2015年5月26日火曜日

〔ためしがき〕 保存の法則、あるいは法則の保存 福田若之

〔ためしがき〕
保存の法則、あるいは法則の保存

福田若之


アインシュタイン以後、質量もまたエネルギーの一形態であることが明らかになったことには注意を払う必要があるとしても、そのことにさえ気をつければ、この宇宙において、マクロなレベルではエネルギー保存の法則が成り立つということに疑いの余地はないだろう。

しかし、だとしたら、エネルギー保存の法則は、どのようにして保存されているのだろうか。

僕自身は物理学に決して詳しくないので、この問いに答えることもできないし、あるいはすでに答えがあるのを知らないだけなのかもしれないけれど、とにかく僕にはこのことがひどく不思議に思える。

現代の人々は、世の中がある一定の法則に従っていることをしばしばコンピュータのプログラムに喩える。ゲームにはルールがあり、コンピュータ・ゲームのルールはプログラムというかたちであらかじめ書いてあるものだ。それと同じように、世界には法則があり、この法則は自然あるいは神によるプログラムなのだ、という。

だが、ある世界を書くということは――ある世界について書くのではなく、ある世界書くということは――究極的にはその世界の外で書くということだ。だから、もしこの世界を成り立たせるプログラムを書いた何者かがいるとしたら、外にいるに違いない。そして、もしそうだとしたら、このプログラムは、そのような世界の外部から見て、なにかしらの記憶媒体に保存されているということになるだろう。

しかし、そんなことがありうるだろうか。この世界の外にプログラムが保存されているとしたら、その保存は何によって保たれているのだろうか。それが保たれるためには、この世界の外もまた、一定の法則に従った安定したものであることが必要になるのではないだろうか。だとしたら、この世界の外を安定したものにしているはずのその法則は、どのようにして保存されているのだろうか。このように、外部からプログラムされた世界という仮定は、無限の入れ子構造を呈し、問いを答えることができないものにしてしまう。

だから、おそらく、世界に外があるというのは真ではないのだろう。そしてそもそも、ひとつの世界の中に別の世界が存在しうるということも真ではないのだろう。この仮定が正しければ、ただこの世界だけがあるということになる。しかし、だとしたら、この世界の法則はまさしくこの世界に保存されていることになる。

ということは、世界は自律的なのだろうか。おそらくそうだ。物理法則が保存されるという法則が成立しさえすれば、物理法則が保存されるというこの法則もまた、それ自体によって保存されることになるだろう。しかし、だとしたら、この法則の成立それ自体はどのようにして説明することができるのだろう。

当然、僕にはこの問いに対する答えを示すことなどできはしない。しかし、それでも、不思議に思うことを不思議だと書かずにはいられない。そんなことをときどき思う。

不思議に思うことを不思議だと書かずにはいられない、と書いた。 むしろ、不思議に思うことさえすべてがすでに何らかのかたちで書いてあると信じたい、と書いたほうがよいかもしれない。おそらく、あらゆる科学は、その解明しようとするものがすでに何らかのかたちで書いてあるということを信じている。科学とは、すでに何らかのかたちで書いてあることを具体的な言葉に翻訳していく作業のことではないだろうか。たとえば、相対性理論がアインシュタインによって書かれる前から、世界はずっとそういう仕組みで動いていたに違いないのだが、それをアインシュタインがはじめて具体的な数式に翻訳したのだと考えることはできないだろうか。こうした意味で、科学的な誤りとは、対象となる世界の誤読であり、そしてまた、その誤訳であるとはいえないだろうか。たとえば、科学史上に積み上げられた無数のフロギストン説は、燃焼にまつわるもろもろの現象の誤読がもたらした誤訳の山なのだとはいえないだろうか。

だが、もしかすると、そもそも実際には世界はいかなる意味でも書かれてなどいないのかもしれない。もしそれが何らかのかたちで書いてあるなら、何らかのかたちで書きかえることができるはずだ。だからこそ、僕らはしばしば、世界を書きかえたいというサディスティックな欲望を、自らが書く物語のうちに書き込んだりする。しかし、現実には、いったいどうすれば自然の摂理を書きかえることができるだろう。そもそもどういうかたちで書いてあるのかさえ分からないものを、どうしたら書きかえることができるのだろう。

とはいえ、世界がもし書かれたものではないのだとしたら、僕らは世界から何ひとつ読みとることなどできないだろうし、そればかりか、僕らは世界になにひとつ書きこむことなどできないのではないだろうか。いっさいの外部をもたない完全な白紙状態の世界で、だしぬけに何かが書かれるなどということはありえないだろう。なぜ僕らは何かを書くことができているのか? ――きっと、僕らが何かを書くことができるように世界にあらかじめ何らかの書きこみがあったからだ。

たしかに、これはあまりにも素朴な問いに対する、あまりにも素朴な答えであるように思える。それでも、そう信じずには何かを書くことなどできないのではないだろうか。あるいは、こう書いたほうがよければ、そう信じずには自分が何かを書いているのだという認識を持つことなどできないのではないだろうか。

しかしながら、ここまで書いてきて、やはり何かが腑に落ちない。おそらく、何か根本的に書き損なっているか、あるいは、書き間違えている。だから、おそらく、この文章もまた、いずれは書きかえなければならないのだ。

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