2012年9月30日日曜日

〔今週号の表紙〕第284号 モンテカルロ 小津夜景

今週号の表紙〕第284号 モンテカルロ

小津夜景



モナコへは観光とか、用事とか、とくに意味もなく、とかの理由で足を運んできた。

慣れない頃は、なん となく警戒心もあって、成金趣味のつまらない場所、といった紋切り型の印象を捨てきれないでいた。ところが通っている道場の仲間の一人がモネガスク(モナ コ地元民)であると知ってからは、彼女に地元の極意をあれこれ指南してもらい、今では「ごちゃごちゃした、天気の良い田舎」くらいの気軽な認識へと変化し ている。

写真はオプ・アートの先駆者ヴィクトル・ヴァザルリが、グレース・ケリーを記念してつくった広場。

カラフルな色調を一望しつつ、テラスでおいしいビールを飲む。

モンテカルロの青空は広く、ひどく涼しい。



ことりと秋の麦酒をおくときにおもへよ銀の条がある空  紀野恵


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2012年9月29日土曜日

●崖



着ぶくれて崖の匂ひをつれてくる  喜田進次

遺産から二百十日を引いた崖  佐山哲郎

杉の暗さの崖の滴り食器置かれ  桜井博道

菫咲き崖にやさしき日ありけり  石塚友二

ラムネ瓶太し九州の崖赤し  西東三鬼

爆音や霜の崖より猫ひらめく  加藤楸邨

土用波わが立つ崖は進むなり  目迫秩父

葛の崖重油の匂ふところあり  谷口智行〔*

花いばらレ点で雨の崖に出て  岡野泰輔〔*

夏帽子頭の中に崖ありて  車谷長吉


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より



2012年9月28日金曜日

●金曜日の川柳〔なかはられいこ〕 樋口由紀子



樋口由紀子







開脚の踵にあたるお母さま

なかはられいこ 1955~

開いた脚の踵に偶然母親があたることは生活をしている中で起こりえることかもしれない。しかし、ここでは書かれたことをそのまま読むわけにはいかない。なぜならば、「お母さま」だからである。

「お母さま」の取り澄ました言い回しは、一句に痛烈な落差を生む。一見どうってことない動作がなにやら怪しくなり、本質を突きつけてくる。母親との関係、あるいは母親に対する心情をこういう風に詠むのかと驚く。情に流されるというのではなく、情以上の重たいものを含んでいる。

〈うっかりと桃の匂いの息を吐く〉〈朝焼けのすかいらーくで気体になるの〉 言葉を取り込むセンスがいい。『脱衣場のアリス』(2001年 北冬舎刊)所収。

2012年9月27日木曜日

〔ぶんつぼ〕『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』 西原天気

〔ぶんつぼ〕
『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』
東日本編・西日本編
都築響一/ちくま文庫

西原天気

ぶんつぼ=文庫本のツボ


日本ゲテモノスポットめぐり。東日本編・西日本編2巻あわせて、紹介スポット数341件、計1100ページ強。カラー写真で埋め尽くされているので紙質もそれなり。1巻だけでOLさんの弁当くらいの重さがある。

ゲテモノとは、例えば東日本編のトップは札幌市郊外の「滝野霊園」。広大な敷地にモアイ像やストーンヘンジが建ち並ぶ。対象スポットは泥臭い観光施設やら、どっかに行っちゃった系のおじさんが執念でこしらえた私設博物館やら秘宝館(TV番組「探偵ナイトスクープ」の得意分野)やら怪しい古道具屋やら。

著者・撮影の都筑響一はこの本の元になった「SPA」での連載の前には『TOKYO STYLE』というユニークな写真集を出した人。オシャレでも小綺麗でもない普通の(というか、ほとんどは小汚い)東京暮らしの部屋の数々を撮影・紹介したもの。

ファッション雑誌に載っている東京アーバンライフなんて嘘、居心地よいものでもない。少々汚くても快適な住空間が本当の(かどうか知らないけれど)トーキョー・スタイル。というのが前著なら、『珍日本紀行』にあるのは、JRやJTBのコマーシャルに流れる「美しい日本」の正反対。猥雑で薄汚くて薄っぺらで低俗で煽情的なスポットばかり(土俗ってやつですか)。

どっちが本当の日本なのかは知らないし、どっちが気持ちがいいか楽しいかは人によるだろう。けれども、ともかく1100ページ、怖いもの見たさ・醜いもの見たさも手伝って、ところが意外にもどこか精神の深いところを揺さぶられつつ、ページをめくる人も、きっと多いはず。

「美しい日本」を旅する、容貌も心根もさほど美しくない私たち、という幻想と現実のなかで、なまっちょろく暮らすのもいいけれど、この偉大な仕事、全国341件の「珍日本」を2巻に収めた偉大な出版物を買ってページをめくっても、バチはあたりません。


2012年9月26日水曜日

●美容室

美容室

美容室もつとも冬燈飼ひ馴らす  寺田京子

美容室せまくてクリスマスツリー  下田實花

薔薇ピンクイエローのり子美容室  藤枝一実〔*〕


〔*〕句集『小鳥』(2010年・私家版) ≫参考

2012年9月25日火曜日

●いわきのこと 宮本佳世乃

いわきのこと

宮本佳世乃



週刊俳句に関さんが記事を寄せていたので、私も参加者として感じたことを残しておこうと思います。

私は7月にプロジェクト伝のいわきツアーに参加しました。ツイッターでの呼びかけを見たのがきっかけです。

最初は、私が行っていいのか、参加して何かできるか、はたまた、どんな格好で行けばいいのかなんてことまで考えていました。でも、上野駅でスーパーひたちに乗り、いくつもの蓮田を超えて、現地で迎えてくださった人々と話しているうちに、とても恥ずかしくなりました。私は、自分がどう思われるかとか、どうやって自分を守ろうかなんてことばかり考えていたんだって。

震災は一年半前にあって、私は(私たちは)いま、ふつうの生活を毎日送ってて。ふつうって、じゃあ、何? っていうと、衣食住、役割、活動休息、排泄、性、睡眠、おしゃべりなど、「その人にとって当たり前の」自分らしい生活なのかなって思ってます。

たぶん、それは、命が守られていることをはじめ、安全なコミュニケーション関係を築ける人がいること、自分の意思で何かを選ぶことができること、人権や尊厳が保たれていること、つまり安寧であることなんかが内包されている気がするんです。

だから、実は、被害が大きかったところを歩いたり、お話を伺ったり、二つに割れた鳥居を見たりしたのは、ものすごくつらかったし、ものすごく怖かったんです。それらと対峙することで、自分自身の内面をナイフにうつされているような思いでした。

せっかく参加したからすぐに意味を見出さなくてはいけないような気もしていた。今思えば、あせらずに時間をかけて、体験に意味付けをしていけばよかったんですけどね。

ただね、参加者として、というより一人の人間として、被害の大きかった地域にバスが止まったと同時に乗客が一斉に立ち上がって写真に撮るのは耐えられませんでした。ツアー中、もし私がそこに住んでいる人だったらどう思うだろう、ってことばかり考えていました。

写真で表す情報量は確かに大きい。誰に、どのように伝えるかによっても、おおくの効果を得られる。今回の週刊俳句の写真も、伝えていることはたくさんあると思います。

ただ、そこには人がいて、人びとたちぞれぞれの「ふつう」があって、それぞれの生活がある。あったんじゃなくて、今も、あるんだということ。たとえその土地に住んでいなくても、あるし、いる。「生」は続いているんだということ。それって、そんなに甘いもんじゃねーぞ、っていうことをしっかりと意識しておきたい。

せっかく来たんだからいわきでとれた魚を食べさせたかったと涙ぐみながら言ってくれたお父さん。逃げろ! と宿泊客を避難させても、写真を撮り続けたゑびすやさん。公民館で出してもらった大事な野菜。自分の子供世代が地元の野菜を食べないことを嘆いていた人。突然伺ったのに、じゃんがら念仏踊りを一緒に踊らせてくれ、また、鉦の指導もしてくれた菅波青年団のみなさん。円形の古墳のざりがにとか蛙とか。あ、それから、猫とか。シーフードケーキ(おいしいかまぼこ!)を食べさせてくれた「かねまん」の社長さんとか。

見てきたことももちろんだけど、人びとの様子とか、はなしとか、絶対に忘れない。


みやもと・かよの
1974年生まれ。「炎環」同人。「豆の木」会員。現代俳句協会青年部委員。2010年、合同句集「きざし」

2012年9月24日月曜日

●月曜日の一句〔津川絵理子〕 相子智恵



相子智恵







菌汁夜の近づくにほひなる  津川絵理子

句集『はじまりの樹』(2012.8 ふらんす堂)より。

たとえば松茸と椎茸とでは香りはまったく違うけれど、どちらも太陽をたっぷりと浴びた果実のような、日向の明るい匂いはしない。

菌には湿った木や土のような、しめやかな日陰の匂いがする。掲句の菌は、菌汁にする菌だから、なめこやしめじ、いくちなどだろう。煮ればモワッと、香りの湿度も増してくる。

作者は、菌汁には〈夜の近づくにほひ〉がするという。

釣瓶落としの秋の日、ひたひたと夜の気配が足下から来る。そんな秋の夕暮れの、湿った土の匂い。これから先の冬至までは、もう夜が長くなるばかりなのだという、もの悲しい気分の帰り道。玄関の戸を開けると晩ご飯の菌汁の匂いがして、ああ、ここにも〈夜の近づくにほひ〉がする、と思うのだ。

菌汁の匂いという何気ないものから、読者の全身は秋の夜長のとば口に引き込まれる。菌汁に対して〈夜の近づくにほひ〉とは、言葉としては意外な着想であるはずなのに、上記のような想像の物語が湧いてくるほどに説得力がある。

句集『はじまりの樹』には掲句のように、一見もの静かな一風景の描写でありながら、不意に「季節の運行」という大きな流れの只中に全身がすっぽりと包まれてしまうような感覚の句がいくつもある。それが端正な写生句にとどまらない奥行きとなっていて、心に残るのである。

〈夜通しの嵐のあとの子規忌かな〉〈聖樹より森はじまつてゐるらしき〉〈ものおとへいつせいに向く袋角〉

2012年9月23日日曜日

〔今週号の表紙〕第283号 いわき市の海岸 関悦史

今週号の表紙〕第283号 いわき市の海岸

関悦史





水も澄んで、今はきれいな海だが、この手前、家々は津波に呑まれ、一面に土台と秋草ばかりが残っている。

一キロくらい奥まった丘の上の八幡神社は難を逃れたが、当日ここにいたら、そこまで走って逃げるのは難しかっただろう。

波の下には破砕された多くの家々が沈み、多くの行方不明者がいる。

展望台から海を眺め下ろしたとき、波打ち際の水の透明度に驚いたが、そこで三人の子供を遊ばせている祖母らしい日傘の女性がいた。

残暑の厳しい日だったが、他に海で遊んでいる者はいなかった。原発事故の影響で、海開きも不能と聞いた気がする。

案内してくれた鈴木さんは七〇代の男性だったが、客に食事を出す旅館経営者であるためか、飄々たる口調のなかにも放射線への警戒が緩んでいないことがときどき感じられた。

当日は誰もガイガーカウンターは持っていなかった。

次々に案内される被災箇所を見るのに追われ、そこで暮らす人たちが、どの程度、どのように放射線に気を配っているか、じっくり聞いてこなかったのに気がついたのは、戻ってからだった。

しかし初めから取材目的で面会をとりつけたジャーナリストでもあればともかく、いきなり突っ込んで聞けるような話柄でもない。

福島ではテレビでも県内各地の線量が天気予報のように画面に出ているという噂も以前聞いたが、これも確認しなかった。

帰ってから数日後、福島の小中学生女児の過半数に甲状腺の結節やのう胞が確認されたとの記事を目にした。

ツアーの趣旨は、被災地の実態と郷土芸能を見ることでその忘却を防ぎ、間接的にであれ復興を支援するというもので、そこに他県への避難という発想はなかったように思う。ツアーに参加はしたものの、これが適切な対応なのかどうかはわからない。今後も長い間わからないままだろう。隣県に住む私にも全く無縁のことではない。

澄んだおだやかな海が、不可知論的巨大知性体である惑星ソラリスの海よりも謎めいた何かに、今は見える。



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2012年9月22日土曜日

〔おんつぼ43〕B.B.King 西原天気


おんつぼ43
B.B.King

西原天気

おんつぼ=音楽のツボ




タキシードの似合うブルースマン、B.B.キングは1925年9月16日生まれ。この前の日曜日が誕生日だったのだ。

1925年生まれといえば、この春亡くなった八田木枯さんと同じ年の生まれ。木枯さんが伊勢で俳句にのめり込んでいた頃、B.B.キングはメンフィス(米国テネシー州)で毎日ギターを練習していたのだ(ともに十代)と思うと、うれしくなってくる。



肝となる一音(ツボに来る一音)、例えばチョーキング・ヴィブラートのとき、口をちょっと「へ」の字に結ぶ。その口の形が、映画俳優のモーガン・フリーマンに似ている。

黒人の「大人(たいじん)」に共通する口のかたちなのか。意思のちから、徳の高さが、このとき、口のかたちに現れるのだ。


タキシード姿については、当時から賛否、好悪が分かれたようだが、ブルースを職業にするのだ、白人が足を運ぶ大ホールやラウンジで演奏すればカネになるのだ、という覚悟と解せば、潔い。実際、B.B.キングはそれを実現した。

オススメのアルバムは数限りないけれど、まずは名盤ライヴを。

2012年9月21日金曜日

●金曜日の川柳〔墨作二郎〕 樋口由紀子



樋口由紀子







かくれんぼ 誰も探しに来てくれぬ

墨作二郎 (すみ・さくじろう) 1926~

かくれんぼは微妙な遊びである。探し当てられたら負けで、次は鬼になって、探す方にまわる。だから、見つからないように隠れなければならない。またすぐに見つかってしまうとゲームにならずに興ざめする。ちょうど頃合のいい時に見つけてもらうのが一番良くて、ほっとする。

いつまでも見つからなくて、誰の声も聞こえなくなったら、他のみんなはもう帰ってしまって、置き去りにされたのかと心細くなる。隠れているのにそうっと足など見えるように伸ばしたくなる。かくれんぼは鬼を待っている遊びである。この句は自分に問いかけているのだろうか。それとも他人に問いかけているのだろうか。

原発で避難を強いられ、不自由な生活をしている人を思った。福島に実家がある友人が、帰省のたびに何も改善されていないと落胆して帰ってくる。

〈鶴を折るひとりひとりを処刑する〉〈蝶沈む 葱畠には私小説〉『尾張一宮在』(1981年刊)

2012年9月20日木曜日

●臍



しぐるゝや蒟蒻冷えて臍の上  正岡子規

へこみたる腹に臍あり水中り  高浜虚子

あんぱんの葡萄の臍や春惜しむ  三好達治

臍を噛む蚤もおかしや韮の宿  会津八一

凡家族たり夏潮に臍浸けて  清水基吉

美しき臍見て謝肉祭終る  有馬朗人

汗しみて胡麻いきづくや臍の中  林 雅樹〔*

臍の位置少しずらせば美妓なりき  筑紫磐井


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より


2012年9月18日火曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集

小誌「週刊俳句が読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

長短ご随意、硬軟ご随意。お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集『××××』の一句」というスタイルも新しく始めました。句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただくスタイル。そののち句集全体に言及していただいてかまいません(ただし引く句数は数句に絞ってください。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌から小さな同人誌まで。号の内容を網羅的に紹介していただく必要はありません。

『俳コレ』の一句 〔新〕

掲載記事 ≫こちら

これまで「新撰21の一句」「超新撰21の一句」を掲載してまいりました。『俳コレ』も同様記事を掲載。一句をまず挙げていただきますが、話題はそこから100句作品全般に及んでも結構です。






時評的な話題

イベントのレポート

これはガッツリ書くのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。

同人誌・結社誌からの転載

刊行後2~3か月を経て以降の転載を原則としています。自薦・他薦を問いません。


なお、ウラハイのシリーズ記事(おんつぼぶんツボ etc)の寄稿についても、気軽にご相談ください。

そのほか、どんな企画も、ご連絡いただければ幸いです。

2012年9月17日月曜日

●月曜日の一句〔有澤榠樝〕 相子智恵



相子智恵







霧吸うて来し唇を汝に与ふ  有澤榠樝

句集『平仲』(2012.7 角川書店)より。

ゾッとするような美しさのある句だ。現実と幻想が入り混じった、たとえば小泉八雲『怪談』の「雪女」なども思い出す。

霧は、手元の歳時記にはこうある。〈昔は春秋ともに霧ともいい、霞ともいったが、後世になって春の方を霞、秋の方を霧というようになった。春の霞はのどかな感じがするが、霧はどこか冷たい印象である〉(角川『合本俳句歳時記 第三版』)

「どこか冷たい印象」が霧の本意だ。霧を吸い込んだのちの接吻の、口移しに冷たい秋の空気が体内に流れ込んできて、胸の奥からスッと秋になるような感覚。それを与える女(作者を離れれば男とも取れるが、やはり女だろう)が挑発的な感じがするのは〈汝に与ふ〉の強さだ。艶っぽく冷たく惑わされ、それはまこと、霧の中に入りゆく気分。“五里霧中”の恋に落ちる瞬間の気分だ。

句集名『平仲』は『今昔物語』平定文の説話から取ったという。あとがきによれば、
平定文は本院侍従への恋に悩乱し、グロテスクともいえる醜態をみせ、ついに焦がれ死んだ。今昔編者はいともばっさり「極めて益無き事なり」と評している。まことにそれはそのとおりであろうが、あまりのおろかさにけなげとも思えてくる。
掲句の恋も冷たくて熱く、おろかで、けなげである。


2012年9月16日日曜日

〔今週号の表紙〕第282号 よるのどうぶつ 小川春休

今週号の表紙〕第282号 よるのどうぶつ

小川春休


広島市安佐動物公園では、「ナイト・サファリ」という催しを数年前からやっている。夏の日中は暑くて動物も溶けかけているし、もともと夜行性の動物もいるし、夜に見に行ったらどんな感じか、大きなお友達も思わずわくわくしてしまうところだ。

で、行ってみると、凄い人出。そして涼しい。日中と打って変わって活動的になっている動物もいれば、日中と大して変わらぬ動物も。麒麟、縞馬、猪、猿や象などは活動的グループ。猪なんかずっと喧嘩しっぱなし。虎やライオンは日中とあまり変わらない。きっと食事のときぐらいしか本気を出さないんだろう。


ムーディーな照明に照らされたペンギンが、まるでストリッパーのようだ。


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2012年9月15日土曜日

〔俳誌拝読〕『蒐』第九号

〔俳誌拝読〕
『蒐』第九号(2012年7月24日)……西原天気


発行人:馬場龍吉。A5判・本文20ページ。前ページ・カラー刷が特徴のひとつ。同人各氏が見開き2ページずつに俳句と短文(あるいは俳句のみ)。

ぶらんこに雨縦長にたてながに  太田うさぎ

ひとつ木のひとつ高さに巣が三つ  菊田一平

武蔵野の昼に灯して苗木売
  鈴木不意

くちびるにひとの塩味梅真白  中嶋憲武

かみなりのやうな静脈競べ馬
  馬場龍吉



こちら(↑)は競作のページ。


2012年9月14日金曜日

●金曜日の川柳〔前田一石〕 樋口由紀子



樋口由紀子







長い長い手紙を書いてきた海だ

前田一石 (まえだ・いっせき) 1939~

夏の終わった海は穏やかである。夏にあんなにぎらぎらとまぶしいくらいに光っていたのが、嘘のように静かに波打っている。もう少しすると、厳しい冬の海を迎える。海を題材にした川柳は意外と少ない。海を〈長い長い手紙を書いてきた〉との捉え方に詩情ある。ファンタジーにいくのでもなく、日常性がある。海とのこの距離感がいい。

我が家から一キロほどが瀬戸内海である。少し足を伸ばすと海の絶景ポイントがあちこちにある。海を見るとなぜか心が落ち着く。海がこんなにきれいだなんて、若い頃にはまったく気づかなかった。手紙を書き終えた海だったのだ。

〈縄とびの縄が哀しいほどまわる〉〈タイムカードを打つあくまで羊のフォルムで〉〈一番嫌いな絵のなかで生きている〉『てのひらの刻』(手帖舎刊 1988年)所収。

2012年9月13日木曜日

●節電 上野葉月

節電

上野葉月



相変わらず残暑が厳しいのだけど、節電なんてことは誰も言わなくなった。増税から話を逸らすためなのだろうか、何十年も放置している領土問題(?)のことばかり話題になったりしている。

もとよりこの不景気、電気が余ることはあっても足りなくなるなんてありそうもない。

原発事故は色々の面で影響を与えていると思うのだけど、全国の善男善女が政府やマスコミの発表を鵜呑みにしなくなった点が目立つ影響のひとつのように思える。一年半前から多くの人がそれ以前よりはるかに疑い深くなった。

そういえば今後健康被害は長期的に問題化するだろうけど、日本というブランド価値の凋落はすでにかなり深刻な影響が出ていると言えるのではないか。昨今の輸出の不調は単に円高が原因ではなく日本そのもののイメージが下がったせいだろう。食料に限らず、工業製品や部品だって同じ程度の性能だったら露天原子炉状態ではない国のものを優先して買うのは当然だし。

なんか日本人と言うと、組織の運営とかは苦手でも少なくとも現場で働いている人間の技術や勤労意欲は地球上で屈指の高品質という偏見を私もいつの間にか抱えていたわけだし、おそらく世界中の人が日本人はとにかくきちんと仕事するという似たような偏見を共有していたと思う。今ではそういう評判も影をひそめてしまっているが。

 ●

ともあれ原発事故から一年半。とても一年半しか経っていないとは信じられないほど原発事故以前の日本を別の国のようにすら感じるのだけど、福島第一原発についてわかっていることを覚書程度にまとめてみたい。

A. 一号機

2011年3月12日に派手に水素爆発した一号機はメルトダウンが最も早く、地震当日3月11日にはすでにメルトダウンが始まっていたと考えられている。

ただし二号機とは違いベントが間に合ったので格納容器はある程度の形状を留めているため外部に設置された臨時の配管で循環冷却中。大量に発生している汚染水をどう処理しているか、どうもはっきりしない。

B. 二号機

建屋がもっとも壊れていない二号機だが、事態は最も深刻であるらしい。

ベントが間に合わなかったため3月15日圧力容器格納容器が損傷し、メルトダウン後燃料が外部に漏れる(メルトスルー?)に至った。

放射線量が致命的に高く誰も近くに寄れないため、昨年三月以来完全に放置状態で中身がどうなっているか想像するしかない。

おそらく燃料はかなりの量が地中に溶け出しているのだろうけどどの程度の深さまでどの程度の量漏れ出したかは誰もわからない(それはそうだ、誰も実験したことないのだから)。また今後もどうするか何も決まっていない。それこそアニメに出てくるような超が三つも付きそうなスーパーロボットでも開発されない限り何百年も放置されることになるのだろう。

素人考えだが、チェルノブイリ事故が国際基準でレベル7なら、この二号機だけでレベル8を新たに設けてもいいように思う。なにしろチェルノブイリの場合、半年で石棺化されたのだし。

東京電力が事故当時の電話会議の映像を部分的に公開したため3月14日に福一からの全面撤退を政府に進言し、当時の菅首相に叱咤されて全面撤退を見送った経緯はほぼ明らかになったけど、二号機に関しては全面撤退したのとほぼ同等の放置状態であると言える。

C. 三号機

3月14日に大爆発を起こした三号機。公式には水素爆発ということになっているけど、フェアウィンズアソシエートのガンダーセン博士が指摘しているように即発臨界なのだろう。

皮肉なことに一号機より建屋が頑丈だったため、水素爆発の衝撃が外部に漏れずプールに保管されていた使用済み燃料に膨大な圧力がかかり臨界したのだと言う話だ。即発臨界なんていうと難しげだが要するに中途半端に核爆発したのだ。インドあたりで核兵器の実験を行ったりするとよく失敗して似たような状況になったりするあれである。

素人目には建屋がほぼ無くなっているように見えるのだが、やはりベントが間に合ったので圧力容器格納容器は一応残っているらしい。一号機と同様に冷却中。

福島第一原発の事故では死者は出ていないことになっているが、あの大爆発で死者も怪我人も出なかったなんて信じられない。本当に不思議なので常々思うのだが、あれで死者も怪我人も出なかったという話を鵜呑みに出来る人がもし居るなら是非説得されてみたい。十キロ以上離れた南相馬市でも使用済み燃料棒の破片が見つかったような爆発なのに。

ちなみに四号機の使用済み燃料プールの千五百本以上の燃料棒のことは頻繁に話題になるけど三号機のプールにあった五百本程度の燃料棒については誰も口にしたがらないような気がする。即発臨界で全て消費されたとも思えないので周辺にまだ散らばっているのかそれなりに回収したのか、あるいは大半は福島の海に落ちたのだろうか。

D. 四号機

昨年三月の事故で何に驚いたかというと(まあ驚くようなことだらけだったのだが)、定期点検中で稼動していない原子炉も稼動中の原子炉と同様に事故を起こし十二分に危険な存在だということがもっともショックだった。

私は仕事先が首相官邸に歩いて行ける距離なので毎週のように金曜日に官邸前の再稼動反対デモを見学に行っているのだけど、結局のところ全ての原子炉が止まったところでまったく安心できない。廃炉にして取り出した燃料棒をすべて始末しなければ何の解決にもならないのだ。本当に道のりは長い。

 ●

二号機の中身がどうなっているか分からないことはすでに触れたが、四号機に関しても何があったか情報が非常に少ない。15日に火災という報道があったが壊れ方からすれば爆発と呼んでいいようなものだったのだろう。

また昨年3月22日に首都圏ではかつてないほどの放射性物質の降下があったので3月21日か22日に福島で大規模な爆発的事象があったのは確かだと言うのが世界中の専門家の共通の見解らしいのだけど、これが四号機での出来事ではないかと思っている人もどうも少なくないらしい。

四号機の(壊れかけた)燃料プールには千五百本以上の燃料棒が残っており、ここの水がなくなり燃料棒が空気に触れるような事態になれば、東日本壊滅、地球はかつてなかったような環境汚染を経験することになるという警告が多くの識者から発せられている。

もしその通りであるなら、日本の国力を全て使うなり世界中の専門家の知恵を結集するなりして対処しなければならない最優先事項であるはずだ。私は脱原発派ではあるが、もし仮に(まったくもってそういう事態は想像外だが)福島第一原発四号機の燃料棒を始末するために日本中の総発電量に相当する電気を集めて対処しなければいけなくなったら、一時的に原発を稼働させるしかないだろうとは思う。まあそういう「ヤシマ作戦」みたいな事態はありそうもないが。

一方で四号機のプールには燃料棒がちゃんと残っていないと考えている人もけっこういる。福一の事故全般に関して情報公開は相変わらず不十分なので疑心暗鬼になってしまうのは自然な成り行きだとも言える。特に四号機に関しては情報が少ない。

 ●

ともあれ福一の事故が何らかの奇跡的な僥倖に恵まれて収束したところで、今後日本で新たに原子力発電所が建設されることはありえないだろう。どんな追い詰められた自治体でも住民の同意を得ることは無理だと思う。

数十年後には原子力発電所は全廃されるのだろうけど、使用済み燃料はどう始末することになるのか。地中深く埋めるとか、オモシでもつけて日本海溝の底に沈めるとか、あまりにもスマートじゃない結末が待っているのだろうか。

現状でも日本には数万本の使用済み核燃料があり、日本ではウランが取れないのだからこれが全て高い金払って外国から購入したものだと考えると意識が遠くなるような気分になる。

世の中には(おそらくそんなに人数はいないのだろうけど)原発推進派という人達が確かに存在しているのだが、やっぱり私にはまったく理解できない。たとえば科学的な探究心とかあるいはプルトニウムを貯蔵して日本はその気になればいつでも核武装できるという姿勢を見せるという政治的な思惑など理解不能ではないのだが、そのためだったら試験的に運用する原子力発電所を二三箇所建てればいいだけで五十基も必要ない。

単に目先の金だけが原動力なのだろうか。それではあまりにもデメリットの方が多すぎる。原発推進派の中にも子供や孫がある人たちだっているだろうに。まさに不可解だ。



原発:ウラハイ 2012年2月9日


2012年9月12日水曜日

●数える

数える

ここは信濃唇もて霧の灯を数ふ  加倉井秋を

何べんも秋草数へ人は老ゆ  山田みづえ

すこしづつ動く浮葉の日を数へ  岡田史乃

鬼灯を上から数へ下から数へ  依光陽子〔*

わが受くる紙幣は瞬く間に数ふ  日野草城


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より


2012年9月11日火曜日

●明日は三越 中嶋憲武

明日は三越

中嶋憲武



退社後、池袋へ。

無印良品でクッション&クッションカバー購入。

その後、ジュンク堂へ。俳句コーナーをチェック。八重洲ブックセンターの俳句コーナーは年々歳々すかすかになっているのに、ジュンク堂はぎっしり満載。あれもこれも置いてあるが、攝津幸彦のものは置いていない。いまから14年ほど前、八重洲ブックセンターで「攝津幸彦全句集」を購入。その数年後に某女流俳人に貸して、なかなか返してくれないので数年後に、返してくれない?と言ったら、「えっ? そんなのどっかいっちゃったわよ。わたしんところには、年がら年中たくさん本が届くんだから、どっか埋もれちゃってわからないよ」と言ひき。つくづく悔やまれる。ああ、路地裏の夜汽車よ御恩の南風よ姉にアネモネよ。仕方ないので長谷川櫂さんの「震災歌集」を買う。四月に全部立ち読みしたときと感想は変わらない。一階へ降りて赤坂真理の「東京プリズン」も買う。

はす向かいにある、キーヨ先生(むかし阪神タイガースにキーオというピッチャーがいましたけど、関係ありません)御用達の大江戸で夕食。キーヨ先生はいるかときょろきょろしたが、いなかった。ま、いわゆる回転寿司の店であくまでも僕のスタイルを通す。注文はせず、回っているものをひたすら食う。

コーヒー飲んで山手線に乗車。広島で後輩が起こした事件に胸が痛む。

明日は朝から仕事ぎっしり。ガンバラナクッチャ。

山口百恵強化月間なるものを画策中。


2012年9月10日月曜日

●月曜日の一句〔下坂速穂〕 相子智恵



相子智恵







草の絮雲より白くなれば飛ぶ  下坂速穂

句集『眼光』(2012.8 ふらんす堂)より。

一昨日、山中で目にした芒はまだ穂が出たばかりで、子どもの髪のようにしっとりと濡れていた。芒や茅などの草の穂が、真っ白に乾いて絮となり、ふうわりと飛ぶまでには、関東ではまだ時間がある。

〈草の絮〉が飛ぶころには、いまはまだ残る真珠色の積乱雲がすっかり姿を消し、薄絹のような鰯雲に、秋の高い空が透けているのだろう。

〈雲より白く〉といっても、雲にはさまざまな白さがある。そのなかでこの句から想像されるのは、べったりと絵の具で塗られたような密度の濃い白色ではなく、透明感のある軽い白さだ。

その雲の白さを思うとき、〈草の絮〉の「軽さ」があらためて眼前に立ち上ってくる。〈雲より白く〉なった絮はきっと、「雲より軽く」秋の空を飛んでゆくのだろうと、思われてくるのである。半透明の〈草の絮〉が、頭の中で気持ちよく空へと吹き上がってゆく。


〔編註〕
本誌・第254号(2012年3月4日)クンツァイトまるごとプロデュース号

2012年9月9日日曜日

〔今週号の表紙〕第281号 蔦 西原天気

今週号の表紙〕第281号 蔦

西原天気


蔦のからまるチャペルで♪ (ペギー葉山「学生時代」。古い!)。蔦にはハイカラなイメージがあります(高齢者だけか?)

撮影場所は、チャペルじゃないです。倉敷アイビースクエア。倉敷紡績の工場跡地が今は観光・文化施設になっています。



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2012年9月8日土曜日

【俳誌拝読】『静かな場所』No.9

【俳誌拝読】
『静かな場所』No.9(2012年9月15日)……西原天気


A5判、本文22ページ。発行人・対中いずみ。

巻頭の招待作品は関悦史(句集『六十億本の回転する曲がった棒』が第3回田中裕明賞受賞)の「ガラス」15句。

コバルトブルーのロブスター捕れ積乱雲


このロブスターは見た(ネットで、だけれど)。題材それ自体は目の前の日常なのだろう。句はメモのようなものだ。言葉の様相は作家によってさまざま。「ガラス」15句における語のハンドリング、誂えは、きわめて自由気ままで、そこに好感。

サメら泳ぐロビーや水槽壊れては  関悦史

同人各氏の作品は見開きに15句ずつ。

蜥蜴見て喉乾く日でありにけり  木村定生

雨垂は壁にさはらず沈丁花  対中いずみ

太陽のはりついてゐる厚氷  満田春日

淡雪やレコード盤のゆらゆらと  森賀まり

一巻の欠けし事典を曝しけり
  和田 悠

繰り返すが、言葉の様相は作家によってさまざま。(関悦史「ガラス」のように)定型(五七五)をはみ出す自由、定型に収める自由。

対中いずみ句集『巣箱』鑑賞が2本(岸本尚毅、満田春日)。
(…)美意識と無常の思いがバランスのとれた形で、その作品に素直に現れていると思います。明るく白っぽい光が基調にあります。(岸本尚毅)
青木亮人「はるかな帰郷 田中裕明の「詩情」について」は連載の第3回。巻末には同人各氏による田中裕明作品の一句鑑賞がある。


連絡先メール zws10134@nifty.ne.jp(対中いずみ)


2012年9月7日金曜日

●金曜日の川柳〔泉敦夫〕 樋口由紀子



樋口由紀子







馬が嘶き 花嫁が来て 火口が赫い

泉敦夫 (いずみ・あつお) 1908~1988

一日の出来事だろうか。それとも一枚の絵だろうか。言葉によって一つの世界があらわれる。〈馬が嘶き〉〈花嫁が来て〉〈火口が赫い〉のそれぞれが独自にクローズアップされ、循環する。視覚的に、聴覚的に、絵画的に、動きのある一つ一つのフレームが鮮やかに目に浮び、抒情のある詩性が発生している。

普遍性のある三つのパートのつながりは情感を立ち上げ、何かを暗示しているようでもあるが、作者は何も述べていない。私たちがその中に存在していることだけが確かなようである。

「写実のもつ具象性と、心象のつくるゆらめきを、どう結ぶかを念じて」と泉敦夫は言う。〈如月の街 まぼろしの鶴吹かれ〉〈母の眼にある海鳴り と逢えている〉〈弔旗売りに来ている村の 音なき昼〉 独特の感性である。『風話』(1972年刊)。

2012年9月6日木曜日

●ペンギン侍 第55回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第55回 かまちよしろう

前 回

つづく


かまちよしろう『犬サブレ 赤』 絶賛発売中!



2012年9月5日水曜日

●句碑

句碑

句碑の句の少し愚かに秋日和  岸本尚毅

お母さん見えますか句碑秋風裡  楠本憲吉

句碑ばかりおろかに群るる寒さかな  久保田万太郎

食べながら句碑のお金を工面する  湊圭史 ≫句碑7句


2012年9月4日火曜日

【俳誌拝読】『夜河』第拾四號(2012年9月1日)

【俳誌拝読】
『夜河』第拾四號(2012年9月1日)

月犬、皆川燈、長谷川裕、三枝ことりの4氏による私製はがきスタイルの俳誌。1氏1句ずつ+ゲスト(この号は堀田季何、九堂夜想の両氏)1句ずつの俳句。 加えて既存句を取り上げての短文1本。皆川燈氏が、坂戸淳夫《斧打ち込む死んでゆく木の餞に》他を論じる。 連絡先 mdf@ah.em-net.ne.jp 

 (西原天気・記)

2012年9月3日月曜日

●月曜日の一句〔松浦加古〕 相子智恵



相子智恵







向き合へる蝗の貌の真面目かな 松浦加古

句集『這子』(2012.8 文學の森)より。

「だって、イナゴの佃煮って“佃煮の味”しかしないじゃないっすか。アサリの佃煮は貝の味がちゃんとするのに、イナゴは素材に味がないのがイヤなんですよねー」

某後輩俳人と、なぜか蝗の佃煮の話になった。この長野県の郷土料理の話になると、ふつうは「虫を食べるなんて信じられない」という話になって、蝗の見た目と食習慣のグロテスクさに話が終始するのだが、素材の味がしないからイヤっていうのは、ちょっと新鮮だった。たしかに、蝗の佃煮に虫の味はしない。食感は川エビに似ている。味のしない川エビ……。

さて掲句。一匹の蝗と作者が向き合っているのか、あるいは二匹の蝗同士が向き合っているのか。どちらにせよ、向き合っている蝗に表情は皆無である。

だが、その貌が〈真面目〉だと書かれると、急に蝗の無表情にも愛嬌があるように思えてきて可笑しい。〈真面目かな〉の脱力感がいいのだ。

蝗って、無表情で何考えてるかわからないけど、あいつら意外と真面目らしいよ。佃煮も、うまいらしいよ。佃煮の味しかしないけど……。


2012年9月2日日曜日

〔今週号の表紙〕第280号 屋上 小津夜景

今週号の表紙〕第280号
屋上

小津夜景


ある古いアパートの屋上にのぼった。

泥をこねたような、妙に生々しい屋上だった。

楽しげで、侘しげで、どことなく廃墟っぽい。

おそらく廃墟の趣というのは、逞しい現実感をそなえた建築にとって、欠くべからざる白昼夢なのだろう。

……といった感想を抱きつつしばらく過ごしていたのだが、最近ひさしぶりにフォルダを確認してみたら、どの写真にも私の見たはずの光景が全く写っていなかったのでびっくりした。そこにはなんというか、知覚のアンサンブルとおぼしき「かたち」が、時空を埋め合わせるごとく、たてものに見立てられた「もの」として存在するのみである。幻影の廃墟どころか、現実の建築すら景物としておぼつかない。

一体この景物は、建築(或いはその解体)という統制的原理の所産と言えるのだろうか?

私はそう自問し、こう結論する。いやこれは建築でもその解体でもなく、さらにあの屋上で出会った夢現一体の表象もたちの悪いまやかしだったに違いない、と。この写真を眺める限り「たてものをたてる」とは認識そのものを形づくることであり、人間の見立てにささやかな奇跡を委ねたゲシュタルトそれ自体への旅にすぎない。そしてあのとき私が経験した白昼夢は、その旅が実はあまりに無謀な試みであることへの眩暈だったのだ。


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2012年9月1日土曜日

●九官鳥

九官鳥

九官鳥黙すうしろの森に月  斉藤夏風

紙漉いて九官鳥も可愛いがり  京極杞陽

九官鳥同士は無口うららけし  望月周〔*


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より