2014年8月30日土曜日

【柳誌を読む】/形(たち)の家 『Senryu So 時実新子2013』を〈カタチ〉から読む 柳本々々

【柳誌を読む】
人/形(たち)の家
『Senryu So 時実新子2013』を〈カタチ〉から読む

柳本々々



たましいのかたちとわれてまるくかく  時実新子

『Senryu So 時実新子2013』(石川街子・妹尾凛・八上桐子 発行・2013年早春)からの一句です。

この句にあるような「かたち」から時実新子さんを捉え直してみたいというのが今回の文章の趣旨です。

文章をはじめる前に樋口由紀子さんの時実新子さんについての次の一節をみてみたいと思います。
川柳の「私性」ですぐに思いつくのは時実新子の「私の思いを吐く」である。
(……)
時実新子は時実新子という物語の「私」という場で川柳を書いた。しかし、多くは時実新子の現実の出来事の「私」として川柳を書いたと錯覚した。大切なのは「私性」を感じさせる面白味を言葉のどこでどのようにして関係づけていくかである。言葉より思いの方を重視して、言葉より自分の思いを優位に置き、そこで川柳は「私性」を作り上げてきた。

樋口由紀子「川柳における「私性」について」『川柳×薔薇』(ふらんす堂、2011年)p15-18
時実さんの川柳はおそらく〈私性〉から読まれることが多いのではないかと思うんですが、樋口さんが述べているように「大切なのは『私性』を感じさせる面白味」としての「言葉」の問題を「どこでどのようにして関係づけて」さぐりなおしていく/いけるか、ということにあるのではないかと思うのです。つまり、「思い」から「私性」をたどり直すのではなく、「言葉」から「私性」を考えてみようとすること。

たとえば、時実さんの句の強度というのは実は〈私〉以外のところにもあったりするのではないかと思うんです。

もっというと〈私〉を突き詰めていった結果、〈私〉を超えて、〈私〉の彼岸のようなところにたどりついたからこそ、かえって〈私〉臭さがぬけて〈私性〉が成立しえたようにも思うのです。

〈私〉をもし描くのだとするならば、そうした〈私〉の超越にこそ、逆説的ではあるけれど、〈私性〉というものがあるように思うんですね。

これは、〈私=詩性〉川柳と一見相反するような時事川柳やユーモア川柳もそうで、おそらく、時事川柳やユーモア川柳も、それをとことんつきつめてゆけば、時事やユーモアの彼岸にたどりつくように思うんです。

たとえば、月波与生さんに次のような句があります。

悲しくてあなたの手話がわからない  月波与生(「尾藤三柳 選・時事川柳」『川柳マガジン』2014年2月号、p43)

これはもともとマンデラ元大統領追悼式典の手話通訳のひとの〈でたらめ〉な手話の事件が起きていたときの〈時事川柳〉として『川柳マガジン』に投稿されたものです。

けれども、月波さんのこの句にある、〈時事〉を通してほどこされた〈仕掛け〉は、そうした時事的な手話の非交通と誤配のありかたを、日常的に〈私〉=誰もが体験するかもしれない〈悲しみ〉に起因する非交通と誤配の文脈に置き直し、時事川柳でありながら時事川柳の彼岸にもちこんでいます。時事的な〈でたらめ〉としての手話の〈わからなさ〉と、私事的な〈かなしみ〉としての手話の〈わからなさ〉を、〈わからなさ〉において共約しつつも、差異化しています。ここに私はひとつの時事川柳の可能性があるのではないかと思います。

そしてそうした〈仕掛け〉のなかにこそ、実は〈私性〉が胚胎しているのではないか。

時実新子さんは〈私性〉から読まれることが多いのではないかと述べましたが(それは『有夫恋』といったような〈私秘的〉な句集のタイトルが要請するコードの強さもあるようにも思いますが)、《あえて》時実さんの川柳を〈私〉を突き抜けた「かたち」の主題的側面からみてみるとどうなるのか。

そこで『Senryu So 時実新子2013』から、〈かたち〉を軸に時実さんの川柳をいくつか抜き出してみます。

たましいのかたちとわれてまるくかく

月を四角と言い張る涙こぼしつつ

寒天とおなじ形に冷えてゆく

じっと見ていると花かたばみも父

母が病む 爪のかたちの十二月

子に遠く海老の形にねむり落つ

これらの〈かたち〉というテーマをもたせることができる時実さんの句をみていえることは、〈かたちはひとつの事件なんだ〉ということなんだと思うんです。

たましいのかたちをまるくかいてしまうことも、月を四角といいはって泣くことも、なにかをじっと見ていたら花の形をとったことも、子から遠く離れて海老の形にねむったことも、〈かたち〉をとおした〈事件〉です。

そしてこのとき、〈かたち〉とは〈私性〉の濃度をどれだけあげようとしても、それをはねつけるものとして機能しているように思うんです。

なぜなら、〈かたち〉とは(たとえそれが語り手の投影された想像的形象であるとしても)依然として〈普遍化〉されたマテリアルなものであり、いったん語り手の言表が〈かたち〉としての〈カタチ〉を取ってしまった以上は、語り手の投影効果を〈異化〉する作用としても機能するからです。

たとえば、「かたばみも父」と「かたばみ」の〈かたち〉が「父」に形象化されたとき、「かたばみ」と「父」を〈かたち〉によって統合しつつも、依然としてそこには「かたばみ」と「父」という分離化された解消できない距離があることに読み手はすぐに気がつくことができます(この重ね合わせつつも・完全に・重ね合わすことができない〈距離〉があるからこその語り手の「かたばみも父」だと思います)。それは語り手が表象=代行として形成している〈かたち〉ですが、〈かたち〉とはそのように形成化されたときに読み手がすぐにきづくことができるような詠み手と読み手の折衝の〈場〉ということができるはずです(つまり、わたしの〈私〉とあなたの〈私〉がぶつかりあうような、〈私〉をめぐる〈私〉を超えた〈場〉です)。

だからこそ、時実さんの川柳は、時実さんだけの〈私〉ではなく、読み手の〈私〉をもつきつけあう交渉の〈場〉が〈かたち〉を通して行われているのではないかと思うのです。

そして、そうした〈かたち〉の主題=仕掛けをみつけたことが時実さんの句の〈私性〉を〈言葉〉の側面から補完する役割として機能していたようにも思うのです。

だからこそ語り手はこんなシーンにもとうとつに読み手をひきこむことができるのではないかと思うのです。

たとえば、すこし、こっちへ、きてみてください。

ここに、人〈形〉がいます。人/形、です。

ここに、くるとわかります。

みてください。人形です。一体では、ありません。

カタチを取った人形が、

それも百体 人形が目をひらく  時実新子

2014年8月29日金曜日

●金曜日の川柳〔飯島章友〕樋口由紀子



樋口由紀子






仏蘭西の熟成しきった地図である

飯島章友 (いいじま・あきとも) 1971~

地図を長いこと見ていない。子どもの頃は目的もなく、なんとなく、地図を見て、勝手にわくわくしていた。宝探しの地図なんか作って、遊んでもいた。地図には夢があった。気持ちがどこかに飛んでいっていた。

「熟成しきった」とはどんな地図だろう。なんとも意味深であり、奇妙な感覚を読み手に残す。その地図が何を表しているのか。どこにあり、誰が見ているのか、これは情景なのか状況なのか、あれこれ想像させる。切り取りのセンスがいいから、言葉が確実に働きかけてくる。

一句の中に問答があり、定番のオチがある定番の川柳とは異なるが、これも川柳の一つのかたちである。前句を考えてみるのもおもしろい。〈寝坊したロックスターのでんぐり返し〉〈コーラひとくちアムトラックが走り出す〉 「川柳カード」6号(2014年7月刊)収録。

2014年8月27日水曜日

●水曜日の一句〔仁平勝〕関悦史



関悦史








夏物をしまふと秋のさびしさが   仁平 勝

一見大した内容もなさそうに見え、実際に大した内容は詠まれてのだが、初学者にはまず出来ない、力の抜き方のうまさが際立っている句である。

ここに詠まれた感慨は当たり前といえば当たり前のことであり、誰でも感じたことはあるのだろうが、それがこういうすんなりした句に成るについては、志向性と技術力による、ほとんど嫌らしいほどの微調整が要る。

まず因果関係で展開している句(駄目な句とされる典型的なパターン)のように見えながら、「しまへば」ではなく「しまふと」と理詰めの野暮ったい窮屈さをあっさりいなしており、さらに「さびしい」と何の含みもなく心情をじかに説明してしまっているように見えながら、「さびしさが」と無生物たる「さびしさ」の方を主語に据え、句の前半まではたしかに「夏物をしまふ」能動的な立場を占めていたはず作中主体を瞬時に「さびしさ」に襲われる儚くも不定形の存在へと変換してしまうことで、一句は心情吐露の重ったるさから、これもあっさり身をかわしているのである。

そして「夏物をしまふ」ような地に足の着いた丁寧な暮らしぶりゆえに、不意に「秋のさびしさ」にその身を占められてしまうこの作中主体は、「夏物」の重量を手放してほとんど虚空そのものと化しながら、そのことに限りない満足を抱いているようにも見える。

観念的な言葉遣いとも宗教的道具立てともおよそ無縁にそうした事情を描き出し、危険なものかもしれない空虚さを手近な玩具のように慈しんでしまうさまが、この句の魅力の淵源であり、また何やら落ち着かない気分にさせる当のものでもある。


現代俳句文庫75『仁平勝句集』(2014.6 ふらんす堂)所収。

2014年8月26日火曜日

●自転車

自転車



自転車は遠き夏木に停め来しと  依光陽子〔*〕

乙鳥はや自転車盗られたる空を  小川双々子

自転車を盗まれ祭囃子の中  山田露結

自転車の灯を取りにきし蛾のみどり  黒田杏子

自転車に昔の住所柿若葉  小川軽舟

自転車に子供を乗せて鹿の中  岸本尚毅


〔*〕『新撰21』(2009年12月・邑書林)より

2014年8月25日月曜日

●月曜日の一句〔山根真矢〕相子智恵



相子智恵







ゆふぐれの顔は鹿にもありにけり  山根真矢

句集『折紙』(2014.6 角川学芸出版)より。

一読で好きになった句である。序文で鈴木しげを氏も触れているが、この句を読むと古今集の「奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋はかなしき」を思い出す。

しかし正確に意味を掴もうとすると、するりと両手をすり抜けてゆく不思議な句だ。〈ゆふぐれの顔〉とは何か。夕暮れの沈みゆく太陽に照らされた顔だろうか。それとも夕暮れのような顔(寂しそうな顔?)だろうか。そのどちらでもあるのだろう。〈鹿にも〉の「にも」と比較されているものは何か。人間だろうか。これもすべてのものに当てはまる。

夕暮れの中の茶色い鹿の顔をアップで思い浮かべる。鹿の顔はきょとんとしているようでもあり、寂しげでもあって、こちらをじいっと見つめている。するとその目に映った私の顔も、よく見れば〈ゆふぐれの顔〉なのである。鹿の〈ゆふぐれの顔〉も、その他のすべても、薄暗い茶色に染まってゆく。

日は暮れる。秋は深まってゆく。

2014年8月23日土曜日

2014年8月22日金曜日

●金曜日の川柳〔渡辺和尾〕樋口由紀子



樋口由紀子






動物園に来たら男はよく喋る

渡辺和尾 (わたなべ・かずお) 1940~

よく喋る男性もいるが、総じて女性の方がお喋りである。我が家も例外ではなく、夫はあまり話さない。あるとき、私が喋っているとよくそれだけくだらないことをつぎつぎと喋れるなと感心され、喧嘩になったことがある。「くだらない」が余計である。

「コロンブスの卵」ではないが、「動物園に来たら」、そうかもしれない。誰もが思いつかないが、言われてみると納得する。のんき(そうに見える)で、のんびりしている(ように見える)動物たちを目の当たりにしたら頭が軽くなり、心が解放されて、口も軽くなるのかもしれない。そう言えば、最近読んだ小説(『楽園のカンヴァス』原田マハ著)で動物園がジェットラグ(時差ぼけ)に効く場所だとヒロインが言っていた。『うたともだち』(1989年刊 クリエイティブハウスぴーぷる)所収。

2014年8月21日木曜日

●斜め

斜め

立読みの少年夏は斜めに過ぎ  八田木枯

休暇はや白朝顔に雨斜め  中村汀女

水仙や青柳町に日の斜め  藤田湘子

たかんなの斜めに出でし本ぐもり  岸田稚魚

2014年8月20日水曜日

●水曜日の一句〔岡田由季〕関悦史



関悦史








運動会静かな廊下歩きをり   岡田由季

人気(ひとけ)のない建物の中を、そこで生きた人々の気配(もしくは霊気)を感じつつ歩く。これは一種の廃墟趣味にも通じる句である。ただし閑静さが愛でられつつも、人々は去ったわけではなく、すぐ外の校庭に満ちている。

この今現在のざわめきをあたかも遠い過去のように感じるという、すぐ隣にいながら隔絶した二重性のある距離感と、ほとんど人に気づかれず、さしたる用もなさげに建築内を遊歩するさまは、『ベルリン・天使の詩』の天使か何かのように、人間以外の、精霊的に浮遊しうる存在であることを愉しんででもいるかのようだ。

無論、それは一時の錯覚に過ぎず、戻ろうと思えばいつでも運動会の喧騒に戻ることができるという安心感がその裏にある。いわば日常の中でのわずかな天界浮遊だが、「廊下」という場所の詩性と、にぎやかな学校行事特有のものさびしさ(それは毎年繰り返されながらも、参加者が必ず一学年ずつ入れ替わっていくものだ)とが、対比されることでどちらも生かされ、そのはざ間に清浄な場所があらわれるのである。ただし廃墟趣味的なものというのは容易に自足・自己愛に横滑りもするもので、この句もそうした意味では充分な俗気と肉体を持った、この世の人の句である。


句集『犬の眉』(2014.7 現代俳句協会)所収。

2014年8月19日火曜日

●俳句

俳句


極道の一つに俳句霜の声  高野ムツオ

霜柱俳句は切字響きけり  石田波郷

向ふから俳句が来るよ冬日和  村越化石

待遠しき俳句は我や四季の国  三橋敏雄

一生を棒に俳句や阿波おどり  橋本夢道

秋風や眼中のもの皆俳句  高浜虚子

小細工の小俳句できて秋の暮  加藤郁乎

三千の俳句を閲し柿二つ  正岡子規


2014年8月18日月曜日

●月曜日の一句〔竹村翠苑〕相子智恵



相子智恵







長身の息子重宝墓洗ふ  竹村翠苑

句集『摘果』(2014.6 ふらんす堂)より。

盂蘭盆の祖先の墓参り。墓石は高さがあるので、長身の息子が墓を洗うのにうってつけなのだろう。現金な面白さのある句だが、生きていくということは、案外このようなあっけらかんとした日常が続くことであるのだ。それが死者を近くする墓参りの風景であることに感慨を覚える。

死は一回性の重みと悲しみを持つが、同時に人類の時間を俯瞰してみれば、先祖が増えていくリレーのようなものでもある。墓参りのような「儀礼」は特にそのことを思い出させる。

同じ季節には「生身魂」という季語もある。生者の側も同様に、自分がいて、息子がいる。生きているリレーもまた、こうして続いていくのである。

2014年8月16日土曜日

●俳句の日 短冊供養のお知らせ

短冊大賞・審査員に
福島泰樹氏(歌人)、古井戸秀夫氏(東大教授)
俳句の日 短冊供養のお知らせ


東京根岸西念寺の恒例行事である短冊供養が、8月19日(ハイクの日)に厳修されます。

内容は、法要、お焚きあげ、線香花火大会、暑気払いの宴という構成で、参加者持ち寄りの句の中から短冊大賞が選ばれ、発表されます。

日 時:8月19日(ハイクの日)火曜日 夜6時
会 場:東京都台東区根岸3-13-17 西念寺
参加費:志納、飲食物差入れ歓迎

【短冊大賞】
持参句:1句
審査員:福島泰樹氏(歌人)、古井戸秀夫氏(東大教授)
お手伝い:小誌・西原天気

お焚きあげを希望される句は、短冊大賞1句とは別にご持参下さい。


≫詳細:『週刊俳句』本誌
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/08/2014.html

2014年8月15日金曜日

●金曜日の川柳〔八上桐子〕樋口由紀子



樋口由紀子






こうすれば銀の楽器になる蛇口

八上桐子 (やがみ・きりこ) 1961~

蛇口は蛇口であり、蛇口として使用するものであり、他のものになるなどとは考えもしなかった。しかし、「こうすれば」、確かにそうなる。「こうすれば」とは蛇口を叩くとか蛇口を吹くかな、他にもなにかありそうである。想像すると楽しくなる。蛇口は銀色だから、まちがいなく「銀の楽器」である。

「こうすれば」に作者の意志が感じられ、夢がある。「蛇口を叩く」とか「蛇口を吹く」とかだと身も蓋もなく、句はそれだけで終わってしまう。そうだ、ぎくしゃくしている私だって、見方を変えれば、工夫をすれば、銀のようにきらきらと、楽器のようにりんりんと、なるかもしれない。希望を与えてもらい、視界は拓ける。

〈うつくしい布 うつくしく裂ける〉〈思い出はあやふやになる象の顎〉〈あえいうえおあお 水音になるまで〉 「川柳ねじまき#1」(2014年7月刊 ねじまき句会)収録。

2014年8月14日木曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】 話題の映画『怪しい彼女』を観てきました

【裏・真説温泉あんま芸者】
話題の映画『怪しい彼女』を観てきました

西原天気



『怪しい彼女』(2014年/ファン・ドンヒョク監督)という映画を観ました。

女性が、70代の経験知と20歳の肉体を併せ持てば、そりゃあ最強です。おまけに前者は「母性」という不可侵の絶対的自信を伴って、無敵。

そんなファンタジーを日常的な題材へと展開するハートウォーミングなコメディでした。

主演女優(20歳を演じる主役)シム・ウンギョンは、小林聡美とイモトアヤコを足して、テンションは足したままにしておいて2で割ってキレイにした感じ。この人、達者。んでもって、がんばる。歌唱がいい。他のキャストもみな魅力的です。

この映画は「いい映画だ」ということはわかります。評判がいい。お盆とはいえ平日の明るい時間帯に、お客さんの入りは上々。反応も良かった。笑うところで笑う。最後近く、泣かしにかかるところでは泣いている人もいた。レンタルになってからも、店員さんたちがポップでレコメンドしまくりそうです。

ところが、どうも、入っていけないのです。「ああ、いいなあ」とは思わない。

「いい映画です」と「ああ、いいなあ」とは、同じようでいて、少し違う。このあたりは微妙です。

最強ぶりに抵抗があるのか?(プロ野球でいえば100勝以上で優勝、プロレスなら相手に技をかけさせないで全勝てな感じの強さ?)

作っている人が一所懸命やっていて、作品として成功を収めている。それはわかっている。観た人の誰もが「良い」と言う。それでも、自分にはしっくりこない。そういうことはよくあることなんですよね。


俳句の話じゃなくて、ごめんよ。

2014年8月13日水曜日

●水曜日の一句〔鍵和田秞子〕関悦史



関悦史








梅一輪木造家屋痩せにけり   鍵和田秞子

日本の家は築30年で資産価値がなくなる。税法上のことだけでなく、実際に傷みがひどくなる。ひっきりなしに建て替えられて、町並みがどんどん変わっていく理由でもあり、貧困問題の小さからぬ原因ともなっている。

昭和の後半以降に建てられた家よりも、新建材も何もない手作りのような家の方が、ものによっては残っている場合がある。この「木造家屋」は、外壁まで板張りなのではないか。「痩せにけり」という言い方は、風雨や暑熱、寒波、地震にくりかえし晒され、木目が浮き出し、継ぎ目が緩んできたような家にこそふさわしい。

「痩せにけり」は単に家の外観をうまく言い表したということではない。閲してきた歳月の重みにおいて、この家は詠み手本人の心身と重なり合っているのである。詠み手と木造家屋とが、疲弊や傷みでもって浸透しあっているのだが、にも関わらず擬人化にも自己憐憫にも陥らず、それどころか渋く奥深いユーモアの手応えすらあるのが特長。

咲き初めの「梅一輪」の敏感な鮮やかさは、「痩せ」るほどの歳月を経た「木造家屋」にとっては、圧迫感のない華やぎでもって気を引き立て、心身の奥まで沁みとおりつつ、反面、その衰えを内側から照らし出す、泣きたいような、ありがたいような、生身の者には過酷な歓喜を篤実にもたらす、法そのもののようにも見える。一見、植物の清新と建築の古びとの対比に過ぎない事態に、「痩せ」の一語で不意に身が入ったのである。


句集『濤無限』(2014.7 角川学芸出版)所収。

2014年8月12日火曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】 『川柳ねじまき』創刊につき「まるこし」 の話など

【裏・真説温泉あんま芸者】
『川柳ねじまき』創刊につき「まるこし」 の話など

西原天気



『川柳ねじまき』が創刊されました。2014年7月20日、発行所には「名古屋市緑区」の住所。

ところで、名古屋の食べ物って、全国的には良いイメージがないのではないでしょうか。マスコミのイメージ操作なのか、タモリのせいなのか。

実際、味噌カツが好きだという非・名古屋人は見たことがないし、小倉トーストとか、想像するだけで「ちょっと遠慮しておきます」 だし。

ところが、数年前です。「まるこし」というお漬物をいただき、あら、美味しい!

吃驚しました。名古屋に漬物のイメージがなかったので、余計に。

漬物にはシブいイメージがあります。それが名古屋とどうも結びつかない。名古屋人には失礼な、非・名古屋人の無知から来るステロタイプと知りつつ申せば、ルイ・ヴィトン好きだけど「LVマークのないルイ・ヴィトンなんてルイ・ヴィトンじゃない」という名古屋人、日曜のたびにトヨタ車を家の前で洗車する名古屋人と、漬物は、イメージがつながらない。

なのに、美味しい。とくに茗荷?(何を食べたかそれほどはっきり憶えていないけれど、たしか茗荷)。この「まるこし」、名古屋人的にはどんな評価なのか知らないのですが、東京にも出店があるし、ネットでも買えるようですし、もう一度食べてみたいんですよね。


『川柳ねじまき』の話じゃなくて、川柳の話ですらなくて、ごめんね。



『川柳ねじまき #1』は定価500円。
ウェブサイトはこちら≫http://nezimakiku.exblog.jp/22222520/
問い合わせ先もそちらに記載があります。

正誤表が2枚なのは誤り? こういうのキライではありません

2014年8月11日月曜日

●月曜日の一句〔岡田由季〕相子智恵



相子智恵







敷物のやうな犬ゐる海の家  岡田由季

『犬の眉』(2014.7 現代俳句協会新鋭シリーズ4)より。

とある海岸の、とある海の家の看板犬なのだろう。〈敷物のやうな〉から、この犬は毛足が長くて大きな犬ではないかと私は想像した。海の家は夏季限定の仮設の建物だから、きっと冷房もままならないのではないか。そこに大きな犬が暑そうにべったりと寝そべっている。まさに敷物のように、床の上に伸びているのだ。お客さんが撫でたりしても、愛想もなく、少し目を上げるくらいで。

意外な場所にいる犬の姿を描いていて楽しい句だ。海の日差しは遮るものもなく、ぎらぎらと輝いている。海の家のような日蔭が恋しい、暑くて天気の良い海水浴日和の一日であることも、この犬によって見えてくるような気がする。

2014年8月10日日曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】 写すものと写ったもの 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
写すものと写ったもの

西原天気



写真の上手な人は「写す」。例えばプロは写したいものを写す。あるいは人々が見たいものを写す。

カメラマンさんと仕事をすると感心することが多い。例えば、学校案内を作るのに授業風景を撮影。カメラマンは、学生の眼球に焦点を合わせる。シロウトはざっくりと「眼」なので手前の瞼や睫毛にピントが来たりするが、プロは眼球(もしくは瞳孔)。出来上がりを見ると、たしかに黒目に力のある写真になっている。

ヘタクソだけど写真が好きで楽しむ、という場合、「写った」ものを楽しむ。

このあいだの吟行(散歩)のとき写真を撮った(≫http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2014/08/blog-post_3.html)。そのなかの一枚、ビルの一室の壁に何か見える。何なのか気になって残した(それがなければ即削除していた写真)。

あるいは、これ(↓)は、水を遣って(水を捨てて)いるらしいオジサンが「写ってしまった」写真。



ふうむ、と、ひとり眺めている。

俳句の話じゃなくて、ごめんね。


2014年8月8日金曜日

●金曜日の川柳〔野沢省悟〕樋口由紀子



樋口由紀子






徘徊と言うな宇宙を散歩中

野沢省悟 (のざわ・しょうご) 1953~

徘徊を辞書で引くと「どことなく歩きまわること。ぶらつくこと」とある。しかし、実際に使われるときは否定的な印象が浮かびがちである。

徘徊をつい短絡的な物の見方をしている自分に気づいた。どことなく歩きまわっている姿を余裕のある目でみていなかった。

「宇宙を散歩中」、そうなのだと思うと気持ちが明るくなる。当事者にとってはきれいごとですまされない場合もあるだろうが、徘徊を画一的ではなく、そういうまなざしを提示することも物を書く人の役割なのだと思う。遠からず、私も「宇宙を散歩中」になるのだろう。〈アレソコニコレソレアレガアルハズヨ〉〈認知して確かに認知し認知蝶〉 川柳カード6号(2014年7月刊)収録。

2014年8月7日木曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集『××××』の一句」というスタイルも新しく始めました。句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただくスタイル。そののち句集全体に言及していただいてかまいません(ただし引く句数は数句に絞ってください。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌から同人誌まで。必ずしも内容を網羅的に紹介していただく必要はありません。


そのほか、どんな企画も、ご連絡いただければ幸いです。

2014年8月6日水曜日

●水曜日の一句〔吉村毬子〕関悦史



関悦史








水鳥の和音に還る手毬唄   吉村毬子

複数の読み方ができ、それらが重なり合っていることが直観される句。

ひとつは「水鳥の(立てる)和音」、または「水鳥の(ものである)和音」へと手毬唄が還ってゆき、その歌詞・旋律が分解されていくという読み方。

もうひとつは「の」を主格と取って「水鳥が和音に還る(ことになる)手毬唄」という読み方である。この場合は実体があったはずの水鳥が手毬唄によって音響へと変貌し、消失することになる。

いずれにしても「手毬唄」か「水鳥」のどちらかは消失してしまうことになるが、その消失の相が「和音」という非実体的ながらも複数のものの調和を示す相であるところに、ものがなしくも目出度い完結感が漂っている。「手毬唄」が幼時の記憶に結びつきやすいことや、鳥が魂と同類視されやすいことを思えば、ひとつの生涯の終わりを内側から見守っているかのようだ。

実際に歌われる際には大概単旋律であるはずの手毬唄が「和音」へとずれるところに、湿っぽい日本情緒を明るく洋風化したような明るさがあらわれる。そして「還る」となれば、和音のほうが原点であり、消失する水鳥または手毬唄はその展開、具現化されたものに過ぎない。

そこまで読者に直観させてしまうからこそ、この和音は自然、生き物、幼児の記憶を全て美しく半抽象化しながら豊かに鳴り響く。水/鳥/球体/歌のイメージを透かし合わせた中へ、和洋折衷の近代日本の人生が掬い上げられ、やわらかく解放されるのである。


句集『手毬唄』(2014.7 文學の森)所収。

2014年8月5日火曜日

●日本語のリズムと俳句について 照屋眞理子

日本語のリズムと俳句について

照屋眞理子

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2014年8月4日月曜日

●月曜日の一句〔高勢祥子〕相子智恵



相子智恵







蟬時雨覚めて淋しき膝頭  高勢祥子

『昨日触れたる』(2013.9 文學の森)より。

昼寝から覚めた直後だろうか。目覚めた耳に窓の外からの蟬時雨が大音量で鳴り響き、遠近感が崩れたように、ふと目をやった自分の身体の一部であるはずの二つの膝頭が遠のいて、淋しく感じられる。全体に「S」の音が響いていて、それがまさに「蟬時雨」が句の空間全体に鳴り響いているような感覚を生んでいる。音と映像、身体感覚が一体となって狂っていくような不思議な句だ。

〈啓蟄や着替ふるときの腕長し〉〈鯉幟なまなましきは人の脚〉〈爽涼や机の裏に腿触るる〉〈あたたかい手かも秋海棠を指す〉など、この作者には身体を客観的に捉えつつも、取り合わせの季語と相まって不思議な世界に引き入れる魅力的な句が多い。

〈くちなはや昨日触れたる所へと〉〈性愛や束にして紫蘇ざわざわす〉など、フィジカルな触れ合いも詠まれる。自分そのものである身体が自覚的に描かれることで、自分から遠く切り離されたようにも思え、それでいて生々しくもある、不思議な重層性が生まれている。

2014年8月2日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】 五七五指折り数へ俳句せむ 堀下翔「律のこと覚書」覚書 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
五七五指折り数へ俳句せむ
堀下翔「律のこと覚書」覚書

西原天気



俳句の律(リズム)を論じるのに、総論・大理論をめざすのは困難で、各論の積み重ねでしか成果には至らないのではないか。堀下翔「律のこと覚書」(『里』2014年7月号)を読んで、そんなことを思いました。

ここで紹介されている「五七五は四拍子」説も、かかる総論・大理論のひとつでしょう。堀下氏は「中八」忌避を検証するのに「五七五は四拍子」説を援用しています〔*1〕。この説、聞いたことはありますが、詳しくは知りません。堀下記事を見ていきます。

まず五七五を「八拍子」に当てはめます。×は休符です。

○○○○○××× ○○○○○○○× ○○○○○×××

上五の後の休符3拍はあまりに長すぎないか、下五の後の3つの休符とは何? といった疑問が湧きます。つまり、休符を都合よく数えているだけなのでは? という疑問。

まあ、それはいいとして、次は、四拍子に当てはめます。

○○○○ ○××× ○○○○ ○○○× ○○○○ ○×××
○○○○ ○××× ○○○○ ×○○○ ○○○○ ○×××
○○○○ ○××× ×○○○ ○○○○ ○○○○ ○×××
○○○○ ○××× ○○○× ○○○○ ○○○○ ○×××


中七部分のどこに休符が来るかで、4パターンがある。

ここから、堀下氏は、「中七の枠の一つには一拍分のゆとりがある。この一拍分の音数が増えても四拍子は崩れない」とします。

え?

休符を数えてこその四拍子なわけですよね。四拍子説は休符が「前提」ですよね。言い換えれば、休符を見込まなければ、四拍子にはならない

五七五は四拍子(休符も入れたらネ) → 中八は休符を食いつぶす → 四拍子ではなくなる → だから中八は忌避される

こういう理路ならわかります。ところが堀下氏が導き出したものは、その逆です。どこでどうなったんのでしょう?

ちなみに、私自身は、中八忌避というより、「五八五」忌避です。堀下氏は「となると俳人の一律な中八忌避はある種の感情的なものに過ぎないと言えるだろう」と書きますが、私の場合、感情的ではなく経験的なものです〔*2〕。「五八五」の句に良いリズム、良いグルーヴを感じたことがない、という経験の積み重ねに過ぎません。

中八忌避は、思うほど教条的なものではなく、多くの人にとっては、私と同じく経験的な実感だと思いますが、いかがでしょう。



なお、この堀下論考の主旨は「五七五は四拍子」説の紹介でも、中八擁護でもありません。「ぱさぱさとした散文」(丸谷才一)の時代である現在における俳句の律について論じたものです。堀下氏は、俳句は「『伝統的な美しい律』の直系の子ではない」と結論づけます。それはそうかもしれない。そういう気がします。

ただし、その例示として、上六の字余りの句(最近の作)を挙げて、現代人が読むと「もはや韻文とは思わない」とする部分には大きな違和感があります。

芭蕉の句に、字余りは少なくない。超有名なところでは「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」。これに韻文を感じ取らない現代人はいるのでしょうか(口調は文語調でもない)。

決まりきった五七五(ちょうど17音)だから韻文を感じ、はみ出ると韻文性は薄くなる、ということもないでしょう。

むしろ、今の俳句は(とりわけ若い世代と言っていいと思います)、なぜこんなにも五七五ぴったりに収めたがるのだろう、というのが私の感想です。破調ということではありません。上五、下五の「纏足的5音」とも言うべき「むりくり5音」。

よく目にするのは、5音の名詞の後に本来なら備わるべき助詞を省いて上五に収めるパターンです。結果、観音開きの句(上と下が入れ替わっても成立する句、中七の叙述が上下どちらに係っているのか不明の句)になってしまうパターン。

堀下氏は「(…)俳人の律の感覚は、閉じた俳句の世界において独自に発展したものかもしれない」と書きます。「むりくり五七五」こそが、これにあたるような気がします。

ただ、これも、「散文の時代」だからこそ、「これは韻文だ」と明示しなければならない、その結果の「纏足的五七五」と解すれば、堀下氏の論旨と歩調が揃います。

俳句における「律」は、音数(五七五)が土台とはなるが、どうもそれだけはない〔*3〕

これは堀下氏の記事の重要なテーマだあると思いますが、それを論じるのに、なんだか雑駁に「五七五は四拍子」説を持ってきたことで、あらぬほうへ行ってしまった感。

俳句の律(リズム)、とりわけその現在性は興味深いテーマだけに、また別の角度、別の切り口からの接近を期待しています。


〔*1〕堀下氏は「四拍子」説を援用するものの、これを正当視するのかどうかについて、やや不明瞭。後述の字余りの「上五」について、「異様な上五の受容性もまた四拍子では説明を尽くすことができない」との記述が、どうにも論旨の流れに乗らない(私にはうまく理解できない)。結局、堀下氏は、「四拍子」説を有効とするの? しないの? どっち?

〔*2〕中八の有名句はいくらでも挙げられるでしょう。例えば「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る」(能村登四郎)。けれども、この句に律の快感は(私には)ありません。

〔*3〕具体的な方向では、音数だけでなく、母音・子音、撥音(ん)、促音(っ)、拗音なども無縁なわけはなく、それらを含めると過度に複雑化するという困難はあるにせよ、、音数以外の要素を捨象しての大理論・総論に、それほどの説得性があるのだろうか。

2014年8月1日金曜日

●金曜日の川柳〔原島幻道〕樋口由紀子



樋口由紀子






政治家は落語家よりも笑わせる

原島幻道

あるあると大きくうなづく。あっけにとられて笑うしかないこと次々と起こる。それにしても、どうなっているのかと思う政治家があまりにも多い。

落語家は笑わせるのが仕事だが、政治家はそうではない。笑わせるつもりがないのに、こちらが笑うしかない状況におちいる。そもそも両者によって笑わされる笑いの質は大きく異なる。政治家に笑わせられるのは、怒りを通り越して、多分にあきらめを含んでいる。笑って、あきらめて、慣らされていく。

掲句はひと昔前の作品であるが、今でも充分通用する痛烈な社会性川柳である。大人のふりして笑って済ませるのではなく、しっかり大人になって怒るべきである。政治家によって、私たちの生活は一変する。笑っている場合ではない。川柳公論20人集『川』(1985年刊 尾藤三柳事務所)所収。