2015年5月9日土曜日

【みみず・ぶっくすスペシャル】 菫ほどな、人の。小さな、発語。  散文/小津夜景 俳句/福田若之

【みみず・ぶっくすスペシャル】 
菫ほどな、人の。小さな、発語。

散文/小津夜景 俳句/福田若之










あなたは、わたしと会ったときのことを覚えている、と言うのですか

塀のうらに蔦と茸とオーボエ春

本当にわたしの顔を、そして声を覚えていると。不思議です。わたしは、あなたの顔も声もまるで覚えていない。完全に忘れている。

誤配かも知りえないレタスをばらす

あなたは手紙の中で(忘れるから思い出す)ことについて触れていました。なんという勇気でしょう。人はすみれ草ではありません。とはいえその記憶力は、本当にすみれ草ほどしかない。なのにあなたは(忘れる)ことを恐れずにいる。いったい何を(思い出す)ためなのか。

発つ春の波打ち際の鳥の羽

あの日、確かにあなたは、このわたしにゆかしさを感じていたようでした。その証拠に、わたしがあなたに微笑みかけるたび、あなたは離れがたいものを見たようなとても困った顔になった。そしてそれは恐らくこういうことです。あの時のあなたは、わたしと共にいながら、このわたしを(思い出し)ていたのです。懐かしい昔のように。あるいは母のように。
 

アンリエット・バルトとローズ・セラヴィに 
夏の鏡«Tu es cela.»«C'est la vie.»それらの母

《お会いする前に僕はあなたのことをすっごく明るい人かすっごく恐い人かすっごく物静かな人のいずれかだろうと思い描いていて。その思い描いていた広がりのなかにあなたがいた、と、そんな話をしましたけれど。今にして思えば、僕はあなたに会う前、あなたのことをゆかしい人だと感じていたのです。そして、会ってもゆかしかった。それが上手く言葉にならなくて、あんな言い方になったのでした》
 

ゆかしさ――昔がしのばれ、心惹かれるもの。それはあなたにとって(思い出す)ことに関わる大切な気品であり、また情趣でもあるのでしょう。ほんのすみれ草ほどの、ささやかな感触。こう書きながら、わたしもまた自身の裡に、あるひとつの質感がよみがえるのを感じています。あったかもしれない、あるいはなかったかもしれない、ささやかな感触を。

〈ねむりても旅の花火の胸にひらく〉と書いた大野林火に
金魚玉があたかもここにあるように 

それは昔、わたしが菫ほどの小さな人といたときの話です。いえ、もしかするとそれはあなたの書く「生れたし」なる人、つまり、いまだ生まれていなかった人なのかもしれません。

《もし人が「菫程な小さき人に生れたし」というなら。その人は、まだ生まれていなかったということになるのでしょう。「菫程な小さき人に生れたし」と書きながら。この句は、菫程な小さき句としての自らを、そして、その小さき句の書き手を書きあげる。その意味で、この句は極小の『失われた時を求めて』だと言えるかもしれません。書くことによって、そこに生まれるわたし。生れたし。れたし。》《一人称の「れたし」は感性でしょうか。悟性でしょうか。理性でしょうか。れたしは生レタスが好きです。生れたし。》
 

一人称の「れたし」とは、おそらくカントの言う超越論的自己統覚「わたし」が成される前の、生レタスのようにみずみずしいエスです。それゆえ「れたし」は漂うでしょう。方向の観念のない、とめどない時間の海を旅して。

自我のない赤子あるいはうみねこたち

思い返せば、わたしの知る「生れたし」なる人も、とめどない時間の海を漂っていたのでした。そしてときどき、泡のような変な音を発していたのでした。それは全くもって形容しがたい感覚だったのですが、あなたからの興味深い手紙を読んだせいでしょうか、今わたしは「とめどない時間の海とは散文で、泡のような変な音とは俳句に似ている」と言ってみたい気分でいます。散文の海のそこかしこに俳句の泡がちりばめられている。俳句の泡のそこかしこを散文の海が埋めつくしている。時間の海にきらめく、たわいない発語の泡。たちまち消えてしう、極小の『失われた時を求めて』。《僕らの対話はほとんど断章的だったように思います。短い、呼吸の。落ち着いた、繰り返し。》――たしかに私たちの対話は。うなばらの、みなわ。短い、呼吸の。落ち着いた、繰り返し。菫ほどな、人の。小さな、発語。でした。 

ぽっぷるぽぷる大きくはない初夏の雲 

ところで。あなたは。《あなたは。僕をカバンに詰めて持って帰っちゃいたいと言いました。僕は。vos souvenirsのひとつになることができたでしょうか》、と手紙のさいごに書きましたね。実はその台詞を口にしたとき、わたしは自分自身にひどく驚いたのです。というのも、わたしはその手の冗談が大嫌いなので。ええ。つまり、あの時わたしは、冗談ではなく本気でそう口走ったのでした。

ううんさいごじゃないよビールがすぐ出てくる

なぜあのようなことを私は口走ったのか。わたしは自分に問い質し、すぐさまぞっとしました。だって鞄とは、どう見てもほとんどすれすれの、いえ、見事にあからさまな隠喩だったと言わざるをえませんから。多分あなたがわたしのことをゆかしいすみれ草として眺めたせいで、わたしもまたあなたの
ことを菫ほどの人に重ねてしまったのです。


《僕は。vos souvenirsのひとつになることができたでしょうか。》

おそらくあなたに出会う前から、あなたはmes souvenirsのひとつです。生まれたい思い出。かつて生まれなかった思い出。このさき生まれることのない思い出。永遠に思い出すことのない思い出鞄に収まるほど極小の。

〈をさなくて昼寝の国の人となる〉と書いた田中裕明に
五月・温室・スペイン産の樹・思い出

それにしても。漱石やハイデガーはいったい何を言おうとしたのでしょうか。わたしには(忘れるから思い出す)などという単純な時間を生きる者がいるとは到底信じられません。少なくともわたしは、一生忘れられないはずのことを一度も思い出せず、少しも覚えていないはずのことを日すがら思い出し、何を思い出すべきかもようよう忘れ去って、何かを忘れ去ってしまったことだけを鮮明に覚えている。そんな風に(記憶)と(忘却)とは(うなばら)と(うたかた)のような、あるいは散文と俳句のような、形のひどくもろい、相互に打ち崩れやすい関係にあるのです。
 

レース編まなきゃ 春は写真立ての中だけ

(え? 話の辻褄が変になっている? そんなことはないでしょう。うたかたなる俳句とは、つまるところ忘却の具現なのですし。)
 

これは、そう。
つけた詞の。
たったのパセリ。

なのにあなたは。あなたは、わたしと会ったときのことを覚えている、と言うのですか。不思議ですね。わたしはあなたのことをまるで思い出せない。わたしの中のあなたは、これまでも、これからも、顔も、声もない思い出です。
 

〈音楽のごとく朧の側に書く〉あなたに
夕暮れはみみずになって地へもどるよ

 
――では、また。

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