2013年5月31日金曜日

●金曜日の川柳〔北野岸柳〕樋口由紀子



樋口由紀子







小糠雨やにわに踊り出す兵士

北野岸柳 (きたの・がんりゅう) 1946~

「小糠雨」が以前と以後の境になった。小糠雨に濡れることによって、何かがふっきれたのだろう。この踊り、抑えていたものが溢れ出て、踊るしかない、涙を浮かべながらの、踊りと読むこともできる。しかし、ふざけて踊っているようにも読める。

が、踊り出すのは「兵士」である。やっぱり胸にじんとくる。ふざけて、笑いながら踊っていたらなおさら悲しい。兵士は他人から与えられた使命を行っていて、本当にやりたいことができない生き方を強いられている人を指しているように思う。自己戯画化して、兵士は岸柳自身のような気もする。小糠雨を前と後、どっちが本物の彼だろうか。どっちも岸柳だろう。人間の、生きて有ることの本質を見据えている。

北野岸柳はユニークでエンターテイメント性のある川柳人で、エフエム青森「これでも川柳おれは岸柳」という番組を10年以上放送していた。「おかじょうき川柳社」前代表。



2013年5月29日水曜日

●水曜日の一句〔中尾公彦〕関悦史



関悦史








ゆく秋の鳥籠が鳥さがしをり   中尾公彦


カフカのアフォリズム「鳥籠が鳥を探しにいった」に季語を付けた作りの句。

原典と微妙に異なるのは、鳥籠が他のどこかへ動いていってしまったという不在の要素が希薄になっている点で、こちらは鳥籠という物件自体に焦点が合っている。

カフカのアフォリズムは因果関係の倒錯が主で、カフカが小説で描いた、人が作った官僚組織が人を潰していくような悪夢的逆転がシンプルに寓意化された結果、不気味なユーモアが立ち上がるといった印象だが、そこに敢えて「ゆく秋の」を付けるとどうなるか。

季節のうつり変わり、衰滅へと向かう時の流れの中での物思いという内面性が付与され、鳥籠の擬人化の位相が異なってくる。己の中にあるべき「命」が抜けてしまった物件への同調が前景化してくるのである。

「さがす」も空間内の移動ではなく、時間内、歳月の中での彷徨という印象が強まってくる。

この抒情性が自己憐憫に陥らないのは「鳥籠」の乾いた明快さと「命」への苛烈な希求が中心にあるからで、句集『永遠の駅』はそうした方向の気迫に満ちた佳句を多く含む。《トースターの熱線二本猟期来る》《傷口に脈のあつまる夜の新樹》《競泳の水の強さを割つてをり》《すばるとは永遠(とは)の駅なり竜の玉》《花しぐれ憂ひは万年筆の中》《雁わたり捲(めく)られてゆく山河あり》《眼底の曼陀羅赤し枯野星》《佐世保には原潜の在り海灼くる》等々。

ただし「命」への希求が主な詩因となっているということは、本源的なものから疎外されていてそこからの回復が目指されるという一種のロマン主義によって句が成り立っているということであり、そこから出てくる気迫や力感は、疎外という自己悲劇化を土台とせずには成立しないということと表裏一体でもある。これが自動化したときには、「命」の輝きを作者が居座ったまま私するのみとなるという危険もつねに裏に貼りついているのだ。

句集『永遠の駅』(2013.4 文學の森)所収。


※なお、この句集には以下の二句が含まれている。

まだ夢を見てゐる牡蠣をすすりけり  (173頁)

蔵王権現おほむらさきを放ちけり   (200頁)

これはそれぞれ

まだ夢を見てゐる牡蠣を食ひにけり   関悦史(『新撰21』『六十億本の回転する曲がつた棒』収録)

磨崖佛おほむらさきを放ちけり   黒田杏子(『木の椅子』収録)

と酷似しているが、著者に問い合わせたところ、どちらの句も知らず偶然似たとのことだった。

2013年5月27日月曜日

●月曜日の一句〔森賀まり〕相子智恵

 
相子智恵







一面の草に雨音金魚玉  森賀まり

「金魚玉」(『静かな場所』第10号-2013.3)より。

美しく、不思議な取り合わせの句である。

〈一面の草に雨音〉には、雨の日の草原や、広い芝生の庭を想像する。土やアスファルトを叩く雨音ではなく、草が受け止める雨音は、やわらかくやさしい音だろう。しっとりと濡れた草が目にもやわらかく想像されてくるが、〈雨音〉だから、実際には家の中にいて風景は見ておらず、音を聞いているだけなのかもしれない。

そこへ取り合わせの〈金魚玉〉である。軒先に吊るしているのか、家の中に置いているのか、どちらにせよ、いま見ている光景はこちらである。硝子の中には水と金魚。金魚のための藻も入れてあろうか。

金魚玉という閉じ込められた水の世界に、草に降る雨音という、天から自由に降る水の世界が取り合わされる。雨音を聞きながら金魚玉を見ていると、球体越しにゆがむように、遠景の草の雨が重なってきて、次第に水の境界線があいまいになってきて、自分が金魚玉の水中にいて、金魚のほうが雨と一緒に空を飛んでいるような、すべてが空気のない水中の世界の中のできごとのような、夢心地になってくるのである。



2013年5月26日日曜日

〔今週号の表紙〕 第318号 風蓮湖の小屋 有川澄宏

今週号の表紙〕 
第318号 風蓮湖の小屋

有川澄宏


北海道風蓮湖のほとりに建つ、気になる三角屋根の小屋です。

根室市の春国岱で野鳥や野草を見たあと、国道44号・243号・244号をぐるっと廻って野付半島に行こうと、まず風蓮湖脇の44号線を走っていると、風蓮湖を望む草むらの中に、緑色の三角屋根の小屋が、ぽつんと建っていました。

あれは銅板葺に緑青がふいている? でも、そうではなかったようですが…。

この緑色が好きなのは、私が20代後半、建築史家の藤森照信さんが「看板建築」と名付けた商家の、通りに面した二階の一室を、事務所として借りていた時期があったためです。通りから見上げると、なんとも落ち着いた懐かしい建物です。

下のHPに出てくる、早稲田通りの一軒の近くに、私の事務所もありました。青春のひとときです (^_^)b。

看板建築

この三角屋根に興味を持った人が、他にもいました。そのブロガーは、草をかき分け、小屋まで行って、中を覗いたそうです。中には珈琲店の道具らしい物が散乱していたそうです。でも、お店としては狭い、物置としては立派過ぎる、と首をかしげています。

次の日の夜、絶滅危惧種のシマフクロウに会えました。


ありかわ・すみひろ
1933年、台北市生まれ。「古志」「円座」所属。「青稲」同人。web連歌参加。



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2013年5月24日金曜日

●金曜日の川柳〔海堀酔月〕樋口由紀子



樋口由紀子







骨は拾うな 煙の方がぼくなんだ

海堀酔月 (かいぼり・すいげつ) 1917~2007

人は死ぬと遺体は焼かれ、残されたものは骨を拾う。斎場には天にのぼりゆく煙。号泣のあと、静まりかえった風景…。クライマックスである。でも、そうではない。

「骨は拾うな」と言われたら、一瞬立ち止まる。何か大きな理由とか信念があるのかなと思ったら、「煙の方がぼくなんだ」とは。肩透かしを食らったようで、肩の力が抜けて、可笑しい。人は消えてなくなるものよりも形になって残るものを信じたがったりする。

〈ちょっと貸した耳が汚れて戻ってくる〉〈ほんとうは泳げるんです豆腐〉〈雲を一つ買って交際費でおとす〉。どの句もチクリと風刺が効いていて、可笑しい。あたりまえと思っている日常のひとこまをさらりと批評眼で見る。さらりと書いているが内容は奥深い。何気なく書かれているが辛辣である。こう言ってのけるところがまさしく川柳の諧謔性である。句集『両忘』(2003年刊・現代川柳点鐘の会)所収。

2013年5月22日水曜日

●水曜日の一句〔佐怒賀正美〕関悦史



関悦史








青梅雨や都電に坐る人魚がほ   佐怒賀正美

この句が収録された『天樹』という句集、全体にもののけめいたものがよく登場する。

《秋暑し夜行の百鬼つまずくも》《冥王星目立たぬ金魚のやうに笑む》《土竜叩きいつしかどれも地震(なゐ)鯰》、それから《大挙して文字化けになる蝌蚪の国》の「文字化け」も化け物っぽいし、福島第一原発事故を詠んだ《原子炉の化けものの息さくら闇》でも原子炉が化けている。

化け物が出ていてもどの句も意味がわかりやすすぎるくらい明瞭で、きっぱりした線で描かれた絵巻物の妖怪を思わせる。愛嬌もあり、あまり怖くはない。

その中で、もののけが出そうな気配、空気感にやや踏み込んでいるのが掲句。

都電に何やら怪しげなものが座している。

尋常な長髪の女性なのだろうが、顔が人魚めいているという。

過去の遺物じみた都電は起伏の多い下町の路面を、ときには人の家の裏庭をかすめるようにもして、上下左右に曲がりくねりながら進んでいく。

梅雨の湿り気と生い茂り出した植物の生気が狭い車内に滲み入る。

多少の怪異が起きてもあまり違和感のない舞台装置だが、都電そのものが今ではいささかもののけめいており、唐突な「人魚」の介入で、都電までもが絵巻物の世界に引き入れられて妖怪とされてしまったような風情。

句の言葉が物に向かうよりは、意匠を組み上げることを志向しているので謎には当然乏しい。妖怪絵巻に新たな妖怪を付け足していく楽しみに付き合うようにして、読者は句集を通り抜けていくことになる。


句集『天樹』(2012.10 現代俳句協会)所収。

2013年5月21日火曜日

●童貞

童貞

朝日あり童貞の尻固すぼみ  金子兜太

童貞や根岸の里のゆびずもう  仁平勝

春や童女即童貞の喉ちんこ  三橋敏雄

蝌蚪のごとき童貞の日の詩やまづし  川口重美

責めてどうするおおむらさきの童貞を  金原まさ子〔*〕


〔*〕金原まさ子句集『カルナヴァル』

2013年5月20日月曜日

●月曜日の一句〔宮木忠夫〕相子智恵

 
相子智恵







滾々と銀の水吐く皐月富士  宮木忠夫

句集『初雁』(2013.2 角川書店)より。

富士山が世界文化遺産に登録される見通しとなったというニュースがあった。ゴミ問題などから、かつて落選した「自然遺産」ではなく、日本独特の芸術文化を育んだ「文化遺産」としての登録だ。

思えば〈皐月富士〉という季語もまた、文化の産物である。旧暦五月のころの富士山を指す〈皐月富士〉は、手元の歳時記をさっと見ると〈雪もおおむね消えて山肌を見せ、夏山らしい雄渾な姿となる〉と書かれている。

実際の富士山が持つ視覚情報を〈皐月富士〉ひとことに詰め込み、「ああ、五月の富士山ってそうよね」と皆の脳内に共通したビジュアルイメージを描かせる強さ。それは目の前の自然ではなく、共通の美意識という文化のうえに成り立っている。季語とは、その根底には自然があっても、あくまで文化だということを思い出させる。

〈滾々と銀の水吐く〉という富士山の擬人化。〈銀の水〉という、清冽ながら煌びやかな貴金属を想像させる「銀」という色の選び方。そこにある雄大さは、富士山の持つ「物語(文化)込み」の雄大さである。〈滾々と銀の水吐く〉物語の富士山は、実際の富士山よりも我々の中に大きくそびえたつ。エネルギッシュに銀色の清水を吐き続けるその雄渾な姿は美しく、しかし、恐ろしくもある。



2013年5月19日日曜日

〔今週号の表紙〕 第317号 ジャカランダの樹 句童ぐみ

今週号の表紙〕 
第317号 ジャカランダの樹

句童ぐみ



最初、遠くの景色の中にこの花盛りを見た時、薄紫の雲が降りて来て樹を覆っているかのようでした。

中南米原産の樹とか。道理で厳寒になるニューヨーク周辺では、見た事がなく、ロサンゼルスへ移って来て初めて目にしました。五月になると咲き始め、母の日の前後に満開となります。この辺りの種類は、葉の出る前に咲くので、薄紫の花がびっしりと枝を埋め尽くします。

上の写真は、ロサンゼルスのトーランス市で撮ったものです。近くに、「ミツワ」と言う日本食料品専門の大きなスーパーマーケットがあり、夏祭などが行われます。金魚すくい、ヨーヨーつりなど、屋台の食べ物とか本格的縁日気分で、小振りですが御神輿も登場、神輿かつぎ同好会も結成されています。どこにこんなに居るのかと驚くほどの日本人の数が集まります。

昔、渡米した日本からの移民達は、ジャカランダの花が桐の花に似ているところから、桐もどきと呼んで、遠い祖国に思いを馳せたとか。当時とくらべ、このグローバル化を、じゃからんだの樹は、静かに見守っているようです。

くどう・ぐみ
1933年、東京生れ。東京育ち。広告デザインを学ぶべく渡米。LAのトーランス市在住。在米46年。日本の宝である俳句を勉強中。無所。



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2013年5月17日金曜日

●金曜日の川柳〔鶴彬〕樋口由紀子



樋口由紀子







暴風と海との恋を見ましたか

鶴彬 (つる・あきら) 1909~1938

鶴彬は〈万歳とあげて行つた手を大陸において来た〉〈手と足をもいだ丸太にしてかへし〉〈屍のゐないニュース映画で勇ましい〉〈胎内の動きを知るころ骨がつき〉などで、反戦川柳作家として、川柳以外の人にもその名はよく知られている。

思想犯として、昭和12年12月に治安維持法違反で特高警察に検挙され、昭和13年9月に収監中に死去。まだ29歳であった。「鶴彬―こころの軌跡」(神山征二郎監督)の映画にもなっている。

掲句は大正14年。鶴彬16歳のときの作。彼は石川県で生まれ育っている。日本海のあの荒波の、暴風を海との恋ととらえている。詩的でロマンチストである。その少年に厳しい現実があり、直面する。彼は生きる姿勢を明確にして、プロレタリア川柳人になっていく。穏やかに生きていくのを社会が阻んだ。〈もう綿くずを吸えない肺でクビになる〉〈エノケンの笑いにつづく暗い明日〉

2013年5月16日木曜日

●チンドン屋

チンドン屋


チンドン屋しづかに狂ふ大夏野  攝津幸彦

チンドン屋踊る生生流転かな  八田木枯

チンドン屋吹かれ浮かれて初嵐  吉屋信子

片蔭にチンドン屋夫妻しずかな語  西東三鬼


2013年5月15日水曜日

●水曜日の一句〔峯尾文世〕関悦史



関悦史








ふるさとに水平線のある淑気  峯尾文世

山河や田畑の連想がつきまとう「ふるさと」という鄙びた語と、いかにも歳時記的情趣の勝った「淑気」の語との間に「水平線」が割って入る。

海に面した地方に育てば見えるのが道理だが、これを「海」と言ったら別な句となってしまう。

「水平線」には自然の景色がそのまま抽象に繋がり、永遠性を帯びる趣きがある。生活圏と隔絶し、雑多なものが捨象された遠方の清潔感が、バシャバシャ入って行けたり、海産物が取れたりしそうな「海」では消えてしまうのだ。

この清潔な抽象が、この句の語り手にとっては「ふるさと」の欠けてはならない要素なのである。

星空への憧れのような、地上の全てを離れる垂直の童心とは別の、水平の畏怖と量感と清潔に囲繞された正月。海の見えない地域で過ごす者には縁遠い性質の「淑気」が水平線に見出されている。

しかしこれはそこに根を下ろしている者からはあまり出てきそうにない視点でもある。いわば、都市生活者による審美的な目で捉え直された、一時帰省中の「ふるさと」だ。

結論的な「淑気」の生活圏的安定に一句が覆われていることから「水平線」もごく無害な美しい景観といったポジションに落ち着いてしまうことになるのだが、その非人間的なスケールは、作者の安らかな既知の審美性に収まりきらない微かな不穏さを発している気配もあり、それが句のうっすらとした筋力となっている。


句集『街のさざなみ』(2012.8 ふらんす堂)所収。

2013年5月14日火曜日

●ホース

ホース

虹をまく青きホースや春の庭  三橋孝子〔*〕

春園のホースむくむく水通す  西東三鬼

牛冷すホース一本暴れをり  小川軽舟

罪のごとホースで縛し糞尿車  田川飛旅子


〔*〕『雷魚』第94号(2013年5月1日)

2013年5月13日月曜日

●月曜日の一句〔中尾公彦〕相子智恵

 
相子智恵







白靴やコルクを割ればポルトガル  中尾公彦

句集『永遠の駅』(2013.4 文學の森)より。

ポルトガルの海辺でワインのコルクを抜いて飲んでいるのだろうか。白靴が乾いた地中海の空気によく映えている。

……と一応は、その場面を想像できる句なのだが、想像できる場面だけで読んでしまうと、何かが抜け落ちてしまうような、言葉の組立ての妙がある句である。〈コルクを割れば〉という小さな眼前のものから〈ポルトガル〉という大きなものへ、急にスコンと開けていく詩的なずらし、その意外性の妙味といおうか。

ポルトガルつながりでいうと、加藤郁乎に〈昼顔のみえるひるすぎぽるとがる〉という有名な句があって、この句も下五の取り合わせを解説しようとしても無理であるし、そんなことをしても句の良さを損なってしまうだけである。同様に中尾氏の句に関しても、像が結ぶとはいえ、解説的な鑑賞では句を輝かせることはできず、かえって野暮に思える句だと思う。

具象のようで抽象。色合いの明るさだけが心に残り続ける。



2013年5月12日日曜日

〔今週号の表紙〕 第316号 飛行機 西村小市

今週号の表紙〕 
第316号 飛行機

西村小市



航空自衛隊入間基地(埼玉県)に着陸しようとしている飛行機です。U-4 多用途支援機と思われます。U-4はビジネス機ガルフストリームIVを航空自衛隊仕様に改造したもので、人員や小型物資の輸送、訓練支援等に使用されるそうです。

ライト兄弟が世界初の本格的な有人飛行を行ったのが1903年、飛行機が誕生して110年ということになります。1908年にアンリ・ルソーが描いた「糸を垂れる釣り人」には空を飛ぶ複葉機の姿があります。

日本での初飛行は1910年(明治43年)12月。翌年の6月に石川啄木は「見よ、今日も、かの蒼空に 飛行機の高く飛べるを」という詩「飛行機」を書きました。飛行機は人々を引きつける魅力と新しさを持っていたのでしょう。そして「戦争の世紀」の間に様々な「発展」を遂げました。

わが家の近くに入間基地があり、飛行機を見ない日はほとんどありません。爆音がきこえると空を見上げます。軍用機は好きではありませんが、飛行機の飛ぶ姿は美しいと思います。

にしむらこいち
1950年生まれ。2007年より「ほんやらなまず句会」参加、2012年「街」入会。



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2013年5月10日金曜日

●金曜日の川柳〔阪井久良岐〕樋口由紀子



樋口由紀子







午後三時永田町から花が降り

阪井久良岐 (さかい・くらき) 1869~1945

「永田町」と言えば国会議事堂・首相官邸があり、政界を考えてしまう。しかし、この「永田町」は当時永田町にあった華族女学校をさす。午後三時に華族の令嬢たちがお迎えの車に乗って、それこそ華やかに下校する有り様を「花が降り」と詠んだのだ。「花といえば美人という聯想がうかんでくるのは申すまでもない」と自解している。

阪井久良岐は井上剣花坊と共に川柳中興の祖と言われている。狂句の全盛時代に都市の風俗詩としての原型である古川柳にかえれと提唱し、狂句を脱した新川柳にとっての最初の組織づくりをした。

しかし、古川柳を江戸の風俗詩とする考え方をもって、新川柳を東京の風俗詩とし、その美学から出ることはなかった。〈大道で唐本を売る九段下〉〈玉川へ来て廣重の波の色〉

2013年5月9日木曜日

●ベンチ

ベンチ

池広し月にベンチのあるほかは  永井龍男

ささくれしベンチに雪のけはひあり  笹木くろえ〔*〕

食慾はひょっとベンチのやうなもの  阿部青鞋


〔*〕『鏡』第8号(2013年4月1日)

2013年5月8日水曜日

●水曜日の一句〔金中かりん〕関悦史



関悦史








畑打のポケットにある聖書かな  金中かりん

畑を耕すときにまで聖書を身に着けているというのは、その人にとって聖書がほとんど護符のような、恃みとなる呪術的物件として内面化されているということだろう。

ところでこの畑打は他人なのか、語り手自身のことなのか。

他人のポケット内は見えないが、家人が持って畑に出ているということであれば知っていてもおかしくはない。

句集には他に農作業の句が幾つもあるので、おそらく語り手自身のことなのだろうが、そうした副次的情報は別としても、別な誰かへの共感ととると句が平板になる。自身のことととったほうが良い。

自身のことならばもう少し身に引きつけた、一目でそれとわかる描き方をしたほうがいいのかもしれないが、この古拙な客観視した描き方が、自分の想いに立てこもらず、それを畑の広がりと作業の敬虔さへと解放させている気配もあり、句自体がもはや自他の区別はどうでもよい単純明快なイコンと化しているように見えてくる。

句集『榠樝』(2013.4 ふらんす堂)所収。

2013年5月7日火曜日

【俳誌拝読】『鏡』第8号(2013年4月1日) 野口裕

【俳誌拝読】
『鏡』第8号(2013年4月1日)

野口 裕


各人一句。気が向けばコメントを。

冬天やひとこと欄に文字はなし
  東直子

「文字はなし」と書けば、文字が溢れかえる不思議さをあらためて思う。否定形に似合っているのは冬。

猫の子を筆であやして大人めく  佐藤文香

「大人めく」と書いて、モラトリアムの気分か。猫の子とネオテニーの対比。

うすらひに触れて指先すこし反る  羽田野令

的確な描写と見えて、「反る」という行為の秘める含意もまた、高柳重信の「身をそらす虹の」うんぬんを参照したくなる。

朝寒の駅大勢のわれ急ぐ  遠山陽子

雪をんなしづくきらきらしてゐたる  谷雅子

春の夜の商談怒号に終るとや  大上朝美

くちびるのわづかなる揺れ雪催  笹木くろえ

海賊の仲間になれる宝船  寺澤一雄

初夢のジャックスパロウ女からビンタ。

川べりに自転車並ぶあゆの風  村井康司

暖房の風に頁の揺れている  越智友亮

ガードレールを横ずさりして寒鴉  中村裕

爪立ちて探す本あり日脚伸ぶ  森宮保子

地球儀をつぶすおつぱい百千鳥  大木孝子

アマゾネスの裔か。

2013年5月6日月曜日

●月曜日の一句〔高角みつこ〕相子智恵

 
相子智恵







顔ぢゆうを青ぐさくして粽食ぶ  高角みつこ

「古志青年部作品集 第2号」(2013.3 古志青年部)より。

端午の節句に食べる「粽」。青笹の葉や竹の葉に、うるち米やもち米などの粉を練ったものを包んで蒸したお菓子だ。笹の葉の〈青ぐさく〉は、まさに粽を食べたときの、あの香りをよく捉えていると思い、爽快だった。

〈顔ぢゆう〉の豪快な勢いにも惹かれる。笹から餅を出しつつ、手を汚さぬように笹ごと口に運んだのだろうか。〈顔ぢゆうを青ぐさく〉と読むうちに、私の顔まで一気に青笹の香りに包まれてゆくようだった。

描かれているのは「香り」でありながら、「青」の文字によって、視覚としても笹の葉の青さがありありと脳裏に浮かんでくる。嗅覚と視覚とを同時に刺激する身体感覚にすぐれた句。この元気のよさが、端午の節句にふさわしい。

2013年5月5日日曜日

〔今週号の表紙〕 第315号 鯉幟 鈴木不意

今週号の表紙〕 
第315号 鯉幟

鈴木不意



初めて下りた多摩センター駅前で見た鯉幟。一本竿に上から、矢車、吹流し、真鯉、緋鯉、子鯉の順というスタイルが一般的だから、この取り付けを見た時は違和感を覚えた。よく見ると上からの順番は守っているがポールではないので、取り付ける人もどうしたものかと考えた末のことなのだろう。

日本の意匠がテーマのシンポジウムがアメリカ開催されたことを紹介した専門誌の記事を思い出した。たしかコロラド州で緑の多いところだったと思う。館内でのディスカッションを終えると、晴れた屋外に参加者を誘い出すと日本人スタッフは持参した鯉幟を広げ始めた。参加者は何事かと見守っていたが、ポールに取り付けられた鯉幟が悠然と青空に泳ぎ始めるや大きな拍手と喝采が起こったのである。

鯉幟には子どもの成長を望む親の願いを託しているが、そこには自然と人の生活の調和が表れている。日本人の季節の意匠には幸福感を見て取れる嬉しさがある。


すずき・ふい
1952年生れ、東京在住。「なんぢや」「蒐」所属。



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2013年5月4日土曜日

●週刊俳句・創刊6周年記念誌上句会 投句一覧

週刊俳句
創刊6周年記念誌上句会
投句一覧

たくさんの皆様に御参加いただきました。誠にありがとうございます。


以下に【選句要綱】および【投句一覧】を掲載させていただきます。

【選句要綱】

10句選でお願いいたします。

■選と選評はメールにて。天気 tenki.saibara@gmail.com まで。
※ワープロソフト文書等の添付ではなく、メール書面で結構です。

■期限:2013年5月10日(金)24:00

■誠に恐れ入りますが、選とコメントは統一書式(以下説明)にて頂戴いたしたく存じます。

〔選とコメントの書式〕

×××××××××××  ※選んだ句をコピペ
○俳号       「まる」+俳号
■……………………(俳号) 「しかく」+短評・コメント。俳号を( )で

選外の句へのコメントは不要です。
※披講の際、当該記事のコメント欄に、選外句へのコメントを含め、ご自由にどうぞ。

文頭のアキやインデントはとらず、改行+ベタ打ちでお願い申し上げます。
選に付していただいた俳号を、作者発表の際の御署名といたします。


【投句一覧】 26名様御参加


【六】

さへづりて六角鉛筆一ダース
一針の四翅六角の蜂の巣へ
火事跡の六波羅様を歩きけり
花菜漬六平直政風寮母
汽笛となつて六甲に夏が来る
畦を焼く六等身の人ばかり
行く春の六弦に届かない指
四六の十テストの後の老母晴晴
宿六と甚六ならび鯉のぼり
春あけぼの六方踏みて去りゆくもの
風光る六角橋商店街
木の芽雨ちくちく育つ第六感
問六の答えは白いチューリップ
六つ切りのパンの一切れかぎろへる
六月の花嫁と決め出刃を研ぐ
六月の死者のひとりは若き故
六月の腹の具合を星に聞く
六月やあはれあはれと水を掻き
六弦の合はぬが苦なり藤の花
六限を学食に待つ春セーター
六甲のふところ深く山つつじ
六歳で人形の髪洗ひたくて
六周年迎え栄螺の焼け具合
六人の武者震いかな熱帯魚
六道の辻から吹くよ若葉風
贅六が築きし春のバリケード

【法】

はつなつになる方法がひとつある
メーデーや法華太鼓の列もあり
リラ冷えの夜の法律事務所かな
泳法のやぶれかぶれのいやはやし
遠近法はみ出し夏の子となりぬ
夏の夜になりきる法善寺横町も
花過ぎの礼法室に靴溢れ
顎あげて紅や西日も魔法かな
肩の位置決まらぬ打球法然忌
枯菊が文法どほり枯れゐたり
春闌けて顔の大きな法律家
少年のあごに魔法の桜もち
少年僧をみなを前に作法かむ
聖五月窓高くある法学部
田螺鳴く腹のふくらむ呼吸法
法悦の早々極み子規
法王庁殺意のごとく百合香り
法科出て護国神社の桜守
法然の遠流を囲む青葉潮
法被着るコンビナートのうかれ猫
法面の除染してますすみれ草
法螺吹が法螺吹いてゐる春の昼
法律に狩られて猪は逃げちゃった
法蓮草ポパイオリーブ老いるとも
末法の世より蜥蜴の嘘眠り
鶯や法テラスへの電話メモ

【全】

ああ藤の全貌が吹かれている
ウルトラマン大全目刺かじりかけ
またひとつ全きくらげながれゆく
遠くまで全集のなき日本地図
腰椎の全からざる花の後
春光や全校生のメイポール
春愁の全行程を終了す
真夏の夜の夢ムーンウォークは全力で
神学の全貌を湯豆腐に見き
神学大全時計の針が丸っこい
全コース膝落としたるプールかな
全教室の映るモニター若葉冷
全校で生徒は五人しやぼん玉
全国のみゆき通りに風薫る
全焼の市民会館秋の暮れ
全身のバネ一丸にボート漕ぐ
全身の透けるまで瀧仰ぎけり
全店の灯りが消えて草萌ゆる
全裸磔刑つまさきに火口触れ
着衣のごと見ゆる男は全裸かな
藤房に全能の神下りてきし
入梅や二組全員次々後転
麦秋や全て通じし自動車道
八十八夜全権は妻にあり
万緑や恐い夢は全くみない
麗らかや西部講堂全闘委

【書】

Tシャツを脱ぎてふたりの書生かな
しやつくりの響く古書店春の昼
へびいちご白書色褪せたる晩夏
瓜を蒔く焚書の話などしつつ
下書きの祝ひのことば豆の花
花冷や書棚に掛ける大梯子
教科書の燕は卵抱き始む
古書店の活字横切る守宮かな
古書店の憂ひ菜飯を食ふてより
子兎を握り書物の中に立つ
春陰の書き損じ否打ち損じ
書くという行為が叩くキーボード
書ばかり読んで阿呆に春の雷
書を丸め未来を覗く一年生
書架の奥は紙魚の栖の小銀河
書記長が名前を秘して逃げる夏
書簏とはしよろくと読みて冬の朝
図書室にプールの声の届きたる
全くの子と言う蝗横向く牛
鳥帰る教科書で見た島の方
凸の書き順凹の書き順さくら散る
虹色の雨となりたる夏書かな
白蓮のたっぷり錆びて書庫の奥
曝書して当て字だらけの世界地図
万作や線量計を書き留める
野遊や終わらせたくて大きく書く

【雑詠】

いもうとのはつなつをこぼれてゐたる
トライアスロンの走るともなく泳ぐともなく
花は葉にたっぷり筆へ含ませて
荷風忌やフラットシューズ履かぬ主義
去年今年張形を置く枕がみ
砂浜の小さき靴鳥雲に入る
細く高く遠く賛美歌夏の山
山査子の花三粒の睡眠薬
残花余花バタコ飛ばしたらあかんで
糸もつれ人もつれ合い春雷抱く
室の花六法全書置かれある
蛇二匹穴を出でしか呪わうか
春愁やばらしてみれば発条ひとつ
人を焼く仕事と畦を焼く仕事
人間の魚になりゆく薄暑かな
人知れず微笑んでいるか六月
水着に始まり水着に終る雑誌かな
怠惰なる紙魚は六法全書食む
昼顔の夜へ呑まれてゆくところ
鉄線花上履き空に向けて干す
白々と爪の半月春逝けり
髪洗ふ石鹸の香や裏道に
未知数と答えを返す藤の花
旅に出て月の裏まで夏の国
六法全書とは冬眠によきところ
六法全書投げてゴキブリ仕留めけり

以上

2013年5月3日金曜日

●金曜日の川柳〔徳長怜子〕樋口由紀子



樋口由紀子







妖怪は字幕とともに現れる

徳長怜子 (とくなが・れいこ)

先週に続いて、石部明追悼川柳大会での特選句。兼題は「妖怪」(筒井祥文選)。石部自身が妖怪的要素を多分に持っていたための出題だろう。掲句も石部の言った「川柳で大嘘を書いてみたい」と相応する。

妖怪の登場場面を述べているだけで、具体的なことは何も述べていない。正直、どんな妖怪なのかわからない。しかし、意表をつく端的な出現のさせ方は作者の妖怪についての捉え方がなんとなくわかる。また、いろいろと想像して楽しませてくれる。この独断の言い回しが気持ちいい。妖怪はまるで銀幕のスターのようである。

他に「妖怪」で抜けた句(入選句)は〈妖怪のスリッパらしき面構え 草地豊子〉〈また同じ妖怪がいて会釈する 江口ちかる〉〈妖怪は苔のむすまでコリコリする 榊陽子〉。

2013年5月2日木曜日

●ポスト

ポスト


雨のポスト赤いポスト手を嚙むポスト  柿本多映〔*〕

春の日やポストのペンキ地まで塗る  山口誓子

投函のたびにポストへ光入る  山口優夢

日出前五月のポスト町に町に  石田波郷


〔*〕『連衆』No.65(2013年5月)

2013年5月1日水曜日

●水曜日の一句〔石井薔子〕関悦史



関悦史








あらはなる根のやうに人秋の浜  石井薔子

「根のやうに」と形容されるこの人影は動いてはいない。そして根は本来土中にあるものだ。根が地上に露出したような、有用な場から離れた所在なさが、この「人」からは感じ取れる。そもそも秋の浜も普通用があって赴くところではない。

「根」の比喩が面白いのは、淋しい秋の浜でたまたま見かけた人影が、単なる無害な物件として遠くに置かれているようにも、あるいは作者の内面を担わされた少々鬱陶しい風景として提示されているようにも取れば取れそうでありながら、そのどちらからも微妙にずれてゆき、「根」の生々しい実在感がはねかえって、それを見ている語り手自身の身体まで構成してしまうところにある。

通常の植物が根をおろせない浜辺に置かれた「根」の違和が、おそらくは顔が見えず個体識別もできず、植物とも通じ合うような奇妙な生命感のみとなった「人」の立つ秋の浜の終末感と結びつき、忘れがたいというよりも、忘れることが許されないような印象を残す。

大災厄後に読むと、激甚被災地で生き延びた人と、無事に済みつつそれを想う人との距離を体現した句のようにも思えてくる。

句集『夏の谿』(2012.9 かぷり)所収。