2015年5月19日火曜日

〔ためしがき〕 『魔法少女まどか☆マギカ』と谷崎 福田若之

〔ためしがき〕
『魔法少女まどか☆マギカ』と谷崎

福田若之


「僕と契約して、魔法少女になってほしいんだ」
――テレビ版『魔法少女まどか☆マギカ』第1話、キュゥべえの台詞
先日放送が終了したテレビアニメ『SHIROBAKO』には、『魔法少女まどか☆マギカ』(以下、『まどマギ』と略記)と『健全ロボダイミダラー』をもじったと思われる『背徳ロボサドカマゾカ』という作中作が登場した。「健全」をひっくり返した「背徳」はたしかにサドやマゾッホの文学に通じるが、それにしても、人は『まどマギ』を前にして、どうしてサディズムとマゾヒズムの二択を思い浮かべるのだろうか。

『まどマギ』において、少女たちは、キュゥべえという小動物的な見た目をしたキャラクターとの「契約」によって魔法少女になる。では、魔法少女になるとはどういうことか。それは、契約前の自分とは別の何者かになることだ。それは、第1話ですでに魔法少女である暁美ほむらが魔法少女になる以前の主人公の鹿目まどかに与えた忠告に暗示されている。
ほむら「鹿目まどか、あなたは自分の人生を尊いと思う? 家族や友達を、大切にしてる?」
まどか「え、えっと、わ、私は、大切、だよ。家族も、友達のみんなも、大好きで、とっても大事な人たちだよ」
ほむら「本当に?」
まどか「本当だよ。嘘なわけないよ」
ほむら「そう。もしそれが本当なら、今とは違う自分になろうだなんて、絶対に思わないことね。さもなければ、すべてを失うことになる。あなたは鹿目まどかのままでいればいい。今までどおり、これからも」
これは後に、ただの喩えではないことが明らかになる。第6話から第7話で、魔法少女の見かけの肉体は抜け殻であって、魂はソウル・ジェムという宝石のようなアイテムに変えられていることが発覚するのだ(比喩表現が後になって現実に認められるという展開は、後に見る魔法少女と魔女の関わりについての暴露にもあてはまる。こうした虚構の現実化は、『まどマギ』の物語展開における重要なパターンである)。第7話のまどかとほむらの次の会話が示すように、魔法少女は厳密には人間ではない。
まどか「ほむらちゃん、どうしていつも冷たいの」
ほむら「そうね。きっともう人間じゃないから、かもね」
ところでキュゥべえはといえば、容姿などについては中性的だが、その名はひとまず男性性の記号と見なすことができるだろう。キュゥべえの正体はインキュベーターというエイリアンの端末である。インキュベーターといえば、一般には卵を孵す機械のことだが、語源を遡ると、これは、女性を襲い悪魔の子を妊娠させる男の夢魔であるインキュバス(「上に乗る者」の意)とも通じ合っている。〈夢〉が、この言葉のあらゆる意味において、『まどマギ』の主要なテーマのひとつであることを考えれば、この語源の上での繋がりは注目に値するものといえるだろう。キュゥべえは、ある企みを秘めており、その目的のために少女たちと契約を交わし、利用しようとする。

こう述べると、キュゥべえは一方的に魔法少女を操っているかのように見えるが、一方では極めて被虐的な役割を担っている。それは、キュゥべえが第1話でほむらに攻撃されて負傷する場面で、すでに典型的に現れている。キュゥべえは、彼が彼女に与えたものによって攻撃される。キュゥべえは力を与えた少女に対し、責めを負っているのである。

魔法少女としてのほむらがキュゥべえに対してしばしば加虐的である一方で、魔法少女になる前のほむらは内向的で勉強も運動も不得意な虚弱体質の少女だったことが第10話で明らかになる。

内気な少女が、力を持つ男によってそれまでと別の世界に引き込まれ、以前とは別の何者かになる――これは、マゾヒズムの典型的な物語にほかならない。

ジル・ドゥルーズが『マゾッホとサド』で書いているように、契約はマゾヒズムの徴候である。『まどマギ』はマゾヒズムの構造を提示しているのだ。そして、そのマゾヒズムは、とりわけキュゥべえと魔法少女との関わりに着目するとき、たとえば、谷崎潤一郎の『刺青』や『痴人の愛』と同様の展開がなされていることが分かる。ここでなぜマゾッホではなく谷崎の小説なのかは後述する。ここでは、とにかく、キュゥべえがまぎれもないマゾヒストであることを確認しておきたい。

一方で、魔法少女になる契約を拒絶しつづけるまどかは、この物語の主人公にして、ただ一人のサディストだといえるのではないだろうか。魔法少女になる少女たちは、どれだけキュゥべえに対立したとしても、まさしく魔法少女であることによってキュゥべえの利益となる。キュゥべえは虐げられながらも満たされる。しかし、まどかは、魔法少女になることを拒絶し続け、そのことで、結果的に、キュゥべえと同じ世界に生きることを拒んでいる。その限りでキュゥべえはまどかからは満足を得ることができない。

これは本質的には性的嗜好の違いではなく(というか、それにとどまるものではなく)、あくまでも思想の違いであり、それゆえにこそ、イズムの違いなのである。サドの文学に関して言えば、それらは性的嗜好の百科事典の様相を呈しているのであって、単なる加虐趣味についての記述にとどまらない。あえてサディズムを性的嗜好に関連付けて定義することを試みるとすれば、それは嗜好そのものの特徴によって定義されるというよりは、むしろ、多様な性的嗜好に基づく願望を現実のものにするときの、ある極端さによって定義されるのではないだろうか。とはいえ、いずれにせよ、サドの登場人物たちのこうした性的嗜好の実現をめぐる極端さを、劇中のまどかに見出すことは少なくとも表面上はできそうにない(もしそんなことができたとしたら、テレビで放映することなどとてもできなかっただろう。必要ならば、『ソドムの百二十日』を原作としたパゾリーニの映画、『ソドムの市』を思い出せば事足りるはずだ)。後述するように、テレビ版の結末において、まどかはある極端な願望を現実のものにするが、その願望は性的嗜好に基づくものとはいえない。

上記の通りである以上、ここで任意のキャラクターをサディストないしマゾヒストであると述べるのは、何らかの診断のためではない。問題は精神病ではない。そうではなくて、言ってみれば、『まどマギ』のポリフォニーを分析することだ。個々のキャラクターの言動からいかなる思想の一貫性を見出すことができるかを語ることは、そのためにこそ有益である。

ところで、キュゥべえのほかに、もう一人、まどかと同じ世界に生きることを結果的に拒まれつづけることになる登場人物がほむらである。時間遡行者であるほむらは、迫りつつあるカタストロフで死ぬことを運命付けられているまどかを生き延びさせるために、何度も時間を巻き戻し、そのたびに悲劇的な結末を繰り返す。ほむらは、攻略不可能なゲームを決してやめようとしないマゾヒストのプレイヤーである。まどかに対するほむらの愛は、満足する結果を得られないまま苦しみを耐え続けることを通じて表現される。しかし、ほむらが「私はまどかとは、違う時間を生きているんだもの!」(第11話)と言うように、まどかには、ほむらの愛情を決して本当の意味で理解することはできないだろう。ほむらはまどかが生き延びる結末があると信じているが、まどかは決して生き延びてはくれない。だから、まどかは、 キュウべえを満たすことがないのと同様、ほむらを満たすことも決してない。サディズムとマゾヒズムは、本質的には相容れない。

無論、マゾヒストが契約を求める対象の女性はマゾヒズムの一要素を構成しているに過ぎず、彼女がマゾヒストである必要は全くない。それにもかかわらず、ほむらはマゾヒストとしての自らを露呈する。設定上のこの意図的な混同こそが、『まどマギ』の構造をマゾッホ的というよりもむしろ谷崎的なものにしているように思われる。たしかに、マゾッホの小説と谷崎の小説のどちらにも、女性が不意に被虐的になる瞬間がある。しかし、マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』において、それはゼヴェーリンとワンダの関係の終わりを印づけるものだ。ワンダはそれによってマゾヒストになったりはしない(たしかに、ゼヴェーリンの代わりにワンダと結ばれるギリシャ人は、ゼヴェーリンの書いた手稿の中で女を従える主人であるように語られているが、彼はワンダを鞭打っただろうか? 仮にそんなことがあったとして、ワンダは被虐趣味に目覚めただろうか?)。彼女にとっては加虐も被虐も愛のための演技でしかない。すなわち、ワンダは本質的にはサディストでもマゾヒストでもない。ワンダが被虐的な立場におかれることは、ワンダのマゾヒスト化ではなく、ゼヴェーリンのマゾヒズムの喪失をもたらす。そして、ゼヴェーリンのマゾヒズムを完治させたワンダは、自らの目的を果たし、彼のもとを離れていくのだ。対して、谷崎にあっては、 女性が被虐的になる場面を経て、男女の関係はより確実なものになる。『刺青』の女は、男に眠らされた上で刺青を彫られることによって、すなわち傷つけられることによって、はじめて悪女になることができる(このようなことは、『毛皮を着たヴィーナス』におけるゼヴェーリンとワンダのあいだには全く考えられない)。『痴人の愛』のナオミは、譲治に剃刀を渡して毛を剃られるがままになる。その上、その後で彼女が彼に飛び着かれるとき、それはほとんど噛み着かれるようにである。『春琴抄』では何者かによって春琴の顔に熱湯が浴びせられる。これらの事件が男女の関係を深めることは、彼女たちもまたマゾヒストであるのでなければ説明がつかないだろう。

ここで、谷崎的な悪女との比較から、『まどマギ』において魔法少女になるとはどういうことかを掘り下げることにしたい。

劇中で、魔法少女であるほむらや巴マミは、魔法少女ではないまどかたちから、「かっこいい」少女として認識される。これは、谷崎の小説でヒロインが男によってマゾヒズムの世界に引き込まれることを通じて強い女としてのステータスを得ることに対応している。

一方で、魔法少女であることは、ほとんど魔女であることに等しいともいえる。マミの死後にやってくる新たな魔法少女・佐倉杏子の父は、劇中ではすでに自殺しているが神父だった。魔法少女の魔女性は、まず、父との関係についての杏子の回想的な台詞によって隠喩的に示唆される。
「大勢の信者が、ただ信仰のためじゃなく、魔法の力で集まってきたんだと知ったとき、親父はぶちぎれたよ。娘のあたしを、人の心を惑わす魔女だ、って罵った」(第7話)
杏子の父が言う「魔女」は隠喩だ。しかし、魔法少女は劇中で、実際に魔女化する(これが比喩表現の現実化の一例であることは先に述べた。補足しておくと、比喩や夢の現実化は『毛皮を着たヴィーナス』と関連している。たとえば、『まどマギ』も『毛皮を着たヴィーナス』も冒頭は登場人物の夢であるが、それらがまさに現実の投影だったことが後に明らかになる)。

魔法少女が魔女化するという場合の「魔女」とは、魔法少女が退治する悪の呼称である。はじめ、キュゥべえは、次のように、魔法少女と魔女が別種の存在であることを強調している。
「願いから生まれるのが魔法少女だとすれば、魔女は呪いから生まれた存在なんだ」(第2話)
しかし、両者が表裏一体であることが、後に杏子の台詞で示唆される。
「奇跡ってのはタダじゃないんだ。希望を祈れば、それと同じ分だけの絶望が撒き散らされる。そうやって差し引きをゼロにして、世の中のバランスは成り立ってるんだよ」(第7話)
さらに第8話から第9話にかけては、実際にまどかの友人の美樹さやかが、魔法少女から魔女に転生してしまう。キュゥべえは次のように言う。
「この国では、成長途中の女性のことを「少女」って呼ぶんだろ。だったら、やがて魔女になる君たちのことは、「魔法少女」って呼ぶべきだよね」(第8話)
魔法少女の魔女性は、谷崎の強い女が持つもう一つの側面、すなわち、悪女としての側面に対応している。さやかが世界に絶望して魔女化する引き金となるのは、 女性を人間扱いせず「犬かなんかだと思って躾けないと」いけないとする、電車内での男たちの会話(第8話)だった。キュゥべえは電車で会話していた男たちと同様、魔法少女を「家畜」に近いものと認識していることが後に明らかになる(第11話)。躾とは、『痴人の愛』の河合譲治が当初ナオミに施そうと したことにほかならず、また、それによってナオミは悪女になるのだった。

魔女化以前にも、魔法少女と教育には密接なかかわりがある。魔法少女の存在を知ったまどかとさやかは、「魔法少女体験コース」(第2話、マミ)を経て魔法少女になるかどうかの選択を迫られる。マゾヒズムの物語に照らし合わせるならば、これは少女たちに対する教育にほかならない。プロット上で、マミはキュゥべえの望む教育の代行者としての役割を持っている。

魔法少女が希望と結び付けられることも重要である。マミによれば「キュゥべえに選ばれたあなたたちにはどんな願いでも叶えられるチャンスがある」(第2話)。期待とその宙吊りは、マゾヒズムに特有の徴候である。キュゥべえも期待から少女に力を与えるが、教育の段階で少女も契約に期待しており、その期待が宙吊りにされている。ここに、谷崎的な物語構造を見出すことができる。

ところで、魔法少女が魔女と同一的な存在であるのは、希望と絶望の全体の差し引きがゼロであるからだ。この考えは、幸福をあたかも貨幣のように扱うという意味で、ベンサムの古典的功利主義と通じている。
「魔女を倒せばそれなりの見返りがあるの」(第2話、マミ)
見返り。これは経済の根本概念だ。そして、経済的な見返りは契約によって保障される。したがって、マゾヒズムの中で役割をになう魔法少女は、すなわち経済のただなかに生きる存在でもある。
まどか「もしも、あなたたちがこの星に来てなかったら」
キュゥべえ「君たちは今でも、裸で洞穴に住んでたんじゃないかなあ」
(第11話)
このやりとりが示唆しているのは、『まどマギ』の世界では、マゾヒズムがもたらす契約こそ、あらゆる文化の発端だということである。文化は経済から生まれる――このメッセージは、『まどマギ』があくまでも商業作品であることを思い出させる(『SHIROBAKO』に『まどマギ』のパロディがパロディとして登場しえたのは、端的に、『まどマギ』が成功をおさめた商業作品だからである)。

ところが、上述の通りのマゾヒズムに沿った物語展開にも関らず、『まどマギ』のテレビ版での結末において成就されるのは、マゾヒズムではなく、サディズムなのである。まどかは、「すべての魔女を、生まれる前に消し去りたい。すべての宇宙、過去と未来のすべての魔女をこの手で」と願う(第12話)。これは、キュゥべえによれば「因果律そのものに対する叛逆」である(第12話)。そして、この極端さは、性的嗜好に基づいているか否かの違いこそあれ、サドの主人公が性的嗜好に基づく願望を現実のものにするときのそれと、おそらく同質のものなのだ。まどか自身が「今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、わたしは泣かせたくない。最後まで笑顔でいて欲しい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる。変えてみせる」(第12話)と言うように、これは個人の願望をもとに既存の法に基づかない新たな制度を作ることである。このようなまどかの特質を一言で表わすなら、それは法‐外である、といえよう。まどかは法外な大きさの魔力の行使によって、世界を成り立たせていた法の外へとはみだす。契約の文言には書き換えが一切ないにもかかわらず、その契約と結びついた法を否定することによって、契約の実質が変更される。すでに指摘されているように、これはひとつの論理的な解決でもある。そして、契約と法を否定した制度と論理は、ドゥルーズに基づくなら、サディズムの徴候なのだ。まどかは、やはりサディストであって、その点で他の魔法少女と本質的に異なっている。
「あなたは希望を叶えるんじゃない。あなた自身が希望になるのよ。わたしたち、すべての希望に」(第12話、マミ)
こうして、まどかは「円環の理」と呼ばれる制度そのものに存在を昇華させる。だが、ほむらはマゾヒズムの下に置かれる限りでしか存在意義をもつことができないので、サディストであるまどかの望みを救いと見なすことができない。ほむらは「これがまどかの望んだ結末だって言うの? こんな終わり方で、あの子は報われるの? 冗談じゃないわ!」(第12話)と言う。しかし、彼女の「まどか、行かないで!」(第12話)という叫びに、まどかは答えることができない。結局、ほむらは改変後の世界も「悲しみと憎しみばかりを繰りかえす救いようのない世界」(第12話)として受け止めることになる。

キュゥべえとまどかの関係に立ち返ると、このことの意味はよりはっきりと把握されるだろう。キュゥべえはまどかと契約することで利益を得ようとしていたが、まどかが形而上の概念としての制度となってしまえば、彼女に干渉することはできない。キュゥべえはマゾヒストであり、それゆえ、与えられた状況に違反することができないからだ。干渉できないのだから、もはや、キュゥべえはまどかによっては決して満たされることがない。『毛皮を着たヴィーナス』に明らかなように、マゾヒストは相手に愛されないことを受け入れることはできるが、相手が自分の世界からいなくなってしまうことだけは決して受け入れることができない。だが、まどかがキュゥべえやほむらにしたのは、まさにそのことなのだった。

テレビ放映版はこれで終わりだが、続編として劇場版『魔法少女まどか☆マギカ 〈新編〉 叛逆の物語』がある。細かい説明は煩雑になるので控えたいが、この続編では、キュゥべえは、まどかに干渉するためにほむらを利用する。その代わりに、ほむらにまどかとの再会のチャンスを与える。すなわち、キュゥべえとほむらの間には、両者がともにマゾヒストとしての快楽を得るための暗黙の共犯関係が成立している。しかし、再会したほむらとまどかは、互いに親愛の情を抱いているにもかかわらず、互いのことを全く理解することができない。ほむらは彼女に対するまどかの救済を受け入れることができず、まどかは彼女に対するほむらの愛を理解することができないのだ。

ほむらは、最終的に、秩序に干渉する悪魔と化す。だから、表面上は、ほむらもまた、まどかと同様に制度を志向したかのように見える。しかし、ほむらは与えられた法を厳密に守りながら、法の裏をかくことで秩序に干渉するのであって、それはマゾヒストが法に抗う仕方に他ならない。彼女がキュゥべえを自らに従わせるときの身ぶりや口ぶりは、谷崎的な悪女そのものだ。ほむらとキュゥべえとの間には、それまでとは別のかたちではあるが、依然として契約が残る。その限りで、ほむらはやはりマゾヒストでありつづけている。それは、谷崎の悪女が、一見するとサディストに見えながら実際にはマゾヒズムの物語の中で第二のマゾヒストとしての役割を与えられているのと同様である。

ほむらはマゾヒズムの世界にまどかを再び引き込もうとし、それは成功したかに見える。しかし、まどかは文字通りほむらに眼を向けずに、制度としての自らの役割へと還ろうとする。ほむらはまどかに欲望と秩序の二択を迫り、まどかはほむらに秩序を尊重することを説く。このまどかの選択を、自らに法を厳密に尊重することを強いるマゾヒストのそれと混同してはならないだろう。なぜなら、彼女はこの答えによって、秩序の側から、世界の経営者として、秩序を守ることをほむらに強いることになるのであるからだ。まどかはどこまでもサディストでありつづける。

ほむらの問いは、マゾヒズムとサディズムの二者択一の問いにほかならないのだった。だからこそ、人は『まどマギ』を前にしてこの二択を思い浮かべたのではないだろうか。それは、『まどマギ』自体に埋め込まれた問いのひとつだったのである。

しかしながら、この二択にあっては、対話によるどんな発展的解消ももたらされることがないように思われる。なぜなら、マゾヒズムとサディズムのいずれもが倒錯した思想であり、したがって、対話することができない思想だからだ。したがって、逆説的ではあるが、『まどマギ』は対話のないポリフォニーだということになるのだろう。この対話のないポリフォニーにおいては、発展的解消がそもそもありえないため、一つの対立を維持したままで物語を際限なく続けることができるだろう。しかし、その反面で、結末はつねに場当たり的なものにとどまらざるをえないだろう。

対話のないポリフォニーにおける対立は、第二種永久機関のようなものだ。一見すると、この動力は不可逆的な世界において無限の進展を可能にするかのように思われる。しかし、実際には、それは熱力学第二法則の成り立たない世界、すなわち、原理からして可逆的に成り立っている世界でしか、期待されているような動作をしない。その代わり、この永久機関には、実際には進展のない可逆的な物語を不可逆的な進展の連続であるかのように見せかけるという、まさしく魔法のような力がある。

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