2013年4月30日火曜日

●「石田郷子ライン」についてのメモ 近恵

「石田郷子ライン」についてのメモ

近 恵

≫上田信治【週刊俳句時評79】"石田郷子ライン"……?


んと、バブル期を謳歌し、かつその崩壊を目の当たりにし、お金で買えるしあわせから、お金では手に入らない精神的しあわせを望む方向に意識を転換せざるを得なかった世代か。

精神的しあわせの延長線上に、自然回帰願望、バブルの延長線上に生活感のなさがきている可能性は?

「お金=不浄のもの、人を狂わすもの」から、反動でお金に換算できない「自然っぽい」ものへ、「清浄っぽい」ものへ。

あるいは「自分探しの旅」をする人が増えてきた時期とは重ならないか。こうありたい自分、こうあるべき自分を何かで表現したいとか、実現したいとかという無意識の欲求。実際にバックパッカーとして自分を探す旅には出ないけれども、表現方法として俳句を得ているので、そこにそれが現れる。

季語にある自然を詠もうとするとき、実際に自然と対峙して生きている生活者とは違う、理想の自然を詠みあげる。それは「ありたい自分、あるべき自分」を実現するための表現として俳句が機能しているからで、当然土俗的だったりはしない。
小川軽舟さんが「彼女たち」の「代表」として石田郷子を挙げ、その俳句の特質を「素地のまま」「俳句形式だけを手がかりに」「世界を受容し、また世界から受容されながら」と評したこと。

"石田郷子ライン"の特徴は、まず、ことごとしい「文学的自我」や「作家意識」を前提としないことにあります。
上田信治【週刊俳句時評79】"石田郷子ライン"……?〔後編〕
「彼女たち」というくらいだから、圧倒的に女性が多い。小川軽舟氏の評は、生命を宿し生むことのできる女性の特性そのもの。女性は多少人間の存在意義に悩みかけることがあっても深追いしない。なぜなら既に大きな役割を得ているから、そこで自身の根本的な存在意義に深く悩む必要がないのだ。ゆえに世界をありのままに受け入れ、逞しく生み、育てる。ただし全女性がということではない。個人差は大いにあるし、表面化も個体差はあると考える。

一方男性は種蒔きをするだけで他に役割がない。だから人間(自身)の存在意義を深く考えたりする。哲学者が男性ばかりなのはそのあたりが根源だろう。結果、他人と差別化を図り、競争し、自分の城を築こうとする。当然俳句においても「文学的自我」や「作家意識」が強くなる。あるいは「組織」で「天辺に行こうとする」とか。ただしこちらも全男性がということではない。個人差は大いにあるし、表面化も個体差はあると考える。

まあこのあたりの女性ならではの特性と、バブル崩壊により転換した価値観と、「こうありたい自分」の表面化が、より美しい自然が好きで、どろどろとせずに、深くこだわらずにライトで、感じも良くて……となるような言葉で実現されている俳句が「石田郷子ライン」的なものなのかなあ。

2013年4月29日月曜日

●月曜日の一句〔金中かりん〕 相子智恵

 
相子智恵







寄り合うてもの食うてをる袋角  金中かりん

句集『榠樝』(2013.4 ふらんす堂)より。

鹿の角は晩春から夏にかけて生え替わる。生え替わったばかりの角は、ビロードのような皮膚で覆われたこぶ状をしており、中は血管で赤く、柔らかくて温かい。これが〈袋角〉だ。

だから掲句は、その頃の鹿たちが寄り集まって物を食べているという風景なのだが、この季語のために、どうしても「部分」としての〈袋角〉がフォーカスされ、一読〈袋角〉そのものが、ものを食べているような不思議な感覚にとらわれる。

鹿がたくさんいる奈良公園などを思い出してみるに、ものを食べている様子を人間の視点から見ると、ちょうど鹿の頭を見下ろすことになるから、実際にこんな感じなのだろう。

寄り集まってものを食べるという、まさに「生きている」実感と、〈袋角〉という血管が透けて見える角の生命力が重なり合う。角の伸びるスピードが速いことや、秋に向けて一年で成長する鹿の角が稲作のサイクルにも似ていることなどが、古代から鹿を象徴的な存在にしてきたのだろうか。五穀豊穣を願って鹿の頭を奉納する、諏訪大社上社の春の祭事「御頭祭」も思い出された。

単純化して描いてありながら、鹿の生命力に触れるような、不思議な存在感のある句である。

2013年4月28日日曜日

〔今週号の表紙〕 第314号 阿佐ヶ谷住宅 給水塔 伊東未歩

今週号の表紙〕 
第314号 阿佐ヶ谷住宅 給水塔

伊東未歩



東京の杉並区にある旧阿佐ヶ谷住宅の給水塔です。先日の夕刻、食事の支度をしている途中に急に思いたち自転車を走らせ近所の阿佐ヶ谷住宅へ向かうと、給水塔が強い夕陽に照らされていました。

阿佐ヶ谷住宅は、1958年に日本住宅公団により分譲された集合住宅です。前川國男建築事務所が設計したテラスハウスや、緩やかにカーブを描く道路、なにより沢山の植物が広い敷地内に生い茂り、23区内とは思えないような自然環境に恵まれ、多くの人々に愛されてきました。

その阿佐ヶ谷住宅も老朽化のため再開発をすることになり、もうすぐ取り壊される予定です。給水塔も同じく。50年以上そこに立ち、私たちの生活を見守り続けてくれました。

もうすぐなくなってしまう事実を受け入れなければ…と満開の桜を見に行くと、元住民の方々の最後のお花見の会に偶然居合わせました。みなさんは精一杯の笑顔で見送っていらっしゃいました。それを見て少し心の整理がつきました。

きっとここにはどこの街にでもある立派なマンションが建つのでしょう。せめて今ある緑をなるべく多く残して欲しい。

ここに緑と空に包まれた夢のような空間があったことを忘れません。

いとう・みほ
東京生まれ。阿佐ヶ谷在住。美術書・歳時記などの本作りに携わる。



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2013年4月27日土曜日

【新刊】金原まさ子『あら、もう102歳: 俳人金原まさ子の、ふしぎでゆかいな生き方』


【新刊】
金原まさ子『あら、もう102歳: 俳人金原まさ子の、ふしぎでゆかいな生き方』




【評判録】金原まさ子句集『カルナヴァル』

2013年4月26日金曜日

●金曜日の川柳〔本多洋子〕樋口由紀子



樋口由紀子







三日月はガーゼを掛けてから握る

本多洋子 (ほんだ・ようこ) 1935~

先週の土曜日に石部明追悼句会が開催された。掲句は当日の兼題「握る」(柴田夕起子選)の特選句である。石部の川柳に〈棍棒の握り具合もいい卯月〉があり、そこからの出題である。

川柳は句会や大会が盛況な文芸で、事前に出された題で競吟する。川柳では入選することを「抜ける」という。集句の中で頭を一つ抜け出て、選者に抜き取らせるのだ。そのためには兼題をどれだけ飛躍させるか、それでいてどれほどのリアリティを出せるかに苦心する。

握るというといろんなものが思い浮かぶ。しかし、大概は似たようなものである。そのなかで三日月にはびっくりした。それもガーゼを掛けてからなんて。この細工で超現実が日常に引き戻された。鋭利なものや熱いもの、冷たいものを握るときに布を添えて握る。それを上手くふまえている。ヒヤッとした感触だったのだろうか。石部は「川柳で大嘘が書いてみたい」と言った。それにぴったりと当てはまる特選句である。

他に〈水仙をそれは凶器の握りかた 徳長怜子〉〈握ったらみんな糸コンニャクになる 東槇ますみ〉などが抜けていた。

2013年4月25日木曜日

●天使

天使

緑陰に入る堕天使のくるぶしよ  金原まさ子〔*〕

ががんぼよ飛べ水煙の天使まで  橋本鶏二

多孔質天使誘い来る夜の突風  江里昭彦

半ドンの広告塔の天使かな  仁平勝

青写真天使一群冷えている  四ツ谷龍

風鈴と天使のブラがぶらさがる  斉田仁〔**


〔*〕金原まさ子句集『カルナヴァル』(2013年2月)

〔**斉田仁句集『異熟』(2013年4月)

2013年4月24日水曜日

●水曜日の一句〔高岡修〕関悦史




関悦史








自動ドア藤の孤独が招かれる  高岡修

人の姿は消し去られ、自動ドアと藤との交感のみが描かれる。

藤を「孤独」と見ている語り手が作中にいるとしても、この「孤独」は語り手の情念を負わされたものではない。むしろドアが開いた刹那、藤の方が不意にひとつの実存として語り手の目に飛び込んできたようで、心情的な同調は軽い驚きと清潔感を越えた先に初めてあらわれるのである。

無機物と植物との出会いが織り成す異界は、スタッコ(白い化粧漆喰)で仕上げられた見慣れないモダニズム建築のような美感を湛えている。

都市生活の中に潜む、深い静かな領域を掬いとった句で、田久保英夫の短篇を連想させられた。そういえば、その代表作ともいえる連作集『海図』も、無人称で語り進められる佳品だった。

句集『果てるまで』(2012.12 ジャプラン)所収。

2013年4月22日月曜日

●月曜日の一句〔城取信平〕 相子智恵

 
相子智恵







れんげ田を夢みるために薄き夜具  城取信平

句集『めでためでた』(2013.3 文學の森)より。

田打がされるまでの一面の〈れんげ田〉。蓮華草はかつて「緑肥」として、刈り取りの終わった稲田で広く栽培されていたというが、現在は化学肥料を使うのであまり見ないだろう。それでも私が幼い頃、一面の蓮華草や白詰草の野で遊んだ記憶があるのは、あれは休耕田のものだったのだろうか。

寝転んだり花の冠を作ったりといった、子どもの頃の遊び場であった一面のれんげ田。その懐かしい風景を夢に見たいと思って〈薄き夜具〉を使うという展開に驚く。

しかし言われてみれば、れんげ田のふかふかとした寝転びたくなるような質感は、ふわっとした薄い夜具の質感とどこか似通っている。夢の中のれんげ田とはいえ、そこはやはり春の句。冬の重い夜具から、少し薄くて軽い春の夜具に切り替える頃であるということも想像されて、〈薄き夜具〉は、発想に驚きはありつつも自然に結びついている。きっと懐かしい夢が見られたことだろう。

2013年4月21日日曜日

〔今週号の表紙〕 第313号 鳥 句童ぐみ

今週号の表紙〕 
第313号 鳥

句童ぐみ



LA空港から東へ車で約20分のパブリックコース。会員制のプライベートコースではなく一般に開放されています。ゴルフコースによっては野生の鹿、狐、コヨテ、兎、りす、渡り鳥を含む多種の鳥に出会います。

LA近郊のパブリックコースとプライベートコース合わせると約150, 加州全体では約850、全米では約2万コース近くあります。ちなみに日本ではバブル期に約3500、現在は約2500位で、ほとんどがプライベートコースです。

日本では、キャデイ代, 乗用カート、食事代等々がかかるので、単にプレイするだけで済む加州のパブリック コースでは日本の5分の1から10分の1で遊べます。さらに、シニヤーではライフライン という低所得者優遇制度があり正規料金の3分の2くらいになります。但しこれはLAの場合です。米国は各州それぞれ制度が違いますから、アメリカではとひとくちにいうわけにはいきません。

以上、撮影者の夫よりの聞き書きで、夫は俳句をやらず、私はゴルフをしません。


くどう・ぐみ
1933年、東京生まれ、東京芸大卒。1960年、米国ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン特別生として一年間在学後NYで一年研修。帰国。1965年~68年、東京で結婚、海外広告専門会社のバンコク支店で主にホンダの宣伝事業で共働き。1968年、二人で渡米、NYに8年滞在後LAに移転、現在に至る。夫婦共未だ日本国籍。日本語を誇りとし、俳句を始める。無所属。



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2013年4月20日土曜日

●『週刊俳句』6周年記念 誌上句会のお知らせ

『週刊俳句』6周年記念 誌上句会のお知らせ



投句はメールにて 天気宛て tenki.saibara@gmail.com

投句締切 2013年430日(火)24:00

題詠
」   1句
」   1句
」   1句
」   1句
雑詠   1句  計5句

投句書式:一句ごとに改行。最後に俳号を記してください。

××六×××××××××××××
×××××法××××××××××
全×××××××××××××××
×××××××××××書××××
△△

 
選評方法:投句一覧をウラハイに掲示。選句要領はその折にご説明いたします。

以上、奮っての御参加をお待ちしております。


過去の誌上句会の模様は≫こちら


2013年4月19日金曜日

●金曜日の川柳〔林田馬行〕樋口由紀子



樋口由紀子







美しいひとをこころで侮辱する

林田馬行 (はやしだ・ばこう) 1902~1989

子ども頃好きな女子をいじめたという話を大人になった男性の幾人かから聞いたことがある。そのときに男の人というのは案外素直じゃないんだと思った。が、掲句はそんな単純なものではない。それどころではなく、複雑で屈折している。「侮辱する」ことしかできない(しない)作者の心境が伝わる。

「美しい」の視線、「侮辱する」の心の行為、ドキリとさせられて、怖いほどである。それでいてナイーブでエロス性が漂い、美しい。このような心象も川柳で書けるのだと驚く。

林田馬行は井上刀三などと「灰」を創刊。その後「川柳雑誌」「私」「馬」「川柳ジャーナル」。〈樹の上に在るこころまで今すこし〉〈ピストルの弾に山河の映るとき〉〈天国にゆく雑兵は大の字に〉 『林田馬行集』(私版・短詩型文学全書48 八幡船社 1973年刊)所収。

2013年4月18日木曜日

●種袋


種袋


月夜らしテラスのうへの種袋  多田裕計

あの世めく満開の絵の種袋  加藤かな文

種袋海あをあをと膨れ来る  野中亮介

種袋大口あけて陽炎へり  前田普羅

花種の袋に花の絵がありぬ  今井杏太郎


2013年4月17日水曜日

●水曜日の一句〔堀本裕樹〕関悦史




関悦史








常闇の遠祖や光り出す茸  堀本裕樹

先祖とはいっても系図が辿れるレベルの話ではなさそうで、光る茸が太古へと視線を引き込み、神気、霊気の満ちる実在感ある常闇をもたらしている。

動物とも植物とも明確に分類しがたい茸が、今目覚めたかのように光り出す。

それが「常闇」「遠祖」という語と結びつくと、生命現象の流れそのものが不意に目の前に顕現したかのようで、遠祖も闇の奥深くでこの茸に出会ったことがあっただろうという想像的な感情移入もさることながら、それと同時に、光る茸のような得体の知れない生命の原初形態にまで進化を遡られた先祖というイメージも現れる。つまり、この暗闇も茸も、己の淵源に位置するものなのだ。

この遠祖は原始仏教的な理論的明快さの中に空じられてもいないが、個人としての貌やまとまりももはや残してはいない。

個々の存在者ではない存在そのもの、生命そのもののようでもあるが、そこまで一般化・抽象化するには、湿り気を帯びた、固有の土地、固有の氏族のにおいが重い。

己に連なる生死の流れが、具体性の中に露出してしまっている特異な場として、この常闇=茸は認識されているおだが、「常~」「遠~」といった場の規定や距離の測定が出来てしまっているあたり、まだ安全圏からの憧れに留まっているともいえる。

だが「光り出す茸」には、見入っているうちにその距離を無効化されてしまいかねない不穏さも漂っている。


句集『熊野曼陀羅』(2012.9 文學の森)所収。

2013年4月16日火曜日

●地下

地下

手品師の指いきいきと地下の街  西東三鬼

梅雨の地下笑ふ吾ゐて恐ろしき  岩淵喜代子

地下深き駅構内の氷旗  福田甲子雄

赤い口ひらひら地下の語り継ぎ  穴井太

絵本抱き地下より帰る大都会  対馬康子



2013年4月15日月曜日

●月曜日の一句〔飯野きよ子〕 相子智恵

 
相子智恵







日おもてをぬれ手であるく桃の花  飯野きよ子

句集『花幹』(2013.2 角川書店)より。

庭仕事か畑仕事を終えて手を洗ったのか、濡れた手のままで日向を歩いている。そこに桃の花が咲いている。一見実直で、健康的な句だ。が、私は掲句に陰影を感じ、そこに魅力を感じて何度も立ち止まった。

おそらく〈日おもて〉のからりと乾いた明るさと、濡れた手の冷たさ(桃の咲く頃だからまだ空気も冷たいだろう)のコントラストが地味に身体に入ってくるからだろう。一見平面的だが、じつは重層的だ。

本書にはそうした重層性を感じる句がけっこうある。たとえば

〈日脚伸ぶ幹の裏より蔓のぼり〉

この句〈日脚伸ぶ〉で幹に当たる日差しの明るさに春の訪れの喜びを見せているようで、じつは〈幹の裏より蔓のぼり〉という、日当たる幹の裏側にある影、そこから湧き上がってくる蔓の生命力を描いている。

〈花の闇幹がだんだん花となる〉

こちらは逆で、〈花の闇〉から〈幹がだんだん花となる〉という、暗さから明るさへの展開を見せる不気味な句だ。このように一句の中に陰影や重層があって、それが生命力につながっている。生命力とはただ向日的なものでもないし、明るさと暗さが混沌とした中にあるものなのだと思う。

以前、関悦史氏が本書から〈枯野原どの蓋とれば赤飯か〉を採り上げていたが、この句にも不思議な魅力があった。

2013年4月14日日曜日

〔今週号の表紙〕 第312号 落椿 有川澄宏

今週号の表紙〕 
第312号 落椿

有川澄宏



撮影場所は、東京と埼玉にまたがる狭山丘陵の「出雲祝神社」。

暗い石畳を進むと、高い木々に囲まれた本殿があり、入間市のHPによると、2000年前の創建とあります……?

映画「ホッタラケの島  ~遥と魔法の鏡~」の物語は、この神社から始まるとのことです。私は「となりのトトロ」の雰囲気を強く感じてシャッターを押しました。

高い木のてっぺんには、しばしばオオタカが止まっています。


■有川澄宏 ありかわ・すみひろ
1933年、台北市生まれ。「古志」「円座」所属。「青稲」同人。WAB連歌参加。



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2013年4月13日土曜日

〔おんつぼ47〕甲斐バンド 山田露結

おんつぼ47


甲斐バンド

山田露結




おんつぼ=音楽のツボ


甲斐バンド。不思議なバンド名である。甲斐バンドのリーダーは甲斐よしひろ。つまり「名字」+「バンド」がバンド名なのである。私がバンドを組んで山田バンドとするのと同じである。まったく何の工夫もない上にリーダーがずいぶん威張っているような感じである。

甲斐よしひろはバンドのリーダーであり、ボーカリスト。バンドのほとんどの曲の作詞作曲も手がけている。なかなか男前である。声もいい。スターのオーラもある。おまけにバンドのほかのメンバーは極端にキャラが薄い。ようするに甲斐バンドは「甲斐よしひろ&His Band」みたいなものである。

私が小学生の頃のある日、通学路の途中にある時計店の店先にスーツを着た四人の長髪男たちの等身大パネルが立て掛けられているのを見かけた。そのパネル写真の四人の中で一番ハンサムな男が他の三人より一歩前に立ってこちらを見てにっこり笑っていた。そして、そのすぐ下には「ヒーローになる時、それは今」というキャッチコピーが印刷されていた。甲斐バンドの新曲「HERO(ヒーローになる時、それは今)」がセイコー腕時計のCM曲に採用され、甲斐バンドがそのCMキャラクターとなったのである。

数年前にヒットした同じ甲斐バンドの「裏切りの街角」とはがらりとイメージが変わって、あか抜けた感じの明るい曲調だった。そしてこの「HERO(ヒーローになる時、それは今)」はみるみるうちに大ヒット曲となり、テレビ、ラジオでしきりに耳にするようになった。やがて、私は甲斐バンドのボーカリストの名前が「甲斐よしひろ」だという事を知った。

しかし、私には甲斐よしひろの「よしひろ」がどうにも野暮ったい名前に思えて仕方なかった。私は甲斐よしひろ以外に「よしひろ」という名前の有名人を知らない。この人はどうして「よしひろ」なんだろう。しかも、ひらがな。「ミッキー甲斐」とか「ジェームス甲斐」とかロックっぽい芸名にしようとは考えなかったのだろうか。せめて(沢田)ケンジとか(西城)ヒデキみたいな呼びやすくて親しみやすい名前にすればよかったのにとずっと思っていた。

実は、私も本名を「よしひろ」という。私は子供の頃からこの「よしひろ」という自分の名前がキライだった。何故だろう。「よしひろ」の「し」「ひ」とi音が続くところは少し発音しにくく、そのためか私のことを「よしひろ」と呼ぶ友達は子供の頃から誰一人おらず、「山田くん」とか「山ちゃん」とか名字の方で呼ばれていた。私の名前が「よしひろ」だということを知らない同級生もいた。さらに、私が通う小学校には、いなかっぺ大将のような風貌していて、ときどき廊下で奇声を上げるため男子からはからかわれ、女子からは白い目で見られていた学校ではちょっとした有名人の上級生がいて、彼の名前は私と同じ「よしひろ」だった。そんな事もあって、私は本当にこの名前を疎ましく思っていた。この名前には何ひとつ長所がないように思われた。せめて(沢田)ケンジとか(西城)ヒデキみたいな呼びやすくて親しみやすい名前にしてくれたらよかったのにと本気で両親を恨んでいた。だから、甲斐バンドのボーカリストの名前が自分と同じ「よしひろ」だと知ったときは正直、複雑な気がしたものである。

「この人もよしひろか。」

そして私は、毎朝通学路の時計店の前で爽やかな笑顔で立っている等身大パネルの「よしひろ」と、そこに記された「ヒーローになる時、それは今」というコピーを見るたびに、このあか抜けない名前をもつ自分の境遇を何とか克服しようと「がんばれ!よしひろ!大丈夫!よしひろ!」と自分に言い聞かせながら学校へ通ったのであった。




2013年4月12日金曜日

●金曜日の川柳〔西田當百〕樋口由紀子



樋口由紀子







上燗屋ヘィヘィヘィと逆らはず

西田當百 (にしだ・とうひゃく) 1871~1944

※「ヘィヘィヘィ」は踊り字2つの表記。

大正二年、「番傘」創刊号の巻頭の第一句である。大阪法善寺横丁の正弁円吾亭前に句碑となって現存している。

「上燗屋」とは上々に燗をした酒を呑ませるところ、一杯飲み屋である。そこにはいろいろな客が集まる。愚痴を言う人、自慢する人、政治を批判する人、それらの客に対して、決して、「逆らはず」、何を言われても顔色を変えず、もちろん自分の意見などは言わず、「ヘィヘィヘィ」と相槌を打つ。「ヘィヘィヘィ」がすべてわかっている。

「當百」は天保銭のことで、100文が80文の価値しかなく、すこし足りない人間の意だそうで、そのように称していた。西田當百は岸本水府、木村半文銭などと番傘川柳社を設立。水府の師である。(「番傘」創刊号 1913年刊)収録。

2013年4月10日水曜日

●水曜日の一句〔宗田安正〕関悦史




関悦史








移り来し個室枯野を前にする  宗田安正

句集『個室』(1985.12 深夜叢書社)は、宗田安正の中学時代に始まる結核療養から、生還して大学入学を果たし、句作から一度遠ざかるまでの作を集めた、いわば若書きに当たる句集だが、全編にわたって顕著なのが、モチーフの実存性と文体の端正さの併存である。

事態の深刻さに酔って叫ぶでもなく、表現の正確さが自己目的化するわけでもない。

およそあらゆる陶酔から遠い、流れるものではなく、嵌め込まれるものとしての言葉。

その寸分の狂いもない寄木細工のような、しっとりとした硬さ、重さに裏打ちされた明視性が、この時期の宗田安正の句の魅力の根底にある。

結核療養中の句であることは章ごとに付けられた前書きで明示されており、「個室」は病院のそれである。枯野は当然、患者たる語り手の前途を象徴していよう。それが単なる心情の重くれに転落しないのは、物と場所の位置関係(及びその変化)のみを指し示していく、この文体の力あればこそである。

というよりもむしろ事態は逆で、過酷な生を持ちこたえるために要請され、練磨されたのが、この文体だったのだ。そしてそれは、実存の深みを内包しつつも、それを物質の硬さ、重さと位置関係とが形作る緊張へと転換しさることで、無駄のないモダニズム建築にも似た美感を句にもたらすことになった。

他の句にもそうした原理は染み透っている。切れ字が用いられず、動詞の終止形で終わる句が多いが、その背後にはそうした曲折が潜んでいる。

  誰も降りぬ駅街燈が桜照らす

  コンクリートの岸のかたきに蝌蚪は寄る

  双眼鏡にて遠泳の頭をとらふ

  死ににゆくごとし沖へ沖へ泳ぐ

  水餅の重なり合ひて声たてず

  衆目の中寒泳の処女上がる

  デパートの冬の屋上猿を飼ふ

  木枯の地平少女の胴細る

  昼寝して身の裡側を知り尽くす

  雪原の見えぬところに翳生ず

  寒き夜の地震畳の目がつまる

2013年4月9日火曜日

天の逆手を打ち成し 中原道夫「西下」を読む 猫髭

天の逆手を打ち成し
中原道夫「西下」を読む

猫髭


中原道夫「西下(さいか)」は旧字旧仮名で書いてあるので、こゝから舊字舊假名で讀んでみる。

タイトルの「西下」とは、首都を中心にした呼稱で、現代では首都東京を出て西方に下ることを言ふ。この作品の場合は東京都から滋賀縣は琵琶湖への遊山を指す。逆は「東上」と言ふ。京が都だつた平安京の昔は、唐の洛陽に因んで「上洛」と言つた。京から地方へは「下洛」で、『伊勢物語』の「東下り」の落魄を引くまでもなく、語の響きだけで下落を聯想させる。先祖代々京で暮らす人々は、天皇陛下を「天子樣」と慕ひ、「いつか歸つてきやはる」といまだに京都へ戾ることを信じてゐるので、天皇の東下りにのこのこ附いて行つた羊羹で有名な虎屋を「おのぼりさん御用達や」と蔑み、虎屋は東京の老舖だと勘違ひしてゐるおのぼりさんが、←ワタクシノコトダガ、土產に「夜の梅」などぶら下げて行かうものなら「京都では犬も食はへん」とにべもない。確かに虎屋がなくとも茶席に出る京の和菓子は口中に虹を立てる。したがつて、都びとであれば、東京へ行くのを「東上」とも「上京」とも言はないし、云はんや「西下」をや。

わたくしは常陸の國の東男で、夏目漱石が『坑夫』で「赤毛布(あかげつと)」←ヰナカモノノ意、と「芋」をエモと訓ずる、あんまり有難い音聲ではない茨城のエモ男だから、都びとに言はせると「重力が2Gくらゐ重いところや」といけずを言ははる。さういふ京都も國に圍はれた妾のやうな街だと吐き捨てた東都の作家もゐた。誰だつたか忘れたが、太宰治あたりが言ひさう。←ワタクシモ言ヒサウ。

歲時記も虛子が『新歲時記』で「季題の排列は大體東京を中心とし」とするまで京都中心だつたから、昔からの俳人は「時雨は京だけのもんや」と云ふことになるので(一應虛子も「時雨」の季題では「京都の北山の時雨など殊に趣が深い」とお愛想を打つてゐる)、作者もそこのところは心得てゐるので京都へ行くことを「西下」とは言はない。滋賀縣の琵琶湖だから使ふ。滋賀縣民が憮然とするかどうかは大津市にお住まひの対中いずみさんにでも聞かないとわからないが、彼女はおつとりした上品なひとで「雪兎おほきなこゑの人きらひ」と詠んでゐるくらゐだから、唇に手を當てゝ、ふゝゝと微笑むだけだらう。←「私ハ猫派デ鷹派デ秋ノ風」ト詠ンデイルノデ、目ガ笑ツテイルカダウカマデハ知ラナイ。


におの海蘆荻に水も溫むころ

「鳰の海」とは琵琶湖の古名。鳰はかいつぶりの古名で、留鳥だが、俳句では冬の季語。夏になると水面に浮巢を作るので「鳰の浮巢」は夏の季語。「にお」は舊假名では「にほ」なのでタイポ〔*〕。『萬葉集』には「にほ鳥の潛く池水心あらば君に我が戀ふる心示さね 大伴坂上郞女」といふ相聞歌があるから、今も昔もかいつぶりは身近な水鳥と言へるが、當時は琵琶湖は「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ 柿本人麻呂」とあるやうに「淡海(あふみ)」であり「鳰の海」とは呼ばれてゐない。この呼稱が出てくるのは琵琶の形に似てゐるから琵琶湖と名づけた中世のあたりかららしいが、今でも夏になると、琵琶湖の蘆の繁るところにはかいつぶりが姿を見せて、浮巢の近くで頭を脚で搔いてゐる姿など實に愛らしく、夕日の金波銀波に搖られてゐるのを見ると確かに鳰の海だなあと、のほゝんとする。

「蘆荻(ろてき)」は蘆(よし。あしの讀みが良し惡しの惡しにつながるので忌み言葉としてよしと讀まれる)と荻(をぎ)のこと。「夕星を待つか蘆荻に吹かるるか 対中いずみ」といふやうに普通は秋の季語として詠まれる。

湖北菅浦の、白洲正子が「かくれ里」と呼んだ淳仁天皇を偲ぶ櫻、葛籠尾嵜(つゞらおざき)、陽炎に搖れる竹生島(ちくぶしま)の明媚に、北西の魞(えり)さしの光景、川嶋酒造の絕品「松の花」純米大吟釀の淸冽な味も懷かしいが、初夏の六條麥がゴッホの麥畑の繪のやうな恐ろしい色に染まり、一面の蘆のなかで大葦雀と小葦雀が大合唱し、夜は牛蛙の遠吠えがあたりを聾する琵琶湖の內湖である西の湖の圓山あたりの風情もおもむきが深い。この圓山は遊船でも有名だが、日本一葦雀がやかましいと思はれる濕原が廣がる。行々子とは能く言つたものである。

「水も溫むころ」と言へば、岸邊には燈臺草(菜の花のやうに綺麗なので茹でゝ食べたくなるが、毒草である)が咲き亂れ、土筆もばうばふと土手や道路に生えてゐるだらう。鳥と初春の季語「水溫む」の取り合はせは一茶の「鶯烏雀の水もぬるみけり」と云ふ樂しい一句を想起させる。

冬を越えて枯れた蘆荻の殘る琵琶湖の水も溫むころに東京からはるばる來たぜといふ一句で西下十三句は始まる。

分乘に見る春雨の右左

「分乘」とは一團の人々が二つ以上の乘り物に分かれて乘ること。琵琶湖は淡海・近海と、海に比されるくらゐだから、對岸は見えないほど廣い。遠海と呼ばれた濱名湖と同じで、海に出たと思つたら湖だつたと云ふので、海の字をあてるのはわかる。どこに行つたか詠まれてゐないので推測するしかないが、俳聖芭蕉の墓は大津市の義仲寺にあるので、湖西線に京都から山科經由で乘つたと見るのが妥當だらう。湖西線の驛からは場所にも寄るが岸邊まで歩けないことはないが、二月だとかなり寒いので、タクシーやバスを利用して湖畔まで行くのが常套となる。西湖の圓山から舟に分乘と云ふ繪も三句目に筌(うへ)といふ漁具が出るので捨てがたい。確か乘船場の事務所に漁の道具が飾つてあつたはず。

しかし、さうなら舟のそばに恐れることなく寄つてくる鳰を見る筈だから、春雨しか見えない野暮さはタクシーの中と云ふ仕儀になる。車中から詠まれた擦過の句は淺いと相場が決まつてゐるが、手の内を晒して、なほかつわざわざ「見る」と書く蛇足の「見る」。さう書く以上は「見る」に値するものが出てくるところである。

それが「春雨の右左」とはぐらかす。西下して何を見に來たかと問へば春雨を見に來たと言ふ、春雨に右と左の風情ありで、車中の野暮が窻の雨滴まで雅びに見えるやうな「右左」に開き直るところが面白く、實に粹筋。野暮と粹とは紙一重なのが能くわかる、座頭市ならぬ中原宗匠逆手切りの一句。

筌・竹瓮いつを最後に乾きたる

うへ・たつべは同じもので漁具である。細い竹を筒のやうに編み、一端を紐などで閉ぢ、他の一方の口から小魚が入り、外に出られないやうに返しを編んだもの。夕方沼や川に沈めて翌朝引き上げる。俳句では「冬」の季語。それが「いつを最後に乾きたる」と冬を離れて春近しともいふ風情。早春とは言へ肌寒い春雨の止む氣配の漂ふ一句。

茨城の水府川では夏になると、大きな筌に一升甁を入れ練團子を落として上流の淺瀨に沈め鰻を子どもの頃獲つたものだ。作者が見たものは公民館や川端(かばた)に置かれた筌・竹瓮の類かも知れない。子どもの頃にはまだ使はれてゐた漁具も、いつしか魚影が薄くなり使はれなくなつたと云ふ、昭和は遠くなりにけりの一景でもある。魞さしなども栅を湖に立てゝ魚を誘導して追ひ詰めて獲る漁法で、少しでも風が强いと舟は出ないが、觀光客も興じることが今は出來る。琵琶湖沿ひの店はどこでも魞や諸子や鮒などの佃煮を賣つてゐる。播磨灘の鮊子(いかなご)の穉魚の釘煮がいまは時節柄竝べて賣られる。この釘煮は明石名物で「魚棚(うおんたな)」では鮊子が揚つたと一報が入るや、主婦連が自轉車に入れ物を括り附けて買ひに馳せ參じる。一家ごとにその家の味があり、生姜を利かせたもの、山椒を利かせたもの、甘さを抑へて醤油を立てたものなど、その味はひの趣は格別で、どの家の釘煮もうまい。煮崩れないやうに箸を使はずに鍋ごと囘す煮方は共通。

おそろしく値の張る寒の根芹とふ

耳で聞くと「おそろしく根の張る寒の根芹とふ」と根芹好きは聞耳を立てるところ。宮城は名取の閖上(ゆりあげ)漁港(二年前の津浪で甚大な被害を受けた)に近い上餘田(かみよでん)・下餘田(しもよでん)の芹は、香も高く根も立派で日本一の芹の產地であり、根芹といふと、こゝの芹を思ひ出す。この餘田の芹のしやぶしやぶ鍋は今や仙臺の名物料理と化してゐる。牛タンと笹蒲と駄菓子だけが仙臺名物ではないのである。

だから「おそろしく根の張る」やつが上等と云ふことになる。それが「おそろしく値の張る」とすると白髮三千丈ほど長いのであらうか。
これは琵琶湖の西は芭蕉ゆかりの地で僧門の高弟内藤丈草も庵を構へ「我事と鯲(どぢやう)のにげし根芹哉」とおどけた句を詠んでゐるから、その流れの上での値と見た。丈草は芭蕉の臨終を看取つた一人で、その手鹽にかけた根芹の流れを汲むとしたらそれは由緖正しい野菜と言へるし、何と言つても『梁塵祕抄』に「聖の好むもの比良の山をこそ尋ぬなれ。弟子やりて、松茸、平茸、滑薄、さては池に宿る蓮の這根、芹根、蓴菜(ぬなは)、牛蒡、河骨、獨活、蕨、土筆」と歌はれてゐるため、俳句遊びをせんとや生まれけむ作者にとつては、西下して琵琶湖から臨む比良の山ゆかりの聖芹を食ひに參上と云ふ高値がつくのは是非ないといふところか。

摘草を料るにさつといふ手順

わたくしの知り合ひに野遊びにマヨネーズのチューブを持ち歩き、楤の芽や虎杖の若葉を見つけやうものなら、マヨネーズを絞り落してがぶりとやる山羊のやうな男がゐるが、すべての植物には毒が含まれるので(俳人なら一度は西武拜島線東大和市驛前の「東京都藥用植物園」に足を運び毒草案内人の說明を聞かれたし)、まあ、齧るとすれば虎杖ぐらゐが無難である。これは琵琶湖畔にはそこら中に生えてゐる。さきほど根芹が出て來たので「料(りよう)るにさつといふ手順」は芹しやぶと云ふことにすると、近江牛のしやぶしやぶもうまいが、芹しやぶの淸冽さは春を食ふ淸冽さである。根、莖、葉すべて「さつといふ手順」で食す。出汁は昆布・鰹節・干椎茸(どんこ)ベースの八方出汁の醤油味だが、隱し技としてヴィヨン・キューブを一個入れて鷄の脂(鴨肉があればさつと炙つて入れるのがベスト)を加へるとコクが出て芹の香りを引き立てる。和風鍋にヴィヨンかよと驚くなかれ、邪道だと目を剝くなかれ、八方出汁+ヴィヨン、和洋折衷の極みだヨン。「さつといふ手順」を忘るゝ勿れ。

ひたすらにも飽き何處ゆく風二月

何をひたすらにやつてゐて飽きたのかと云ふと、雨だし、寒いし、吟行にも飽きたし、早く暖かいところで二次會やらうよと、句會の前から、句會は參加することだけに意義がありメインは二次會と決めてゐるクーベルタン男爵のやうなやつらを能く見かけるが←ワタクシメモソノヒトリ、これは二月の風なので、「ひたすら(吹くこと)にも飽き」て「おうい風よ、どこまでゆくんだ三月の方までゆくんか」と作者が山村暮鳥よろしく呼びかけたものである。早春の琵琶湖に立てばわかるが、比叡颪がこゝまで吹きつけるかと思へるほどさぶい風が吹く。

立錐の餘地春雨の傘立に

「立錐の餘地もない」を逆手にとつて傘立に割り込ませたもの。意表を突く機智句だが、それだけの面白句かと云ふと、それが俳句かどうかと云ふ見立てでよく言はれる「季語が動くか」をチェックすると、この「春雨」は動かない。夕立でも秋雨でも時雨でも春雨の艷には敵わない。唯一「御降」と云ふ新年の目出度い雨があるが、聊か恐れ多いので、矢張り春雨に立錐の餘地だらう。遊んで、なほかつ季語が動かないのがプロの藝と言へる。

俳句は季語と云ふ白杖(はくぢやう)を突いて歩かないと轉んだりしたら骨折でもして命に關はるから、白杖にあたる季語がしつかり地面をとらへてゐないと歩くのもおぼつかないのである、とは坪內捻典氏の辯だつたか。かういふ逆手句は作者の獨擅場で、氏を尊敬する雪我狂流氏などは「傘立てに紫陽花山の水溜まる」(句集『冷奴』)と逆手句を詠んでゐるほどだ。

懷手湖岸は煙るものとして

琵琶湖に立つと思ひ出すのは「から崎のまつの綠も朧にて花よりつゞく春の曙 後鳥羽院」を飜案して「辛崎の松は花より朧にて」と芭蕉が剽竊した句。もろパクがゆゑに子規が「飜案の拙なるは却つて剽竊より甚だしき者あり、この句は芭蕉のために抹殺し去るを可とす」と、まるでインポッシブル・ミッションの「おはやう、フェルペス君」と云ふ挨拶に續いて出す暗殺指令のやうに、完膚なきまでに俳聖を扱き下ろしてゐる。

作者の眺める「煙るもの」には、後鳥羽院の花も松も隱れてゐるのだが、芭蕉も「我はたゞ花より松の朧にて、おもしろかりしのみ」などと氣取らずに「我はたゞ後鳥羽院の歌を盜みしのみ」と正直に笑ひ話にすればえがつたのに。えがねえか、こゝまで似でつと。

老殘のなぐさみ盆の梅ひらく

「慰め」は慰めるといふ行爲が中心で、「慰み」はその內容が中心となるので、こゝでは作者が手鹽にかけたわけではなく、どなたかが手鹽にかけた盆梅の開花を慰めに感じ入るほど、自分も老いさらばへたかといふ韜晦の一句。採りたてゝ見どころのある句ではないが、だいたい、盆栽といふのは凡才と耳で聞き違へるから、自尊心がぎんぎんぎらぎらのうちは手を出さない趣味で、この枝振りがまたいいのよね~と愛でゝゐる小學生を見かけるのは、皆無ではないとしても難しいものがあり、盆栽を慰めとするにはそれなりに足腰が立たなくなるといつた條件が必要になり、俳句も佛壇に入るのが近くなつてから俳壇に立ち寄るくらいがちやうど良くて、「生きのいゝ奴がやるものではない」から(詩人の吉本隆明が、むかし歌人の岡井隆と論爭した時に罵倒した言葉です)、この「盆の梅」は作者にとつては俳句の隱喩ともなつてゐるといふ味はひがある。

とはいへ、盆栽は傍で見るよりも過酷な趣味で、かなり木を虐めないと姿は良くならないから、ある意味サディスティックとも言へるし、試しに盆梅を預かつてみればその大變さはわかる。ちなみにわたくしはあつと言ふ間に枯らしてしまいました。金魚と似てゐて、構ひ過ぎても構ひ過ぎなくても死んでしまふ。俳句もさうですな。

つつがなく酒(ささ)が回れば諸子焦げ

「回れば」は舊字だと「囘れば」なのでタイポ〔*〕。もろこと云ふのは鯉科の十センチほどの魚で、琵琶湖の子持ち諸子が夙に名高い。この「夙に名高い」といふ言ひ種はわたくしは石川淳、隨筆雅號「夷齋(いさい)」先生の隨筆で知つたが、琵琶湖の子持ち諸子はこの言ひ種が相應しい琵琶湖の春の味である。殊に、近江富士と浮御堂を正面に臨む大津市本堅田の「魚淸樓」の諸子燒が究極とされる。炭火で兩面を炙つた後に諸子を頭から網に刺して脂を落すためである。醋醤油でいたゞく。「琵琶湖の姫」と呼ばれる佐保姫の味が口中に廣がる。

前菜として諸子をいたゞけば、あとに控へしは落雁發祥の地といふことで、靑首鴨の雄の鴨鍋。西は肉は砂糖を合はせる。近江牛も鋤燒は先づ砂糖で肉を炒めることから始めるが、出汁が薄味なのでさつぱりしてゐるやうに、こゝの出し汁もくどい砂糖味の鍋が增えてゐるのに抗ふやうに昔ながらのはんなりとした甘みの味で、〆の鴨雜炊がこりやまた絕品で、三十三間堂そばの「わらぢや」の鰻の筒切り鍋の〆の雜炊と竝んで京鍋の雜炊の華と言へる。

眼福滿腹のあとは目の前の「魚富商店」で魞の佃煮や鮒鮨を家苞(いへづと)にすれば、鳰の海の散財はこゝに極まる。

荒ち男の病むと聞きたり蜆汁

蜆は寒蜆といふぐらゐで冬の季語で、汽水に棲息するため宍道湖の蜆が有名だが、この連作は琵琶湖を背景にしてゐるので大津市瀨田の琵琶湖の純淡水の固有種、「瀨田蜆」を指す。我が鄕里も蜆の名產で、涸沼湖の蜆、那珂川の蜆漁は冬の風物詩。朝になると蜆賣りが「蜆はでつかいよお、父ちやん蜆だよお、榮養蜆だよお」と賣りに來たのは未だに耳に殘つてゐる。北上川や十和田湖の蜆も名高く、北上川の「鼈甲蜆」は色合ひも美しく大柄で紹興酒でさつと口が開くくらゐに煮て食べると蜆の槪念を覆す風味が絕品。瀨田蜆も黑色の色合ひではなく褐色の强い彩で、琵琶湖の滋養が口中に廣がる。古來より腎臟に效くといひ、元祿時代は侍の死亡率ナンバーワンが酒毒(アル中)で次いで腎虛(セックス過多)だと朝日重章『鸚鵡籠中記』に出て來るくらゐなので、この「荒ち男」もその英雄色を好む益荒男ぶりを彷彿とさせる一面を垣間見せるが、「聞きたり」といふ傳聞に「蜆汁」といふことから、腎を患ふと思しき友を憂ひ、滋養にと手向けた挨拶句といふことになる。

括淡と延べ春の湖國土なす

湖をうみと讀ませるのはわたくしは俳句では好まない。辭書にもさういふ讀みはないからといふこともあるが、俳句は詩ではないから、詩のやうに恣意的に言葉を括るのは外連が强過ぎるためである。俳諧では、「木枯の言水(ごんすい)」と呼ばれた、

凩の果はありけり海の音 池西言水

といふ有名な句があるが、この句には「湖上眺望」といふ前書きがあり、「海」は琵琶湖で、「木枯」は比叡颪を指す。琵琶湖を鳰の海とは呼びなすが、鳰の湖とは書かなかつたやうに。書けば相撲取の四股名になつてしまふ。

たゞ、この句は言水の逆手で琵琶湖連作の體を取つてゐる。言水が「湖」を「うみ」とは読めないので「海」と書いたやうに讀みだけを借りた體を取つてゐると言へなくもないので、固いこと言ふ勿れといふ仕儀
になる。琵琶湖だけは「鳰の海」と呼ばれてゐることを閱すれば、「國土なす」といふ雄渾の座五に納まる「春の湖(うみ)」とは琵琶湖以外にないだらうから。「括淡と延べ」にわたくしは葛籠尾崎の岬の伸びやかさを見る。

啐啄やきさらぎの殼まだ堅き

啐啄(そつたく)とは、雛が孵らうとするとき、雛が殻の内側からつゝくのを「啐」、母鳥が外からつゝくのを「啄」といふことから、逸すべからざるよい機會を指す。「啐啄同時」とは、「禪において、悟りを開かうとしてゐる弟子に、師匠が、うまく敎示を與へて悟りの境地に導くことを指す表現」(大辭林)なので、禪問答を想起することが多いが、わたくしは幸田文と父露伴との慈愛に滿ちた、しかし、娘から見れば父の「啄」にうまく啐啄同時とはいかなかつた「啐」から生まれた『ちぎれ雲』、『こんなこと』、『父-その死-』といつた數々の名隨筆を思ひ出す。『こんなこと』に含まれる「啐啄」といふ、父露伴と娘文、母文と娘玉の親子三代に亘る性敎育の「啐啄同時」の隨筆はなかんづく。

「颱風の目つついてをりぬ豫報官」と詠んだ作者のことだから、挙句の如月の殼をつゝいてゐる親鳥は作者といふことになるが、どうも『不思議な國のアリス』に出て來るやうな愛嬌たつぷりのドードーを聯想してしまふ。


花粉症の嚔連発からぎっくり腰を招聘し、加えて坐骨神経痛を併発、寝釈迦のように腰がびだまって寝込んでいた無聊を慰める琵琶湖吟遊十三句連作であった。宗匠の逆手詠みに感謝。旧字旧仮名変換には「「正(旧)仮名遣ひ⇔現代(新)仮名遣い」相互変換~まるやるま君」を主に活用させていただいた。感謝。



〔*〕【編集部・註】
記事中指摘されております「タイポ」は、編集部・西原天気による誤植です。訂正させていただくとともに、謹んでお詫び申し上げます。

2013年4月8日月曜日

●月曜日の一句〔伊藤敬子〕 相子智恵

 
相子智恵







息小さく小さくつかふしじみ蝶  伊藤敬子

句集『淼茫』(2013.2 角川書店)より。

しじみ蝶は1~3cmほどの小さな蝶だ。じっと観察していると、気門のある腹が〈小さく小さく〉動いている。「虫の息」という言葉もあるくらいで、まさに蝶の小さな息遣いに、作者は愛おしさを感じている。

俳句は言葉数が少ないので、リフレインが使われることはそれほど多くはなく、私自身も使うときは慎重になるほうだ。

掲句は、リズムに合わせて読むとすれば、最初の〈小さく〉は「ちさく」で、次の〈小さく〉は「ちいさく」となる。「ちさくちいさく」と舌の上で転がしてみると、「ちいさく」の部分で、こちらまでだんだん小声になってくるような気がする。

全体に「ⅰ」の母音が続くからだろうか。しじみ蝶を思い浮かべながら音読すると繊細さが増して、一読した限りでは見落としてしまいそうな平明な一句が、俄然輝き出すのである。

2013年4月7日日曜日

〔今週号の表紙〕 第311号 鉄道

今週号の表紙〕 
第311号 鉄道

西原天気



2006年春のことです。東京・神田須田町、万世橋近くにあった「交通博物館」がさいたま市に移設されるというので、出かけました。もとは「鉄道博物館」と呼ばれていただけに(1948年に改称)、鉄道関係の展示がメインです。

(行き交う人の服装が冬みたいなのはこの日が3月13日で、まだ肌寒かったのでしょう)

鉄道とは文字どおり「鉄」なのですね。線路が、というだけでなく。それが体感できました。くわえるに「煉瓦」。鉄道の歴史は、鉄と煉瓦。そう感じました。

さいたま市の「鉄道博物館」も、いつかは行ってみたいものです。


ところで、鉄道が人類にもたらした新しい体験、新しい視座のことは、もっと取り上げられていいと思います。その意味で、橋本直さんの「俳句の自然 子規への遡行」第5回は重要です。
(…)鉄道網は、自分の生活圏を越えて長距離移動をすることで自動的に身を風景の内部から切り離す役割を果たし、さらに車窓というフレームを通してパノラマ的に連続して展開する風景を乗客にもたらすという意味で、先のパノラマ館の仕組みによく似た装置ともいえる。(…)全通した東海道線は、視野におさまる世界をパノラマ化し、その車窓から見える風景を乗客と切り離す装置でもあるだろう。



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2013年4月5日金曜日

●金曜日の川柳〔井上刀三〕樋口由紀子



樋口由紀子







世帯して俺のくらさにおどろくな

井上刀三 (いのうえ・とうぞう) 1902~1937

春は結婚ラッシュ。「世帯して」とは所帯を持つということである。そういえば、所帯を持つという言辞は近頃あまり言わない。結婚してという意味である。今はすべてをわかりあってから結婚へと進むのであろうか。結婚したら違う人みたいだったというのは私の若い頃にはよき聞く話であった。

「くらさ」は刀三の存在そのものなのだ。どうしようもないくらさを彼は抱えていたのだろう。そのことを彼自身は気づいていたし、気になっていた。だから、「おどろくな」と高飛車に出たのだ。実際の刀三は多弁で才気活発な人だったので、掲句は川柳の先輩たちの格好の話題になったらしい。

〈鏡も恐ろしきものの一つなり〉〈母が鬼子といいしがまことか〉〈添うてたらきつとお前をぶつている〉(合同句集『雑音に生く』1929年刊)所収。

2013年4月4日木曜日

●眉間

眉間


先頭の舟虫にして眉間なし  林 正行

女正月眉間に鳥の影落つる  飯島晴子

病むとなく眉間が痺る桐の花  佐藤鬼房



2013年4月3日水曜日

●水曜日の一句〔津川絵理子〕関悦史



関悦史








切り口のざくざく増えて韮にほふ  津川絵理子

韮というのも包丁の研ぎが甘いとそうざくざくとは切れないもので、この切れ味からだけでも、調理用具から台所まで手入れの行き届いたさまが浮かぶ。

普通ならば「切る」にかかる「ざくざく」が「増え」にかかっているのが俳句的なひねりだが、単に印象鮮明になるばかりではない。切り刻まれることが衰退にも無害化にも繋がらず、却って増殖してにおいを強めてしまうという形で、韮の怪しい生命力を引き出しているのである。

禅寺の門には「不許葷酒入山門(葷酒山門に入るを許さず)」という石碑が建てられている。「葷酒(くんしゅ)」の「葷」は韮、葱などの香味野菜を指す。酒だけではなく、これら香味野菜も寺に持ち込んではならないのだ。精がついてしまうので修行の妨げになるとされたらしい。

句の中の時空では、いつまでも韮が刻まれる。クローズアップされた無機的な反復が、清潔感と韮の微かな妖気を立ち上らせる。そしてそれらはそっくり、切っている人物にもうつる。

句集『はじまりの樹』(2012.8 ふらんす堂)所収。

2013年4月1日月曜日

●月曜日の一句〔矢島惠〕 相子智恵

 
相子智恵







寄り合ひてこそ白魚の透けにけり  矢島 惠

句集『邯鄲の宙』(2013.3 本阿弥書店)より。

白魚は生きているときは半透明で、死ぬと白くなる。

半透明の生きた白魚を一匹で見ているときよりも、寄り集まってこそ透けて見えるという。それは実際の景というよりは、心象的な、詩的な把握ではないだろうか。

〈寄り合ひてこそ〉という措辞は、ただ白魚が集まっている状態というよりも、魚たちが意志を持って集合してきているように読めて、擬人化のような体温を感じさせる。

幾匹もの白魚が寄り集まり、集まった魚たちは透明に融けあう。どことなく恍惚とするような不思議な感覚がある。そのまま白魚たちはどんどん透明になって、朧のように消えてしまいそうだ。幽玄な春の一句である。