2015年12月31日木曜日

●2016年 新年詠 大募集

2016年 新年詠 大募集

新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールをお添えください。
※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2016年11日(金)~12日(土) 20:00

※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html

2015年12月30日水曜日

●水曜日の一句〔大山雅由〕関悦史


関悦史









透明な蝶が頭をゆく残暑かな  大山雅由


「透明な蝶」はさしあたり「残暑」をさす隠喩と取れる。

高屋窓秋の有名句のように「頭の中」と言われているわけではないので、素直に頭の上を飛んでいるととっていいはずだ。またその方が、上方にひろがる広大なものとしての「残暑」を句のなかに呼び込める。

ただしこの句の真価は「残暑」というものを、詩的にうまく形象化してみせたなどというところにはない。

字義通りに取ればあきらかに非実在の「透明な蝶」という姿を取った「残暑」、「透明な蝶」たる「残暑」という異次元的な自然を感知できるものとなった語り手の異様さが、この句にはひそんでいるのである。

季語や自然の、日常とは異なる姿に感応できる語り手とは、出し方次第では鼻持ちならない自己陶酔的なものになりかねない代物だろう。

しかしそうした自意識は「透明な」によって、無化はされないまでも、残暑の空に稀薄に拡散されてゆく。そのどこか不吉な感じがしないでもない解放感こそが、この句の魅力をなしているのである。

なお、作者の大山雅由はおととし(2013年)、60代で亡くなった。


句集『獏枕』(2015.10 角川書店)所収。

2015年12月29日火曜日

〔ためしがき〕 がらくた 福田若之

〔ためしがき〕
がらくた

福田若之

がらくた――ルーペ付き爪切り、もはや売っていないプリンター専用のもはや売っていないインクセット、凹んだベッド、連結器の折れたプラレール、アナログテレビ、月に置きっぱなしになっているアポロ11号の降下段、東京湾アクアラインを知らないカーナビ、伝説の剣、捨てた服の予備のボタン、河原でつい拾ってしまった特徴的な形の石ころ、(おそらく)パスカルにとってのデカルト、ハッピーセットのおもちゃ、テーブルがタバコで焦げてしまったように思わせるイタズラ道具、友達と行った自然公園の売店でつい買ってしまったフリスビー、未使用のフロッピーディスク、飾るところのない油絵、のちの乳母車、刃がやわらかすぎて指の力だけで丸められてしまう鋏、撮影に使われた着ぐるみに比べて赤の発色が良すぎる破壊獣モンスアーガーのソフトビニール人形、机の裏に落ちていた何か金属製のパーツ。

2015/12/15

2015年12月28日月曜日

●月曜日の一句〔藺草慶子〕相子智恵



相子智恵






枯木立光の方へ歩きなさい  藺草慶子

句集『櫻翳』(2015.10 ふらんす堂)より

唐突に現れる〈光の方へ歩きなさい〉という箴言は、誰かから贈られた言葉のようにも、天からの声のようにも、自分で自分を鼓舞する言葉のようにも思われる。

目の前には枯木立。葉をすっかり落とした木々の間から、冬の弱々しい、けれども確かな日の光が届いている。日が短い冬は、光の少なさゆえに、じつは光というものをもっとも意識する季節なのかもしれない。

〈光の方へ歩きなさい〉が枯木立と取り合わされることによって、この光が、心の光・言葉の光という抽象の光でありながら、実景の光でもあるという滲みあいが生まれ、それによって強く心に響く。「言」と「事」は重なりあうもの、という万葉時代の言霊を思い出したりもする。

誰のものでもない普遍的な箴言が、枯木立によって個人的かつリアルな風景になることで、この五七五が標語などでは決してなく、命を持った詩として、心の中に立ち現れてくるのである。

2015年12月27日日曜日

●年末大放送・拾遺 リレー俳句で遊ぶ

年末大放送・拾遺
リレー俳句で遊ぶ

西原天気


12月某日、年末大放送の録画当日。

動画1≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/12/2015.html
動画2≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/12/blog-post_18.html

やることをやり終え、夕餉までにはすこし時間がある。

というとき「句会でも」となるのが俳人の倣い。3人と人数は少ないが句会もやってできないことはない。しかしながら、時間はそれほどない。お好み焼きの具を待つ鉄板はすでに温まりかけており、それに、だ、静岡、筑波という、ここからけっして近くはない場所へとその夜のうちに帰らねばならない生駒大祐、堀下翔両君の事情を鑑みて、なにか違う遊びはないかと数秒思案。3名なので上中下の句をそれぞれ別個につくるという遊びに決まった。さて、ルールだが、一斉に出すのでは天狗俳諧。なにもこのメンツでやることもない。上→中→下と順繰りにリレーして一句となす。そういうことにした。これもよくある遊びだが、名だたる若手2名が入るのだから、格別の妙味が出るかもしれない。

では、さっそく。

※生駒大祐=、堀下翔=、西原天気=

生駒氏が上を提示。

雨として

なるほど。よくある感じには、しない。意地でも、しない、というプレイスタイル。

堀下氏が引き継ぐ。

雨として及びてゐしは

ううむ。

俳句は形式の文学」と断じる生駒氏と「平成の俳句フェティシスト」と私が勝手に名付けた堀下氏が提出した上中だけあって、目の前には(凝った)器のみが置かれて饅頭も煎餅もない状態。家でいえば、骨組みだけが美しく組みあがり、そこには壁の色も窓ガラスの反射もない状態。

つまり、生駒・堀下の興味は「雨」や「及ぶ」といった語にはない。「として」「て」「ゐし」「は」の語の配置こそが作句なのであろう。

そのままお二人の流儀、お二人の流れに乗っかる手もあるが(それができるかどうかは別にして)、「俳句で俳句する」というフェティシズム、形式偏愛には、じつはちょっと抵抗がある。で、こうした。

雨として及びてゐしは夜の海豚

海豚は季語だぞ、諸君。そう念を押して、一句目が終了。

海豚をフインキ溢れる季語に替えれば、まったく別の句になりそうだ。

【intermission】
ここまでレポートして、「雨」「夜の海豚」の部分を生駒・堀下に別の語を入れてもらう「後日遊び」を思いついたので、メールすることにする。結果は後述。



さて2つ目は、堀下氏から。

来たりては

あくまで骨格しか提示しない気だ。中は私の番。積み上げようとするマッチ棒を崩すべく、お二人が嫌うであろう「強い」語を持ってきたくなった。

来たりてはかの戦艦に

助詞の「に」はちょっと意地悪。散文的になりやすい。

生駒氏が下を付ける。しばし呻吟。「当季じゃないとダメですよね?」「まあ、いいんじゃないの、季節は」

来たりてはかの戦艦に似る蚊かな

おお、「蚊」という1音が使いたかったのか。「かな」も使いたかったわけだ。中の「に」を受けての動詞部分に最少2音は要る。引き算の結果、1音しか残らず、「蚊」となったわけだ。あくまで形式。形式ラヴ。徹底している。

ただ〈文語ラヴ〉にしては、「似る」がちょっと口語っぽいぞ。でも、まあ、なんだ、たいしたものだ。



3つ目は、私が上。二人とも上句に名詞を避けているので(当然の作戦だ)、あえて。

にはとりは

これも「は」が意地悪。

次が生駒氏。

にはとりは冬なり常の

わっ、句跨がりで来やがった!

これを受けて堀下氏。

にはとりは冬なり常の冬は絵に

ぎゃっ、冬をリフレイン。

テクニシャン。

3つ終わって、年寄りの私としては、将来を嘱望される若い俳人2名の、こだわりよう、そして技巧に、あらためて感心したのでありました。

でも、それで人を幸せにする句がつくれるかどうかは別問題だから。

(と、わけのわからない捨て台詞)

でもね、標語+季語、これこれこう思います+季語、みたいな句にまったく関心がないところは、私も同じだ。また、いっしょに遊んでね。



さて、二人へメールした課題、「《✕✕として及びてゐしは✕✕✕✕✕》の✕を埋めよ」の答えが返ってきた。

蘂として及びてゐしはつめたけれ  翔

汝として及びてゐしは明の雪  大祐

2015年12月26日土曜日

【みみず・ぶっくす 52】終わらない旅 小津夜景

【みみず・ぶっくす 52】
終わらない旅

小津夜景


 生ハムといえば、バイヨンヌ。
 バイヨンヌには、レオンさんという守護聖人がいる。このレオンさん、バイキングに首を斬られても、なおその首を自分の手で持って歩いたほどの達人だったそうだ。
 生ハムを眺めていたら、こんな話をふと思い出した。
 なぜ生ハムを眺めていたのかというと、もうすぐお正月なので、その買い出しに来たのだ。
 お正月の準備といっても、なにも変わったことはしない。歳の市は見飽きたし、衣類を新調するお金はないし、いつもと少しちがうごはんをつくるくらいだ。わがやは一部屋しかないので大掃除も終わっている。断捨離は、捨てるものがなかった。一応ゴミを探し回ってみたのだが、押し入れすらない貧居ではゴミをしまいこむチャンスもないらしい。
 自分の中に、人生のあらゆることに対し、せずにすむならなるべくそうしたのですが、と宣言するバートルビーが棲んでいて、彼の言うとおりにしていたら、いつまでもこんなである。
 脱文脈性へのこうした思い入れは、なにが原因なのだろう。
 夕方、夫と散歩に出る。あいかわらず夢のような空と海だ。カモメの子がたのしそうに遊んでいる。あのさあ、なんにも持たずにふたりきりで外国で生きてるとさ、ずうっと旅してる感覚抜けないよね。それで、こうやって風景の中を散歩して、なにもかもが儚く美しくて、本当に人生って終わらないハネムーンだよねえ、と散歩のたびに夫が言う。
 私もそう思う。ハネムーンを差し引いても、終わらない旅と脱文脈性というのは、おそらく最高の相性だ。
 部屋に飾ることも身に纏うこともない多くのこよなき意味が、人生という仮住まいを、さらさらと流れてゆく。

梁にハムぶらさがるなり年の内
つごもりを暇人つどふ本屋かな
数へ日をわづかに濡らし石段は
年ごこち花屋はどこもいい感じ
なにひとつなさず学者の年用意
始祖鳥もアンモナイトも掃き納め
年うつり忘れしままの棚のもの
古日記こよなき景のこまごまと
ゆく年のそろりと脈を手にとりぬ
元日のコルシカ行きの切符かな

2015年12月25日金曜日

●金曜日の川柳〔小菅裕子〕樋口由紀子



樋口由紀子






かなしむべきか石鹸が減り過ぎる

小菅裕子 (こすげ・ゆうこ)

たかが石鹸ぐらいでとつっこみを入れたくなる。確かに洗剤や調味料がこんなに減っているのかとびっくりするときがある。家計を預かる健全な主婦ならば石鹸が減ることでもかなしむべき素振りを見せなくてはならないのか。それともかなしむべきことなのだと穿った見方をしているのか。

ちょっとしたことにいちいち感情移入し、過剰反応することへの揶揄のようにもとれる。おおげさでとぼけた表現も川柳の特徴の一つである。作者は他にかなしむべきことがあったのかもしれない。

〈母の背がまるくならないのもつらい〉〈席を立つ同じ景色を見るために〉〈三面記事の他人と歩く三日ほど〉〈ああ無情おんながとんと騒がない〉 川柳誌「創」収録。

2015年12月24日木曜日

■マリア

マリア


イエスよりマリアは若し草の絮  大木あまり

乳房あるマリア怖ろし絵踏かな  飯田冬眞〔*〕

ふくらはぎマリアに見せて脚気なり  平畑静塔

句じるまみだらのマリアと写楽り  加藤郁乎


〔*〕飯田冬眞句集『時効』(2015年9月25日/ふらんす堂

2015年12月23日水曜日

●水曜日の一句〔坪内稔典〕関悦史


関悦史









この葡萄プラトン以来のうすみどり  坪内稔典

眼前の葡萄のあざやかな色つやを言い表すレトリックに持ちだされるのが古代ギリシアの哲学者。「うすみどり」に何やらイデア論や古代ギリシア文明の影もさし、果実の鮮度はそのままにひどく典雅な物件に葡萄が化ける。

「プラトン以来」と言われれば、プラトンその人も同じように葡萄を味わったのかもしれない。古代ギリシアではすでにワイン醸造のための葡萄栽培は始まっていたらしいし、プラトンと食事となると、哲学談義に花を咲かせたシュンポシオン(饗宴)のイメージもちらついて、葡萄を通じて、古代の哲人と食事をともにしているような気分も一句に出てくるのだが、よく考えたらプラトンより葡萄の方が古いはずで、プラトンが葡萄の品種改良をしたのでもなければ、「以来」というのはウソで、本当は「以前」になるはずなのだ。

にもかかわらずここでプラトンが出てくるのは、プラトンに青葡萄のイデアは「うすみどり」なのだと喝破されて以来、葡萄はこの色に定まったのだというフィクションがこれで成立するからである。

ワインに変じる潜在性や、人類文化の同伴者といった顔もうかがわせることで、かえって物としての葡萄の清新さが際立ってくる。


句集『ヤツとオレ』(2015.11 角川書店)所収。

2015年12月22日火曜日

〔ためしがき〕 口にくちぶえ 福田若之

〔ためしがき〕
口にくちぶえ

福田若之

音だ、と思った。『しばかぶれ』第一集(邑書林、2015年12月)のことだ。

中山奈々の旧作百句、「綿虫呼ぶ」。その一句目は〈メロディーと名付けし春の雲崩れ〉。

そして新作三十句、「横縞の飛行船」。その一句目は〈目にめがね口にくちぶえ秋たちぬ〉。

散文をみてみよう。 「愛おしい。な、な」(佐藤文香「奈々」)、「追いつくには体力が、が、が」(中山奈々「出鱈目」)、「ブワァー!」(田中惣一郎「中山奈々覚書」)。

この一冊は、こんなふうにして、なんらかの和音を奏でようとしている。

息白くゴジラゴジラと遊びけり  中山奈々

「ゴジラ」と二度繰りかえすこと。それによって「ゴジラ」は音楽になる。ド・シ・ラ、ド・シ・ラ……

何回もすゝきの前で写真撮る 堀下翔
秋さびしなかやまななになが三つ 小鳥遊栄樹
嗚呼・機械の腕・白シャツに袖とほし 青本柚紀

す、す。な、な。あ、あ。口をついて出てきたような音の群れ。堀下翔「洲」 では「ゝ」が何回も繰りかえされているのだが、引用した句を読んでからというもの、その繰りかえし記号の繰りかえしからシャッター音が聞こえるような気さえしてくる。小鳥遊栄樹の句は一つの名に三つの「な」を見いだす。言葉に対するこうした見方が『しばかぶれ』の同人には多かれ少なかれ共有されているように思われるという意味でも、この第一集における象徴的な一句だと思う。青本柚紀の句は「嗚呼」を「、」でも「。」でも「!」でもなく、「・」によってつなげるところに新鮮味がある。この「・」はまさに機械のパーツをつなぐ関節なのだろう。

つ・ば・さと動くくちびる夏はじめ 青本瑞季

青本瑞季の「・」は同じ符号だけれど、その無音の長さは青本柚紀の句の「・」よりもずっと長い。くちびるのひとつひとつの動きは瞬間的であるにもかかわらず、それぞれの動きのあいだに長い間がある。ひとつひとつの音の後の、くちびるのかたちをはっきりと確かめようとするみたいに。

この一冊は、読者に対して、音を思うことを求めている。そうしなければ、〈【秋の夜の喪字男人生相談室】〉(喪字男「昼寝用」)が俳句であることには気づけない。


2015/12/11

2015年12月19日土曜日

【みみず・ぶっくす 51】これが聖夜というものか 小津夜景

【みみず・ぶっくす 51】
これが聖夜というものか

小津夜景



 戦時状況における言葉の力、あるいはその無力についてはさんざん語り尽されていて、よほど気の利く者でないかぎり新しいことは言えないし、そもそも新しかったらなんなのかといった問題もある。
 ラスキンの書いた通り、人間は言の真理と思想の力とを戦争において学んだ。戦争によって涵養し、平和によって浪費した。戦争によって教えられ、平和によって欺いた。戦争によって追い求め、平和によって裏切った。要するに戦争の中に生みおとし、平和の中に死なせてきたのである。
 戦争の気運が前景化する時というのは、言葉に期待される役割が決まってパフォーマンス=効率性へと一気に流れてゆく。この風向きをうまく回避しつつ言葉を使用するのは簡単ではない。ぱっと思いつく策は、ハイパーテキスト性を帯びるよう言葉を編むことくらいだ。人々がそこを任意に散策し、外部へのワープもできる非線形的文章は、イデオロギーの固縛と戦いうる者をきっと出現させるだろう。
 言葉が知であり、権力であるのは本当だ。とはいえこれは、言葉の本性の一部分を抑圧してこそ成り立つ真実でもある。元来、言葉はでたらめを好み、モノとの意味対応にこだわらない長い歴史をもつ。また文学はこれまで一度も言葉の本隊だった試しはなく、いつでも遊撃のための別働隊の地位にあった。この遊撃隊は、考えの赴くままに動くことによって意味の固定化を挫き、あなたに抜け穴をこっそり示したり、思いがけない場所であなた宛の手紙を拾わせたりする。
 以上、三木鶏郎の冗談音楽をバックに、戦争と言葉についての一分放送をお送りしました。提供は、未来のネーションを考える明るいナショナル、でした。なお、俳句は文学かといったご質問は現在受けつけておりません。聖夜のご愛聴、ありがとうございました。

戦争の匂い濃くなるクリスマス
流血のシマにむらがる愛ありき
死化粧してはネオンの海を舐め
もろびとのこぞりて仁に引き籠る
サイコロの七の目揃う自爆テロ
ドブ貝をひさぐ隣人保護区にて
アダムやでゆうて肋骨呉れる人
トナカイの翼よあれがドヤの灯だ
モナド越しイデア殺しの夜は更けぬ
口笛の止まぬカミカゼ稼業かな
兄弟よこれが聖夜というものか
言の葉に効く毒消しはいらんかね

2015年12月18日金曜日

●金曜日の川柳〔佐々木ええ一〕樋口由紀子



樋口由紀子






レンコンの穴から極楽を覗く

佐々木ええ一 (ささき・ええいち)

極楽とはどんなところだろうか。阿弥陀仏の居所である浄土で、苦患のない安楽な場所や境遇だと言われている。しかし、死後の世界であり、この地救上のどこにもない。

なぜ「レンコンの穴から」? と一瞬は思うけれど、そんなに突飛なことでもない。レンコンはハスの地下茎であり、ハスは仏教とのかかわりは深い。また、お節料理にも欠かせない縁起物でもある。理詰めで読んでしまうとおもしろさは半減するが、辻褄は合う。

レンコンは池や沼地や水田などで栽培され、泥の中を地下へ地下へと根を伸ばしていく。極楽が見えるのはきれいなだけの清潔感のある万華鏡より泥をいっぱい潜った、滋養強壮力のあるレンコンの方かもしれない。

レンコンの穴を覗いている姿は滑稽である。わざとそんな行為、そうまでしても極楽を覗いてみたいといのも人の性だろう。〈青空が「かかって来い」と叱る〉〈肩の荷を降ろすと羽根が生えてくる〉 「川柳マガジン」(2015年11月号)収録。

2015年12月17日木曜日

●海豚

海豚


海豚とぽりとぽりと春の海暮るゝ  幸田露伴

合羽着てイルカショーみる昭和の日  飯田冬眞〔*〕

土用波海豚の芸も休ませて  瀧春一

イルカショー始まる淋しき国家  小野裕三

木枯の止みし夜空を海豚たち  高野ムツオ

全身の夕焼を見よと海豚跳ぶ  福永耕二


〔*〕飯田冬眞句集『時効』(2015年9月25日/ふらんす堂

2015年12月16日水曜日

●水曜日の一句〔益岡茱萸〕関悦史


関悦史









おでん煮る空間にあるまろきもの  益岡茱萸


一読、おでんの具材のどれかの話かと思ってやり過ごし、「空間」がひっかかって立ち止まることになる。「空間」となると鍋の中の話には見えなくなってくるのだ。

吊り下がっている照明器具の類かもしれないのだが、あえてここまで抽象化した言い方をされると、その場の雰囲気や円満な人間関係をも含意しているように感じられる。この「空間」にはおでんを煮たり食べたりしている人間も当然含まれるのだ。

しかし、にも関わらずこれは何か実体をもった具体的な物件であるらしい。20世紀以降の絵画では半抽象の表現はよくあるが、旧来の情緒を引き剥がしたモダンな美を現出させることが狙いでもなさそうである。ものは卑近で親しみあふれる「おでん」なのだ。

この何とも得体の知れない「まろきもの」は、おでんを煮る空間の温和さそのものが実体化しているかのようである。そしてそんな変容が成り立つるのは、省略の利いた言葉のなかでだけなのである。

すぐそこにありながら誰も気がついていないものを引き出すというのは俳句のいわば常道だが、「おでん」がまとう雰囲気をそのまま明快で手応えのある抽象空間へ開いてしまうというのは少々珍しく、清新な句柄といっていいと思う。


句集『汽水』(2015.11 ふらんす堂)所収。

2015年12月15日火曜日

〔ためしがき〕 全集 福田若之

〔ためしがき〕
全集

福田若之

田中裕明の「全集」の句と言えば、まず想起されるのは『花間一壺』の次の句であろう――

悉く全集にあり衣被

一方で、同じ句集の次の句については語られることが少ない――

全集の端本なれば遅き日に

前者は、五七五のきれいな定型であるのに対し、後者は、中六の字足らずである;前者は言い足りている――「悉く全集にあり」は文として完結しているし、「衣被」も体言止めでしっかりと言い足りている――のに対し、後者は言い足りていない感じがする――述語がなく、文は完結していない。

ようするに、前者は全集というモチーフの充足を、後者はその欠落を言語的にも表現している。

「衣被」の句に満月を見ることは許されるだろう。芋名月である。欠けたところのない月のイメージが、全集の充足と結びつく。

「遅き日」の句は煮え切らない太陽を思わせる。春のもやがかった景色と、一日が終わらない満ち足りなさが全集の欠落と結びつく。

「衣被」の句は人を安心させるが、「遅き日に」の句は人をいらだたせる。好まれるのはおそらく前者だろう。けれど、後者の句の生々しさと向き合うことによって見えてくることもあるだろう。

端的に言えば、後者の欠落は現実に向けて開かれている。前者の句は「全集」の虚飾――それが全てだという虚飾――にすっかり魅了されている。けれど、全集の外で、いったいどれだけの言葉が忘れられるがままになることか。

2015/11/21

2015年12月14日月曜日

●月曜日の一句〔岡田一実〕相子智恵



相子智恵






クレヨンのぽくりと折れる雪の降る  岡田一実

句集『小鳥』(新装丁版/2015.11 マルコボ.コム)より

クレヨンの折れる音は「ぽきり」のような硬い音ではなく、たしかに「ぽくり」であるな、と掲句を読んで思った。同時にクレヨンの手触りや、匂いなどが懐かしく思い出されてきた。「ぽくり」という音に、懐かしさや温かみがあるからだろう。クレヨンが折れてしまうといった些細な寂しさも、子どものころには、大きく心に刻まれたものであった。

取り合わされた〈雪の降る〉もいい。静かに降り続けるやわらかな雪が「ぽくり」と響きあって、いっそう懐かしさを感じさせる。色とりどりのクレヨンと、真っ白な雪の対比も美しい。

ほかに〈極月のマーブルチョコが散らばつた〉という句もあって、これも、慌ただしくも華やかな行事の多い12月の季感に〈マーブルチョコが散らばつた〉の色合いや勢いがよく合っている。

色や光、音を感覚的に活かす作風の二句を楽しんだ。

2015年12月12日土曜日

【みみず・ぶっくす 50】クロノスの光 小津夜景

【みみず・ぶっくす 50】
クロノスの光

小津夜景







 恥ずかしがりやなので、好きなものは遠くから眺めることが多い。
 詩歌にしてもそうで、好きになるとなかなか手にとることができない。照れてしまうのだ。きっとむさぼるように読んでしまうだろう自分の姿を想像すると、もう堪えがたい羞恥にかられてふっと避けてしまう。
 それで永井陽子も紀野恵も、実際に本を手にするまでとても時間がかかった。
 最近わたしがそんなきもちで眺めつつあるのが冬野虹。彼女の言葉を目にするたび、いいなあ、まだしばらくは遠くから見てたいなあ、とおもう。
 冬野虹の世界は、永井陽子や紀野恵のそれと、わたしの中でごくゆるやかに重なっている。
 まず新古今の影響。
 それから後期ルネサンス音楽と、バロック音楽の芳香。
 そしてなによりも、光との戯れ。
 ひとくちに光と言ってもいろんなのがある。わたしの感じる彼女たちのそれは、ふっくらとした小さな命のような、手ですくったりこぼしたりしたくなるような光だ。読みながらよくスカルラッティを連想するせいか、シチリア島の清涼なクロノスを光につめこんだ印象も抱く。
 いまクロノスの光と書いて、ふと久木田真紀「時間(クロノス)の矢に始めはあるか」を思い出した。彼の、

 紅梅をもったときからきみはもう李氏朝鮮の使者なのである

という歌も、初めて見たときはタイム・トラベルを経た輝きが《いま・ここ》を照らし出しているかのようで、じーんときたなあ。
 閑話休題。
 さて先の三女性の内、もっともダイナミックに時を駆けるのが冬野虹だ。虹にとって想いを馳せるとは時を駆けることである。たぶんまちがいなく。見える世界と見えない世界とを色分けしない彼女は、蟬丸やら荷風やらアチャコやらの故人を《いま・ここ》に召し出すのではなく、みずから時間を旅し、直接彼らの知己となってしまう。
 これは大変まれなスタンスである。
 俳句でも短歌でもなんでもよいが、短詩といわれるジャンルでは、これでもかというくらい他界や異界などの《ここでない場所》が主題化される。けれどもこの、あちらとこちらとを線引きするとい発想はあまりに認知的効率が良すぎる上、時として生と死ないし光と闇といった、ありふれた二元論の絡みあいにさえ転化してしまう。
 虹にはこの手の二元論への依拠がまるで見られない。彼女の世界には翳りはあっても闇はない。しかも彼女が翳りを描くときそれは光の脈動を意味し、その儚いゆらぎは潜在する光のスケールの巨大さを忍びやかに暗示している。
 虹の作品にあらわれる一切が、ここにあるなしにかかわらず、つねに時間の中で等価の輝きをまとっていること。それはおそらく無意識ではなく、いかなる世界も闇として認識しないという彼女の強く頑な信念に因るのだろう。
 虹は想いを馳せ、時を駆ける。クロノスの光をたずさえて、あらゆるものやことを、陽のさゆらぐ鼓動の中に存在せしめるために。

 泣かないで丸餅三つ走ってゆく / 冬野虹


ありのまま生涯終える冬の虹
夕さりに鶴のさやるは恍として
絨毯のあはき光へぬかづきぬ
あはゆきと思ほゆる主の鉋かな
カステラを焼きたてまつる銀世界
かはたれを怨ずるごとく紙を干す
襟巻をアンチ・ロマンに娶りけり
火の騒ぎありて華やぐオラトリオ
片肺はこほれる湖に透かし彫る
咳をもて地上より逝きしめむ

石炭を綺譚のやうに拾ひあぐ
しぐれはや墨絵をとむる君が声
言ひさしたままに空似の顔冱えて
霜柱ふめば吊りたくなる首か
薫き染めてこよなきものと凩を
貸本と熱燗修行の日々ならむ
陶片に水鳥還るゆふべかな
天に星かんじきの楽鳴り出でよ
かりそめを出で立ちましぬ冬の紙

またひとつ虹の焉りや六花亭

2015年12月11日金曜日

●金曜日の川柳〔可笑〕樋口由紀子



樋口由紀子






総領は尺八を吹くツラに出来

可笑

尺八を吹くにはかなり技術がいりそうである。首を縦にふったり、あごの角度を変えたり、息を吹き込んでいく姿はときには滑稽のように見えてしまうものだが、尺八を吹く人は総じて意外なほどさまになっている。

「総領は尺八を吹く」はありそう、「総領は尺八を吹くツラ」はなるほど似合うだろう、が、なんてことはない。しかし、掲句の見事さは「ツラに出来」と言い切った見立てと批評眼にある。それによって一句は劇的に変化した。そうか、生まれながらにそういう顔に出来ていたのかといたく納得した。幸か不幸か、自分はその顔に生まれてこなかった。

2015年12月10日木曜日

●鼓笛隊

鼓笛隊

鼓笛隊グラジオラスの耳ひらく  雨宮きぬよ

尖兵として蟋蟀の鼓笛隊  石塚友二

てのひらをぐるぐるぐると鼓笛隊  前田一石〔*〕


〔*〕『川柳カード』第10号(2015年11月25日)


2015年12月8日火曜日

〔ためしがき〕 書きたかったのはそのことではない 福田若之

〔ためしがき〕
書いておきたかったのはそのことではない

福田若之

書いておきたかったのはそのことではない、ということがしばしばある。

たとえば、大澤真幸『量子の社会哲学――革命は過去を救うと猫が言う』(講談社、2010年)が僕の目を引いたのは、明らかにその副題が五七五だったからであって、書いておきたいのは単にそのことなのだが、単にそのことだけを書こうとすると、こんなことを書いて何になる、という思いがただちに湧いてくる。

かといって、「革命は過去を救うと猫が言う」というこの五七五は、僕にはとりわけ感動をそそるものでもない。要するに、それが五七五だという気づき以外には、際立った感興はない。

それで本の中身について何かを書こうとする。すると、読み手からしたら引用文とそれについての解釈が文章の主題であるようにみえるのだが、実は書き手の言いたいことは冒頭の「副題が五七五だったのでつい手にとってしまった本に、こんなことが書いてあった――」というところにしかない、という奇妙な文章が仕上がる。しかし、読み返して、書いておきたかったのはそのことではない、とつくづく思う。

そんなわけで、僕は四日前に書いたためしがきをまるまる消してしまったわけだ。

2015/11/21

2015年12月7日月曜日

●月曜日の一句〔西村和子〕相子智恵



相子智恵






寒禽の取り付く小枝あやまたず  西村和子

シリーズ自句自解1 ベスト100『西村和子』(2015.10 ふらんす堂)より

〈小枝〉が選ばれていることで、この寒禽が小さな鳥であることがわかる。取り付いたのは裸木なのだろう、小枝や小さな鳥がよく見える。

一羽の寒禽と読んでもよいのだろうが、〈あやまたず〉が活きるのは、群れ飛んできた複数の小鳥であるように思う。ぱらぱらと飛んできて、ぴりしと、吸いつくようにひとつの小枝に並んだ。暖をとるために小さな体を並べている冬の小鳥の姿は可愛らしいが、よく考えてみると一羽も〈あやまたず〉その小枝を選んでいるのである。

「かんきん」という響きの厳しさと、〈小枝あやまたず〉のきっぱりとした措辞、K音の響きが、寒くても凛とした空気を感じさせる。

自句自解シリーズのうちの一句。対応する自解には、師の清崎敏郎に「こうした句、自然に厳しい目をむけている花鳥諷詠派でないと理解できないかもしれない」と評されたと書かれている。そうであるかもしれないし、案外そうでもないような気もする。

2015年12月6日日曜日

●コモエスタ三鬼40 偶景

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第40回
偶景

西原天気


飴赤しコンクリートの女医私室  三鬼(1950年)

なぜ飴などに目をくれるのか。その飴が赤いことに何の意味(句の意図)があるのか。

答えはなくて、たまたま、飴があり、飴が赤かった、ということだと思う。そこが女医の私室だったことにも句の成立根拠は見いだせない。

そのときの「たまたま」が句として書き留められた。そう思うことにする。

何も描いていない。「赤」は、句が描いたものではなく、飴が描いた色であり、景色だ(「コンクリート」は寒々としている。ここに若干の描写はあるが)。



ところで、多くの俳句は、なんらかの作品意図を持っている。何かを描写する、何らかの心持ちを伝えるなどの意図。意図があれば、その完成形(表現としての十全、洗練を極めた先)がおそらくあり、句作はそこへと漸近していく作業となる。

読み手はどうだろう。その句がいかに巧みか、いかに不完全ではないかに目が行く。そうした「作家の仕事ぶり」を見極めたうえで、句を心に響かせたり、愛したりする。

ところが、そうした意図と描写と書きぶりと味わい方の外側で、妙に気になる句もまた存在する。「たまたま」の事物が「たまたま」書き留められたといった風情でそこにある句がむしろ「俳句の不思議お」として心に残ることがある。飴が赤いというこの句が、私にとって、まさにそう。

数多の佳句秀句(その良さを叙述しやすい成功例)は、言ってしまえば、その発生に予測がつく。読み(鑑賞)のニーズにかなって、生まれるべくして生まれた句とも言えよう。

予測できるもののもたらす快感には、限度がある。むしろ、そうした予測範囲から漏れる「偶景」の句こそが、俳句の不思議を蔵しているようも思えてくる。

(ただし、「偶景」の句と単なる報告の句がどう違うのか。そのへんは微妙で困難な問題として残るのではあるけれど)



なお、この句には〈コンクリートの女医の私室に飴赤し〉というヴァージョン(異型)もある。〈女医の私室の〉といったまどろっこしさとは別に、これだと、飴へのズームインする視線の順序。掲句のように、まず飴の赤さに目が止まるほうが、「偶景」の要素は強い。


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2015年12月5日土曜日

【みみず・ぶっくす 49】 My Generation 小津夜景

【みみず・ぶっくす 49】
My Generation

小津夜景



 読書にめざめた頃が、丁度ニューアカ・ブームだった。
 それはわたしにとってかなり不幸な出来事であった。ブームにはなにかしら悪夢の様相がともなうものだが、ニューアカも然り。当時の雑誌は、あらゆる事象に対し似たり寄ったりのタームを振りかざしつつ奇妙な踊りを踊っている中年男性でどこもごったがえしていた。そしてその知的でも美的でもない光景の残念さ加減といったら、いまだ潔癖な女の子の受け入れられる代物では全くなかったのである。
 例が悪くて恐縮だが、いまだ恋に恋している女の子が、目の前の扉をどきどきしながら押してみたら、そこにいたのは王子様でなく下半身マッパの変態で、しかもその変態の超いかがわしい行為まで見てしまったがために、もう一生恋愛どころか男性と話すこともできなくなるほどの恐怖と後遺症とに見舞われた、といった事態を想像してほしい。
 それが当時のわたしの受けたショックである。
 そんなわけでわたしの知的好奇心は、本を開いたその瞬間、知に関わる大人たちのふしぎな上機嫌と浮かれ具合とを目撃して、芽生えたと同時に打ち崩れてしまったのだった。
 自分自身が大人になった今日でも、アカデミズム寄りの知的領域にただよう自足的な、少々張り切ったような雰囲気がとにかく気味悪くてたまらない。きっと当時の心の傷が相当深いのだと思う。それともいまだにお嬢さんっ気が抜けないのだろうか(それはそれで悪夢である)。
 ところで、こんな話を書いたのはさいきん松木秀の、

 偶像の破壊のあとの空洞がたぶん僕らの偶像だろう

という歌を思い返すたび、ああ同世代だなあ、としみじみ感じるようになったためだ。今、世代なんて語を堂々とつかっている自分に驚いている。頭がおかしくなったのかもしれない。とにかくこの歌をはじめて見たときは、なんて標語っぽい、人受けしそうなコピーなんだ、と恥ずかしかったくらいなのだか、このごろはしっくりくる、という話。
 おそらく昔の私は、自分の知っている世界を普遍的なものだと錯覚していたのだろう。しかも世界が変わってゆくという当たり前のことを、松木のようには理解していなかった。だから、それまでの秀歌の中に松木と同じことを語りえた歌がひとつもないことの意味に全く思い至らなかったのだ。
 今の私はこの歌を名歌だと思っている。
 ここでいう名歌の条件は、三つ。
 まず、みずからの世代の足場を自覚すること。私は掲歌に、生まれながらにして「神の死」の言説の強い影響下にいた世代特有の感性と抽象力とを感じる。また忘れてはならないのが、実際には神が死んでなどいないこの世界状況を巧みに含んだ上で、松木がこう詠んでみせたことだ(この歌はバーミヤンの仏像の破壊に際し詠まれている)。つまり掲歌は、松木自身の否応なき立脚点と世界のありようとの、絶望的な落差をクリアに明示していると言える。
 次にエヴァーグリーンであること。エヴァーグリーンとは失われたものだけが放つことのできるオーラだ。失われたものだけが時を経ても色褪せない。小野茂樹のあの夏のように。掲歌にはこの種の青春性と眺望とがたしかに内在する。
 そしてマニフェストの格があること。永久欠番の格をもつ、と言ってもいい。川柳作家でもある松木はもともと立言を得意とするが、掲歌の恐ろしいまでのシンプルさは今後誰がどう書き変えることも不可能だろう。
 こう並べてみると、すべてが欠如に関わっている。
 情況に対する認識は変わろうとも、わたしの生まれた場所は変わらない。わたしのルーツは掲歌の場所にある。そしてそこに帰ることはできない。そこは永久の欠如だから。


オカリナに息を吹き込む神の旅
冬といふしなやかな字を忘れもし
からつぽの記憶を捲る夜の火事
もしもしの溢れやまざる雪となり
神の死の死を告げしのち梟は
哀悼のかたちに暮れてかまいたち
オリオンに神の手話見る心地せり
冬銀河クリスタルボイス彷徨す
カトレアに追ひつめられし男かな
言葉からとほく離れたり冬苺

2015年12月4日金曜日

●金曜日の川柳〔中西軒わ〕樋口由紀子



樋口由紀子






美りっ美りっ美りっ お言葉が裂けている

中西軒わ (なかにし・のきわ)

第三回川柳カード大会で兼題「美」(くんじろう選)の準特選句である。最初耳で聞いたときは「ビリッビリッビリッ」だと思った。「ビリッビリッビリッ」と衣服の裂ける音が身体と衣服の不協和音、しいてはすべてのものに対して不協和音を発信しているように思った。

掲句が活字になったのを見て、「美りっ美りっ美りっ」だとはじめて知った。そういえば、兼題は「美」だった。ビに「美」を当てるなんて、感心する。「美りっ美りっ美りっ」の音感、「お言葉が過ぎます」のもじりの「お言葉が裂けている」の馬鹿丁寧な措辞。批評性を存分に浴びせてユーモアを押し込んでいる。

〈そそそそそすすすすすすす曼珠沙華〉〈消さなくちゃ おこそとのほも えけせてねへめ〉 「川柳カード」第10号(2015年11月刊)収録。

2015年12月3日木曜日

●視力

視力

ひぐらしや視力検査のCの文字  槇〔*〕

鶏頭の視力が尽きて川向こう  大畑等

ぶだう垂るる今ひとたびの視力欲し  村越化石

低く来る蝶の視力を考える  池田澄子


〔*〕『塵風』第6号(2015年10月10日)


2015年12月2日水曜日

●水曜日の一句〔藺草慶子〕関悦史


関悦史









自らの蘂に汚れて百合ひらく  藺草慶子


写生の極みに「百合」自体をも通りぬけ、言葉が観念的なエロスにまで達した句で、「自らの蕊」というふうに花と花自身のかかわりから一物を立ち上げたという点では、水原秋櫻子の《冬菊のまとふはおのがひかりのみ》に似る。ただし秋櫻子の「冬菊」があくまで清浄に光に同化していくのに比べると、だいぶ肉体的な官能の気配が濃い。

百合の花粉は豊かでこぼれやすく、一度付くと落ちにくい。句はそうした百合の実態を踏まえ、に見入っているが、それを「花粉に汚れ」と言ってしまえば報告に終わる。「蕊」と言い、雄蕊と花びらの接触と把握したことで次元が変わったのだ。

花が「汚れる/汚される」となると冒涜の気配が立つ。それはただちに陳腐な性的隠喩へと落ちかねない。しかしここでは汚すのも汚されるのも「百合」自身、自分のなかにある矛盾や軋轢がそのまま美的充実の土台をなしているのである。

自慰的とも両性具有的とも、加虐的とも被虐的とも見えるが、そうした過剰さはすべてあくまでも端正な言葉のなかにたたみ込まれており、そうして高められた内圧が、百合という植物を、単なる観賞用の花ではなく、別の生命体という相にまで異化し、引き上げる。

この句は「自分のなかにある矛盾や軋轢がそのまま美的充実」になるという事態の寓意にとどまっているわけではないし、また百合への共感にとどまるわけでもない。それらを通過し、その辺の植物はそのままで「存在する」ということの驚異性を体現しており、俳句の言葉はそれを掘り起こすことができるのだということを示しているのである。

句集『櫻翳』(2015.10 ふらんす堂)所収。

2015年12月1日火曜日

〔ためしがき〕 『掌をかざす』を出入りする 福田若之

〔ためしがき〕
『掌をかざす』を出入りする

福田若之

小川軽舟『掌をかざす』(ふらんす堂、2015年)について書きたいと思う。

けれど、今はこの一冊についてしっかりしたものを書く時間がない。 ∵この句集は出入り口が多い。 ∵句集と書いたが、正確には「俳句日記」である;日記はどこからでも読むことができる;日記は「つまみぐい」することができる。

六月五日(木)のページにはこんな一節がある:
「ほがらほがらにもっともっと多作することが何よりも大事なのではないでしょうか」、藤田湘子は自らに課した「一日十句」を三年間実行した後、こう述べている。
いつかは「ほがらほがら」の域に達したいもの。
→思い出すこと:そういえば、はじめて本屋で手にとって買った句集は藤田湘子『一個』(角川書店、1984年)だった。もちろん、古本屋で。高校の、たしか二年の頃のことだったと思う。

なんとなく湘子を手に取ったのは、その頃、〈愛されずして沖遠く泳ぐなり〉ぐらいしか知らなかったからだ。箱つきで、パラフィンにくるまれていたから、ほとんど立ち読みもせずに買ってしまった。

『一個』は、湘子が「一日十句」をはじめた頃の句集だ。一九八三年の立春、二月四日がその最初の日である。句集にその日の句として掲載されているのは、次の三句――
これよりは俳句無頼や寒の梅
この灯消せばわれも寒夜の一微塵
あかあかと掌を灯に見せて冬了る
いま読み返して気づいたが、どれも冬の句である。「掌をかざす」という句集の表題はこの三句目とも通じ合う(あとがきでは、句集の表題は十二月十四日の〈家族とは焚火にかざす掌のごとく〉の句からとったとされている)。

『掌をかざす』の十二月二十八日(日)にはこう書いている――

毎日歩く見慣れた町に、ある日ぽっかりと更地ができる。しかし、そこに何があったのかどうしても思い出せない。
私たちの記憶とはそのようなものだ。そして、俳句はそこに何があったのかを思い出させてくれる言葉なのだと思う。

伐つて無き樹を見上げたり冬の雲
これは、この本自体にとって、最も重要なページのひとつだと思う;僕にとっては、最も好きなページのひとつでもある。

たしかに俳句によって思い出されるものがある。だが、それとは別に、そこに俳句があったことを思い出させる言葉というのがある。たとえば、「毎日歩く見慣れた町に、ある日ぽっかりと更地ができる」という一文は、少なくとも僕にとっては、〈ビルは更地に更地はビルに白日傘〉(山口優夢)を思い出させる言葉である。

2015/11/6