2012年7月7日土曜日

●SLOW DOWN 中嶋憲武

SLOW DOWN

中嶋憲武


ふり返らずにさっさか歩く。ジューが何か言いながら、急ぎ足でついて来るけれどわたしはふり向かない。道ゆく人々の話し声や笑い声、店頭の大音量のジャズやバスの走り出す音に混ざって、ジューの甲高い声がだんだんぼんやりとしたものになってゆく。

タイル屋で働いているジューとは幼なじみで、家も近かったので、美容学校の帰りとか休みの日には、港へ船を見に行ったり、わたしの部屋やジューの部屋でキャロルを聞いたりしていた。ジューはわたしに対して好意以上のものを持っているらしかった。でもわたしには、ひとつ年上のジューがひどく幼く映っていたし、やたらと唾を吐く癖も下品で嫌だったし、まあ魅力的でなかったのだ。

「トーコ、城ヶ島行くか」 

「バイク、乗せてよう」

ジューの職場の先輩のノビは、カワサキのナナハンをいつもぴかぴかに光らせている。わたしはそのぴかぴかのナナハンに、二度ほど乗せてもらった。腰を突き上げてくる震動と、ノビのごわごわとした革ジャンに両手を廻してしがみついたときの革の匂いに、すっかり魅了されてしまったのだ。スピードと爆音は毎日の嫌なことを、いっとき忘れさせてくれたし。百八十五センチのノビに、ナナハンがよく似合うということが分かったとき、わたしの心のなかで何かがぱっと開いたのだ。

ジューはキャロルのチケットが手に入ったので、どうやら一緒に行こうと言っているらしい。日比谷野音での解散コンサートらしかった。わたしは速度を緩めず、ぐんぐん歩く。地下鉄にジューと一緒に乗って、日比谷まで行って、黴くさい三信ビルを抜けて表に出て、と考えるとうんざりした。

ジューの声がだんだん遠くなる。ちょっと雨が降ってきたけど、四月の袋小路のような街を構わず歩いた。ぴかぴかのスチールの冷たい乗り物の待っている待ち合わせの時計塔へ、そう言えばブローがうまく行かなかったなと思いながら、急いだ。


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