2015年10月27日火曜日

〔ためしがき〕 もう一度、「発句」と言いはじめるために 福田若之

〔ためしがき〕
もう一度、「発句」と言いはじめるために

福田若之

発句:はじまり。つねにはじまり。しかし、このはじまりは絶対的な起源ではない。∵書くことは書かれたものからしかはじまらない:つねにすでに言葉あり≠はじめに言葉ありき。
∴発句は再発する(ただし、「再発」という言葉をもはや単純には病災に直結させないこと)。→より穏当な表現:発句は再起する。

「発句」――歴史上の定義:連歌ないしは連句の第一句(となりうる句)。∴「発句」という語は、「俳句」よりも、一句になにか別のものが連なっていくという事態に対して寛容である。∴この言葉によって、「一句独立」という、極端に近代主義的な方向への一人歩きによって、もはや、まやかしでしかなくなったスローガン(現在では、それは文字通りにはまやかし以外の何ものでもないように思われる)を脱却することができるだろう。

「一句独立」:不可能な目標。∵いかなる言葉も、それが言葉であるかぎり、完全に独立することなどありえない(→言葉と魚群の類比)。仮に一句が完全に独立していることが俳句の条件であるならば、俳句は神話的な想像物(≠幻想。マラルメの「書物」やボルヘスの「バベルの図書館」は、物理的には実現不可能であるとしても、言語の基本原理を裏切ってはいない)でしかないか、でなければ、俳句はもはや言葉ではありえないだろう。

「一句独立」:魅力に乏しい目標。∵仮に、句集の一句一句が互いに一切のつながりを排すると同時に一冊の本として編まれたりしたら、その本はおそらく(少なくとも僕には)通読に耐えないだろう(一句一句がひとつのジャンル〔俳句〕に属する限り、そんな事態はありえないが)。それが引き起こすのは、ただめまいだけだ。人を喜ばせるのは不意のつながりであって、孤立ではない。

「一句独立」を否定すること≠「一句」という区分自体ことを否定すること。∵言葉は孤立しないが、分節化はする。

一句は、別の句とだけつながっているのではない。一句は、あらゆるものと有機的につながりうるだろう。

句集=架空の連句の発句集≒スタニスワフ・レム『虚数』(架空の書物の序文集)?

2015/9/15

1 件のコメント:

三島ゆかり さんのコメント...

《「発句」という語は、「俳句」よりも、一句になにか別のものが連なっていくという事態に対して寛容である。》というご意見、そうなのでしょうか。
私は捌き人として脇を付けることが多いのですが、発句って、顔としてしゃんとしてないといけない、俳句よりもずっと不自由な役割のものだとずっと思っていました。切れ字という鎧を身にまとい、脇以下から切れて矢面に立つ発句。
たまに聞く「最近の俳句には立句の風格がない」みたいな話、それはしゃんとした発句への追慕でしょう?