2014年12月31日水曜日

●除夜

除夜

桝の豆ほどに混み混み除夜詣  平畑静塔

除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり  森 澄雄

神戸美し除夜の汽笛の鳴り交ふとき  後藤比奈夫

おろかなる犬吠えてをり除夜の鐘  山口青邨

くれなゐにひびきもつれぬ除夜の鐘  永田耕衣

2014年12月30日火曜日

●年用意

年用意

一袋猫もごまめの年用意  一茶

ふる雪のかりそめならず年用意  久保田万太郎

円鏡のラジオやせわし年用意  小沢昭一

2014年12月28日日曜日

●本日は岸田森忌

本日は岸田森忌



2014年12月27日土曜日

【みみず・ぶっくす08】 明るい部屋で、手をほどくふたつの川 小津夜景

【みみず・ぶっくす08】 
明るい部屋で、手をほどくふたつの川 小津夜景










小津夜景
【みみず・ぶっくす 08】明るい部屋で、手をほどくふたつの川


だが午後三時青い写真の中にをり、なぜ記号(意味)作用なのか、なぜ見ることなのか——これらの問いは時代錯誤である。《見る》ことのさざなみて不在のまなざしか海は問題性はすでに《見る》ことについて語る奇怪な困難の梟の〈かつてそこにあつた〉眼をひらく中に象徴的に示されてはいないだろうか。実際《見る》ことについて透明のマントで佇つやセカイが戸に語っているとき、われわれは《見えるもの》についてしか語っていないことがしばしば恋びとのくちびる或る日人語ありなのだ。見ることは透明に脱落して、見えるもの浮かび上がらせる。そして煮こごりに夜の音楽のなごりかな、見ることを価値づけているのは見えるものの価値、断章のしまくがままを逢ふ日なりに他ならないのだ。それを典型的に示すのは《画家の眼》の主題(=わがまなこ生の卵のごとく狩られ)だろう。それはつねに《かくされ=あばかれる真実》の主題いまはなき虹の画像のおぼえがきにほかならない。見るとき、 われわれがなにかもぐりこむ銀河は眩しもがりぶえを見るのは自明であるとして、しかし、この見えるものの超越性は凍港や胸に手紙をしまふとき自明なことだろうか。(宮川淳『紙片と眼差とのあいだに焼べるかなかの靴べらのかなしみを』)


……「写真」が再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。

午後三時青い写真の中にをり

……「写真」は二度とふたたび繰り返されないことを、機械的に繰り返す。

さざなみて不在のまなざしか海は

……「写真」は本質的には決して思い出ではない。

梟の〈かつてそこにあつた〉眼をひらく

……「写真」は思い出を妨害しすぐに反=思い出となる。

透明のマントで佇つやセカイが戸に

……ある日、何人かの友人が子供の頃の思い出を語ってくれた。

恋びとのくちびる或る日人語あり

……彼らには思い出があったが、しかし私には、自分の過去の写真を見たばかりだったので、もはや思い出をもたなかった。

煮こごりに夜の音楽のなごりかな

……「写真」は一つの魔術であって、技術(芸術)ではない。

断章のしまくがままを逢ふ日なり

……「写真」のノエマは単純であり、平凡である。〈それはかつてあった〉ということだけである。

わがまなこ生の卵のごとく狩られ

……「それはかつてあった」は、「それは私だ」に切り傷を与える。

いまはなき虹の画像のおぼえがき

……これは単に、写真を見る者に過去を思い出させることを意味してはいない。

もぐりこむ銀河は眩しもがりぶえ

……むしろ「死」との関係からとらえられる写真の普遍を意味している。

凍港や胸に手紙をしまふとき

……写真は時間を不動化させる役割を果たしていのでありどのような写真であっても写真のうちは私の未来の死を告げる記号が存在しているのである

焼べるかなかの靴べらのかなしみ


2014年12月26日金曜日

●金曜日の川柳〔柳本々々〕樋口由紀子



樋口由紀子






ねえ、夢で、醤油借りたの俺ですか?

柳本々々 (やぎもと・もともと) 1982~

中学生の時に大晦日に部屋の掃除をしていたら、借りていた本が出てきた。明日は来年、借りたものは今年中に返さなくてはならない。我が家は三世帯同居だったので祖父母にそう教えられていた。自転車に乗って、遠くの友人の家にまで返しに行った。友人は何も大晦日に来なくても、新学期でもよかったのに、と怪訝そうな顔をしたが、帰り道はすでに暗くなりかかっていたが、気分もすっきりしてペダルを踏んだ。

夢であっても借りたものは気になる。自分ではないかもしれないけれど、ひょっとして、俺? もし、借りていたのなら、また夢で返しますと言っているようだ。「醤油」にノスタルジーがあって、いい。ちょっと以前までは醤油などの調味料の貸し借りは隣近所でふつうに行われていた。日常生活に借りたのを思い出したってなかなか詩にならないが、「夢で」で詩的発見になった。のびやかな韻律に乗って、「俺ですか?」と日常を揺さぶる。

〈ひやむぎのきびしいぶぶんはなしあう〉〈おだやかなかつらをかぶり鳥を抱く〉〈足らぬからつぎたしていく部屋の西〉 「SO」(第六号 2014年刊)収録。

2014年12月25日木曜日

●2015年 新年詠 大募集

2015年 新年詠 大募集

新年詠を募集いたします。

投句先

上田信治 uedasuedas@gmail.com
西原天気 tenki.saibara@gmail.com
福田若之 kamome819@gmail.com
村田 篠 shino.murata@gmail.com

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールをお添えください。

※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2015年11日(木)~1月3日(土) 20:00


※年内は受け付けておりません。年が明けてからお送りください。

≫2014年の新年詠
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/01/350201415.html

2014年12月24日水曜日

●水曜日の一句〔林亮〕関悦史



関悦史








踏まずとも消ゆることなし枯野道  林 亮


夏野のなかの道であればすぐ草に覆われる。踏まれなくても道が消えないのは枯野ならではだ。

句はそのことに満足しているわけでもなければ、安心しているわけでもなく、また心配しているわけでもない。認識しているだけである。

生い茂った植物の痕跡と、来春以降再び繁りだす潜勢力をはらみながら停止している枯野の停滞感。この停滞感には電車が事故で停車しているような、本来動くべきものが止まっているときの、どこか耐え難いもどかしさがひそむ。認識しているだけというスタンスは、その停滞感に見合っている。

道がついているからには、そこを通る用のある人間が一定数いるはずだ。それを消さずにおくのは自然の慈悲でもなんでもない。残るときは残り、消えるときは消える。今はたまたま努力して残す必要がない時期にあたっているだけだ。

人の側もことさら努力しているとは感じていない。獣道とはそういうものである。人の営みと自然とが、特別意識することもなく押し合いを繰り返した結果、現在のバランスとして枯野道が残っている。特に意味や感情が生じるほどのものでもない。ただそういうもの、そういう状態がある。それに気づいてしまった者も、ことさら影響を受けることもなく、普通に暮らしていくしかない。ただそういうものに気づいてしまったという経験が、一時残る。その経験もやがて夏野のなかの道と同じように消える。句が捉えたのは、そういう局面なのである。そういう局面を捉えて残してしまった俳句というものがナンセンスなような気もし、めでたいような気もする。


句集『高知』(2014.12 私家版)所収。

2014年12月22日月曜日

●月曜日の一句〔酒井和子〕相子智恵



相子智恵







狐火もわが晩歳も音立てず  酒井和子

『花樹』(2014.11 角川学芸出版)より

狐火は、山野や墓地などの陰湿な地に自然に発生する青白い火花。夜中、音も立てずに青白い火が発光するのは、この世のものとは思えない不気味さだ。

狐火が音を立てずにすーっと光り、消えるのと同じように、自分の晩年もまた、音を立てないで過ぎてゆくのだという掲句。静かではあるが、その静けさはしかし、現実的な人が送る晩年のような、あっさりとした静けさではない。音を立てない物は他にいくつもあり、もっと現実的な物もあるはずなのに、狐火という不気味な無音の光に自分の晩年を重ねているからだ。

老いによって化け物とも近くなるような、現実と非現実が近づいていくような単純ならざる晩年。詩心のある人の晩年は静けささえも面白い。

2014年12月20日土曜日

【みみず・ぶっくす07】 みみずのてがみ 小津夜景

【みみず・ぶっくす07】 
みみずのてがみ 小津夜景


小津夜景
【みみず・ぶっくす 07】みみずのてがみ

ほんとうは【みすず・ぶっくす】を
買いに行ったのですが、
なぜか【みみず・ぶっくす】を買ってしまい、
しかもけっこう長い間
自分がうっかり【みみず・ぶっくす】を
買っていたことに気づかなくて。

というのもこの家に【みすず・ぶっくす】は
もともと一冊もなかったし、
あの【みすず】書房の【ぶっくす】シリーズだもの
みみずの研究書くらい出てるよね、と思ったから。

まさか勘違いだったとは。

でも最近は【みみず・ぶっくす】も
割と面白いことが少しずつわかってきました。
みみず、だけあって、かなりロハスな本です。
お経みたいに、宇宙を謳ったりもします。

大地の詩句と
彼らはよばれ
はいずりまわり
糞をする。

大地の詩句が
糞をするたび
いのちがそだち
歌となる。

こんなうたとか。
この本をよんでわかったのは、
みみず les vers が定型詩 le versと
同じ綴りだってこと。

定型詩って
そんな自由で、のたくねって、
くそまみれなものだったのか!
やばい、なんてすばらしいんだって
すごい手紙をもらった気分



いまだ目を開かざるもの文字と虹
くるぶしに冬の金魚のしづけさが
鳩尾はそぞろに詩句をそらんずる
欠伸して指のイデアと出逢ひしかな
つまさきを濡らしやさしい夜の糊
かほを撫でしぼんだ星の膨らみぬ
耳たぶはとぶぬばたまを見んとして
うら声のうらより皮を剝いでゆく
むらぎもは旅ごろも着てそのままに
凩をきく手のひとつきりとなる

2014年12月19日金曜日

●金曜日の川柳〔森田一二〕樋口由紀子



樋口由紀子






舌を咬む事の痛さに今日も負け

森田一二 (もりた・かつじ) 1892~1979

舌を咬んだら飛び上がるほど痛い。その事に慣れることなんて到底できない。その痛さを我慢できないことを「今日も負け」と自分を諌めている。身体の痛みと精神の痛み、現在強いられている状況の厳しさと怒りが「舌を咬む」で想像できる。

ああ、やっぱり。でも、信じられない。「舌を咬む事の痛さ」は衆議院議員選挙結果を見た今の私の心境と同じ。予想されていたが、まさかと思っていた。そんなばかなことはないと思っていた。世の中はどんどんきな臭い方向に向かっていくようでおそろしい。

森田一二は新興川柳運動の先駆者で、彼の創刊した個人誌「新生」が川柳革新運動の実質的な起点とされている。また、マルクス主義文学者でもあり、鶴彬に大きな影響を与えた。〈いろいろな穿きもので来る自由主義〉〈ジッと見るなかに一筋槍の先〉〈てっぺんに登って資本縊られる〉 『新興川柳詩集』(1925年刊)所収。

2014年12月18日木曜日

●筋肉

筋肉

冬森の背筋を伝ひゆくわれか  佐藤鬼房

紫蘇は実に雨のかすかなる筋肉  山中葛子

腹筋はアリアの為ぞ花氷  中原道夫

噴水や思はるる身の筋繊維  佐藤文香

風神雷神筋肉の裂けて黴  大石雄鬼

鉄臭いそれでいて筋肉が柔らかで柔らかで遅い銭湯のいつも君たち少年工  橋本夢道


2014年12月17日水曜日

●水曜日の一句〔武藤雅治〕関悦史



関悦史








飛んでゆく鞄のこゑの暗さかな  武藤雅治


一見何かの寓意がある句に見えるが、句は別の何ごとかを意味しているわけではおそらくない。まずは字義通りに読む以外にない。飛んでゆく鞄というものの存在を読者は受け入れなければならないし、その鞄があろうことか声を上げており、しかもその声が暗いというところまで、それがいかなる意味を持つ情景なのか一向に理解できないまま立ち会わなければならないのである。

単なるナンセンスではなく「意味」とか「寓意」がちらついてしまうのは「暗さ」の一語があるからだ。つまりこの鞄には感情がある。また「暗さ」の一語があるゆえに「飛んでいく」が自発的な行為ではなく、心ならずも吹き飛ばされているらしいという印象が生まれる。だがその印象も絶対的なものではなく、鞄は暗い声を上げながら自棄をおこして暴走するかのように、自発的に飛んでいるのかもしれない。

「こゑ」が本当に感情を表しているのかどうかも少々あやしい。虫の声と同じく、聴く側が情緒を付与してしまっているのかもしれないからだ。しかしこの新品とは思いにくい「暗さ」を帯びた鞄が、人に寄り添うようにして使われる中空状の道具であることを思えば、使ってきた人間の感情を多少は呑みこんでしまっているのかもしれず、そうなると鞄と視点人物との区別もあやふやになってくる。

「飛んでくる」のでも「飛んでいる」のでもなく「飛んでゆく」という、視点人物からの遠ざかりが明示されていることがここで注意を引くことになる。つまり鞄は視点人物の代理として暗い声を上げつつ飛んでゆくのだと取った方が良いのではないか。

しかし視点人物の無感動な報告ぶりは、鞄に「暗さ」を託して流し去ったカタルシスによるものとは感じられない。視点人物と鞄の持ち主が別人という可能性も考えられるが、いずれにせよ救いもなければ終わりもない、消尽された煉獄である。

そして煉獄が十全に表現されると、それは奇妙に愉しいものとなる。


なお作者は歌人であり、句作は故須藤徹との出会いによって始まったという。句集に収められた作品が俳句か川柳か、はたまたそれ以外の何かなのか、作者は特定していない。


句集『かみうさぎ』(2014.12 六花書林)所収。

2014年12月15日月曜日

●月曜日の一句〔尾池葉子〕相子智恵



相子智恵







ふくろふに昼の挨拶してしまふ  尾池葉子

『ふくろふに』(2014.11 角川学芸出版)より

挨拶ができるほどの距離感と長閑さだから、この梟は野生の梟ではなく、動物園やペットショップなどで飼育されている梟なのだろう。

梟は夜行性だから、本来は「こんばんは」という夜の挨拶が妥当なのだろうけれど、昼間に動物園かどこかで見たせいか、梟の檻の前でつい「こんにちは」と昼間の挨拶をしてしまったというのである。とぼけた面白みのある句だ。

〈ふくろふ〉〈してしまふ〉という歴史的かなづかいの「ふ」が活きていて、掲句ののんびりとした内容が文字からも感じられてくる。

2014年12月13日土曜日

【みみず・ぶっくす06】積みたる貨車は 小津夜景

【みみず・ぶっくす06】 
積みたる貨車は 小津夜景

小津夜景
【みみず・ぶっくす 06】積みたる貨車は

氷湖より白い表紙のやうに明け
要のない身にあとがきを冬の薔薇
さらばとふことば時雨るるシェルブール
義戦知る友に仮死なる夜やあらむ
待ちながら神は旅寝のくさまくら
しろながすくぢら硝子のしらほねら
寒に触れかんざしに彫るフローラを
宵越しの風花もたぬ足裏かな
ぼろぼろのマントを脱がむ逝かば先づ
ふゆいちご去りて檻なる日向へと

2014年12月12日金曜日

●金曜日の川柳〔星野光一〕樋口由紀子



樋口由紀子






今日も銀座の一角に佇ち、開けゴマ

星野光一 (ほしの・こういち) 1927~

アラビアン・ナイトのアリ・ババと40人の盗賊が「開けゴマ」と唱えると盗んだ宝物が隠されて洞窟が開く。魔法の言葉である。

笑ってしまった。掲句を読んで、ユニークでわざととぼけた行動をする、こんな人は必ず存在すると思った。夢とユーモアがあって、いいなあ、こんな人。寂寥感も含んでいる。

場所設定が絶妙だ。クリスマス前の銀座はさぞ華やかに賑わっているだろうと地方に住んでいて思う。かっての銀座は江戸幕府直轄の銀貨の鋳造・発行所であったところ。その一角に佇って、唱える。「佇つ」だから、しばらくその場に立ち止まってだろう。もちろん、扉が開いてお宝が出てくることはまずない。でも、でも、ひょっとしたらなにかが起こるかもしれない。だから、「今日も」なのだろう。

〈雪だるまに そら恐ろしき目を与う〉〈朝 昼 夜 豚に雌雄のある限り〉 『川柳新書』(昭和31年刊)所収。

2014年12月11日木曜日

●大仏

大仏

大仏に袈裟掛にある冬日かな  一茶

大仏にひたすら雪の降る日かな  飯田龍太

大仏の冬日は山に移りけり  星野立子

うららかに美男大仏どじようひげ  橋本夢道

大仏に草餅あげて戻りけり  正岡子規


2014年12月10日水曜日

●水曜日の一句〔猪俣千代子〕関悦史



関悦史








白梟頸回さねば白づくめ  猪俣千代子


梟というと闇夜に啼く猛禽というやや不気味なイメージがあるためか、いわゆる写生的な句よりも、例えば加藤楸邨の《ふくろふに真紅の手毬つかれをり》のように、内面に食い込む幻想的な詠み方をされたものに印象的な句が多い。

「白梟」となると例句を思いつかないので検索してみると《閉じる眼の向うが遥か白梟》花谷清や、《略歴に白梟と暮らせしこと》水口圭子といった作が出てくる。いずれにしても体内感覚や自意識とのかかわりを詠んだ句である。

掲句はあまりそういう要素がなくて、ただただ白梟というものの独自の姿かたちに無邪気に興じている印象。

鳥類としては頭部が大きい、マトリョーシカか何かのようなシルエットを持つ、白いもこもこの羽毛の塊。そして不意に思いもかけぬ角度に回りこんでこちらを見る頸。

「回さねば」とあるので、後ろ姿の印象が強くなる。目鼻もない「白づくめ」の妙な物体にたやすく化けてしまうナンセンス味が面白く、それで白梟の造化の不思議さと愛嬌が伝わってくる。

句集全体としては真面目に構えた佳句も少なくないのだが、この句は物見遊山的なまなざしが妙なものに出くわした心の弾みがすんなり出ているのがよい。

作者の猪俣千代子さんはおととい12月8日、92歳で逝去された。


句集『八十八夜』(2014.11 角川学芸出版)所収。

2014年12月8日月曜日

●月曜日の一句〔宇多喜代子〕相子智恵



相子智恵







生前の冬に紛るる死後の冬  宇多喜代子

宇多喜代子俳句集成』に収められた最新句集となる第七句集『円心』より。

この句が詠まれた2012年の冬はもちろん、2014年であるこの冬も、生きている限りは〈生前の冬〉である。そこに〈死後の冬〉が紛れるとはどういうことだろうか。自分自身が今を生きている中で、未来である死後の自分が紛れているように感じているのだろうか。または自分と限定せず、私たちを含めた生者が過ごす〈生前の冬〉の中に、多くの死者の〈死後の冬〉が紛れているのだと読むこともできる。

生前と死後の自分を描いたとすれば未来までの「時間」を詠んだことになり、現在における生者と死者を描いたのなら、目に見える生者の世界にとどまらない、死者の世界とのパラレルワールド的な「空間」を詠んだことになる。そのどちらにせよ、生と死は時間的にも空間的にも触れ合うところにある近しいものとして、ここでは描かれている。

句集『円心』には震災の影響を受けた、死のにおいを感じさせる句が多い。一方で〈夏夕焼授乳の母を円心に〉〈秋風や人類の史は赤子の史〉といった、生のはじまりに目を向けた句も目立つ。生と死という、人間の根源を見つめた句集であると思った。

掲句は生の中に死を見る、ひたひたと淋しい冬の句ではあるが、同時に生前と死後が近しく描かれていることによる、一種の心強さのようなものも、私は感じるのである。

2014年12月6日土曜日

【みみず・ぶっくす05】3つのマント 小津夜景

【みみず・ぶっくす05】3つのマント 小津夜景



小津夜景
【みみず・ぶっくす 05】3つのマント

1 オホーツク・エトピリカ篇

冬の陽をふちどり虹といふ寝息
海鳴りがある貌のない音信に
湯冷めして割れん大地や鉄路鳴く
北風よ髪はとかずて馳せ参ず
犬橇の手は温くしてほのしづか
しはぶきのやうな袋が飛んでゐる
なみがしらなみだをまばらなしながら
ボルシェビキなるは肋のことなるか
神去りしことを光のマントかな
冬鳥のこゑが好きよとゆうてみる

2 フリードリヒ・ヘンデル篇

うたたねに死父のぬかるむ冬館
声楽家冬の虫歯をひつこぬく
つはぶきを娶りバロック晩餐会
枯野より寒いメニュウを読んでをり
火の番のシェフや織りなす肉の罠
ティンパニで食べるごはんの怖さかな
サラバンドなまこはうまく踊れない
エクレアをエロイカ的な鬘と思ふ
ねぐらまで食パン抱いてももんがよ
三分のマントで旅をしてをりぬ

3 フォトグラム・エクリ篇

過ぎ去りし時のマントを垂らしをり
くつがへす雪ぞすべなく陽を恋ひて
独りにしあればふいよるどふうの影
カトレアを光を耳に切り落とす
すずしろは透きとほり夜の餌となる
掌にかろき夜半の風花うすみどり
冬ざれがわたしの貌をおぼろにす
しまくまだその窓にゐてほむらなり
まかがやく葱のごとくに眠るかな
冬鹿の家族に瞠つめられてゐる

2014年12月5日金曜日

●金曜日の川柳〔岩村憲治〕樋口由紀子



樋口由紀子






日常よ鷗ととべば撃たれるか

岩村憲治 (いわむら・けんじ) 1938~2001

日常とはなんだろうか。生まれ出てしまったからには否が応でも日々を暮していかねばならない。広大な海を自在に優雅に飛ぶ鷗のように、鷗と飛んでみたいと思ったことのある人はたくさんいるだろう。

「撃たれるか」が切ない。とぶ、つまり、そんな夢を見て、未知に賭けると、日常に戻れなくなる。それを作者は痛いほど知っている。日々の暮らしから離脱して、とぶという緊張に捉まりたい。けれども、何事に捉われることなく、つつがなく、平凡に遣り過していく、日常とはそういうものである。「撃たれるか」の諦観が胸にこたえる。

〈どこへ行くバケツの中に海持って〉〈仲間が死んでなんで蝶々がとんでいる〉〈うかうかと素顔になって魚釣り〉 「新京都」(1982年刊)収録。 

2014年12月4日木曜日

〔人名さん〕車谷長吉

〔人名さん〕
車谷長吉

『赤き毛皮』(2009年9月20日・金雀枝舎)より

車谷長吉といふ冬野かな  柴田千晶


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2014年12月3日水曜日

●水曜日の一句〔深代響〕関悦史



関悦史








空の奥に
昼顔は去り

漂流市民
  深代 響


多行形式に限らず、前衛風の様式の句では、負性を帯びた言葉が使われることが少なくない。それが孤立意識と結びついて自己陶酔に近いセンチメンタルな句となったり、降霊術じみた句になったりする場合もある。

この句にも「去り」「漂流」と負性を帯びた語がないわけではないのだが、一句全体としては言葉同士のモビールのような軽やかさのうちに力と緊張が組織化されている。

まず注意すべきは「空の奥」という言葉だ。「空の果て」ではない。仮に「果て」とした場合、「昼顔」と地に残されたものとの間には断絶しかなく、地に残されたものは救いがたく鈍重な重力にとらわれることになる。ところがそこに「奥」という求心性を持った言葉が置かれると、空の彼方と地に残されたものとの間にピンと一本の張力がはりつめ、その張力がゆきわたった広大な空間が一句の中心を占めることになるのだ。

地に咲いていたはずの「昼顔」は「空の奥に」去った。おそらくは静かに。

ジョージア・オキーフの絵にクローズアップされすぎた結果、それ自ら宇宙のようになってしまった花がしばしばあらわれるが、この句にもそうした、凝視が非実体の領域まで柔らかくつきぬけるようなコスモロジーが感じられる。

そうした諸力の配置がはじめの二行で提示され、一行の空白による場面転換あるいは放心のようなものを挟んで、地に残されたのが何ものなのかが明らかとなる。「漂流市民」である。「空の奥に」「去り」という言葉による位置関係の呈示から、「漂流市民」は少なくとも一度は地に残されたものと思われる。

「昼顔」のうすさ、あやしさを通じて「空の奥」とのコスモロジーに触れてしまったものは、地にありながらか、あるいは「昼顔」を空の奥へと追いながらか、いずれにしても漂流するしかない。だが彼/彼女は漂流しながらも「市民」という社会的・行政的な位置づけに留まることをやめないのだ。

光瀬龍の無常観に満たされた宇宙植民SFに似た気配が漂ってくるのは、ここからである。この「市民」が属する社会的・行政的組織体が、非実体的なものをも含むコスモロジーのなかに存在し、機能しているように見えてくるのだ。ここまで来ると「市」と「市民」個人との区別もやや曖昧となってくる。倫理的で独立心に富んだ個人を思わせる「市民」という語は、しかし明確な個性を感じさせることはない。「市民」(たち)が「漂流」しているとばかりではなく、「漂流市」の「民」という読み方も一句の奥に透けてみえてくるのである。

いや、ここまでの読み方と、別な読み方もありうる。

「昼顔」と「漂流市民」とは別個の存在ではなく、「空の奥」へ去った「昼顔」が「漂流市民」となったと見ることも可能なのだ。句の語り手はその一部始終を地上で見届け、報告しているとも取れるのである。

語り手は「漂流市民」自身なのか、それとも別な何ものかなのか、また「昼顔」が「漂流市民」となったとして、彼らは単数なのか複数なのかは判然とはせず、その自他の区別の曖昧な、おのおののありよう=解釈が透けながら幾重にも重なり合っている、寄る辺なくも美しいさまをこの句は示している。

透けるように薄く萎れやすい花を、一本の蔓でつながりあいながらそこここに幾つも咲かせる「昼顔」が選ばれたのは、この句においては必然的であったのだ。


句集『雨のバルコン』(2014.11 鬣の会)所収。

2014年12月1日月曜日

●月曜日の一句〔岩崎信子〕相子智恵



相子智恵







寒卵蛇の供物として売らる  岩崎信子

句集『幻燈』(2014.10 ふらんす堂)より

寒中に産んだ鶏の卵〈寒卵〉は産卵数が少なく、栄養豊富で生で食べるのが良いとされ、昔は珍重されてきた。しかし現代では卵は安定的にいつでも食べられるようになったため、実際の〈寒卵〉の感覚は想像するしかない。そのような季語である。

掲句はそんな状況にある寒卵という季語の本意を、人間以外が食べるという意外な内容によって照らし出している。供物が売られているくらいだから、この蛇は神鶏のように神の使いとして飼われているのだろう。そんな特別な蛇に、栄養豊富な寒卵を供える。ここでは寒卵が活きているばかりでなく、不思議な力さえみなぎっている。