2015年7月7日火曜日

〔ためしがき〕 ワナビ 福田若之

〔ためしがき〕
ワナビ

福田若之


語を発したもの自身を指す場合にも、また、そうでない場合にも、おおむね嘲笑的に用いられるこの語について(この紋切り型について)、ずっと、ひそかに、いつか書きたいと思っていた。「ワナビ」というこの語は、もともと、"I wanna be ..."の"wanna be"のところを抜き出した言葉で、辞書で調べると、れっきとしたアメリカの口語(wannabeないしはwannabeeないしはwanabeと綴る)であることが分かる。ただし、日本語のスラングとしては、この語の意味は、原語とはずれがある、ないしは、より限定されている。カタカナ語としての「ワナビ」の意味するところは、明示的には「作家になりたい者」であり、したがって「作家ではない者」であり、暗示的には「作家になどなれるはずもない者」なのである。

したがって、このとき、「ワナビ」という語は"I wanna be a writer."から"wanna be"だけを抜き出したものだと考えることができるだろう。しかし、そうすることによって、「ワナビ」という語は"I"と"a writer"を消し去り、不在にしてしまっている。「ワナビ」という語には、したがって、自我も作家もない。ただ、在りたいという欲求、生きたいという欲求だけが、そこには残される。

それだからだろうか。「ワナビ」という語はしばしば、ただ「作家になりたい者」というばかりではなく、「職業作家になりたい者」、さらに、より限定した意味合いでは「専業作家になりたい者」を指す。専業作家とは、ここでは、作家であることによって生計を立てている人間、つまり、(経済的な意味において)書くことで生きている人間のことだ。そして、ここに何かしらの力が働いているのが見てとれる。人を自我でも作家でもない「ワナビ」の空隙に嵌め込んでしまう何かしらの力が、ここでこそ働いているのだ。この力は、書きつつ生き、生きつつ書く多様なあり方のなかで、書くことで生活するというあり方にしか価値や生産性がないかのように見せかける。だが、人はこの力に抗わなければならない。

そして、この抵抗のなかで、人は"I wanna be a writer."と――ただし、いかなる省略もせず、また、いかなる引用符も抜きで――書かなければならないはずだ。そうでなければ、"I"を"a writer"に結びつける、この、恣意的で脆弱な結びつきは、すぐさま断たれてしまうだろう。"be"は両者をつなぎとめる鎖の環のほんの一部にすぎないことを忘れてはいけないだろう。それを忘れてしまえば、「ワナビ」という語が、それ自身の全長によって、"I"と"a writer"のあいだに刻印された、短いとはいえ決定的な距離を表わしてしまうことになるだろう。

そしてそれゆえ、「ワナビ」と自称しないことと同時に、"I wanna be a writer."を引用符抜きで書くことが必要になる。では、そう書くためには何が必要だろうか。

そのとき必要になるのは、作家としての身分証を自ら発行してしまうことではないだろうか。実際、人はこの身分証のほとんど偽造に近しい作業を通じて、ある程度は(少なくとも、その身分証の)作家になるだろう。逆に言えば、引用符抜きに"I wanna be a writer."と書くならば、つまり、それを自分自身の言葉として書くならば、その人はそのときすでにその作家なのではないだろうか。そして、"I wanna be a writer."という言葉は、ほかでもない作家が書くとき、作家に限りなく近いがそれゆえに作家ではない"I"として自分のことを語ろうとするその虚構的で創造的なふるまいによって、その人が作家であることのなによりの証明となるのではないだろうか。だから、あえて、危険を承知で、次のように書いてみよう。"I wanna be a writer."――多くの人は、これを「私は作家になりたい」と訳したところで、もう充分だと感じるのか、早々にこの文を離れていく。しかしながら、そのとき、僕は書く人でありたい。

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