2013年8月31日土曜日

●財布

財布


鳥ぐもり母の財布のおそろしや  渋川京子〔*〕

落ちてゐるのは帰省子の財布なり  波多野爽波

陽炎の中にて財布のぞきゐる  加藤楸邨


〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年8月30日金曜日

●金曜日の川柳〔山下和代〕樋口由紀子



樋口由紀子






「きゃりーぱみゅぱみゅ」三回言えたら大丈夫

山下和代 (やました・かずよ) 1951~

きゃりーぱみゅぱみゅが熱中症で倒れたと先日新聞に出ていた。すぐに回復したらしいが、熱中症になっただけで新聞記事になるくらいの時の人である。中年以降の人には馴染みはないが、今人気の歌手で、モデルの女の子である。

彼女の出現にはびっくりした。ファッションも動きも発言も奇抜でどこか人間離れしている。いままでにもいろんな芸能人が出てきて、驚いたけれど、きゃりーぱ みゅぱみゅの登場は次元が違う。それにこの名前。名前の概念を覆す。一度聞いただけでは覚えられない。発音もしにくく、それを芸名にするなんて考えられな い。

山下は「きゃりーぱみゅぱみゅ」という「流行」をうまくとらえて、もろもろの意見を吹っ飛ばすように「三回言え たら大丈夫」だと無責任におおらかに言う。確かに早口言葉ではないが、かまずに三回言えたら何事も大丈夫かなと思ってしまう。テンションを上げてくれる川 柳である。もう何が出てきてもおったまげないでおこうと思う。(「川柳木馬」第137号 2013年7月刊)収録。

2013年8月29日木曜日

●蟬の穴

蟬の穴


蟬の穴覗く故郷を見尽くして  中村苑子

蟬の穴蟻の穴よりしづかなる  三橋敏雄

蟬の穴淋しきときは笑ふなり  長谷川双魚

蟬穴と蟬穴以外を考える  岡野泰輔〔*〕

蟬の穴のぞき百年後の生家  鳥居真里子


〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年8月28日水曜日

●水曜日の一句〔遠藤若狭男〕関悦史



関悦史








ががんぼのごとき人こそ友とせむ  遠藤若狭男

『徒然草』には「良き友」として、物くるる友、医師、知恵ある友の三つが上がっているが、これらは全て実利に直結した「友」である。

「ががんぼのごとき人」となるとおよそ何の利用価値もなさそうだが、その代わり利用しあう互酬的な関係からくる気詰まりさ(お返しも何もしないわけにもいかないであろうし)や、一方的に利用するさもしさとも無縁でいられる。

蚊のように血を吸われもしなければ、追い払う必要もない。またペットになるような禽獣とも違って、餌による支配被支配関係もない。

ときどきその辺にともにいるというだけであり、見るからにひ弱で、そこはかとなく愛嬌もある。

といったようなことを、ががんぼを眺めながら考えていたのであろうなと思わせる。

友というのは基本的には対等な関係だろう。つまりは自分もががんぼと大差ないのだ。
 一種の仙境といえるような、しかしそう呼ぶには卑俗なような境地である。

ががんぼというのは、どこかしら知性がないわけではないような気もするし、同情心や感受性もありそうといえばありそうな気もする。

句に引っかかっていろいろ考えているうちに、次第にががんぼが何となく魅力的な相手に思えてくる。


句集『旅鞄』(2013.8 角川書店)所収。

2013年8月27日火曜日

【レコジャで一句】秋灯の照らすレコード裏がへす 山田露結

【レコードジャケットで一句】
秋灯の照らすレコード裏がへす  山田露結


Bob Dylan/Another Side of Bob Dylan
 
※コメント欄へご自由に投句して下さい(有季、無季、自由律ほか何でも、何句でも可)。

もうすぐ夏休みも終わりますね。
ウラハイで突然はじまった特別企画
「レコードジャケットで一句」ですが、
今回でいったんおしまいということにいたします。
ご参加くださった皆さま、ありがとうございました。
また突然はじまるかもしれませんので、
そのときはぜひご参加ください。

2013年8月26日月曜日

●月曜日の一句〔北川美美〕相子智恵

 
相子智恵







空という箱あるように雷鳴す  北川美美

「-blog 俳句空間- 戦後俳句を読む 第33号」(2013.8.16発行)より。

東京では連日、集中豪雨と激しい雷が続いている。家の間近に雷が落ちることも多い。その盛大な音を聞いていると〈空という箱〉の感覚に、なるほどと思う。

空はもちろん囲われてはいないけれど、雷がこうも近いと、ライブハウスのような箱の中でバリバリとした硬い大きな音が壁に反響して聞こえているような気持ちになるのである。

雷神は昔から太鼓(雷鼓)を叩く姿で描かれるが、〈箱あるように雷鳴す〉からは、雷神の太鼓の響きを、まるで自分がその太鼓の中に入って内側から聞いているような幻想までしてしまうのだ。

2013年8月25日日曜日

●耳鳴り

耳鳴り

蟇またぐときごうごうと耳鳴りが  金原まさ子*

耳鳴りのあの夕暮は蝶の羽化  柿本多映

白い耳鳴り坊さんたちのとほい酒盛  高柳重信


*金原まさ子句集『カルナヴァル』(2013年2月)

2013年8月24日土曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集

小誌「週刊俳句が読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

長短ご随意、硬軟ご随意。お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集『××××』の一句」というスタイルも新しく始めました。句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただくスタイル。そののち句集全体に言及していただいてかまいません(ただし引く句数は数句に絞ってください。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌から小さな同人誌まで。号の内容を網羅的に紹介していただく必要はありません。

『俳コレ』の一句 〔新〕

掲載記事 ≫こちら

これまで「新撰21の一句」「超新撰21の一句」を掲載してまいりました。『俳コレ』も同様記事を掲載。一句をまず挙げていただきますが、話題はそこから100句作品全般に及んでも結構です。



時評的な話題

イベントのレポート

これはガッツリ書くのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。

同人誌・結社誌からの転載
刊行後2~3か月を経て以降の転載を原則としています。自薦・他薦を問いません。

なお、ウラハイのシリーズ記事(おんつぼぶんツボ etc)の寄稿についても、気軽にご相談ください。
そのほか、どんな企画も、ご連絡いただければ幸いです。

2013年8月23日金曜日

●金曜日の川柳〔須田尚美〕樋口由紀子



樋口由紀子






赤紙が来るかも知れぬお味噌汁

須田尚美 (すだ・なおみ) 1930~2011

家族で食卓を囲み、いつものように味噌汁を啜っているときに、ふと戦時中の記憶が蘇ったのだろう。今の平穏な暮らしがずっと続くのかと不安になった。味噌汁に象徴されるような、ごくありふれたささやかな日常が突然奪われた時代があった。赤紙が来たのだ。

召集令状で名指しされた人は否が応でも戦争に行かねばならない。拒否することなんて到底できなかった。平穏な食卓が大黒柱の働き盛りを連れ去り、残されたものの生活も容赦なく壊した。

掲句は昭和54年、作者49歳の作であるが、今にも充分通じる。いや、現在の方が心配になる兆しがあり、じわじわと赤紙が届く日が迫ってきているような気さえする。いつの間にかそんな世の中になってしまっていたなんてことがないようにしたい。誰一人戦争に駆り出されることなく、みんなで味噌汁を啜る平凡な日が続いてほしい。『螢火』(川柳新聞社刊・1991年)所収。

2013年8月22日木曜日

●地獄

地獄


木と生まれ俎板となる地獄かな  山田耕司

三伏の地獄めぐりの旗もたされ  中原道夫

證券の紙の地獄のさくらかな  筑紫磐井

煮大根を煮かへす孤独地獄なれ  久保田万太郎

汗女房饂飩地獄といひつべし  小澤實

短夜や地獄絵どこか愉しさう  林雅樹〔*

世の中は地獄の上の花見哉  一茶


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年8月21日水曜日

●水曜日の一句〔西川徹郎〕関悦史



関悦史








ゆめの続きのエスカレーターに巻き込まれ  西川徹郎

この作者としてはやや珍しい、現代の建築設備から“空間の詩学”を引き出した句。

次から次へと途切れ目なく足元に湧き出してくるエスカレーターの無機的な流れに見入るうちにあらわれる、引きずり込まれていくような眩惑感。そこから発して、思念の世界と事物の世界に両脚をかけ、一定速度で引き裂かれていくような恐怖と魅惑に至る。

「ゆめの続きの」は、カフカ『変身』の有名な書き出しのように「これは夢ではない」と明示しているのか、それとも一度見た夢の続きを再び寝入って見ているのか。どちらとも取れるが、両界の中間に位置して動き続けるエスカレーターの眩惑が主である以上、強いてはっきりさせる必要もない。

夢といえば内界であるはずだが、その中に在るエスカレーターに巻き込まれ、地獄下りのようにさらに夢の低層へと引き込まれてゆく。

あるいは、夢から覚めたあとの日常世界、自分の外に安定しているはずのありふれた建築設備が、不意に内部へ浸潤、混入はじめる。

位置関係を確定しているようでありながらこの「ゆめの続きの」はその両方を含意して内外を攪乱し重層化させているのだ。

単独でみるとそうした往還運動の感覚を孕んだ句だが、これは四句連作のなかの二句目で、句集では次の順に並ぶ(一四三ページ)。

  鷗の殺意が分かる黄昏のエスカレーター

  ゆめの続きのエスカレーターに巻き込まれ

  ゆめのまたゆめのエスカレーターを知らない

  首に巻きつくエスカレーターを首から外す

一句目は外界のエスカレーターであり、三句目は自分の中の不可知を冷え冷えと距離をもってあらわすエスカレーター、そして四句目は、夢から現実に持ち帰った異物のように身体にまつわり、首を絞めていたかもしれないエスカレーターだが、この四句目には危機感よりも、ことを終えた後の失墜感のようなものがある。「鷗の殺意」をきっかけに夢の底への通路を垣間見せられながら、交錯のはてにそこから締め出されたような。

その中でこの二句目の迷路的な混乱は、確実に愉楽に通じている。作者が句作に没頭しているときの感覚もこのようなものなのではないか。


句集『幻想詩篇 天使の悪夢 九千句』(2013.6 茜屋書店)所収。

2013年8月20日火曜日

【レコジャで一句】パーティーのはじまる釣瓶落しかな 山田露結

【レコードジャケットで一句】
パーティーのはじまる釣瓶落しかな  山田露結


Joe Bataan/SUBWAY JOE
 
※コメント欄へご自由に投句して下さい(有季、無季、自由律ほか何でも、何句でも可)。

2013年8月19日月曜日

●月曜日の一句〔坂本茉莉〕相子智恵

 
相子智恵







どこまでも夏野でありぬ地雷原  坂本茉莉

句集『滑走路』(2013.8 ふらんす堂)より。

〈どこまでも夏野でありぬ〉までは、夏野としてはよくある感慨といえるが、〈地雷原〉の急展開で覆される。あとがきに〈タイに移り住んでからすでに二十六年〉とあり、タイの夏野なのだろう。

夏草が生い茂った広大な野原。青々とした生命力にこそ夏野の本意があろうが、その育ち盛りの夏草の生命力と対極にある「一瞬の死」の恐怖が、どこに埋まっているかわからない地雷によって呼び起こされ、それまでの長閑な気持ちが、下五まで読んで急に冷水を浴びたようになった。

かつて人間が埋めた人間を殺す鉄塊を隠し、夏草はただ静かに風に靡いている。静かに考えさせる句だ。

2013年8月18日日曜日

【俳誌拝読】『蒐』第12号(2013年7月28日)

【俳誌拝読】
『蒐』第12号(2013年7月28日)


発行人:馬場龍吉、編集:鈴木不意。A5判、本文(カラー)24頁。以下、同人諸氏作品より。

波音に離れて遠き夕焼かな  鈴木不意

万緑に囲まれ切手ほどの家  丹沢亜郎

誰もゐぬ客間をとほり冷蔵庫  中嶋憲武

虚子の忌の日当る山と翳る山  馬場龍吉

蛸喰うて力の湧いてきたるかな  太田うさぎ

かたかたと五月五日の鮨の皿  菊田一平

(西原天気・記)


2013年8月17日土曜日

●ガソリン

ガソリン


ガソリンと街に描く灯や夜半の夏  中村汀女

流星がガススタンドの灯へ曲がる  福田若之〔*

退屈なガソリンガール柳の芽  富安風生


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年8月16日金曜日

●金曜日の川柳〔安川久留美〕樋口由紀子



樋口由紀子






朝顔をほめてこぼれる歯磨粉

安川久留美(やすかわ・くるみ)1892~1957

朝起きて、歯磨きをしようとしたら、庭の朝顔がぱあっと開いているのが洗面所の窓から見えたのだろう。誰に言うでもなく、「きれい」とつぶやくと歯磨き粉が口からこぼれ落ちた。昔の歯磨粉は粉であった。歯磨きをしていることを忘れていた。今日も暑くなるかもしれない。けれども、なんとか乗り切れそうな気がする。朝顔があんなに大きくきれいに咲いているのだから。

安川久留美にこんな平穏な川柳があったのだと驚いた。彼は放蕩の川柳人として伝説の人である。晩年は酒を求めて放浪し、泥酔の果て路上死した。〈ハット目が覚めれば妻子生きている〉のような句が久留美らしく、取り上げるべきなのかもしれない。けれども、彼は死だけ見つめていたのではなく、生を見ていた。

川柳に文学性を求め、課題吟排斥論、柳俳無差別論を唱えた。〈虫売りの草に放した売れ残り〉〈きしゃにちゅういすべしおみなえし〉〈左の眼つむり自分の鼻を見る〉 『安川久留美百句選』(番傘えんぴつ川柳社刊 1963年)所収。

2013年8月15日木曜日

●戦争

戦争

戦争と畳の上の団扇かな  三橋敏雄

雛の間より戦争の闇はじまるか  齋藤愼爾

戦争が通つたあとの牡丹雪  鈴木六林男

戦争が廊下の奥に立つてゐた  渡辺白泉



2013年8月14日水曜日

●水曜日の一句〔中内亮玄〕関悦史



関悦史








それは晩夏放電しているポテトサラダ  中内亮玄

三橋鷹女に《ひるがほに電流かよひゐはせぬか》があるが、いかにも電気の通いそうな蔓植物への鋭敏で神経質な感応とは違い、ポテトサラダが、通電ではなく放電している。

ぼってりした白い量塊のポテトサラダの異物感が際立たせられるだけではなく、ポテトサラダが「晩夏」のいわば形象化になっているのだ。

「晩夏」の大きなエネルギーが移ろう感じと、不定形の、しかし鮮度ある量塊の「放電」との間に、作者の厚ぼったい身体性が取り込まれているといえる。

出だしの「それは」が曲者で、このナレーションが物語性を生み、作者本人をもさりげなく句中に巻き込んで、一篇の主人公にしてしまうのだが、その自意識を受け止めるポテトサラダが格好良すぎもせず、無様過ぎもせず、かといって通俗的な青春小説や恋愛小説の小道具といった無害な位置に収まるわけでもなく、「放電」の過剰を帯びて異物と化しつつも清潔感を持しているところが、生々しい若さを打ち出した句として、上手いというより的を射ている気がする。

六八六のやや重く滑らかにしなだれるリズムも、若く、だが若すぎはしない心身がもたらす倦怠感と不完全感に見合っている。


句集『蒼の麒麟騎士団』(2013.6 狐尽出版)所収。

2013年8月13日火曜日

【レコジャで一句】いつしかに話尽きたる秋暑かな 山田露結

【レコードジャケットで一句】
いつしかに話尽きたる秋暑かな  山田露結


The Specials/MORE SPECIALS
 
※コメント欄へご自由に投句して下さい(有季、無季、自由律ほか何でも、何句でも可)。

2013年8月12日月曜日

●月曜日の一句〔九里順子〕相子智恵

 
相子智恵







炎昼に列柱絶対安全男  九里順子

句集『静物』(2013.7 邑書林)より。

暦の上では秋に入ったとたんに、酷暑の日々だ。秋の涼しい句を読もうかとも思ったが、こう暑いと脳が煮えて、掲句のようなパンクな句に惹かれる。

真夏の暑い昼下がり〈炎昼〉に、柱が並んでいる。それだけでも異様な光景だが、ダメ押しのように〈絶対安全男〉と来る。〈絶対安全男〉とは、なんだか笑えるフレーズだ。

思えば〈絶対安全〉といわれることほど、不安全なものはない。絶対安全と思い込んでいたものに事故が生じて一旦は目が覚めるのに、また、絶対安全を信じ込もうとする今みたいだ。

〈絶対安全男〉の薄っぺらい安全感(本質の反語的表現か、草食男への揶揄か)に、「エンチュウニレッチュウ」の語呂のよさが加わるのも楽しくて、妙に滑稽である。

これは果たして異様な光景(性的にシンボリックなものが暗に〈列柱〉に含まれた、草間彌生のオブジェ的世界)なのか、それともこの列柱は電信柱か何かで、日常の真夏の風景なのか……よくわからなくなって、もう笑うしかない。それは暑すぎて笑うしかないのに似ている。

日常とは、狂気に近い。

2013年8月11日日曜日

【新刊文庫】ひらのこぼ『俳句発想法歳時記〔秋〕』

【新刊文庫】
ひらのこぼ『俳句発想法歳時記〔秋〕』



例句がいいと評判の俳句発想法シリーズ。その文庫版歳時記。季語ごとに作句のヒントが示され、実践的です。(西原天気・記)

2013年8月10日土曜日

●コモエスタ三鬼36 炎天の豚 西原天気

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第36回
炎天の豚

西原天気


立秋を過ぎたとはいえ、暑い日が続きます。みなさま、いかが過ごしでしょうか。


炎天を遠く遠く来て豚の前  三鬼(1948年)

汗だくでたどり着いたのが、豚の前。豚と顔を見合せているの図です。

俳句の多くは(素敵な俳句の多くは)、だからなんなんだという句です。この句もそう。たどり着いたのが「豚の前」なのだから、徒労感とか一抹の寂しさとかのような「感慨」はあるにはありますが、だからどうというものではない。

「豚の前かあ、豚の前だなあ」「ブヒっ、ブヒっ」

この人も、豚も、読む私たちも、「だからなんなのだ?」「ううむ」と、「どうしようもなさ」のなかに情けなく立ちつくすしかないのです。


※承前のリンクは 貼りません。既存記事は記事下のラベル(タグ)「コモエスタ三鬼」 をクリックしてご覧くだ さい。
 

2013年8月9日金曜日

●金曜日の川柳〔重森恒雄〕樋口由紀子



樋口由紀子






友だちの蹴ったボールを取りに行く

重森恒雄 (しげもり・つねお) 1950~

野球では投手の投げたボールを打者が打ち、それを野手がとる。サッカーでは相手の蹴ったボールを奪い、また蹴る。球技ではそれがルールである。しかし、掲句はそういう場面のことを詠んでいるのではない。人生においてのあるひとコマを切り取っている。

友だちの蹴ったボールを取りに行かねばならないことがあったのだろう。納得はいかないが、なぜかそういうことになってしまった。ボールは草叢のなかをどんどん転がっていく。悲壮感があるわけではないが、ボールを追いかけていていくうちに、やっぱり理不尽だなと思ってしまった。意義を唱えているわけではないが、ちょっと引きずっている。

〈ぺたぺたと走るぺたぺたついて来る〉〈家族会議で明日は雨にしてしまう〉(「川柳カード」第3号・2013年7月刊)収録。

2013年8月8日木曜日

●爆弾

爆弾

空爆や鍋焼うどんに太い葱  下村まさる

ある日には爆弾の耳をして 檸檬  松本恭子

いまのそれ誤爆ですがな暮の秋  佐山哲郎

人類に空爆のある雑煮かな  関悦史

2013年8月7日水曜日

●水曜日の一句〔佐々木とみ子〕関悦史



関悦史








鬱の日の花咲蟹を神としぬ   佐々木とみ子

生きているときのくすんだ色よりも、茹で上がった花咲蟹の棘だらけの鮮やかな赤さを想うべきか。

単に目を引くというよりも、鬱の心に圧迫感に近い存在感をもって迫ってくる蟹の形は、何かの答えをこちらに迫ってくるようでもある。

ただし問いの内容はわからない。硬く鮮やかな造化を通して、こちらが試されているようでもあり、同時に許されているような気配がある。

花咲蟹が獲れるのは納沙布岬周辺海域だという。青森在住の作者にとってもさらに北から来るものだ。その厳しい気候を負った姿形に、鬱の折に感じ入るのは自然の側から不意に到来した存問とも思え、座禅の警策じみたありがたみが感じられる。


句集『氷河の音』(2013.7 津軽書房)所収。

2013年8月6日火曜日

【レコジャで一句】革命は起こらず秋の立ちにけり 山田露結

【レコードジャケットで一句】
革命は起こらず秋の立ちにけり  山田露結


The Clash/BLACK MARKET CLASH
 
※コメント欄へご自由に投句して下さい(有季、無季、自由律ほか何でも、何句でも可)。

2013年8月5日月曜日

●月曜日の一句〔澤好摩〕相子智恵

 
相子智恵







献杯を怠る勿れと秋は来たか  澤 好摩

句集『光源』(2013.7 書肆麒麟)より。

明後日は立秋、暦の上では秋に入る。梅雨のようなぐずついた天気のまま八月に突入した今年は、例年にも増して、立秋に対して「いつの間に……」という思いが強い。

俳句に親しむ人の中には「その季節になるといつも思い出す句」というのがひとつはあるのではないだろうか。掲句は私にとって、これから立秋に思い出す句の一つになりそうだ。

秋立つ頃に誰か特定の〈献杯を怠る勿れ〉という人がいるわけではない。けれどもこの、天に杯を向けて故人をしのぶ寂しさは、なぜか初秋のものだと思えてくる。書かれている世界はごく個人的でありながら、この透明感と寂しさには、秋が立つ八月の頃の普遍を感じる。

縁のある人には怠らず、そして直接は縁のない空の上の夥しい人々の気配もぼんやりと感じながら、秋の高くなりゆく空の下から、杯を献じようかと思えてくるのである。

2013年8月4日日曜日

【俳誌拝読】『雷魚』第95号(2013年8月)

【俳誌拝読】
『雷魚』第95号(2013年8月)


発行所:雷魚の会、編集人:寺澤一雄。B5判、本文24頁。

同人、亀田虎童子の最新句集『合鍵』について太田うさぎが、レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』の一節(船旅で眺める夕日)への言及から稿を起こし、
前句集『色鳥』の明るいテンポはより落ち着いた調べとなり、平易な表現は更なる自然体を纏って全体を柔らかく包む。然しその日の差し方を「渋み」や「恬淡」と形容するのはちょっと違う。随所に顔を出すのは茶目っ気と言うべき機知の輝きであり、皓皓としてしたたかな気概である。
と評する。

以下、同人諸氏の作品から。

玉葱の干されてゐたが抜け落ちる  寺澤一雄

白南風に鳥籠とわが頭蓋あり  増田陽一

たためなくなつてしまつて紙風船  宮路久子

手鏡を伏せれば蝶の溺れけり  太田うさぎ

吹けば飛ぶ風に吹かれて端居せり  亀田虎童子

夏に入る半透明の薬包紙  小島良子

春眠し秒音のない腕時計  小林幹彦


(西原天気・記)

2013年8月3日土曜日

●TOILET

TOILET


梅雨冷のトイレの中はひとりきり  江渡華子(「夏蝶」7句より

巴里祭厠に残る女の香  岸田稚魚

低くゐる厠を襲ふ日雷  田川飛旅子

明け方の厠の蟲も懐かしき  佐々木六戈

我室や便所に近く鳳仙花  寺田寅彦

これもあのデュシャンの泉かじかめり  西原天気

石に反る厠草履や初比叡  波多野爽波

飛行機のトイレの鏡初鏡  品川鈴子

紅梅や男便器に日があたる  雪我狂流

日の春をさすがいづこも野は厠  高山れおな

春しぐれこゝに不明の厠あり  攝津幸彦


過去記事:便器

2013年8月2日金曜日

●金曜日の川柳〔久保田紺〕樋口由紀子



樋口由紀子







銅像になっても笛を吹いている

久保田紺 (くぼた・こん) 1959~

そのような銅像がある。他にも正座したまま、ステッキを持ったまま、犬を連れたもの、二宮金次郎なんかずっと薪を背負ったままである。彼女の銅像に向ける眼差しはやさしい。それでいて鋭い物の見方である。過度に物語化せずに、素直で衒いのない表現に真のリアルを感じる。銅像とはなんやろ、人間とはなんやろと考えてしまう。

久保田紺の見ているものは今本当におもしろい。彼女の投げる川柳はふんわりと飛んできて、すぽんと音をたてて入る。その感触はいつまでも残る。やさしさとかなしさが人一倍わかる人なのだ。〈キリンでいるキリン閉園時間まで〉〈そっくりに怒り続ける九官鳥〉〈ざぶざぶと醤油をかけて隠すもの〉(「川柳カード」3号 2013年7月刊)収録。

2013年8月1日木曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】 俳句は「音」でできている? 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
俳句は「音」でできている?

西原天気


週刊俳句・第327号に小特集:俳句の「音」。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/07/3272013728.html

舞台裏を明かせば、これ、小野裕三さんから2年くらい前に「「新・五七調」再論」の原稿をいただいていて、小野さんと「掲載するタイミングをどうしましょう?」とメールでやりとりするうち、私のアタマからすっぽり抜け落ちていた。

この失念は誠にひどいもので、こんなことは滅多にない、と信じたいのですが、こうして実際に起こってしまっている。週俳の仕事はどこかに工程表やらジョブリストを作っているわけでもないので、ほかにも失念があるかもしれません。

ま、それはそれとして、 「「新・五七調」再論」をどうするか。単発じゃ唐突だし、ということで、「音」についての小特集を企画。『豆の木』に載っていた三島ゆかりさんの「おんいんくん」がすぐにアタマに浮かび、さらに原稿を発注(転載を許可してくださった三島さん、寄稿してくさった皆様、ありがとうございます)。また私(たち)の心に深く残っていた乱父(lamp)の所業については鴇田智哉さんへのインタビュー形式となりました。

 

五七五を考えるとき、中七の音数構成というのが、(本質的なことではないですが)存外重要だったりすると思っています。

まず、1+6、6+1という構成は考えにくい。

2+5、5+2、3+4、4+3が基本パターン。

これが2+3+2のようにさらに細分化されるケースもあるにはあるが、(2+3)+2のごとく、どこかでまとまったリズムにはなる(ならないと、「いやにガタガタしているなあ」という印象に)。

変則的に(とはいえ変則と言えぬほどに一般的で高頻度に)上五から2音が漏れてきて、中七がその受け皿になるケースは多い。例えば、《愛されずして沖遠く泳ぐなり・藤田湘子》。

中七が下五に、2~3音、浸潤するパターンもあります(中七の音数構成からは話題が逸れますが)。《地下鉄にかすかな峠ありて夏至・正木ゆう子》《うちつけて卵の頭蓋割る晩夏・皆吉司》など。


こうした音数構成(五・七・五の音数構成のさらに下位の音数構成)は中七に強くあらわれますが、もちろん上五・下五にも、ある。

上五の、季語(4音)+「や」、下五の3音+「かな」「なり」などが最も多いパターン。

 

五・七・五それぞれの中身にも分節がある、この自明のことに着目すると、小野さんの記事村田篠さんの「後記」で紹介されている「五九四」も、「九」の音数構成によっては、従来の五七五とほぼ同様の韻律になる。

それは中九が7+2の場合がそれで、〔5+(7+2)+4〕は、〔5+7+6〕。

下六はめずらしくない。五七五の範疇。

 

ここで思い至るのは、このところ、上五、下五に、、むりやり縮めて5音に収めるような処理が多いなあ、ということ。

同時に、五七五を狭く捉える傾向も強い。

七五五(17音)も、五七六(18音)も、七七五(19音)も、またそれらに類するスタイルも、みな「五七五定型」とみなしていいと思う。読むとき、違う回路を使うわけでもない。

胴体(7音)をしっかりつくりあげたら、手足(上と下)はもっとのびのびさせてやりたいケースも多いのではないかなあ、というのが私の感想。

 

五七五の話のついでに、自由律の藤井雪兎さんの記事「現前するリズム」のこの一節。
五七五は日常にはほとんど存在しないリズムなのである。
まさに、そう。だからこそ五七五定型を志向する、という人がたくさんいるのだと思う。

日常にほとんど存在しない五七五、言い換えれば、日常には無限にさまざまな「ことばのリズム」が実在する。その当たり前の事実が、自由律をつくる人と定型をつくる人の双方の拠り所になっているように思います。