2015年9月30日水曜日

●水曜日の一句〔椎野順子〕関悦史


関悦史









間夜や水に根のばすヒヤシンス  椎野順子


句集の表題句であり、小澤實の序文、宗田安正の栞文でも取り上げられている。この作者の代表句ということになるだろう。

「間夜(あいだよ)」とは、序文によると「契った男女が次に逢うまでのその間の夜」の意味。万葉集の東歌で一度だけ使われたことがある古語だという。つまり、これは恋の句なのだ。

会えずにいる夜々の待ち遠しさ、恋しさ、淋しさ、不安、期待といったさまざまな気分が、不分明のままに、容器中に根をのばしていく水栽培のヒヤシンスに形象化されている。のびていくヒヤシンスの根は暗喩的に登場していているのだが、それが指し示す気分が不分明なままなので図式的な浅薄さは免れている。

というよりも、指し示されているものは気分だけではなく、ヒヤシンスの根を見つめつつ、それとほとんど同化するに至った語り手の存在そのものにまで句は達しているのである。そうして、植物とも、恋人との逢瀬を待つ人間ともつかなくなった何ものかが、「ヒヤシンス」の音韻に導かれるように水に触れて冷され、物として間夜に置かれるのだ。

この「間夜」なる、突如現代に甦らされた耳慣れない古語も浮いていない。「水に根のばすヒヤシンス」が、「間夜」という言葉を喩的に映像化するとしたらこういうものであろうという、一種の批評だからである(宗田安正の栞文によると、この句を作った当時、作者はヒヤシンスなど育ててはいなかったという。言葉とイメージの運動のみでできた句なのだ)。

季語としての「ヒヤシンス」は春である。また「根のばす」は、まだ根が延びはじめたばかりのようだ。容器中に根が茂っているのであれば「満ちる」等、別の動詞が選ばれるだろう。そうした経過時間の短さからすると、不安や寂しさといった要素はまださほど強まってはいない。またそもそも水に侵入してゆく根という形象は、それ自体が愉悦のうちにあるともいえる。

この句は、恋愛感情と孤独感といった人間臭い領域から、植物の形相を経て、非人称的な情動と存在そのものの領域へ、音もなく身の一部を延ばしていく、そうした天体的な緩やかさを持つ言葉とイメージの動きを定着させているのである。その動きの中に、かつて「間夜」なる言葉を使い《小筑波(をづくは)の嶺(ね)ろに月立(つくた)し間夜はさはだなりぬをまた寝てむかも》(『万葉集』巻十四)と詠んだ東歌の作者も引き入れられてゆく。


句集『間夜』(2015.9 ふらんす堂)所収。

2015年9月29日火曜日

〔ためしがき〕 媒体としての身体 福田若之

〔ためしがき〕
媒体としての身体

福田若之

ジェームズ・ジョイス『ユリシーズ』のスティーブン・ディーダラス曰く:

 待てよ。五か月だぞ。分子は全部入れ替わる。僕はもはや別の僕だ。別の僕がポンドを受け取ったんだ。
 そりゃそう。
 でも、常に変化し続けている諸形相のもとにあるのだから、僕は、エンテレケイアは、諸形相の形相は、記憶によって僕なのだ。
 罪を犯し、祈り、そして精進した僕。
 コンミーが鞭打ちから救った子ども。
 僕、僕そして僕。僕。
 A.E.I.O.U.〔「A.E.、僕はあなたに借りがあります」の意。「A.E.」は、この場に同席しているジョージ・ウィリアム・ラッセルの筆名〕
→スティーブンの身体は、代謝し、記憶し、貸借する。
  1. 代謝。すなわち、身体を構成する分子の入れ替わり。ことによると、知覚などよりもずっと基本的な身体の性質かもしれない。身体における一種の忘却、恒常的な変化としての忘却。
  2. 記憶。代謝に(見かけ上は)さからい、自己同一性を保証するもの。代謝を忘却の一種と捉えて記憶に対置することもできるし、遺伝子などを身体の記憶の一種と捉え、それらを代謝に対置することもできる。だが、おそらく、記憶は代謝の過程でしか生じない(「罪を犯し、祈り、そして精進した僕」)。
  3. 貸借。他者とのやりとりの模式的な形態。貸借は借用書によって証し立てられる→借用書〔I.O.U〕=記憶。そして、仮に金銭が出入りすることをある種の代謝だとみなすのであれば→貸借を可能にするもの=代謝。∴貸借=記憶と代謝が表裏一体であることの現れ。
おそらく、身体のこの三つの性質は分かちがたいものだ。∵これらは媒体としての身体の性質である。メディアは代謝し、記憶し、貸借する。

2015/8/25

2015年9月28日月曜日

●月曜日の一句〔茨木和生〕相子智恵



相子智恵






守武忌日照雨が山を走りけり  茨木和生

句集『真鳥』(2015.8 角川書店)より

荒木田守武は、室町時代の伊勢神宮の禰宜で連歌師。俳諧独吟「守武千句」を神宮に奉納し、俳諧を座興の言い捨てから文芸にまで高めた、山崎宗鑑と並ぶ俳諧の始祖とされる。守武忌は陰暦8月8日。

守武忌の俳句では高浜虚子の「祖を守り俳諧を守り守武忌」が有名である。忌日への思い、俳諧への志だけでできているような句だ。それに比べて掲句は〈日照雨が山を走りけり〉という実景をさらりと描いていて美しい。伊勢の山であろう。こちらは日が照っているのに、山の上をさっと天気雨が通り抜けていった。実景でありながらどこか幻想的で、伊勢神宮の霊力も感じる。守武という俳諧の始祖に思いを馳せる、あるいは時代を越えて守武と心の中で交信するのにふさわしい。

忌日の句、特に会ったことのない歴史上の人物の忌日の句というのは難しいものだが、美しい一句だと思った。

2015年9月26日土曜日

【みみず・ぶっくす 39】海がおしえてくれたこと 小津夜景

【みみず・ぶっくす 39】 
海がおしえてくれたこと

小津夜景







 これまでいろいろな海を見ました。
 近年親しいのはプロヴァンスの海とノルマンディーの海です。これらふたつの海は、おどろくほど対照的な印象を人に投げかけます。
 簡単に言うと、プロヴァンスの海は母に抱かれる感覚。一方ノルマンディーの海は母を亡くした感覚です。
 幼少の頃わたしはオホーツクの海に面した町に住んでいたので、人を拒絶する海のつめたさについては元々よく理解していました。とりわけ冬のオホーツクは辛く、あざらしと呼びあうように弧を描いて雪原を走るこがらしや、今やほとんど残っていないギリヤーク族やオロッコ族の習俗の痕跡に囲まれながら、厳しい失楽の風景を生きなくてはなりません。そんな環境でしたのに、ノルマンディーの海を見るまで Dépaysement(故郷喪失)とでも喩うべき〈風景と主体とのあいだの激しい歪み〉について、わたしは何も知りませんでした。
 考えてみれば、海がひとつの不在、母なるものの喪失を喚起することは少しも奇異ではありません。なぜなら人はそこから来たものの、もはやそこへ帰ることはないのですから。生まれた時から流浪を宿命づけられ、故郷に対してさえ他者でしかありえない存在者。それが人です。
 この摂理を学んだわたしは、ノルマンディーに住んでいるあいだも毎夕砂浜を散歩し、目の前にひろがる海の無慈悲——この土地の美術館を巡って分かったのは、ノルマンディー人にとって海というモチーフがいつも漂流や難破と結びついてきた歴史です——を眺めながら、ノスタルジーとノストフォビアといった、故郷をめぐる相反する感覚に耽りつづけました。
 故郷といえば、たしかハイデガーが、存在者が存在を忘れて俗なる日常に埋没することを故郷喪失性と呼んでいたように思います。彼の言う故郷は、永遠へのノスタルジーと結びつく聖なる場所。片やわたしは、さまざまな海を巡る中、人には故郷などはじめから存在せず、ゆえに流浪する存在者の傷はいかなる神話的回帰によっても癒されない、とあたりまえに信じている——。
 しかしそれでも、ふたたび海に立ち、波とみまがう白いすじをもつ秋空がその柔らかい光の作用で深いような遠いような海の紺碧を引き出すのを目にすれば、きっとわたしは(歌よその天与のうつは差しのべて盛らなむ秋の碧のかぎりを)といった大好きな一行を思い浮かべるでしょう。そして「帰還なき流浪と故郷への回帰は、同じくらい感傷的にみえる。そうではなく、もとより人は流れるばかりの浮き島で、その様子はまるでこの歌のように軽やかなのではないかしら?」などと恐らく空想するのです。
 秋の爽やかさと相まってか、目下こうした空想が、わたしの気分に一番しっくりきています。
 以上、海がわたしに教えてくれたことでした。


まほろばに布のかぶさる秋の象
あさがほのかたちで空を支へあふ
スポンジの水のむ鵙の古馴染み
秋をあなたは折り曲げてゆく膜か
椋鳥の切手を離すピンセット
セスナ機の耳に吸はるる芒が穂
こほろぎを連れて人名録ひらく
エンジンの香ほのか色のない風に
砂嵐恋ふる夜半ありカンナにも
小鳥くる海をほろぼす聖母かな

2015年9月25日金曜日

●金曜日の川柳〔三次〕樋口由紀子



樋口由紀子






わが家の前で見なおすいい月夜

三次

9月27日は中秋の名月である。この句は実感できる。都会から帰って、やっとこさ田舎のわが家に辿り着き、あらためて夜空を見上げてみると、まるで出迎えてくれているように月が煌々と光っている。

都会でも月の明らかな夜で、月をちらっと見たような気がするけれど、わが家の前で見る月は格別で、どこで見た月よりもきれいで輝いている。月をさえぎる高い建物もネオンもなく、環境的にも月を愛でるのに恵まれている。

無事に一日が終わった。「今日はお疲れさま」「遅くなりましたね」と言ってくれているようで、帰り着いた安堵感と無理をしていた肩の力が抜けていく。「見なおす」に川柳の味わいがあるように思う。『番傘川柳一万句集』(1963年刊)所収。

2015年9月24日木曜日

●頭痛

頭痛


時鳥なけや頭痛の抜る程  一茶

さつきから螢火中りして頭痛  鳥居真里子

浴室へ頭痛持ち込む雁渡し  中山奈々〔*〕

カリンの中に頭痛あざやか風騒も  高野ムツオ


〔*〕『セレネッラ』第5号(2015年9月20日)

2015年9月23日水曜日

●水曜日の一句〔篠塚雅世〕関悦史


関悦史









葱坊主宙に泛べて猫の町  篠塚雅世


一見メルヘン的な絵柄の句とだが、ことさら現実離れした事態を詠んでいるわけではない。「葱坊主」ならば宙に浮いても見えるだろう。ただしそれが説得力を持つのは猫の目の高さから見たときの話で、人から見たら「宙に」とは捉えにくい。

「猫の町」は、人から見た「猫の多い町」とも取れるが、「猫にとっての町」や「猫たちこそが住民である町」とも取れる。この人の目と猫の目が形作る多重性のはざまで「葱坊主」ははじめて宙に浮くことができるのである。

中七も下五も危ういといえば危ういのだ。通俗的なポエム趣味に落ちかねない。しかし葱坊主は猫にとっては特に意味を持たない物件であろうし、この句の猫は「町」を形成しているとはいえ、童話の猫のように擬人化されているわけではない。猫たちは葱坊主とは基本的に無関係であり、たまたま同じ場にいるだけである。それを一枚の絵として捉えているのは、あくまでも人の目なのだ。

つまりこの句は、猫たちへの感情移入や擬人化が先に立っているわけではなく、仮想的に体験された猫の目をも含み込むことによって、猫の環世界と人の環世界とのずれを認識しており、そこから詩性と感興が引き出されているのである。

その間に浮く「葱坊主」は改めて奇妙な形態を際立たせることとなる。異化効果が働いているためだが、そうして洗い直された「葱坊主」が蝶番となり、猫と人の知覚、現実と空想をつかねることによって晩春の「猫の町」が現出したのである。


句集『猫の町』(2015.7 角川書店)所収。

2015年9月22日火曜日

〔ためしがき〕 日本と日本的なもの 福田若之

〔ためしがき〕
日本と日本的なもの

福田若之

『東京暮色』や『浮草』に降った雨や雪にもかかわらず、いつも澄みきっている小津の空は、ジャン・ルノワールが隠遁の地として選んだカリフォルニアの好天と遥かに通じあっていはしまいか。あるいは、ジョン・フォードのモニュメント・ヴァレーの空と通じあっているといってもよかろうが、白昼の作家たる小津安二郎の晴天は、映画がそこで生まれ、成長し、成熟したアメリカの西海岸のように、どこまでも澄みきっていなければならない。彼が、「梅雨」と呼ばれる日本独特の湿った風土をその画面から排除したのは、あくまで映画に近づくための選択なのだ。
(蓮實重彦、『監督 小津安二郎』、ちくま学芸文庫、1992年、235-236頁)
いずれにせよ、小津安二郎を日本的と呼ぶことがどれほどその作品世界の無理解からなりたっているかは、もはや改めて指摘するまでもあるまい。彼は、日本的というあの曖昧な形容詞に埋没するよりは、映画とその限界への不断の接近を選択した。そして、風俗的にはまぎれもなく日本的な人物や事物を、陰影と湿りけと輪郭の曖昧さから解きはなち、乾いた陽光のもとに据えることを選んだ。
(同前、236頁、太字は原文では傍点)
いうまでもなかろうが、小津安二郎を反=日本的な映画作家だと主張するのは愚かなことだ。事物の輪郭を曖昧にする陰影の世界を避け、もっぱら真夏の陽光のまばゆさに近づこうとした小津が、多くの点で日本的な美意識と呼ばれたものの対極に位置するのは確かだとしても、小津はまぎれもなく日本の作家である。ただ、小津的なものと小津安二郎の映画とのずれの内部に身を置き、その不断の運動を遊戯として演じてきたものとしては、ここで改めて、日本的なものと日本とのずれを生き直してみたい誘惑にかられる。小津安二郎が決して小津的なものにかさなりあうことがないように、日本もまた決して日本的なものにかさなりあうことはないだろう。小津的なものによって、小津安二郎の作品を抹殺することだけは避けねばならない。
(同前、237頁、太字は原文では傍点)
「日本」と「日本的なもの」の問題、さらに、「反=日本的」なものの問題。
cf.)「反=日本的」ということに関して→『反=日本語論』;「日本的なもの」と陰影→谷崎『陰影礼讃』。

小津と光線。「日本映画」の比重は「日本」ではなく「映画」にある:バルトの度重なる主張(ex.)「日本――生活術、記号の技術」《Japon : l'art de vivre, l'art des signes》, ŒC III,84-90)とも重なり合う(バルトは『記号の国』で「日本映画」についてはほとんど語っていない)。

ところで、バルトもまた、多かれ少なかれ、日本的な人物や事物を乾いた陽光のもとに据えているように思われる。

また別に、俳句の実作上の問題。蓮實の主張するように、小津安二郎が、映画に近づくために、映画の成熟した地であるカリフォルニアの光線を再現するに至ったのだとすれば、文学としての俳句(もちろん俳句全体ではない)=ラテン的な俳句?
文学とラテン性→参考:デリダ『滞留』

ラテン的に俳句を書くことは可能か? おそらく可能だ(楽天的に断定してしまおう)。だが、どうやって?
cf.)ボルヘス「ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール」。南フランスのニームに生まれた象徴主義者が二十世紀の初頭に『ドン・キホーテ』を一字一句違わず著すという試みが、それ自体実にドン・キホーテ的なものとして語られている。

(ここでの)ドン・キホーテ性:時代錯誤と幻想:郷愁(失楽園的な?)
cf.)ハイデガーにおける「故郷喪失」

『がっこうぐらし!』が『ドン・キホーテ』の類型に属していることは明らかだが、そこでは記憶のテーマ(ゾンビに囲まれながら、死者の生前を、平穏な学校生活を忘れないということ)がより前面に押し出されている。→文字の人であるのみならず、記憶の人としてのドン・キホーテ(ボルヘス「記憶の人・フネス」とは多少異なる意味での「記憶の人」)。

2015/8/25

2015年9月21日月曜日

●月曜日の一句〔篠塚雅世〕相子智恵



相子智恵






ぬめぬめと鯉の触れ合ふ良夜かな  篠塚雅世

句集『猫の町』(2015.7 角川書店)より


仲秋の名月の夜。池にはたくさんの鯉がいるが、明るい昼間とは違ってそれが真鯉なのか緋鯉なのか、はたまた錦鯉なのか、色などの細かいディティールはわからない。

ただ、黒々とした池の水から隆起した鯉の背中の流線型のシルエットや、水とは違うぬめぬめとした質感が、明るい月に照らされて浮かび上がるのみである。

鯉たちの詳細は見えず、形と質感だけが立ち現れてくるからこそ、鯉たちが「触れ合っている」という触覚を描いた場面がとても活きている。〈ぬめぬめ〉という擬態語も活きているのだ。

〈良夜〉という季語が、触れ合う鯉たちと響きあう。

この句は「ぬめぬめ」という語から始まるので、読み始めは薄気味悪さを味わうのだが、最後は良夜によって睦みあう鯉たちの様子がポジティブなイメージに変わる。

「ぬめぬめ」は人間からしてみると気味が悪いが、鯉にとっては生命力そのものなのであり、月の光がそれを静かに照らしていて、ふわりとあたたかな気持ちになる。

そしてなぜだか少しめでたい気分にもなるのは、名月と日本庭園の池(とは書いていないがそれを感じさせる)の鯉という、伝統的な構図の効用だろうか。

2015年9月19日土曜日

【みみず・ぶっくす 38】 名は痕跡である 小津夜景

【みみず・ぶっくす 38】 
名は痕跡である

小津夜景






 折あるごとに、人々が署名 signature する姿を見ていて、ある日ふとこう思いました「この国の署名というのは、名の文字化でも意匠化でもなく、ただ紙に傷をつけることであって、だからいつも判読不可能なんだ」と。
 この国の人の署名は、ただのラクガキにしか見えません。まるで文字で文字を掻き消したかのような、自分自身を見せ消ちしたかのような、いまや跡形もなき存在となったかのような、染みそっくりなのです。
 ふしぎなのは、音声にも意味にも決して結びつかない、ただ心に描き写すしかないその染みを見つめていると、なぜか染みから本人がよみがえる感覚に襲われること。 
 名は痕跡です。
 おそらくそれは人が生きている、或いはいたことの痕跡です。名の本質は字ではなく、とはいえに描かれ刻まれるといった書記運動から決してのがれえないという点でただの音とも違う。それは存在論的な実体に関係するというよりも、むしろ時間と空間の生起そのものであり、またその生起こそが存在への触手をかきたてる鍵でもあります。
 こういう訳で署名もまた、ここにわたしがゐるそこにあなたがゐる、といった在り方に近いのかもしれません。
 名を呼ぶ。知ることのない名を。
 声を使わず。胸に傷をつけて。


ストロボのそぼ降る遠さ秋となり
白き萩かほに零るるポラロイド
亡びゆく書体のラベル地虫鳴く
ひぐらしを浴びながらわが黙読す
かささぎが引つ掻く空の釉薬
そらりすの光を曲げてこすもす
茶をにごす囮のこゑの高まりに
ブロンズの鈴の散らばる芒かな
月光に磨かれし背は地下室へ
たましひに桃のあつまる待合所

2015年9月18日金曜日

●金曜日の川柳〔芝本勝美〕樋口由紀子



樋口由紀子






だらしなく川を流れる唐辛子

芝本勝美 (しばもと・かつみ)

川の上流から赤いものが流れてくる。なんだ唐辛子か。それなりにピリリとしてその存在を誇示してきたはずなのに、なんとだらしない格好だろう。

〈流れゆく大根の葉の早さかな 高浜虚子〉の有名な俳句がある。比べて、「だらしなく」の姿態と「唐辛子」の赤の色彩は申し分なく感情移入過多になった。「それを言っちゃおしまいよ」と川柳に対して、よく言われるセリフがあるが、まさしく掲句が言い過ぎの恩恵を受けている。

ピリリとした辛さで自己の存在や抵抗を示す唐辛子も、川という大きなもののなかに投げ出されたら、いくら抵抗しても、だらしなく流れるしかない。唐辛子と自分が重なって見えたのだろうか。自分の裡にも唐辛子は流れている。「川柳展望」40号(1985年刊)収録。

2015年9月17日木曜日

●四畳半

四畳半


四畳半一間の闇の残暑に居  きくちきみえ〔*〕

秋近き心の寄るや四畳半  松尾芭蕉

冬を待つ用意かしこし四畳半  正岡子規

湯たんぽを足で探るや四畳半  藤原龍一郎


〔*〕きくちきみえ句集『港の鴉』(2015年7月/ウエップ)

2015年9月16日水曜日

●水曜日の一句〔杉山久子〕関悦史


関悦史









未来とは鍬形虫の背の光  杉山久子


「とは」や「は」で何かを定義づける句は理が目立ってしまうことが多いが、この句は意外と飽きが来ないのではないか。

カブトムシやクワガタムシの類は、子供が興味を持ちやすいものであり、子供から「未来」への連想は容易に働く。そうした線でのみ読むと、幼少時へのノスタルジアが、何やら作者自身の自己への閉じこもりのようにもなり、読者がはじかれてしまいかねないのだが、この句にはそうした自己への恋着は乏しい。

甲虫に興味を持つのはおもに男の子だろうし、作者本人が特に昆虫好きであった過去があるのかどうか定かでないので、一直線にそうした個人的追懐に結びつきにくいということもあるのだが、この句の場合は、もともとそうした回路とは別のところに詩因を求めているからだろう。

句の内容が、個人的追懐というよりは、むしろ一般論として語られているのだ。一般論化させているのが「とは」なので、この句の場合、理に落ちがちな「とは」が、むしろ説得力をもって「光」を呼び込むことになっているのである。

「背」が「光」を帯びる、硬くつやのある甲虫ならば何でもいいというわけではない。鍬形を前へ突きだしたクワガタムシのあの形態が「未来」を感じさせるのであり、その意味ではこれはクワガタムシに対する審美的で極度に短い、適切な批評である。その点で一句は、物の実体感や官能に深くかかわる。

その辺の虫の実体感から「未来」が引き出され、実体感と批評との間に、終わらない往還が組織される。飽きが来なさそうという理由はそこにある。

ただそうした定義づけを下す語り手自体の体重、クワガタムシを見下ろしている語り手の姿までもが同時に感じられ、その堅固に構成された「自己」が、別種の実体感を持って句を支配してしまっている感はないではないのだが、この先は作家論の領域だろう。


句集『泉』(2015.9 ふらんす堂)所収。

2015年9月15日火曜日

〔ためしがき〕 夜、魚群、形容詞 福田若之

〔ためしがき〕
夜、魚群、形容詞

福田若之

一方には、レイモンド・カーヴァー「夜になると鮭は……」。試みに自分で訳してみる:
夜になると 鮭たちが動き
だすんだ 川から町中へ。
奴らはいくつかの場所は避ける
フォスター冷凍食品とか、A&Wとか、スマイリーズみたいな名前の場所はな、
けど宅地の近くでは泳ぐ
ライト通りにある家々のさ そこでなら ときどき
朝早い時間帯に
あんたも聞くことができるよ 奴らがドアノブをなんとかしようとし
たり ケーブル・テレビの線にバンってぶつかったりしているのを。
俺たちは奴らのことを起きたまま待ってるんだ。
俺たちは裏窓を開けっ放しにして
バッシャーンって音を聞いたら叫びをあげる。
朝はがっかりだ。

At night the salmon move
out from the river and into town.
They avoid places with names
like Foster’s Freeze, A&W, Smiley’s,
but swim close to the tract
homes on Wright Avenue where sometimes
in the early morning hours
you can hear them trying doorknobs
or dumping against Cable TV lines.
We wait up for them.
We leave our back windows open
and call out when we hear a splash.
Mornings are a disappointment.
そして、他方には、『彼自身によるロラン・バルト』に見いだされる一節:「夜は、形容詞が再来するのだ、群れをなして」(RB, ŒC IV, 691〔メモ書きには、こうした略記もとくに断りなく用いられるだろう〕)。

おそらく歴史的な因果関係はない(前後関係:『彼自身によるロラン・バルト』は1975年、カーヴァーの詩はこの詩を表題作とした1976年のコレクションが初出。『彼自身によるロラン・バルト』の英訳が出るのは1977年)。加えて、バルトにとっての夜がおそれ、ないしは懸念の時間であるのに対して、カーヴァーにとっての夜は幻想と歓喜の時間である。

だが、魚群と語群の隠喩は魅力的。
cf.)スティーヴン・ホール『ロールシャッハの鮫』The Raw Shark Textsの、文字情報で形作られたホオジロザメやその他の魚。

バルトは1977年2月2日の講義ノートで、魚群を「あたかも、完全に滑らかな、にもかかわらず別個の個体たちからなる共生を実現するかのような、完璧だと思われる〈ともに‐生きること〉の光景」(CVE, 71)とみなしている。

2015/8/15

2015年9月14日月曜日

●月曜日の一句〔石井美智子〕相子智恵



相子智恵






葛の花だんだら畑に寄せ来る  石井美智子

句集『峡の畑』(2015.8 ふらんす堂)より

山深い段々畑の様子が目に浮かぶ。どこか親しみのある〈だんだら畑〉という語からは、出荷する野菜を栽培している大きな畑というよりは、自分たちで食べる分の野菜を植えてある小さな畑を思った。

山を切り開いて作った小さな段々畑に、繁茂した山の葛が荒々しく押し寄せている。紫色の葛の花は美しくも、素朴で小さな段々畑を飲み込まんと、花の盛りを謳歌している。一方は人が植えて手入れした野菜であり、もう一方は手入れされない自然の葛という、畑と山の植物の対比が鮮やかだ。

山に囲まれた素朴な農の暮らしが、この一つの景からだけで立ち上がってくる。それを見つめる作者の眼は、けっして旅行者の眼ではなく、その暮らしの一員としての眼差しなのだろうということが、〈だんだら畑〉の愛おしさと、葛の量感の迫力から伝わってくるのである。

2015年9月11日金曜日

●金曜日の川柳〔柴田午朗〕樋口由紀子



樋口由紀子






嘘を覚えた頃から将棋強くなり

柴田午朗 (しばた・ごろう) 1906~2010

そういうことはあるかもしれないと思った。一般的な因果関係ではないが、言われてみればなんとなくプロセスが納得できる。このような把握は意外と説得力がある。

噓は子どもときから自然に身につくもので、わざわざ、「噓を覚えた頃」とはいかにも作り事めいた、もってまわった言い方である。どうも意味深の嘘のみたい。先の先、表の表、裏の裏、を読むことができたのだろう。何かを覚えた、知った、悟った、理解した、のだ。結果、気がつけば、将棋も強くなっていたのだろう。もちろん、強くなったのは将棋だけではない。

柴田午朗は昭和44~46年まで「番傘」一般近詠選者を務め、「川柳に詩性を」と提唱し、番傘川柳の流れを変え、若い川柳人を多く育てた。

2015年9月10日木曜日

【俳誌拝読】『静かな場所』第15号

【俳誌拝読】
『静かな場所』第15号(2015年9月15日)


発行人・対中いずみ。本文18ページ。頒価500円。
問い合わせメール:zws10134@nifty.ne.jp

同人作品より。

船を明るさにゐて花水木  満田春日

冬枯やブックカバーの中の本  森賀まり

我思ふ故に我有り海市立つ  和田悠

壬申の乱をはるかに麦青む  対中いずみ

招待作品より。

洋服にうたごゑのして夜の短か  鴇田智哉


(西原天気・記)



2015年9月9日水曜日

●水曜日の一句〔原田達夫〕関悦史


関悦史









こけし談義や土産物屋の箱火鉢  原田達夫


一見いかにも俳句くさい、鄙びた、懐かしげなモチーフばかりで一句が埋まっていて、結社誌や新聞の投句欄にいくらでも載っていそうなのだが、そうした句とはどこかではっきりと一線を画している。そしてそれは、技術的な巧さに還元されるようなことでもない。

そこで引っかかってくるのが、わざわざ字余りにして上五に割り込ませ、「や」まで付けた「談義」の一語である。

この一語、単に一人で土産物屋にいるわけではなく、誰かと親しげに話しているということがわかるというだけではない(いや、一人でこけしを見ている句にしてしまったら、それこそ投句欄にひしめく見どころのない句に一変するはずなので、それはそれで重要ではあるのだが)。

句意はさして変わらなくとも、「こけしを語る」などであってはならないのである。「ダンギ」なる音の粘りと重さが、角ばった「箱火鉢」や、持ち重りのする「こけし」、雑然たる「土産物屋」と相俟って、一句に素朴な充実感をもたらしているからだ。物の量感と、手に馴染む質感、そしてそれらが使い込まれてきた歳月、話す人らの心の弾みといったものの相互浸透が、期せずして掬い取られているという風情である。

この句が句集の表題作なのだが、あとがきを見ると《平成二十年に九十六歳の母と連れ立って、二人だけの初めての旅をした。その時の福島・土湯温泉での作》だという。句の厚みの裏に潜んでいたのが「母」であったと種を明かされればそうかとも思うが、知らずとも句の充実感に影響はない。

「母」については《何を言うても笑む母の花の昼》という、これも味わい深い句がともに収録されている。

両句とも、人と物の境が次第に曖昧になっていくようなゆるやかな時間と、その中での情動のありようを、句中に手応えのある形で湛えることに成功しているのではないか。


句集『箱火鉢』(2015.8 ウエップ)所収。

2015年9月8日火曜日

〔ためしがき〕 メモ書きから発掘されるものの一例 福田若之

〔ためしがき〕
メモ書きから発掘されるものの一例

福田若之


三、四年前にゼミでの発表のために作成した、ハイデガー「世界像の時代」における諸概念の関係の見取り図:

クリックすると拡大

注意:この図式化それ自体がハイデガーの言葉と齟齬をきたしていないかどうかは分からない(検討するには、読み返す必要がある)。∴この図が今の僕にとって魅力的なのは、さしあたり、散文的なレベルの情報によってではない:意味によってではない。視覚的効果によってである。→時間を経たメモ書きは思いがけない価値をもつ場合があるということ。

定規を使っていない:フリーハンドの風合い。「味わい」とまでは言うべきではない。∵この場合、味覚の比喩は自己愛を露骨にする。

線の錯綜→交通網を思わせる。目の線路。概念=長方形=固定性⇔関係=曲線=柔軟性。図は、この描き分けによって見やすくなっている。

疑問:僕はこの図をどこから描き始めたのか?

2015/8/14

2015年9月7日月曜日

●月曜日の一句〔江渡華子〕相子智恵



相子智恵






垂直に手を挙げにごり酒頼む  江渡華子

句集『笑ふ』(2015.7 ふらんす堂)より

居酒屋での注文の様子を描いた句。おそらく乾杯から濁り酒ということはないだろうから、すでに何杯か飲んでいるのか、酒宴に遅れて参加したのかと想像がふくらむ。もしかしたら一人でお酒を飲みに来た人かもしれない。律儀に〈垂直に手を挙げ〉るさまに、生真面目な青年のような人物が想像された。そんな手の挙げ方に興味を引かれた作者が「この人は、何を注文するのだろう?」と、なんとなく眺めていると、野趣あふれる濁り酒を注文している。生真面目な青年から、玄人の親父のような注文が飛び出したギャップに可笑しみがある。

自分が垂直に手を挙げて濁り酒を注文したとも読めないことはないが、やはり他者の描写と読んだ方が面白い。真面目だが酒は好きな人なのだろう。酔って誰かに絡むことも、泣き上戸でもなく、ただ静かに、ニコニコとお酒を飲むタイプのような気がする。

句またがりのリズムが、臨場感と可笑しみを生むのに一役買っている。語順を入れ替えて「垂直に手を挙げ頼むにごり酒」とすることもできるのだが、比べてみればわかるとおり、それだとこの句のリアリティと可笑しみ、勢いは失われてしまう。動作の順と語順が合っているのがリアルなのであり、リズムとしては「濁り酒」と「頼む」の間に少しの間ができ、「頼む」がいわゆる“オチ”のように、かすかな可笑しみを生むのである。

2015年9月5日土曜日

【みみず・ぶっくす 37】 むしろ世界が 小津夜景

【みみず・ぶっくす 37】 
むしろ世界が

小津夜景






 俳句とは、とても小さな空間らしい。
 どのくらいの人がそう感じているのかは謎だ。でも「十七文字は広大で、めいいっぱい手足をひろげないと埋めることができません」という説はまだ聞いたことがない。
 わたしにとって俳句はとても大きな空間だ。反語ではなく。ぼんやりしていると、ちっともことばが埋まらない。だからめいいっぱい手足をひろげる。広い、広い。いくらでもことばが入る。俳句のこの広さに比べれば、わたしには、あくびほどのことしか言うことがない。
 俳句の苦しさとはなんなのだろう。ことばと格闘するとはどういうことだろう。ふだんのわたしは、ことばの好きなようになるのを待っているばかりだ。動物が草むらに寝床をこしらえその中に丸くおさまるように、ことばが十七音に勝手にまとまるのを眺めているだけ。
 尾や耳が、少しはみだすその姿になごむ。
 戦わないことが大切だという気持ちが、風となって響きわたる。
 俳句は苦しくない。わたしにはむしろ世界が息苦しい。そこには声が多すぎる。そこは、なにを言っているのかわからないつぶやきのような、傷もつ呼吸のような、らくがきのような、音の鳴りやまない磨り硝子だ。

 
朝霧や美貌の牛によぎられて
木天蓼の記憶の粉をゆるく吸ふ
水澄めるうすばかげらふ放浪記
露といふ御堂に棲まふものたちよ
天高きひと日を共に聴くフィガロ
糸瓜生る大人のための絵本かな
この世へと踵を返すきりぎりす
ひだまりの色なき風を化石とも
洋梨のいびつな重さ眠くなる
月の矢をいだきてまる通信使