2011年4月30日土曜日

●週刊俳句・第209号を読む 野口裕

週刊俳句・第209号を読む

野口 裕

咲き満ちし花のまはりの放射能
先は海さくら被りに小名木川
遠き花近き花見て舌の根憂し  関根誠子

こういう風に三句並ぶと、真ん中の小名木川がえらく綺麗に見えてくる。さくらに鎮めの効能があるかどうかはよく分からない。しかし、鎮まれと祈るのは作者であり、作者と共にある読者でもあるだろう。


白梅はゆふべ枕にふれてゐた  羽田野 令

時期が時期だけに、十句すべてが時事吟のように見え、日常吟のようにも見える。白梅にとり、「ゆふべ」はどのような時であったのだろうか。読者としては、永田耕衣を思い出すも良し、蕪村を思い浮かべるも良しというところ。


今井聖の「不死身のダイ・ハード俳人 野宮猛夫」に、「くつなわ首に捲く照三も野に逝けり」を評して、
この「事実」が本当の真実であるかどうか、そんなことはどうでもいい。言葉で書かれた「真実」と実際の事実は同じである必要はないし、事実の方がリアルを演出できるとは限らない。そんなことは百も承知だ。

ならば、言葉を駆使して想像でこんなリアルを作ってごらん。俳句は切り口の文学だ。その切り口が思想の開陳であろうと、そのときの「気分」であろうとなんであろうとかまわないが、読者としては作者の切実な「今」を感じたい。
とある。

一方、五十嵐秀彦は、週刊俳句時評第28回「弧は問いであり、問いが答えである」で樋口由紀子の『川柳×薔薇』を取り上げ、樋口由紀子の
言葉そのものは存在があり、意味を上回る動きをするので、どのような「私」も書いていくことができる
という言葉を紹介している。元の文を読むと、この引用の前には、「どうってことない「私」でも」がくっついている(なお、時評ではp28としているが、p25が正しいようだ)が、これを敷衍して行くと、今井聖の言葉と樋口由紀子の言葉の間には齟齬が生じる。

今井聖も、樋口由紀子も「言葉で書かれた「真実」と実際の事実は同じである必要はない」ことは承知している。しかし、そこから先が微妙にずれる。今井聖は、ちょっと難しいよというニュアンスを込めて、「言葉を駆使して想像でこんなリアルを作ってごらん」と言う。樋口由紀子はそれをできると言うはずだ。

時評では取り上げられていないが、『川柳×薔薇』には次のような一節がある。
自分の思いを「吐く」、これが新子(時実新子)流川柳だった。確かに「吐く」ことはすっきりする。似たような「吐く」の川柳に共感し、感動もし、仲間を見つけた連帯意識も芽生えた。しかし、私の「吐く」もネタがきれ、他人の「吐く」にも飽きてきた。日常と言葉の落差があまりにもなかった。(中略)何かが違ってきた。そこはもう私の居る「場」ではなかった。ある人に、「時実さんが大切に思うことが樋口さんにはどうでもよくて、樋口さんが大切に思うことは時実さんにはどうでもいいのだから、この師弟関係は続かないよ」と、それぞれの川柳を読んで感じたと言われたことがあった。その時はよくわからなかったが、これは重要なことだったのだ。(p172-173)
要するに、師との対決の中で、樋口由紀子には「吐く」を方法論として否定せざるを得ない状況が生じた、と読み取るべきだろう。行き着くところは、「言葉を駆使して想像でリアルを作る」となる。同じ文の中で、
時実新子が居なければ、私は川柳を書き始めなかった。『月の子』を読んだときの感動は忘れないし、川柳に出合う幸運をくれた時実新子には感謝している。しかし、川柳作家として時実新子を高く評価する田辺聖子は「川柳ほど人生経験の蓄積を要求される文芸はない」と言うが、この視点だけで川柳を捉えたくはない。そこで言葉をはかりたくない。(p173-174)
とも書いている。

私は、川柳と俳句の区別に無頓着である。無頓着であるからこそ、今井聖の言葉と樋口由紀子の言葉を別のカテゴリーに入れることはできない。したがって、二つの言葉のどちらに組みするかを決定しなければならないのだが、ことはそう簡単ではない。人生経験も貧弱で、想像力も人並み以下となると、事態は紛糾する。当方に分かることは、福島原発のまわりを飛び交う言葉よりは、よほど正直な言葉が二つ存在している、ということだけだ。

2011年4月29日金曜日

●健康

健康


西日暮里から稲妻みえている健康  田島健一

我が庭や冬日健康冬木健康  高浜虚子

山の気や秋蚕もわれも健康に  阿部みどり女

身体健康心健康石蕗に虻  星野立子

健康な妻を心の妻として  日野草城

2011年4月27日水曜日

●東京

東京


東京がたつのおとしごのように見え  阿部青鞋

歯痛はげしまるで東京の若葉  高野ムツオ

東京の美しき米屋がともだち  阿部完市

東京の雁ゆく空となりにけり  久保田万太郎

東京に亀鳴くといふ日向かな  田中裕明

東京の首夏を駝鳥がちよっと走る  池田澄子

東京のいまが日盛り水中花  高野素十

月汚れ東京の灯にまぎれ棲む  仙田洋子

東京は暗し右手に寒卵  藤田湘子

木がらしや東京の日のありどころ  芥川龍之介

ほっと月がある東京に来てゐる  種田山頭火


2011年4月26日火曜日

●大阪

大阪


大阪の煙おそろし和布売  阿波野青畝

暮れなづむ大阪湾はワルツの色  八木三日女

大阪や埃の中の油照  青木月斗

大阪に日がさしはしやぐ正露丸  坪内稔典

大阪も梅田の地下の冷しそば  有馬朗人

大阪の空へ吊りたる金魚玉  藤田あけ烏

大阪にこんな涼しい風もあり  後藤比奈夫

大阪の雨ざうざうと鱧の皮  茨木和生

月へ離陸 大阪の人を愛すなり  松本恭子

大阪は月の濁りのひやし飴  細川加賀

大阪煙るカレーの皿と顔離せば  林田紀音夫

大阪の冬日やビルにひつかかり  京極杞陽

酢海鼠や大阪女かはいらし  小川軽舟


2011年4月25日月曜日

●万年筆

万年筆


卯の花腐し父の万年筆太し  仁平勝

鮟鱇と万年筆で書きにけり  山口東人

六月の万年筆のにほひかな  千葉皓史

うぐひすや万年筆の尻重く  小川軽舟

父も父の万年筆もとっくになし  池田澄子


2011年4月24日日曜日

●磯巾着

磯巾着

天上にちちはは磯巾着ひらく  鳥居真里子

磯巾着小石あつめて眠りゐる  大石雄鬼

踏まれどうしの磯巾着の死に狂ひ  中村苑子

肛門が口山頭火忌のイソギンチャク  ドゥーグル・J・リンズィー




2011年4月23日土曜日

●週刊俳句・第208号を読む 鴇田智哉

週刊俳句・第208号を読む

鴇田智哉

まずは、心に残った句を。

吊り橋へ躍り出でたる孕鹿    矢野玲奈
海市まで雲を連れゆく汽笛かな
(矢野玲奈「だらり」より)

一句目。一瞬の出来事の印象がそのまま物語に、やがては昔話に、そんな雰囲気がある。
二句目。和紙のちぎり絵のような手触りを感じる。ちぎり取られた紙のように、空に、ぼやっ、ぼやっと雲なのか、汽笛なのか、見えている。

さえずりさえずる揺れる大地に樹は根ざし  福田若之
むにーっと猫がほほえむシャボン玉
(福田若之「はるのあおぞら」より)

一句目。色のつるつるとした、漫画のアニメーションを思う。右へ左へ天へ地へ、大きな揺らきが表れている。句自体がきらきら揺れ続けている感じ。止まらない。
二句目。猫の顔が漫画のように印象的に、分かりやすく心に飛び込んでくる。すると思わず自分も笑ってしまう。


「傘Vol.2」を受けて、俳句におけるライト・ヴァースが話題となっており、それに関連した記事を、山田露結氏、生駒大祐氏が寄せている。二人の論の詳しくは、原文を読んでもらうこととして、ここでは、私の感想を少しだけ述べる。
私の考えとしては、「傘Vol.2」は、「ライト・ヴァース」を俳句読解のためのキーワードの一つに引き上げた、ということで意味があると思う。
ただし、キーワードはキーワードである。
生駒氏がまず、
ライトヴァースという言葉をまず定義してそれに見合う俳句を選び出すという行為に「踏絵」以上の意味があるのだろうか(極端な例を出すと「古池や蛙飛び込む水の音」という句に対して、「古池」という言葉を生かすために「蛙」が使われており、季語としての重心がおかれていないのでこの句はライトヴァース的である、などと僕が言ったとして何が生まれるのか)。
と断っていることからも分かるように、「ライト・ヴァース」というキーワードは、使う人の意図によってどうとでも使える。だから、一つ一つの俳句作品について、「この句はライト・ヴァースだ」「この句はライト・ヴァースじゃない」というように、100か0かで決めていくことには、意味がない。生駒氏はそれを確認した上で、「ライト・ヴァース」という定義の有効性を論じている。

また、山田氏が、
「俳句」あるいは「俳諧」はそもそもの成り立ちからして「ライト・ヴァース」的な側面を備えた文芸だったのではないだろうか、ということである。さらにそこから芭蕉が晩年にたどり着いたのは「軽み」の境地だったよなあ、と。
と言っているように、俳句そのものが元々持っている「ライト・ヴァース性」に思い至ってしまうと、一つ一つの俳句作品を、100か0かに判定するのは、余計に意味がなくなってくる。俳句自体がそもそも「ライト・ヴァース」だということになると、「俳句におけるライト・ヴァース」の意味する範囲がとても広くなってしまい、「ライト・ヴァース」というキーワードが多様で多角的になってくるからだ。

「ライト・ヴァース」は俳句読解のためのキーワードだと言ったが、この場合キーワードとは、いわば眼鏡だ。俳句を見るための眼鏡の一つ。眼鏡はほかにもある。「伝統性」とか「写生」とかもそうだ。また、「物語性」とか「脱構築性」とか、(週俳で時々話題になっている)「フェイク性」とか、さらに「フシギちゃん度」とかもそうだ。つまり、俳句の形式にまつわるものから内容にまつわるものにわたって、さまざまな位相でたくさんの眼鏡が存在している。大切なのは、眼鏡を恣意的に一つにしぼって終わりにしてしまわないこと。一つ一つの俳句作品について、「この句はライト・ヴァースだ」「この句はライト・ヴァースじゃない」というように、100か0かでやるのではなく、「この句は『ライト・ヴァース度60%+伝統度30%+フシギちゃん度10%』だね」のようにやる。そんな方向性でいいんじゃないかと、少なくとも私は思っている。
以上は、私が生駒氏、山田氏の文章を読み、「傘Vol.2」を読み返しながら考えたことである。

「傘Vol.2」にちょっとだけ触れておくと、私の感想も含め、「傘Vol.2」は既に多くの波紋を広げているということで、存在感のある本となっている。
「傘Vol.2」にある越智友亮氏の「俳句におけるライト・ヴァース」は、俳句の「ライト・ヴァース」をとても簡潔に定義づけしていてわかりやすい。その上で、複数作者の俳句作品をとり上げて、その一句一句が「ライト・ヴァース」であるかどうかを判定しており、それが、越智氏自身の「ライト・ヴァース」観を伝えるものとなっている。
私はさっき、「100か0ではなく」と言ったが、越智氏がこの文章の後半でやっている「ライト・ヴァース」か否か判定(=100か0か判定)は、「ライト・ヴァース」という新しいキーワードのプレゼンテーションとして、「ライト・ヴァース」を一義的にはっきり定義付けておくという意味では必要なものだと思う。判定に越智氏が苦心しているらしい、ということが何となく透けて見えるところも含めて。
そもそも、キーワードはキーワードに過ぎないのだから、一句一句の判定に苦しむのはしかたがない。そういう意味では、同じ「傘Vol.2」の「『私』の希釈度」の中で、藤田哲史氏が「ライト・ヴァース」という言葉をそのままには使わず(一回も使っていない!)、「ライト・ヴァース」「ライト・ヴァースらしさ」(色字鴇田)という言葉を使っていることが目を引いた。意識してそうしているのか、無意識にそうなったのか、あるいは扱った俳句作品が神野紗希氏のものだったことでそうなったのかはわからないが。

ともかくも、「傘Vol.2」により、「ライト・ヴァース」という言葉は、俳句解釈のための新しいキーワードとして、存在感をもつことになった。「週刊俳句 第208号」を読んで、改めてそう感じたのである。

2011年4月21日木曜日

〔人名さん〕近況

〔人名さん〕
近況


春の夜せんだみつおがまだゐたか  仁平 勝

せんだみつお画像検索

更新頻度は低いですがブログもあるし(≫公式ブログ「ナハ!ナハ!物語」)、たしかにまだいらっしゃいます。

2011年4月20日水曜日

●週刊俳句トップ写真・募集のお知らせ

週刊俳句トップ写真・募集のお知らせ


週刊俳句では毎号(毎週)、ページ上部に写真を掲載しています。その写真を募集いたします。

1) ご自分でお撮りになった写真をお願いいたします(大量送付はご遠慮ください。1点ないし数点に絞ってご応募ください)。

2) 横長の形でお願いいたします(週刊俳句を参照ください)。

3) 写真の上(特に左上)の明度・色合いが混じり合わない写真を希望いたします(週刊俳句の文字が目立つような写真)。

4) 不採用はお知らせいたしません。採用させていただくときメールをさしあげます。

5) 採用の際には、短文「今週号の写真」を寄稿いただきます(≫参考)。

6) 送り先 tenki.saibara@gmail.com



それではよろしくお願いいたします。ステキな写真をお待ちしております。

2011年4月19日火曜日

●スリッパ

スリッパ

スリッパはしかとはくべし彌生盡  久保田万太郎

スリッパの足をぶらぶら此処涼し  岸本尚毅

スリッパの裏ましろなる秋の暮  小川軽舟

二三人スリッパ過ぐる寒さかな  谷 雄介


2011年4月18日月曜日

〔今週号の表紙〕第208号 塀/囲い

今週号の表紙〕
第208号 塀/囲い


中が何の工場なのか作業場なのか、わかりません。古い農地の道はぐねぐねと曲がっているので、塀もぐれぶれと曲がります。

撮影場所:東京都国立市・谷保緑地


2011年4月17日日曜日

●学校

学校


雪垂れて落ちず学校はじまれり  前田普羅

学校も焼場も桃の花の中  日原傳

学校をからつぽにして兎狩  茨木和生

霧にこゑごゑ学校の形して  山口誓子

すかんぽのひる学校に行かぬ子は  長谷川素逝

2011年4月16日土曜日

●週刊俳句・第207号を読む 湊圭史

週刊俳句・第207号を読む

湊 圭史

「週刊俳句・第207号を読む」執筆を、というメールを頂き、「ハイ、よろこんで」と返信してから記事のリストを見て、ハタと困りました。俳句ジャンルについて門外漢の立場から気楽に、と思い込んでいたら、「佐藤雄一ロングインタビュー」と来ましたか。

私は創作としては自由詩と川柳を二枚看板としているつもりなので、しっかり対応したいところだけれども・・・。佐藤雄一さんが詩手帖新人賞の受賞者であること、現代詩ジャンルで最近とみに話題になる名前であることぐらいは知っていますが、『現代詩手帖』、最近あんまりマジメに読んでないし、今年初めの引っ越しでバサっと捨てちゃったしなあ。

ということなら、記事をスルーすればいいかも知れませんが、これがいろいろ考えさせてくれるインタビューなのですね。なので、ちょっと佐藤さんと彼の活動を深く知らない立場で、勝手論なところも出てきますが、とりあえずコメントをつらつらと書きます。

まとめれば、このインタビューは詩歌の「場」を作ろうという実践と、その背景とフィロソフィーについて、ですね。この「場」について理論的に細やかで、しかも現在形の実践であるというところで、『傘[karakasa]』によるインタビューとなったわけでしょう。「場」についての思考は(特に)短詩型に関わるものであれば、常に避けて通れない話題であります。

私にとって(たぶん、他の週俳読者にとっても)記事が分かりにくいのは、「サイファー」なるものを見聞したことがない、というところですが、とりあえず、YouTube に頼って、フムフム。ぐるりと円をつくって、順繰りにフリースタイルラップをしていくわけですね。「Bottle/Exercise/Cypher」という佐藤さんが中心になったイベントはこの方式を、詩歌で行おうというものだ、と。

HIPHOP のスタイルを取り入れて、コムヅカしくなっていた現代詩をほぐそうという運動は、記事の中でも(否定的に)紹介されている「新宿スポークンワーズスラム(SSWS)」(私が実見したのは京都で行われていた兄弟イベント「京都スポークンワーズスラム(KSWS)」ですが)が既にあって、その点では新しくはないですが、SSWSが「バトル」の型式を使っていたのが、今度は「サイファー」だということか。

んんー、これだけ読んだだけでは、うまくいくのか(いっているのか)どうかまったく分かりません。ラップについて言えば、強い定型的フォームがあって、それがバトルやサイファーなどでの即興的駆け引きを可能にしているはずです。そもそも共有するフォームなしでやって、本当に機能するのか。KSWS(やおそらくSSWS)の詩人パフォーマーたちはこのための一種の定型的フォームを求めてもがいていたという印象がある(ので、確かにカッコよくはなかったですが、後発のイベント発想者にこんなにあっさり切り捨てられると、それはナイんじゃない、という気がする)。

正直言って、「サイファー」で集まる詩人たちに同じようなカッコ悪さがないとはとても思えない。始まったばかりの「場」ですので、そうしたものに一種の可能性は見たいと思いますが、個人的には大して期待していません。そもそもラップがカッコいいと思ったこともないし、一般的にカッコいいと思われているのかしら、という疑問もあるし。(パブリック・エネミーは大好きでしたけどね。)

なら、どうしてここまで書いてきたか、というと、第207号のもう一つの長文記事「「俳句想望俳句」における自閉的ニュアンスからの脱却のために 藤田哲史」にあるような、ジャンルの「自閉的ニュアンス」から脱しなければならない、という思考がジャンル横断的に抱かれているのだ、ということを確認できたからでしょうか。

穂村弘『短歌の友人』を読んだときの印象も思い出しますが、現在はあるジャンルのなかに入ってしまうと「友人」としての立場しか取れない、換言すれば、ジャンルに直接内向するかたちでジャンル自体を否定しようとする姿勢が取りにくい現状があるのではないか。そこから一種、ジャンル内での問題を棚上げし、別の「場」を滑りこませたり、接続したりすることで、何か面白いことは起こらないか。詩歌サイファーの試みはその辺りに眼目があるのではないか(メショニックなどでの理論的補強はちょっと脇に置いておいて)。

「佐藤雄一ロングインタビュー」でなるほどと思ったのは、「文学」「純文学」(従来の大文学)に対するカウンターとしての「詩歌」というのを佐藤さんが考えているらしいところ。「詩」=「文学」というのはドグマだ、というのは私などもつねづね思っていることで、詩歌はもっと自由で、原初的でもありえるし、微視的な動きで未来をとらえる楽しみもあるのだ、というのは間違いない。そして、それを顕在化させるためには「場」の変革が必要だ、というのもその通り。

ただし、やはり、こうして実践と理論を強固に結び付けられると、それから弾かれるものが気になって、いろいろ言いたくなります。詩は文学で「あってもよい」はずだ、とか。実際のイベントの場ではもっと柔軟なはずですが、このインタビューに反映されているところだと、なあ、「文学」ぐらい「詩」が抱えてやれよ、とかツッコみたくなります。頑張ってきたのにねえ、かわいそうな「文学」ちゃん。

なんて書いていると、「「私の傷を見て、私の思いを見て」という人ばかりで、これはひどいなと思いました」と佐藤さんにばっさり切られている、2000年代のリーディング詩人たちにどんどん感情移入していきそうです(私もそうしたものは嫌いだと公言しているのですが)。実際、そうした詩人のパフォーマンスでも、ごくたまによいものはあったのですよ。また、吉増剛造のリーディングとか、福島泰樹の短歌絶叫とか、ふつうの意味でカッコよくはないけど、素晴らしいじゃないの、とか思ったり(谷川俊太郎より、よっぽど面白い、ぞ)。

とりあえず、この詩歌サイファーの試みがうまく行って、楽しい詩歌の動きが出てくればいいなと留保抜きで思います。でも、やっぱりカッコ悪いのも抱えていきましょうよ、と思うのです。何と言いますか、不純なものこそ、チカラであります。詩歌サイファーがすっかりカッコよいものになっってしまったら、そんなおしゃれな場所に出て行けないようなものが。

このインタビューのみからの印象ですので、「Bottle/Exercise/Cypher」の実情とはかけ離れたことを書いたかも知れませんが、ご容赦のほどを。

あれ、これ、本当に「週俳を読む」の記事なのか(笑)。

2011年4月15日金曜日

●夫人と婦人

夫人と婦人


香水や時折キツとなる婦人  京極杞陽

毛皮夫人にその子の教師として会へり  能村登四郎

乗馬婦人から反マラルメの冬を抜きとる  加藤郁乎

手袋に年をかくして夫人かな  星野立子

フェリーニの大田区秋鯖買う夫人  近藤十四郎

2011年4月13日水曜日

●熊本電停めぐり11 二本木口(合同庁舎前)・下

熊本電停めぐり 第11回
二本木口(合同庁舎前)(にほんぎぐち・ごうどうちょうしゃまえ)・下

中山宙虫


商店街と言っても、昔の賑わいはなく、店も数少なくなっている。
その四つ角にふたつの飲食店。
蕎麦屋の老舗。


そして、熊本ラーメンの人気店。


ここはいつも人が多い。
観光客もマップを持ってやってくる。
ラーメンはこんな感じ。
白濁の豚骨ラーメン。


この画像の奥に延びているのが二本木商店街の通り。
ここでは、右から左へ歩いている。
更に左へ歩いて行くと、ほどなく大きな川にぶつかる。
熊本の中心地を流れる白川だ。

突き当たりの階段を上ると白川の堤防道路。
そして、そこに架かる「世安橋」。
この橋は自動車は通行できない。
人と自転車の橋。


橋の上から熊本市の中心地方面。


ここまでてくてく5分ちょっと。
また引き返して電停へ向かう。


途中、三嬌橋で川をのぞいていたら、甲羅干しをする亀を発見。
小さいから見えるだろうか?
かなりの数の亀が住んでいるようだ。


そして、電車が待つ「二本木口」へ帰り着いた。



次回は「熊本駅前」

2011年4月12日火曜日

●熊本電停めぐり11 二本木口(合同庁舎前)・上

熊本電停めぐり 第11回
二本木口(合同庁舎前)(にほんぎぐち・ごうどうちょうしゃまえ)・上

中山宙虫


A系統 田崎橋・熊本駅前~健軍町の2番目の電停。


4月4日(月)
18時。
「田崎橋」を出た電車は、すぐにこの電停「二本木口」に着く。
このふたつの電停は恐ろしく距離が短く、百メートルあるかないかの距離。
「田崎橋」に着いた電車はすぐに折り返してくる。


電停の名前の二本木は、合同庁舎の反対にある古い町。
その昔、この二本木は遊郭として有名だった。
その名残も随分と消えてしまったが古い町並みと旅館などにその雰囲気が残っているような感覚がする。
そこで、ここ「二本木口」電停から坪井川に架かる三嬌橋を渡り、二本木地区を横切って見ることにする。



旅館やビジネスホテルが建ち並んでいるが、通りにはけっこう飲食店が多い。
ラーメン屋、寿司屋、スナックなどなど・・・・。



寿司屋の隣の白い建物は「熊本朝日放送」の本社ビル。
その本社の前のコンビニ。
おばあちゃんがいつも立っている。


と思ったら、おばあちゃんの等身大のパネル。
この店のマドンナらしい。
店にその姿を時々見る。
ちゃんと動いていた。
途中で三嬌橋方面をふり向くとこのような感じだ。


すぐに道は商店街を横切る。

(つづく)

2011年4月11日月曜日

●「一個人」さんにコメントをいただいた件

「一個人」さんにコメントをいただいた件

西原天気



週刊俳句・第206号に「よろしき距離 金子兜太×池田澄子『兜太百句を読む』」という記事を書きました。「一個人」さんからコメントをいただいき(≫こちら)、拝読し、その旨を書き込んだ。するとこんどは「台」さんが「一個人さんの質問に答えよ」と書き込み(≫こちら)。

「一個人」さんの質問は、次の2つです。

1 あなたの言う「少なからぬ人」「多くの読者」という言葉は、どれくらいの範囲をリサーチして出てきた言葉ですか? 一万人アンケートでもしたのでしょうか?

2 あなたはあのコーナーをきちんと全部読まれましたか?

こういう質問への答えは、1に対しては「いいえ」、2に対しては「はい、拝読しました」。

こ れで記事を終わってもいいのですが、「一個人」さんは、そんなことがお訊きになりたかったのでしょうか。そうではないと思います。私からの回答がほしいのではなく、

質問のかたち を借りた反論

ということです。だから、「いいえ」「はい」と答えても、議論に展開はありません。詮無い、というか、不毛なので、回答はしませんでした。「コメントを拝読した」ということをお伝えすれば充分と考えました。

(リサーチ」とか「一万人アンケート」とか、そういう、まあいえば子どもっぽい箇所に反応すべきでもない。あるいはまた、「いや、あの、一万人も読んでるわけないでしょ?」と冗談のひとつも言いたいところですが、一個人」さんのコメントはそういう空気でもない)

けれども、「一個人」さんの反論(批判)を拝読して、自分の記事の至らなさにも気づきました。

俳句樹」に連載されていた「海程ディープ/兜太インパクト」は少なからぬ人に驚きと失望を与えました(私もそのひとり)。多くの読者にとっては、「なに、これ?」であり、むしろ「金子兜太」を遠ざける負の効果を生みます。」と書いたその部分です。

一個人さんが訝っておられるように、「少なからぬ人」「多くの読者」という書き方は、意図的にちょっと誇張。「客観情勢」と言いたげなわけで、いやらしい書き方になっています。ここは反省せねばなりません。

改めるとすれば、「当該記事を読んだ人の反応は、私の知る範囲ですべて、失望と「なに? これ?」だった」ということになります。「一個人」さんは、「仲間たちにも概ね好評を得ています。もちろん、そういったごく狭い範囲での反応ではありますが。」と書いておられますが、それと同様です。

つまり、海程の人たち(あるいは「一個人」さんに近い人たち)のあいだでは「概ね好評」、そうではない私と私の周囲では、その逆で、不評。

この事実は、人によって、あるいは集まりによって、評価がちがう、見解がちがう、ということに過ぎません。

ただし、こういうことは「俳句樹」や「海程」に限らず、よく起こることです。結社などは特に。

内輪では好評。外では不評。

このことに気づかずにいるよりは気づいたほうがいい。私はお節介にもそう思い、記事の傍流的な話題として触れたのでした。ふつうは、飲み会とかでしゃべるだけなのかもしれません。カドが立ちますしね。「海程」にも知り合いがいますし。でも、書いたわけです。

小集団のなかで、外の目をわからずにいると、内向しやすいのが俳句世間です。これは例えば「週刊俳句」だってそうかもしれない。誰にとっても他人事ではありません。「これをもって奇貨とすべし」というやつです。



2つめの質問に関しても、十把一絡げは、ちょっと良くなかったな、と反省しています。でも、かといって、記事のいちいちを取り上げるべきとは、今でも思いません。

すべての記事が頭に残っているわけではありませんが、コメント欄で触れたように、「俳句史」にとって幸せなのか」 (小野裕三)は興味深く読みました。だからといって、「いい記事もある」と申し上げる気にはなりません。きほん、「信仰告白」。ほとんどが「結社内でおやりになればいいのに」という記事でした。



かいつまんで言えば、繰り返しになりますが、「俳句樹」の「海程ディープ/兜太インパクト」シリーズは、

「一個人」さんのまわりでは好評。私、および私の知る範囲では不評。

と、評価が分かれる。

そんなところです。

いろいろな感想や見解があっていいのではないですか。それとも、一個人さんは、私が、「俳句樹」の「海程ディープ/兜太インパクト」は素晴らしい記事だと言うまで、納得なさらないのでしょうか。



で、忘れてはいけないのは、私が書いたのは、金子兜太×池田澄子『兜太百句を読むのオススメだったのです。(それだけについて書いておけばよかったですか?)

金子兜太の句はやっぱり魅力的だし、この本に収められた対話もおもしろいです。ぜひご一読を。

2011年4月10日日曜日

〔今週号の表紙〕第207号 花虻?

今週号の表紙〕
第207号 花虻?


撮影場所:日比谷公園

2011年4月9日土曜日

●週刊俳句・第206号を読む 近恵

週刊俳句・第206号を読む

近 恵

205号の続きで、澤田和弥氏と上田信治氏の往復書簡の、信治さんの返信。

http://weekly-haiku.blogspot.com/2011/04/blog-post_5038.html

これを読んでいて、信治さんは意外と難しく難しく考えたい人なんだなあとか思ったりして。


で、今更だけど、俳句を読む人の多くが「作者=作中主体」と思ってしまうのは、単にそれがその人にとって当然のことだからなのではないかとか思ったりする。私が俳句を始めたとき、別に誰に言われたわけでもないけれどやっぱりそういう風に読んでいた。もしこれが小説だったら「作者=作中主体」とは思わずに読むし、エッセイや私小説なら「作者=作中主体」だと思って読む。じゃあなんで俳句を「作者=作中主体」と思って読んでいたかというと、多分「読み手=書き手」だから。

俳句を作り始めた頃は、作るときに体験していない事、見ていないことは読むことができなかった。自分が自分の知っていることを詠むように、他の人もきっとそうだろうと無意識に思っている。だから最初の頃は特に「だって見たんだもん」的俳句や「だってそう思ったんだもん」的心情吐露句が多かったし、そういう句が解り易かった。解り易いということは安心して読めるということ。だから「海程」の人の作品とか、いったい何を言っているのかちっとも解らなかった。自分が事実を詠むことを前提にしているから、理解しようがないのだ。

けれど、だんだん詠んでいくうちに自分の吐露したい心情なんてさほど沢山はないし、必ずしも事実を詠まなくてもいいんだというふうに自分がシフトしてゆく。それから理解してもらうために詠むことを止める。そうなると、人様の句を読む時も「作者=作中主体」と必ずしも読んでいる訳ではなくなっていった。


とはいえ、自身は必ずしも事実を詠んでいるわけではないけれど、正直に詠んでいることは間違いない。言葉を組み立ててゆくとき、それは結局は自分の中から出てくる訳で、それは紛れもなく<真実>だ。<作者を信用できる>かどうかは、結局は読み手が<自分を信用できている>かどうか、なのではないかとか思ったりもするのだ。


そこで「フェイク俳句」なんだけど、そもそもそれって作者を知っているから「フェイク」って言えることで、作者を知らなければ「フェイク」とは言い切れないじゃん、とか思う。作者名があってこそというのは、ご本人を知っている人のほくそえむような楽しみであって、多くの読者が作者を知らなければ、フェイクだろうが偽フェイクだろうが関係ないわけだ。結局どんなことが詠まれていようが、作品としての質が高ければ面白いのだ。読み方は人それぞれでいいんだし。とかって、ちょっと乱暴かなあ。。。

私は西原天気さんの「にんじん 結婚生活の四季」は、まるでワイドショーで昔やっていた「女ののど自慢」に出てくる人の話でも読んでいるようで、結構楽しみました。いうなら「フェイク俳句」の上に「フェイク読み」を重ねた感じ。もっとも、その作品を「フェイク」と思うのは、私自身がご本人を知っているからだけれど、そういう楽しみもありかなあと。そういうふうに読ませてくれる作品こそ「芸術」じゃなくて「文芸」だと思う訳です。いい意味で。

2011年4月8日金曜日

土管

土管

覗きをる土管の口や菖蒲の芽  高浜虚子

末枯のどこかに土管がきつとある  加倉井秋を

虹消えて土管山なす辺に居たり  石田波郷

いかのぼり土管ころがす警官よ  仙田洋子



2011年4月7日木曜日

停電

停電

停電の夜にて地虫なきいでつ  山口誓子

停電の闇に眼をあげ落葉きく  臼田亞浪

原爆の街停電の林檎つかむ  金子兜太



2011年4月6日水曜日

●プログラミング素人が作るブロック崩し

プログラミング素人が作るブロック崩し

game mod from steph thirion on Vimeo.

2011年4月5日火曜日

●地球儀

地球儀

地球儀のお尻に螺子や紋黄蝶  島田牙城

地球儀のいささか自転春の地震  原子公平

春惜しみつつ地球儀をまはしけり  長谷川双魚

春立つと拭ふ地球儀みづいろに  山口青邨


2011年4月4日月曜日

●April Come She Will

April Come She Will

2011年4月3日日曜日

〔今週号の表紙〕第206号 千鳥ヶ淵の桜

今週号の表紙〕
第206号 千鳥ヶ淵の桜


以下Wikipediaより
千鳥ヶ淵は江戸開府後の江戸城拡張の際、局沢川と呼ばれていた川を半蔵門と田安門の土橋で塞き止めて造られたお堀である。代官町通りを境に接する半蔵濠とはかつて繋がっていたが、1900年(明治33年)に道路建設のため埋め立てられ別々のお堀となった。半蔵濠には千鳥ヶ淵公園が隣接している。(…)千鳥ヶ淵緑道を挟んだ先には千鳥ケ淵戦没者墓苑が造られ、第二次世界大戦の折に海外で死亡した身元不明の日本人の遺骨が安置されている。(引用ココマデ)

ここからは靖国神社へも歩いてすぐ。時間と体力があるなら、JR四谷駅から市ヶ谷駅までの土手の桜を楽しんで、そこから靖国神社経由で千鳥ヶ淵へ、という花時の散歩コースもオススメ。

地図

2011年4月2日土曜日

●週刊俳句・第205号を読む 小川春休

週刊俳句・第205号を読む

小川春休

人生でよくよく考えなくてはいけないのは、誰といっしょにいたいか、ということ。そんな単純なことを、今回の大震災の報道を見ながら、改めて考えていた。今、この文章を書いている段階で、今回の大震災による死者数は11,063人、家族らから届け出があった行方不明者は17,258人で、計28,321人となっている(3月29日午前10時現在、警察庁発表)。

ツイッター上で、今回の大震災は、何万人という人が被害に遭ったとてつもない大災害、というのではなく、かけがえのない誰かを失った事件一つ一つを積み上げていくと結果的に何万という数になる、と考えるべきだという意見を目にした(あれは、誰のツイートだったのだろう…)。きっと、規模の大小に関わらず、災害とはそういうものなのだ。かけがえのない誰かを突然に失う悲しさ、一人一人を失った悲しみを、合計することはできない。そう考えると、いよいよ今回の災害の巨大さ、膨大さを感じてしまって、言葉も出てこない。そうして無性に、人間が恋しくなるばかりだ。

「奇人怪人俳人(一)ロケット戦闘機・佐藤秋水」に心を鷲掴みにされたのは、そんな精神状態で読んだせいもあったのだろうか。そこには、愛すべき人間の姿が、人間同士の交流のあたたかさがあった。全編を通して、佐藤秋水という人の体温、息遣いを感じる文章であるが、中でも師の楸邨に「嫌いです!」と言い切る場面の感情の高まりは凄い。様々な感情同士がぶつかり合って、高熱を発しているかのように感じる。読んでいるこちらもハラハラさせられ、胸が詰まる。

秋水さん、「さまざまな知人からは、お前は楸邨に合わないから寒雷をやめろと言われています」などと言っているが、わざわざこんなことを言うこと自体、師への敬慕の情の逆説的な表出に違いない。誰といっしょにいたいか、言うまでもない、秋水さんは師・楸邨といっしょにいたいのだ。いっしょにいれば、時には負の感情だって芽生える。敬慕の情が大きければ大きいほど、負の感情だって大きくなりやすいものだ。そうしてついには、「嫌いです!」と句会の場で言ってしまったりもする。でも、その土台には紛れもなく、「いっしょにいたい」があるんだよなぁ。

「嫌いです!」と言われた楸邨の返しもまた良い。

「秋水くん、嫌いなもの同士で一緒にやろう」

楸邨も、秋水さんの気持ちはよく分かっていたのだろうな。

秋水さんの句から。

   かたつむり見てゐて少し傾きぬ

実直なあたたかみのある句。やさしいけれど、ふわふわしてはいない。地に足がついているところが良い。

   大雪を来て玄関で笑ひけり

大雪の中をやっと玄関までたどり着いた側と、玄関で迎える側。きっと大雪の中をずーっと歩いて来たから、頭にも肩にもたっぷり雪が積もっていたことだろう。体中雪まみれだったことだろう。それこそ笑っちゃうくらい。寒さで緊張を強いられていた体が、ふっと緊張から解放される笑い、何ともあったかい笑いだ。

   「夏休みの友」にコップの痕があり

ああー、ありますね、こういうこと…。私も夏休みの宿題のドリルをカップラーメンを三分待つ間の蓋に使って、表紙をへにゃんへにゃんにしてしまったことがあったなぁ。先生、すいませんでした(もう時効、かな…)。

   噴水を見てゐて帽子とばさるる

先ほどのかたつむりの句もそうだが、秋水さんの句の芯には純真さがある。

秋水さんではないが、私の俳句の先輩にも、魅力的な人がたくさんいるのを、ふと思い出す。その中には、骨折からのリハビリのため、しばらく句会に出られそうにない方もいる。リハビリの合間の楽しみに、この「奇人怪人俳人(一)」をプリンタで印刷してお送りしたいと、そう考えているところだ。

2011年4月1日金曜日

●エイプリルフール

エイプリルフール

おしろいのはげし女給の四月馬鹿  日野草城

万愚節すぐや凍土の零番地  角川源義

万愚節おろそかならず入院す  相馬遷子

屑本をめくるは四月馬鹿の風  平畑静塔

万愚節恋うちあけしあはれさよ  安住 敦

腰かけて岩重たしや万愚節  三橋敏雄

噴水のりちぎに噴けり万愚節  久保田万太郎

部屋ごとに時の違へる万愚節  金久美智子

くちびるを噛むエイプリルフールのフ  太田うさぎ