2014年11月26日水曜日

●水曜日の一句〔岡田一実〕関悦史



関悦史








入学試験四部屋に分かれゐて心臓  岡田一実

入学試験から心臓への連想、これは一応常識の範囲内である。緊張でどきどきしているのだろうと大体誰もが思うはずだ。

ところが「四部屋に分かれゐて」が曲者で、「入学試験」の会場のこととも「心臓」の四つの部屋、つまり右心房・右心室・左心房・左心室のこととも、どちらとも取れてしまう。

これで試験の緊張による動悸という当たり前の線は薄れ、句は奇妙な迷宮に入り込んでいく。

句を頭から読み下していけば、入学試験会場についた受験生が四部屋に分かれた会場のいずれかへと入っていくイメージが浮かぶのだが、そうすると最後に不意に「心臓」があらわれ、それが「四部屋に分かれゐて」へと遡及していって、心臓のなかに試験会場があるようなシュルレアリスティックな捩れが生じるのである。

いやそれでも常識的な読みを重視する人は、四部屋に分かれた試験会場へと進んでいくにつれ、次第に緊張が高まって、自分の心臓が意識されはじめたと取るのかもしれない。それはそれであり得ない読み方ではないのだが(ほかに「入学試験」ではっきり切れ、「四部屋に分かれ」ている「心臓」という常識的な事柄と取り合わせられているという読み方も一応はあり得るが、これは「ゐて」のバネを殺してしまう。「四部屋に分かれゐる心臓」ではないのだ)。

「入学試験」は季語としては春である。この句を読む者がいま現在入学試験の最中であるということは通常あり得ないから、記憶または入学試験というものの漠然とした印象と、季語の秩序においては春であるというバイアスから句の世界を構成することになる。

するとそこから読者は、何やらなまあたたかい、建物とも臓器のなかともつかない、それでいて整然と分けられたことによる妙な清潔感の漂う時空をさまようことになるのである。最近たまたま精神分析学者・立木康介の『露出せよ、と現代文明は言う』本で《身体のない存在に無意識はない》という文言を目にしたが、その辺の機微に期せずして触れている句のような気もする。


句集『境界 -border- 』(2014.11 マルコボ.コム)所収。

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