2015年5月31日日曜日

●小誌『週刊俳句』より 記事募集のお知らせ

小誌『週刊俳句』より 記事募集のお知らせ


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2015年5月30日土曜日

【みみず・ぶっくす 24】 老人とバナナ 小津夜景

【みみず・ぶっくす 24】 
老人とバナナ

小津夜景





【みみず・ぶっくす24
        老人とバナナ     小津夜景

      さいきん、
      老いとバナナというのは
      抜群の相性なのでは?と思うことがある。
      よくよく眺めると、バナナというのは
      ①ドラスティックな形。
      ②コンサヴァティヴな味。
      ③ポップな色。
      を備えていて、すごくモダンだ。
      一本でも充分モダンアートだが、
      一房になるとバウハウスっぽく、
      部屋におくとオブジェにみえて、
      本当にすごいバナナ。    
      完全に大人の趣味を満たしている。
      だが大人といっても
      中年男とバナナではお話にならない。
      中年女とバナナというのも妙に困る。
      青年とバナナではバナナが可哀想だ。
      充分に老いた者が手にしてこそ、
      バナナはその本領をあらわにする。
      さんざん「前衛」ぶった後、
      世俗を離れて自然に親しみ、
      風流な南島生活を送っている
      ように見えて実はそんなに枯れてもいない
      といった妙に飄々としたバナナの佇まいが
      老いという楽しげな仙境に通じているのだ。

夏の日の一冊があり橋があり
蟻のかたちしてましろき椅子(チェアー)かな
風月を友としたりやバナナの葉
つちふまず青き嵐と親しまむ
マンゴオの室内楽を奏でたり
サボテンの花にまつはる死と乙女
犯人の手にしてゐたる黒電話
わが汲みてわが飲む水や雲の峰
木の匂ひ濡れまさる夜の金魚かな
風化してなほ古を恋ふる鳥

2015年5月29日金曜日

●金曜日の川柳〔奥野誠二〕樋口由紀子



樋口由紀子






自転車を停めてたばこを吸うている

奥野誠二 (おくの・せいじ)

喫煙者の肩身がますます狭くなっている。掲句は肩身が今ほど狭くなかった時代の作品である。「停めて」だから、停めたついでに一服したではなく、わざわざたばこを吸うために自転車を停めた。この違いは大きい。それに気づいて、そこに着目し、おもしろがりたかったのだ。

作者本人のことを詠んだのか、そういう人をたまたま見かけての一句なのか。どうも後者のような気がする。本人ではないから、「停めて」かどうかは正確にはわからないが、この上なくおいしそうに吸っている姿が印象に残ったのだろう。

自分や人の行為や行動のある部分を切り取って、川柳にする。要はそのコト(景)に引きつけられ、気に入り、おもしろいと思ったからだ。たいそうな意味がたえずあるわけではない。たいそうな意味がないから、かえって豊かな味わいを感じる。「創」収録。

2015年5月27日水曜日

●水曜日の一句〔北大路翼〕関悦史



関悦史








同じ女がいろんな水着を着るチラシ  北大路翼


一見大勢の水着美女がいるかに見えて、じつはモデルは全部同一人というのが、改めていわれると何とも馬鹿馬鹿しく可笑しい。

新聞の折り込みチラシだろう。あまり過剰な色気はなく、適当に清潔感があり、適当にきれいであったり、よく見たらさほどでもなかったりする、けばけばしいレイアウトになかに同一人であるにもかかわらず群がり合う、一日で古紙となる水着女性のイメージ。

しかしこの句はそうしたイメージの華美さとチラシの安手さの落差から哀感を引き出すことが主眼になっているわけではない。

水着姿に引かれて思わず品定め的な視線を投げてしまった語り手が、全部同じモデルじゃないかと気が付いてしまった可笑しみがまず主眼ではあるのだが、その視線はおのずと、「同じ女がいろんな水着を着る」という労働作業の現場までをも思わず引き出してしまう。絵柄のナンセンスさの向こうには、何度も水着を着替えては撮影を繰り返すモデルとカメラマンその他の、おそらくは気忙しい、ただし撮影されるときはあくまでにこやかでなければならない、作業の集積があるのだ。

そこまで考えると、何やら「おもしろうてやがて悲しき」のような風情となるが、この句は別にそうした作業にいそしむモデルらへの共感が表に立っているわけではなく、その結果として出来た水着女性のチラシのチープさ、微妙な変さという表面性に留まっている。別に人が大量生産品にされてしまう過程をことさら批判的に見ているわけではない。

そしてそのあくまで消費者的な視線に留まる語り手は句中に意外としっかりした存在感をもって居座っており、その語り手と水着モデルの関係をいかにも軽そうにそのまま投げ出してみせることで、却ってこの句は、現代の暮らしにひそむ名状しがたいミクロな感情を描き出しえたのである。


句集『天使の涎』(2015.4 邑書林)所収。

2015年5月26日火曜日

〔ためしがき〕 保存の法則、あるいは法則の保存 福田若之

〔ためしがき〕
保存の法則、あるいは法則の保存

福田若之


アインシュタイン以後、質量もまたエネルギーの一形態であることが明らかになったことには注意を払う必要があるとしても、そのことにさえ気をつければ、この宇宙において、マクロなレベルではエネルギー保存の法則が成り立つということに疑いの余地はないだろう。

しかし、だとしたら、エネルギー保存の法則は、どのようにして保存されているのだろうか。

僕自身は物理学に決して詳しくないので、この問いに答えることもできないし、あるいはすでに答えがあるのを知らないだけなのかもしれないけれど、とにかく僕にはこのことがひどく不思議に思える。

現代の人々は、世の中がある一定の法則に従っていることをしばしばコンピュータのプログラムに喩える。ゲームにはルールがあり、コンピュータ・ゲームのルールはプログラムというかたちであらかじめ書いてあるものだ。それと同じように、世界には法則があり、この法則は自然あるいは神によるプログラムなのだ、という。

だが、ある世界を書くということは――ある世界について書くのではなく、ある世界書くということは――究極的にはその世界の外で書くということだ。だから、もしこの世界を成り立たせるプログラムを書いた何者かがいるとしたら、外にいるに違いない。そして、もしそうだとしたら、このプログラムは、そのような世界の外部から見て、なにかしらの記憶媒体に保存されているということになるだろう。

しかし、そんなことがありうるだろうか。この世界の外にプログラムが保存されているとしたら、その保存は何によって保たれているのだろうか。それが保たれるためには、この世界の外もまた、一定の法則に従った安定したものであることが必要になるのではないだろうか。だとしたら、この世界の外を安定したものにしているはずのその法則は、どのようにして保存されているのだろうか。このように、外部からプログラムされた世界という仮定は、無限の入れ子構造を呈し、問いを答えることができないものにしてしまう。

だから、おそらく、世界に外があるというのは真ではないのだろう。そしてそもそも、ひとつの世界の中に別の世界が存在しうるということも真ではないのだろう。この仮定が正しければ、ただこの世界だけがあるということになる。しかし、だとしたら、この世界の法則はまさしくこの世界に保存されていることになる。

ということは、世界は自律的なのだろうか。おそらくそうだ。物理法則が保存されるという法則が成立しさえすれば、物理法則が保存されるというこの法則もまた、それ自体によって保存されることになるだろう。しかし、だとしたら、この法則の成立それ自体はどのようにして説明することができるのだろう。

当然、僕にはこの問いに対する答えを示すことなどできはしない。しかし、それでも、不思議に思うことを不思議だと書かずにはいられない。そんなことをときどき思う。

不思議に思うことを不思議だと書かずにはいられない、と書いた。 むしろ、不思議に思うことさえすべてがすでに何らかのかたちで書いてあると信じたい、と書いたほうがよいかもしれない。おそらく、あらゆる科学は、その解明しようとするものがすでに何らかのかたちで書いてあるということを信じている。科学とは、すでに何らかのかたちで書いてあることを具体的な言葉に翻訳していく作業のことではないだろうか。たとえば、相対性理論がアインシュタインによって書かれる前から、世界はずっとそういう仕組みで動いていたに違いないのだが、それをアインシュタインがはじめて具体的な数式に翻訳したのだと考えることはできないだろうか。こうした意味で、科学的な誤りとは、対象となる世界の誤読であり、そしてまた、その誤訳であるとはいえないだろうか。たとえば、科学史上に積み上げられた無数のフロギストン説は、燃焼にまつわるもろもろの現象の誤読がもたらした誤訳の山なのだとはいえないだろうか。

だが、もしかすると、そもそも実際には世界はいかなる意味でも書かれてなどいないのかもしれない。もしそれが何らかのかたちで書いてあるなら、何らかのかたちで書きかえることができるはずだ。だからこそ、僕らはしばしば、世界を書きかえたいというサディスティックな欲望を、自らが書く物語のうちに書き込んだりする。しかし、現実には、いったいどうすれば自然の摂理を書きかえることができるだろう。そもそもどういうかたちで書いてあるのかさえ分からないものを、どうしたら書きかえることができるのだろう。

とはいえ、世界がもし書かれたものではないのだとしたら、僕らは世界から何ひとつ読みとることなどできないだろうし、そればかりか、僕らは世界になにひとつ書きこむことなどできないのではないだろうか。いっさいの外部をもたない完全な白紙状態の世界で、だしぬけに何かが書かれるなどということはありえないだろう。なぜ僕らは何かを書くことができているのか? ――きっと、僕らが何かを書くことができるように世界にあらかじめ何らかの書きこみがあったからだ。

たしかに、これはあまりにも素朴な問いに対する、あまりにも素朴な答えであるように思える。それでも、そう信じずには何かを書くことなどできないのではないだろうか。あるいは、こう書いたほうがよければ、そう信じずには自分が何かを書いているのだという認識を持つことなどできないのではないだろうか。

しかしながら、ここまで書いてきて、やはり何かが腑に落ちない。おそらく、何か根本的に書き損なっているか、あるいは、書き間違えている。だから、おそらく、この文章もまた、いずれは書きかえなければならないのだ。

2015年5月25日月曜日

●月曜日の一句〔岩崎喜美子〕相子智恵



相子智恵






蛸が蛸つかんでをりぬ台秤  岩崎喜美子

句集『一粒の麦』(2015.5 角川学芸出版)より

蛸に蛸が掴みかかっている。蛸は縄張り意識が強く、自分の縄張りに別の蛸が現れるとしがみついて攻撃するという。その縄張り意識を上手く利用したのが、蛸壺漁や蛸の人形を使った釣りなのだそうである。

掲句の蛸も縄張り意識による攻撃なのだろう。しかしなんとも哀れなことに、掴みあう二匹の蛸が乗っているのは台秤の上だ。争ったままに重さをはかられ、もうすぐ売られていくのである。勝者も敗者もなく、二匹とも食べられる運命にあるのだ。

上五から中七にかけては、蛸の争いが自然界の中でのことのように読めるように作られ、下五の「台秤」の一言で、すとんと哀れが訪れる。掴みかかる蛸に寄っていた視点が台秤に移る、その映像的なカット割りの巧みさによって、俳句の短さ・速さが活きた、ハッとする写生句となった。

2015年5月23日土曜日

【みみず・ぶっくす 23】 Luminomusica Yakeinia(ルミノムジーカ・ヤケイニア) 小津夜景

【みみず・ぶっくす 23】 
Luminomusica Yakeinia
(ルミノムジーカ・ヤケイニア)

小津夜景







みみず・ぶっくす 23
Luminomusica Yakeinia
(ルミノムジーカ・ヤケイニア)  小津夜景


さいきん陽と風が強くて
いろんなものが乾いてきました。
灰のやうな光が外に降つてゐる。
光はさまよへる灰
ラリー・シモンの回想
それは昔
タルホといふ生涯老人の顔をして
生きた者の語つた回想なのですが
はその思ひ出を映像として語り
私の全然気に入らなかつた。
私にとつて
思ひ出とは光と音楽。
光の正体は海で
陽のさす窓は私の眼
風は管楽
眠りはぷろぺら
おほぞらは孤絶
それなら
そこをとぶ私は
なんだらう。
あ、さうか
それが思ひ出だ。


まぼろしはぼろきれのやう南風
骨盤をひらけば森のレエスかな
刳りぬいてゼリーは骸さう思ふ
クリスタルボンボンといふまほろば
青嵐参るバラライカを抱いて
蝉時雨のがれて来しと木は言へ
樹々に乗るおばけみな羅を翻し
タルホニアあなたは星をつくる
かたつむり乾いた灰はいつもさう
天空を舞ふ真裸が多すぎる
 

2015年5月22日金曜日

●金曜日の川柳〔伊藤律〕樋口由紀子



樋口由紀子






佛野に飯を乞われて跳び退く父よ

伊藤律 (いとう・りつ) 1930~

このように父を詠んだ川柳はめずらしい。「佛野」とは仏のいるところ、冥土、死者の霊魂が迷い逝く道、また行きついた暗黒の世界であろうか。そこでも現世のように「飯を乞う」ことが行われている。しかし、父をよく知る娘は、まだ、冥土に慣れていない父はおろおろして、「跳び退く」という。不思議な句である。律は青森出身であるから、恐山と重ねているのかもしれない。父を想っての心象風景だろう。彼女自身が揺さぶられている。「父よ」が切ない。

『風の堂橋』は亡父に捧げる、父への鎮魂歌として上梓された。あとがきで「この句集刊行は、父への想いを作品化した、父を祀る斉儀であり、報恩の行である」と書く。〈箸持って骨の貧しき父なりし〉〈八月の父を侍らせ白日の下〉〈うしろ手に大河を閉めて「父要らむかね」〉。一般的な父の概念から隔たり、解釈のつけられない父娘関係である。『風の堂橋』(1991年刊)

2015年5月20日水曜日

●水曜日の一句〔澤田和弥〕関悦史



関悦史








冷蔵庫にいつも梨ゐて父と話す  澤田和弥


「少女と父さん」と題された20句のなかの句であり、その文脈で読むと、この「父」を見ているのはどうも「少女」のようである。

いや中七の「梨ゐて」で意味上切れて、少女であるらしい語り手が「父」と梨のことを話している、あるいは冷蔵庫内に常駐する梨の存在感に圧されるようにして少女と父が話しているという読み方もありうるが、「いつも梨ゐて」と奇妙な人格化を被った梨が、すんなり「父と話す」に繋がっていることを思えば、素直に「梨」と「父」が話していると読むべきなのだろう。

やや家族から浮いている父とも思えるが、別にそれがひどく淋しく見えるというわけでもなく、また話す梨という妙な物件とのコミュニケーションを父一人が特権的に担っているわけでもないようだ。語り手本人も、話す梨の存在をごく当たり前に受け止めているし、わけのわからないものと話す父をことさら冷淡に見ている様子もない。

「梨ゐて父と」という語順からすると会話の主導権を握っているのは梨の方なのかもしれない。冷蔵庫の扉の向こうにペットとも妖怪ともつかない「梨」が当たり前にいるという、ファンタジー的な異界性を帯びた家庭がごく淡々と描かれ、しかも感情的にはどこかほのぼのしたものがあるのが美点だろう。

同じ20句のなかにある〈いつまでも運動会に行く途中〉も、あたかも植田正治の写真のような、懐かしくもシュールな世界を作っている。

*

澤田和弥と直接会ったのは3回程度だと思う。現俳青年部か何かのイベント後の飲み会と、「天為」20周年記念大会。

飲み会では澤田はにぎやかな盛り立て役といった感じだった。俳句関係の人付き合いがさほどないまま来た私より遥かに知人も多く、場に馴染んでいたようだった。

「天為」の大会では澤田は、20周年記念作品コンクールの随筆賞を受賞し、檀上で挨拶していた。

3回目は一昨年、ワタリウム美術館の寺山修司展関連企画として「テラヤマナイト on リーディング」なるイベントに出た時。これはテレビ収録が入った。俳人で誰か一緒に出られる人を探していて、澤田和也の句集『革命前夜』に寺山忌ばかりで埋めつくされた一章があったのを思い出し、声をかけたらすぐ快諾してくれた。

当日、展覧会場で顔を合わせた澤田は、膝が悪いとのことで杖をついていたが元気そうではあり、開演まで近所の店で食事やコーヒーを共にし、話し込んだ。澤田と同年同郷生まれの髙柳克弘の学生時代のエピソードなどを聞いたのではないかと思う。

澤田の朗読は絶叫型の非常に熱っぽいもので、しっかり会場を掴んでいた。

一昨日18日に澤田和弥の訃報に接し、未だに何とも呑み込みがたい思いでいる。


「のいず」第2号(2014年12月)掲載。

2015年5月19日火曜日

〔ためしがき〕 『魔法少女まどか☆マギカ』と谷崎 福田若之

〔ためしがき〕
『魔法少女まどか☆マギカ』と谷崎

福田若之


「僕と契約して、魔法少女になってほしいんだ」
――テレビ版『魔法少女まどか☆マギカ』第1話、キュゥべえの台詞
先日放送が終了したテレビアニメ『SHIROBAKO』には、『魔法少女まどか☆マギカ』(以下、『まどマギ』と略記)と『健全ロボダイミダラー』をもじったと思われる『背徳ロボサドカマゾカ』という作中作が登場した。「健全」をひっくり返した「背徳」はたしかにサドやマゾッホの文学に通じるが、それにしても、人は『まどマギ』を前にして、どうしてサディズムとマゾヒズムの二択を思い浮かべるのだろうか。

『まどマギ』において、少女たちは、キュゥべえという小動物的な見た目をしたキャラクターとの「契約」によって魔法少女になる。では、魔法少女になるとはどういうことか。それは、契約前の自分とは別の何者かになることだ。それは、第1話ですでに魔法少女である暁美ほむらが魔法少女になる以前の主人公の鹿目まどかに与えた忠告に暗示されている。
ほむら「鹿目まどか、あなたは自分の人生を尊いと思う? 家族や友達を、大切にしてる?」
まどか「え、えっと、わ、私は、大切、だよ。家族も、友達のみんなも、大好きで、とっても大事な人たちだよ」
ほむら「本当に?」
まどか「本当だよ。嘘なわけないよ」
ほむら「そう。もしそれが本当なら、今とは違う自分になろうだなんて、絶対に思わないことね。さもなければ、すべてを失うことになる。あなたは鹿目まどかのままでいればいい。今までどおり、これからも」
これは後に、ただの喩えではないことが明らかになる。第6話から第7話で、魔法少女の見かけの肉体は抜け殻であって、魂はソウル・ジェムという宝石のようなアイテムに変えられていることが発覚するのだ(比喩表現が後になって現実に認められるという展開は、後に見る魔法少女と魔女の関わりについての暴露にもあてはまる。こうした虚構の現実化は、『まどマギ』の物語展開における重要なパターンである)。第7話のまどかとほむらの次の会話が示すように、魔法少女は厳密には人間ではない。
まどか「ほむらちゃん、どうしていつも冷たいの」
ほむら「そうね。きっともう人間じゃないから、かもね」
ところでキュゥべえはといえば、容姿などについては中性的だが、その名はひとまず男性性の記号と見なすことができるだろう。キュゥべえの正体はインキュベーターというエイリアンの端末である。インキュベーターといえば、一般には卵を孵す機械のことだが、語源を遡ると、これは、女性を襲い悪魔の子を妊娠させる男の夢魔であるインキュバス(「上に乗る者」の意)とも通じ合っている。〈夢〉が、この言葉のあらゆる意味において、『まどマギ』の主要なテーマのひとつであることを考えれば、この語源の上での繋がりは注目に値するものといえるだろう。キュゥべえは、ある企みを秘めており、その目的のために少女たちと契約を交わし、利用しようとする。

こう述べると、キュゥべえは一方的に魔法少女を操っているかのように見えるが、一方では極めて被虐的な役割を担っている。それは、キュゥべえが第1話でほむらに攻撃されて負傷する場面で、すでに典型的に現れている。キュゥべえは、彼が彼女に与えたものによって攻撃される。キュゥべえは力を与えた少女に対し、責めを負っているのである。

魔法少女としてのほむらがキュゥべえに対してしばしば加虐的である一方で、魔法少女になる前のほむらは内向的で勉強も運動も不得意な虚弱体質の少女だったことが第10話で明らかになる。

内気な少女が、力を持つ男によってそれまでと別の世界に引き込まれ、以前とは別の何者かになる――これは、マゾヒズムの典型的な物語にほかならない。

ジル・ドゥルーズが『マゾッホとサド』で書いているように、契約はマゾヒズムの徴候である。『まどマギ』はマゾヒズムの構造を提示しているのだ。そして、そのマゾヒズムは、とりわけキュゥべえと魔法少女との関わりに着目するとき、たとえば、谷崎潤一郎の『刺青』や『痴人の愛』と同様の展開がなされていることが分かる。ここでなぜマゾッホではなく谷崎の小説なのかは後述する。ここでは、とにかく、キュゥべえがまぎれもないマゾヒストであることを確認しておきたい。

一方で、魔法少女になる契約を拒絶しつづけるまどかは、この物語の主人公にして、ただ一人のサディストだといえるのではないだろうか。魔法少女になる少女たちは、どれだけキュゥべえに対立したとしても、まさしく魔法少女であることによってキュゥべえの利益となる。キュゥべえは虐げられながらも満たされる。しかし、まどかは、魔法少女になることを拒絶し続け、そのことで、結果的に、キュゥべえと同じ世界に生きることを拒んでいる。その限りでキュゥべえはまどかからは満足を得ることができない。

これは本質的には性的嗜好の違いではなく(というか、それにとどまるものではなく)、あくまでも思想の違いであり、それゆえにこそ、イズムの違いなのである。サドの文学に関して言えば、それらは性的嗜好の百科事典の様相を呈しているのであって、単なる加虐趣味についての記述にとどまらない。あえてサディズムを性的嗜好に関連付けて定義することを試みるとすれば、それは嗜好そのものの特徴によって定義されるというよりは、むしろ、多様な性的嗜好に基づく願望を現実のものにするときの、ある極端さによって定義されるのではないだろうか。とはいえ、いずれにせよ、サドの登場人物たちのこうした性的嗜好の実現をめぐる極端さを、劇中のまどかに見出すことは少なくとも表面上はできそうにない(もしそんなことができたとしたら、テレビで放映することなどとてもできなかっただろう。必要ならば、『ソドムの百二十日』を原作としたパゾリーニの映画、『ソドムの市』を思い出せば事足りるはずだ)。後述するように、テレビ版の結末において、まどかはある極端な願望を現実のものにするが、その願望は性的嗜好に基づくものとはいえない。

上記の通りである以上、ここで任意のキャラクターをサディストないしマゾヒストであると述べるのは、何らかの診断のためではない。問題は精神病ではない。そうではなくて、言ってみれば、『まどマギ』のポリフォニーを分析することだ。個々のキャラクターの言動からいかなる思想の一貫性を見出すことができるかを語ることは、そのためにこそ有益である。

ところで、キュゥべえのほかに、もう一人、まどかと同じ世界に生きることを結果的に拒まれつづけることになる登場人物がほむらである。時間遡行者であるほむらは、迫りつつあるカタストロフで死ぬことを運命付けられているまどかを生き延びさせるために、何度も時間を巻き戻し、そのたびに悲劇的な結末を繰り返す。ほむらは、攻略不可能なゲームを決してやめようとしないマゾヒストのプレイヤーである。まどかに対するほむらの愛は、満足する結果を得られないまま苦しみを耐え続けることを通じて表現される。しかし、ほむらが「私はまどかとは、違う時間を生きているんだもの!」(第11話)と言うように、まどかには、ほむらの愛情を決して本当の意味で理解することはできないだろう。ほむらはまどかが生き延びる結末があると信じているが、まどかは決して生き延びてはくれない。だから、まどかは、 キュウべえを満たすことがないのと同様、ほむらを満たすことも決してない。サディズムとマゾヒズムは、本質的には相容れない。

無論、マゾヒストが契約を求める対象の女性はマゾヒズムの一要素を構成しているに過ぎず、彼女がマゾヒストである必要は全くない。それにもかかわらず、ほむらはマゾヒストとしての自らを露呈する。設定上のこの意図的な混同こそが、『まどマギ』の構造をマゾッホ的というよりもむしろ谷崎的なものにしているように思われる。たしかに、マゾッホの小説と谷崎の小説のどちらにも、女性が不意に被虐的になる瞬間がある。しかし、マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』において、それはゼヴェーリンとワンダの関係の終わりを印づけるものだ。ワンダはそれによってマゾヒストになったりはしない(たしかに、ゼヴェーリンの代わりにワンダと結ばれるギリシャ人は、ゼヴェーリンの書いた手稿の中で女を従える主人であるように語られているが、彼はワンダを鞭打っただろうか? 仮にそんなことがあったとして、ワンダは被虐趣味に目覚めただろうか?)。彼女にとっては加虐も被虐も愛のための演技でしかない。すなわち、ワンダは本質的にはサディストでもマゾヒストでもない。ワンダが被虐的な立場におかれることは、ワンダのマゾヒスト化ではなく、ゼヴェーリンのマゾヒズムの喪失をもたらす。そして、ゼヴェーリンのマゾヒズムを完治させたワンダは、自らの目的を果たし、彼のもとを離れていくのだ。対して、谷崎にあっては、 女性が被虐的になる場面を経て、男女の関係はより確実なものになる。『刺青』の女は、男に眠らされた上で刺青を彫られることによって、すなわち傷つけられることによって、はじめて悪女になることができる(このようなことは、『毛皮を着たヴィーナス』におけるゼヴェーリンとワンダのあいだには全く考えられない)。『痴人の愛』のナオミは、譲治に剃刀を渡して毛を剃られるがままになる。その上、その後で彼女が彼に飛び着かれるとき、それはほとんど噛み着かれるようにである。『春琴抄』では何者かによって春琴の顔に熱湯が浴びせられる。これらの事件が男女の関係を深めることは、彼女たちもまたマゾヒストであるのでなければ説明がつかないだろう。

ここで、谷崎的な悪女との比較から、『まどマギ』において魔法少女になるとはどういうことかを掘り下げることにしたい。

劇中で、魔法少女であるほむらや巴マミは、魔法少女ではないまどかたちから、「かっこいい」少女として認識される。これは、谷崎の小説でヒロインが男によってマゾヒズムの世界に引き込まれることを通じて強い女としてのステータスを得ることに対応している。

一方で、魔法少女であることは、ほとんど魔女であることに等しいともいえる。マミの死後にやってくる新たな魔法少女・佐倉杏子の父は、劇中ではすでに自殺しているが神父だった。魔法少女の魔女性は、まず、父との関係についての杏子の回想的な台詞によって隠喩的に示唆される。
「大勢の信者が、ただ信仰のためじゃなく、魔法の力で集まってきたんだと知ったとき、親父はぶちぎれたよ。娘のあたしを、人の心を惑わす魔女だ、って罵った」(第7話)
杏子の父が言う「魔女」は隠喩だ。しかし、魔法少女は劇中で、実際に魔女化する(これが比喩表現の現実化の一例であることは先に述べた。補足しておくと、比喩や夢の現実化は『毛皮を着たヴィーナス』と関連している。たとえば、『まどマギ』も『毛皮を着たヴィーナス』も冒頭は登場人物の夢であるが、それらがまさに現実の投影だったことが後に明らかになる)。

魔法少女が魔女化するという場合の「魔女」とは、魔法少女が退治する悪の呼称である。はじめ、キュゥべえは、次のように、魔法少女と魔女が別種の存在であることを強調している。
「願いから生まれるのが魔法少女だとすれば、魔女は呪いから生まれた存在なんだ」(第2話)
しかし、両者が表裏一体であることが、後に杏子の台詞で示唆される。
「奇跡ってのはタダじゃないんだ。希望を祈れば、それと同じ分だけの絶望が撒き散らされる。そうやって差し引きをゼロにして、世の中のバランスは成り立ってるんだよ」(第7話)
さらに第8話から第9話にかけては、実際にまどかの友人の美樹さやかが、魔法少女から魔女に転生してしまう。キュゥべえは次のように言う。
「この国では、成長途中の女性のことを「少女」って呼ぶんだろ。だったら、やがて魔女になる君たちのことは、「魔法少女」って呼ぶべきだよね」(第8話)
魔法少女の魔女性は、谷崎の強い女が持つもう一つの側面、すなわち、悪女としての側面に対応している。さやかが世界に絶望して魔女化する引き金となるのは、 女性を人間扱いせず「犬かなんかだと思って躾けないと」いけないとする、電車内での男たちの会話(第8話)だった。キュゥべえは電車で会話していた男たちと同様、魔法少女を「家畜」に近いものと認識していることが後に明らかになる(第11話)。躾とは、『痴人の愛』の河合譲治が当初ナオミに施そうと したことにほかならず、また、それによってナオミは悪女になるのだった。

魔女化以前にも、魔法少女と教育には密接なかかわりがある。魔法少女の存在を知ったまどかとさやかは、「魔法少女体験コース」(第2話、マミ)を経て魔法少女になるかどうかの選択を迫られる。マゾヒズムの物語に照らし合わせるならば、これは少女たちに対する教育にほかならない。プロット上で、マミはキュゥべえの望む教育の代行者としての役割を持っている。

魔法少女が希望と結び付けられることも重要である。マミによれば「キュゥべえに選ばれたあなたたちにはどんな願いでも叶えられるチャンスがある」(第2話)。期待とその宙吊りは、マゾヒズムに特有の徴候である。キュゥべえも期待から少女に力を与えるが、教育の段階で少女も契約に期待しており、その期待が宙吊りにされている。ここに、谷崎的な物語構造を見出すことができる。

ところで、魔法少女が魔女と同一的な存在であるのは、希望と絶望の全体の差し引きがゼロであるからだ。この考えは、幸福をあたかも貨幣のように扱うという意味で、ベンサムの古典的功利主義と通じている。
「魔女を倒せばそれなりの見返りがあるの」(第2話、マミ)
見返り。これは経済の根本概念だ。そして、経済的な見返りは契約によって保障される。したがって、マゾヒズムの中で役割をになう魔法少女は、すなわち経済のただなかに生きる存在でもある。
まどか「もしも、あなたたちがこの星に来てなかったら」
キュゥべえ「君たちは今でも、裸で洞穴に住んでたんじゃないかなあ」
(第11話)
このやりとりが示唆しているのは、『まどマギ』の世界では、マゾヒズムがもたらす契約こそ、あらゆる文化の発端だということである。文化は経済から生まれる――このメッセージは、『まどマギ』があくまでも商業作品であることを思い出させる(『SHIROBAKO』に『まどマギ』のパロディがパロディとして登場しえたのは、端的に、『まどマギ』が成功をおさめた商業作品だからである)。

ところが、上述の通りのマゾヒズムに沿った物語展開にも関らず、『まどマギ』のテレビ版での結末において成就されるのは、マゾヒズムではなく、サディズムなのである。まどかは、「すべての魔女を、生まれる前に消し去りたい。すべての宇宙、過去と未来のすべての魔女をこの手で」と願う(第12話)。これは、キュゥべえによれば「因果律そのものに対する叛逆」である(第12話)。そして、この極端さは、性的嗜好に基づいているか否かの違いこそあれ、サドの主人公が性的嗜好に基づく願望を現実のものにするときのそれと、おそらく同質のものなのだ。まどか自身が「今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、わたしは泣かせたくない。最後まで笑顔でいて欲しい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる。変えてみせる」(第12話)と言うように、これは個人の願望をもとに既存の法に基づかない新たな制度を作ることである。このようなまどかの特質を一言で表わすなら、それは法‐外である、といえよう。まどかは法外な大きさの魔力の行使によって、世界を成り立たせていた法の外へとはみだす。契約の文言には書き換えが一切ないにもかかわらず、その契約と結びついた法を否定することによって、契約の実質が変更される。すでに指摘されているように、これはひとつの論理的な解決でもある。そして、契約と法を否定した制度と論理は、ドゥルーズに基づくなら、サディズムの徴候なのだ。まどかは、やはりサディストであって、その点で他の魔法少女と本質的に異なっている。
「あなたは希望を叶えるんじゃない。あなた自身が希望になるのよ。わたしたち、すべての希望に」(第12話、マミ)
こうして、まどかは「円環の理」と呼ばれる制度そのものに存在を昇華させる。だが、ほむらはマゾヒズムの下に置かれる限りでしか存在意義をもつことができないので、サディストであるまどかの望みを救いと見なすことができない。ほむらは「これがまどかの望んだ結末だって言うの? こんな終わり方で、あの子は報われるの? 冗談じゃないわ!」(第12話)と言う。しかし、彼女の「まどか、行かないで!」(第12話)という叫びに、まどかは答えることができない。結局、ほむらは改変後の世界も「悲しみと憎しみばかりを繰りかえす救いようのない世界」(第12話)として受け止めることになる。

キュゥべえとまどかの関係に立ち返ると、このことの意味はよりはっきりと把握されるだろう。キュゥべえはまどかと契約することで利益を得ようとしていたが、まどかが形而上の概念としての制度となってしまえば、彼女に干渉することはできない。キュゥべえはマゾヒストであり、それゆえ、与えられた状況に違反することができないからだ。干渉できないのだから、もはや、キュゥべえはまどかによっては決して満たされることがない。『毛皮を着たヴィーナス』に明らかなように、マゾヒストは相手に愛されないことを受け入れることはできるが、相手が自分の世界からいなくなってしまうことだけは決して受け入れることができない。だが、まどかがキュゥべえやほむらにしたのは、まさにそのことなのだった。

テレビ放映版はこれで終わりだが、続編として劇場版『魔法少女まどか☆マギカ 〈新編〉 叛逆の物語』がある。細かい説明は煩雑になるので控えたいが、この続編では、キュゥべえは、まどかに干渉するためにほむらを利用する。その代わりに、ほむらにまどかとの再会のチャンスを与える。すなわち、キュゥべえとほむらの間には、両者がともにマゾヒストとしての快楽を得るための暗黙の共犯関係が成立している。しかし、再会したほむらとまどかは、互いに親愛の情を抱いているにもかかわらず、互いのことを全く理解することができない。ほむらは彼女に対するまどかの救済を受け入れることができず、まどかは彼女に対するほむらの愛を理解することができないのだ。

ほむらは、最終的に、秩序に干渉する悪魔と化す。だから、表面上は、ほむらもまた、まどかと同様に制度を志向したかのように見える。しかし、ほむらは与えられた法を厳密に守りながら、法の裏をかくことで秩序に干渉するのであって、それはマゾヒストが法に抗う仕方に他ならない。彼女がキュゥべえを自らに従わせるときの身ぶりや口ぶりは、谷崎的な悪女そのものだ。ほむらとキュゥべえとの間には、それまでとは別のかたちではあるが、依然として契約が残る。その限りで、ほむらはやはりマゾヒストでありつづけている。それは、谷崎の悪女が、一見するとサディストに見えながら実際にはマゾヒズムの物語の中で第二のマゾヒストとしての役割を与えられているのと同様である。

ほむらはマゾヒズムの世界にまどかを再び引き込もうとし、それは成功したかに見える。しかし、まどかは文字通りほむらに眼を向けずに、制度としての自らの役割へと還ろうとする。ほむらはまどかに欲望と秩序の二択を迫り、まどかはほむらに秩序を尊重することを説く。このまどかの選択を、自らに法を厳密に尊重することを強いるマゾヒストのそれと混同してはならないだろう。なぜなら、彼女はこの答えによって、秩序の側から、世界の経営者として、秩序を守ることをほむらに強いることになるのであるからだ。まどかはどこまでもサディストでありつづける。

ほむらの問いは、マゾヒズムとサディズムの二者択一の問いにほかならないのだった。だからこそ、人は『まどマギ』を前にしてこの二択を思い浮かべたのではないだろうか。それは、『まどマギ』自体に埋め込まれた問いのひとつだったのである。

しかしながら、この二択にあっては、対話によるどんな発展的解消ももたらされることがないように思われる。なぜなら、マゾヒズムとサディズムのいずれもが倒錯した思想であり、したがって、対話することができない思想だからだ。したがって、逆説的ではあるが、『まどマギ』は対話のないポリフォニーだということになるのだろう。この対話のないポリフォニーにおいては、発展的解消がそもそもありえないため、一つの対立を維持したままで物語を際限なく続けることができるだろう。しかし、その反面で、結末はつねに場当たり的なものにとどまらざるをえないだろう。

対話のないポリフォニーにおける対立は、第二種永久機関のようなものだ。一見すると、この動力は不可逆的な世界において無限の進展を可能にするかのように思われる。しかし、実際には、それは熱力学第二法則の成り立たない世界、すなわち、原理からして可逆的に成り立っている世界でしか、期待されているような動作をしない。その代わり、この永久機関には、実際には進展のない可逆的な物語を不可逆的な進展の連続であるかのように見せかけるという、まさしく魔法のような力がある。