2013年12月31日火曜日

2013年12月30日月曜日

●月曜日の一句〔澤田和弥〕相子智恵

 
相子智恵







闇汁の半分がまだ生きてゐる  澤田和弥

「嬉しきひと」(『あすてりずむ』vol.4 2013winter)より

〈闇汁〉は言わずと知れた、灯を消した室内で、めいめいが持ち寄った食べ物の名前を告げぬままに鍋に投じ、煮えた頃に暗中模索し、すくい上げて食べる遊びである。明治・大正期の書生たちが盛んに行ったといい、子規も「ホトトギス」発行所でしばしば楽しんだという。

『世界大百科事典』(第二版)では、闇汁のような食べ方を〈飲食遊戯ないしは遊戯的共食〉と解説しており、衣食が充足された状況下では必ず起こるものだという。

たしかに闇汁は、旬の食べ物を味わったり、栄養を体に取り入れるための食事ではなく、単純に遊戯だ。それは子どもの頃に「食べ物で遊んではいけません」と叱られた道徳観念と対極にある。その後ろめたさと、だからこその背徳的な快楽を、掲句は気味の悪さのなかに思い出させる。

〈半分がまだ生きてゐる〉は、投じた食べ物であろう。暗闇の中で、半死半生でうごめく謎の食材の気味の悪さと、生きたままに煮えていく残酷さ。しかもそれが食べる側の「ただの遊び」だから、食材にとっては二重に残酷である。

しかしそれでも〈まだ生きてゐる〉という食材側の妙な生命力が光っていて、不屈の笑いのようなものを見せつける。不気味ながらに、それがなんとも面白いのだ。

2013年12月29日日曜日

【新刊】山内令南作品集『夢の誕生日』

【新刊】

山内令南作品集『夢の誕生日』(2013年12月19日・あざみエージェント)


問い合わせ・購入は「あざみエージェント」のウェブへ
http://azamiagent.com/modules/myalbum/photo.php?lid=27

2013年12月28日土曜日

●わたくし

わたくし


わたくしを風景として山眠る  須藤 徹

数へ日のともあれわたくしの居場所  土肥あき子

わたくしの中の老人さくら見る  雪我狂流〔*

わたくしの瞳(め)になりたがつてゐる葡萄  野口る理〔***

わたくしに劣るものなく梅雨きのこ  池田澄子


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より
**野口る理句集『しやりり』(2013年12月・ふらんす堂)より

2013年12月27日金曜日

●金曜日の川柳〔峯裕見子〕樋口由紀子



樋口由紀子






しっかりと長さを見せて蛇通る

峯裕見子 (みね・ゆみこ) 1951~

道端などで蛇に出くわすとびっくりする。さも運が悪かったかのように、「きゃー」と言って、逃げてしまう。ぬるっとしていて、異様な動きのする蛇は嫌われものである。しかし、蛇はそんな対応にもメゲることもなく、自分の姿をしっかりと見せて、ゆっくりと進んでいく。作者もあまり堂々さぶりに感心して、頼もしくなって、怖いのも忘れて見入ってしまったのだろう。

今年は蛇年であった。私の干支も蛇。さて、この一年はどんな年であっただろうか。蛇のようにしっかりと長さを見せただろうか。自分の姿できちんと過ごせただろうか。そう思うとはなはだ心もとない。『川柳の森』(大巧社刊 2000年)所収。

2013年12月26日木曜日

【俳誌拝読】『あすてりずむ』第4号(2013年12月23日)

【俳誌拝読】
『あすてりずむ』第4号(2013年12月23日)


CDケースの半分ほどの大きさ。読みたい人がコンビニで番号を入力してプリントアウトし、折りたたんで冊子にするスタイル(≫番号その他はこちら)。



  白鳥に居場所タクシー無線より  後閑達雄

  唐揚げのごつんごろんと年忘れ  金子 敦

  闇汁の半分がまだ生きてゐる  澤田和弥

  風に鳴る高野豆腐や星あまた  小早川忠義

(西原天気・記)

2013年12月25日水曜日

●水曜日の一句〔柳沼新次〕関悦史



関悦史








除夜の鐘胎児のやうに妻眠り  柳沼新次

「胎児のやうに」の無力、可憐ぶりからも「妻」がもはや普通の体力を保っていないらしいと察せられるが、この句集『無事』は、老老介護の句が中心となっている。

《老妻と蝶の名を言ひ争へり》《病む妻の浴衣さがして日の暮れる》《妻病みて野菊飾らぬ家となりぬ》《マフラーを二人で捲けば死ぬかもよ》《病む妻の白き唇屠蘇祝ふ》《泣く妻をなだめきれずに初日記》等々。

介護経験者であれば誰もが多かれ少なかれ似たような経験はしているはずで、病人がそれまでの生活習慣を全うできなくなって野菊が飾られなくなったり、屠蘇を祝う唇の血色の薄さに目を引かれたり、そして(これが辛いのだが)泣かれたりといった事ども、皆さもありなんと思わされる。

中で《マフラーを二人で捲けば死ぬかもよ》は、介護中の句と知らずとも、「二人で」「死ぬ」の心中を連想させる緊迫感と、「マフラー」をともに捲く行為、肌ざわり、軽さの感覚から、温かい思慕に包まれた切れない深い縁を引き出していて、口語調の向こうに覚悟のほどが透けて見える佳句。

さて掲出句《除夜の鐘~》は一年の終わりの安らぎのひとときを掬い、とりあえず今は荒ぶりも苦しみもせず、眠りについてくれている無力な妻を慈しみをもって包み込む目と、年の終わり特有の一抹のさびしさを伴う満了感、そして同時に立ち上がってくる、この先どうなるのやらという、ともに虚空に浮いているかのような漂遊感のもとに、妻との繋がりを改めてしみじみと感じ取っている。

悲しみばかりではなく、酷な日々の中、愛情を持って責務を果たしている人ならではの、或る満たされた感じがある。


句集『無事』(2013.12 ふらんす堂)所収。

2013年12月24日火曜日

2013年12月23日月曜日

●月曜日の一句〔山田真砂年〕相子智恵

 
相子智恵







冬至粥日はうす皮を剥いでゆく  山田真砂年

「諸家自選五句」(『俳句年鑑』2014年版 株式会社KADOKAWA)より

昨日は冬至だったから、今日からはまた日が長くなりはじめる。〈冬至粥〉とは冬至の日に食べる小豆粥のことで、小豆の赤が邪気を祓うため、昔から冬至に食べて邪気を祓ったという。が、残念ながら筆者は食べたことがない。

〈日はうす皮を剥いでゆく〉という表現が繊細で美しい。力が最も弱まる日の、うすうすとした冬の太陽は、これから薄皮を剥ぎながら、夏至へ向けて少しずつ、少しずつ、輝きを増し、強くくっきりとした光になってゆくのだろう。

丸い椀の中の赤い粥から、同じく丸くぼんやりと光る太陽に転じて、冬至という日がかつて持っていた怖ろしさや、そこから太陽が再生していくことへの希望や願いという、精霊信仰を思い出させた。



2013年12月22日日曜日

●共同募金

共同募金


疲れたる紙幣を共同募金とす  日野草城

社会鍋の喇叭の唾を道へ振る  田川飛旅子

社会鍋ふと軍帽を怖るる日  田中鬼骨

最初から重さうな鍋社会鍋  名村早智子

簡単に口説ける共同募金の子  北大路翼〔*〕


〔*〕『新撰21』(2009年12月・邑書林)より

2013年12月21日土曜日

●運河

運河

廃運河何に波立つ雪の中  水原秋櫻子

花種買ふ運河かがよひをりしかば  石田波郷

行春や機械孔雀の眼に運河  中村安伸〔*

くちびるに夏来る運河しづかなり  皆吉司

食器洗う白き運河に卯波立つ  綾野南志

夾竹桃運河一本鉄のごと  永方裕子

いつまでも運河に雪の溶けゆけり  小野あらた〔**


〔*『新撰21』(2009年12月・邑書林)より
〔**『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より



2013年12月20日金曜日

●金曜日の川柳〔郁三〕樋口由紀子



樋口由紀子






人ごとのような五十が来てしまい

郁三

何歳になっても、あれっ、もうそんな年齢になったのかと思う。年の瀬になると余計にそう思う。それにしても「人ごとのような」とは思いつきそうで思いつかない、うまい比喩である。「人ごとのような」と言いながら、「来てしまい」と含羞をこめて、来し方行く末をしんみり考えたのであろう。

掲句は少なくとも五十年以上前に作句されている。その当時の五十歳と今の五十歳ではその感慨に大きな開きがある。今ならさしずめ七十歳、いや八十歳ぐらいだろうか。その当時の五十歳を客観的にもうまく捉えている。そして、今読むと当時の五十歳の心境も印象も状況もなんとなくわかるような気がする。川柳はこんな役割も担っている。『番傘一万句集』(創元社刊 1963年)所収。

2013年12月19日木曜日

●トランプ

トランプ


トランプのジャックの顔のいなごかな  石田郷子

つまみたる夏蝶トランプの厚さ  高柳克弘

トランプのダイヤに似たる夏ごころ  阿部青鞋

賑やかな骨牌(カルタ)の裏面(うら)のさみしい絵  富澤赤黄男




2013年12月18日水曜日

●水曜日の一句〔五十嵐義知〕関悦史



関悦史








木の扉軋みて青葉時雨かな  五十嵐義知

「青葉時雨」は、青葉した木々に降りたまった雨がぱらぱら滴り落ちることをいうらしい。個人的には、大江健三郎の『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』以来なじみ深いイメージだが、季語としては使ったことがなかった(いろいろあるものだ)。

ただし句中の「青葉時雨」は大江作品のような寓意を担っているわけではない。

「木の扉」は加工されて建材となったとはいえ、元は木であって、いくばくかの生命感は残る。

「軋む」となると、声をあげているようでもあって尚更だ。

いわば「道具」と「生物」の中間にあるような物件だが、そうしたことを感じさせるのは、それと照応しあう「青葉時雨」も中間的な要素、つまり、青葉としての生命感を湛え、水滴を散らしながらも、今現在雨が降っているというわけではなく、青葉自身が水を湧きださせたものでもないという時差と変容の要素を含んでいるからである。

はっきりとは描かれていないが、作中の語り手が木の扉を押し、結果として揺れた木から滴が散ったと取るべきなのだろうか。それとも扉は風か自重で勝手に軋んだだけなのか。

「押せば軋みて」「開けば軋み」といった書き方がなされていれば語り手の動作によると明瞭にはなるが、この語り手の希薄さも「木の扉」「青葉時雨」の中間性にふさわしいものと思える。

扉となった木と、雨滴を散らす青葉とが湛える二種類の異なる時間の経過感と、清冽ながら静かに混みあう生動感を掬うには、こうした希薄な主体の浸透が必要とされたのだ。


句集『七十二候』(2013.12 邑書林)所収。

2013年12月17日火曜日

●ミルク

ミルク

非常口はミルクの膜の破れ目に  須藤 徹

寒さは若さ朝のミルクに膜生れて  川口重美

死を遁れミルクは甘し炉はぬくし  橋本多佳子

花嫁のしるくミルクの深紅かな  攝津幸彦

2013年12月16日月曜日

●月曜日の一句〔小川楓子〕相子智恵

 
相子智恵







山があり山影のあり いちまい  小川楓子

「かうばしい」(『つばさ』2013.12月号/特集:ガールズ・ポエトリーの現在)より。

ひとつの山がある。そこにひとつの山影ができる。〈いちまい〉が山影にかかるとすれば、山から伸びた影が一枚、ぺたりと地に貼り付いているということになるし、〈いちまい〉が山と山影の両方にかかるなら、山と山影のある風景そのものが、一枚の切り絵のようにぺらぺらになる。私は後者の想像をした。

上五から中七までは山影の効果もあって、風景は妙に立体的に想起されてくるのであるが、一字空けをした下五の〈いちまい〉によって、頭の中の山と山影は、一気に「ぺしゃん」と潰れてその質量を失ってしまう。

一字空けの「間」の効果と、〈いちまい〉の「字足らず」の効果は、ちょうどジェットコースターに似ている。ジェットコースターが落ちる寸前の、頂上にいる絶妙な何秒間かが一字空けで、そこから一気に滑り落ちるスピード感が字足らずである。〈いちまい〉には、そんな爽快な破壊力があった。

この句に季節を表す語はないのだが、〈いちまい〉で、なぜか色まで失うような気がして、私の心の中にはぺらぺらの、モノクロの冬の山が想像された。

2013年12月15日日曜日

【俳誌拝読】『蒐』第13号

【俳誌拝読】
『蒐』第13号(2013年11月23日)


発行人:馬場龍吉、編集:鈴木不意。A5判。本文(カラー)20頁。

同人各氏より1句ずつ、気ままに。

大南風キリンにつむじ覗かれし  中嶋憲武

手のなかを扇のあそぶ帰郷かな  馬場龍吉

ひやひやと登りて狭き手術台  太田うさぎ

波すこしなだめて覗く箱眼鏡  菊田一平

プールサイドは眠たし荷物番をして  鈴木不意

(西原天気・記)




2013年12月14日土曜日

●インバネス

インバネス


子に靴を穿かすインバネス地に触り  山口誓子

インバネス戀のていをんやけどかな  八田木枯

インバネス飛び立ちさうな名前なり 谷雄介

2013年12月13日金曜日

●金曜日の川柳〔元禄〕樋口由紀子



樋口由紀子






心配もこたつですると眠くなり

元禄

子どもの頃からこたつは好きだった。学校から帰るとすぐにこたつに入った。こたつに入ると身体と同時にこころも温まり、緊張がとけて安心し、にんまりしていた。

先週紹介した〈6俵を321と積み上げる〉は目にした事実を句にしていたが、掲句は経験した事実を句に仕上げている。こたつに入ると身体がぽかぽかし、ほっとして眠くなるのは知っていたが、心配事があるときでもそうだったのだ。

「心配」の本質と「こたつ」の効用を川柳的というか、斜交いに、違う角度からうまく言い当てている。今でもこたつが好きで、秋の初めにこたつを出し、ゴールデンウイーク頃まで仕舞わないでいる。こたつは足から温まる、そこがいい。『番傘一万句集』(創元社刊 1963年)所収。



2013年12月12日木曜日

2013年12月11日水曜日

●水曜日の一句〔佐々木貴子〕関悦史



関悦史








中空の0おごそかに回転す  佐々木貴子

場所は「中空」である。上下前後左右にはさしあたり何もなく、何によっても支えられていない。

「0」も非実体であり、中空のなかの非実体が描かれていることになるが、それはしかし回転という運動性と動因をも持っている。

実体のない中の動きとなると中観仏教の「縁起」や「空」を連想させられもするのだが、この句の特徴はそれを寓意を背負った実体的イメージとしては表しておらず、代わりに「0」という記号を直に現前させてしまっていることだ。

記号が物と同じ実体感をもって現前するこの夢の中のような非-世界になめらかに量感を与えているのが「おごそかに」だが、この「おごそかに」は同時にちょっとユーモラスでもあり、この光景を目にした語り手の身体と戦慄を思うと、ニュー・ウェーブに影響を受けた川又千秋や、言語実験的作品を書いていた頃のかんべむさし等のシュルレアリスティックなSF作品に通じる味わいも出てくるのである。

こんな「世界の真理」の如きものが安手のガジェットよろしく目の前に在って回転していることの、陰鬱でしかし突き抜けた啓示的感覚。それはSF小説やアニメの表現の数々に通じるところを持ちながら、そうした想像力の基底に触れているようでもあり、どこか懐かしさをも感じさせる。

なお句集『ユリウス』はこの他にも《宇宙船無音で滑る枯野道》《箒木に百億の昼絡まりぬ》《焼鳥の串一本が宇宙の芯》等、SF的なものとの親和性を示す句を少なからず含んでいる。


句集『ユリウス』(2013.11 現代俳句協会)所収。

2013年12月10日火曜日

●尿意

尿意


目薬をさせば尿意や冬籠  林雅樹〔*

猿の芸見てゐて寒き尿意かな  鈴木鷹夫

ピカソ忌の萩寺尿意しきりなり  塚本邦雄


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年12月9日月曜日

●月曜日の一句〔鍵和田秞子〕相子智恵

 
相子智恵







鷹放つ山の骨相あらはなり  鍵和田秞子

「2013年100句選 高野ムツオ選」(『俳句年鑑』2014年版 株式会社KADOKAWA)より

きりりとした句だ。山の骨組みがあらわに見えているというから、山じゅうの木の葉が落ちた、裸木ばかりの冬の山なのだとわかる。葉が茂っている春から秋にかけての山とくらべて、全山の木の葉が落ち、ひとまわり小さくなった、枝ばかりのゴツゴツとした冬の山は、なるほど肉の落ちた骨ばった人体のようで、〈山の骨相あらは〉という表現に驚きつつも納得した。

そして〈鷹放つ〉。鷹匠が放ったのだろう。力強く飛び立った鷹を追う視線の先に、骨相があらわとなった冬の山が聳え立つ。一点の鷹の色とその鷹が向かう大きな山の色とが響きあい、〈鷹〉と〈骨相〉の硬いK音もまさに対峙するように響き合っている。力強く堂々とした一句である。



2013年12月8日日曜日

●12月8日

12月8日

十二月八日
(月曜 晴 温)岸井君が、部屋の扉を半開きにしたまま、対英米宣戦のニュースを知らせてくれる。そら来た。果たして来た。コックリさんの予言と二日違い。
 帳場のところで、東条首相の全国民に告ぐる放送を聴く。言葉が難しすぎてどうかと思うが、とにかく歴史的の放送。身体がキューッとなる感じで、隣りに立つてる若坊が抱きしめたくなる。
 表へ出る。昨日までの神戸と別物のような感じだ。途から見える温室の、シクラメンや西洋館まで違つて見える。
 阪急会館は客席ガラ空き、そこでジャズの音楽など、甚だ妙テケレンだ。花月劇場も昼夜ともいけない。夜は芝居の途中から停電となる。客に演説みたいなことをして賛成を得、蝋燭の火で演り終る。
 街は警戒管制で暗い。ホテルに帰り、今日の戦果を聴き、ただ呆れる。
徳川夢声『夢声戦争日記』(中央公論社昭和35年)

十二月八日(月曜)
 日米開戦 米英両軍と戦闘 宣戦布告。
 昨夜十二時に床に入ったが寝られない、朝起きつゞきで悪いくせがついた。今日がゆっくり故、薬はのまぬことにして、ガンばったが二時すぎ迄知ってゐた。十一時起される。起しに来た女房が「いよいよ始まりましたよ。」と言ふ。日米つひに開戦。風呂へ入る、ラヂオが盛に軍歌を放送してゐる。食事、ラヂオは、我軍が既に空襲や海戦で大いに勝ってると告げる。一時開始といふことで十二時半迎への車で出る。砧へ行く迄の道、ラヂオ屋の前は人だかりだ。切っぱつまってたのが、開戦ときいてホッとしたかたちだ。砧へ行くと、今日は大衆でエキストラの汚い爺婆がうようよしてる。平野・斉藤・堀井・上山と出張して来て、相談--然し、正月興行も、日米開戦となっては色々考へねばならないし、今日の気分では中々考へがまとまらず。所前のしるこ屋でくず餅を食ひ、ラムネのみて話し、それから三時迄待たされ、三時から支度して、芝居小屋のセットへ入ったら、暫くして中止となる。ナンだい全く。昨日の大衆撮影で、二階のセットが落ちて、怪我人を出した。エキストラが怪我したので、今日はコールしても恐がって来ないさうで、大入満員の芝居小屋が、エキストラ不足のため、一杯にならないため、中止となったのであるが、何もそれが分っていれば、僕までカツラつけさしたり、衣裳つけさせたりしなくてもよさゝうなものだ。こゝらが撮影所のわけの分らぬところである。此うなると、たゞ自動車賃貰ひに来たやうなもの。開戦の当日だ、飲みにも出られないから、山野・渡辺を誘って家へ帰る、途中新宿で銀杏その他買ふ。燈火管制でまっくら。家で、アドミラルを抜き、僕はブラック・ホワイトを抜いて、いろいろ食ふ。ラヂオは叫びつゞけてゐる。我軍の勝利を盛に告げる。十時頃皆帰り、床へもぐり込む。
『古川ロッパ昭和日記・戦中篇』(晶文社1987年)



2013年12月7日土曜日

●タイヤ

タイヤ


昭和終るタイヤが咥えたる石と  鈴木六林男

かの死者の股ですそれはタイヤの山  八木三日女

首筋にタイヤの臭いさせて夜  湊圭史〔*〕
 

〔*〕『川柳カード』第4号(2013年11月25日)より。



2013年12月6日金曜日

●金曜日の川柳〔日本村〕樋口由紀子



樋口由紀子






6俵を321と積み上げる

日本村

私は農家生まれなので、祖父や父が収穫時に米俵を積み上げる姿を見て、育った。確かに6俵なら、まず3俵で、その上は米俵と米俵の間に2俵、次も間に1俵を積む。3俵の上に3俵でも、2俵2俵2俵と、縦に積み上がるのではなかった。ピラミッド型に米は備蓄されていた。米俵の形状や米の習性でその方が安定するからだったのだろう。綿々と引き継がれてきた人の知恵である。

人の行う作業を、目にしたものを見事なまでにくっきりと切り取っている。無駄がなく、演出もなく、装飾もなく、それでいて要領を得ている。簡潔ゆえに生き生きと活写している。積み上げられた米俵がくっきりと鮮やかに目に浮かぶ。その景はこの上なく美しかったのだろう。『番傘一万句集』(創元社刊 1963年)



2013年12月5日木曜日

●本日はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト忌

本日はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト忌





馬刺したべ火事の匂いがしてならぬ  金原まさ子


2013年12月4日水曜日

●水曜日の一句〔高野ムツオ〕関悦史



関悦史








落葉溜りあるべし日本海溝に  高野ムツオ

なぜこんなことを推量したのかわからないが、個人的な心情の暗喩ではないだろう。そう思わせるのは落葉が一枚ではなく複数が溜まっているからである。

落葉が海底に達することはあるのかもしれないが、日本海溝となると隔絶の度合いが尋常ではない。

報われず、かえりみられない民族的規模の集団の運命といったものを思わせるが、そこにある感情は、悲しみとも、人知れず身を寄せ合っての安寧ともつかない、少々名状しがたいものだ。

三島由紀夫が武田泰淳に評される体験を「引導を渡される」と表現して、彼岸的な価値観に照らし出され、泣きたいようなありがたいような何とも言えない気持ちになる独特の体験とどこかで語っていたように思うが、この隔絶した深海に積もる落葉も、片がつかないものを抱えつつ、異界独特の安らぎに照らされているような気もする。

そして列島のすぐ脇に、そういうタンギーの絵のような静かな生気と超現実味を持つ深い裂け目が走っていることを急に意識させられるのだ。

東日本大震災以前の作。


句集『萬の翅』(2013.11 角川学芸出版)所収。




2013年12月3日火曜日

●電話

電話


受話器からおじやこぼれる理屈です  佐山哲郎

電話ボックス冬の大三角形の中  今井聖

鶏交るしろき受話器に中毒して  攝津幸彦

明日会ふ人の電話や春の月  小川軽舟

電話鳴る野分のあとの明るさに  矢口晃〔*

月光の差し込んでゐる電話かな  石田郷子

三田二丁目の秋ゆうぐれの赤電話  楠本憲吉

受話器冷たしピザの生地うすくせよ  榮猿丸




〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より



2013年12月2日月曜日

●月曜日の一句〔長嶺千晶〕相子智恵

 
相子智恵







赤松のうろこ乾びて流行風邪  長嶺千晶

-blog 俳句空間-戦後俳句を読む「平成二十五年 冬興帖 第四」(2013.11.22更新)より

〈赤松のうろこ〉とは、うろこ状にひび割れた赤松の樹皮のことだろう。赤くひび割れ、ぽろぽろと乾いてはがれたりもする赤松の樹皮と〈流行風邪〉との、不思議とアンニュイな取り合わせに眼が留まった。

流行風邪に罹患した人が赤松のある場所を歩いているのか、流行風邪に臥せっている窓からぼんやりと赤松を眺めているのか、状況は見えてこないものの、赤松の赤くカサカサとひび割れた樹皮と、鼻や喉の粘膜が荒れ、咳やくしゃみと一緒に、体から水分が抜け出ていってしまうような〈流行風邪〉の様子とが、遠いところで妙に響き合っている。乾燥した冬の空気も感じられてくる、良い意味でヘンな取り合わせである。

2013年11月30日土曜日

●絶望

絶望


一木の絶望の木に月あがるや  富沢赤黄男

青い薔薇あげましょ絶望はご自由に  池田澄子

人もつと困る溜息を吐き桜絶望のように散る  橋本夢道

僕たちの絶望は俳句の死などではなく、俳句の緩慢な生にこそある。僕たちにとってより切実な課題は、だから、俳句が目の前にあることに戸惑いを感じるたびに、俳句を選択し続ける根拠をいかに見出すのかということだ。そしてその根拠の発見は自分と俳句との関係をその都度問い直す作業によるほかないのである。
外山一機「通行という戦略」
http://haiku-space-ani.blogspot.jp/2010/07/blog-post_18.html

2013年11月29日金曜日

●金曜日の川柳〔絃一郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






取り替えてやりたいような鼻に会い

絃一郎

映画「清須会議」を観た。秀吉一族の特徴は耳が大きく、織田家一族は鼻が高かったらしい。織田家の面々に扮した俳優は特殊メイクで鼻を高くしていた。しかし、織田信長の弟役の伊勢谷友介は鼻が高くてりっぱで、そのまんまでよかったらしい。作者はイケメンの伊勢谷くんのような人に出会ったのだろう。

「取り替えてやりたい」は相手の身になってそうしてあげたいというやさしい心持ちの表われとも読むこともできる。が、私は相手の鼻が素敵で、自分の鼻と取り替えたいくらいだという、うらやんでの「やりたい」だと思う。それだけの鼻に出くわしたのだ。

昭和38年に『番傘一万句集』、昭和58年に『続番傘一万句集』、平成15年に『新番傘一万句集』が出版されている。その中で昭和38年版に一番おもしろい川柳が多い。川柳のよき時代だったように思う。しかし、昭和38年版には作者の下の名前しか載っていなく、それ以外は何もわからない。『番傘一万句集』(創元社刊 1963年)

2013年11月28日木曜日

●続・秒針

続・秒針


秒針のかがやき進む黴の中  津久井健之〔*

かなかなや鏡を逆にゆく秒針  澁谷道

秒針の吹矢山火事濃く残り  林田紀音夫

震度5の揺れ秒針は立春へと  渡邉とうふ


過去記事「秒針」
http://hw02.blogspot.jp/2013/09/blog-post_10.html

〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より




2013年11月27日水曜日

●水曜日の一句〔玉田憲子〕関悦史



関悦史








かぶさりくる冬の星星豚生る  玉田憲子

大いなる自然の流れのなかで、星々のきらめきに祝福されての生誕というには、「かぶさりくる」の重量感はあまりにも不穏だ。「冬の星星」であることも冷厳さの印象を強める。

この豚は育った後で食われてしまうのかもしれないが、しかしこの句の冷厳さは、そうした陳腐な情緒とは明確に一線を画している。

一句は生命誕生の神秘と末路の悲惨さの両方にまたがりつつ非情な肯定を下し、豚の誕生を荘厳する。

豚は詠み手の自己投影や自己憐憫では全くないが、かといって他人事として同情が寄せられているわけでもない。

豚と詠み手は厳然と違いつつ、同じ立場を分有してもいるのである。その認識が、情を述べないこの句の背骨を成す。


句集『chalaza(カラザ)』(2013.8 金雀枝舎)所収。




 

2013年11月26日火曜日

〔おんつぼ48〕ロナルド・ジェンキーズ 小津夜景

おんつぼ48

ロナルド・ジェンキーズ
Ronald Jenkees


小津夜景

おんつぼ=音楽のツボ


私は、あまり音楽を知らない。Soundcloud や bandcampが生まれてから、ミュージシャンがレーベルというものに無関心になり、私のような素人には新しい音楽がますます探しづらくなった。そんな中、実弟から教えてもらったのがロナルド・ジェンキーズ。三年ほど前のこと。

おんつぼ的には「Guitar Sound」が抜群。



この曲の面白さをかいつまんで言うと、まず一番目にジャンルの折衷ぶり。一見インテリっぽい感じのテクノなのに、ギターで弾いてみると実は思いっきりガンズ&ローゼズだった、といった仕掛け(?)が、ほほえましい、というか、胸にぐっとくる。さらにピアノで弾いた場合は完全なスティーヴ・ライヒになるところも、何か、変身系のオモチャみたいで愉しい。

フルーティループスを使って、1〜2小節のループをずっと鳴らしながら音を足したり減らしたりしつつ、そのループを少しずつ増やしてゆくといった作曲法は、この時期わりと流行してしたようだ。その中でも彼は、ダントツの折衷的才能でもって、素敵なスコア・デザインをする人。

で、面白さの二番目は、彼の使っている「音」がとても新しいこと。この人はPC98やメガドライブ世代特有の、音響に対する一種「野良っぽい」出自&感性を、ミュージック・シーンにまるごとすっきり移植しえた数少ない一人なのではないでしょうか。

Disorganized Fun とか



Throwing Fire とか



わかりやすいのを挙げれば、こんな感じ。

ヘッドフォンをして一人でアルバムを聴いていると、どんな「使えない」ひどい音も他の音と等価なデータベースとして扱われているのがわかる。彼のそんな(奇妙な非人情ともいえる)ヒューマニズムにはたまらなくアートを感じるし、またそれとは逆に、もともとのテクノというのは、音に対するこの手のユーモアや粗暴さのない、つまりは(趣味と選別の良さを披露する)ナイーヴな教条主義だったんだなーと(もちろん、それは当時から、隠された秘密でもなんでもなかったのだけれど)、ちょっと思ったりもする。


2013年11月25日月曜日

●月曜日の一句〔矢野孝久〕相子智恵

 
相子智恵







活字組み替へ木枯となりにけり  矢野孝久

句集『風の断面』(2013.6 私家版)より。

一読、〈活字〉〈組み替へ〉〈木枯〉〈けり〉のK音が響く。この硬い音が、活版印刷の活字の、鉛版の金属の冷たさと、木枯の冷たさという句の内容を強く印象付けているように思った。

〈活字組み替へ〉〈木枯となりにけり〉という全く関係の無い二物の取り合わせも詩的に響き合っていて、全体を貫く硬い音の響きとあいまって、寒く、凛とした冬の世界を形成している。また冷たさの中に、どこか懐かしさもある。解説の付けようがない句であるが、美しく印象深くて惹かれた。

 つい最近、活字拾いのボランティアの記事(http://www.1101.com/watch/2013-11-07.html)を読んだ。全く関係ないが、そのことも思い出された。

2013年11月24日日曜日

●続・地獄

続・地獄


若き胃の薔薇色地獄牡蠣沈む  馬場駿吉

ばら紅し地獄の先は何ならむ  油布五線

八月や地獄の沙汰の黒たまご  水原春郎

ひらがなの地獄草紙を花の昼  恩田侑布子

君地獄へわれ極楽へ青あらし  高山れおな

蟻地獄孤独地獄のつづきけり  橋本多佳子


≫過去記事「地獄」
http://hw02.blogspot.jp/2013/08/blog-post_22.html


2013年11月23日土曜日

●本日はルイ・マル忌

本日はルイ・マル忌



Zazie dans le Metro(1960) 全篇 1:28:31



2013年11月22日金曜日

●金曜日の川柳〔岸本吟一〕樋口由紀子



樋口由紀子






こんにちわさよならを美しくいう少女

岸本吟一 (きしもと・ぎんいち) 1920~2007

秋晴れが続く。こんな日にこんな少女と出会ったら、こころがさらに晴れわたる。「美しくいう」がなんともよい。

あいさつをしなくなったと思う。一昔前まで道で人に出会うと挨拶をしたものである。そんなに親しくなくても、知らない人であっても、あいさつを交わした。「こんにちは」「さよなら」、きれいな日本語である。イントネーションもよく、やわらかく、こころが和む。人は人と触れ合うことによって育っていく。人を豊かにするのは人である。

吟一は日本最大の結社「番傘」を築いた岸本水府の長男。彼自身も昭和53年から57年まで番傘主幹に就任している。また、映画のシナリオライターであり、「東京フイルム」の代表者として、映画制作を行っていた。そのせいでもないが、掲句からも映像が浮かぶ。少女はきっと可憐でかわいいだろう。

2013年11月21日木曜日

●続・眼帯

続・眼帯


眼帯のうちにて燃ゆるカンナあり  桂信子

眼帯をして飛魚を喰っている  大石雄鬼

黒い眼帯してあつまれよ翡翠に  飯島晴子

まつしろな眼帯をして野にゐたり  渡辺白泉

眼帯の中の目ぬくし黄落期  角谷昌子〔*〕

眼帯の中で目覚めている寒夜  対馬康子


≫既存記事「眼帯」
http://hw02.blogspot.jp/2011/12/blog-post_07.html

〔*〕角谷昌子『地下水脈』2013年10月/角川書店



2013年11月20日水曜日

●水曜日の一句〔渡辺誠一郎〕関悦史



関悦史








干大根みんなピアノになるために  渡辺誠一郎

一見、詩的直観のみで予想外なもの同士が結びつけられた、飛躍の自由感を楽しめばよい句とも見えるが、干されている大根は垂直にであれ水平にであれ、何十本もがずらりと方向を揃えて日にさらされているものであり、言われてみればピアノの弦のように見えなくもない。

ただし干大根とピアノの弦が似ているという比喩的な関係を物に帰着させて一句にしおおせてしまった場合、その表現は例えば「ピアノの弦の如きかな」といった、およそ冴えない代物となるはずで、この句においては両者の類似の発見は、いわば大前提の部分をなしているに過ぎない。

干大根たちは意志を持ち、ピアノになろうとしている。

その意志と期待の感覚、そしてその果てに奏でられるありえない楽音といったものたちが全て日を受ける干大根の輝かしさへと転化されているのである。ただし修辞による物の再現が眼目になっているわけではない。これはアニミズムというよりは、干大根の形状、様態から導き出される感覚に内在的に同調することで成り立っている句であって、それを詠む=読むときには読者の側も人間ではなくなっている。その愉しさがこの句の核心にある。

われわれは俳句を読むとき、ピアノになる潜在性を秘めた干大根といった、わけのわからないものでも在り得るのだ。


句集『数えてむらさきに』(2004.11 銀蛾舎)所収。

2013年11月19日火曜日

●財布

財布


鳥ぐもり母の財布のおそろしや  渋川京子〔*

芝畠の皮の財布よ眠れかし  攝津幸彦

瓢と財布春の別れを対し泣く  尾崎紅葉

蛇の衣入れたる財布ふくらみぬ  名久井清流

落ちてゐるのは帰省子の財布なり  波多野爽波


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年11月18日月曜日

●月曜日の一句〔ふけとしこ〕相子智恵

 
相子智恵







懐炉欲しざつとほぐしておく卵  ふけとしこ

WEB「詩客」(2013.11.15号)「雨脚」より。

〈懐炉欲し〉と〈ざつとほぐしておく卵〉という、まったく関係のない二つが無造作に置かれたように見えながら、この二つの響きあいによって寒々とした厨の風景が浮かんでくる。プラスチックパックの中の冷たい卵を取り出して割り、どろんとした黄身を箸でぷっつりと破り「ざっと」粗くほぐす。黄身と白身は完全に混ぜ合わさることなく、まだ黄色と透明のまだらになったままだ。

卵焼きのように卵が料理になればどこか温かみを感じるのに、生卵には絶妙な寒さを感じるのはなぜだろう。〈懐炉欲し〉がしっくりくるのである。〈ざつと〉の〈ざつ〉の素早い音も冷たさを感じさせる。ざっとほぐされただけの、まだらな卵は、まだ冷たい銀色のボウルの中にある。実験を待つ一個の壊された細胞のように。

まこと、懐炉がほしくなる寒さの句だ。

2013年11月17日日曜日

【新刊】ひらのこぼ『俳句発想法歳時記〔冬・新年〕』

【新刊】
ひらのこぼ『俳句発想法歳時記〔冬・新年〕』

2013年11月16日土曜日

●忍者

忍者


夜の凍滝無数の忍者攀じのぼる  田辺香代子

双六の忍者の伊賀を一跳びに  下村ひろし

梅雨寒し忍者は二時に眠くなる  野口る理〔*1〕

昼の忍者桜を見たら眠くなる  長嶋肩甲〔*2〕

電車忌の忍者の雨の眼鏡かな  忌日くん〔*3〕


〔*1〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より
〔*2〕長嶋肩甲『健康な俳句』(2004年)
〔*3〕忌日くん「をととひの人体」

2013年11月15日金曜日

●金曜日の川柳〔宮田あきら〕樋口由紀子



樋口由紀子






垂直に沈む艦(ふね)までとどかぬ 手

宮田あきら (みやた・あきら) 1923~1986

「艦」だから、戦いに用いる船であろう。やぐらかどこかの上から見おろす大きな軍艦。その軍艦が沈む。戦争映画などで船首を垂直にたてて、沈む軍艦を見たことがある。ぐんぐんと瞬時に沈没する。

一字空けのあとの「手」が意味するものは何か。人間の手でも、神の手でも、沈みはじめると、それはもうどうすることもできない。「手」の示唆するものはあまりにも多い。戦争は始まってしまったら、誰にもどうすることもできない。

宮田あきら小学校の頃から句会に出席し、甫三・豊次・あきらの宮田三兄弟として、京都の川柳界で活躍した。生涯、川柳革新運動に挺身した。〈三十年の反旗を巻けば 孕む眼球〉〈テレビ受像 マラソンランナー掌を挙げて落下(おち)〉

2013年11月14日木曜日

【俳誌拝読】豆句集『みつまめ』その三粒目

【俳誌拝読】
豆句集『みつまめ』その三粒目(2013年立冬号)


A6判、本文16頁。頒価300円。てのひらにほぼ収まるくらいの小さな冊子。井上雪子、梅津志保、西村遼3氏による俳句作品(それぞれ15句)のほか、鑑賞文、吉野裕之氏(「プロデューサー」名義)による短歌と俳句を掲載。

脱ぎ捨ていちにちどこからが月光  井上雪子

嵐と嵐とあいだ月とバス停は  西村遼

あたらしき金魚放ちて水動く  梅津志保


問い合わせ・詳細ほか(PDFファイルの表紙+本文ダウンロードも可)

(西原天気・記)

2013年11月13日水曜日

●水曜日の一句〔中原道夫〕関悦史



関悦史








火事跡の湯気荘重に朝日かな  中原道夫

たまたま数日前に筆者の家のすぐ近くで本当に火事があり、貸家が一軒全焼してしまった。

夜間のことで消火活動中は下から火に照らされた煙が盛大に上がっていたが、翌朝この句のとおりになっていたかどうかは確認しなかった。

それはともかく、近所が火事で全焼するのはこの二十年くらいに限っても既に三件目である。他人事のようだが、かなり身近な惨事でもあるのだ。

炎上している最中には、人々が集まる。まずはどこが焼けているのかを確認しなければならない。知人の住まいか否か、怪我人はいないか、自宅への延焼がないか。

危険度の確認等が終わっても容易には帰れない。

突如顕在化した滅びの姿にあてられてしまうのだ。

たとえ小さな民家一軒であったとしても、焼けたとなると途端にこの世の真理を体現したかの如く、ギリシャ建築のように「荘重」なものになってしまうのである。

この句、何ごとかを成し終えたかのごとく、焼け跡の「湯気」となって朝日にさらされ、初めて「荘重」となり得た物件を諧謔的に描いている句には違いないのだが(この「かな」止めの馬鹿馬鹿しくも荘厳な決まりようはどうであろうか)、下五の朝日は「祭のあと」の明晰さをもってさわやかに湯気とぶつかり、小さな滅びをも呑み込んで進む日常の再開を告げ知らせつつ焼け跡を照らし尽くし、やや酷だ。

湯気のように重厚で、大理石のように軽薄な滅びの姿それ自体もたちまち消え去っていくのである。


句集『百卉』(2013.8 角川書店)所収。

2013年11月12日火曜日

●誕生日


誕生日


煙草消す露金剛の誕生日  角川源義

独房に林檎と寝たる誕生日  秋元不死男

誕生日飯食い始む星座の前  金子兜太

逆さまの椅子がずらりと誕生日  五島高資

どくだみの十字に目覚め誕生日  西東三鬼

蟻と同じことを考えている誕生日  鈴木瑞恵〔*〕


〔*〕『豈』第55号(2013年10月)第2回攝津幸彦記念賞・準賞受賞作「無題」より

2013年11月11日月曜日

●月曜日の一句〔本宮哲郎〕相子智恵

 
相子智恵







障子張り替へて薄暮の水の音  本宮哲郎

句集『鯰』(2013.10 角川書店)より。

一読、しみじみとした。障子を張り替えてほっとした黄昏、その障子越しに、うっすらと薄暮の光が入ってくる。ほわんと黄色っぽい、やわらかな冬の光だ。そこに水の音が聞こえている。庭の井戸や池などの水音だろうか。あるいは近くに小川でもあるのかもしれない。いずれにせよこの水の音は、きっとささやかな音だろう。だんだん目が効かなくなってくる夕暮れに、目と交代するように、耳がよく聴こえてくるのだ。

障子の張替えという日常の一仕事を終えたささやかな充足と、全体が夢の中であるような、やわらかな光と音の風景。日常の中に詩の扉があるとすれば、こういう一瞬のことなのかもしれない。

2013年11月10日日曜日

【評判録】金原まさ子『カルナヴァル』〔続〕

【評判録】
金原まさ子『カルナヴァル』〔続〕


≫承前01 評判録 on twitter
≫承前02 評判録

≫:575筆まか勢
http://fudemaka57.exblog.jp/20680577

≫:栗林浩のブログ
http://ht-kuri.at.webry.info/201307/article_6.html

≫金原まさ子『句集カルナヴァル』とハリー・ポッターシリーズ:雨音につつまれて
http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20130520/p1

≫祭り囃子はまだ遠きー金原まさ子句集『カルナヴァル』あとがきより発想を得て:雨音につつまれて
http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20130910/p1

≫小津夜景 へテロトピアとその悲しみ:週刊俳句・第340号(2013年10月27日)
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/10/blog-post_7385.html

2013年11月9日土曜日

●バター

バター


金塊のごとくバタあり冷蔵庫  吉屋信子

かげろふやバターの匂ひして唇  小澤實

パンにバタたつぷりつけて春惜む  久保田万太郎

思ひ出すまで邯鄲といふバター飴  小津夜景〔*〕

〔*〕『豈』第55号(2013年10月)第2回攝津幸彦記念賞・準賞受賞作「出アバラヤ記」より(前書割愛)



2013年11月8日金曜日

●金曜日の川柳〔麻生葭乃〕樋口由紀子



樋口由紀子






飲んでほし やめても欲しい酒をつぎ

麻生葭乃 (あそう・よしの) 1893~1981

お酒の美味しい季節である。秋の夜長、ついつい飲みすぎてしまう。夫が機嫌よくお酒を飲んでいる。しあわせそうな顔をしている。このままずっとその気分のままで飲ませてあげたい。しかし、深酒は身体によくない。明日にも差し障る。あと一杯だけと思いながら、つい酌いでしまう。

麻生葭乃は「川柳雑誌」(後の「川柳塔」)を創刊した麻生路郎夫人。路郎の川柳活動を支え、四男五女を育てた賢婦人である。彼女自身も明治末年から川柳を書き、「川雑婦人の会」などで女性作家を指導、尽力した。

葭乃自身もお酒を嗜んだらしい。だから、いっそう酒のうまさもこわさもわかっていたのだろう。〈福壽草松にしたがいそろかしこ〉〈悪人へ陽は燦々と惜しみなく〉『福壽草』(1955年 川柳雑誌社刊)



2013年11月7日木曜日

●広辞苑

広辞苑


膝掛と天眼鏡と広辞苑  京極杞陽

広辞苑重し鷺草の鉢は軽し  安住 敦

ざらざらの広辞苑あり北風に  花尻万博〔*〕

〔*〕『豈』第55号(2013年10月)第2回攝津幸彦記念賞・正賞受賞作「乖離集(原典)」より(前書割愛)


2013年11月6日水曜日

●水曜日の一句〔日下節子〕関悦史



関悦史








今日のやうな明日でありたき寒夕焼  日下節子

漠然とした不安と緊張が漂っている。

無事には済まない、今日のようでない明日がいつかは必ず来る。

それを知りつつ、今日一日が無事に過ごせたことへの感謝や満足も、句にはあらわれている。

不安と自足がともにあらわれているのは、寒さ、明るさ、一日の終わりをあわせ持つ「寒夕焼」のためだが、ここまでは比喩を読み取ったというだけのことだ。

寒さに包まれた夕焼けは、その赤さの中に意識を引き込むような力を感じさせる。その力が、「今日のような明日」をという願いの「持続」性と響きあう。


句集『店蔵』(2013,10 角川学芸出版)所収。

2013年11月5日火曜日

●本日はジャック・タチ忌

本日はジャック・タチ忌

Traffic


House


Kitchen

2013年11月4日月曜日

●月曜日の一句〔渡辺松男〕相子智恵

 
相子智恵







別の世へうつらば別の紅葉かな  渡辺松男

句集『隕石』(2013.10 邑書林)より。

花はこれから実る生命力に満ちた美しさだが、紅葉はこれから枯れて落ちる前の美しさで、だから私は毎年紅葉を見るたびに、美しいけれどどこか抜け殻のような、その華やかな赤色の中に死のにおいがするような気がして、薄ら寂しく思ってきた。

掲句の〈別の世〉に、そんなことが思い出された。ここではない〈別の世〉に移ったならば、そこには〈別の紅葉〉がある。その紅葉を見、また別の世へ移ったなら、また別の世の紅葉が……どこまでも定まらない無限の〈別の世〉への移動と、そのたびに死の直前の美しさを放つ紅葉を見続ける寂しさ。無常で空虚で、でもとても美しい一句である。

2013年11月1日金曜日

●金曜日の川柳〔東川和子〕樋口由紀子



樋口由紀子






私より古いお皿がまだ割れぬ

東川和子(ひがしがわ・かずこ)1948~

「ある、ある」と大きくうなずいた。そんなお皿が我が家にもたしかにある。私がこの家に嫁いでくる前から食器棚に鎮座していたお皿を今も使っている。食器棚の方は何度も新しくなっているのに。昔の食器は丈夫で味があり、使い勝手がいい。何よりも割れないと捨てられない。いい加減に割れてほしいとときどき思うが、割れない。

先日、家族も増えたので少し大きめの土鍋を買った。さっそく魚ちりをしたのだが、野菜を足すときに手がすべって、蓋を落としてしまった。蓋はあっけないくらい簡単に割れた。蓋のない新品の土鍋が残った。

今の食器は見栄えはいいが、脆い。不甲斐なく、根性がない。人間もそうかもしれない。「川柳 緑」(2013年8月)収録。

2013年10月30日水曜日

●水曜日の一句〔渡辺松男〕関悦史



関悦史








うろこ雲なくししものの億倍の  渡辺松男


ある程度の歳月を生きれば、失ったものも多くなる。
その喪失感を埋めるように「うろこ雲」が見いだされる。

ただしこの「うろこ雲」、必ずしも甘い慰藉に留まっているわけではない。

「億倍の」なのだ。

これは個人の生の卑小さを侮蔑しているわけでもなければ、逆に喪失を豊かな「うろこ雲」(=自然)という代替物が補填しているわけでもない。
喪失というもの自体を圧倒的な質量でさわやかに吹き飛ばしているのである。

説教や垂訓のにおいはない。アニミスムや寓意の回路を通りながらも、それらにまつわりがちな、無自覚な人間中心主義(ヒューマニズム)とは無縁の何かに触れているからである。「億倍の」「うろこ雲」に触れてしまった者が、喪失感にうずくまるただの人間などでいられるものではない。

作者、渡辺松男は迢空賞を受賞している歌人で、『隕石』は初の句集だがすでに堂々たる風格。
稚気と無邪気と妖気に富む。

これらの要素、俳句には必須に近い大事なものなのではないか。


句集『隕石』(2013.10 邑書林)所収。


2013年10月29日火曜日

【評判録】青木亮人『その眼、俳人につき 正岡子規、高浜虚子から平成まで』

【評判録】
青木亮人『その眼、俳人につき 正岡子規、高浜虚子から平成まで』


≫【俳句時評】ささやかな読む行為:外山一機
http://sengohaiku.blogspot.jp/2013/10/jihyo1025.html

≫俳句月評「近代」を問う:岸本尚毅
http://mainichi.jp/feature/news/20131021ddm014070006000c.html


≫web shop 邑書林
http://younohon.shop26.makeshop.jp/shopdetail/005000000074/


2013年10月28日月曜日

●月曜日の一句〔齋藤朝比古〕相子智恵

 
相子智恵







猫の背にほこと骨ある良夜かな  齋藤朝比古

句集『累日』(2013.9 角川書店)より。

〈ほこと骨ある〉にああ、そうだなあ、と思う。この〈ほこ〉に、丸まった猫の背中を撫でたときに感じる、毛と皮越しの背骨の手ざわりを思い出すのだ。見るからにふわふわの柔らかい毛に包まれた猫でも、その体は意外にシャープで、背中側はすぐ骨にあたる。あたたかく「ほこ」と。

背骨を感じているところから、猫を膝の上にのせて撫でている風景が浮かんでくる。猫は丸くなって撫でられながら、安心しきってグルグルと喉を鳴らして喜んでいるようだ。

猫の背を撫でながら、ゆっくりと名月を楽しむ夜。ぽかぽか温かい猫の体は、撫でていてこちらまでリラックスした温かい気持ちになるが、こんな日は特にうれしい。静かでやわらかな気持ちになる名月の夜である。



2013年10月27日日曜日

【俳誌拝読】『SASKIA』第9号

【俳誌拝読】
『SASKIA』第9号(2013年8月30日)


編集・発行:三枝桂子。A5判、本文24頁。

三枝桂子氏の個人誌。氏の俳句作品30句。

  父の父その父の父真桑瓜  三枝桂子

  氷室から糸ほどけゆくしびれ雲  同

  かけがえのなきかわほりの耳二つ  同

「特集:飯島晴子」に津のだとも子「飯島晴子『蕨手』の世界」(特別寄稿)および三枝桂子「俳句のかたち 『蕨手』と『八頭』」を掲載。

(西原天気・記)

2013年10月26日土曜日

【俳誌拝読】『儒艮 JUGON』第3号

【俳誌拝読】
『儒艮 JUGON』第3号(2013年11月1日)


A5判、本文64頁。編集・発行:久保純夫。

久保純夫氏の個人誌と解していいのだろう。氏の3作品(各76句、56句、76句)を収載。加えて招待作家11氏・12作品(各30句)。2段組に句作品をふんだんに配した作り。評論、エッセイ、句集評も。以下、気ままに何句か。

  なめくじら指の先より這い出しぬ  久保純夫

  水玉に毛が生えてくる箱眼鏡  同

この2句は「草間彌生を眺めながら」76句より。草間作品の幻想・蠱惑に俳句で寄り添う。

  泣きながら躯を通る紅葉かな  同

  朝顔の力満ちくる腋毛たち  城 貴代美

  朽野や鯨の骨が組みあがり  仲田陽子

  秋風は縞をなすなりフラミンゴ  岡田由季

  月今宵きりんの中に椅子組まる  木村 修

  刻々と光の変わる唐辛子  上森敦代

  涼しさに何の鳥かはよく見えぬ  杉浦圭佑

  姉さんは鮮やか躑躅吸うときも  原 知子

(西原天気・記)

2013年10月25日金曜日

●金曜日の川柳〔食満南北〕樋口由紀子



樋口由紀子






なんという虫かと仲がなおりかけ

食満南北 (けま・なんぼく) 1880~1957

なんという艶っぽい川柳であろうか。夫婦の仲ともとれるが、そうではない男と女の仲のような気がする。気まずい沈黙のなか、ふと虫が鳴き出した。「なんという虫かな」とひとりごとのようにつぶやく。相手はまだ黙ったままだが、そう言われて、先ほどまでの血相の変わった顔が心なしかゆるみかけている。虫の音を聞くうちに、気持ちもほぐれて、仲なおりできるのは時間の問題だろう。たぶん、食満南北は憎めないワルい男だったに違いない。

夫婦ではこうはいかない。いさかいの種も、喧嘩の仕方も、もちろん喧嘩の後も、全然違う。少なくとも我が家では喧嘩をしたら、虫の音ぐらいでは仲直りできない。

食満南北は初代中村鴈治郎の座付作者として大阪劇界に活躍した。〈顔見世の東は東に西は西〉〈泣いていてふっと手摺りのおもしろさ〉〈今死ぬと言うのにしゃれも言えもせず〉


2013年10月24日木曜日

【俳誌拝読】『絵空』第5号(2013年10月15日)

【俳誌拝読】
『絵空』第5号(2013年10月15日)


A5判、本文16頁。

  牛乳を飲んで元気や土用東風  中田尚子

  余震なほ帰燕の空の晴れ渡り  山崎祐子

  棒切れのやうに蜻蛉が飛んでをり  茅根知子

  芒野に深々と日の差し込みぬ  土肥あき子

(西原天気・記)


問い合わせ等 e-mail esora@sky.so-net.jp



2013年10月23日水曜日

●水曜日の一句〔田吉明〕関悦史



関悦史








三千の椿を踏んで訪ねてゆく   田吉 明

逢瀬の句らしいので「白髪三千丈」よりは、都都逸の「三千世界の鴉を殺し…」の方が浮かび上がるが、いずれにせよ、無限に近い誇張表現としての「三千」である。

モチーフが主情的で、その上表現は象徴的という、俳句以外の形式の方が適していそうな抒情の句だが、それでもこの句に俳句的な快感が漂うのは、無限としての「途中」が描かれているからだろう。

宇宙の始まりと終わりにせよ、個人のそれにせよ、あるいは言語の発生と終焉にせよ、ものごとの始めと終わりは曖昧であり、途中だけがひたすら明確である。

「途中」から無限を引きだす句の快楽といえば永田耕衣が筆頭だが、中心にいて全てを自分にひきずりよせる悪魔的興趣に富んだ耕衣句にくらべて、この句は孤独感が強い。心にあるのは逢うべき相手ばかりであり、訪ねてゆく己はそれまでひたすら己の、あるいは数多の人々の想いを踏み殺すように椿を踏み続け、歩き続ける以外にない。

到着を阻むごとく、行く手に無限などを呼び込んでしまったのは想い自体なのだ。

コスモロジーではなく、思慕が生んだ満たされなさのゆえ孤独、その中にあらわれた無限性を、斬首じみた落ち方をする「椿」の断念の形象と自然性において踏みしめていく快楽に親しみ始めたのがこの句なのである。

なお句集では連作ならぬ「組曲」と称する連なりに句が配置されていて、この句の並びは以下の通り。

 白日
三千の椿を踏んで訪ねてゆく
椿の火指にともして探しにゆく
白日は幼き霊(たま)のはなやぎや
太秦の佛に逢ひに来て 椿

四句を通覧すると、逢うべき相手は幼くして既に死んでいるようだ。

無限に逢えないのも道理だが、「太秦の佛」と墓の所在が暗示されると当たり前の交通機関で辿りつけることになり、「三千」の無限性も単なる心象風景へと矮小化されてしまうようにも思う。

それが作者のめざしたところであり、そういうものとして享受すべき句ではあるのだろうが。


句集『錬金都市』(2013.7 霧工房)所収。

2013年10月22日火曜日

●血




嚙みふくむ水は血よりも寂しけれ  三橋敏雄

八月の夜の木々どれも血を流し  高野ムツオ

イヤホンのコードのごとく血の垂るる  山口優夢

幾億の毛根血噴く 毛綱編む  三橋鷹女

皿皿皿皿皿血皿皿皿皿  関悦史

ねころべば血もまた横に蝶の空  八田木枯

冬の月離陸するとき血が重い  福田若之〔*


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年10月21日月曜日

●月曜日の一句〔川里隆〕相子智恵

 
相子智恵







身に入むやQの文字打つ薬指  川里 隆

句集『薔薇の首』(2013.8 角川書店)より。

〈Qの文字〉とはパソコンのキーボードであろう。〈Qの文字〉だけでキーボードをタイピングしているところまで読めるのか…という省略の仕方は若干危ういのだが、それも含めて現代の景だと思うのである。

パソコンのキー配列において〈Qの文字〉はいちばん左端に位置する。だからこれは左手の薬指が打っているのだろう。

とくに美しいと思ったのは〈Q(キュー)〉と〈薬指〉の両方が持つ「K音」の硬く冷たい響きだ。その繰り返しが〈身に入む〉の空気感と響きあっていて硬く寒々しい印象をもたらしている。また〈Qの文字〉が“クエスチョンの「Q」”を思い出させることも、ふと心が寒々とする不思議なポイントではないだろうか。答えがわからない「クエスチョン」な日々の中で、秋の冷気や、ものさびしさが身に深くしみてくる気がするのだ。やや深読みに過ぎる鑑賞かとは思うが、不思議な味わいのある取り合わせに惹かれた。



2013年10月20日日曜日

●明日はフランソワ・トリュフォー忌

明日はフランソワ・トリュフォー忌


明月や皆アメリカの夜めいて  岡野泰輔〔*〕

〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より


2013年10月19日土曜日

●無言漫画 野口裕

無言漫画

野口 裕


とある駅前に幼稚園児の絵が多数展示されているのを目にした。「……をがんばる」とか、「……できるようになりたい」とか、その子の願望が幼い字で書かれていた。眺めているうちに、愚生が幼稚園の頃は字が書けず、読めもしなかったことを思い出した。当時はそれが普通だったような気がする。しかし、この頃の子は字を覚えるのが早いなどという井戸端会議もあったように記憶するので、標準よりやや遅れ気味だったのだろうか。

その頃、「サザエさん」は読めなかった。吹き出しに書いてある台詞が全く読めなかったのだ。代わりによく読んだのが夕刊に載っていた「クリちゃん」。台詞がないので、状況は絵から想像しなければならない。結構それが楽しい。

ネットで検索すると、簡単に動画化したものがある。
http://www.youtube.com/playlist?list=PLlhlbx4QP-47BxKfX18s_jINnvvgViv9x

文字が全く読めない幼児期を短期間で終わらせるのと、比較的長い時間を要するのと、どちらがよいのか? 愚生が子供の頃はそんな議論もあったように記憶するが、今となっては無意味か。しかし、何となくのどかだったような気がする。

2013年10月18日金曜日

●金曜日の川柳〔細川不凍〕樋口由紀子



樋口由紀子






台風一過 あとにさみしき男の歯

細川不凍 (ほそかわ・ふとう) 1948~

今年はやたらと台風が多い。台風一過とは台風が過ぎ去ったあとにはとかく上天気が来るということである。「台風一過」を「台風一家」と勘違いしていた頃があった。暴風もあり、強雨もあり、しかし、その後は晴天。一家にたとえているのだと思っていた。

掲句は「男の歯」が印象的。嘘みたいに晴れ上がった天気の中、ふと気づくと残されたのは自分独りであるような感慨。男の歯は真白く光り、寂しさを際立たせる。その歯で物をかみ砕き、いつもどおり生きていく。台風が来た現実ともう一つの現実を擦り合わせる。

不凍は高校二年の夏に飛び込み事故で首(第七頚椎)を脱臼骨折し、神経を切断。車椅子生活となる。〈流氷接岸 心カタカナにして臥す〉〈神と交わる母をみている長い冬〉〈手花火のあとのしじまを妹と〉 『雪の褥』(昭和62年・かもしか川柳文庫刊行会刊)所収。

2013年10月17日木曜日

●雲



あたし赤穂に流れていますの鰯雲  攝津幸彦



2013年10月16日水曜日

●水曜日の一句〔齋藤朝比古〕関悦史



関悦史








蝮蛇酒まむし祀りてゐるごとし   齋藤朝比古

酒につかって大瓶に安置されていても、梅やカリンであればただ沈んでいるだけのこと。「祀りてゐるごとし」の見立てはマムシでなければ効かない。

強精剤としての効力というやや呪術的な連想がはたらくためもあるが、何よりとぐろを巻いたヘビの見た目が「酒」としては尋常ではない。

見た目の迫力だけならばホルマリン漬けの標本でも変わらないが、これでは自然科学に寄りすぎでお神酒=「祀る」という連想の親和性が消えるばかりでなく、「酒」の祝祭性や、それを飲むことへの畏怖混じりも期待感もなくなってしまう。

つまり「まむし」を漬け込んだ「酒」という両方の要素がなければ効かないのが「祀りてゐるごとし」の見立てなのだが、それがしかも単なる面白みのない「正解」からはちゃんと外れ、軽い滑稽さを帯びている。これはこの作者の句全てに共通の特徴だろう。

「祀りてゐるごとし」は「祀っているわけではない」という前提を強調しているようなもので、至極散文的な物件としての蝮蛇酒を前面に押し出しており、間違っても民俗学、宗教学的に蛇のイメージの古層をめざしたりはしていない。あくまで日常の枠内の捉え方を複数組み合わせて、それで「正解」から外している。《探梅や武家の道から公家の庭》《七色に疲れてゐたり石鹸玉》なども同じ方法。

いかにも卑近で奥行を欠いたせせこましい句、または、うまいことを言ったという臭みが鼻につく句ばかりを生みかねない方法だが、この作者の場合は、複数の捉え方の隙間にごく淡い隙間風のようなものを生成させ、それが日常生活で自動化した認識(蝮蛇酒を見れば「蝮蛇酒」があると、瞬時に記号として処理し終わるという)を裏からほぐし、寛がせるはたらきを生じさせている。

付記:うっかりやってしまったが、「ホルマリン漬け」での画像検索はおすすめしない。


句集『累日』(2013.9 角川書店)所収。

2013年10月15日火曜日

●理髪店

理髪店


理髪師が来る夕虹をしたたらし  柿本多映〔*

理髪所や十時過なる菊日和  尾崎紅葉

散髪の夏至や途方もなき浪費  塚本邦雄

仏教や理髪の椅子も老いゆけり  攝津幸彦

遺影見ゆ簾名残の散髪屋  谷口智行〔**


〔*柿本多映句集『化生』(2013年9月1日/現代俳句協会)

〔**『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年10月14日月曜日

●月曜日の一句〔山田露結〕相子智恵

 
相子智恵







月光のチェロに体をあはせけり  山田露結

俳句通信『彼方からの手紙』vol.7(2013.9.19/山田露結・宮本佳世乃 刊)より。

チェロが月の光に照らされて、音の美しさとともに、そのフォルムと表面の艶の美しさを際立たせている。

チェロといえば音を詠むのかと思いきや、〈体をあはせけり〉という展開によって、この楽器の持つかたちや艶に気づかされるのだ。

チェロのフォルムは女性の体の曲線に似ている。〈体をあはせけり〉は奏者がチェロの音に合わせて体を揺らしているようにも読めるし、フォルムを思えば、チェロという楽器に身を添わせること自体が、とても官能的であるように思えてくるのである。

音とかたちと色、上品なエロティシズムのある、美しい月夜の句である。



2013年10月12日土曜日

●胡桃

胡桃


胡桃落つ日の夜となれば月明かく  中村汀女

胡桃割るこの世の底に二人きり  玉田憲子〔*〕

新しき胡桃と古き胡桃かな  石田勝彦

青胡桃にちいさいしろい歯が二本  金原まさ子〔**


【過去記事】胡桃
http://hw02.blogspot.jp/2012/10/blog-post_2.html

〔*〕玉田憲子句集『chalaza』(2013年8月31日/金雀枝舎)

〔**金原まさ子句集『カルナヴァル』(2013年2月15日/草思社)



2013年10月11日金曜日

●金曜日の川柳〔安黒登貴枝〕樋口由紀子



樋口由紀子






歯医者から本一冊を借りてくる

安黒登貴枝 (あぐろ・ときえ)

身辺を詠んでいる。それもドラマチックでもなんでもない日常。
どの病院の待合室にも本が置いてある。診察の順番が来るまで、本を読んで時間を潰す。自分では買ってまで読まないものが大方である。

その待合室で読んでいた本を借りた。しかし、これがなかなか出来ない。気軽に借りられそうで借りにくい。掲句もしかり。書けそうで書けない。見ているようで見えない。捉えそうで捉えられない。歯科医院の場面設定がいい。

どんな本を借りたのだろうか。わくわくとして持ち帰ったのだろう。ふつうに暮らしていると取り立ててときめくことなんてほとんどない。ささやかだけれど、日常のまっただなかで頃合いの非日常を作者は見つけたのだ。〈ていねいに洗ってあげる皿の裏〉〈天声人語 ネブカ一本抜いてくる〉 「月曜会」(2013年6月刊)収録。



2013年10月10日木曜日

●コップ

コップ


コップひとつ割って日蝕が終わる  なかはられいこ〔*〕

夏暁のここにコップがあると思え  岡野泰輔〔**

葛水やコップを出づる匙の丈  芥川龍之介

うまさうなコップの水にフリージヤ  京極杞陽


〔*〕なかはられいこ『脱衣場のアリス』(2001年/北冬舎)
〔**『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年10月9日水曜日

●水曜日の一句〔髙勢祥子〕関悦史



関悦史








水晶の向かうは雪が降つてゐる   髙勢祥子

この句が入っている句集『昨日触れたる』はタイトルどおり身体感覚、ことに皮膚感覚に特化した句集で、《ねと言つてやはらかなこと雲に鳥》の口唇と「雲/鳥」とか、《蓮咲いて鰐半身の乾きをり》の鰐の乾いた半身とか、自分以外のものとも皮膚感覚という回路で通じ合う作りが多い。

掲出句も、降る雪をそのまま直接には見ていない。視線は水晶の内部へ凝集もせず、その向こうへ突き抜ける。自分と雪との間に、膜のように水晶が挟まっているのだ。つまりこの水晶は皮膚の代わりなのである。

皮膚が半透膜かワープ装置のようになって、それで他者や景色との関わりが保て、世界がリアライズされている。それは雪を見るだけのことですら例外ではないのだ。

他者 - 皮膚が先にあって、それへの反応として事後的に自分が在ることを確認している気配もないではない。しかしその、個のまとまりをふわりとはぐらかす回路自体は鉄の安定を誇っている。そこがもどかしさを感じさせもするのだが、雪の降る景色まで触知可能なものに変えてしまう強迫ぶりは、世界にひたすら撫でられるものとして主体を組織し続けてもいるようで、となるとむしろ問題なのは、にもかかわらず奇妙に官能から離れて自足している清潔さと安定性のほうなのだろうか。


句集『昨日触れたる』(2013.9 文學の森)所収。

2013年10月8日火曜日

●紐




二枚貝恍惚として紐がある  柿本多映〔*〕

福引の紙紐の端ちよと赤く  川端龍子

紐解かれ枯野の犬になりたくなし  榮 猿丸

風船浮く紐が畳にさはりをり  小川軽舟

スケートの紐むすぶ間もはやりつゝ 山口誓子

冷房が眼帯の紐揺らしをり  森 篤史

白酒の紐の如くにつがれけり  高浜虚子


〔*〕 柿本多映句集『仮生』(2013年9月1日)


2013年10月7日月曜日

●月曜日の一句〔山内繭彦〕相子智恵

 
相子智恵







篝火に影曳く亡者踊かな  山内繭彦

句集『歩調は変へず』(2013.9 角川書店)より。

〈秋田・西馬音内 四句〉と前書きのあるうちの一句だ。筆者は見たことがないが、〈亡者踊〉とは、秋田県雄勝郡羽後町西馬音内(にしもない)の盆踊りだそうである。盆踊りとしては全国で初めて国の重要無形民俗文化財に指定され、阿波踊り、郡上おどりと合わせて日本三大盆踊りに数えられるという。

〈亡者踊〉といわれるのは、踊りの輪の中に「彦三(ひこさ)頭巾」という目だけが空いた黒い覆面の踊り子が多く入っていて、亡者を連想させるからだそうだ。筆者はこの〈亡者踊〉が何だかわからないままに惹かれ、この句に立ち止まった。

篝火の周りを踊り手が踊っている。篝火の明りを受けて、踊り手たちの影は地面に長々と伸びている。その長い影が踊るさまは、まるで「亡者」が踊っているかのようだ。亡者の霊をなぐさめるための、亡くなった者とともにある「盆踊」という季語の本意に迫った句だと思った。静かに、ひたひたと踊りは続いていくのだろう。

2013年10月6日日曜日

●日曜日

日曜日


日曜の終つてしまふ躑躅かな  林 雅樹〔*〕

日曜日いそぎんちやくに蟹が寄る  矢口 晃〔*〕

花に熱日曜の血を洗ふ父  攝津幸彦

日曜のひかりは濡れて蠟梅に  高勢祥子〔**〕

日曜につづく祭日しやぼんだま  木下夕爾

日曜終わる背後に電車あらわれて  高野ムツオ


〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

〔**〕高勢祥子句集『昨日触れたる』(2013年9月20日)



2013年10月5日土曜日

●離婚

離婚


しわくちゃの離婚届よ冬芒  林誠司

離婚の父思ひ少年蟻いぢめる  品川鈴子

一弟子の離婚の沙汰も十二月  安住敦

淡雪や離婚届のうすみどり 夏井いつき

七十や釣瓶落しの離婚沙汰  文挟夫佐恵



2013年10月4日金曜日

●金曜日の川柳〔前田雀郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






涙とは冷たきものよ耳へ落つ

前田雀郎 (まえだ・じゃくろう) 1897~1960

男とは涙を見せないものである。その男が泣いている。涙が耳に落ちるのだから、立っていたり、座っていたりのときではなく、あおむけに寝ているときであろう。仰臥して、天井を見つめながら、男(たぶん作者)が泣いている。涙の冷たさがひしひしと身にしみる。

思えば思うほど、思い出せば思い出すほど、忘れようすればするほど、涙が落ちてくる。自分の力ではどうすることもできない、悲しみ中にいる。自分の目から流した涙は自分の耳に落ちる。自分で拭うしかない。生きていくことの辛苦、悲哀を感じる。

前田雀郎は川柳六大家の一人。昭和11年「せんりう」創刊、主宰。〈音もなく花火のあがる他所の町〉〈一生を一間足りない家に住み〉〈子の手紙前田雀郎様とあり〉

2013年10月3日木曜日

●ひらがな

ひらがな


ひらがなの名のひととゆく花野かな  松本てふこ〔*〕

さくらんぼと平仮名書けてさくらんぼ  富安風生

ひらがなの地獄草紙を花の昼  恩田侑布子


〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年10月2日水曜日

●水曜日の一句〔小笠原弘子〕関悦史



関悦史








生きる側に選ばれし身や石蕗の花   小笠原弘子

東日本大震災の句を日本中から募集し、一人一句ずつ収めたアンソロジーから。作者は仙台在住の82歳。

選ばれた者の恍惚などとは全く無縁。生きる側、死ぬ側、どちらに選ばれるのも偶然でしかなく、意味のつけようがない。

作者がどの程度の、どういう種類の被害と喪失をその身に引き受けることになったかは不明だが、震災後、落ち着きを取り戻すまでの間に、死者の多さに唖然としつつ、自分もあの時死んでいた方がよかったのではないか、なぜ生きる側に選ばれたのかという思いが幾度か湧き起こった可能性はある。

この「身や」には、どのような思いを抱こうが如何ともしがたく在る命を持て余しているようなところがある。しかしそれをあるがままに引き受けて生きようという意思も感じ取れる。いつまでも意味を問うてはいない。

石蕗の花の小さく鮮やかな黄は、その身と、意思と静かに照らし合っているようだ。だが花の周囲にいかなる光景が広がっているのかはわからない。瓦礫か。荒地か。


宮城県俳句協会編『東日本大震災句集 わたしの一句』(2013.9 宮城県俳句協会)所収。



2013年10月1日火曜日

●本日は「都民の日」

本日は「都民の日」


東京に天皇のゐる残暑かな  雪我狂流〔*〕

汗ばめば東京湾にくびれかな  野口る理〔*〕

お彼岸の東京タワーやぐにやりぐにやり  山下つばさ〔*〕

東京の春あけぼのの路上の死  加藤静夫


〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

過去記事「東京」
http://hw02.blogspot.jp/2011/04/blog-post_27.html


2013年9月30日月曜日

●月曜日の一句〔遠藤若狭男〕相子智恵

 
相子智恵







一葉落ちしと思ひしがふりむかず  遠藤若狭男

句集『旅鞄』(2013.8 角川書店)より。

〈一 葉落つ〉は、淮南子(えなんじ)の「一葉落ちて天下の秋を知る」からきている。梧桐の葉が一枚落ちるところを見て秋が来たことを知る、という意味だ。これ は桐一葉が落ちるところを「見た」言葉であるが、掲句は逆に〈ふりむかず〉だから、実際には桐の葉が落ちるさまを見ないで、気配や音だけでそれを感じ取り 〈一葉落ちしと思ひしが〉と詠んでいる。

桐の葉が像を結ばないながらも〈一葉落つ〉を見て詠んだ句よりも、私は見ていない掲句のほうに、なぜか「秋が来た気配」を濃厚に感じた。

そ れは秋になり、乾いて硬質感が増した空気が、「気配」や「かすかな音」などを伝えやすいからだろう。振り向かないことで、背中で気配を感じているのだろう が、そんなことができる硬質な空気そのものが、秋だなあ、と思わせるのだ。〈ふりむかず〉には、戻すことのできない季節の運行も感じる。

2013年9月29日日曜日

【新刊】山田露結・宮本佳世乃・四ッ谷龍『彼方からの手紙 vol.7』


【新刊】
山田露結・宮本佳世乃・四ッ谷龍『彼方からの手紙 vol.7』

MyISBN - デザインエッグ社/2013年9月23日





2013年9月28日土曜日

●砂漠

砂漠


折鶴のところどころの砂漠かな  岡村知昭〔*〕

砂漠に一滴目薬落ちて炎上す  八木三日女

砂漠に妻匂う一直線に真黒に  和田悟朗

髑髏磨く砂漠の月日かな  津田清子

妹よ淀は砂漠の水車  鈴木六林男


〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年9月27日金曜日

●金曜日の川柳〔佐藤岳俊〕樋口由紀子



樋口由紀子






ふるさとを掘ると一揆につきあたる

佐藤岳俊 (さとう・がくしゅん) 1945~

近年、社会性川柳を書く人が少なくなっている。今の世の中は決して平穏であるとはいえない。それよりもきな臭い方向に進んでいるように思う。危機意識を持っている人は多く、書く材料には事欠かないはずである。

岳俊は岩手県で生まれ、育ち、現在も岩手県に住んでいる。彼は若い頃より社会性川柳にこだわる数少ない川柳人である。東北の風土性に密接に関係したものが多い。それも一貫して労働者、農民などの弱者の視点で書いている。

「一揆」という実際に起こったものが句の支柱になっている。フィクションではなく、ノンフィクションとして。圧政で我慢の限界を越えた農民が死を覚悟して、戦った。その上に今の自分たちは生き、今の生活がある。彼は一揆を起こした農民の辛苦を忘れてはいけないと思っている。

〈うつぶせのまま出稼ぎの棺がかえる〉〈赤字線折ればごくごく血を吐ける〉〈野仏に祈る名もない人ばかり〉

2013年9月26日木曜日

●オルガン

オルガン


リンゴ食い古いオルガンのようにいる  金原まさ子*

オルガンのペダルを踏んで枯野まで  対馬康子

梅雨空となるオルガンの踏みごたへ  奥坂まや

破門ずオルガンだーらの蛆拾遺よ  加藤郁乎


*金原まさ子句集『カルナヴァル』(2013年2月)

2013年9月25日水曜日

●水曜日の一句〔志賀康〕関悦史



関悦史








相打ちのつもりで摘むや花菫   志賀 康

小さい可憐な植物の茎が引きちぎられる感覚、その取り返しのつかなさと一体の、怪しい快感のようなものが立ちのぼる。

この句にあるのは、「花菫」と人を対等に見るアニミズムでは、必ずしもない。

「相打ち」の語にはまず「攻撃」の要素がある。こちらからも攻撃し、向こうからも攻め返され、そこで相打ちとなる。しかしそれも「つもり」であって、人の側は討ち果たされるわけではない。人が花菫を摘むのは一方的、非対称的な行為であり、花菫の側から対等にやり返す機会はない。

だが摘んだ瞬間、人の内部でも「相打ち」と呼ばれるに足る何かが起こっているというのが、この句の抉りだしたところで、力学的な手応えから、人の中にひそんでいた「花菫」性が不意にあらわになる。

生命や自然への畏怖には違いないが、巨大な山や森ではなく、引きちぎられた瞬間、人の中に侵入し、充満した「花菫」の身体性が大小の差を無化して、偈のように響き、香りを残す。

その快感に浸ることもなく、至って冷静に納得している辺りに、マッドサイエンティストの所業を垣間見るような風情があり、空恐ろしくも、微妙に可笑しい。


句集『幺』(2013.8 邑書林)所収。