2015年9月16日水曜日

●水曜日の一句〔杉山久子〕関悦史


関悦史









未来とは鍬形虫の背の光  杉山久子


「とは」や「は」で何かを定義づける句は理が目立ってしまうことが多いが、この句は意外と飽きが来ないのではないか。

カブトムシやクワガタムシの類は、子供が興味を持ちやすいものであり、子供から「未来」への連想は容易に働く。そうした線でのみ読むと、幼少時へのノスタルジアが、何やら作者自身の自己への閉じこもりのようにもなり、読者がはじかれてしまいかねないのだが、この句にはそうした自己への恋着は乏しい。

甲虫に興味を持つのはおもに男の子だろうし、作者本人が特に昆虫好きであった過去があるのかどうか定かでないので、一直線にそうした個人的追懐に結びつきにくいということもあるのだが、この句の場合は、もともとそうした回路とは別のところに詩因を求めているからだろう。

句の内容が、個人的追懐というよりは、むしろ一般論として語られているのだ。一般論化させているのが「とは」なので、この句の場合、理に落ちがちな「とは」が、むしろ説得力をもって「光」を呼び込むことになっているのである。

「背」が「光」を帯びる、硬くつやのある甲虫ならば何でもいいというわけではない。鍬形を前へ突きだしたクワガタムシのあの形態が「未来」を感じさせるのであり、その意味ではこれはクワガタムシに対する審美的で極度に短い、適切な批評である。その点で一句は、物の実体感や官能に深くかかわる。

その辺の虫の実体感から「未来」が引き出され、実体感と批評との間に、終わらない往還が組織される。飽きが来なさそうという理由はそこにある。

ただそうした定義づけを下す語り手自体の体重、クワガタムシを見下ろしている語り手の姿までもが同時に感じられ、その堅固に構成された「自己」が、別種の実体感を持って句を支配してしまっている感はないではないのだが、この先は作家論の領域だろう。


句集『泉』(2015.9 ふらんす堂)所収。

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