2015年6月30日火曜日

〔ためしがき〕 書き果たすこと、書き継ぐこと 福田若之

〔ためしがき〕
書き果たすこと、書き継ぐこと

福田若之


ふと、書き終える書き上げる書き切る書き尽くすのほかに書き果たすという動詞がないものだろうかという思いを抱き、調べると、すでに書き果たされているのだった。

ものねだり肩につかまる幼子の手を抑へつつ文書き果たす   三ヶ島葭子

書き果たすというこの言葉が、すでに書き果たされているのを見て、僕は嬉しくなる。この言葉が書き果たされていることで、僕は書き継ぐことができるからだ。

書き上げられたもの、書き切られたもの、書き尽くされたもの――これらのものを、僕らは書き継ぐことができるだろうか。書き上げられたもの、書き切られたもの、書き尽くされたもの、そして、書き果たされたものは、すべて書き終えられたものには違いない。しかし、その中で、僕らが書き継ぐことができるのは、ただ書き果たされたものだけではないだろうか。

書き果たされたものにだけは、応えることができる。だから、手紙は書き上げられても、書き切られても、書き尽くされてもいけない――もとい、いけないことはないかもしれないが、そうした手紙にはどんな返信もありえないだろう。

しかし、返信――誤配の通知までをも含めた、あらゆる返信を考慮に入れるとして――のありえない手紙などというものがありうるだろうか。そんな手紙は、まだ書き終えられていない手紙だけではないだろうか。

おそらく、投函されなかった手紙にさえも、返信が来る可能性があるのだ。なにしろ、手紙は盗まれることさえあるのだから。したがって、手紙を書き終えるということは、すなわち手紙を書き果たすということでもあって、あとは書き終えるという言葉と書き果たすという言葉のあいだに、わずかなニュアンスの違いがあるだけなのだろう。

おそらく、書き終えるという言葉は、ただ、書き終える動きだけを意味している。すなわち、書くという動きの静止。この動詞の意味はただそれだけだ。

それに対して、書き果たすという言葉は、書くことによって書くことそれ自体を果たすという、どこかメタ的なニュアンスを孕んでいる。そこでは、書くというこの動きが、果たすというこの動きと一体になっている。

終える書くと接触しているが、重なってはいない。なぜなら、書くは幅を持っているのに対して、終えるは一瞬だからだ。

それに対して、果たすには幅がある。果たすには工程がある。書き果たすにおいては、その工程こそが書くという作業なのである。

では、手紙以外はどうか。本当に書き上げられたもの、書き切られたもの、書き尽くされたものというのが、実は思いつかない。書く人間は誰でも、何かをいまだ書かないうちにこの世を去るだろう。

たとえば、『カラマーゾフの兄弟』――これこそ、ドストエフスキーが、潜在的には他のあらゆる作品においてさえ、すなわち、生涯を通じて、書き上げようとしていたものに違いないだろう――は、書き上げられても書き切られても書き尽くされてもいない。つまり、ドストエフスキーはその文学を決して書き上げなかったし、書き切らなかったし、書き尽くさなかったし、おそらくはそれこそがドストエフスキーの文学だったのだ。

プルースト。遺された『失われた時を求めて』は完結しているものの推敲段階で、やはり、書き尽くされてはいなかった。仮にプルーストがあとどれだけ長生きしたとしても、おそらく、死ぬまで推敲を続けたのではないだろうか。

これらの例が恣意的であるというなら、ランボーはどうだろう。たしかに、完成品を残して、詩人であることを辞めた。しかし、それは彼が書き尽くしてしまったからだとはどうにも思えないのである。ランボーは詩作の(表面上の)放棄のあとにも、まだ作品を書いていたことが明らかになっているという。これらの人々もまた、結局のところ、ただ書き果たしたのだといえるだろう。

蓮實重彥は、昨年ようやく書き果たされた『『ボヴァリー夫人』論』に、こう書いている。
まず、書物一般についていうなら、いかなる書物も「完成」の瞬間など持ちうるはずもなく、すべてはとりあえず終止符がうたれたというにすぎず、その意味でなら、どれもこれもがいわば出来損ないの書物たることをまぬがれていない。出来損ないというのは、時間的な余裕の有無、物理的かつ心理的な限界、身体的な疲労の許容度、等々、理由はあれこれ考えられようが、あらゆる著者は、誰もがこれという正当な理由もないまま、ここでひとまず筆を措かざるをえまいと感じたときに書き終えるしかないのである。 
(蓮實重彥『『ボヴァリー夫人』論』、筑摩書房、2014年、13頁、強調は原文では傍点)
まあ、この本に巻かれた帯には、誰のものとも知れない言葉で「歳月をこえた書き下ろし2000枚、遂に完成!」と印刷されていたりもするのだけれど。

人は偉大な作品を前にして、「力強く書き上げられている」、「巧みに書き切っている」、「すべてがここに書き尽くされている」などと感銘の声を上げるが、おそらく、こうした紋切り型は、『『ボヴァリー夫人』論』の帯文がまさしくそうであるように、「書き果たされている」ということに対する感動を梱包して流通に載せるための、一種のオブラートに過ぎないのである。

2015年6月29日月曜日

●月曜日の一句〔笠井亞子〕相子智恵



相子智恵






脳内の庭師がメダカ飼い始む  笠井亞子

「脳内目高」(「はがきハイク」12号、2015.6)より

ちょっと昔に「マン盆栽」というのが流行った。盆栽に鉄道模型用のフィギュア(人形)などを置いて、盆栽の世界に人を登場させて一つの世界とするものだ。ジオラマや箱庭に近い遊びだろうか。

盆栽は樹木を自然状態に似せて小さく育てて成形し、部屋の中で鑑賞できるようにしたものであり、盆栽だけなら世界の主体はこちら側(鑑賞者のいる現実)にあるのだが、そこに人(人形)を登場させることで、一気に世界はパラレルワールドめいた入れ子状態になる。見ている私の世界と、小人の世界が並行して動き始めるのである。

掲句、脳内の映像は変幻自在であるが、〈脳内の庭師〉だけなら、ふつうは等身大の庭師を想像する。どこかの大きな屋敷の庭を任される庭師だ。そこにいきなり広大な庭と縮尺のかなり異なる〈メダカ飼い始む〉がすとんと現れることで、この脳内の庭師が一気に小人めく。メダカは庭師が造園した池に放たれる錦鯉の代わりであるかのように思え、ジオラマのようなキッチュな庭の風景が浮かび上がるのである。

俳句は読者の脳内(=想像力)で実景に変換されるので、〈脳内の〉は一見余分なメタ的言及に思えるが、この〈脳内〉の一語が庭師の縮尺を自在に小さくする役割を持っていて、不思議への回路の鍵となっている。

2015年6月27日土曜日

【みみず・ぶっくす 28】樹下のあなたへ 小津夜景

【みみず・ぶっくす 28】 
樹下のあなたへ

小津夜景



入れ墨のごとき地図ありしんしんと鈴のふるへる水の都に
水掻きを生やした日よりヴェネチアングラスのやうな光と暮らす
さやうならたましひよりも雲の峰よりも膨らむ螺旋階段
オルガンを踏みわたくしは弾きはじむ或る晴れた日のためのフーガを
人体がロールシャッハとなる夕いらして蝶の軽さにあそぶ
空耳のまざる白き昼なればガアゼをかざし空を吸ひとる
わたくしはミシンの台にあらずなり巨きな傘を抱へてるが
無音にも疵あることをレコードに確かめ午後を眠りたるべし
石鹸を洗ひ流せばくちなはの生身の肉はみづうみのなか
スプーンに映ゆる夕のわうごんが水没人の色となるまで
大きなる壺つややかに夜を枉げてオーボエの音ひとつ生みたり
月出でて棹影しかと水にあり付箋のやうに ここに 見えるか
もし共に生きるならきぬぎぬのダイアローグの記憶は淡く
片肺をねぢれたつばさかと思ひねぼけまなこで開かうとした
長靴が好きで匍匐が大好きで紫陽花の根にぢつと棲みたる
たはむれに窓を磨けばなぜは指紋に見えてくるのだらうか
存在に恋をしてその存在の儚きことをためらはず知る
たてがみを手紙のごとく届けたい裸足でねむる樹下のあなたへ
言の葉を交はせば生るる木漏れ日をただ時のみが嘲ふばかりぞ
声あるが故に光を振りむけばここはいづこも鏡騒(かがみざゐ)なり

2015年6月26日金曜日

●金曜日の川柳〔滋野さち〕樋口由紀子



樋口由紀子





本当に弾むか投げてみる祖国

滋野さち (しげの・さち) 1947~

「祖国」とは何だろうと思う。スカスカではなく、中身が詰まっていれば弾むはずである。守ってくれる、裏切らない、信じるに値することの意味も含んでいるのだろう。本当にそうなのか、心もとないことがあまりにも多い。

「投げてみる」ことによって明らかにしようとする。それは世の中とのかかわりあいを避けないで、切り開こうとする意志の表われである。自分と自分をとりまくものをあわせて考えてゆく、作者の姿勢を示している。

祖国は期待通りに毬のように弾んだのだろうか。それともころころと統治者の都合のいいところに転がっていったのだろうか。あるいは何の反応もなかったのだろうか。滋野は読み手にも問いかけてくる。向き合わねばならないシリアスな問題は山積みされている。

〈乗客は私一人の月のバス〉〈賞罰がなくてシロツメクサがある〉〈雨だれが止まない母の軒である〉 『オオバコの花』(東奥文芸叢書 2015年刊)所収。

2015年6月23日火曜日

〔ためしがき〕 出来事 福田若之

〔ためしがき〕
出来事

福田若之


僕は駅で電車を待っていた。メロディーが鳴って、アナウンスがあって、特急列車がホームに入ってくる。特急券も買っていないし、特急に乗る気はない。特急列車の窓に、自分が立っているホームの景色が映る。僕が映る。僕の後ろに並んでいるニット帽の男の人が映る。その男の人がギターケースを背負っているのが映る。

メロディーが鳴って、アナウンスがあって、特急電車はやがて出発した。乗る電車が来るまではまだ少し時間がある。

「もしもし」

背後から、突然大きな声がした。おどろく。どうやら、僕の後ろの男の人がケータイで通話をはじめたようだ。僕も人のことを言えないけれど、彼の声はよく通る声だった。この声ならギターボーカルだろうか。会話の断片が、聴こうと思わなくても聞こえてしまう。うろ覚えだけれど、確か、シフトがどうのこうの、スケジュールがどうのこうの、といった話をしていたように思う。バイトのことかバンドのことか、そこまでは彼一人の発話だけではよく分からない。

ところが、そのうち、彼がこんなことを言った。

「うんうん、昨日お通夜だったから行ってきたんだよ」

だが、しんみりしてはいない。その言葉にもかかわらず、声はむしろ軽い調子だった。え、それってそんなふうに話すことだろうか、と思ってしまうくらいの。しかし、その思いがその人に伝わることはないだろう。彼から見て、僕は背中でしかないのだから。その人は話を続ける。

「うんうんうん、それで……」

ほんとうによく通る声だ。

「……俺がお経を読んで……」

……ん。

「いや、本葬は俺じゃなくて田中さんが……」

……んっ?

確かに、彼の声はよく通る声だった。それこそ、弾き語りだけでなく、読経にもうってつけの。

そう。お坊さんだったのだ。

おそらく、田中さんも。

メロディーが鳴って、アナウンスがあって、乗るつもりの電車がホームに入ってきた。

2015年6月22日月曜日

●月曜日の一句〔北大路翼〕相子智恵



相子智恵






菖蒲湯の排水溝のサロンパス  北大路翼

句集『天使の涎』(2015.4 邑書林)より

端午の節句の銭湯である。菖蒲湯や柚子湯など、大きな風呂にこうしたものを浮かべる年中行事には、日常の中の特別感がある。普段から銭湯を利用している常連客たちの、無言ながら「ほう、今日は菖蒲湯か」とでもいうような、小さな喜びの視線が見えてくるようである。

そんな菖蒲湯の、排水溝のところに何かが浮いている。よく見ればそれは市販の湿布薬。剥がし忘れて湯船に入った客のものだろう。菖蒲湯で少し浮き立った心に、この興ざめな景が、なんとも情けなくて可笑しい。この絶妙に瑣末な風景で、銭湯の、そして銭湯に通う人たちのリアルが表れている。

二千句を収める本句集は、こうしたチープで情けなくて、だからこそ愛おしい句に満ち溢れている。作者の生活が赤裸々に描かれた、一読どぎつい露悪的な句世界に、けれどもちっとも食傷しないのは、作者が瑣末なこの世界を、何も選別することなくまるごと愛し、肯定していて、狭苦しいところがないからである。

2015年6月21日日曜日

●古書

古書


古書を見て椿を見るに生々し  相生垣瓜人

古本の本郷若葉しんしんと  山口青邨

古本を買うて驟雨をかけて来ぬ  鈴木しづ子

秋夜うかと眠るや古書に見下ろされ  山田みづえ



2015年6月20日土曜日

【みみず・ぶっくす 27】花とオキーフ 小津夜景

【みみず・ぶっくす 27】 
花とオキーフ

小津夜景




【みみず・ぶっくす27

花とオキーフ  小津夜景


わが花の棲み家と名のり夏岬

文机のどこよりとなく紙の虫

七曜やゼリーでつくる色見本

のうれんを割れば雲なす砂漠かな

夏の蝶ガアゼの端を切り揃へ

風の洞めきて裸足のをみなたち

スプーンの硬さ泉にかほがあり

深まりてましろき繭となる静寂

蟻よまだ自画像の目はとぢてゐる

臨終のパイプオルガン緑陰へ

2015年6月19日金曜日

●金曜日の川柳〔山田純〕樋口由紀子



樋口由紀子






たんぽぽを木より大きく描いて寝る

山田純 (やまだ・じゅん)

たんぽぽは木より小さい。現実の風景とは明らかに異なる。それをあえて「大きく描いて寝る」と詠む。心象風景だろうか。ただ描いて寝るだけだから、なんの問題もない。では、なぜそういうことを行うのか。それは描くことで失いそうなる自分自身を取り戻すことができるからだろう。

事実ではない、現実ではないことをわざわざ一句に書くことで自分の思いを守ろうとした。どうってことないようだが、それはとても大切なことで、作者の世界観が見える。

たんぽぽは全世界に分布している。黄色の頭状の花は可憐で、いくら見ても飽きない。冠毛は白色で風に舞う。たんぽぽに憧れや敬虔な気持ちを持っているのかもしれない。「川柳展望」40号(1985年刊)収録。

2015年6月18日木曜日

●ホース

ホース

汲取のホース蠢く木槿かな  林 雅樹〔*〕

初夏やホース牡牛のように跳ね  山戸則江

部屋の中ホースが通り天高し  滝沢無人


過去記事「ホース」





〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2015年6月17日水曜日

●水曜日の一句〔高原耕治〕関悦史



関悦史








龜裂づくしの

玉の上下に玉
玉の左右に玉
  高原耕治


一見、幾何学的な視覚効果に特化したオプ・アートのような句だが、こうしたモチーフであっても高原耕治句に特徴的な実存性や暗喩性が一句にしみとおっている。

「玉に瑕」と言ってしまえばただの成語に過ぎない。しかしそれが「龜裂づくし」と打ち出されると、その満身創痍ぶりの過剰さはもののたとえではなくなり、「玉」に物質的な実在感が増す。

ただし暗喩性があるという以上、そうしてできた一句が、全体として他の何かを指し示している気配も当然濃厚なのだが、その暗喩も物質的な実在感が増せば増すほど強化されるという態のものである。逆に言えば作者が訴えたい何かを提示するためには、物質的な実在感は必須であり、その物質感は、俳句である以上、言葉によってしか組織されない。

物質的な実在感とは、「意味」の通りの良さからすればノイズや抵抗物に当たるが、そのいわば邪魔者がなければ一句はただの言説や自意識に過ぎないものになってしまう。ましてこの句に登場するのは「玉」という求心性の強い形態である。容易に自意識の符号に堕してしまうこの形態から、一句の時空を拡散させなければならない。

「玉の上下に玉/玉の左右に玉」という、内容的にも措辞的にも整然たる反復による拡散はそこから要請される。

整然と並んだ玉は、自意識であることを脱し、ひとつの世界模型のようなものになるのである。しかし「龜裂づくし」の深手を負いながらなお整然と世界を構築する玉たちは、模型ではない。現実の世界に或る変換手続きを加えれば得られる潜在的な構造図といった方が近いだろう。

ところでこの「龜裂づくし」はどこまでかかるのか。最初に見出された中央のただ一個の玉だけなのか、それとも整列する玉たち全てのことなのか。

前者と取るとせっかく拡散展開した一句がまた自意識や不遇感に回収されてしまいかねないので、全てではない場合でも、少なくとも複数と取りたいところだが、この修飾範囲の曖昧さも、プラスに取れば、眼前の全ての物件に同時に焦点が合うことはないヒトの生理に根差しつつ、上下へ左右へと驚異を孕みつつ引き回され、押し拡げられてゆく知覚をリアライズしているようで、その朦朧たるところがかえって生々しい。

そしてそこから振り返ってみれば、たしかに「龜裂づくしの」と打ち出した後に挿入された一行空白は、その驚異に引きずり込まれる瞬間の飛躍と眩暈に見合っているのである。

句集『四獸門』(2015.5 書肆未定)所収。

2015年6月16日火曜日

〔ためしがき〕 人文学は不可欠だと説得するために、考えられる理由のいくつか 福田若之

〔ためしがき〕
人文学は不可欠だと説得するために、考えられる理由のいくつか

福田若之


とはいえ、言うまでもないことだけれど、僕は、その影響が及ぶ範囲の全域を見渡すことができているというわけでは決してないし、そうであるかのようにふるまうつもりもない。数ある学問のそれぞれをよく知っているというわけでもなければ、数ある大学のそれぞれをよく知っているというわけでもないし、自分が属しているところのなかでも、さらに自分にごく近い狭い範囲だけが、かろうじて少しばかり垣間見えているように思われる、というぐらいにすぎない。

だから、ここに書かれることは、きわめて浅い話、まだ学ばなければならないことをたくさん抱えている筆者が、現状そう思うという範囲で書きとめるささやかな一つの意見にとどまるだろう。それでも、考えられるかぎりで、そうした意見を書いておこうと思う。

それを他ではなくここに書くのは、こうしたこともまた、俳句と関係しているように僕には思われるからだ。さまざまなことが俳句に関係して見えるからこそ、これまで、あんなことやこんなことについて、ほかではなくここに書いてきた。必ずしも俳句との関係を明示してきたわけではないとしても、そうだった。

では、なぜ、そんなふうにしばしば俳句とのかかわりを曖昧にしたのか。

とりあげたものが確かに俳句に関係しているように思われたとしても、決して俳句ばかりに関係しているわけではないということがある。そういうとき、書きたいことをとりたてて俳句に関連づける必要がないときは、できるだけあらゆることと自由につなげられるようにしておくほうがよいと思われた。それが、かかわりを曖昧にしておいた理由だ。実は、ここまでで書いたことも、これから展開する主張と全くつながりがないわけではない。

さて、ここから本題に入ることにしたい。

人文学は、おそらく、虚偽や誤謬を含めたあらゆる資料を生産的に読解することのできる、ただ一つの学問範囲だと思う。いったい、資料に嘘や誤りや偽りが生じる過程そのものが研究の対象になりえたりするような学問が、自然科学にあるだろうか。人文学の廃止は、学問からあらゆる過去の嘘や誤りや偽りを排斥することに他ならない。

おそらく、増え続ける蔵書の保存に手を焼いていた大学図書館は、研究に使われなくなった蔵書から、処分していく。すると、人文学部のなくなった大学の図書館には、いずれ、外面的には正しく新しいような無数の書物だけが残されることになるだろう。人文学部がまるごと廃止されたら、それに伴って、もはや専ら歴史を顧みることを引き受けるような学問はなくなってしまうのだから、大学がそれらを資料として保管しておく理由はほとんどなくなる。

一見すると、学問にとってそれの何が問題なのか分からないかもしれない。しかし、まず言えることとして、僕らは、失敗を忘れればそれをいつか再び繰りかえすのだから、過去の過ちは取っておかなければいけないはずだ。

もちろん、理由はそれだけではない。

資料が捨てられる、あるいは、古い資料を読むことが失われるということ。これは大変な問題だ。人文学が廃止されて古文の読解を専門とする人間がいなくなれば、たとえば、地震学者だけで『かなめいし』を読み継いでいくことができるだろうか。そもそも、わざわざ学問としてこれを読もうと思い立つことのできる人がどれだけいるのだろう。『かなめいし』は、1662年に京で起こった大地震の記録だ。たしかに当時の記述が与えてくれる知見に限界があることは否めないとしても、僕らがこの文献から知ることのできることは、決して少なくはないと思う。

『かなめいし』を読むためには、『かなめいし』だけを読んでいてはいけない。たとえば、言葉の意味は時代と共に変遷していく。その当時の、言葉の使われ方を知るには、虚構の物語も含めた同時代の多くの文献が研究される必要がある。

また違った問題もある。たとえば、経済学や法学の十全な研究をやるは、多かれ少なかれ、語学を学ぶことも必要になるはずだ。大学から語学の専門家がいなくなったら、研究者はどうやって育てるのか。人文学がなくなれば、こんな問題が、おそらく他のありとあらゆる学問分野で生じることになるに違いない。

ところで、人文学部の廃止や縮小というとき、人はもしかすると、 文学と哲学――人がしばしば「浮世離れした学問」「学問ならざる学問」と信じてやまない二つの分野、実際には、たえず古びて解読困難になっていく多様な言語の読み書きを、歴史学と共同で語り継いでいる、大変重要な分野――のことだけを考えているかもしれない。実際には、槍玉に上がっている分野としては、たとえば教育学がある。

生まれてくる子どもが減れば教育についての研究は人員を必要としなくなるという考えなのだろう。だが、そうすれば、僕らの社会はいまや貴重になってしまった未来の担い手たちに、行き届かない研究にもとづく教育を受けさせることになるだろう。教育学だけではない。おそらく、どんな学問でも、それが学問として成り立つためには人手がいる。

ひとくくりに人文学というけれど、その幅は広い。教育学がそのように扱われる一方で、人文学のなかには、たとえば、社会福祉士や介護師を養成する社会福祉学が含まれてもいる。今日、いったい誰が、これらの学問を不要だなどと言えるのだろう。

あるいは、心理学は不必要な学問だろうか。児童心理学や犯罪心理学といった分野がこの学問に含まれていることを忘れてはいけないだろう。

そして、こうした学問分野といまや切っても切り離せないのが社会学だ。それは、福祉のあり方や群集の心理を考えるために必要な考え方を、上に見た二つの学問に提供している。

となれば、文化人類学も当然、必要な学問であり続けるだろう。歴史学にも社会学にも結びついているこの学問は、一方では、宗教学や神学がもたらす学識を活用することなしには、今日それが提供しているものを決して提供できなかっただろう。文化人類学が、その一方で、文学とも相互に連絡を取り合っているのは周知の通りだと思う。

こんなふうにしてみると、人文学をまるごと廃止することがとても馬鹿げているのは明らかなように思われる。さらに、それだけでなく、どこを縮小することもできない複合的な学問分野であることが見えてくる。すくなくとも、僕には、全国の国立大学に縮小や転換をもとめるなどという極めて大規模な政策としてこのようなことが行われていいようには思われない。

複合的ということで言えば、実は、文学や哲学こそが、他の何よりも複合的であるように思われる。ロラン・バルトは「もし、何やらわかりませんが、社会主義なり蛮行なりの行き過ぎによって、われわれの学科が一つを除いてすべて教育から追放されるざるをえなくなったとしたら、救い出すべきは文学科です」と語った。バルトがそう主張するのは、文学の記念碑的作品の中ではあらゆる科学が提示されていると考えるからだ。バルトは『ロビンソン・クルーソー』のなかに歴史、地理、社会(植民地)、技術、植物、文化人類学の知識を見出す。このことの意味を、今こそ考えるときではないかと思う。

『ロビンソン・クルーソー』の知識がすべて正しいものかどうか、それはさしあたり関係ない。バルトの発言は、『ロビンソン・クルーソー』を読むことが学問に含まれていれば、ほかのあらゆる科学が失われたとしても、この書物の批判的な検討から歴史学、地理学、社会学、工学、植物学、文化人類学を再開し、おそらく復興することができると示唆している。言い換えれば、『ロビンソン・クルーソー』はこれらの学問のバックアップメモリとして機能しうるということだ。

こうした主張は、現実味のない絵空事に思われるかもしれない。だが、かつて国学や蘭学を大成した人々もまた、テクストを読み、そこに書かれていることの正当性を確認することからはじめたのではなかったか。明治期に学問の近代化を図ったとき、彼らもまた、西洋のテクストを読むことからはじめたのではなかっただろうか。読むことがほとんどできないところから、読み始めたのではなかっただろうか。それにどれほどの苦労や、知識の蓄え、読むことそれ自体にかける情熱が必要だっただろう。

学問のなかにあって、そこまでして何かを読むことを今日もっともよく教えてくれるのは、おそらく人文学に属するいくつかの学科――とりわけ文学と歴史学と哲学、およびそれらに近接する諸学だと思う。これらの学問は、何かを知るために読むことから始めるやり方を教えてくれる。失われたものを取り戻す術を教えてくれる。過去がなければ未来はない。

ここに書いた意見が、いささか安易な道具主義に基づく見解のように思えるとしても、それは仕方のないことだ。おそらく、説得しなければならない相手のほうが、いささか安易な道具主義に従っているのだから。ここに書いたことが人文学の本領かどうかはともかく、人文学を守るためには、こうした説明がさしあたり有効なのではないかと僕は思う。

2015年6月15日月曜日

●月曜日の一句〔千倉由穂〕相子智恵



相子智恵






夜濯の柔軟剤の薄みどり  千倉由穂

「煙のにおい」(WEBマガジン「スピカ」 2015.6.4更新)より

香り付きの柔軟剤が発売されてからだろうか、洗濯の仕上げに柔軟剤を入れる人が多くなったように思う。というよりも、他人が柔軟剤を使っているかどうか、今まで洋服の見た目ではさほど気付かなかったものが、香りで気付くようになり、多くなったと私が感じるようになっただけなのだろうが。

掲句の〈薄みどり〉は人工的な美しい薄緑色だ。ここには色が描かれているが、人工的な香りも感じられてくる。人工的な薄緑色の、香りの強い液体を洗濯機に流し込む無機質で孤独な光景。それでも自然への小さな扉が開いているように思うのは、薄緑色というその色ゆえだ。洗濯が終われば干すために窓を開ける。窓の外には〈プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ 石田波郷〉のような植物の緑色が見えるのではないかと思えてくるのである。夏の夜の蒸すような空気の中に、植物の匂いもかすかにしてくるだろう。この〈薄みどり〉によって、人工的な閉塞感が少し薄らぐ気がする。

2015年6月13日土曜日

【みみず・ぶっくす 26】 水のあらまし 小津夜景

【みみず・ぶっくす 26】 
水のあらまし

小津夜景







         さいきん、
         水のあらましというのが
         人の時間を操ることだと気づきました。
         よく眺めると水は
         ①透明性。
         ②変化性。
         ③窒息性。
         を備えていて、すごくあぶない。
         油断すると
         見えない妖怪から
         誘い水をかけられ
         どんどん流されて
         あたふたと溺れて
 ……。 ……。
          ……。 ……。
         そんなことを想像しながら
         わたしは好きでたまらない
         水辺をぶらぶらする。      
         見えないものが
         柔らかいものが
         息ふたぐものが
         時間とこの私とを
         完全に一つにする
         そのなつかしさに
         浸り切ろうとして。

はつなつの芯のゆるみし楕円か

竹夫人みづのふるまひ抑へ難

うすものにみづうみは棲み給ひし

くちびるの水位に開くにさるびあ

かはほりを掴みて空の波紋か

ひとつぶの雨のしづくを手花火と

ゆく舟のあそびに不死の氾濫

船酔ひのやうに金魚を抱いてゐ

紫陽花のゆふまぐれあふ素顔かな

汲みつくし夜の泉を狆と思