2014年10月1日水曜日

●水曜日の一句〔鴇田智哉〕関悦史



関悦史








円柱は春の夕べにあらはれぬ  鴇田智哉

シンプルながら含み(というか揺れ動き)の多い句で、しかしそれはメタファーやシンボルの類いとはさしあたり関係がない。

まずこの句は、円柱が春の夕べにあらわれたという事態を報告しているわけではない。

「円柱が」ではなく「円柱は」なのだ。「が」であれば、散策していてたまたま円柱にゆきあたっただけの、実在感確かな、もっとただ事に近い句となるはずである。ところが未知の存在に定義を下すがごとき「は」が「円柱」を奇妙な位相に浮遊させてしまうのだ。円柱「は」春の夕べにあらわれた。ならば他の立体図形たち(あるいは立体図形ですらないかもしれない未知のものたち)は、いつどこにあらわれるのか(あるいはあらわれないのか)。

そして「春の夕べ」で、また少し違和が入る。「春の朝」であれば、「明るくなったので見えてきた」という当たり前の理路が通る。しかしこの句はそうなっていない。かといって「暗くなったにもかかわらず見えるようになった」という逆接的な理路が通っているわけでもない。

どちらの理路をも通らないのであれば、「円柱」は暗くなったから、あるいは時刻的に日暮れ時になったからあらわれたと取るしかなく、ここからこの円柱が闇にぼうっと浮かんで見えやすい白いそれであるかのような印象が出来することとなる。おそらく木製ではない。古代神殿めいた異国的な石造建築のような(それにしても異様なまでにシンプルな)面影が宿るのはこのためである。

しかし、私は先にこの「円柱」に対し「立体図形」と書いた。それが、これではいつのまにか、抽象的な幾何学図形ではなく、具体的な建築の一部分に読解が変わってしまっているではないか。

「円柱」はそのどちらでもありうる名詞なのだ。この「円柱」は古代神殿的建築の一部とも、宇宙か異次元から突如飛来したかのような幾何学図形とも、どちらとも特定できないままに出現しているのである(「あらわれる」というのもそもそも別時空からの不意の参入を思わせる動詞である)。この句の「円柱」は具体・抽象のどちらでもあり得ながら、そのどちらでもない、具体物から抽出された抽象性そのものとして目の前に降臨している。つまり、この句を読むとき、われわれ読者は、現実をよりどころとした抽象性の次元へと不意に連れ出されてしまうのだ。この性質は鴇田智哉の多くの句がもたらす特異な快楽に共通するものであろう。

そして「春の夕べ」の「春」は、この、単に見えるようになったとも、自発的にその姿をあらわしたともつかず、具体とも抽象ともつかない「円柱」に、さらに、無機物とも知性体ともつかないという謎めいた生命感を帯びさせることに決定的に寄与している。夏、秋、冬のいずれであっても、句の多義的な揺れ動きは封殺されてしまうことだろう。

具体に発した抽象とは、逆方向から見れば、抽象から具体への出産のようなものである。出産された「円柱」の温みを、この「春」が句に定着させているのだ。


(なお『大辞林』を引くと、「円柱」には、《腎疾患のとき、尿中に出現する病的な沈渣物。尿円柱》という意味まであるらしいのだが、この句の謎めいた浮遊の印象は、読者に絵解きを強いるような水準から発生しているわけではないので、一般的に知られているとは言いがたい「尿円柱」という解釈は採らずにおく)。


句集『凧と円柱』(2014.9 ふらんす堂)所収。

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