2011年8月2日火曜日

【林田紀音夫全句集捨読・番外編】二十句選 3/4 野口 裕

【林田紀音夫全句集捨読・番外編】
二十句選 3/4

野口 裕

本誌・林田紀音夫全句集捨読

11 産院のなまあたたかい廊下で滑る (p86)

渡邊白泉の「憲兵の前で滑つて転んぢやった」、「戦争が廊下の奥に立つてゐた」をどうしても思い出してしまう句。製作年代が昭和三十九年頃だろうから、昭和四十二年没の渡邊白泉は、まだ存命の頃。(長女誕生の高揚感がもたらす俳諧味。)場違いの産院にとまどう男一般の姿とも言えるが、「なまあたたかい」に凝縮された現状認識を感じる。昭和三十九年は東京オリンピックと名神高速道路と東海道新幹線の年。あの頃から急速に風景は変わった。(「林田紀音夫全句集拾読」から、( )内補筆)


12 流血の広場の匂い幼児は駈け (p86)

かつて惨事のあった広場にいるとその匂いが思い出される。そこを幼児は駆けてゆく。と今は読んだが、かつては流血と幼児が存在が同時に起こったと見て、次のように書いた。

広場という言葉は短詩型文学から縁遠くなった。短詩型文学に限らず、文学一般、いやそれに限らず人の意識にはのぼらない言葉になっている。群衆の意識が時として共振する場として、広場という言葉は使われやすかったが、現在そうした現象の起こる余地はないからだろう。一時代前の中村草田男、「壮行や深雪に犬のみ腰をおとし」と同じ構造になっている点が興味を引く。(「林田紀音夫全句集拾読」から)


13 手が生えて眠るみどりご風の祝祭 (p88)

「手が生えて」に、一瞬ぎょっとする。だが、「風の祝祭」で動物植物という区別が無関係の生命への頌歌を意図していると読める。そう思えば、「手」が何かの花のつぼみに見えないこともない。 だが人によっては、「手が生えて」への違和感がぬぐいされないまま句を通り過ぎるだろう。そういう人が皆無ではないだろうと予想されることが、逆に私を楽しくさせる。(「林田紀音夫全句集拾読」から)


14 溶接の火を星空の暮しへ足す (p91)

紀音夫の句に、職場はあまり登場しない。だが、皆無ではない。「星空の暮し」がつつましい家庭生活を思わせて効果的。


15 黒の警官ふえる破片のガラスの中 (p98)

紀音夫が持つ国家権力に対する意識を端的に表現した句。

ガラス破片を通して、制服警官の姿が映り、よく見ると一つ一つのガラス破片のどれにも映っている。「ふえる」の上下に配置された(活字横組みなら両側)、「黒の警官」も、「破片のガラス」もどんどんふえてゆく。「黒の警官」と、「破片のガラス」は追いかけあいをしているようだ。(「林田紀音夫全句集拾読」から)


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