2014年4月30日水曜日

●水曜日の一句〔三輪小春〕関悦史



関悦史








ドーナツを山ほど揚げる台風圏   三輪小春

ネットスラング的には台風といえばコロッケの買い込みになるらしいのだが、ここではドーナツで、しかも自分で揚げている。

コロッケにせよドーナツにせよ、台風のときに特有の、何かに急き立てられるような落ち着かなさが背景にあり、それが「山ほど揚げる」の過剰さに説得力を持たせている。

危機感と非日常の祝祭感が表裏一体になっているというだけではなくて、台風が強ければ強いほど、正比例でドーナツの数も増えていきそうだ。自然とのストレートな影響関係に巻き込まれてしまっているのである。

そして「台風」ではなく「台風圏」なので、気圧配置図のような、上空からの視線も一句に統合されている。

そうした心理的な説得力と、俯瞰的な目をあわせもった句が、行為としてはおよそナンセンスなことを描いていることで、共感の押しつけでもなければ、無味乾燥なただごとでもなく、あるいは自意識過剰な自己戯画化でもない、多少不気味なような力の貫通する場としての「私=台風圏」を探り当てることに成功している。


句集『風の往路』(2014.3 ふらんす堂)所収。

2014年4月28日月曜日

●月曜日の一句〔岸本尚毅〕相子智恵



相子智恵







鳥の眼のときに神の眼花辛夷  岸本尚毅

句集『小』(2014.3 角川学芸出版)より。

鳥類の眼は鋭い。もちろん黒目がちの可愛らしい鳥もいるが、にわとりの眼でも鷹の眼でも、黄金に黒のコントラストが畏怖を感じさせる。しかも、瞼が下から閉じるのもなんだか怖いと思っていた。その鋭さを〈ときに神の眼〉と言われれば、なるほど、と思う。

そして〈鳥の眼〉からは「鳥瞰」ということを思うから、高所からの視点は神につながる。空へ夥しく白い花を捧げるように咲く〈花辛夷〉が清らかで、でもその花の数はどこか胸苦しくもあり、この取り合わせが、うまく説明はできないが響き合っていると思った。

岸本の句の取り合わせには不思議な佳さがあって、たとえば今時分の句で言えば、〈鈴光る猫は幸せ夕桜〉や、〈柏餅雨の降る日の白さあり〉〈芽柳や頬杖やがて肘枕〉〈薔薇咲いて我は鯖食ふ男かな〉など、さりげなさと意外性のどちらもあるのに、取り合わせられればその句に相応しい。小さくまとまりすぎることも、逆に破綻することもなく、一句にふわりとした膨らみができるのである。

一物の句のほうがどちらかといえば多い作者かもしれないが、この取り合わせの気持ちのよさが、私は好きである。

2014年4月26日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】 悪漢俳句・補遺 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
悪漢俳句・補遺

西原天気



悪漢俳句:断章 週刊俳句・第365号

悪漢俳句の例を挙げていけばキリがないのだけれど、ひとつ、書く前には覚えていたのに、書くとき忘れてしまっていた句があった。

春炬燵金で転んだ弁護士と  斉田仁

斉田仁句集『異熟』(2013年2月/西田書店)から、この句は漏れていて、

人権派弁護士として春炬燵  同

が入集。『異熟』にはこちらが採られた。弁護士モノで2句も要らぬ(同じ春炬燵だし)という判断だろうが、並べても面白かったと思う。

「金で転んだ弁護士」と「人権派弁護士」と、このふたつはもちろん世間では別物のイメージだろうが、俳人(斉田仁)の目、俳人の口吻のなかでは同一人物のふたつの顔に思えてくる。「人権派弁護士」を額面のまま受け取るわけには行かない。

俳句のなかの語は、しばしば反語的なはたらきをする。

同時に、シニカルな眼差しが常に用意されているのが俳句、オトナの俳句、さらにいえば悪漢俳句・ワルな俳句、ということになろうか。

 ●

例えば、ウラハイ過去記事「原発」に並んだ句群(コンピレーション)にも、シニシズムが色濃い。コンパイルした者(私なのだが)の性分もあるが、「原発」という事象に対する俳句的スタンスの、けっしてマイナーではない向き合い方だ。311以前の「原発」句にも、その傾向は見て取れる。

原発関連の句は、とくに311以降、多く詠まれたと思しいが、管見の範囲で、最もワルな原発句を挙げるとすれば、

げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も  高山れおな〔*〕

加えて、長谷川裕氏が発表するでも投句するでも書き留めるでもなく、戯言のように口にしたこの句も、ワルな原発句を代表するものだろう。

東電の電気で廻る扇風機  長谷川裕



というわけで、シニシズムは、悪漢俳句のきわめて重要な成分なのですね。



〔*〕高山れおな句集『俳諧曽我』(2012年10月/書肆絵と本)


2014年4月25日金曜日

●金曜日の川柳〔原島スパル〕樋口由紀子



樋口由紀子






雲が動いているから月も忙しい

原島スパル(はらしま・すぱる)1909~1988

このように雲も月も見たことがなく、考えたこともなかった。どちらかというと雲も月ものんびりしているものと思っていた。でも、言われてみるとなんとなくそんな気がする。

月は神秘で幽玄でどこまでも美しいイメージのもので、「忙しい」とかを考える対象物ではない。掲句は月のもともと誰もが心の中で思い浮かべる像や印象をチャラにして、それらと無関係に「忙しい」と言い切ってしまったところに味がある。いかにも川柳らしい。それも悲壮感ではなく、ちょこまか動きまわっているような忙しさで、ユーモアを含んでいる。月をどっと身近に引き寄せた。

名前がユニーク。「昴」であったのを「そんな大仰な人でない」とカタカナ表記にし、「バ」を「パ」にして、「スパル」にしたらしい。

2014年4月23日水曜日

●水曜日の一句〔閒村俊一〕関悦史



関悦史








草餅買へば漏れなくついて来る貉   閒村俊一

小泉八雲「怪談」の貉は、目も鼻も口もないのっぺらぼうで、しかも行く先々に増殖していく。

草餅のあのなりも、いかにものっぺらぼう的な生気があり、貉への連想は、飛躍がありながら無理がない。どちらも、古い東京のゆるやかな坂道あたりに出没しそうな、イメージが鮮明なようで、しかし絵に描こうとすればつかみどころがないものどもでもある。

手作業でかたちづくられ、有機的な湿りをおびて幾つも並びあう、野趣あふれるなまあたたかい食物の中から、任意の幾つかを、あたかも契約でも結ぶごとくに選びとり、買って帰るというのも、考えてみれば、何やら怪しいふるまいのようではないか。貉くらいついてきても不思議はない。

買った側も、奇妙に恐怖も驚きも欠いていて、当然のこととして妖怪変化となれあっているように見える。「漏れなく」の一般論が句中に書き入れられていたほうがいいか否かは好みの別れるところであろうが、ここに書かれているのは、一回限りの意外な出来事ではなく、草餅や貉と必然的にとりむすぶことになる奇妙な関係を成り立たせる、あったかなかったかもわからない、過去の暮らしの残滓のようなものなのだ。

しかし「ついて来る」は現在のことであって、記憶の彼方のこととして描かれているわけではない。貉や草餅と化かし化かされしていた昔のことを現在形で書いているのか、それともそういう風情が今でも都市のどこかに息づいているのかは判然としないが、それは噂というものが生息するには絶好の環境ともいえる。いわば、この句自体が人を化かしに出てきた貉のようなものなのである。


句集『抜辨天』(2014.2 角川学芸出版)所収。

2014年4月22日火曜日

●他人

他人


屠蘇散や夫は他人なので好き  池田澄子

草虱つけて他人の死は易き  行方克巳

窓に他人の屋根また迫る朝の紅茶  林田紀音夫

ひらひらと波と他人と動けば歌  阿部完市

つくしんぼそもそも最初から他人  笠井亞子

2014年4月21日月曜日

●月曜日の一句〔三輪小春〕相子智恵



相子智恵







ひこばゆる彼の恐龍の頬骨に  三輪小春

句集『風の往路』(2014.3 ふらんす堂)より。

面白い蘖の句だ。蘖は樹木の根元や切り株から、春になって新しい芽が何本も吹き出すという季語だが、それが木からではなく、朽ち果てた恐竜の頬骨から出ているというのである。

〈彼の恐龍〉とはどんな恐竜だろうか。きっと植物を食べていた草食恐竜だろうと思った。くわしくないので調べてみると、有名なところではトリケラトプスやイグアノドンなどが草食恐竜であるらしい。

鬱蒼とした森の中で、朽ち果てた木々と一緒に、絶滅した恐竜の骨が眠っている。その頬の部分から萌え出た、明るい緑の小さな若芽。まるでディズニーやジブリ映画のように、たいそうロマンティックで壮大な風景である。発想に驚くとともに、この句の悠久の世界に思いを馳せると、なんともいえず大いなる「安らかさ」に包まれる。何かチマチマしたことで悩んだ時には、この句を思い出したい。

2014年4月20日日曜日

●ラジオ〔続〕

ラジオ〔続〕

花は葉にラジオのやうな名古屋城  中村安伸〔*〕

ラヂオつと消され秋風残りけり  星野立子

元日のニユースすくなくラジオやむ  岸風三樓


過去記事:ラジオ
http://hw02.blogspot.jp/2010/11/blog-post_19.html


〔*〕『新撰21』(2009年12月・邑書林)より

2014年4月19日土曜日

●本日は創刊7周年記念オフ会

本日は
創刊7周年記念オフ会

本日、夕刻からのスタート。突然お越しになるのも大歓迎です。

  記
日時:2014年419日()午後5:00開場 5:30開演-8:30
場所:小石川後楽園・涵徳亭
アクセス/地図はこちら  東京都文京区後楽1丁目6-6 
参加費:4000円 (学生2000円)


※早めに到着して小石川後楽園を散策(入園料:一般300円、65歳以上150円。9時~16時30分、閉園17時)もオススメプランです。

2014年4月18日金曜日

●金曜日の川柳〔小宮山雅登〕樋口由紀子



樋口由紀子






鏡ありて人間淋しい嗤ひする

小宮山雅登 (こみやま・まさと) 1917~1976

鏡にむかうとなぜか表情をやわらげてしまう。ときにはおかしくもないのに鏡にむかって笑っている。どうしてなのか。こわい、きつい、かたい、そんな自分の顔をみたくないためだろう。

しかし、それは「淋しい嗤ひ」。まさしくそうである。「嗤ひ」の漢字表記が効いている。人の繊細な、感じやすいさまが何とも言いあらわせられないほどの抒情性を含ませて表現している。

小宮山雅登に〈胡瓜もみ妻に与える夢あらず〉という句もある。温かくてやさしい。滋味に溢れている。こんな風に妻を見ている夫っていいなあと思う。いや、その前にそのように胡瓜もみをしている妻であるかどうかの方が問題なのだが。〈夜の雨や貌が剥げ落ちそうである〉〈民衆どっとわらひ一人に米がない〉〈矢が的を貫くむなしきを見たり〉『川柳新書』(昭和32年刊)所収。

2014年4月17日木曜日

●いわき復興の響き展 のご案内

いわき復興の響き展
のご案内



大きく津波の被害を受けた福島県いわき市。東日本大震災から3回目の春を迎えました。心をひとつにして、復興へと歩み続けるいわきの3年間をご覧ください。

日時
2014年4月19日(土)12:00-17:00
2014年4月20日(日)10:00-16:00

会場
市田邸  台東区上野桜木16-2  地図
下町風俗資料館付設展示場 旧吉田屋酒店  台東区上野桜木2-10-6  地図

イベント
詳しくは下記サイトをご覧下さい。
プロジェクト傳「いわき復興の響き展」


主催:プロジェクト傳
共催:上野桜木町会
問い合わせ先:プロジェクト傳 東京事務局 山崎祐子
project_den@me.com

2014年4月16日水曜日

●水曜日の一句〔伊丹三樹彦〕関悦史



関悦史








居沈むは水牛ばかり 大緑蔭   伊丹三樹彦

『写俳集16 ガンガの沐浴(インド編)』という、インドの写真がいっぱい載った写真&俳句集のなかの一句だが、句のほうは全部、1984年に刊行された『隣人 ASIAN』(角川書店)からの再録とのこと。

伊丹三樹彦の句は、こうした写真と一体の作りの本に限らず、視覚情報をわりとそのままに分かち書き俳句にしたものが多く、それ以上の要素(観念性、象徴性その他)は特に求めていない。言葉が明快である。ただし、いわゆる客観写生的にまわりから来る自然を受容する一方ではなく、題材に何を選ぶかの段階で志向性がはっきり出る。姿勢としては攻めの俳句なのだ。

この「写俳集」に収められた他の句

  ガンガの水汲んだばかりの 壺に初日

  腰高の褌一貫 初沐浴

  魂魄去った五体に レイの十重二十重

  金輪際坐る行者に ガンガ明り

  椰子の汁 呑めよと 朝の鉈を発止


などを見ても、観光先でシャッターを押すのと同じように、興味をひくものがあらわれると反射的に句にしている感じが伝わってくる。美しいという感動が先にたったモチーフを俳句にしようとすると言葉がどんどん重くなっていきがちなのだが、そうなる前に打ち返しており、インドのイメージとしては、見る前からそういうものだろうと思う景物ばかりで、捉え方もひねりがないのに、その平板さのなかに奇妙な鮮度がある。

言葉が明快なのは喩的な要素(つまり二重性)がないからだが、俳句である以上、音韻的なものも含めて、言葉の組織の仕方に気を使わないわけはない。

掲句も「居沈む」という、おそらく造語であろう複合動詞に、対象たる水牛にストレートに達した心地よい重さがあり、「大緑蔭」の「大」もそれと響きあって空疎になることなく、広く涼しげな空間を作っている。

内面の深みへ引き入れようとする象徴表現の類は特にないのに、奇妙な生気、あるいは霊気のようなものがわずかながら感じられるのは、水牛「ばかり」という限定が、人をはじめとするその他の生き物たちへの無意識の期待を、否定によって浮かび上がらせているからだろう。

部分で全体を表す(あるいはその逆)のレトリックに提喩(シネクドキ)というのがあるが、ここでの水牛は、いわば、部分でありながら、その他あらゆる生き物を後ろにひかえた茫漠たる何ものかとして、作者を見返している。


『写俳集16 ガンガの沐浴(インド編)』(2014.4 青群俳句会)所収。

2014年4月14日月曜日

●月曜日の一句〔男波弘志〕相子智恵



相子智恵







満開の花の近江の田螺かな

満開の花の近江の田螺転け  男波弘志

句集『瀉瓶』(2014.1 田工房)より。

琵琶湖の田螺であろうか。琵琶湖には長田螺(ナガタニシ)という固有種がいるそうである。満開の花の近江という大きな美しさ、めでたさから、一粒の黒い田螺へと、視点がぐっと寄っていく。この一句だけでも好きな句であるが、その隣に〈満開の花の近江の田螺転け〉と並べたのが、またいい。

「田螺長者」というお伽噺もあるが、昔から田螺は水神としての性格を持っていたようである。また貝類であるが胎生で、初夏には子貝を産むという。不思議な貝だ。
 掲句、満開の花咲く近江でコケる田螺は滑稽でありながら、妙にめでたい。田螺は「田の主」が語源との説もあるが、満開の花に昔の人が込めたであろう豊作への願いと、田螺の水神的な性格が背後に感じられてきて、この句には不思議な言霊の力があるような気がするのである。それがめでたいのだ。大らかな俳味と、土着的なパワーのある句である。

『瀉瓶』という句集には、生き死にの根源的な寂しさと、それを滑稽にかえる力強さがある。ぜひ多くの人に読まれてほしい骨太な句集である。

〈春の野の刳味は母のゑぐみかな〉〈頃合の肉舐めまはる昼の蠅〉〈びつしりと死者が手を置く蜆桶〉〈誰からももらふ螢火そばから捨て〉〈一歩づつ土になりゆく踊りかな〉〈柿の木が言うたよその子盗らるるよ〉

2014年4月13日日曜日

●週刊俳句・創刊7周年記念オフ会のお知らせ

『週刊俳句』
創刊7周年記念オフ会のお知らせ


『週刊俳句』はこの4月をもちまして7周年を迎えます。これもひとえに皆様のご支援の賜物と深く感謝申し上げます。つきましては、下記により宴席を設けました。ご多用中とは存じますが、万障お繰り合わせの上ご参席賜わりますようご案内申し上げます。

  記
日時:2014年419日()午後5:00開場 5:30開演-8:30
場所:小石川後楽園・涵徳亭
アクセス/地図はこちら  東京都文京区後楽1丁目6-6 
参加費:4000円 (学生2000円)


※早めに到着して小石川後楽園を散策(入園料:一般300円、65歳以上150円。9時~16時30分、閉園17時)もオススメプランです。

2014年4月12日土曜日

●本日はジョセフィン・ベイカー忌

本日はジョセフィン・ベイカー忌



wikipedia

2014年4月11日金曜日

●金曜日の川柳〔青田煙眉〕樋口由紀子



樋口由紀子






牛のマンドリンを聞く騎兵―秋の胃

青田煙眉 (あおた・えんび) 1923~

「牛のマンドリン」とは、初っ端からわからない。牛の奏でるマンドリン?あるいはそのような音色?それを馬に乗った兵隊が聞いている。「―秋の胃」? ふたたび謎である。

掲句のように、言葉を詰め込んで、描写に粘着力のある句は川柳ではめずらしい。「牛」も「マンドリン」も「聞く」も「騎兵」も「秋」も「胃」もすべて知っている言葉であるが、言葉の組み合わせが一般的ではなく、意味でからめとろうとしても、解きほぐすことが出来ない。けれども、同時に意味が濃厚に立ち上がる。自我の揺らぎや折り合いの付けられない思惟などがひっぱりあがってくる。言葉の意味の不思議さをあらためて感じる。

青田煙眉は『青田煙眉集』の序で「新しい実験を試みることと、川柳を通して現代の危機を描くこと」と書いている。川柳新書第38集『青田煙眉集』(昭和33年刊)所収。

2014年4月10日木曜日

●本日はオーギュスト・リュミエール忌

本日はオーギュスト・リュミエール忌


2014年4月9日水曜日

●水曜日の一句〔川名つぎお〕関悦史



関悦史








会議中ふと独活よぎる塵取りも   川名つぎお

会議中に注意散漫となって周囲のどうでもよいものが目に入ることはいくらでもあるのだろうし、ことによったら窓外に独活が見える場所で会議を開くことも全くないとは言いきれない。だが問題なのは「よぎる」である。

この独活は外に生えているわけではなく、その辺を動き回っているらしい。

さらにそこへ「塵取り」が追い打ちをかける。マトモな状況とは思えない。

だがそれを異常と騒ぎ立てたり、何ごとだろうかと不安に駆られたりしている雰囲気は薄い。そういうものたちが勝手に動くこともあろう。

それよりも会議は続けなければならないのであって、周囲の世界がどうなっていようが、さしあたり問題ではない。いや、問題なのかもしれないが、われわれがそれをどうできるというのか。やがては「独活」や「塵取り」どころでは済まないとんでもないものが動きだすのかもしれないが、そうなったらなったとき考えればよい。そもそも妙な物が動いていたとしても、会議中に「いま独活が」とか、「塵取りが」などと口走るわけにもいかないのだ。

と、こう取ると、大問題をよそに自分の仕事にのみ励み、結果として社会の崩壊を容認してしまう大衆への皮肉という読み筋につなげる道もかすかに出てくるのだが、こういう理に落ちすぎる筋道はかすかなままにしておいた方がよい。

それよりも、意識のわずかな隙につけいって、動くはずのないものが動いているという、職業生活と地続きのところにあらわれる超現実の、奇妙な浮遊感を味わう方が重要である。 

何ゆえ数ある小さい物たちの中から「独活」「塵取り」が出てきたのかは判然としないが、この並びはじつに絶妙であって、葉先がやわらかい曲線を描いてもしゃもしゃと広がりゆく独活がその辺をうろうろしていたら、その姿かたちからして、このくらい虚仮にされた感のあるものもないであろうし、「独活」という字面も、何やらまともな伴侶と結びつくこともなく、「独活の大木」という成語への連想を背後にゆらめかせた、生産性に貢献しない独身者的な奇異さを連想させる。脈絡というものをわきまえず、その辺をうろうろしていそうな植物としてはこれに勝るものはない。

またそれに続く「塵取り」も、どこに出没して使われていても不思議ではない、情けない有用性をまといつつ、しかし「独活」との必然的な結びつきは特になく、間抜けさが際立つ。意識の空白に湧き出してくるものとして説得力充分である(何を説得しているのか知らないが)。

べつに超現実の景ではなく、単に廊下を「独活」や「塵取り」を持った人が通ったにすぎないという、素朴リアリズム的な解釈の余地も一応残っていて、それがかえって、「日常」や「現実」と呼ばれるものの危うさ、あやふやさをも思わせる。

形としては、有季定型句でもある。


句集『豈』(2014.3 現代俳句協会)所収。

2014年4月8日火曜日

●本日は虚子忌

本日は虚子忌



過去記事:虚子忌
http://hw02.blogspot.jp/2010/04/blog-post_08.html

2014年4月7日月曜日

●月曜日の一句〔日下野由季〕相子智恵




相子智恵







もくれんの花の熟れゆく月夜かな  日下野由季

WEBマガジン『スピカ』(2014.4.2.更新)「日々花々」より。

月夜の白木蓮の花。〈熟れゆく〉に、なるほどと思う。植物の実には使うが、花の形容にはなかなか見ない措辞だ。が、この花にはぴたりと嵌る。白木蓮の肉厚の花が咲きつつあるところというよりも、咲ききったピークから少しくたびれ始めるその瞬間を描いているように思った。

本人も〈この花を見るととりわけ、嗚呼、生き物だなぁ、と思います。清純だけれどどこか生々しい〉と書いているが、まさにその感じ。月光が花の白い肌に射し、花が熟れてゆく。そして最後はクタクタの茶色になるのだ。そのすべての瞬間が、なまめかしいような気がする。この句の春の月がまた、その舞台として艶めいている。

2014年4月6日日曜日

〔おんつぼ49〕クロディーヌ・ロンジェ 西原天気

おんつぼ49

クロディーヌ・ロンジェ
Claudine Longet



西原天気


おんつぼ=音楽のツボ


クロディーヌ・ロンジェ(1942 - )を知ったのは映画『パーティー』(1968年/ブレイク・エドワーズ監督/ピーター・セラーズ主演)でした(封切ロードショーではありません。実際に見たのは後追い)。

Claudine Longet - Nothing To Lose - The Party Soundtrack


ギターを抱えて囁くように歌うヒロインの系譜は、古くは『帰らざる河』(1954年/オットー・プレミンジャー監督)のマリリン・モンロー(≫動画)、『ティファニーで朝食を』(1961年/ブレイク・エドワーズ監督)のオードリー・ヘップバーン(≫動画)、新しいところでは、『ビフォア・サンセット』(2004年/リチャード・リンクレイター監督)のジュリー・デルピー(≫動画)など数多い。そこに『パーティー』のクロディーヌ・ロンジェも並ぶわけで、いずれも、まあ、なんというか、その、とてもかわいい。クソかわいい。

〔ギター+ウィスパリングボイス〕というヤリクチは、それ反則でしょ?ってくらいにキュート。フェミニズムのおばちゃんたちに叱られそうだが、かわらしいものは、かわいらしい。しかたがない。

閑話休題。上に挙げた弾き語りシーンがいずれも女優が唄うものであったのに対して、クロディーヌ・ロンジェはもともと歌手。1967年から72年に7枚のアルバムがあります。キャリア前半に属したA&Mレコードは当時、軽く明るくソフトなポップスを数多く生み出したレコード会社で、クロディーヌ・ロンジェのウィスパリング・ボイスはA&Mの音にうまくハマったといえます。

どの曲も甘く(甘ったるく)、その甘さは春のこの時期にぴったりですが、ベストを挙げるとすれば、「Who Needs You」。途中から入ってくる男性ボーカルは、アレンジャーとして知られるトミー・リピューマ(これはレアです)。



And so dear, I guess the answer is simply. Who needs you, I do!」という歌詞の締めもまたラブソングとして最終兵器並みの威力です。

そんなこんなで若い頃からクロディーヌ・ロンジェを愛聴していたある日、悲しいニュースを知りました。歌手アンディ・ウィリアムスと結婚・離婚後の1976年同棲していたプロスキー選手を銃殺した罪に問われたというのです。本人は暴発を主張するものの判決は有罪。その後のことは知りませんが、ちょっと調べていると、現在も隠棲中のようです。

〔追記〕
大雪の降ったこの2月、榮猿丸さんのツイートにクロディーヌ・ロンジェが。





雪がほんとうに美しい。クロディーヌ・ロンジェも素晴らしい。このツイートが今回の「おんつぼ」のきっかけとなりました。感謝。

2014年4月5日土曜日

Sometime It Snows in April

Sometime It Snows in April



2014年4月4日金曜日

●金曜日の川柳〔後藤柳充〕樋口由紀子



樋口由紀子






荒縄をほぐすと藁のあたたかさ

後藤柳充 (ごとう・りゅういん) 1929~1982

荒縄は藁でできている。確かにそうである。知っているはずなのに気づかないでいた。荒縄は固く縛るから、きついイメージがある。それに比べて藁はやわらかい、やさしいイメージがある。荒縄で想像するものと藁で想像するもの、それぞれの印象も質感も異なる。

理屈の句である。が、理屈では終わらないものを多分に含んでいる。川柳は箴言とすれすれのあたりを文芸にしてしまう特技がある。それにしても「ほぐす」っていい言葉である。ほぐされると本来の藁のあたたかさが出てくる。人もしかりだろう。人間も、思想も、出来事も、凝り固まらずに、もっともっと「ほぐす」と住みやすい、あたたかい社会になるのにと掲句を読んで思った。ほぐされて荒縄自身が一番ほっとしただろう。「あたたかさ」もいい言葉。遺句集『餘香(よこう)』(昭和59年刊)所収。

2014年4月2日水曜日

●水曜日の一句〔都築まとむ〕関悦史



関悦史








立て掛けて月下の回覧板となる   都築まとむ

昼は多忙であったのか、夜、回覧板を回す。頼める同居の家族もいないのかもしれない。郵便受が小さいようで、玄関先に立て掛ける。

途端にそれは「月下の回覧板」となり、建築物、それも古代ギリシャの廃墟か何かに通じるような、小規模ながらも端正で抽象的な構築美をまとうこととなる。

立て掛けた当人以外に見る者もない一場の急変は、詩の発生の瞬間そのものだ。

日常の些事、何の気なしの動作の延長に、詩性が不意に現れ、それが普段気づかれない通風孔のひとつを探り当てたようで、月下の結晶感とともに、或る安らかさを感じさせる。

「立て掛けて」がこの際絶妙の姿勢。垂直にひとり屹立するでもなく、寝そべって存在感を失うでもなく、世界との関わりを持つ姿勢である。

日々の暮らしの至るところに、美と安らぎに通じる回路は気づかれることもなく、現れては消え、消えては現れしているのではないか。回覧板にも、立て掛けた当人にも。


句集『塩辛色』(2014.4 マルコボ.コム)所収。

2014年4月1日火曜日

●4月1日

4月1日


エイプリルフール 2011年4月1日
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コモエスタ三鬼 第27回  バカ
http://hw02.blogspot.jp/2012/04/27.html

今日は西東三鬼の忌
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