2011年1月31日月曜日

〔今週号の表紙〕外階段

今週号の表紙〕
外階段



外階段は内と外の中間。境界的な存在です。

想像をかき立てられもします。どういう人がどんなときに、ここを使うのか。ドラマでは犯人と刑事が走り、あるいは間男が服を手に抱えて逃げる安物の喜劇。しかし、現実には、ここにいる人間を見ることは少ないようにも思います。

外階段を偏愛する嗜好「外階段萌え」というのは、もっぱら高層ビルの外階段に興味が向かうようです。この階段は、その点、ちょっと情けない物件。しかし、そのぶんマニア度が高いのかもしれません。

撮影場所は、埼玉県川越市。

(西原天気)

2011年1月30日日曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】書を捨てた(?)俳人たち

【裏・真説温泉あんま芸者】
書を捨てた(?)俳人たち 西原天気

承前

短歌には「本歌取り」の伝統があるといいます(いまもその伝統が生きているのかどうか、短歌に不案内な私にはわかりません)。

本歌取りが方法としてマナーとして成立する。そこには「本歌」についての知識・教養を多くの人が共有しているという背景があるはずです。

俳句はどうでしょう。短歌の素養、江戸俳諧の素養、明治・大正・昭和の俳句についての素養。そうした知識・教養の基盤は?

鴇沢正道氏は、俳句における本歌取りを実作者として積極的に取り入れ、また当該テーマの論考も多くものされています。

(クリステヴァの間テクスト性を総論的前提として)本歌取りの理論としては具体的な各論が必要である。現代の諸家の中では渡部泰明氏の立論--本歌を想起し本歌取りを完成させるのは読者だ--が優れている。しかし、歌・句人口が増え大衆化した現代では、古代や中世の宮廷サロンにあった共通の教養基盤は期待できない。新作の根拠は本歌が与えるものだから、読者が本歌をはっきり認識できなければ話にならない。現代の本歌取りの難しさである。(鴇沢正道「言葉遊びの快楽」」:『現代俳句』2010年8月号)

共有する教養基盤は崩れてしまった。現実にそうなのでしょう。実際、鴇沢氏が自作として挙げる、

  名月や座に美しき賀茂の稚児

を見て、これが芭蕉の

  名月や座に美しき顔もなし

の本歌取りだとはわからない人も多いのではないでしょうか(私はわかりませんでした。学貧しきことほど悲しいことはない)。

ただ、この手の素養の劣化・脆弱化の要因を「大衆化」のみに求めていいものか。今泉康弘氏に次のような指摘があります。

近代の俳人、特に虚子の「客観写生」の影響下にある俳人は、言葉ではなくて、眼前の景物を重視するようになった。そのため、一方で「写生」が重視され、その反面、先行文芸(先行する言葉)への敬意は失われてしまった。(…中略…)「万葉集」と「古今集」と「新古今集」の違いについて知っていることよりも、「あやめ」と「しょうぶ」と「かきつばた」の違いについて知っている方が俳人にとって大切なことになった。それが新しい「伝統」になった。その結果、言葉がどんどん痩せ衰えていく。(今泉康弘「二〇一〇年無季俳句の小さな旅」:『円錐』第47号・2010年10月30日所収)

俳句を詠むために、詩歌的伝統・詩歌的遺産を〔読む〕よりも、目の前の事物を〔見る〕ことに重きが置かれ(この淵源を虚子だけにもとめていいのかどうか? 近代化という時流のなかで子規が提唱した「写生」はどうなのか?ということは少し思いますが、それは置いて)、その結果、先行テクストへの敬意が失われてしまったとする今泉氏の指摘は重い。

書を捨てて、町に、野に、吟行している場合ではない、ということになりましょうか。

もちろん、俳句の楽しみ方は人それぞれです。読みたい本だけ読んでいればいい、本を読むよりむしろ、自分の目でモノを見て、自分なりの句を詠むのだ、という人がいても、それはそれでいいと思います(以前、ある人が「他人の俳句はあまり読まないようにしている。頭に残って同じような俳句を作ってしまうといけないから」と言うのを聞いて、たいへん驚いたことがあります)。しかし、そうした人を読者にしては、本歌取り・もじり・パロディは無効です。そんな遊びは通用しません。

さらには本歌取りの「精神」への理解という問題にもつながってきます。鴇沢氏の別の論考から。

(…)読者はこれが本歌取りであると気付いてくれるだろうか。(…)もし気付いた人がいて本歌に辿り着いたとき、本歌取りの精神を理解した上で作品を見てくれるだろうか。反対に盗作あるいは剽窃と見なされる危険はないだろうか。(鴇沢正道「本歌取りと盗作のあいだ(1)」:『麦』2008年7月号)

「昔の句に似たような句がある」と知ったとき、目の前にある句を「本歌取り」として読むか、「あるからダメだ」と切り捨てるか。読者側だけの問題というわけではありませんが(作りようの巧拙も関わってくるはず)、読者の頭に、もとより本歌取りの概念そのものがなかったとしたら、それはもう、作者としては、どうしようもない。このへんはつくづく困難な問題ではあります。

この話題、さらにもう少し続きます。

2011年1月29日土曜日

●東京タワー

東京タワー

庭木刈つてみゆる東京タワーの灯  久保田万太郎

東京タワー光よ久しぶり泣いた  五島高資

秋天に東京タワーといふ背骨  大高 翔

過呼吸の東京タワー朧かな  柴田千晶

東京タワー赤いケットにくるみたし  八田木枯


2011年1月28日金曜日

●しれっと俳句に

しれっと俳句に 三島ゆかり


桂信子の句集を読んでいると、ときどきとんでもなくユーモラスな句に出くわす。

  矢面に立つ人はなし弓始  桂信子

「弓始」といえば何かしら厳かな句になりそうなものだが、これである。「矢面に立つ」という、日常生活に取り込まれた言い回しを再び弓の現場に返すと、こんな可笑しなことになる。

  頭の中に猫を解体して九月  桂信子

「猫、飼いたい、猫、飼いたい、猫、飼いたい」とだだをこねるよその子どもがいたに違いない。それを聞いているうちに、とんでもない同音異義語を思い浮かべてしまったのだ。それを、しれっと俳句に仕立てるあたり、さすがである。

こういう句は、自選にしても他選にしても、フィルターがかかってしまうと、こぼれがちである。句集という厚さの中で、こういう句を見つけ出したとき、私は無上の幸せを感じる。


2011年1月26日水曜日

【告知】勝原士郎『拾う木の実は 同時代俳句不審紙』謹呈先募集

【告知】
勝原士郎『拾う木の実は 同時代俳句不審紙』謹呈先募集

残部があるそうです。詳しくはこちら▽をどうぞ。
閑中俳句日記(別館)-関悦史 当該告知記事

2011年1月25日火曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】〔読む〕の蓄積

【裏・真説温泉あんま芸者】
〔読む〕の蓄積 西原天気

承前

筒美京平のことを記事にしたとき(≫おんつぼ・筒美京平)、ポップス系歌謡曲作曲家として第一人者、かつパクリで知られるとしたうえで、このように書きました。
しかしながら、パクリとは引用である。そして音楽に引用は付き物である。よい音楽は、よい引用に満ちている。引用の貧しい音楽は、音楽として貧しい。
併せて、当時のポップ音楽ファン(とりわけ洋楽ファン)は、「あ、あの曲のあれだ」と引用元を特定する愉しみを、筒美作品を通して味わっていたことを書いたのですが、この愉しみは、しかし、筒美作品のような露骨な引用に限りません。(良質な)ポップミュージックは99パーセントの(よろしき)伝統と1パーセントの新鮮味で成り立っている。聞くことは、引用を聞いているとも言えるものです。

だから、それまで何をどのように聞いてきたのかという「聞く者」の伝統が、愉しみの質を大いに左右することになる。蓄積の多寡や質の上に〔聞くこと〕が成り立っている。もっと言えば、音楽をよく知っている人の〔聞く〕と、そうでない人の〔聞く〕は同じではありません。

この少々感じの悪い決めつけ(ウブなリスナーを小馬鹿にしたようにも受け取られてもしかたのない決めつけを披瀝したところ、楽理の専門家が、私の言を鼻で嗤って、「そんなことはポップミュージックに限らない。クラシック音楽が、まさにそう」と宣ったところを見ると、音楽全般に言えることのようです。

ただし、ここが重要なところなのですが、音楽について何も知らなくても、ある音楽を聞いて、心を動かされ、大きな愉しみを味わうことも可能です。当たり前だ。最初から、多くの音楽を聞いている人はいない。誰もが、最初は、何も聞いたことのない状態から、聞くことを始めるわけです。

そのことは覚えておいて、作る側としては、厖大な蓄積のうえに、小さく、新しさを付加する。

こうした事情は文芸も同じでしょう。

読者が何も知らなくても愉しむことはできるのはリスナーと同様です。俳句をひとつも読んだことがなくても、ある句に衝撃を受け、大いに愉しむことができる。しかし、誰もがウブな読者であるわけではなく、またいつまでもウブな読者でいられるわけでもありません。

たくさんの俳句を読んだうえで、一句を読む。たいていの俳句愛好者/俳人は、自分の〔読む〕の蓄積の上に立って、新たな一片のことば、その一句を読むことになります。そして、〔読む〕の蓄積は人によって実にさまざまです。言い換えれば、過去の厖大な先行テクストと、目の前にある一句。この両方をどう眺めるかは、読者によって違う。

以上のことは俳句全般に言えることだと考えますが、いまテーマにしていることに引き寄せて、また話をわかりやすくするために、ある先行句を下敷きにした句、作者があきらかに意識的にパロディ、もじり、本歌取りとしてこしらえた句を取り上げましょう。『新撰21』に掲載された句です。

  有る程の少年ジャンプ抛げ入れよ  中村安伸

この句が有名句「有る程の菊抛げ入れよ棺の中(夏目漱石)」を下敷きにしていることを、わかって読む読者とわからないで読む読者の構成比がどれほどのものかは、わかりませんが(「なに言ってる。『新撰21』の読者なら、全員わかってるに決まってるだろ!」と言わないでくださいね)、わかって読むのとわからないで読むのとは、ずいぶん違う〔読み〕になります。

こんな例は俳句には数限りなくあります。『新撰21』に限っても、「カフカかの虫の遊びをせむといふ(関悦史)」が「翁かの桃の遊びをせむと言ふ」(中村苑子)のもじりであることは、浅学の私にもわかります。〔読み〕の蓄積に優れた読者ほど、この手の仕掛けをたくさん見出せることは言うまでもありません。

しかし、これはどこまで伝わるのでしょう。というのは、説明も何もなしに「もじり」「本歌取り」「アンサーソング」であることが伝わるには、原句が(どの程度かはさておいて)周知であることが前提です。ところが、ここで線は引きにくい。

最初の話題に戻れば、筒美京平作曲の「「いつか何処かで」が引用した「「Up, Up and Away(ビートでジャンプ)」を、「誰でも知っている」と言えるのかどうか。

   古池や俺が飛び込む水の音  斉田仁

これなら、大丈夫でしょう。しかし、前述の「虫の遊び」と「桃の遊び」はどうでしょう。

周知とそうでないもののあいだに明瞭な境界線を引くのは、きっと不可能です。

この話題、すこし続きます。次回の「裏・真説温泉あんま芸者」で、読む側の〔読む〕の「蓄積」という話題を少し違った角度から取り上げます。




邑書林ホームページで も購入可能。

2011年1月24日月曜日

●今週号の表紙 大雪

今週号の表紙 大雪


2年前、2008年の2月3日、東京に大雪が降りました。豪雪地帯に比べたら、大雪どころか、軽い積雪かもしれませんが。

写真はそのときの府中市の西のはずれ。

(西原天気)

2011年1月23日日曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】「翻案」のアウト/セーフ判定

【裏・真説温泉あんま芸者】
「翻案」のアウト/セーフ判定 西原天気

承前

もじった句、下敷きにした句、踏まえた句がアウトかセーフか。その判定にさして関心があるわけではないが、もう少し詳しく考えてみると、おもしろいかもしれない。せっかく例句が2つあるのだから。

元のテクストの属性をちょっと見てみましょう。

  ヒヤシンス眠りゐるとき手はどこに  うさぎ

元のテクストは歌詞(When you sleep where where do your fingers go.)。ここには作詞者という個人がいる(その際に先行テクストを踏まえたものかもしれないが、その可能性は無視しておく)。他者(作詞者)の創作です。

しかし、その内容は、作詞者の発明というわけでもなく、独自の表現、言い回しでもない。例えば、誰かの日常会話(あるいは睦言)から採取されたと考えてもおかしくない一般的な言い回しです。

次に行きましょう。

  冬雲にサテンの裏地かがやける  天気

元のテクストは諺(Every cloud has a silver lining.)。作者はいません。いても複数(集合的)とみなすことができます。創作とは言えない。「犬も歩けば棒に当たる」が、言い出した人はいるはずだが、作者は特定できない(特定してもあまり意味がない)のと同じです。

内容・表現は、どうでしょう。雲の輝く裏側を「銀の裏張り (silver lining)」と比喩するのは、一般的ではありません。ある種の創意です。

掲出の2句は、テクストとして発生した際の経緯、そして内容・表現の一般性/個別性という2点で、対照的です(偶然にも、ちょどいい2例)。

2点の要素を軸にマトリクスにしてみましょう。


A:発祥=集合的(複数) 内容=一般的
B:発祥=集合的(複数) 内容=個別的(独自)
C:発祥=個別的(個人) 内容=一般的
D:発祥=個別的(個人) 内容=個別的(独自)

「ヒヤシンス眠りゐるとき手はどこに」はC、「冬雲にサテンの裏地かがやける」はB。

Aは、一個人の作者がなく、内容・表現も一般的というパターン。

   あやまちはくりかへします秋の暮  三橋敏雄

これがAの例句。ちょっと捻ってはありますが、「あやまちはくりかえしません」という標語が下敷きになっている。というよりも「引用」です。藤田湘子が入門書のなかで挙げた、

  この土手に登るべからず+季語

も、A。元のテクストは「この土手に登るべからず 警視庁」(立て看板の文句)。

よく知られた成句(慣用句)の引用というパターンが多いAは、アウト・セーフで言えば、セーフ。ただし、句としてうまく行くかどうかは別問題(以下同様)。


Bは、作者は集合的だが、表現に独自性があるパターン。例えば、

  幾千代も散るは美し明日は三越  攝津幸彦

「明日は三越」は1910年代の広告コピー「今日は帝劇、明日は三越」句の引用。創案者はいるが、世の中でのありかたは、成句に近い。

BとCのアウト/セーフ判定は△といったところでしょう。やり方によって、読む人によって、アウトかセーフかに分かれる。


Dは、個人の作者がいて、内容・表現も個別的なパターン。これは、まあ、ふつう、アウトとなる。

 

マトリクスまで作ったわりには、当たり前のことしか言えていない気がしますが、先行テクストを下敷きにするとひとくちに言っても、先行テクストの質によって、踏まえ方、アウト/セーフが変わってくることを、ちょっとていねいに扱ってみました。

この話、もう少し、続きます。次の「裏・真説温泉あんま芸者」では、読む側のことに触れます。

2011年1月22日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】翻案という遊び

【裏・真説温泉あんま芸者】
「翻案」という遊び

西原天気



太田うさぎ氏が6~7年前に、

  ヒヤシンス眠りゐるとき手はどこに  うさぎ

という句をつくり(いい句だなあ)、中嶋憲武氏が「尼僧の自慰みたいで、いい」と評したそうです。その読みは、たしかに色濃く、ある。そのうえで、おもしろい句と思うわけですが、この句、Cakeというバンドの「When You Sleep」という曲の歌詞の一節、

  When you sleep where where do your fingers go.

が下敷きになっていることを、作者自身が「そっからインスパイアされたというかパクッたのだ」と明かし、当時、句友に意見を求めたそうです。

つまり、こうした外国語の歌詞などを下敷きにして句をつくるのが、問題となるのか。不適切なのか。さらにいえば「剽窃」「盗作」なのか、ということ。

掲句は、〔歌詞の一部のほぼ翻訳+季語〕という作り。これを問題にする人は、おそらくいると思います。〔外国語→翻訳→日本語の文芸作品〕という手順は、おそらく小説なら確実に問題になる〔註1〕。ところが、俳句だと、どうなのか。

黒か白か。アウトかセーフか。人それぞれに見解があるでしょう。



ところで、実は、私、偶然にも、うさぎさんの掲句のことを知った、その前日の句会で、こんな句をつくりました。

  冬雲にサテンの裏地かがやける  天気

この句は、英語の諺(「世の中、悪いことばかりじゃないよ。絶望のなかにも希望があるよ」という意味の諺)、

  Every cloud has a silver lining.

を俳句にしたもの。

あ、出来映えには目をつむってくださいね。うさぎさんの佳句とは比べようのない句だってことはわかったうえで、例として出したんですから。

で、です。ここに挙げた2句は、歌詞と諺という違いはありますが、一種の「翻案」です。これを「剽窃だ、盗作だ」という人に向かって、「いや、そうじゃない」と強弁するつもりもないし、(私の句は)するほどの句でもないのですが、「こういうのってアリでしょ?」と感じです。俳句という遊びは、それくらいの感じでいいと思っている。

パロディ、もじり、本歌取り、アンサーソング……分野はいろいろ、呼び方はいくつもあるが、俳句が先行テクストを「踏まえて」つくられること、あるテクストを下敷きに俳句がつくられることについて、全般に、肯定派です。

むしろ、避けるべきは、先行テクストについての無知、類想への鈍感。これをまっとうするのはなかなかたいへんですが。

先行テクスト(俳句を含む)や他テクスト(同)との関係性に意を払うことなしには、俳句はつくれません。作句とは、先行/他テクストの存在を強く意識し、大いに認め、尊重することです(それは「お手本」として「勉強」するなどいう「上達法」の類のことを言うのではけっしてありません。念のため)。

そうした先行/他テクスト尊重のひとつの現れが「踏まえる」という俳句の作り方である。そう見ることができると思います。

これは「パクリ」とは別物です。なぜなら、「パクリ」とは、パクった元のテクストを「なきもの」とする行為だからです。それと似たものが「ない」かのように自作を提示するのが「パクリ」です。それは、先行/他テクストが「あるもの」としたうえでそれを前提とする作り方とは対極にあるものです。

先行/他テクストを踏まえる作り方・遊び方がもっと意識されていいんじゃないでしょうか。


(そういえば、太田うさぎさんが映画「おしゃれ泥棒」を俳句にした「泥棒 ピーターとオードリー」20句も、一種の翻案ですね)

(他人様には関わりのない個人的な事情を言えば、「サテンの裏地」は、「比喩」としてなら作りません。「もじり」だから作る、というところがあります)

(それでは、この諺を下敷きにした歌、Look for the Silver Lining をお聞きいただきましょう)




で、Cakeのくだんの曲。この曲が入っているアルバム、大好きなんですよね。




〔註1〕翻訳による剽窃とは少し違うが、倉橋由美子「暗い旅」がビュトール「心変わり」のアイデア盗用とされ、問題になった件がある(栗原裕一郎『〈盗用〉の文学史』新曜社2008)。


2011年1月21日金曜日

●イルカ

イルカ

イルカショー始まる淋しき国家  小野裕三

全身の夕焼を見よと海豚跳ぶ  福永耕二

土用波海豚の芸も休ませて  瀧 春一

2011年1月19日水曜日

●彗星

彗星

彗星を待つ少年の洗ひ髪  杉山久子

彗星に春闌けて名のつきにけり  田中裕明

彗星の近づく空や古帽子  仁平勝

豆飯や彗星世紀の彼方へと  川崎展宏


2011年1月18日火曜日

2011年1月17日月曜日

●Close To You 中嶋憲武

Close To You 中嶋憲武


青いマフラーを巻いて学校へ行った。冬休みに叔母がプレゼントしてくれたものだ。いつもブルーな気分のわたしにはぴったりだ。と思う。今朝はとても風が冷たかった。教室に入って、石炭ストーブのそばにみんなと居てもまったく暖まらない。ちらりと今岡くんをみる。今岡くんのまわりはいつも女子がいっぱい。今岡くんなんて。と思うけどいつしかわたしもその輪のなかに。

英語の教科書に載っているマディソンという街に行ってみたい。教科書にはベンとルーシーという中学生が出てきて、彼らの話から想像するとあまり大きい街ではないようだ。ウィスコンシン州の湖のそばにあるらしい。今岡くんとわたしとベンとルーシーで街を歩いたり湖をみたりする。湖に冬の日差しがきらきらと反射して。「フレンズ」という映画みたいに草原にふたりして住んじゃったりする。とこう夢想して今岡くんの横顔をみると、下柳くんとなんか話してる。きっといやらしい話だ。顔つきがそう。今岡くんは相当にスケベだという噂だ。

朝のホームルームの時間は歌を歌うことになっている。城島さんの発案で今週は、カーペンターズのシングだ。カーペンターズなんて。城島さんてセンスないなあと思う。せめてロバータ・フラックくらいにしてよ。と言いたい。あのコーヒーのコマーシャルに使われてるやつ。切り身ソーセージとかなんとかっていう。らーららららー、らーららららーとみんな歌ってる。シングって歌詞が単純なんだよね。らーららららーと歌いながら外をみる。ポプラの樹に鳥がいっぱい。今岡くんと女の子たちみたいに。


2011年1月16日日曜日

●今週号の表紙 枕木

今週号の表紙 枕木















用済みの枕木は1本数千円で買えるらしい。出所は日本の線路とは限らない。ネット検索にはオーストラリア製というのも出てくる。

写真は、友人の庭に積み上がられていたもの。枕木を組んで花壇が造られていた。

(さいばら天気)

2011年1月15日土曜日

●週末

週末



哲学的わが週末のあめふらし  高野ムツオ

週末は捨蚕のかたちして眠る  櫂未知子

週末は虹を門とす籐寝椅子  中島斌雄

2011年1月14日金曜日

●象



運命やりんごを砕く象の口  長谷川裕

炎天の原型として象歩む  奥坂まや

ナウマン象一頭分の花の冷  高野ムツオ

麦秋や江戸へ江戸へと象を曳き  高山れおな

ねむれずに象のしわなど考へる  阿部青鞋


2011年1月13日木曜日

●結婚

結婚

夜の蓮に婚礼の部屋を開けはなつ  山口誓子

婚近き青年兜虫拾ふ  沢木欣一

全身のレースの穴の花嫁よ  松葉久美子

婚の荷を解くや百尾の蛇逃ぐる  八木三日女

花嫁のしるくミルクの深紅かな  攝津幸彦

婚礼の荷に入れる弟の義足  上野千鶴子

空中に新郎新婦皿に牡蠣  北大路翼

夕合歓や結婚詐欺の唐手二段  塚本邦雄

2011年1月12日水曜日

●コモエスタ三鬼25 そこにころがる

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第25回
そこにころがる

さいばら天気


金銭の一片と裸婦ころがれる  三鬼(1939年)

資本主義と性欲。いや、性欲というとあまりに一方的な(一方を欠いた)言い方なので、人間主義とでもすべきか。

金銭を換喩と読まず、ただひとつの風景として読んでも、もちろんさしつかえないのだろう(わざわざ「一片」とあるのだから)。「金銭の一片」と「裸婦」が文脈的に等価に、そこにころがる風景。

俳句にダンディズムがあるとすれば、それ以上に何も言わないことだろうから、この句は、なかなかに伊達な句。

ふたつをそこにころがすだけで句となる。質感の対照、視線の温度などを言ってみたところで贅言となる。句もまた、ただ、そこにころがっているだけだ。


※承前のリンクは 貼りません。既存記事は記事下のラベル(タグ)「
コモエスタ三鬼」 をクリックしてご覧くだ さい。

2011年1月11日火曜日

ホトトギス雑詠選抄〔41〕新年

ホトトギス雑詠選抄〔41〕
冬の部(一月) 新年

猫髭 (文・写真)


酒もすき餅もすきなり今朝の春 高浜虚子 明治26年 

那珂湊の我が家では、松の内が七日ではなく、小正月の十五日まで続き、小豆粥を食べて健康を祝して門松は鳥総松になるので、遅ればせながら新年の句を取り上げたい。新年を寿ぐ歌というと、古来より、『万葉集』二十巻の巻尾を飾る一首、

(あらた)しき年の始の初春の今日ふる雪のいや重(し)け吉事(よごと) 大伴家持 天平宝字3年

が、最もめでたいとされる。元旦と立春の重なる今日、しかも、めでたい雪も降り重なったように、今年一年良き事が続くようにと願う一首に匹敵する、俳句の一句は何だろうか。

虚子の『新歳時記』で「新年」の冒頭に置かれた句は、蕉門の宝井其角の、

鐘ひとつ賣れぬ日はなし江戸の春 宝井其角 元禄11年歳旦

である。江戸俳諧の粋と張りを表した豪儀な句だが、元禄の江戸限定とも言える。昭和59年に話題になった神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』(中公新書)を読めば朝日文左衛門『鸚鵡籠中記』の元禄は豪奢絢爛たる元禄とは違う逼迫の世情を映す。

そして、末尾に置かれたのが掲出句である。実に馬鹿馬鹿しいほど目出度い一句ではないか。この句は、正岡子規の新聞「日本」選に採られた句である。当時、選句者子規24歳、投句者虚子17歳。未成年者飲酒禁止法の制定は大正11年だから、「酒もすき」と堂々と飲んで詠めた良き時代の一句である。ぬけぬけと、あっけらかんと詠んでいて、わたくしは好きである。最初に『新歳時記』で読んだ時は虚子晩年の句だと思っていたので、『高浜虚子全句集』で年号を見て17歳の時の句だとは知ったが、下戸で生涯酒が全く飲めなかった子規のこういう選句眼は好きだし、また壮年の虚子が若書きの句を載せたのは、子規の選を多としたのだろう。子規が採らなければ虚子がこの句を『新歳時記』に残す事はなかった。虚子自選『五百句』は、その翌年の、

春雨の衣桁に重し恋衣 明治27年

から始まるからである。子規ありての虚子だった。

2011年1月10日月曜日

●つんつん 中嶋憲武

つんつん  中嶋憲武


しだらなくて本当に厭んなっちゃう。こんなカタチで元旦の朝を迎えるなんて。田舎には帰らなかった。両親はきっと大学に入って浮かれてんじゃないのと思ってるだろう。こんな息子をお許し下さい。ミチコ先輩はまだ惰眠の真っ最中。ミチコ先輩のとがった乳房にそっと手を置いても目を開けない。ふかふかの蒲団はいい匂いがする。僕の下宿の黴くさい薄っぺらの蒲団とは大いに違う。薄っぺらいのは干さないからだ。ああ、ここは天国。日の匂いだ。四月からは離ればなれになってしまうかもしれない。ミチコ先輩は地元の小さな信用金庫に就職が決まっている。捨てられなければ遠距離恋愛もアリだ。

乳房に手を置いていると僕の太郎が元気になってきた。太郎をミチコ先輩の太股につんつんしてみる。眠っている。つんつんを繰り返した。ミチコ先輩は目を閉じたまま「ばか」と言った。猫のチーが蒲団の裾の方で、みひゃーんと鳴いた。

大旦いまさら莫迦と言はれても   さいばら天気


掲句は『はがきハイク』第3号(2011年1月)より

2011年1月9日日曜日

●むすめふさほせ 中嶋憲武

むすめふさほせ  中嶋憲武


娘らは歌留多飛ばしぬ目が寄りぬ   笠井亞子

むかしむかしのお話です。3学期の始業式が済むと、全校挙げてのかるた大会というのが、わたしたちの中学の年の始めの習わしでした。わたしの住んでいる町は、むかしからかるたの盛んな町で、土地の名のかるたが有名ですが、わたしたちの大会は百人一首だったのです。アッちゃん、ミーちゃん、キミちゃんことわたしの3人から成るチーム桜小町は、2年生でしたが強く校内でも一目置かれていたのです。むすめふさほせはもちろんのこと、2枚札から16枚札まですべて覚えています。冬休みにアッちゃんの家に集まって、秘密の特訓をしました。アッちゃんのお父さんに札を読んでもらって、取る練習をするのです。わたしにはどうしても他の人に取られたくない札がありました。待賢門院堀川の「長からむ心もしらず黒髪のみだれてけさは物をこそ思へ」という艶っぽい歌です。札に目を凝らしていると、アッちゃんのお母さんが温かい不二家ハイカップを出してくれました。ありがたいのですが、温めるとちょっと甘過ぎるのであまり好きではないのです。


掲句は『はがきハイク』第3号(2011年1月)より

2011年1月8日土曜日

●寒波

寒波

寒波急日本は細くなりしまま  阿波野青畝

硝子負ひ寒波の天を映しゆく  田川飛旅子

橋と川いつも直角寒波来る  橋本榮治


2011年1月7日金曜日

●オートバイ

オートバイ

内臓あらわなり放蕩のオートバイ  高野ムツオ

激論つくし街ゆきオートバイと化す  金子兜太

秋風や蝿の如くにオートバイ  岸本尚毅

断水の夜となりオートバイ騒ぐ  鈴木六林男

オートバイゆえ満潮の聖学院  九堂夜想


2011年1月6日木曜日

●にゅるにゅるした映画 中嶋憲武

にゅるにゅるした映画 中嶋憲武


暮れに「ノルウェイの森」をみた。原作を読んだのは23年前で内容はほとんど忘れてた。暗い話だという記憶だけがあり、その年江川卓が投じた内角のストレートを小早川毅彦にサヨナラ本塁打されて、そのことが引き金となって現役引退したという記憶も重なって、いっそう暗い印象がある。

映画を観ているうちに細部まで思い出されてくる。原作に忠実に作られているのだなと感じる。つーか、原作をなぞっていると見える。それだけに退屈であった。なんかかっこつけちゃって、という印象。主人公のナレーションが入るが説明に終止してるし。学生の撮った8ミリ映画でナレーションが入ることがあるがそんな印象を受けた。粗雑なのだ。友人の言った「にゅるにゅるした映画」という表現がぴったり。

おとついは「トロン・レガシー」をみた。途中で寝た。とろんとした映画。

「ノルウェイの森」ホームページ
「トロン・レガシー」ホームページ

2011年1月5日水曜日

〔人名さん〕憂鬱な森

〔人名さん〕
憂鬱な森


鶴の家に匿れたままの岸田森  後藤貴子

岸田森(1939年10月17日 - 1982年12月28日)と聞いて、 テレビドラマ「傷だらけの天使」(1974年10月5日から1975年3月29日まで毎週土曜日22:00 - 22:55に日本テレビ系で放送)を思い出す人が多いかもしれません。主人公・木暮修(萩原健一)たちの雇い主・綾部貴子(岸田今日子)の部下・辰巳五郎役。「愛すべきキャラクター」というものがあるとしたら、岸田森演ずる辰巳五郎は、それとは遠く、「愛すべきところのない」人。スタイリッシュを気取りながら、生臭いところもあり、強い者に弱く、弱い者に強い。ところが、それでも、微塵だけ、薄皮一枚だけ、愛すべきところが残る。憎めない、というのでもない。いやなやつはいやなやつなのだが、100パーセントそうと言い切れない。残り1パーセントに、シンパシーを感じてしまう。きわめて微妙な役作りをみごとに成し遂げていたのが、岸田森でした。

岸田森は、岸田森以外にない。ビッグネームではないのに、異様な存在感です。

あるいはまた、私などは、映画「呪いの館 血を吸う眼」(1971年)のなんとも気味の悪い陰鬱なドラキュラ役の岸田森が妙に印象に残っていたりもします。

掲句は後藤貴子句集『飯蛸の眼球』(2010年)より。

(さいばら天気)

2011年1月4日火曜日

●豚



天つつぬけに木犀と豚にほふ  飯田龍太

村ぢゆうの障子が白し豚を飼ふ  木村蕪城

炎天を遠く遠く来て豚の前  西東三鬼

蟻とならんか豚とならんか豚見てをり  加藤秋邨

大花白豚(はくとん)歩いてゆくぜ白鳥だぜ  金子兜太

荒川倉庫 豚百五十句 

2011年1月3日月曜日

●江戸

江戸


初湯して江戸の鴉もオノマトペ  筑紫磐井

白象に苦しむ姉に江戸の春  攝津幸彦

風船のうちがわに江戸どしゃぶりの  田島健一

江戸桜いらざる句々を散らしけり  加藤郁乎

くりかへす花火あかりや屋根は江戸  三橋敏雄


2011年1月2日日曜日

●テレビ

テレビ

鏡餅テレビ薄くて乗せられず  守屋明俊

テレビ画面端に時刻や春愁  榮 猿丸

鳥帰るテレビに故人映りつつ  岸本尚毅

ぐつたりと百合ありテレビより歓声  奥坂まや

アロハシャツ着てテレビ捨てにゆく  小倉喜郎


2011年1月1日土曜日

●兎






その鰥夫逃げられたるは雪兎  中原道夫

藤の穂絮の兎となれり湯ざめして  中村苑子

声もなく兎動きぬ花卯木  服部嵐雪

●謹賀新年