2015年2月17日火曜日

〔ためしがき〕 指を使うヒント 福田若之

〔ためしがき〕
指を使うヒント

福田若之


学校に置いてあるアップル社製のマウスについていたリーフレット


 「マウスの使い方」ではない(そうであれば書くことは何もなかっただろう)。「指を使うときのヒント」だという。

ここで二つの疑問――
・なぜ、「マウス」ではなく「指」なのか?
・なぜ、「使い方」ではなく「使うときのヒント」なのか?

「マウス」ではなく「指」であるのは、おそらく、二つの思想の露骨な現われなのだろう。

その思想の一つ目は、心身二元論だ。「指を使う」という表現における身体の客体化は、身体が精神と別物であることを前提としているから。

そして、二つ目は、技術が人の行動を規定するという技術決定論の思想だ。道具が自分の使い方を規定するのではなく、使い手の身体の動かし方を規定するのは、この思想においてである。マウスがなければ、人は、ワンボタンクリックすることも、ツーボタンクリックすることもないということが、この思想を支えている。

人が道具を使う、というかつての人間中心主義の神話は、人が道具を作る、というかつての創造の神話に支えられていたのだろうけれど、このように、今日では人はもはやそれを信じることができない――という今日的な神話があって、人はそれを信じている。しかし、だからといって、道具が人を作るというこのロシア的倒置法も、そうたやすく信じられるものではないだろう。おそらく、ことはそう簡単ではない。道具が人を作るのは、人が道具を使うかぎりでのことなのだから。

たとえば、道具を前にして予定された動きを禅問答的にかわしてしまうことはできないだろうか。しかし、ほかならぬ「ヒント」という表現が、その可能性を封じる。つまり、正しい「使い方」が提示されていない以上、どんな動きも厳密には予定されていないのだから、この「指を使うときのヒント」はマウスを使ったマウスを使わないあらゆる行為を許容していることになる。

そして、このマウスには正しい使い方がないので、間違った使い方もないことになる。すなわち、どんな使い方も許されるのであり、正しい使い方である。ここで、いま、このマウスには正しい使い方はないのだから、このマウスにはどんな使い方もないことになる。したがって、とんでもないことに、このマウスは使えないということになる。

いや、もちろん、人は現にマウスを使うことができただろう。ただし、もし、「指を使うときのヒント」が与えられていなかったならの話だ。このマウスは使えない、という帰結は、「指を使うときのヒント」を読むことによって導かれたものだ。だから、逆に言えば、「指を使うときのヒント」を読む限りで、人は、マウスを使うことができなくなる。

「指を使うときのヒント」は、こうして、巧妙にマウスを脱道具化する。 このとき、もはや人はヒントを頼りに指を使うほかない。ユーザーインターフェースのこうした脱道具化は、人に身体の全能感をもたらすだろう。人は身体を使うのに夢中になる。そして、もはや身体以外に道具はなく、ただ指を使ってコンピュータを操る。いずれはコンピュータも脱道具化されるだろう。そのとき、人は身体以外のどんな道具についてのどんな認識ももたずに、脱道具化されたものたちに囲まれて生きることになるのだろう。

ひとつの可能性――それでもあるとき、ついに、脱道具化されたものが寿命を迎え、故障する。そのことによって、人ははじめてそれを道具として認識するだろう。脱道具化された状態が正常なのであれば、それが壊れたものは、道具に違いないのであるから。

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