2015年3月31日火曜日

〔ためしがき〕 寺山修司にとっての川柳 福田若之

〔ためしがき〕
寺山修司にとっての川柳

福田若之


俳句というジャンルの芸術的価値の問題を取り扱う上で、桑原武夫の「第二芸術」ばかりを取り上げて寺山修司「川柳の悲劇――現代俳句の周囲」(初出は「青高新聞」1954年2月9日。本稿での引用は『寺山修司の俳句入門』、光文社、2006年に基づく)を取り上げることがないのだとしたら、この問題の一面ばかりを強調することになってしまうだろう。寺山の俳句に心揺さぶられる身としては、同じ寺山の書きものをこのように取り上げるのはどうも心苦しいのだけれど、それでも取り上げないわけにはいかない。寺山はこの文章で、桑原が芸術の名の下に俳句を非難したのとほとんど同様の仕方で、俳句の名の下に川柳を非難しているように見える。

両者に共通しているのは、取りあげる二つの領域(桑原の場合は西洋近代芸術と現代俳句、寺山の場合は現代俳句と現代川柳)が別物であるという認識を補強しながら、直ちに一方を他方よりも程度の低いものとして立ち上がらせ、その結果、ついにはその対象を芸術や文学からほとんど締め出してしまうことである。

寺山は、文章の冒頭で俳句と川柳が接近していることについて述べる佐藤狂六の文章を引用し、その上で、「私はそれを読んだあとで、この程度の川柳が現代俳句への接近といわれ、それによって現代俳句の限界が価値づけられることのおそろしさと、川柳作家たちの自己満足への不服から一寸したラクガキをしてみる気になった」(49頁)と書いている。ここで、「現代俳句の限界」という表現に、はっきりと「第二芸術」の文脈を見て取ることができる。そして、この寺山の文章を「第二芸術」の文脈から捉え直すとき、寺山の狙いは現代俳句を現代川柳から切り離すことで芸術への回帰を図らせることだったのではないかと思われて来さえする。だが、もし、第二芸術として告発された現代俳句がその称号を現代川柳に押し付けることによってその芸術性を主張するのだとしたら、それは恥ずべきことではないだろうか。

寺山はこう書く。
私が川柳の文学性の欠点を指摘するのはつぎの点からである。第一に川柳は五・七・五のわずか十七文字に限られていること、そしてその十七文字が江戸の柄井川柳の始めから二十世紀の今まで、一つの切れ字も公認されていないことである。(49頁)
要するに、俳句との違いは「切れ字」という体系の有無だということになる。しかし、直感的にも明らかなように、それは俳句と川柳の傾向的な違いでこそあれ、川柳が俳句よりも劣っていると主張することの客観的な根拠にはならない。「切れ字」がないことには芸術上の欠点ばかりではなく、利点を見出すこともできる。たとえば、それは修辞に関してのより柔軟な選択を可能にするだろう。

寺山は「川柳の切れ字なしの法則は、江戸以来のマンネリズムをかもしだした最も大きな原因となるだろう」(50頁)という。しかし、俳句の切れ字もまたそれによって江戸以来のマンネリズムをかもしだしていないなどと主張することが果たしてできるのだろうか。確かに、現代俳句は、いかに切れ字をマンネリズムから逸脱させるか、絶えず試行錯誤してきた〔*〕。しかし、それはまた、切れ字による様式化が俳句を容易にマンネリズムへと導きうることを意味してもいるのではなかっただろうか。

寺山は「つまり川柳が同じ五・七・五を保ちながら、発生以来、芸術らしき所作を避けたために、それ自体作家の哲学性をも、美術、音楽性をも、発酵させるには至らなかったことを私はかなしみたいのである」(50頁)という。これはほとんど、芭蕉の死後の発句と俳句についての桑原の批判を要約し、その主語を川柳に置き換えたものに等しい。

確かに、寺山にとっての川柳のほうが桑原にとっての俳句よりも芸術的価値を持つ余地がある。寺山は、そのために「第一に知性をもちたいということ、更に一つの方向と課題をもつことである」(51頁)という。しかし、寺山の文脈では、この言葉は川柳の敗北を決定的にする。なぜなら、ここで手本として示されるのは他ならぬ俳句だからだ。「俳句には一定の課題がないが俳人には大抵、一定の課題がある」(51頁)。
 
実際、俳句と川柳の差異を寺山のように捉えてしまうなら、「よし川柳が俳句的な風景描写をこころみたとしても、その裏に思想や自己抽出がなければ無価値であり、もしあったならば、それは川柳ではなくて、俳句になっているだろう」(50-51頁)ということにもなる。だが、寺山の議論はまさしくこの一文においてその欺瞞を露呈している。寺山は、五・七・五の形式をもつジャンルを彼にとって価値のあるものと価値のないものとにあらかじめ二分し、片方を「俳句」、もう片方を「川柳」と呼びながら、後者を価値がないとして非難しているのである。

だから、価値ある「俳句」と無価値な「川柳」という対立は、「川柳の悲劇」の中では決して覆ることがないようにあらかじめ仕組まれている。これはボクシングではなくプロレスであって、「川柳」が打倒されるのはそういう役回りであるからに過ぎない。おそらく、十八歳の寺山には、俳句が芸術であるためには俳句が何かに勝つ必要があると思われたのだ。言ってみれば、「川柳の悲劇」とは彼がそのために企画した興行であって、そのために他所から呼ばれたヒールが「川柳」だったのである。

覆面レスラーはマスクを被ってはじめて一人のレスラーとしてリングに立つことができる。ザ・デストロイヤーはトレードマークの白い覆面がなければただの人間になってしまうのであり、その意味で、彼のアイデンティティはその覆面にあるといっていい。「川柳の悲劇」の舞台における「川柳」という名は、こうしたレスラーの覆面に等しいものだ。寺山は、批判対象であるはずの川柳の具体例に一切触れない。それはおそらく、この文章で「川柳」と呼ばれているものが、実際には、ただ曖昧な観念として準備されたものにすぎないからだ。「川柳」という名、この覆面によってはじめて、ひとつの観念が確かなキャラクターを獲得し、リングに上がることを許される――あらかじめ運命づけられた敗者として。寺山は文章の終わり近くで、川柳とは「詩のない文学、切れ字と季感のない俳句」(51頁)だと書く。しかし、得られた結論に見せかけられたこのことこそ、実は、彼にとっての前提条件にほかならないのだった。

   

とはいえ、これで終わりではない。

寺山は、1956年12月の「カルネ――〈俳句絶縁宣言〉」を経て、やがて川柳にも一つの積極的な価値を見出すようになる。「ANDER-DOGたち」(綴りは原文ママ。初出は「俳句研究」1959年12月号、本稿での引用は前掲の『寺山修司の俳句入門』に基づく)と題された日記体の断章集から、ひとつの挿話を取り上げてみよう。
×月×日
「天馬って知ってるか」
 と友人が言った。
「川柳の雑誌だ」
「あゝ」と僕は答える。
意欲的なやつだな」
「(天馬の行き方は声明にあった如く、川柳とは一線を引いた行き方になっています。これは詩性を重要視するからです)ってかいてあったぜ」
「川柳は落書きだ」と僕は呟く。
「え?」
「川柳までお芸術になることはないんだ」
 彼は壁にかけてある僕のバンジョーをはずしてばらばらんとならした。
「そんなもんかな」
「そうとも」と僕はつけ加えて、「川柳の生き残る道は、万人が作者になり、歴史というとてつもない大きな土蔵の壁に落書することなんだ」
「観念的な奴だな」と彼は笑った。
「この頃の川柳は前衛俳句と変らんぜ」
「だからこそ」と僕は言う。
「俳句は呪文のように難解になればいいさ。キサスキサスだのケセラセラだのという言葉のように生という宗教の呪術になってしまって芸術性を獲得してもいい。だが川柳は、川柳はちがう」
「いやに川柳を買い被ったね」
「川柳は批評だ」と僕は言った。
「いいか、もし川柳に独自性を見出すとしたらそれは対象を批評で変革しようという意志をシンプルにしたものだ。落書の精神だ」
「芸術じゃいかんのか」
「きみは芸術を買い被りすぎているんだ」
 彼はまたバンジョーを鳴らした。
 ばらん、ばらん。
(154-156頁。原文では強調部は傍点)
ここで彼が川柳をあくまでも芸術ではないというのは、かつての主張の繰り返しではなくて、川柳に積極的な価値を見出すための口実になっている。すべての人が作者として歴史に落書するという企図は、僕には芸術の――ではないのだとしても、少なくとも芸術的な――それに思える。「芸術」を名乗ることに伴う気取りを批判する姿勢は、いわばダダイスティックなポーズであって、そこにはやはり別の芸術があるのではないだろうか。僕は芸術を買い被りすぎているんだろうか。寺山は、川柳とは落書きであり批評であるという。彼が「川柳の悲劇」で自らの批評を「ラクガキ」と呼んでいたことを思うとき、この言葉の選択は軽視できない。 寺山は、現在の彼にとっての「川柳」を、「川柳」について語った5年前の自らの文章とひとつにする。彼にとっての「川柳」は依然として観念的でありつづけるが、この同一化によって、彼はひとつの立場を選び取ることになる。それは、敗者の美学を肯定し、自らのものとする立場だ。それこそは、愛すべき敗者としての悪役レスラーの立場にほかならない。

もしかすると、それゆえにこそ「負け犬」を意味する"UNDER-DOG"は"ANDER-DOG"と綴られたのかもしれない。スペルミスとは、言語における正統なものからの逸脱にほかならない。寺山にとって、俳句との絶縁は、多かれ少なかれ、そうした正統からの逸脱だったのではないだろうか。寺山の選択が川柳にとって幸福なことだったのかどうか、また、俳句にとって幸福なことだったのかどうか、あるいは、批評にとって幸福なことだったのかどうか、そしてなにより、寺山にとって幸福なことだったのかどうか。それは僕には分からないけれど。


〔*〕寺山は切れ字が効果的に用いられている俳句の例として加藤楸邨の〈死ねば野分生きてゐしかば争へり〉と、山口誓子の〈海に鴨発砲直前かも知れず〉を、それぞれの上の句の直後の切れを「、」で示しながら引用している(ただし、楸邨の句は〈ば野分、生きてしかば争へり〉と、不正確に引用されている)。寺山がここで引用している二句の書き手がいずれも「第二芸術」での不名誉な例示を免れている作家であることは注目に値する。

2015年3月30日月曜日

●月曜日の一句〔佐藤文香〕相子智恵



相子智恵






おなじ布団ぬけだし花の空がちかい  佐藤文香

句集『君に目があり見開かれ』(2014.11 港の人)より

日本人にとって桜の花ほど、一輪の開花から散るまでの「開花期間」に注目される花はない。他の花も咲いて散るのは同じなのに、桜の花を見るときだけ、私たちは花だけではなく、花に内蔵された「有限の時間」を見ようとする。

掲句、性愛の後の恋人同士が、同じ布団を抜け出して二人で桜を見にゆく。いや〈花の空がちかい〉の、ふいに〈花の空〉に出会った感じからいうと、わざわざ見に行った桜ではなく、情事の帰り道に咲いていた近所の桜だというふうに読める。あえて〈花の空〉といっているのだから、夜ではなく空の表情も見える日中の空、いわゆる「後朝の別れ」である。

桜の花が頭上に近く、その上の空ごと二人の上に覆いかぶさっている。〈花の空がちかい〉の〈ちかい〉で、二人だけの世界には花と空以外の何も見えなくなる。それは二人の濃密で幸せな時間の喜びと、喜び以上の不安を思わせる。その不安こそが「有限の時間」なのである。

〈おなじ〉〈ぬけだし〉〈ちかい〉この、漢字でも書ける言葉をあえて平仮名にしている幼なさが、心の退行による時間への抵抗のように感じる。また呆けたふりをして言葉から意味を引きはがし、至近距離の〈花の空〉以外の現実のあれこれの意味を考えないようにしているようにも感じてしまう。だからこそ読者である私は、抵抗し切れないその時間を逆に強く感じ、うっすらと悲しくなってしまうのである。



2015年3月28日土曜日

【みみず・ぶっくす散歩篇 2】 フランスの本屋で「俳句」をさがしてみた〜前半。 小津夜景

【みみず・ぶっくす散歩篇 2】 
フランスの本屋で「俳句」をさがしてみた〜前半。

小津夜景 


フランスの本屋に、俳句の本がどのくらいあるのか?といった今回の調査。私が訪れたのはニース中心街に位置するコンビニ2件分ほどの広さの本屋である。ここを選んだ理由は、店内のスペースの1/3が文学・エッセイ、1/3がミステリ・SF・漫画、そして残り1/3が学術・生活・趣味の比率となった、昔ながらの「町の便利な本屋さん」に見えたからだ。

どうってことのない店内。


さっそく詩の棚へ。想像していたより広い。全体をざっと眺める。するとたちまち信じ難いことに気がついた。上の写真が棚全体で、左三列が個人名の詩集。最右列最上段はフランス詩の企画本。で、その下が外国詩のアンソロジーだったのだが、このスペースがほとんど俳句で埋まっている(ちなみにその下はもう本でなく詩誌)。つまりこの本屋で「どこかの国の詩をまとめて読んでみようかな…」と棚に手を伸ばすと知らないうちに俳句を買うはめになるのだ。そんなことってあるだろうか。いきなりこれでは「詩を読むフランス人にとって俳句はとるに足らない身近なジャンル」と即断せざるを得なくなってしまう(しかしこの予感は次の本屋で確信に変わる)。

俳句の本を数えてみる。鴨長明の歌論、千利休の茶詩、現代詩などに混じって17冊。思わず「地方都市なのにいっぱいあるよ!」と興奮したものの、それは無知ゆえの浅はかな感動にすぎなかった。というのも、帰宅して本屋のサイトを見ると、この店で扱う俳句の本は全部で211冊存在したのである(http://www.librairiemassena.com/listeliv.php?RECHERCHE=simple&LIVREANCIEN=2&MOTS=ha%EFku&x=0&y=0)。書誌分類を見るに、どうやら芸術、児童、自然、小説、エッセイと店内をくまなく見て回るべきだった模様。とりあえず詩の棚周辺にあった分は以下の通り。

『俳句365句〜永遠なる瞬間』
『俳句カウンター便り』
『ジャック・ケルアック句集』
『夏目漱石句集』
『俳句書き方マニュアル』
『俳句の味』
『日本の俳人アンソロジー』
『一茶』
『庵の主人 芭蕉全集』
『芭蕉111句』
『良寛99句』
『自然の鏡〜俳句拾遺』
『俳句〜日本の短詩アンソロジー』
『20世紀俳句〜今日の日本短詩』
『月と我 今日の俳句全集』
『唇に紅 日本俳人アンソロジー』
『現代の俳句 黛まどか』

棚板の分類タグによれば、本来ここは外国詩アンソロジーなのだが、ほとんど俳句。

平積みの俳句本をコクトーの前に並べておいた。


『俳句365句』は今まで住んだどの土地でも見かけた本だ。一句一頁のレイアウト、かつ原文併記であるせいか、日本語を少しだけ齧ってみたい人々から魅力的に思われているらしいが、読んでみるとかなり難しい。私が個人的に興味をもったのは『俳句カウンター便り』。著者のジャン=マリー・グリオは、最近不運にも有名になってしまった『シャルリエブド』の前身にあたる『ハラキリ』の創設に関わり、副総編集長も務めた人物(『ハラキリ』が三度目の発行停止を命じられた際、編集部が「誌名の改称」なる対抗手段によって、命令の翌週もいつも通りの内容で発行したのが『シャルリエブド』)である。『ハラキリ』は妄想実演を主軸とした奇天烈系アンダーグラウンド・ペーパーで、フランソワ・ラブレーの「暴飲暴食裸体糞尿楽園」の忠実な再現を目指したがゆえか「レベルが高すぎる」と再三言われつづけきた鬼畜雑誌。特に肛門方面が凄いそう(私は未見)。それゆえ彼の俳句も相当にアナーキーなのかなあ……とおそるおそる中を覗くと奇を衒った感じもなく、また時に思索的だった。

『HARA-KIRI』。こういうのが平気な人は « hara-kiri couvertures »で画像検索すると色んな表紙が見られます。

作風は明るくせつない。へえ、グリオってこんな人だったのか、としばしその場で『俳句カウンター便り』を読みふけった私。実はこの時点で今回の【みみず・ぶっくす】に書くネタはたっぷり収集した気分になってしまっていたが「いやいやいや。眺めているだけでは分からないこともある」と思い直し、勇気を出してお金を使う決心をする。悩んだ末、グリオの句集と、コリーヌ・アトラン&ゼノ・ビアヌの監修・翻訳による『俳句〜日本の短詩アンソロジー』&『20世紀俳句〜今日の日本短詩』の函入りヴァージョンを自宅に持ち帰ってきた。

『俳句カウンター便り』。表紙の中央に栞付き。

栞を取り外すと、本体に葉脈の刻印が。


グリオの句集は部屋で眺め直しても『ハラキリ』の首謀者とは思えないノリ。しかも栞が四葉のクローバーである。かわいい。十代の頃だったら迷わず即買いしただろう。ここまでアレだと「もしかして、わざとやってる?」という気もしてくるが、別にそういう訳でもなさそうだ。なお収録句については通常の【みみず・ぶっくす】でいくつか翻訳する予定なので今は触れずにおく。で、もうひとつはこれ。

函に収めた様子。香水のパッケージ風。

『俳句〜日本の短詩アンソロジー』表紙と函。

『20世紀俳句〜今日の日本短詩』表紙と函の裏面。

大きすぎず、小さすぎないサイズ。


函の内側。


写真の通り、ずいぶんと可憐で清潔なセンスの本だ。持ち歩くのに手頃な大きさ。しかも二冊のデザインの落差が「老舗菓子店とそのセカンド店か!」と言いたくなるくらいキャッチーに仕上がっている。さらには函の内側にまで印刷が施されているといった、まさかのおもてなし。これでなんとたったの1800円(14,20€)である。売れない訳がない。これを「お買い得品」だと思わない消費者はいないだろう。このアンソロジーは、日本の俳句に対するフランス人の印象を決める重要な役割を確実に果たしているに違いない。実際、私の周囲にもこの本をもっている人がいるし、アマゾンのジャンル別売り上げランキングでも『俳句』の方は堂々の第一位となっている。

さて肝心の中身はどうなのか。まず『俳句』には、15世紀の山崎宗鑑と荒木田守武から現代の住宅顕信まで、総勢132名447句が収録されていた。芭蕉は生年月日順で数えてエントリ8番だ。片や『20世紀俳句』は1874年生まれの高浜虚子から1973年生まれのたかはししずみまで、総勢136名456句。

次に収録句数を数える。『俳句』は一茶56句、蕪村46句、子規45句、 芭蕉41句、山頭火16句、放哉13句、漱石13句、虚子13句、とここまでが図抜けて多く、日本人の常識とほとんど変わらない。一方『20世紀俳句』の方は個性的で、上位10名が

17句 寺山修司
14句 今井聖・加藤楸邨
13句 金子兜太
12句 星永文夫 ・住宅顕信
11句 冬野虹・黛まどか・水原秋桜子
10句 小澤實

である。ちなみに次点は三鬼と草田男の9句。虚子は5句しかないが『俳句』と『20世紀俳句』の両アンソロジーを足せば全18句になるので十分だろう(但しこの2冊は別売りもされている)。あと、どちらのアンソロジーからも漏れた俳人の顔ぶれが割と面白くて、こんな感じ。

0句 相生垣瓜人・赤尾兜子・芥川龍之介・阿部青鞋・阿部みどり女・池田澄子・今井杏太郎・宇多喜代子・ 大木あまり・小川双々子・ 大野林火・岡井省二・加藤郁乎・加藤かけい・鎌倉左弓・岸本尚毅・京極紀陽・黒田杏子・久保田万太郎・齋藤玄・澤好摩・下村槐太・攝津幸彦・高野ムツオ・竹中宏・筑紫磐井・対馬康子・辻桃子・坪内稔典・夏石番矢・鳴戸奈菜・ 仁平勝・林桂・林田紀音夫・日渡周平・眞鍋呉夫・八田木枯

日本語ウィキの俳人一覧を参照しつつ「ゼロ句俳人」をざっと拾ってみた(ウィキのない俳人はキリがないので割愛)。さほど無理をしなくても、けっこう救済できそうな人数だ。加藤郁乎・攝津幸彦・坪内稔典・夏石番矢あたりは入れないでおく方が困難なように思えるのだが、一体どういった基準なのか。あと個人的には、岡井省二や齋藤玄の翻訳を読んでみたかったと思う。と、こんな風に書いても分かりにくいだろうから、とりあえず1930年以降生まれの俳人で、この2冊に収録されていた俳人を全部書き出してしまう(人名表記は多少自信なし。全く分からなかった名はカタカナにした。なお数字は収録句数)。
1930年代生まれ
有馬朗人(2)
黛執(7)
ヨモギダケイコ(1)
稲畑汀子(1)
河原枇杷男(4)
鷹羽狩行(1)
原裕(1)
鍵和田秞子(4)
ナガシマヤスオ(1)
平松良子(1)
鈴木明(1)
上田五千石(4)
星永文夫(13)
折笠美秋(2)
寺山修司(17)
安井浩司(1)
大串章(2)
高橋睦郎(4)
森田智子(1)
須川陽子(4)

1940年代生まれ
堀本吟(1)
角川春樹(3)
冬野虹(13)
石寒太(1)
吉村侑久代(2)
千葉皓史(5)

1950年代生まれ
秋尾敏(1)
今井聖(14)
白石司子(1)
中原道夫(4)
正木ゆう子(3)
長谷川櫂(5)
木村敏男(4)
小澤實(10)
鈴木伸一(5)
石田郷子(1)
四ッ谷龍(8)
田中裕明(2)
日原傳(2)
藺草慶子(1)
高田正子(2)

1960年代生まれ
櫂未知子(4)
住宅顕信(25)
黛まどか(11)
ヤマグチリュウジ(1)
五島高資(3)
杉浦圭祐(2)

1970年代生まれ
庄野毅(3)
たかはししずみ(1)

以上の人選である。また現在75歳以下(戦中以降)で、両アンソロジー共に収録句のあった俳人は冬野虹、住宅顕信、木村敏子、四ッ谷龍の4名だった。

それにしても、住宅顕信が一人でこんなに幅を利かせていたとは。あまりの想定外である。私も顕信の句は好きだ。しかしわざわざ「日本短詩のアンソロジー」と銘打ったシリーズ本に、彼一人から25句採ってしまう監修者の知性には不安しか感じない。彼を半分にするだけで、前述の「ゼロ句俳人」が1/4も収まるというのに。もっともこの情報収集の手軽な時代に、コリーヌ・アトランほど名の知れた翻訳家が「ゼロ句俳人」を知らないはずはなく、ガリマール社からこの手の選集を出すのに日本人の協力者が皆無だったということも、また「ゼロ句俳人」全員から借用を断られたということも考えられないので、コリーヌ本人が前述俳人の句に対し純粋に「採るに及ばぬ作品」という印象をもったのかもしれない。もしそうだとしたら、たいへん素晴らしい見識である。

今回はこれでおしまい。予想していたより書くことがあって自分でもびっくりした。後半はFNAC(フナック)という文化関連商品&電化製品を扱う全国大型チェーン店のレポと、この調査の総括をするつもり。ではまた来週。



追記1 『ハラキリ』は『美しいグラビア版』とか『偽広告版』とか『漫画版』とか『骨の髄までハラキリ』とか、テーマごとのムックを色々と出版していますが、その内のひとつ『最悪版ハラキリ1960-1985』の紹介文が「どどいつ文庫」というサイトにあります(リンクは貼りません)。

追記2 アンソロジーの発行年月日を記すのを忘れていました。『俳句』が2002年11月13日で、『二十世紀俳句』が2007年12月6日。それから『俳句カウンター便り』の値段は15€(1890円)。グリオはこの『カウンター便り』シリーズで「ブラック・ユーモア賞」という文学賞を獲っていて、去年は映画にもなりました。ちなみに「カウンター便り Brèves de comptoir」という表現のアクチュアルな意味は「盛り場の箴言」くらいの感じです。

2015年3月27日金曜日

●金曜日の川柳〔森井荷十〕樋口由紀子



樋口由紀子






今朝もまた新聞が来てゐる悲し

森井荷十 (もりい・かじゅう) 1885~1948

じんとくる。新聞が届いたから悲しいのではない。新聞が来るということは、今日も一日が始まるということである。眠っているうちにあの世にいくことなく、「今朝もまた」目覚めた。世の中にうまく対処できないで今日もおろおろと生きる。人はそのようにしてでも、それでも生きていかなくてはならない。それが「悲し」なのだろう。

「悲し」に愛しさと哀しさが凝縮されている。真摯に生きているからこそ「悲し」なのだろう。生きるとはなんだろうかと考えさせられ、自分自身が揺らぐような気分になった。荷十は川柳の詩派を標榜した作家たちと「矢車」を創刊し、川柳ポエジー化の先駆けとなった。〈罪の子の暮れて行く日に指を折り〉〈死ねば秋虫の鳴いてる旅の空〉

2015年3月26日木曜日

●『ザジ』と「第二芸術」 直後

『ザジ』と「第二芸術」 直後


福田若之〔ためしがき〕『ザジ』と「第二芸術」



天気から若之へのメール

発表年(第二芸術、ザジ)を追記しておきました。

第二芸術論は、句を並べて選ばせるところが有名だけど、あれはまあ、今となってはねえ。

私はそこよりも「俳壇」だとかサロン的な人間関係に触れたところが興味深い。

で、ひとつ思うのは、「芸術」とか「文学」とか「インテリ」の価値が、当時と今ではまったく違うということで、そこはバイアスがいると思います。

当時の衝撃は、当時若者だった田沼さんの回顧(http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/06/blog-post_8332.html)が、なんかリアル、と思っています。

駄話、ごめん。

で、ついでに。

ウラハイの記事、映画には触れていないけれど、ルイ・マル監督の映画、大好きなんですよね。

原作は読んでない。原作には、映画のラスト、「何をしてたの?」「1日ぶん年をとった」はあるんだろうか?


若之から天気へのメール

どうもこんにちは。

言葉の意味合いの違い、確かにありますよね。フランスでもクノー以前と以後で〈文学〉の意味合いに違いがあるというようなことが、『零度のエクリチュール』にちらっと書いてあったりするんです。もっとも、ここでいう「クノー」は、時期的に『ザジ』よりもっと前ではあるんですけれども(ちなみに、バルトによる『ザジ』論もちゃんとあって、新訳ではタイトルが『批評をめぐる試み』と訳されている『エッセ・クリティック』に収録されています)。
クノーは、書かれた言説における話し言葉の汚染がそのあらゆる部分で可能なことを明確に示そうとしたのであって、その彼の作品においては、文学言語の社会化がエクリチュールのあらゆる層つまりは書記法や語彙――そして、それらほどには注目を浴びないがより重要なもの――語り口を同時にとらえる。(中略)少なくとも、初めて、文学的なのはエクリチュールではなくなっている。〈文学〉は〈形式〉から追い立てられている。すなわち、それはもはやひとつのカテゴリーでしかない。〈文学〉は皮肉である、言語がここにおいて深みのある経験をかたちづくっているから。あるいはむしろ、〈文学〉は、言語についてのひとつの問題提起へと、あからさまに還元されている。実際、〈文学〉とはもはやそれでしかありえない。〔*〕
うーん、言葉の主述関係や修飾関係を厳密に訳そうとするとかえって分かりにくくなっちゃいますね。要約すると、
クノーは、話し言葉を書き言葉にひっきりなしに混ぜこもうとする。すると、表記や言葉や言葉遣いの選択は、さまざまな話し方をする人間たちが暮らす社会のなかでの選択になる。だから、クノーが出てきてはじめて、〈文学〉は書かれるものを規定する唯一無二の〈形式〉としての地位を失って、ひとつのカテゴリーに過ぎないものになる。その結果、もはや、〈文学〉は、皮肉というか、言語についての問題提起のひとつでしかなくなる。
こんな具合でしょうか。

今回は、この〈文学〉という概念自体の違いをあえて利用してみました(その違いのせいで節を二つに区切りたくなったのかもしれません)。

「第二芸術」のなかで、いちばん鋭くて、かつ、いまも生きているのは俳壇の内向的なあり方についての議論(この話題について、ペドロさん、U.J.さんからもコメントをいただきました)、というのは同意です。だからこその『ザジ』、みたいなところもあって。

ただ、俳壇のあり方についても、本格的に議論するなら「第二芸術」から秋桜子の俳論へと場を移す必要があると思います。これは今回ぜひ書いておきたかったことの一つです。「第二芸術」が書きものとしてオリジナルなところは、議論の鋭い部分とは別に、まさしく俳句を第二芸術と呼んだことそれ自体ではないでしょうか。 「第二芸術」は、あらゆる場面で優劣の確定を希求するほとんどリビドーのようなものに貫かれていて、それがあの文章をして俳句を第二芸術と呼ばせた、という感じがします。そこで、今回の「『ザジ』と「第二芸術」」では、そのリビドーのようなものが、優劣のものさしを求めて最終的に「文化国家」にもたれかかってしまうという問題を批判的にとりあげたわけです。

『ザジ』については、僕は映画の方を観ていません。あれをどう映像にするんだろうなあと気にはなりつつ。小説もやっぱり同様のやりとりでオチます。


〔*〕«Queneau a voulu précisément montrer que la contamination parlée du discours écrit était possible dans toutes ses parties et, chez lui, la socialisation du langage littéraire saisit à la fois toutes les couches de l'écriture: la graphie, le lexique - et ce qui est plus important quoique moins spectaculaire -, le débit.... Du moins, pour la première fois, ce n'est pas l'écriture qui est littéraire; la Littérature est repoussée de la Forme: elle n'est plus qu'une catégorie; c'est la Littérature qui est ironie, le langage constituant ici l'expérience profonde. Ou plutôt, la Littérature est ramenée ouvertement à une problématique du langage; effectivement elle ne peut plus être que cela». 
(Roland Barthes, Le Degré zéro de l'écriture (1953), in Roland Barthes, Œuvres complètes, Paris: Seuil, 2002, t.1, pp.220-221)

2015年3月25日水曜日

●水曜日の一句〔森島裕雄〕関悦史



関悦史








レジ台をぶち壊す刻冬の雁  森島裕雄


書店を経営していた作者が店をたたまざるを得なくなり、店の解体工事が始まったときの句。

この句の前後には〈シャッター閉づ冬満月に貫かれ〉〈冬薔薇の棘太かりき閉店す〉〈解体の書棚直立冬木立〉〈レジ台に電動鋸の刃入りぬ寒〉といった句が並ぶ。小なりといえども一つの滅亡である。

文字通り身を切られるような痛みを具体的に詠んでいるという点では〈レジ台に電動鋸の刃入りぬ寒〉の方が踏み込んでいるが、それだけに余裕がなく、「寒」がほぼ心情の直接説明になっている(それしか付けようがないとはいえ)。

掲出句は、下五が「冬の雁」で、空から俯瞰する客観性を伴いつつ《花鳥》が入り、また「刻」の一字にも、いずれ来るとはわかっていた避けようのない事態がついに来たという宿命観のような認識が宿っている。

人の力では如何ともしがたい大きな流れのなかで迎えた破滅の相としてレジ台はぶち壊され、語り手はその局面に立ち会わなければならない。《花鳥》による救いが入っているようでありながら、それはほとんど放心や意識の空白に近い。語り手の心情とは無関係に、必然としてレジ台はぶち壊されるのだ。

「ぶち壊す」という俗語的な表現が、語り手の絶望や憤懣を担う(作者の事情を知らずとも「冬の雁」からは喜んで破壊衝動に身を任せているという読み方は出て来ない。解体業者の立場で詠んでいるという読み方もありうるが、その場合はルーティンワークであり「ぶち壊す」などと力む必要はない)。

「ぶち」がなかった場合、冷厳さや客観性は増すかもしれないが、その後語り手が再起できそうにない雰囲気も出てくる。ちなみに作者の森島氏はこの後50代で営業マンに身を転じ、60代で住宅設備の会社を企業することになる。


句集『みどり書房』(2015.3 金雀枝舎)所収。

2015年3月24日火曜日

〔ためしがき〕 『ザジ』と「第二芸術」 福田若之

〔ためしがき〕
『ザジ』と「第二芸術」

福田若之


桑原武夫「第二芸術――現代俳句について」(1946年発表。本稿での引用は桑原武夫『第二芸術』、講談社、1976年に基づく)について考えることは、いまだに意義のあることに違いないし、その限りで、僕らもまた戦後を――あるいはもはや戦前かもしれないけれど――生きているに違いないと思う。

ただ、よく話題になる、「専門家」と「普通人」の句を混ぜると優劣がつかないというくだり(16-19頁)については、いまさらの感がある。桑原は、俳句は彼のまわりの「同僚や学生など数人のインテリ」には優劣が分からないと言っているに過ぎない。ここで彼らをわざわざ「インテリ」と呼称するところに、桑原の議論の弱さがかえって露呈しているように思う。インテリのサロンで通用しなければ芸術ではないというなら、そんな偏狭なインテリや偏狭な芸術はくだらない。なにより、桑原が仲間うちで通じ合うものだけを「芸術」と認めるというのなら、桑原の「芸術」も、桑原から見た「俳句」と似たようなものだ。

そこから先の議論で桑原がついに現代俳句を「第二芸術」とみなすに至るまでの積み重ねを読むと、それが秋桜子に対する絶対的な信頼に基づいていることが分かる。俳句は実作者にしか理解できないということ(19-20頁)、俳句は近代的な生を表現できずに自然の模倣に終始するということ(28-29頁)、俳句は他のジャンルの芸術の方法に依存しているということ(29-30頁)――現代俳句を第二芸術と位置づけることについて、芸術形式の実質に関わる根本的な理由として提示されているのは、要約すればこれら三つのことがらであるように読めるが、この三つのことがらを桑原が事実として提示できるのは、秋桜子の文章にそのように書いてあるからにすぎない。だから、僕としては、問題はどちらかといえば秋桜子の俳論にあるのではないかと考える。

現代俳句を「第二芸術」と呼ぶに至るまでの桑原の議論から、秋桜子に由来するこれらの箇所を除くと、芭蕉崇拝と結びついた俳壇の党派性およびアカデミズムやマンネリズムの問題が残される。たしかに、僕らは未だに、意識的にも無意識的にも〈芭蕉以後〉の書き手として書かざるをえないだろう。でも、それは盲目的な崇拝ではない。僕らに芭蕉に対する畏敬の念があるとすれば、それは、僕らが芭蕉を崇めているからというよりは、むしろ、僕らが芭蕉に祟られているからといったほうがよいだろう。さまざまのこと思ひ出す桜かな。ほら、桜の木の下には屍体が埋まつてゐる!

こんなふうに、僕らはとりたてて〈芭蕉以後〉であるだけではない。それこそ、たとえば〈桑原武夫以後〉でさえある。僕らは、現在読みうるあらゆるテクストの以後にいる。書くことを引き受けるのは、いつだって、百代の過客のしんがりにいる者にほかならない。

   

ところで、あの「第二芸術――現代俳句について」と名付けられた文字の蛇は、文庫本にして二ページ半のやたらと長い足を持ってるってことを忘れちゃいけない。そこで展開されるのは、文化国家建設のためには第二芸術を若干封鎖しなければならないっていう主張だ(31-33頁)。ここで、あえてザジ的な言い回しをすんなら、文化国家ケツくらえ、って気分になる。どうしてここで唐突にザジがでてくるのかって?

桑原は、こんなふうに書いてる。
〔……〕私はフランス滞在中、インテリの会話さらに下宿の食卓の談話にすら、下手な付合いに劣らぬ言語の芸術的使用を認めることがよくあった。ところがフランス人はその巧妙な言葉のやりとりを楽しんではいるが、これを芸術などとは夢にも思っていない。彼らは芸術というものをもっと高いものと考えている。だからこそ芸術の尊重がある。フランスに生活したことのある人なら、そこではエクリヴァン〔フランス語 ecrivain ものを書く人、著述家〕という言葉が民衆によっていかに敬意をもって発音せられるかを知っているだろう。民衆は芸術を味わう、しかしこれを手軽に作り得るものとは考えていないのだ。日本ではどうか。芸術がこのように軽視されてきたのは、もとより偉大な芸術家の少ないためでもあるが、俳句のごとき誰にも安易に生産されるジャンルが有力に存在したことも大きな理由である。(32頁)
この桑原のフランスをひっくり返すのが、レーモン・クノー『地下鉄のザジ』(1959年)ってわけだ。とはいえ、もちろん、『ザジ』のパリによって「第二芸術」のフランスに対する偏見を暴くとか、そういうことをしたいわけじゃない。そうじゃなくて、『ザジ』のパリと「第二芸術」のフランスには、それぞれのテクストが従っている芸術観がよく表れてて、好対照をなしてるようにも読めるから、『ザジ』から、「第二芸術」に対するひとつの答えを引き出せるんじゃないか、って話。

まず、口語体のエクリチュールの書き手であるクノーのこの小説の大部分は、まさに、登場人物たちの気の利いた言葉のやりとりでできてる。それは必ずしもいわゆる「高尚な」やりとりじゃない(なにしろ「けつ」だ)。おうむのラヴェルデュールは他の作中人物たちに「おしゃべり、おしゃべり、おまえにできるのはそれだけ」って言葉を繰り返し浴びせかける。これはもちろん、おうむ自身がそーゆーふーな奴だってことについての自己言及でもある(ラヴェルデュールは人にそう言われ続けてこのフレーズを覚えてしまったに違いにないんだから)けど、同時に、この小説がそーゆーふーにできてることについての自己言及でもあるだろう。もちろん、『ザジ』の芸術性を会話だけに還元してしまうわけにはいかないけど、この小説が、日常会話に芸術の輝きを見出してることは間違いないと思う。

ザジの伯父さんのガブリエルは、生活のために、チュチュを着てゲイの集まるクラブで踊ってんだけど、どれほどばかにされたって、胸を張ってそれを芸術だと主張しつづける。彼には芸術家としての自負がある。『ザジ』を読むとき、僕はそのガブリエルの思いに惹かれる。たしかに、ガブリエルの芸術だって、桑原にとっての「芸術」と同じで、誰にも手軽にできるってもんじゃない。でも、それは桑原の言う「芸術」よりも、人々のずっと近くにある。っていうかむしろ、『ザジ』のパリでは、人々が芸術っていうひとつの状況のなかに置かれてるって感じがする。

もし国家のために芸術を枠づけるってんなら、俳句だけが第二なわけじゃない。桑原が「文化国家において、芸術の尊重とその一般への普及の必要なることはいうまでもない。しかし、新しい文化は芸術中心的に構想されるべきではなく、また尊重普及されるべき芸術の芸術性の理解がまずなければならない」(31頁)と書くとき、彼は文化国家に対して芸術全体を第二の立場に置いちまってる。まるでプラトンみたいに。芸術の価値を広い意味での模倣の問題から語りがちなとことか、桑原はプラトニズムっぽいとこがある。けど、人はどうして、国家と芸術とを縦に重ねて置きたがるんだろう。どうして、人々じゃなくて国家を芸術に触らせたがるんだろう。芸術は国家の重たいけつを支えるためにあるわけじゃない。パリで「ナポレオンケツくらえ」って言うんだって芸術だ。

芸術を、ふかしんのせーいきから、びじゅつかんてきなこーしょーさから、解き放つこと。地下鉄を地下からひっぱりだすこと、もしくは、それと知らずに地下鉄に乗っちまうこと。 そのあとで、芸術を第一とか第二とか言っても、なんかむなしいじゃんか。

2015年3月23日月曜日

●月曜日の一句〔唐澤春城〕相子智恵



相子智恵






任終へし仮設トイレや暮れかぬる  唐澤春城

句集『安曇野』(2015.1 角川学芸出版)より

〈仮設トイレ〉というものが主役になる俳句など、ほとんど見たことがない。屋外で行われたイベントに使われたものだろうか。あるいは工事現場か。〈任終へし〉だから、それらの行事や建設はつつがなく終わったのだろう。人々が帰り、喧騒が過ぎ去った春の夕暮れ、役目を終えた仮設トイレだけが暮れきらない春の日ざしに照らされ、ポツンと撤去を待っている。仮設トイレという、いかにも詩になりにくい素材に情緒が生まれている。

春の日暮れまでの〈暮れかぬる〉というゆったりとした時間が、〈任終へし〉と響きあって「安堵感」を醸し出す。この安堵感からは、たまたま通りすがりに仮設トイレを見かけた通行人としての視点ではなく、仮設トイレの「任」にかかわった人の視点と感慨を感じる。たとえばイベントの主催者が会場の後片付けの最後に、仮設トイレの撤去を行おうとしているような感じである。これが夏、秋、冬など、別の季節の夕暮れ時であったなら、このような安堵感と充実感は感じられないだろう。

2015年3月21日土曜日

【みみず・ぶっくす散歩篇 1】 フランスの本屋で「俳句」をさがしてみた〜前書き。 小津夜景

【みみず・ぶっくす散歩篇 1】 
フランスの本屋で「俳句」をさがしてみた〜前書き。

小津夜景



一年半ほど前から、思いがけず俳句を書くようになったものの、海外に住んでいるせいか、まだ一度も日本人と俳句の話をしたことがない。私自身に関して言えば、それまで俳句のことを考えた事すらなかったのだから当然なのだが、他人から話を振られたこともないというのは、考えようによっては凄いことである。

なぜ凄いと思うのかというと、今住んでいる国フランスでは俳句の話をする人をたまに見かけるからだ。15年ほど前パリにいた頃、知人の男性に「日本は、鳥取ってとこに砂漠があるよ」と教えたことがあった(ちょっとフカした)。すると彼は、

「トットリ? ああ、尾崎放哉の故郷ね」

とすぐさま返してきた。

え? 放哉の故郷? 急にそんなこと言われても。そんなのほとんどの日本人が知らないだろう。というか、放哉その人を知らない人の方が圧倒的に多いはずだ。学校で習ったことなんて、大人になったらほとんど忘れてしまうんだし。

そう思いつつ、なんとも返答しようのない私は「ふうん…」とあいまいに頷いてみせたのだったが、とにもかくにもこれが生まれて初めて私が人とした、いやちがう、された俳句の話となった。

現在住んでいるニースでも、たまに俳句の話をされることがある(私は言うことがないので黙って聞いている)。子供の頃、学校で俳句を書いたという人もいる。私の師匠(専業武術家・50歳男性)は良寛が好きなのだそうだ。さらには友人にまで俳句を好む者がちらほら。私の友人というのは屋内・屋外を問わず身体をつかう職業の者ばかりで、日頃から何かを読んだり書いたりするタイプでもない。にも関わらず、なぜかみんな私より俳句に詳しいのである。ひょっとしてフランスは、ある文脈において日本よりも俳句が浸透しているのだろうか? 柔道みたいに? まさか。

実は自分が俳句を書くようになってから、彼らが俳句に興味をもったきかっけを知りたくなって「どういうルートで俳句を好きになったの?」と尋ねてみたことがある。彼らの回答は、

1.  エズラ・パウンド 
2.  ボブ・ディラン
3.  ケルアック
4.  ブコウスキー
5.  ちびっこ自然観察会
6.  007は2度死ぬ

といった風で(もっとあるが割愛)、一人としてフルクサスとか、ウリポとか、アンリ・ミショーとか、ロラン・バルトとか、いわゆるオシャレでちょいアカ(デミック)なルートから入った者はいなかった。禅などのジャポニズム・ルートもゼロ。

どうやら読書家でもなければ日本趣味もない「ふつうの人」にとっては、カウンター・カルチャーや一部の遊興娯楽あたりが、俳句に興味をもつ身近な現場となるらしい。

もっともジャポニズム(オリエンタリズム・ルート)については、私に対して言わないだけで、きっと入口としてはあるだろうな、と秘かに思うことはある。全くの憶測だけど。でも、禅だの何だのといったタームを下手に持ち出すとどうしても話が紋切り型になるし、場合によっては日本人をバカにしているようにも聞こえて、サイードのいう意味での差別主義者と勘違いされかねないから黙っておこう……と「無意識に」考える人がいても不思議じゃない。

それはそうと、いま私がここに書いている話はただの枕で、まるで意味のないたわごとだと思ってもらえるとすごく嬉しい。というのも個人的体験、なかでも外国ネタは「絶対信用してはいけない」と断言したほうが無難なくらい話にバイアスがかかるものだからだ。人は平生、自分の知っている世界の外側の果てしなさを大変デリケートに感受しつつ生きているものだが、なぜか話題が外国ネタになると、いきなりその種の想像力が話す方にも聞く方にも欠落するシチュエーションが頻発する(いま私は「どこそこの国はこんなに意識が高い/低い」系の、よくある「文化的」ディスクールに想いを馳せつつ書いてます)。そういうの、ほんとに訳がわからない。いやもちろん、話す人あるいは聞く人に「他者を意味づけしたい欲望」がみなぎっているせいでそうなることは重々承知しているのだが、とにかく恥ずかしくて嫌だ。そういうわけでこの前書きも超ぞんざいに、ほんのささやかな体験としてどころかさらにそれ以下の扱いで、限りなく透明に近い空気くらいに思って眺めて下さい。

とはいえ勿論、今回の【みみず・ぶっくす】のテーマを「フランスと俳句」とした以上、その関係を意味づけしようとする努力は避けられない。ただしできるかぎりニュートラルにやりたい。そこで俳人っぽく客観写生に徹し、ニースの本屋に行ってどのくらい俳句の本を買えるのかを実際に調査してみることにした。結論を先に言うと、現場では私の予想を上回る刺激的なことが起こっていたので、次回はそれを写真つきでレポしてみたいと思う。



それではまた。

あ!

ここで次週にするつもりだったのに、フランスでの俳句体験で、ひとつ印象的な話を思い出してしまった。 

どんな話かというと、一昨年の秋、私がよく聴いているラジオ番組に、なんと四ッ谷龍氏が出演したことがあったのだ。もっともその頃の私はまだ氏の名前を知らず、話にも別段興味をもたなかったのだが、のちに御本人のサイトを見つけ、中塚一碧楼のフランス語訳を読んで感動し、友人にも見せて回ったらはたして大盛り上がりとなった。ひとことで言えば「ぐっとくる」翻訳。そして、これは多少言いにくいことではあるが、原作よりもイカしている(そういうことは、ままある)。なかでも「赤ん坊髪生えてうまれ来しぞ夜明け」の訳、

Un bébé est venu au monde
Portant des cheveux.
Aube.


はガツンと素晴らしい、と思う。

ではまた来週の本編で。





追記1 これを書いている途中で、日本人とも一度だけ俳句の話をしたことがあるのを思い出した。西原天気さんとお会いした時だ。しかし私は「俳句」という言葉を使うのが恥ずかしかったので、ほとんど口にしなかった(そしてなぜか西原さんもそのようだった)。

追記2 本文中のラジオ番組(CARNET NOMADE)はここで聴取可能。四ッ谷龍さんの出演は25分30秒あたりから(日本語です)。
http://www.franceculture.fr/player/reecouter?play=4668258

2015年3月20日金曜日

●金曜日の川柳〔斉藤幸男〕樋口由紀子



樋口由紀子






何処でやろうがテレビで見ますオリンピック

斉藤幸男 (さいとう・ゆきお) 1936~2015

おばさん(おばあさん)同士の会話でよく耳にするのが、「リニアには乗れるかな。大阪までは無理やけど、名古屋までならなんとかいけそうな気がする。まあ、東京オリンピックはだいじょうぶやろ」と。東京オリンピックがオチになる。元気だからこそ言えることである。東京オリンピックは2020年、中央新幹線の首都圏から中京圏の開業予定は2027年、大阪までは2045年。自分の年齢で計算する。

2013年にオリンピックの東京開催が決まった。開催が決まった瞬間に飛び上がって喜ぶ招致メンバーの姿がテレビに写し出されたときに大きな違和を感じたことを思い出した。掲句はその時に書かれた時事川柳である。確かにオリンピックが地球の裏側で開かれようが、たとえ日本で開かれようがほとんどの人はテレビ観戦である。作者は東京オリンピックどころか、今春の桜も見ることなくあの世に旅立ってしまった。

〈酔っ払いにまじめに話す酔っ払い〉〈君が代の二番歌ったことがない〉〈風が来て次のページをめくられる〉 「触光」35号(2013年12月刊)収録。

2015年3月18日水曜日

●水曜日の一句〔牛嶋尚子〕関悦史



関悦史








城壁の長き歳月秋の蜂  牛嶋尚子


日本の城で城壁というと、石垣と漆喰だろう。目の前の城址に感嘆している観光客目線の句だが、史跡を前にして建設から今までの歳月を思い、その歳月に耐えて残っている現物への感動が新たになるという、心の往復運動のようなものがすんなり句にあらわれている。

「秋の蜂」は季語としては衰えはじめた蜂のイメージになるので、もはや戦に用立てられることもない古い城の姿、滅びの要素に合っているし、秋の穏やかな日差しといったものも連想される。また城が実際に戦に使われていた時代にも秋の蜂はいたであろうことを思うと、その生命感を媒介にして、往時の武士たちや城郭建築そのものの生気に触れているような感覚もある。

ただし実際に山の中の城址などに立ち入るとなると、秋はスズメバチが狂暴化する繁殖期でもあり、注意が必要となる。

軍事施設から文化財的なものへと変容し、審美的なまなざしを受ける城壁と、逆に季語のなかでは穏やかな衰滅のイメージを帯びながら実際には獰猛な場合もある秋の蜂。双方が事実とイメージの食い違いを含んでおり、それが句のなかで交差しているのである。

一見、季語的なイメージの美しさとそれへの思い入れのみで穏やかにまとめられた句のようだが、自然・人為の荒っぽい手応えも、素朴な実感を通して含み込まれている。


句集『輪飾』(2015.2 角川学芸出版)所収。

2015年3月17日火曜日

〔ためしがき〕 マディ・ウォーターズが歌う原爆 福田若之

〔ためしがき〕
マディ・ウォーターズが歌う原爆

福田若之


マディ・ウォーターズといえば、シカゴ・ブルースの歴史で最も重要な巨人の一人に違いないけれど、彼の歌った"Atomic Bomb Blues"――「原子爆弾のブルース」――については、あまり知られていないようだ。この曲は、Muddy Waters: Chicago Blues Legendという8枚組のCDセットの二枚目に収録されている。

この曲、歌とピアノがなかなか聴かせてくれるのだけど、それにもまして、詞が衝撃的だった。
It was early one morning, when all the good work was done
It was early one morning, when all the good work was done
And that big bird was loaded, with that awful atomic bomb

Wrote my baby, I was behind the risin' sun
Wrote my baby, I was behind the risin' sun
I told her, don't be uneasy, because I'm behind the atomic bomb

Nation after nation, was near and far away
Nation after nation, was near and far away
Well, they soon got the news, and there where they would stay

Over in east Japan, you know, they let down and cried
Over in east Japan, you know, they let down and cried
And poor Tojo, had to find a place to hide
和訳するとこんな具合:
それはある朝早くのことだった、あらゆる努力がなされていた
それはある朝早くのことだった、あらゆる努力がなされていた
そして、あの大きな鳥は原子爆弾を載せていたんだ

恋人に手紙を書いたんだ、俺は昇る太陽について行くんだって
恋人に手紙を書いたんだ、俺は昇る太陽について行くんだって
俺は彼女に、心配はいらないと伝えた、だって俺は原子爆弾について行くんだからってさ

たくさんの人たちが、近くにも遠くにもいた
たくさんの人たちが、近くにも遠くにもいた
そんでもって、彼らはすぐに知らせを受けたんだ、そこは自分たちがいたかもしれなかった場所だった
日本の東側ぜんぶで、知っての通り、彼らは落ち込んで泣いた
日本の東側ぜんぶで、知っての通り、彼らは落ち込んで泣いた
そんで、かわいそうな東條は、隠れるための場所を探さなきゃならなかったのさ
この歌の前半で、原子爆弾と戦闘機は太陽と鳥になる。太陽と鳥は古代の神話の世界的なモチーフだ(たとえば、エジプト、ギリシャ、アンデス、中国、そして日本)。近代の戦争は、この隠喩によってたちまち神話へと近づく。それは、ある時代に特別なものとしての原子爆弾の投下を、不滅のイメージで塗り替えることにほかならない(原子爆弾の、少なくとも「投下」は完全に過去のものだろう。もし今後、万が一、核兵器が使われてしまうことがあったとしても、そのときは長距離ミサイルか何かに搭載されるに違いない)。

この歌を聴いていると、数千年後の未来人たちは次のように伝え聞くことになるのかもしれないと思わせる:二つ目の千年紀の終わり近くに太陽を鷲掴みにした鳥に乗って英雄ないしは悪魔がやってきて人々を塩の柱に変えた、とかなんとか。しかしながら、「原子爆弾のブルース」はそうした神話の寸前で踏みとどまっている。この歌は、男を(戦勝国の立場から)英雄と称えることもなければ、(敗戦国の立場から)悪魔と罵ることもない。それは、この歌が物語をこの男自身の視点から語るからだ。「俺」と言うことによって、それについてのあらゆる価値判断が免除されている。それをするのは聴く側ということになる。

「俺」についてはそうであるとして、では、他の人物についてはどうか。たしかに彼は東條英機のことを「かわいそうpoor」だという。とはいえ、これも、故人について語るときの極めて修辞的な形容にとどまる。「かわいそう」は、ただこの歌の現在における彼の死を伝えているに過ぎない。

かくして、「原子爆弾のブルース」は神話的な色彩を帯びながらも、出来事をただ語るだけにとどめおく。だから、この歌は神話的でありながら決して神話そのものではなく、あくまでも叙事詩なのだといえる。

ところで、この歌は、価値について語らない代わりに、別のことにこだわっている。それが、場所だ。「俺」は、原子爆弾のうしろにbehindいる。人々は近くや遠くにいる。彼らは日本の東側でそこは自分たちがいたかもしれなかった場所だったことを知って悲しみに暮れる。そして、東條は隠れるための場所を探す。

僕らがいるということは、どこかにいるということだ。この歌はそれを前提にしている。そのことは、この歌の主題である原子爆弾が、僕らの生きる場所それ自体をまるごと消失させてしまう兵器だったことと無関係ではないだろう。

プアであるとは、すなわち、持たざる者であるということだ。死者であることがすなわちプアでもあるのだとしたら、それは、彼が生きるための場所をもはや持たないからに違いない。

2015年3月16日月曜日

●月曜日の一句〔柴田佐知子〕相子智恵



相子智恵






伸ぶるだけ首を伸ばして鳥帰る  柴田佐知子

『ガニメデ』62号 「雪女」五〇句詠(2014.12 銅林社)より

秋から冬にかけて渡ってきて日本で越冬した鳥たちが、春に北方へと帰ってゆく。長い空の旅の始まりである。

白鳥のような首の長い鳥の群れなのだろう。〈伸ぶるだけ首を伸ばして〉は実景なのだが、鳥の必死さや、早く帰りたいという思いまでもが伝わってくるようで妙に切ない。ぐっと首を前に伸ばして、鳥たちは故郷へ、故郷へと空を急ぐのである。

眞鍋呉夫に「月の前肢をそろへて雁わたる」という句がある(句集『月魄』)。単純化された日本画的な美しさがありつつ〈肢をそろへて〉の律儀さが不思議と哀しい句だ。掲句も同様に、鳥の姿の描写が、ただひたすら生きることの哀しみへとつながっている。

2015年3月14日土曜日

【みみず・ぶっくす 18】 西瓜糖カンフーの日々⑶ 小津夜景

【みみず・ぶっくす 18】 
西瓜糖カンフーの日々⑶ 小津夜景






 こんばんは。

 今日は巨大なクッキーを食べました。アイデスに逝ってきた姉弟子が「おみやげだよ。にゃーん」と嬉しそうに呉れた西瓜糖クッキーです。

 そのクッキーを見た瞬間、わたしは本当に驚きました。ところが姉弟子はそんなわたしに構わず、手にもっていたもう一枚のクッキーをむしゃむしゃ食べてしまったものだから、わたしは二度驚いてしまいました。

 だって西瓜糖クッキーって、正真正銘の骨なんだもん。

 わたしは西瓜糖クッキー(という名前のただの骨)をぽりぽり食べながら、しばらく姉弟子と過ごしました。姉弟子の問わず語りによれば、アイデスの住人たちは死者を想うとき、それを直接《思い出す》ことをしません。彼らは、死者をそのまま《思い出す》のではなく、まずそれを《食べ》る。

 食べる? 骨を? なんで? この話を聞いた姉弟子が思わずぽかんとしていると、彼らはにこやかにこう語ったそうです「生者と死者とを隔てることになんの意味があるのかわからないから、われわれは、それらの意味を取り去ることにしたんだよ。そして意味を取り去ったその日から、生と死を構造することもまた無くなったんだ」

 アイデスの住人たちが、骨を食べるようになった本当の理由はわかりません(姉弟子は、とても過酷な闘争史があったんじゃないかな、と言います)。それでもこの習慣が、ある日彼らがこう考えた時に始まったことだけは、少なくとも確かなようです。問①。人は現実を回想することができるか。答①。できない。現実と人とは、回想によってではなく没頭によってしか、つまり生きることによってしか関係をもちえない。問②。人は死者を思い出すことができるか。答②。できるわけがない。

 わたしは黙って姉弟子の話を聴いていました。

 できるわけがない。なぜなら死者とはここにある現実であり、またそうである以上《思い出す》対象とならないのだから。われわれの《回想》できるものは《この死》でなく、いつだって《あの生》にすぎないのだから。そう、だからこそ、われわれはアイデスを満たしている《この死》の現実と深く関わるために、とてもおいしい西瓜糖を、おのおのの心に叶う場所で栽培し、それを毎日《食べる》ことにしよう。そして西瓜糖の、そのやさしい香りや味に恍惚と酔いしれつつ《この死の現実に没頭》することで《あの生の回想を実現》しよう。

 そこで姉弟子は口を閉じました。そしてアイデスの住人たちが食事している写真を見せてくれました。

 わたしは、そのとてつもなく静かな写真を眺めながら、正直こんな風に思いました。

 アイデスの住人たちは《この死》の記号である、西瓜糖という名の骨を味わいそこねている。没頭しそこねている。死者を思い出しそこねている。だって彼らは結局、その骨をそのまま排泄するのだから。

 けれども彼らの《この死の現実への没頭》が《あの生の回想を実現》するという希望にのみ支えられている限り、彼らはこのような奇妙な食事で、おのれの臓腑をどうしても満たす必要があるのだろう。

 彼らの想う《あの生》とは、つまりは実現された汚物に過ぎない(きっと誰の心の中にもいっぱいある、キラキラしたゴミと同じように)。とはいえ彼らは、そんな輝くゴミからこの現実をはぐくもうと試みている。そしてはぐくまれるべきこの現実とは、まぎれもなく触れることのできないものたちへの憧れだった。

 触れることのできないものたちへの憧れ。

 わたしたちは、いつも何かを《思い出したい》。だからわたしたちは食べ、あるいは眠る。あるいはずっと眠らずに起きている。あるいは夜の散歩に出る。そしてそのたび食べそこね、眠りそこね、起きそこね、歩きそこね、途方に暮れて夜空の星を見上げ、そしてあいかわらずの圧倒的な忘却の中、甘いクッキーで自分を慰めるのだ。

 わたしは姉弟子に「クッキーありがとう。おいしかった。また明日ね」と言うと、無闘派修行のため、一人夜の講堂に向かいました。暗い夜道を抜けて。いや違うな。とても甘い、星いっぱいの夜空をくぐって。


返り血咲く講堂の扉にわが触れぬ

赤いメット白いメットと討ちにけり

羽衣を抱き心地のおシャカかな

白骨となりそこねてや夢のハム

花の山死なばおまへも同門か

全身を全霊としてつばくらめ

しら梅に忍者ばかりとなりにけり

もう夢の念力がねえ眠れねえ

ぶつ潰してもぶつ潰しても光

爆音の不眠だ

2015年3月13日金曜日

●金曜日の川柳〔矢須岡信〕樋口由紀子



樋口由紀子






鼾かくので図書館には行けぬ

矢須岡信 (やすおか・しん) 1929~2011

最初から寝ようと思って図書館に行くのではない。しかし、本を読んだり、調べものしているとついうとうとしてしまう。静かだし、空調も効いていて、図書館は眠くなる絶好の場所なのである。うとうとするだけならまだ問題はない。困ったことに寝ると自然に鼾をかいてしまう。いかんせん、寝ているからどうすることもできない。だから、図書館には行けない。

〈図書館→寝る→鼾→行けない〉という構図ができあがり、ユーモアとペーソスをこめて結論に導く。まったく関係がなさそうな事柄に進めていくというほどのことではなく、読み手も手品の種はうすうすわかっているのだが、そこに好意を持って納得する。

〈とっておきの話が母の忌にこぼれ〉〈働いたくらいで金持ちにはなれぬ〉〈うしろに目が付いてないのは救いだな〉〈偉い人になろうと思ったことがある〉 『数え歌』(2000年刊)所収。 

2015年3月11日水曜日

●水曜日の一句〔佐藤文香〕関悦史



関悦史








半月や未来のやうにスニーカー  佐藤文香


活動的なデザインのスニーカーに対する「未来のやうに」の直喩が意外であざやか。

ここにはスニーカーを身に着けること、及び身に着けた自分が見るであろう世界への期待感もあるといえばあるが、関心はさしあたり「半月」と照応する物品としてのスニーカーに集中しており、無機物であるスニーカーから性的といってもいいような官能性が引き出されている。

これは広告写真に近い提示の仕方であり、「未来のやうに」の発想の飛び方も、コピーライティングに近いところがあるのかもしれない。

いずれにせよ周囲の自然や事物を穏やかに、あるいは厳しく、あるいは自分を稀薄化して受容・観察するタイプの写生句ではない。作者の物品に対する反射的感応が、物品そのものに潜んでいた「未来」性を弾き出しているような句である。そしてその勢いが、退嬰的なフェティシズムから遠く離れた時空に「スニーカー」自体をも飛ばすことになるのである。

「半月」にも必然性がある。有季定型句として見れば季節は秋であり、「スニーカー」に即した冷やかさの感覚が生まれる(「春月」であったらモチーフが揃いすぎてしまって句にならない)。そして、にもかかわらず「満月」や「三日月」と違って動きを呼び込むのである。欠けた半分を埋めるのは「未来」であり「スニーカー」を履く語り手自身である。「半月」に照らされた「スニーカー」の無機的な艶やかさが、語り手当人にも及ぶ。


『君に目があり見開かれ』(2014.11 港の人)所収。

2015年3月10日火曜日

〔ためしがき〕 『ラインズ』のほころび 福田若之

〔ためしがき〕
『ラインズ』のほころび

福田若之


ティム・インゴルド『ラインズ――線の文化史』(工藤晋訳、左右社、2014年)はとても興味深い具体例に溢れていて、全体に楽しめる本ではある。どんな本なのか、序論の最初の段落をここに引いておこう。
歩くこと、織ること、観察すること、歌うこと、物語ること、描くこと、書くこと。これらに共通しているのは何か? それは、こうしたすべてが何らかのラインに沿って進行するということである。私は本書において、lineについての比較人類学とでも呼べそうなものの土台をつくろうと思う。おそらくそれは未だかつてない試みだろう。私がこのアイディアを友人や同僚に漏らしたとき、最初はきまって狐につままれたような顔をされたものだった。ごめん、よく聞き取れなかったのかな、ライオンの話? 「違うよ、ライオンじゃなくてラインだ」と私はよく言い直した。彼らの当惑はもっともだった。ラインだって? そんなものは、どうみても人の注意をひくような対象ではない。視覚芸術、音楽、ダンス、発話、記述、技、物質文化についての人類学的研究なら話はわかるが、ラインの生産と意味についての研究なんて聞いたこともない。しかしあらゆる場所にラインは存在するということに気づくのはわけもないことだろう。歩き、話し、身ぶりでものを伝える生物である人間は、あらゆる場所でラインを生み出す。ラインの制作line-makingは、声や手足の使用――発話や身ぶり、移動の際の――と同じように至るところで見られるばかりでなく、人間の日常的活動のあらゆる場面を包括している。したがって、さまざまなラインはひとつの研究領域をなしているのだ。本書が示そうとするのはそうした領域である。(17頁)
この段落を読んだとき、僕には、ロラン・バルトが俳句を(好んで線ligneとは書かないにしても)描線traitとして語っていたこと、そして、そのバルトが、日本の街路で偶然に出会う出来事すべてに俳句を見出していたことが思い出されたのだった。だから、僕としては、線が「どうみても人の注意をひくような対象ではない」ということのほうが、かえって驚きだったぐらいだ。そこに包括的な思考が見出されうるのは、当然のことに思われた。

とはいえ、問題はそこではない。問題なのは、「あらゆる場所にラインは存在する」という捉え方、それが「人間の日常的活動のあらゆる場面を包括している」とする捉え方なのである。インゴルドはさらに「そもそも人々は事物ではなくラインで構成される世界に住んでいる」(23頁)、「あらゆるモノはラインが集ったものである」(23頁、原文では傍点で強調されている)としている。 ここまで来ると、どうにも疑わしい。たしかに、超ひも理論によれば全てのモノがそれで形作られているというあのひもを、極めて短いラインと見なすなら、そうも言えなくはないとしても。

横から突いても仕方がない。結局のところ、『ラインズ』それ自体のうちに、こうした考えが抱え込むほころびが現れてしまっているように感じられることを述べようと思う。問題となるのは、さしあたり、インゴルドが巧みに防衛線を張っている「点線dotted line――線ならぬ線」(20頁)ではない。このためしがきで問題にするのは、むしろ、彼の議論でより重大な役割を果たしているもの、すなわち、印刷と押印だ。

まず、押印と印刷はインゴルドの議論において、どのような役割を与えられているのかを示しておこう。インゴルドはウォルター・オング『声の文化と文字の文化』に対する反論として「刻印という技法こそが、身ぶりと軌跡とのつながりを断ち切り、文字や漢字を不動のものとし、そうすることで、言葉とは技術によって組み立てられ配置されるが書き込まれるものではない、という今日の認識の基礎を築いたのである」(214頁)と主張する。そして、このときに、インゴルドの主張には「印刷される文字や漢字の形態が筆写ではなく、石や木や金属への刻印に起源をもつという事実」(213頁)が不可欠になる。では、 印刷と押印が、インゴルドにとって、なぜここで不可欠になるのか。
私たちは著者について、草稿という彼の仕事の成果にいまだに引きずられて、著者は書く、という言い方をするが、それは明らかに彼が行わないことである。もちろん彼はアイディアを練るために紙とペンを使うだろう。しかしその走り書きは、自分に語りかける、書斎の壁際をうろうろ歩きまわる、といった作品製作に伴うさまざまな行動のほんの一部に過ぎないし、それらの行動すべては印刷されたページに完成作品が転写される前段階である。そして、著者が記述しないように、印刷者もまた記述することはない。というのは、書くことは刻印の過程であるが、印刷とは押印〔原文では二字を傍点で強調――福田注〕――あらかじめ組み立てられたテクストを、それを受容する準備ができている空虚な表面へと押印する――の過程だからだ。手を用いる過程や機械を用いる過程にいかなる身体動作gestureが含まれていようとも、それらの身体動作は、結果として生産される文字記号の形姿とはまったく関係ないのである。(55頁)
インゴルドは、前もって印刷と押印による痕跡には筆跡がないと捉えているからこそ、後に、それを作り出す刻印が身ぶりと軌跡とのつながりを断ち切ったのだと主張できるのだ。

しかし、印刷や押印による痕跡に筆跡がないということは、何を意味しているだろうか。それが示しているのは、これらの痕跡が、線的なものとしてよりはむしろ面的なもの(くどくどしくも「的なもの」というのは、それが厳密に線でもなければ厳密に面でもないだろうからだ)として捉えられることによって、はじめて積極的な意味を持つものだということではないだろうか。その痕跡に筆跡がないのは、それが一挙に面的なものとして姿を現すからだ。

印刷と押印が『ラインズ』において特別な意味を持つのは、したがって必然だといえる。それは、線への還元が可能ではあるとしても不当に感じられる限りにおいて、そもそもインゴルドが前提としていた認識を逸れるものだったのだ。ここに、『ラインズ』のほころびが――インゴルドが示した複数の線的なものたちのほころびが――ある。インゴルドは、線という認識を面という認識以前の原初的な認識であるように語っているけれども、このことは、あらかじめ線という認識を前提としているインゴルドには、主張はできても証明はできないことだ。まさしく線という認識がインゴルドにとって原初的な認識であるためにこそ、彼の文章の中で、それは証明される以前の公理ないしは公準として扱われざるをえない。

こうして、この世界のあらゆるモノが線によって構成されていて、僕らの行動のすべてに線が存在するというのはひとつの認識に過ぎないと示すことができた。もう一度、まわりを見回してみよう。たしかに、線はいたるところに存在しているように見える。しかし、厳密には、線が存在するのではなく、もしそれが望みなら線としても認識可能なもの、線に還元可能なものが存在するだけだ。この世界においては、あらゆるものは、あらゆる運動は、あらゆる軌跡は、少なくとも三次元以上の空間的な広がりを伴っている。それを線に還元することは、古典力学的なモデル化にほかならない。判は立体でなければ彫ることができないし、それを平面の上から押しつけることもできない。

ところで、こんな話をここまで書いてきたのは、実のところ、それが『ラインズ』だけの問題ではないように思われたからだった。『ラインズ』は、インゴルドのこの認識のせいで、ほかの議論に対してやっかいな絡まり方をしてしまっているように感じられるのだ。インゴルドは『ラインズ』の企図に対するポストコロニアリズムの立場からの批判を次のように予期している。
西洋近代社会では歴史や世代や時間の経過を理解する方法は本質的に線状的〔原文では三字に「リニア」とルビ――福田注〕である、と人類学者はよく主張する。彼らはあまりに頑なにそう思い込んでいるために、非西洋人の生活のなかに線状性を見出そうとする試みはどんなものでも、せいぜい穏やかな自民族中心主義だと片づけられ、果ては、西洋世界が外の世界に自らの方針〔原文では二字に「ライン」とルビ――福田注〕を押しつけた元凶である植民地主義的占領計画と共謀しているとのそしりを受ける。(19頁)
しかし、こうした仮想敵に対して、「植民地主義とは、非線状的な世界に線状性を押しつける行為ではなく、ひとつのラインに別のラインを押しつける行為である」(19頁)とする主張は、それはそれでひとつの反論として説得力はあるにしても、なお充分ではないように感じられる。非線状的な世界に線状性を押しつける行為は、もちろん洋の東西を問わず、普遍的になされている。『ラインズ』に豊富に示されているのはまさしくそうした実例なのだが、すべてがあらかじめ線として存在しているとするインゴルドには、そのことが認識できない。問題は、ほかならぬポストコロニアリストこそが、西洋の文化にだけ線状性を押しつけることで、かえってそれを特権化していることであるにもかかわらず、インゴルドの認識のもとでは、その核心を突くことができない。

では、『ラインズ』はこのほころびのために自ずからほどけてしまうのだろうか? そうではない。世界に対する線状性の押しつけが、恒常的かつ普遍的に、人間の営みとしてなされている以上、それを包括するインゴルドの方法が極めて有効であることに疑いの余地はないだろう。――方法? そうだ。たしかに、線は、人の注意をひくような対象ではない。それはむしろ、ひとつの方法である。


2015年3月9日月曜日

●月曜日の一句〔渡辺誠一郎〕相子智恵



相子智恵






春光の天児こそは波に乗れ  渡辺誠一郎

句集『地祇』(2014.10 銀蛾舎)より

3月11日で東日本大震災から4年になる。作者は宮城県塩釜市の人で「小熊座」編集長。あとがきに「震災詠もなんとか作ったが、現実を前に筆が折れる思いだった」「震災も四年過ぎたところで、なんとか一集になった」とある。

〈天児〉は「あまがつ」と読み、幼児の災難を除くために、形代として身代わりに凶事を移し負わせるお守りの木偶人形のことだ。平安時代、神事の祓に用いられた。

天児こそは、どうか波に飲まれることなく、波に乗っていてほしい。輝く春の光を受けてほしいという願いは、子どもこそは生きてほしい、災難を除いてほしい。また亡くなった子どもの魂も、どうか救済されてほしいという悲痛な願いだろう。震災では多くの子どもたちが亡くなった。

天児という平安の神事の雅なもの、春の光のやわらかさ……耐えがたい現実を体験した人が、現実をそのまま書くというアプローチを取らずに、神に捧げる純粋な願いの詩を書いた。美しいからこそ哀しい、忘れられない一句である。

2015年3月7日土曜日

【みみず・ぶっくす 17】 わたしが物音を愛する唯一の理由 小津夜景

【みみず・ぶっくす 17】 
わたしが物音を愛する唯一の理由 小津夜景






 物音が好きで、いつも聴いている。音楽でも雑音でもなく。物音。何かが来た!と驚かされる感じがほんとうに素敵だ。物音が立つと、いばらの中で踊るような苦しみと同時に、世界がばらいろに染まる幸福に満たされ、私はそっとうちふるえる。

 この間は、ひさしぶりに職場の図書室でとびきり素晴らしい物音に出くわした。その瞬間、私はものすごい速さでその音を振り返つた。が、そこに居たのはただの見慣れた同僚で、しかも私がばらいろに驚いた顔をしているものだから向こうはもっと驚いて、自販機で紙コップのカプチーノを購入するとすぐさま、そそくさと逃げるように出て行ってしまった。

 私は図書室にひとり残された。

 ……。

 わたしに始めてひとりのひとが与えられたときに
 わたしはただ世界の物音ばかりを聴いていた

という詩が、たしかあった。

 カナリア株式会社と聞いて
 想ひ出すものの総てを想はずにゐた

という歌が、たしかあった。

 いつかお父さんはおっしゃった。
 誰かを愛する唯一の理由は、理由が無いという事だと。

という劇も、たしかあった。

 私が物音を愛する理由も、理由がない、それだけ。そして物音に出会うたび、物音とは時間の躓きに違いなく、つまずいていない時はシーシュポスの苦行みたいに同じトポスをくるくる巡っているのだ、と考える。物音は私と出会っても、こちらに目もくれず、一瞬よろめくだけで、もとの時間の姿に戻ってしまう。そうして同じトポスをまたくるくると回りはじめる。

 私は待ちつづける。新しい物音を。それは私に何かを思い出させるだろう。そして《思い出す私》はといえば、その思い出したものを想うことなく、ただ息をひそめていることだろう。思い出すといっても、過ぎ去ったものなど何もないのだから、想うべきこともまた存在しないのだ。

 時間というのは《いま・ここ》の自転運動であり《いかなる時も》時間自身にのみ帰依している。一切の存在を無視して。だからこそ時間はこんなにもくりかえし、くりかえし、くりかえし、くりかえし、くりかえして、くりかえして、くりかえして、やっとつまずいて、そして私はこう呟く。

 ああ、なんという物音。



鳥雲に仕舞ひし櫛をとりだしぬ

包帯をほどき春日のそらもやう

言伝は迷ふ鳥なりつちふるを

風船にしづかな人のゐたものだ

春鮫がのさばる花を折檻す

国境に近き夜を踏むあめふらし

しやぼん玉枯山水に溺れをり

那夫塔林
(なふたりん)さまよひなんといふ朧

流氷を摘まめる頃の帰釧かな

春および不純物から成つてゐる


2015年3月6日金曜日

●金曜日の川柳〔中野懐窓〕樋口由紀子



樋口由紀子






雪降れば雪雨降れば雨に濡れ

中野懐窓 (なかの・かいそう) 1896~1976

一読したときはあたりまえだと思った。だが、なぜか素通りできないものを感じた。「濡れ」のせいかもしれない。降ってくる雪や雨をただ見ているのではない。濡れないようにすることだってできる。が、「濡れ」るのだ。雨や雪に濡れると冷たくてひんやりする。その感触を思い起こす。

受け入れることの大切さ、それを甘受することの寛容さを言いたいのだろうか。生きていくというのはこういうことの連続である。雪が降らなければ雪に濡れないし、雨が降らなければ雨には濡れることはない。前提となるものが必ず存在する。自然の摂理にまかすことなのか。堂々巡りしながら、読みにかなり迷走した。結局は「ただごと」のよさなのかもしれない。〈能面の誰かに似てて無表情〉〈父と子の寝物語に父の無能〉

2015年3月4日水曜日

●水曜日の一句〔秦 夕美〕関悦史



関悦史








あれは秋骨の形を崩しけり  秦 夕美


納骨のときは、概ね寝姿のまま焼きあがった遺骨を箸で崩しながら骨壺に収める。

「骨のかたちを崩しけり」はその所作を詠んでいるとも取れる。「骨を」ではなく「形を」になっているところに俳句的なかすかな飛躍があるが。

より大きな飛躍は「あれは秋」という出だしにある。「あれは秋のことだった」と過去を回想していると取るのが普通なのだろう。しかし不可視のはずの「秋」を「あれは」と指さし、いきなり「秋」を実体化させているかのような錯覚も割り込んでくるのである。

「けり」が直接体験ではなく、伝聞などの間接体験に用いられる助動詞だからということもある。直接体験の「き」であれば、動作主体は語り手当人ときれいに重なるのだが微妙なずれがあり、誰が崩しているのかわからなくなってくるのだ。

「骨の形を崩し」ているのは私なのか「秋」なのか、崩されている「骨の形」は人のものなのか「秋」のものなのか。人と「秋」とが見分けがつけ難くなる境地であり、妖気と爽快さが共存する。

この「骨の形」はカサリと崩れるのか、クニャリと崩れるのか。


句集『五情』(2015.2 ふらんす堂)所収。

2015年3月3日火曜日

〔ためしがき〕 夜の形式とは何かなのか 夜の部 福田若之

〔ためしがき〕
夜の形式とは何かなのか 夜の部

福田若之


夜になった。田中裕明が、夜の形式をどのようなものとして語っているのか、見ていくことにしよう。
地図を眺めていると自分が何を見ているのかわからなくなることがあって、そういうときには海岸線をたどるためにおろした指がもう動かない。音楽をそういうふうに聴くこともある。部屋を暗くしてレコードをかけて座っているといつのまにか雨の音を聴いていて、それでカーテンからのぞくと日が暮れていたりするから、そんな夜は眠れない。
海岸線は、陸と海の境界であるから、「自分が何を見ているのかわからなくなる」というのは、線の両側に広がっているのが何であるのかがわからないという状態のことを指しているように思われる。「レコードをかけて座っているといつのまにか雨の音を聴いてい」るというのも、耳に入ってくる音のうち、音楽とそうではない音との仕切りがうまく機能しないことを指しているだろう。

昼の形式についての語りと違って、ここでは印象派やバロック音楽というようなジャンルが例示されていない。このことは、音楽とそうではない音との仕切りがうまく機能しないということと関わっているだろう。音楽は、それをただ音として聴くときにだけ、雨の音との仕切りをあいまいにするに違いないからだ。そのときの音楽は、もはや、ジャンルの名において分類されるようなものではない。このとき、形式と内容はもはや分節されていない。それは、渾然一体となって聴こえる。

モーリス・メルロ=ポンティは、裕明がその著書を持っていたという哲学者の一人でもあるけれど、このメルロ=ポンティも『知覚の現象学』で芸術作品の形式と内容の合一を説いていた。それは、メルロ=ポンティにとって、身体と精神がひとつのものだと考えられたことに関わっている。

メルロ=ポンティにとっては、肉体に精神が宿るのではなく、それらは一つのものだ。だから、芸術作品にとっての身体だといえる形式も、通常その精神だとされるような内容を湛えるための器ではないということになる。

俳句に関しても、たとえば十七音は言葉を盛る器ではないということは、しばしば言われる。夜の形式とはこのようなものなのだろうか。

どうやら、そう単純ではなさそうだ。レコードと雨の音のあいだにあるあいまいさは、海岸線の例とは違って、もう一つの別のあいまいさに挟み込まれている。「部屋を暗くして」過ごしているのだが「それでカーテンからのぞくと日が暮れていたりするから、そんな夜は眠れない」という、昼と夜のあいだにあるあいまいさが、音楽と雑音のあいだにあるあいまいさを包み込んでいる。夜の形式とは、ひとまず、このようなものなのだ。

続けて、このとき夜と昼が双方向の関係である事が示される。
夜はしだいに明けてゆくのだけれども、時間がそちらの方向にだけ流れていると思うのはおかしなことで、
つまり、夜から昼、昼から夜、そのどちらもあるのだろう。おそらく、昼と夜の境界があいまいだからだ。あるいは、芭蕉が『おくのほそ道』で、「年」を、ただ過ぎ去るのではなく、「行き交ふ」ものとして書いていることと、つながりがあるのかもしれない。

続けて、こう述べられる。
今日見た朝の空と昔見た空が寸分かわらぬ顔をしているのは時間が逆流していることの証にほかならない。
「今日見た朝の空と昔見た空が寸分かわらぬ顔をしている」という言い方は、文章の冒頭の「ほんとうにずいぶん昔のことになってしまった」につながるだろう。この文章においても、「ずいぶん昔」の問題が、「今日」も「寸分かわらぬ顔をしている」のではないだろうか。裕明はそれを「時間が逆流している」と理解する。

この発想は、H・G・ウェルズの『タイムマシン』の冒頭で、タイムトラベラーが提示する考えに似ている。ウェルズのタイムトラベラーは回想を過去への逆行とみなす。回想こそが、過去への時間旅行の可能性を実証するのだ。こうした発想においては、想起がすなわち時間の逆流の証になる。
こう言えば夜の形式というのはかなり複雑なもので、
それなら、整理しよう。

まず、地図の海岸線の挿話で、境界があいまいであるということの基本モデルが示されていた。そして、次に、この基本モデルが二重化したものが示されたのだった。それが、昼と夜の境界のあいまいさが音楽と雑音の境界のあいまいさを含みこんでいるというモデルだった。

このとき、二重構造の外側の層で、夜と昼は不能の境界線を相互に侵犯する。そして、その相互性は回想という心の働きに支えられている。だからこそ、夜の形式というのがこのようなものであるとする限りで、次のように言えるのだ。
それは時間と非常にふかい関わりをもっている。
なぜ「暗い形式」ではなく「夜の形式」であり、「明るい形式」ではなく「昼の形式」なのかがここで述べられているように思う。結局のところ、「夜の形式」と時間との「非常にふかい関わり」を生み出すのは、「夜の形式」というこの言葉にほかならないからだ。

だからこそ、夜の形式は、単に地図の海岸線のモデルのようなものなのではなく、むしろ、昼と夜のあいだでのレコードと雨の音とのモデルのようなものであるという風に示されるほかなかったのだ。夜の形式は、単なるあいまいさのモデルのようなものではなく、時間の上でのあいまいさによって二重化されたあいまいさのモデルのようなものなのだった。

そして、昼と夜が時間の流れの中で捉えられるとき、昼の形式に夜がやってくること、あるいは逆に、夜の形式に昼がやってくることも想定されるだろう。だからこそ、昼の形式と夜の形式を単純な二項対立として捉えることはできない。

さて、続きを読んでいこう。
だからさっき昼の形式としてあげたバロック音楽も、深夜ひとり机にむかって目瞑る男が書いたと考えることができる。
ここで、裕明は、バロック音楽を夜の形式として捉え直すことができるとは決して書いていない。単に、それが夜に書かれたものであると考えることができるというだけだ。

それを踏まえた上で注意したいのが「だから」という接続である。夜の形式が「かなり複雑なもので、時間と非常にふかい関わりをもっている」ことは、バロック音楽を「深夜ひとり机にむかって目瞑る男が書いたと考えることができる」ことを、どう理由づけているのか。この文脈において、バロック音楽を「深夜ひとり机にむかって目瞑る男が書いたと考えることができる」ことというのは、いったいどういうことなのか。

夜に書かれたと考える事ができるバロック音楽が、昼の形式であるとしてあげられたということ。まず、ここから言えることがふたつある。ひとつは、昼の形式とは昼に作られた作品の形式のこととは限らない、ということだ。そしてもうひとつは、夜に作られた作品に夜の形式があるとも限らない、ということだ。

こうしたことは、夜の形式が、昼に聴き始められたレコードの音楽のようなものとされていることと表裏一体だ。つまり、昼の作品に昼の形式があるのではなく、夜の作品に夜の形式があるのでもない。バロック音楽を「深夜ひとり机にむかって目瞑る男が書いたと考えることができる」ことは、夜の形式が「かなり複雑なもの」であることについての、昼の形式の側に即した言い換えとして読み取ることができる。

そして、「かなり複雑なもの」であることが、理由ではなく言い換えとしてここに現れている以上、「だから」という論理の接続を支えているのは、残された部分――夜の形式が「時間と非常にふかい関わりをもっている」ことのほうであることが分かる。

夜の形式が「時間と非常にふかい関わりをもっている」ことは、夜の形式と昼の形式のそれぞれが、暗い形式と明るい形式ではないことを示していた。ここで、バロック音楽の書き手がただの男ではなく、「目瞑る男」であることに注目する必要があるだろう。目をつぶったときの闇は、夜の闇ではない。それは、「時間と非常にふかい関わりをもっている」とはいえない。だからこそ、それは、あくまで昼の形式なのではないだろうか。

確かに、昼の形式もまた、それが「昼の形式」と呼ばれる以上、時間と関わりをもっているには違いない。しかし、その関わりは「非常にふかい」ものとまでは言えない。昼の形式が、現在形で語られていたことを思い出そう。昼の形式は、ただ、現在という一点においてのみ、時間との関わりを持っている。 昼の形式とは、そうした何かだということができる、何かなのだ。

続けて、こう問いかけがある。
床の間がつくりだす薄暗い闇を、またそのほかの日本間における陰翳を賛えていたのはさて誰だったか。
それが「陰翳礼讃」の谷崎潤一郎であることはすでに指摘されていることだ。ここでは、それに加えて、谷崎のこの文章が夜の暗さを礼讃することよりはむしろ、昼の暗さを礼讃することと夜の明るさを拒否することに紙幅を割いていることを指摘しておきたい。「陰影礼讃」の文脈では、昼と明るさ、夜と暗さの結びつきは決して確かなものではない。それが裕明の文章にも反映されている。

ところで、あえて谷崎の「陰影礼讃」 であることを明示しないことの効果はいかなるものだろうか。これは、単なる思わせぶりな筆致にすぎないのだろうか。そうではない。このとぼけには、回想という行為の不確かさが表わされているのだ。昼と夜の境界線の不確かさを支える回想が、それ自体、不確かさを孕んでいることがここで分かる。

では、この不確かさがここで示されることにはどんな意味があるのだろうか。ここで、「夜の形式」という言葉それ自体が、回想の中から引き出されたものだったことを思い出そう。つまり、この言葉が、そもそも、実に不確かなものなのだ。現在において時間と結びついている「昼の形式」という言葉には、こうした不確かさがない。ここに、言葉としての「夜の形式」と「昼の形式」の違いが見出される。

さて、終わりが近づいてきた。
とにかくこのように言われる日本の座敷は午すぎの外の光を障子からとりいれてはじめて、その明暗のあいまいさを時間の久しさに転化させるのだけれども、夜の形式と言ってよいかもしれない。
「午すぎ」であり、「光を障子からとりいれて」である。にもかかわらず、裕明はそこに「夜の形式と言ってよいかもしれない」ものを見出す。「けれども」という言葉は、おそらく、この逆接の表現である。

ところで、時間の久しさは、過去の回想というあいまいなものによって保証されるだろう。回想こそが「明暗のあいまいさを時間の久しさに転化させる」のだ。そして、回想は夜の形式を支えるものでもあった。だから、「明暗のあいまいさを時間の久しさに転化させる」こと自体は、それを「夜の形式と言ってよいかもしれない」ことと、むしろ順接的な関係にある。そして、だからこそ、それを「夜の形式と言ってよいかもしれない」ことについて、ここではそれ以上の説明が必要とされていないのだろう。

しかし、結局は「言ってよいかもしれない」 だけだ。夜の形式とはこれである、とは言うことができない。

ふたたび、空行が置かれる。そして、次の一文で文章は締めくくられる。
ほんとうにずいぶん前にも考えていたことなのだが、いま手にしているのは夜の形式ではないようだ。
やはり、「夜の形式」は「ほんとうにずいぶん前」のことの回想としてある。「いま手にしている」ということとは対照的に。

ただし、ここでもその「よう」であるにすぎない。ただ対照であるにすぎない。文章のはじめでは、「夜の形式」という言葉はただ過去に見出されていた。それが、この最後の一文では、過去「にも」見出されるというふうに語り直されている。つまり、この文章を経て、「夜の形式」という言葉は、過去だけでなく現在にもかかわりをもつものになったともいえるのではないだろうか。

ついに、夜の形式は、どこまでも「のようなもの」としてしか語られることがなかった。「夜の形式」という言葉は、その言葉の内容としての夜の形式を指し示しはしない。だから、ここでも、形式と内容があるのではない。その意味で、繰り返しあいまいに思い出されるこの「夜の形式」という言葉は、それ自体、夜の形式のようなものである。しかしながら、夜の形式は「夜の形式」というこの言葉ではない。夜の形式は、ことごとく、何かであることから逃れ去ってしまった。夜の形式は、何かであることを絶えず期待されながら、何かであることから逃れ去る。

だから――

夜の形式とは何かなのか? ――何かではないようだ。

夜の形式とは何か? ――何かではないようだ。

夜の形式は、あらゆる境界線を無効にし、あらゆる分類から逃れ去る。あとは、じっと考え込むしかないだろう。夜を徹して。時間との、非常にふかい関わりの中で。

〔ためしがき〕 夜の形式とは何かなのか 昼の部 福田若之

〔ためしがき〕
夜の形式とは何かなのか 昼の部

福田若之


以前(とはいえそれほど昔のことではない)、夜の形式とは何かという問いが立てられたとき、僕はすこし遠くからそれを眺めていた。四ツ谷龍さんの講演「田中裕明『夜の形式』とは何か」がまさにその問いであったのだけれど、僕はこれを直接聞くことはなかった。ただ『週刊俳句』ふらんす堂のサイトで、このシンポジウムのごく断片的な記録を読んだだけである。

田中裕明「夜の形式」は、そのシンポジウムのとき以後、幸いにもずっと全文が『週刊俳句』に掲載されているので、ふと、夜の形式という言葉が思い出されて気になるということがあると、それを読み返す。しかし、夜の形式とは何か、僕には、それを読んでもどうにも答えようがないと感じる。それもそのはず、四ツ谷さんの講演についての上田信治さんの報告と感想のなかに、四ツ谷さんの発言として次のような指摘が引用されている。

これはきわめてふしぎな文章で「夜の形式」と言いながら、どこにも「夜の形式」とは何かが書いてありません。
だから、僕としては、こう問い直してみたい。すなわち、そもそも、夜の形式とは何かなのか、と。以下、引用について、特に断りを入れない場合は、田中裕明「夜の形式」からのものである。
以前(ほんとうにずいぶん昔のことになってしまった)、夜の形式ということを考えていたときがある。
裕明は、この最初の一文で、思考を過去においている。それを、記憶から引き出している。「夜の形式」についての思考は、ここではまず、「ほんとうにずいぶん昔のこと」なのである。

続く一文はこうだ。
芸術における形式と内容について思いをこらしていたある夜に、ふと夜の形式という言葉が浮かんでしばらくのあいだ頭を離れなかった。
「夜の形式とは何か」という問いに始まる議論は、そのタイトル自体にひっぱられて、もっぱら形式の議論になってしまっていたか、すくなくとも、そのような議論として受け取られて来てしまった感が否めない。「夜の形式」の問題を、単に形式の問題と捉えるわけにはいかないのではないだろうか。これはおそらく「形式と内容について」の問題だ。

そして、ここではまず、「夜の形式という言葉」が、そういう言葉として確認されている。これはあたりまえのことだが、重大なことでもあって、さしあたり言葉でしかない以上、夜の形式が実体としての何かであるかどうかは、分からない。

さらに、裕明はこう続ける。
夜の形式に対して昼の形式という言葉もあり、
いや、なかったはずだ。すくなくともこれまでは。それは、おそらく裕明の中でだけ、「あり」、それはここでようやく発せられて、読者のもとに伝わる。単純な二項対立と捉えてよいかはさておき、ここではとりあえず、「昼の形式」は「夜の形式に対して」の言葉であることを確認しておく必要があるだろう。

続く文章では、「昼の形式」についての短い解説がある。
こちらのほうはわかりやすくて、たとえば何人かの印象派の絵を思いうかべればよい。あるいはバロックと呼ばれる音楽のあるものは聞いていて森の中にぽっかりと日向があってそこに座りこんでいるような気がする。
いや、わかりやすくはない。「何人かの印象派の絵」だって? ここで、僕らが誰のどの絵を思い浮かべるかで、ずいぶんとイメージは変わってしまうだろう。たとえば、同じモネの絵としても、『睡蓮』か『印象――日の出』かで全然違う。

そもそも、この「印象派」という言葉の由来になった『印象――日の出』は、まさしく日の出であって、少なくともその内容に関して言えば、明らかに夜と昼のあいだに属しているのではないだろうか。内容は夜と昼のあいだなのに、形式だけが昼のそれだなどと言いうるのだろうか。

だが、おそらく、ここで重要なのはそうしたことではないのだろう。

重要なのは、むしろ、「何人かの印象派の絵を思いうかべればよい」という言葉から思いうかべられる任意の複数の絵において、明らかに共通した何らかの形式が、明確に定義づけすることは難しいとしても、ひとまず了解されてしまうという、そのことなのではないだろうか。「バロックと呼ばれる音楽のあるもの」という言葉から思い浮かべられるものについても同様だ。僕らはこの言葉のもとで、全く任意の曲を思い浮かべながら、そこに明らかに共通している(ように思われる)何らかの形式を、自然と認めてしまうだろう。

このとき、僕らが思い浮かべている任意の作品は、もちろん任意の内容を持っているに違いないのだが、それにもかかわらず、形式を共有しているように感じられる(印象派の歴史的意義のひとつは、どんなに取るに足らない風物さえも、ひとつの形式のもとで、たちまち芸術の題材としてみせたことだった)。このことは、これらの作品を僕らが受容するときにその形式と内容が分裂していて、その分け目がはっきり確認できることを意味している。

ここで、もうひとつだけ、夜の形式が「考えていた」という過去形で叙述されているのに対して、昼の形式は「あって」、「わかりやすくて」、「思いうかべればよい」、「気がする」ものとして、現在形で叙述されていることは、のちの議論のために指摘しておく必要がある。ただ、いまはまだ、このことに深入りできないので、ひとまず先に進みたい。
では夜の形式とはいったいどのようなものであろうか。
夜の形式について、ここではじめて、問いが発せられる。しかし、「夜の形式とは何か」ではない。「どのようなものであろうか」である。これに対する答えは、しかじかのようなものだ、というに留まるだろう。だからこそ、裕明の文章には最後まで「夜の形式とは何か」という問いの答えが書かれていない。では夜の形式とはいったいどのようなものであろうか。

続きは、また今夜に。

2015年3月2日月曜日

●月曜日の一句〔秦夕美〕相子智恵



相子智恵






その距離を永久にたもつや夫婦雛  秦 夕美

句集『五情』(2015.2 ふらんす堂)より

言われてみれば、雛人形同士の距離は定まっているものである。金屏風を背に、毛氈の上に鎮座する男雛と女雛は、それぞれが着物の袖を左右に流す空間もあって、微妙な距離を保っている。近すぎもしない、かといって遠くもない距離。毎年毎年、飾られるたびに永久に同じ距離が保たれるのだ。今より密着することも、離して飾られることもない。

雛人形の間にある空間に目をとめ、その距離感に着目するのが現代的な把握だと思った。夫婦の間の距離だとか、ひいては人間関係全般の距離だとかに敏感な時代だからである。雛人形の距離は永久に保たれ、交わることも離れることもない。人間同士はどうか。SNSなどで誰もがつながりやすくなり、しかも薄くゆるやかなつながりが保たれる。微温的な人間関係が〈その距離を永久にたもつ〉と響く。