2015年12月1日火曜日

〔ためしがき〕 『掌をかざす』を出入りする 福田若之

〔ためしがき〕
『掌をかざす』を出入りする

福田若之

小川軽舟『掌をかざす』(ふらんす堂、2015年)について書きたいと思う。

けれど、今はこの一冊についてしっかりしたものを書く時間がない。 ∵この句集は出入り口が多い。 ∵句集と書いたが、正確には「俳句日記」である;日記はどこからでも読むことができる;日記は「つまみぐい」することができる。

六月五日(木)のページにはこんな一節がある:
「ほがらほがらにもっともっと多作することが何よりも大事なのではないでしょうか」、藤田湘子は自らに課した「一日十句」を三年間実行した後、こう述べている。
いつかは「ほがらほがら」の域に達したいもの。
→思い出すこと:そういえば、はじめて本屋で手にとって買った句集は藤田湘子『一個』(角川書店、1984年)だった。もちろん、古本屋で。高校の、たしか二年の頃のことだったと思う。

なんとなく湘子を手に取ったのは、その頃、〈愛されずして沖遠く泳ぐなり〉ぐらいしか知らなかったからだ。箱つきで、パラフィンにくるまれていたから、ほとんど立ち読みもせずに買ってしまった。

『一個』は、湘子が「一日十句」をはじめた頃の句集だ。一九八三年の立春、二月四日がその最初の日である。句集にその日の句として掲載されているのは、次の三句――
これよりは俳句無頼や寒の梅
この灯消せばわれも寒夜の一微塵
あかあかと掌を灯に見せて冬了る
いま読み返して気づいたが、どれも冬の句である。「掌をかざす」という句集の表題はこの三句目とも通じ合う(あとがきでは、句集の表題は十二月十四日の〈家族とは焚火にかざす掌のごとく〉の句からとったとされている)。

『掌をかざす』の十二月二十八日(日)にはこう書いている――

毎日歩く見慣れた町に、ある日ぽっかりと更地ができる。しかし、そこに何があったのかどうしても思い出せない。
私たちの記憶とはそのようなものだ。そして、俳句はそこに何があったのかを思い出させてくれる言葉なのだと思う。

伐つて無き樹を見上げたり冬の雲
これは、この本自体にとって、最も重要なページのひとつだと思う;僕にとっては、最も好きなページのひとつでもある。

たしかに俳句によって思い出されるものがある。だが、それとは別に、そこに俳句があったことを思い出させる言葉というのがある。たとえば、「毎日歩く見慣れた町に、ある日ぽっかりと更地ができる」という一文は、少なくとも僕にとっては、〈ビルは更地に更地はビルに白日傘〉(山口優夢)を思い出させる言葉である。

2015/11/6

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