橋まで実家に帰ろうかと戻った時もあったと言う。そういう時、近所のお婆さんが仲立ちに入って慰めてくれた。そのお婆さんは、わたくしは婆っぱちゃんと呼んで懐いていたが、自分の孫のようにわたくしを可愛がってくれた。婆っぱちゃんが年をとってから、母は能く面倒を見ていた。自分が若い頃世話になったからだと言う。

漁師町の女たちは、何百年もそういう嫁の苦しみを他家の年寄りに助けられ、その年寄りたちが老いさらばえると、昔世話になったからと、自分の親のようにそれとなく面倒を見てくれるという、海へ繋がれた日々を繰り返している。親に言われた通りに嫁ぎ、情に篤く、素朴な人間関係だけを頼りに生き抜いている。わたくしの知る漁師の妻たちは本当に能く働く。チェーホフが妻のオ-リャに手紙で言った「ふさぎこんではいけない。働くことです。」という言葉を誰もが知っているように、赤銅色になって働く。舅や姑に仕え、亡くなると、人が変わったように明るくなって車の免許を取って、陸に上がって宿六になった亭主を盛り立てて、というか尻を叩いて、仲良く暮している夫婦が多い。

掲出句を読むと、わたくしは毎日出会う漁師町の女たちのひとりひとりの顔を思い出し、そのバイタリティと、ひとりひとりの若い頃の事も思い出し、いい夫婦になっているなあと思う。醜女と句では言っているが、わたくしは一度も彼女たちを醜女だと思った事は無い。彼女たちの笑顔が輝いているからだ。皆海の匂いのするいい顔をしている。多分、この作者もそうだろう。

作者の武子については、どこの人で、男か女かもわからない。たけこと訓むなら女性だが、もし自分の事を詠んでいるなら、恐れいった愛嬌の醜女さんである。亭主に同情していることになる。しかし、やってゆく自信はあるのだろう。

山畑や石芋掘つて立ちかゞみ 武子 大正8年

という句が同時に採られているから、山村の俳人だということぐらいしかわからないが、この「諭されて醜女娶りぬ」には、この嫁は見てくれはいい方ではないが、能く働くしっかり者で、舅や姑を大切にするといった、仲人の将来を見据える確かな目があると思える。

ヘルマン・ブロッホが手紙に書いていた「人類は認識に飽き飽きしているのではないでしょうか。本当に必要なものは、認識ではなく、素朴で誠実な人間関係といったものではないでしょうか」という言葉を思い出す。彼はその後『誘惑者』という素晴らしい小説を書き、ノーベル文学賞を受賞し、訳者古井由吉を作家に向かわせる。

ところで、薩摩芋だが、母が女学生時代、水戸の銀杏坂にあった大学芋がおいしかったと言うので、そう言えば那珂湊も、子どもの頃、四郎介神社の隣にあって、経木(菓子・料理の包装などに用いる杉・檜などの木材を紙のように薄く削ったもの)を三角に折り、そこに大学芋を入れて売っていたなと、わたくしも懐かしく、谷中の大江戸屋台村の大学芋の垂れもうまかったが、どう作るのかわからないので、多分、澱粉から作る水飴を使うのは間違いないが、明治屋の水飴は那珂湊は売っていないので、猫髭式で作ることにした。

先ず、芋を蒸し器で十分ほど蒸かす。冷めたら皮を剥いて、乱切りにする。フライパンに胡麻油をたっぷり入れて、芋を入れ、表面がカリカリ狐色になるまで炒める。油で揚げるのは苦手なので、一種のズルだが、蒸かし過ぎた芋が大学芋に変身、という横着技である。

一度、狐色に炒めた芋を取り出し、油を切っておく。垂れは、カナダから帰国した句友がくれたメープルシロップがあるので、これを水飴代わりにフライパンに垂らし、砂糖黍の粗製糖を大匙四杯ほど、マスカットのスパークリング・ワインを水代わりに少々、母の健康のためとくっつき防止でリンゴ酢を大匙一杯、これに醤油を色付けにかけて、とろみが出るまで煮て、あまり粘りが出る前に、さきほどの芋を入れて、手早くからめ、黒胡麻を振って、猫髭式大学芋の完成で~す!。韃靼蕎麦の実を煮出して、冷めた奴を冷蔵庫に入れて冷茶として添えて、さあ、どうぞ。

さっぱりとした甘さで、お母ちゃんはぱくぱく晩御飯を食べられないほど食べて、うまかったと言い、盛大にげっぷをした。


2010年9月4日土曜日

●シーサイドバウンド 1995.8.26 saturday 中嶋憲武

シーサイドバウンド 1995.8.26 saturday

中嶋憲武


風鈴の音には気がついていた。
目を開ける気にはならず、もうすこし目をつむっていようと思い、素足の先をしれしれと擦り合わせる。怠惰だ。
隣のアパートのどれかの窓に下がっているであろう風鈴が、心許なくちりんちりんと鳴っている。

概ね10時頃だろう。今日のバイトは午後1時からだからまだすこし時間がある。このところしばらく詩を作っていない。バイト先では「詩人」と呼ばれている。詩を作らない詩人だ。はは。腹が減った。冷蔵庫になにがあったっけ。トマト。きゅうり。それと食べかけの桃缶。トマトに塩振って食うのもいいな。カレンちゃんのために起きるか。ゆうべ僕は酔って帰ってきたのだ。詩の同人誌のひとと渋谷で一緒に飲んだのだ。

クロカワさんとはいい雰囲気だった。何回かキスもした。僕はそろそろかなと思っていたのだ。だから誘った。クロカワさんは背が高く、さらさらの長い髪で、伏目になったときの睫毛のつくる陰がなんとも色っぽい女性だった。大きなバストも僕を魅了して止まなかった。アルコールに弱い僕は、薄い水割りの2、3杯でいい気分になって、その夜を歩いていた。道玄坂を歩いていると、ホテルの灯りがちらほらと目に入ってきて、「ちょっと休んで行こうか」と僕は言った。それまでなごやかだったクロカワさんの態度が一変し、冷めた口調で言った。「いつもそんな風に軽々と誘っているの」僕は返す言葉が見つからず、どぎまぎとしていると、「幻滅だわ」とクロカワさんがぽつりと言った。幻滅幻滅幻滅…。その言葉はたちまち僕の脳内を満たした。僕は激しく後悔し、気取っている場合ではなかったと思った。「幻滅」の二文字は、クロカワさんから平手打ちを食らったようなものだ。それからどこをどう歩いてクロカワさんの気を取り成したものか、さっぱり覚えていない。覚えている最後のショットは、山手線に乗り込むクロカワさんの、かけがえのない笑顔だった。そこまで思い出すと、突如として不安になった。僕とクロカワさんの愛の未来って、明るいものではないのではないか。腹が減った。愛の前に食事である。僕は起きることにした。

カレンちゃんには、僕の姿が視界に入っているのかいないのか、天上天下唯我独尊といった態で、悠然と泳いでいた。昨年の秋、知人に二匹の流金をもらった。冬に一匹は死んでしまい、残った一匹のために水草を増やし、バクテリアを与えるなどして生き残っているのがカレンちゃんだった。フレーク状の餌をぱらぱらとやり、僕はぼりぼりときゅうりを齧った。「カレンちゃん、気分はどう」この部屋で唯一の話相手は、冷たいガラスに囲まれている。カレンちゃんの天下は、日曜大工センターで買ってきた60センチの水槽だ。僕の天下は家賃5万2千円の1Kの、染みだらけの天井を眺めて暮らす、この部屋に他ならない。それぞれの領分で邪魔にならないように、お互いひっそりと生きている。きゅうりを齧り、トマトを齧り、桃の缶詰を缶のまま食べた。缶詰を片手に持って窓を開けると、むっと熱気が入ってきた。11時前なのに、もう30度を越えているのかもしれない。窓に腰掛けて、缶詰のよく冷えた白桃へフォークを差し、ゆっくりと口に運ぶ。往来は暑そうに人がのろのろ歩いている。こういう瞬間が幸福なのだ。幸福は切れ切れにやってくるものだ。往来をのろのろとゆく、あの太ったおじさんは、自分こそ幸福であって、おんぼろのアパートの2階の窓辺に腰掛けて、桃の缶詰を啜っている三十男を不幸だと見るかもしれない。幸福と不幸はしょせん相対的なものだ。不幸だと思えば不幸だし、幸福だと思えば幸福だ。ならばどんな貧乏をしようが、生きたいように生きている自分は幸福だと思いたい。僕は幸福だ。

僕のアパートは総武線の平井駅で降りて、眼鏡屋、ふぐ専門店、不動産屋などの並ぶ路地をくねくねと歩いて5分ほどのところにある。木造モルタル造りの2階家だ。1階は薬屋だが、何年も前につぶれてそのままになっている。2階に3部屋あり、僕は通りに面した部屋を借りている。4つ下の妹は中央線の東小金井に住んでいて、名前を言えば誰でも知っている商事会社の総務部に勤めている。時々会社の帰りに、僕の部屋へ来て夕食を作ってくれることもある。器量はまあまあだが、彼氏はいないらしい。今年30才になるのだが、のんびりとしたものだ。一体何を考えているのか。最近の娘の考えることはよく分からない。じゃあ、お前はどうなんだという、もうひとりの僕の声が聞こえてくるが、その問いには答えない。自分のことは棚に上げてこれまでの人生を過ごしてきた。これが僕の流儀だ。

桃の缶詰を食べてしまうと、何もすることはない。ごろりと横になって、カレンちゃんの水槽を眺めた。大きな水槽にカレンちゃんはひとりぽっち。長い尾びれをひらひらさせて泳いでいる。「カレンちゃん、今度、彼氏買ってきてあげるからね」と話しかけてみたが、カレンちゃんは夢でも見ているような顔つきのまま、つんと向こうを向いてしまった。カレンちゃんの考えていることは皆目分からない。 

カレンちゃんの考えている事が分からないので、アルバイトへ出かける事にした。暑い。全く暑い日だ。恋人はやさしくレモンのジュースを作ってくれるけれど、心も動かないといったような歌があったと思うが、大いに同感。じゃんじゃん同感。歩くのは好きなほうであるが、右足くんも左足くんも、僕の意志に反して重い。これから働きに行くから足取りが、なおさら重いのではないか。いや、そんな事はない。働くのは好きだ。本当に僕は働く事が好きなのだろうか。とまあ、こううじうじと考える事自体、働く事が嫌いということではないのか。うじうじと電柱を追い越し、パチンコ屋の滝のような喧噪を通り過ぎ、前からやってくるタンクトップの大きなバストの娘とすれ違い、自転車のサドルの群がぎらぎらと灼けついているあたりを通り越し、アルバイト先へ着いた。「北十字」という名前の大きな二階建ての喫茶店である。二階への階段は、ゆるやかな弧を描いている。むかしヒッチコックの何と言う映画だったか、ケーリー・グラントがミルクを持って階段を上がってくるシーンがあったが、そのような階段だ。洋風建築の大きな屋敷にあるような古めかしい手摺の付いている階段。店内に流れている音楽は、レーモン・ルフェーブルとかマントヴァーニーとか、そういった退屈な音楽。僕の散文的な日常が始まった。午後9時半のラストオーダーまでひたすら同じ動作を繰り返すのだ。

更衣室へ入り、「木戸修一郎」とネームの入ったロッカーを開ける。黒いズボンに白いワイシャツ、黒い蝶ネクタイを締めていると、桃川という長身の若者が入ってきた。
「おっ、詩人、おはよう」
桃川は僕より15歳も年下であるが、店では先輩であるので、丁寧体を含まない物の言いようをする。
「おはようございます。桃川さん、昨日は通しだったんですか」
桃川はただのアルバイトであるが、先輩であり、強面でもあるので、僕自身の気弱な性格も手伝って、自ずから丁寧体を含む物の言いようをしてしまう。
「そうだよ、今日は遅番だけど、明日も通しだよ。詩人も一回やってみたら。生活、困ってるんでしょ」
「ええ、まあ」
「この店だってさ、いつまでもつか、分からないんだから」
「つぶれるって事ですか」
「長尾さんが言ってたよ」長尾さんとは、調理場の主任だ。
「それで、桃川さんはどうするんです」
「つぶれたら、つぶれたまでよ」一説によると、桃川はどこかの御曹司だと言う。うつけ者なのかもしれない。それにしてもこの店が危ないとは初耳だ。長尾さんに聞いてみる価値はありそうだ。

着替えて、トレンチを携えフロアーに出る。なるほど、言われてみれば土曜日の午後だと言うのに心なしかお客の数が少ないような気がする。お客が去ったあとのテーブルを片付け、サンデーグラスと空のコップを、パントリーのステンレスの上へ置く。調理場のデシャップで、今起きたような顔をして長尾さんが、こちらを見ていた。長尾さんへ近づいて行き、「暇ですね」と僕は言った。長尾さんは二重瞼を瞬きもせずに僕を見ていた。
「ちょっと、小耳に挟んだのですが」
「なに」
「この店って危ないんですか」
「危ないね。お客、少ないだろ。周りに安いコーヒーのチェーン店も出来てるし、銀行もつぶれてるだろ。あと2、3年したら、もっとすごい事になるよ」
「ヤバイですね」
「ヤバイよ。詩人、バイトなんか止してさ、ちゃんと働いたら。いくつになるんだっけ」
「34です」
「まあギリギリのところだね。早い方がいいよ」
「長尾さんはどうするんです」
「俺、俺はカミさんの実家、手伝うかな」
「奥さんの実家って何やってるんですか」
「小倉で魚屋やってんだよ。いずれにしても、あと2、3年が勝負だよ」

フロアーに戻って、不安な気分だけが残った。考えなければならないのだろう。あと2、3年か。そう言われてみても2、3年という時間の束をうまく把握出来ないのであった。
「冷やタンの補充しとけよ」フロアーの主任の金本さんが通りすがりに言った。金本さんは平素ポーカーフェイスの人である。嬉しいのか、苦しいのか、ぱっと見では分からない。僕はちょっと前髪に手をやってから、冷やタンの並んでいるスタンドに立った。お客は来ない。言われた通り、冷やタンを補充しておく必要があるだろうか。
「何、ぼーっとしてるの」声をかけられた。振り向くと、園田ひろみが立っていた。
「冷やタンの補充の必要性と暇な土曜日の午後の相関関係について」
「わあ、詩人。トゥヘ」園田ひろみは、僕が普段と違う言い回しをすると、決まってこういう反応をする。ひろみは郊外にある短大に通っている1年生だ。トレンチを提げて、並んで立つ。2階のフロアーが見え、桃川が柵の向こうを行ったり来たりしていた。
「桃川さん、今日2階なんだ」園田ひろみが言った。
「2階を任せられるようになると、ベテランなんだって」僕が言った。
「わたし、2階はやんないな」
「どうして」
「そんなに長くやらないもの。詩人はそのうち任せられるよ」
「ひろみちゃん、夏休みが終ってもバイト、続けるの」
「わからない。気分でね」
「カレンちゃんみたいだ」
「カレンちゃんって?」
「うちの金魚。空のなかへ逃げてゆく水のように気分次第よ」
「わあ、詩人」
「パクリだけどね」
「なんだ」
「お客さんだ」
「あたし行く」
冷やタンをトレンチに載せると、すらりと園田ひろみは新しいお客の方へ歩み寄った。入口の方へ向かったので、光へ向かう、その細いシルエットはまさに夏だと思った。考えなければならない。近未来の事など。この夏が終るまでに。と言ってもあまり時間がないが。

金本さんは、親指と人指し指と小指の3本でトレンチを支える。どんなにティーカップやケーキやパフェなどを載せようが、そのスタイルを崩す事は無い。客の年配のカップルの紳士が、その支え方を見て、「ああ、あの持ち方だよ」と感じ入ったように呟いたのを、聞いた事がある。おそらくその紳士も若い頃は、喫茶店で働いていた事があったのだろう。3本指で支え持つやり方は、うちのような歴史のあるところや、ちょっと高級なところでは必ずやっているようだ。多分、その方がバランスを保ちやすいし、見た目にプロフェッショナルな感じを与えるからだろう。僕はと言えば最初はやりにくかったが、慣れてしまえば手のひらでべったりと持つよりもやりやすい。日焼けした金本さんが3本指で、すいすい運んでいる姿は、格好良くサマになっている。金本さんの3本指とポーカーフェイスは、この店のトレードマークになっているようだ。金本さんを見ながら、僕は自分の中途半端な存在を疎ましく思っていた。僕は一体どこにいるのだ。逃げ道をいつも探しているような、頼りない存在でしかない僕。そんな僕の書く詩など、どれほどの力があるのだろう。薄っぺらい風でしかあり得ないのではないか。通り過ぎてしまえば、それでおしまい。いや、風にすら成り得ないのではあるまいか。

園田ひろみもラストまでだったので、終ってからお茶に誘った。駅の反対側の地下の喫茶店だ。バイト先の近所だと誰かに見られてしまうかと思ったのだ。別に疾しい事をしている訳ではないのだけれども。臆病というか、用心深いところが僕にはあった。四角い小さな白い卓を挟んで、僕とひろみは座った。この喫茶店に入ってしまった事について、軽い自己嫌悪を覚えつつ、かねてから気になっていた事を質問してみた。
「ひろみちゃん、よくトゥヘって言うよね」
「言うねー。無意味に」
「あれは、こりゃ一本取られたとか、こりゃ参ったとかのニュアンスなのかな」
「別に意味ないよ。ナンセンス。その時のノリで言ってるだけで」
「なんかのマンガのセリフなの?」
「そうじゃなくて、わたしが教育実習で田舎の商業高校に行ったときにね」
「ふむふむ」
「英語の授業だったんだけれど、教科書を読んでもらおうと思って、最前列の女の子を指したの」
「へめ」
「なに、それ」
「ふむふむばかりじゃ、能がないと思って」
「それはちょっと詩が足りないかも。でね、そしたらその女の子、教科書をじっと睨んでたかと思うと」
「かと思うと?」
「THEで始まるフレーズだったんだけど、はははは」と、ひろみはいきなり笑い出した。
「その女の子、もう切羽詰まったような感じで、いきなりトゥヘ!って言ったの」
「ほう」
「THEが読めなくて、そのまま読んだんだね。ローマ字式に」
「はははは。ローマ字式か。なるほど」
「それ以来、気に入っちゃって使ってるわけ」
「そうだったんだ。教育実習のときの女の子ね」
僕は日頃の疑問が氷解したので、さっぱりした気分で運ばれて来たコーヒーを口にした。コーヒーにうつつを抜かしていると、ひろみが最近書いた詩を見せろと言った。
「最近って言っても、もう2か月くらい経ってるからな」
「それ、立派に最近だと思うけどな」
僕は根負けして、しぶしぶと言う身振りでノートを開いたが、思いがけなくひろみに詩を見せろと言われて、内心すこし嬉しかったのだ。開かれたページには次のような詩が4Bの鉛筆で、黒々と認めてあった。

夜会

あかるいひかりに満たされた
ドーナツ屋のひとすみの席を占め
店内音楽の旋律が
つぎからつぎへと夜景のごとく

それらの夜景のなかには
見知った顔などめったに通らない
夜はいつでも不躾にかがやいて
たちまち俺は沈殿してしまう

離れた席のひとりの女は
指を奇妙なかたちにねじ曲げて
書き物に余念が無いが
その頬はくちづけを受けたがっている

夜になってみんなひとりぼっちになった
遠い海のうえで誰も来ない夜会がはじまる

ひろみは、ノートをしばらく見ていたかと思うと、顔を上げてにこっとした。
「どう?」僕は自信を持って尋ねた。
「分かりやすい詩だけど、なんかつまらないな。もうひとつ物足りないっていうかさ」
「……」
「詩人も孤独なんだね」
僕はその詩に自信があり、自惚れていたのだが、ひろみのストレートな物言いに少々傷ついた。
「孤独でなければ詩は書けないよ」
「そうだね」と、ひろみはまたにこっとした。
「出ようか」
「出ようよ」

外へ出ると、涼しい風が吹いていた。今夜は湿度がさほど高くないのだろう。心地よい夜気だった。もう秋なのだと思うと、何かやらなければという思いが沸き起こって来た。
「あと2、3年か」僕は言った。
「なにが」
「勝負どきだよ」
「あたしも考えなくっちゃ、就職」ひろみのてんで軽い物の言いように笑ってしまった。重く考えてたって、どうにもならない。僕は何がしたくて、どこへ行きたいのか。
「踊りにゆこうよ、青い海のもとへ」不意にひろみが歌い出した。それは僕も好きな曲だった。

ふたりで歌おう
あかるい恋のリズム

でっかい太陽が
恋の女神なのさ

踊りにゆこうよ 海はともだちなのさ
シーサイドバウンド ゴーバウンド

「シーサイドバウンド、ゴーバウンド」
すらすらとひろみは歌い、ラストの一節を繰り返し歌った。
「もう秋だね。今年、海に行かなかったな」
「僕なんて、もう何年も行ってないよ」
「来年、行こうよ。一緒に」
「そうだね」
来年の今頃、僕はどこで何をしているのだろう。それを考えると暗い気分になった。

駅に着いて、改札を抜けてからひろみと別れた。ホームへの階段を降りながら、歌った。

シーサイドバウンド
ゴーバウンド

2010年9月3日金曜日

●熊本電停めぐり03 本妙寺前 中山宙虫

熊本電停めぐり 第3回 本妙寺前(ほんみょうじまえ)

中山宙虫


3号線上熊本駅前~健軍町の3番目の電停。


8月30日(月)
18時。
本妙寺前という名の電停であるが、ここも電停からその本妙寺は見えない。
本妙寺へはこの電停のある交差点からJR鹿児島本線の踏切を渡って行く。
本通りの電車通りから車が曲がるとすぐに踏み切りのため、朝晩はここで大渋滞。
今日も遮断機が下りて車が渋滞している。


実は、この通りには思い出がある。
今から30数年前、僕の奥さまの実家がこの本妙寺の参道沿いにあったので、よく通っていた道だ。
妻が言う。
この踏切、朝晩はなかなか踏切が上がらないので、立体交差にという話があったけど、商店街の反対でじつげんしなかった・・・・と。
あれから随分時間が経って。
商店街は昔の面影はなく、さみしい限り。
皮肉にも、これからは九州新幹線開通で鉄道の方が高架になってしまう。
もうすぐこの踏切はなくなってしまうのだ。


もうひとつ。
その交差点の反対側にある喫茶店。
最近、通るたびに閉まっていたため、もうやめてしまったのかなと思っていたら、今日は開いていた。
この喫茶店はかなり古い。
入ったことはなかったが、いつもこの前をうろうろしていた。
思いきって入ってみた。
なかは、ピンク色。
雑貨コレクションが山積みになっている。
僕には似合わぬ世界。
それでも、窓辺に陣取り、アイスコーヒーを頼む。
おしゃれな雰囲気だが、いいおっさんがピンクの喫茶店で、タオルで汗を拭きながら、ピンクのストローでアイスコーヒーを飲む。
想像に値しない光景だ。
この窓の向こうが電停・・・・。


さて、帰らなくては。
信号待ちの間に、健軍町行きの電車が出て行った。
熊本市交通局の最新車両。
超低床電車が走って行った。
次の電車で帰ろう・・・・・。



次の電停は「杉塘」

2010年9月2日木曜日

●かんそうぶん? 近恵

かんそうぶん?

近 恵


先頃のウラハイで、橋本 直氏の文章のなかに興味深い部分を発見。
http://hw02.blogspot.com/2010/08/22.html
石原千秋氏がセンター試験問題を批判する文脈の中で書いているが、従来の国語の授業とは、実は規範的な既存の道徳判断に沿った小説の読解と感想文書きを要求される時間でもあったわけで、過去のセンター試験の選択肢は道徳的判断で良いセンまで解が導けてしまう。
この石原千秋氏なる人がどのような方かは存じ上げないが、小学校の国語の授業、ことに「読書感想文」を書くにあたり、この“実は規範的な既存の道徳判断に沿った小説の読解と感想文書きを要求される”というのは実に不可解かつ違和感のあるものだ。

私が小学生の頃は道徳の授業があり、いわゆる“正しいこと”は道徳の教科書の中にある物語やなんかでもって学ぶ。「走れメロス」みたいな。更に就学前から読書好きだった私は親が購読していた“PHP”なんかも活字の一端として読み漁っており、教科書から学ぶ道徳は随分おりこうさんに頭に刷り込まれていた。

で、国語の時間である。いわゆる“作者が言わんとしていることの要約”や“「それ」とは何を指しているか”とか、そういうことはちゃんと読めば解ることで、道徳的判断とか全く関係なく明らかに正解があってしかるべきもの。だけれど、小説の読解や感想文となったときには全く別で、その書かれた文章からなにを読み解くか、どんな感想を持つかは、一人ひとり違って当たり前。ましてや自分自身だって、自分の置かれている状況によって同じ本でも感想が違うことがある、と、小学三・四年生の時には感じていた。

夏休みや冬休みの宿題の読書感想文は、文部省推薦図書を読んで書くのが一番無難。けれど自分がその本を読んで思ったことをそのまま書くことは、いわゆる“正解”ではない可能性が大。なにしろ心が引っかかるのは必ずしも道徳的に正しいことではなかったりもするのだ。私は読書の習慣のせいもあって国語の読解力は高かったが、作文や感想文は嫌いだった。なぜかというと“正解”を求められるから。だから五年生くらいからは、本のあとがきを読んでその筋にそって読書感想文を書いた。そうすれば絶対に花丸をもらえる。けれど私は醒めていた。それは実は私の感想ではない。先生が求める“正解”の感想だ。私が感じていることは本当は違う。けれどそれを書いても花丸はもらえない。花丸をもらえないと母親がうるさい。ただでさえ癇癪持ちのような母親に不必要に叱られるのはごめんだ。だから私は“正解”の感想文を書いた。そうやって私は中学生までは良い成績を維持した。文句を言われたくないから自主的にやる。文句を言われたくないから大人が正しいと思いそうな方を選んでおく。実に小賢しい。けれどまあ、どんな理由であれ自主的にやるということは重要でしょう。

しかし、まさか国語の授業が指導要綱からして規範的な既存の道徳判断に沿った小説の読解と感想文書きを要求していたのであれば、それは作文や感想文は感じたことを表現するのが重要なのではなく、道徳的に正しいことを書くのが正解なので、不正解を書いた子は指導対象となるとか、そういうことだったのか。なんかそれって、うーん。。。おそらく自分もそういう教育方針のもと授業を受け指導されてきたわけだが、たかだか田舎のいち小学生が感想文や作文の“正解”について疑問を持っていたぐらいだから、さほどたいした指導要綱でもなかったんでないのか?むしろ小賢しい子供を増やすだけ、みたいな。それとも、みんな読書感想文や作文に、文章の出来の良し悪しではなく内容に関して点数をつけられるというようなことに疑問を感じなかったのかなあ。

文科省の次期教育指導要領の方針では、巷間指摘された若者の表現力不足対策の一環(多分)から、小中の国語における短詩型文学の創作(例えば中学なら学年段階ごとに1詩→2短歌→3俳句)がこれまでより重視されてカリキュラムに組み込まれることになるはずである。』という話もあり。

表現不足対策を補うのであれば、短詩の創作なんてまったく役に立たないような。そんなのはそれがやりたい人にやらせておけばいいんだ。はっきりとそう思う。私は読書は大好きだけど、物書きになりたいと思ったことは一度もない。せいぜい漫画家程度だ。更に作文よりも詩を書くという課題の方が、もっともっと嫌いで苦手だった。第一、詩を書く自分なんて気持ち悪い。人の詩を読んで解ったような気になっている自分も気持ち悪い。ましてや長い詩になればなるほど。

表現不足の問題は、人に伝えようと思うことを怖がらずに人に伝える、言葉は人を傷つけることもあるというリスクを負いつつ自分の考えをわかってもらおうとするとき、いろいろな表現の仕方で理解してもらおうと努めようとするコミュニケーションの問題から発していると思う。

なんとなく簡単で、なんとなく仲間同士で通じ合う言葉は、なんとなくわかったつもりでお互いに傷つくかもしれないリスクを避けることができる。けれどそれでは表現力は退化する一方に決まっている。だって相手にちゃんと伝えようとして言葉を選ぶ努力がいらないんだもの。それを受け取る方も同様だ。それってなんか国語で詩やなんかを書いて解決する問題じゃないような気がする。むしろいろんな言葉や表現の仕方があるということを学ぶ方が大事なんじゃないのかなあ。

“正しい”読書感想文を書くことを暗に要求しておきながら、一方で表現不足を嘆く。これってなんだか変じゃない?

それに、コミュニケーションの問題って国語の授業でやることとはまた違う気がする。

俳句についての評価はその道の人たちでもそれぞれまちまちで、ましてや教師がちゃんと評価や指導ができるのかとか、そういうこと以前の問題だと思うのだ。


2010年9月1日水曜日

●やかん

やかん


台風や薬缶に頭蓋ほどの闇  山口優夢