2012年11月12日月曜日

●月曜日の一句〔柴田千晶〕 相子智恵


相子智恵







変則的だが、今回は詩集を紹介したい。作者の柴田千晶氏は詩人であり俳人、脚本家でもある。
喇叭

美しき白紙冬野を子ははみ出す

微熱が続いて、左足が痺れている。そんな日が幾日か続いて、私はあの幻聴を聞くようになった。水の中を潜り抜けてきたような、うら淋しい喇叭の音。間延びした進軍喇叭の音だ。
螺鈿のような鱗雲が広がる冬の空から、それは聞こえてくるのか、いや違う、それは私の躯の奥深い処から聞こえてくるようだ。


柴田千晶 詩集『生家へ』(2012.10 思潮社)より。

掲げたのは「喇叭」という詩の一章である。冒頭に置かれた俳句に呼応して、詩が続いてゆく。本書はすべてこのスタイルで書かれた一冊。〈ここ十年ほど、自作の俳句が内包するイメージと格闘するように詩を書き続けてきた。詩と俳句が遙かなところで強く響き合う、そんな世界をめざして〉とあとがきにはある。

冒頭の句からは「誕生」がイメージされる。子どもが一人、はみ出す。その清らかな祝福の白紙はしかし、すぐに寒々しい冬枯の野へと展開されてしまう。生まれたが最後、死へ向かって歩みだすしかない人間の運命の寒々しさのように。

その後に続く体の奥深くから聞こえる〈水の中を潜り抜けてきたような、うら淋しい喇叭の音〉からは、今度は母体が聞く胎児の音を思う。こちらは「出産」をイメージする。「生み出されたものと、生み出したもの」がこの詩には同時に描かれている。

柴田氏は一貫して、性と生への違和感を生々しく書き続けている作家だが、この俳句と詩が響き合う詩集は、一冊を読み終えると小説のようでもある。俳句、詩、物語として重層的に、それら三つを凭れさせずに成立させるというのは、溺れているようで溺れていかない冷静な筆力によって成り立っている。他者には真似できない膂力のある一冊だと思う。


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