2015年10月31日土曜日

【みみず・ぶっくす 44】 楽しい夜更かし 小津夜景

【みみず・ぶっくす 44】 
楽しい夜更かし

小津夜景




 昨夜、妖精のような知人と夜更かししたとき、話の流れで「わたしの俳句は一〇〇%デジタル書きだよ」と言ったら、すごくびっくりされたので、思わずこっちがびっくりした。
 知人によると、この世の作句という現象は、皆なんらかの形で、手書きのプロセスを通過するものなのだそうだ。
 なにそれ怖い話? と思った矢先、一度句会を見学したときのことを思い出した。そうだ、確かあのときは紙に字を書いたよ、とわたしは返事したが、知人は変ないきもの見ちゃったなあという顔で、相変わらず首をかしげている。
 おそるおそる、わたしはかんがえる。
 もし紙とペンが必須だったら、何かを書くだろうか、と。
 書かない。というか、書くひつようがない。
 そして、ふつう人は紙とペンを前にすると、何を書けばいいのかわからなくなるものだが、あれは書くことがないからではなくて、もうじゅうぶん書いたからなのだ、と気づく。
 紙とペンは、まさに書く行為のシンボルだ。それを持てば、目的の半分が達せられてしまう類の。このステイタス・シンボルにふかく手を染めるとき、人は書き散らす自由ではなく、なにか別の欲望と戯れているのではなかろうか。
 でもさ、そうゆう戯れもそれはそれで楽しそうだね、とわたしは言う。だが知人は相変わらず首をかしげたままだ。
 わたしの声が、音声ガイドみたいに、宙に浮いている。
 わたしの認識に、なにか重大なエラーがあるらしいことがわかる。あるいは、プロセスに。


  楽しき夜ふかみ一足先にゆく 
雁や世を早送りするごとく

  くるぶしを露のころがる文化の日 
郵便夫ゆきてしづかな野分の忌

  坂鳥に気をとられたる深呼吸
瓦礫ほど萩の散る日に生まれしか

  月島の水脈はミルクをのむやうに 
死児連れて羊の雲を汲みにゆく

  うそ寒ジプシー踊る大四喜(ダイスーシー)
ジプシーの踵あらはれ秋の風

  量刑はきのこがよろしあけらかん
寝覚草どこ吹く風のかほがある
  
  こすもすはわが尻に帆をかけしかな  
頬杖の影も形もとらつぐみ

  限りあるものをそ知らぬ林檎かな   
トカレフや玉林を一つください

  ほうと吐き一糸まとはぬ月自身 
着古せし日の蓑虫を吊るすかな

  つぶらなる木の実をこぼす空手形 
黄落にいのちの太さあり 触れる

2015年10月30日金曜日

●金曜日の川柳〔谷口義〕樋口由紀子



樋口由紀子






つぶ餡のままで消えようかと思う

谷口義 (たにぐち・よし)

つぶ餡派とこし餡派がある。わが家でも二対二に分かれる。つぶ餡は小豆の粒の皮を取り去らない餡で、粒のままを残す。こし餡は小豆の皮を取り去ったものである。

「つぶ餡のまま」というのは口当たりがよくなくても、なにかしらの自分を保ったままという意味だろう。「消えよう」とはその場からいなくなる、死だろうか。悲壮感が漂うはずだが、「つぶ餡」がやわらげる。「かと思う」とさらっと書いているのは、おおげさな言いまわしはしないという矜持だろう。なにごとも言い立てない生き方に芯がある。

作者の立ち位置、人柄を感じさせ、見習いたいと思った。〈女らしく水を飲むのはむつかしい〉〈動物園と氏神様にたまに行く〉〈負けそうになると欠伸をしてしまう〉 「おかじょうき」(2014年刊)収録。

2015年10月29日木曜日

〔俳誌拝読〕『絵空』第13号

〔俳誌拝読〕
『絵空』第13号(2015年10月25日)


本文16頁。同人各氏作品より。

水位正常曼珠沙華そこらぢゆう  中田尚子

近道をすれば迷ふや虫時雨  山崎祐子

水飲んですとんと虫の夜になりぬ  茅根知子

庭先の煮炊きに秋の澄みにけり  土肥あき子


巻末にいわき復興支援グッズの告知も。
http://project-den.com/menu/ban_buguzzu.html

オリジナルポストカード

2015年10月28日水曜日

●水曜日の一句〔柏柳明子〕関悦史


関悦史









サイフォンの水まるく沸く花の昼  柏柳明子


俳句にできることのうちで重要なことの一つは、日常にひそむ幸福(それも感情的なものよりは感覚的なもの)の断片をすくいあげることなのではないかと改めて思わせる句で、「まるく沸く」という圧縮の仕方は、ちょっと気の利いた形容といっただけのものではない飛躍を一句に導き入れている。

「まるく」の完結性と求心性が「花の昼」を引きつけ、結晶させているのだ。単なるサイフォンが壺中天と化したかのようである。

コーヒーを淹れているのは屋内だが、「花」は屋外といった齟齬がさして目立たないのも、サイフォンの内と外、引いては屋内・屋外という包摂関係が、サイフォンの透明なまるさを通してひそかに多次元的に入り乱れているからだろう。

そのような眩惑が、単なる日用品の佇まいで身近にあり、人に見入らせ、「花の昼」を招きよせる。そしてその全てが素朴なリアリズムの枠内におさまる写生句の言葉に組織立てられている。幸福はその辺にあるということを、さりげなく体現している句といっていいのではないか。


句集『揮発』(2015.9 現代俳句協会)所収。

2015年10月27日火曜日

〔ためしがき〕 もう一度、「発句」と言いはじめるために 福田若之

〔ためしがき〕
もう一度、「発句」と言いはじめるために

福田若之

発句:はじまり。つねにはじまり。しかし、このはじまりは絶対的な起源ではない。∵書くことは書かれたものからしかはじまらない:つねにすでに言葉あり≠はじめに言葉ありき。
∴発句は再発する(ただし、「再発」という言葉をもはや単純には病災に直結させないこと)。→より穏当な表現:発句は再起する。

「発句」――歴史上の定義:連歌ないしは連句の第一句(となりうる句)。∴「発句」という語は、「俳句」よりも、一句になにか別のものが連なっていくという事態に対して寛容である。∴この言葉によって、「一句独立」という、極端に近代主義的な方向への一人歩きによって、もはや、まやかしでしかなくなったスローガン(現在では、それは文字通りにはまやかし以外の何ものでもないように思われる)を脱却することができるだろう。

「一句独立」:不可能な目標。∵いかなる言葉も、それが言葉であるかぎり、完全に独立することなどありえない(→言葉と魚群の類比)。仮に一句が完全に独立していることが俳句の条件であるならば、俳句は神話的な想像物(≠幻想。マラルメの「書物」やボルヘスの「バベルの図書館」は、物理的には実現不可能であるとしても、言語の基本原理を裏切ってはいない)でしかないか、でなければ、俳句はもはや言葉ではありえないだろう。

「一句独立」:魅力に乏しい目標。∵仮に、句集の一句一句が互いに一切のつながりを排すると同時に一冊の本として編まれたりしたら、その本はおそらく(少なくとも僕には)通読に耐えないだろう(一句一句がひとつのジャンル〔俳句〕に属する限り、そんな事態はありえないが)。それが引き起こすのは、ただめまいだけだ。人を喜ばせるのは不意のつながりであって、孤立ではない。

「一句独立」を否定すること≠「一句」という区分自体ことを否定すること。∵言葉は孤立しないが、分節化はする。

一句は、別の句とだけつながっているのではない。一句は、あらゆるものと有機的につながりうるだろう。

句集=架空の連句の発句集≒スタニスワフ・レム『虚数』(架空の書物の序文集)?

2015/9/15

2015年10月26日月曜日

●月曜日の一句〔鳥居三朗〕相子智恵



相子智恵






十三夜石鹸買つて帰りけり  鳥居三朗

句集『てつぺんかけたか』(2015.9 木の山文庫)より

 昨夜10月25日は十三夜、後の月であった。十五夜のような華やかさがなく(それをむしろ楽しむ)、満月に二日早いという、少し欠けたところのあるものを愛でる日本的美意識があるという。それと同時に十三夜の月は十五夜にくらべて、上ってくる時間が早めなので、寒くなってきた今頃の月見にはありがたいという事情もあるようだ。

これらのことを考えると、十三夜は十五夜に比べて「日常感」が強いともいえる。掲句の〈石鹸買つて〉との響き合いのよさに、その思いを強くした。

ほのかに良い香りのする真新しい石鹸を手にした帰り道という、日常の中の些細な幸せ。しかも十三夜の月が出だした時間で、嬉しさが重なる。そういえば、つるんとした白い石鹸は十三夜の月と相似形だなあと気づいたりして、さらに、ほんのりと心が嬉しくなる。

“小さな幸せの肯定”ともいうべき、じんわりとした味わいのある一句である。

2015年10月24日土曜日

【みみず・ぶっくす 43】 空ぞ忘れぬ 小津夜景

【みみず・ぶっくす 43】 
空ぞ忘れぬ

小津夜景



 はじめて式子内親王の歌を読んだとき、その楽しげな速書きぶりに胸がうち震えたのを覚えている。

 雨過ぐる花たち花にほととぎず訪れずして濡れぬ袖かな

 なんと奔放な語り口だろう。「花たち」の斬新な擬人法。「花たち/花に」の余りに大胆な、二の句をぶち切る体現止めとリフレイン。三の句越えの難所を「ほととぎず/おとずれず」と音のずらしで始末する粋。そして結句「私は泣かなかった」と告白する、ほろ苦くもけろりとした気品。
 大人になって気づいたのだが、実は右に記した歌には、私の思い違いによる多少の創作がまじっている。それでも式子内親王の作品に対する印象は今もって変わらない。とりわけ〈人の世を恋ひ慕い、同時に何ひとつ期待しない〉といった彼女の佇まいは、言葉をあやつる者にとってとても大切な心得のように思われるし、またこの心得を実践する現代歌人として、いつも私の心には紀野恵の存在がある。
 性愛に囚われない、ふっくら抜けたような色香。自由であるがゆえの、晴れやかな孤立感。情熱と同居する、あっけらかんとした知性。でたらめを心から愛するエクリチュール。なかんずく、物に心を寄せつつも物欲しげなそぶりが皆無という点で、紀野恵はまぎれもなく式子内親王の娘である。

 ことりと秋の麦酒をおくときにおもへよ銀の条(すぢ)がある空/紀野恵 

パンドラは閉ぢて儚き秋へ入る
クロノスの光をこぼす紙やすり
幽霊のしがらむ風だまだいける
木は踊る気分で泣いてゐるらしい
森ゆるくかたまる夜のしつけ糸
勾玉をさはやかに揉む文京区
いちじくの痣となるほど眠りこけ
いちまひの霧を薫きしめ酒杯哉
わが秋の虹をここへと掃き寄せぬ
木犀に落ちふりだしに戻りけり

2015年10月23日金曜日

●金曜日の川柳〔都築裕孝〕樋口由紀子



樋口由紀子






おにぎらず安保法案でき上がる

都築裕孝 (つづき・ひろたか) 1944~

フカシギな名前の食べ物が流行っている。「おにぎらず」。にぎらないおにぎりで、ご飯版サンドイッチのようなものである。にぎらないから「おにぎらず」なのであろうが、はぐらかされているような気がする。

「安保法案」、正式には「安全保障関連法案」。こちらもはぐらかされている。どう考えても安全保障とはほど遠く、むしろ、国民の生命と安全を脅かされる事態をまねく可能性の方が強い。掲句は言葉のいいかげんさと嘘っぽさで二つをつないだ。

安保法案が通ったことにちょうかいを出している。そのちょっかいの出し方が真正面から向かっていくのではなく、また肩肘を張っていくのではないところがいかにも川柳的であり、安保法案の一面を暴いている。「川柳杜人」(10月句会)

2015年10月22日木曜日

●化粧

化粧

美しき人は化粧はず春深し  星野立子

南風や化粧に洩れし耳の下  日野草城

働きし化粧のままに秋刀魚焼く  依光陽子

冬桜化粧の下は洪水なり  渋川京子

この野の上白い化粧のみんないる  阿部完市

初富士へ化粧が濃いとひとり言  田川飛旅子

野を帰る父のひとりは化粧して  攝津幸彦




2015年10月21日水曜日

●水曜日の一句〔矢島渚男〕関悦史


関悦史









花が咲く昆虫館の虫たちに  矢島渚男


自然状態の昆虫たちではない。人工の建物に密集させられた虫たちである。伊藤若冲の群鶏図のような、多くの個体がひしめく過剰さの美が出てくるのはそこからだ。

モチーフにもともと過剰さがあるためか、上五は「花が咲く」という無愛想な言いようだが、ここは言い回しで美化する必要はない。人に愛でられるものとしてではなく、機械のように反復されるものとしての自然の営みがそこから立ち上がるからである。

昆虫というのも生き物の中ではヒトから遠い分、感情移入のしにくいものであり、意思疎通にいたってはほとんど不可能。こちらも機械に近い別次元ぶりである。

つまりこの句は、観察用に集められた虫の群と照らし合わせることで、花からも機械的な相を引き出し、その上であらためて生命感を一句に充満させている。見慣れたものが見慣れぬ相であらわれると「不気味なもの」となるが、花が咲くという営みも、見ようによっては不気味なものではあろう。

その花と虫たちの生命活動は、しかし人工物のガラスやコンクリートで隔てられている。

ここから連想はミシェル・カルージュの奇書『独身者の機械』へ飛ぶ。

これはカフカの『変身』やジャリの『超男性』、デュシャンのガラスを用いた立体作品『彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも』などから、花嫁に決してたどりつかない独身者たちの空転する欲望という説話論的類型を導き出した、それ自体がシュルレアリスティックな本だが、この句に見られる「花」とガラスで隔てられた「虫たち」とは、ちょうどジャリやデュシャンの作品の、「花嫁」とガラスで隔てられて蠢く「独身者たち」に、そのままかさなりあって見える。昆虫館の外で花が咲いたところで虫たちには関わる術はないのだ。

そうしたシニカルさや不毛さを裏面に忍ばせながらも、一句は有季定型・花鳥諷詠的な生命礼賛の立場を崩さない。「花」と「虫たち」は分離されているどころか、「昆虫館」の壁をものともせずに感応しあっているようだ。

この句において徒労のすえの破滅にいたるのは独身者であるはずの虫たちではなく、昆虫館を作ったヒトなのかもしれない。ヒトが存続しようがしまいが生命は存続する。滅亡後の目から見る生命の美しさと不気味さ、そうしたものがこの句ではいわば見せ消ちにされている。


句集『冬青集』(2015.9 ふらんす堂)所収。

2015年10月20日火曜日

〔ためしがき〕 精神が斜めに45度ずれたまま戻らなくなってしまう夢 福田若之

〔ためしがき〕
精神が斜めに45度ずれたまま戻らなくなってしまう夢

福田若之

アイデアとして有用そうな、奇妙な夢を見た。備忘のために書いておこう。

一言で説明するならば、精神が斜めに45度ずれたまま戻らなくなるという夢だった。

目が覚めると、ベッドの上に仰向けになっている。顔を起こすと、視覚的にはあきらかに真っ直ぐに自分の身体が横たわっているのだが、 感覚としては、頭部を支点に斜めに45度回転してしまっている感じがある:下図の斜線部のように体が伸びている感じがするのである。


どうにか視覚を頼りに身体を起こし、ベッドに座ったかたちになる。このあたりで、単に寝ぼけているというわけでも、寝違えたというわけでもないことに気づく。あきらかに体感と視覚情報が一致しない:下図のように体があると錯覚する。


ここから、地面と垂直に立ち上がろうとすると、結果として身体を45度回転することになってしまい、ベッドに再び転がることになる。その後、以上の流れを延々と繰りかえす。起きることができない。→危機を感じる。

目覚めると、感覚は正常だった(痛みもない)。だが、気分としては、寝る前よりも少し疲れていた。

2015/9/5

2015年10月19日月曜日

●月曜日の一句〔山崎祐子〕相子智恵



相子智恵






四つ折りの身の濡れてゐる秋の蛇  山崎祐子

句集『葉脈図』(2015.9 ふらんす堂)より

冬眠を前に、動きが鈍くなっている蛇なのであろう。草むらにじっとしているのか、〈四つ折り〉という描写によって、蛇の姿がじつによく見えてくる。臨場感のある、ハッとさせる写生句である。

蛇の生態に詳しくはないが、冬眠前は蛇も栗鼠などのように物をたくさん食べておくのだろうか。〈四つ折り〉には、それなりに肥えた大きな蛇が想像されてくるのだ。しかも〈濡れてゐる〉の艶やかさによっても、量感豊かな感じがしてくる。秋草の露にしっとりと濡れた、存在感のある蛇。そんなことは一言も書かれていないのだが、来るべき冬を前に、なぜかこの蛇から秋の豊かさが感じられた。

この後、蛇はするりと冬眠する穴に入っていってしまうのだろう。秋も深まってきた。あと半月もすれば立冬である。

2015年10月17日土曜日

【みみず・ぶっくす 42】 川柳とその狂度 小津夜景

【みみず・ぶっくす 42】 
川柳とその狂度

小津夜景





 いったい川柳は、どのくらい俳句から遠いのか? 
 そう考えるときよく思い出すのが〈身体性の過剰な改造〉といった、川柳のひとつのパターンだ。
 俳人は身体の変質をあまり好まない。たとえ身体の違和や異化を詠もうと、それは文字通り違和や異化にすぎず、その中心にある身体への幻想はゆるがない。また身体性の問題を意識している俳人にしても、彼らの作業は身体をめぐる並の言説を疑い、その現象をくりかえし捉え直すことに費やされる。即ちそこでは〈本来の身体〉なるものが空虚なシニフィアンとして、やはり隠れた中心的機能を担っている。
 一方、柳人の身体に対する情熱は、まるで新種のアニマロイド(獣人)をつぎつぎ生み出すことに注がれているかにみえる。彼らは身体の破壊、継ぎ接ぎ、再生といったロボティズム的作業を、もったいぶった観念的意匠をまとうことなしに平然とおこなう。言ってみれば、川柳による身体性へのアプローチは、人文学的というよりむしろ工学的だ。
 この工学的指向こそ、川柳が芸術の言説によって捉えにくいことの一因だろう。しかしモロー博士の言うように、人間をつくりだすこと以上に芸術的なことはない。思えばSF作家ドゥルーズ=ガタリの試みも、来るべき時代の獣人創造という芸術的王道にあった。つまり彼らの言う強度とは、マッドサイエンスとしての川柳的狂度のことだったのだ。


  春風がばたばたと読むトルストイ   々々 
秋風が差異差異と憑くシニフィエ氏

  ソイラテと添い寝の距離が世界観   々々 
そばかすと懸巣がふれて虚数界

  黒板にヒポポタマスがいた昨日    々々 
昔日にかささぎを待つトイカメラ

  教室はいなくなるひとでいっぱい   々々 
秋の本棚並ぶはゐない人ばかり

  恋文を書いてるパンダはいいパンダ  々々 
毒のないきのこのやうに恋の人 
 
  真夜中を桃のかたちに切り開く    々々 
天誅を思へば桃のなまぬるく

  早漏の河童に会った銀座線      々々 
おほつぶの尻子玉おく草の花 
 
  雨の降る解答欄でおもいだす     々々 
霧ふかき恋の文書く教師かな

  メカニカル・マサオカシキと手をつなぐ 々々 
柿熟れてわたしと子規の最終話

  『月刊誌少年少女』(付録:脚)    々々 
付録まづ少女へうつす夜半の秋 

  バス停が盗まれていてさまよう日   々々 
満月やふはりと途中下車をして

  真夜中の Moominmammaの mの数  々々 
長き夜のMemento moriのmの襞

  くちびるを地図から拾う秋休み    々々 
くちびるは地図を奪はれ秋涼し

  たたずんだそのしゅんかんにかすめた阿 々々 
ゑのころ草帝国ここに与へられ

  額縁のなかでぞろぞろするつぼみ   々々 
宵闇はそぞろな耳を埋めたる

  人生のさんさんななびょばいおれんす 々々 
人生はやさしき担架曼珠沙華

  桜桃忌あなたは越えてばかりいる   々々 
小鳥来るここだけ冥き土となる

  各駅を網羅していくような虹     々々 
虹の栖む秋の駅舎は軋むなり

  いままでのすべてのうそをもらう吽(うん) 々々 
秋茄子のほんとは雲を掴むやう

  最後だけ違和感がある握りかた    々々 
だからいまこの手を離す羊雲

2015年10月16日金曜日

●金曜日の川柳〔堀小美苑〕樋口由紀子



樋口由紀子






下駄箱は靴靴靴で下駄は無し

堀小美苑

今はもうシューズボックスというのが一般的だろう。たぶんほとんどの家の下駄箱は靴ばかりで、めったに下駄は入っていない。しかし、「下駄箱」という言葉は依然として残っている。「下駄を預ける」「下駄をはかせる」なども今はどの程度理解されているのだろうか。

掲句の凄さは「靴靴靴」と視覚的表現をしたところにある。靴を三つも並べたおおげささに諧謔を感じる。昭和39年の川柳二七会で岸本水府が「靴」で抜いた(選んだ)一句である。「靴靴靴」という詠み方は当時としてはかなり珍しかったはずである。それをいち早く読み取っている。水府は立派な句を数多く残した川柳人だが、選者としてもたけていたのだとあらためて思う。

川柳二七会は昭和34年に発足した、「番傘」の兄弟会で、水府は初代会長。当時は会員に芸人や実業家が多く異色の川柳会で、現在も続いている。「二七誌」(1964年刊)収録。

2015年10月15日木曜日

〔人名さん〕 江利チエミ

〔人名さん〕
江利チエミ


沢山の茸がまるで江利チエミ  太田うさぎ

『蒐』第14号(2014年12月)より。


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2015年10月14日水曜日

●水曜日の一句〔飯田冬眞〕関悦史


関悦史









裏表なきせんべいよ母の日よ  飯田冬眞


「裏表なき」の形容は、煎餅だけではなく、もちろん母の愛情の無償性にもかかっている。

ただし煎餅の裏表のなさが母の愛情の暗喩に終わっているならば、一句はひたすら作者の心情を担い、鈍重になるはずだが、この句の場合は、母への思いからさらに一回転して、それを含み込みつつ、煎餅の即物性に一度主眼が返ってくる趣きがあるようだ。

「せんべい」はその素朴な味わい深さや、かつて何度もあってであろう母と煎餅を食べた記憶への導入部をも担いつつ、煎餅自体の物件性を意外に強く立ち上がらせてくるのである。

「せんべいよ」の「よ」を詠嘆と取るなら、その詠嘆は単に煎餅の裏表のなさへと向けられたものではなく、「せんべい」がその裏表のなさという特質によって、不意に母への感謝や愛情に通じる入口となりえたことへの感嘆も含んでいる。

重要なのは「せんべい」の物件性と「母の日」の組み合わせによって、明らかにこの「母」が存命であることが窺われる点だ(没後に意識するのは、母の日よりは命日であろう)。

「せんべい」と「母」が暗喩的に結びつくことは間違いないにせよ、「母の日よ」という結句はその裏表のなさをただちに母へと返し、報いるべく指嗾する。一方的な母への思いなどには終始しない、現存する母の身体性が地続きで呼び込まれていることがこの句の素朴な厚みとなっているのである。

句集に付された鍵和田秞子の序文によると、この句は結社の吟行会で、母の日に草加に行ったときのものだという。多くの参加者が芭蕉の旅の後追いに動くなか、草加への挨拶句として出色のものであったと。そうした成立事情を超えた「母の日」の名句と、この句はなり得ている。


句集『時効』(2015.9 ふらんす堂)所収。

2015年10月13日火曜日

〔ためしがき〕 死体と笑い 福田若之

〔ためしがき〕
死体と笑い

福田若之

アメリカのテレビ・ドラマ・シリーズ『BONES――骨は語る』のオープニング・シークエンスは、しばしば、腐乱死体の発見者を笑いものにする;発見者の絶叫が腐乱死体のクローズアップに重ねられる。∴人間は腐乱死体に対しては叫びをあげるが、腐乱死体のクローズアップに対しては笑うことができる。

もちろん模型には違いないが、それは極めて精巧なものに思える(僕は本物の腐乱死体を見たことなどないにもかかわらず、なぜかそれを「本物らしい」と思う)。∴笑いは演出の「お粗末さ」に対する反応ではない(演出はむしろ徹底されている)。

だが一方で、おそらく、この場合、模型がそれほど精巧でなくとも、腐乱死体を見ながら笑うことができる(模型の精巧さは、発見のシークエンスよりはむしろ、後の科学的考察のシークエンスが要請するものである)。∴ここでの笑いはもっぱらシナリオに起因している。

シナリオがもたらす笑いは、腐乱死体の映像が与えるショックへの感覚を麻痺させる効果を担っている;それは多くの場合、シニカルな、ピリッとした笑いである(ちょうど、食肉の腐臭をごまかすために香辛料を用いるようなものである→スパイスとしての笑い)。

このとき視聴者の身に起こっていること:眼と精神の人工的な分離。この分離は、物語上の効果(発見者の滑稽さ)が視覚的な効果(死体の模型の精巧さ)の関数ではないという事実に対応して引き起こされるといえそうだ。

2015/8/25

2015年10月11日日曜日

【みみず・ぶっくす 41】 ムーミン的リアル 小津夜景

【みみず・ぶっくす 41】 
ムーミン的リアル

小津夜景





 知りあいに妖精っぽい人がいる。
 妖精っぽいその人は、たまに妖精のプリントTシャツを着てうちのアパートにやってくる。ムーミンの柄とかの。
 それでこの前、ねえ、そのムーミンの柄似合うね、と褒めたら、いえ、今日のファッションは駄目です、ムーミンってあまりに自己言及的なんですよわたしが着ると、とその人が言った。
 たしかに妖精のプリントTシャツを着た妖精っぽい人というのはクレタ人風の腰巻きを巻いた生粋のクレタ人のようなものだ。表裏の判別しがたい布みたいに、真と偽が爽やかなシステムエラーを起こしている。
 自己言及とは、事故言及なのかもしれない。
 なるほど。変なこと言ってごめん。と、わたしはなんとなく謝り、きゅっ、とその人を抱きしめようとした。
 だがほとんど事故的なまでに服を着こなしたその人は、もはや服そのものと見分けがつかない。
 わたしの腕の中は、確たる顔のない、ぬらりとした柔らかい襞が、ひらひらそよいでいるばかりだ。
 ただ、天のはごろもようなものが、存在に影をあたえる。
 ふいに、ムーミンというのは(いることはいるが、何かはわからないもの)という意味であった、と思い出す。

 
学名のひびき他界の秋を帯び
かささぎや昔の時計こと切れる
小鳥購ふ主が冥土のみやげ屋で
煙となる日の蟋蟀を羽織るかな
捨て石にあかるさかへる鴫の沢
秋あかね散るは未完に見ゆる道
羽衣をぬげば花野は灰となり
雲に月隠れてエクソシストの血
瞑りゆく目は鶏頭の襞のまま
虫売りの息を引きとる紙片かな

2015年10月9日金曜日

●金曜日の川柳〔須川柊子〕樋口由紀子



樋口由紀子






ぶら下がっていればそのうち赤くなる

須川柊子 (すかわ・とうこ) 1958~

秋の実が色づいている。その実を見て、我が身に引き寄せている。おとなしくぶらさがっていれば、お日さまや雨が実を熟してくれる。人生はなるようにしかならない。与えられたところで、あるがままにしていくしかない。じたばたしてもしかたがない。諦念だろう。

福山雅治が結婚して、女性ファンから悲鳴が上がったそうである。確かうちの娘もファンだったはず、早速LINEを入れてみた。「あっ、そう」と素っ気ない返信がきた。追伸で掲句を送ったら、同じように「あっ、そう」だろうか、それとも無視するだろうか。

人生はそんなもんである。というか、そうするよりほかはないことが多い。「ぶら下がって」がいかにも川柳っぽい。〈ハーハーと息をかけても青い空〉〈ブツブツを付けてもゴーヤにはなれず〉 「川柳杜人」秋号(2015年刊)収録。

2015年10月8日木曜日

●二時

二時


枯蓮かれこれ二時になりにけり  大島英昭〔*〕

初春の二時うつ島の旅館かな  川端茅舎

梅雨寒し忍者は二時に眠くなる  野口る理

火蛾去れり岬ホテルの午前二時 久保田万太郎

白繭のひかり二時打つ山の寺  飯田龍太


〔*〕大島英昭句集『花はこべ』(2015年5月/ウエップ)

2015年10月7日水曜日

●水曜日の一句〔石田郷子〕関悦史


関悦史









蛾を食べて小玉鼠も冬ごもり  石田郷子


「小玉鼠」は妖怪の名でもあるようで、検索するとそちらばかり出てくるのだが、ヤマネの別名らしい。蛾は実際に食べるという。

実在の生物と確定できる「ヤマネ」ではなく、妖怪とも動物ともつかない「小玉鼠」という呼び方(「むじな」のようだ)をしていることで一句は共同幻想の領域をも含み込む。

妖怪としての「小玉鼠」は、山中で人に出会うと体を破裂させ、山からの警告としてマタギたちのおそれの対象となったという(この辺全部ウィキペディア情報なのだが、一応出典は明記されている)。

つまり山の霊威を背負っているわけだが、見た目は小さく可憐な齧歯類である。冬ごもりに入るとなればなおさらだ。「ヤマネ」と呼ぶにせよ「小玉鼠」と呼ぶにせよ、「小玉鼠も冬ごもり」の中七下五は、自然のうちの慕わしく快適な面しか見せておらず、ほとんどぬいぐるみに近い。

「蛾を食べて」といういささかぎょっとする出だしが、それに実在感と生命感を与える。同じ作者の知られた句《春の山たたいてここへ坐れよと》《掌をあてて言ふ木の名前冬はじめ》の「たたいて」「掌をあてて」と同じような機能を「蛾を食べて」が果たしているのである。

この句は、いま現在「蛾を食べて」いるという形では書かれていない。蛾はすでに胃の腑におさまり、小玉鼠は冬眠に入ろうとしている。見た目はかわいいかもしれないが、冬眠は動物にとってそれなりに過酷な時間だろう。長い眠りの中で、蛾は次第に消化されてゆき、その生命は小玉鼠へと溶融し、移っていく。そうした生命の受け渡しを、小玉鼠に見入ることで語り手も追体験している。

しかし「たた」くにせよ「掌をあて」るにせよ、いずれも強い共感を示しつつ、かえって接触面を際立たせ、語り手が山や木の外側にいることをあきらかにしてしまう動作である。この語り手の強固な等身大性が、生命主義という一般論性への没入の歯止めになっているともいえる。

「蛾を食べ」た「小玉鼠」への寄り添い方もそれに近いといえば近い。しかし語り手の姿や動作が少なくとも表面上は消えている分、小玉鼠の充足感が底光りしてくるようだ。


句集『草の王』(2015.9 ふらんす堂)所収。

2015年10月6日火曜日

〔ためしがき〕 「幅広い選」から「開かれた選」へ 福田若之

〔ためしがき〕
「幅広い選」から「開かれた選」へ

福田若之

俳句というジャンルにおける「幅広い選」の称揚:多様性の顕現という現代的状況によって過熱したものである。加えて、寛容さ=道徳的な美徳、という図式(この等式自体は誤りではないだろう)。

だが、選とはそもそも狭くすることに他ならない。選ぶことは、(一面としては)区分し排除することにほかならない。

「幅広い選」も、排除する。「幅広い選」も絶対的な寛容さを持つことはありえない。∴「幅広い選」は、それが見せかけの寛容さを伴うがゆえに、より悪質な排除として働きかねない(それはジャンルを征服し、価値観を均質化する:選のグローバリゼーション)。

選に要求されること=開かれていること≠広いこと。

開かれていること。それも、自らの排除するものへ向けて開かれていること。狭いことと開かれていることとは必ずしも矛盾しない(隠喩:シンガポールは狭い国だが、交易は盛んである)。

選を開くにはどうすればよいか→「開かれた選」の定理はない(三角形の二角を等しくすれば二等辺三角形になる、という具合には、「開かれた選」を実現することはできない)。だが、「開かれた選」は、とにかく、何かしらのかたちで、自らの排除するものへ向けて開かれているはずだ。

2015/8/25

2015年10月5日月曜日

●月曜日の一句〔椎野順子〕相子智恵



相子智恵






月の夜の降りくるものを待つ海底  椎野順子

句集『間夜』(2015.9 ふらんす堂)より

光を降らせ続ける月と、降ってくるものをひたすら待ち続ける海底。月光が届く浅瀬にも海底はあるが、私はこの句に深海を、光が届かない暗闇の世界を想像した。〈降りくるもの〉を静かに、けれども焦がれて待つ海底とは、魚や海藻で賑やかな浅瀬の海底ではなく、わずかな生物しか住むことのできない、深く静かな、淋しくも安らかな深海の海底ではないかと思うのだ。

月が降らせ続けても、海底が待ち続けても、月と海底とが光によって結ばれることは永久にないのだろう。けれども、海底には上から何かが降ってくる。砂粒かもしれないし、死んだ魚の欠片かもしれない。その〈降りくるもの〉は、光を知っているかもしれない。海底はそれを待ち続ける。海底が知らない光の物語を。

月から始まり海底で終わる語順によって、読者の心は無理なく上空から海底へ、明から暗へと誘われる。静かに何かを恋う気持ちが湧いてくる。雪・月・花という季語に含まれる「君を憶ふ」という心も、ここに思われてくる。

2015年10月3日土曜日

【みみず・ぶっくす 40】夢をみる人は 小津夜景

【みみず・ぶっくす 40】 
夢をみる人は

小津夜景



 昔、外国にいた叔父が、当時小さかった私に言った。
 敗戦で日本にひきあげる時は死を覚悟した。それでも、もうだめだという瞬間までは好きにやるつもりでいたら、結局最後に手元に残ったのがヴァイオリンだった、と。
 子供の私は「その状況で楽器?」と、叔父の話をまったく信じなかった。ところが大人になったある日、柳宗理のこんな戦場体験を知った。
 柳は南方戦線で、食料もなく、最後は何ヶ月もジャングルの中をさまよったらしい。そしてとうとう動けなくなりもうだめだと悟った時、大切にしていたコルビュジエの原書『輝く都市』を背嚢から取り出して土中に埋めたのだそうだ。
 『輝く都市』は三百頁に及ぶ大判の建築図版である。私は柳がこんな重い本を背負ったまま戦地を逃げ回っていたことに驚きつつ、だがこれはふつうのことなのだ、とも思った。
 ある種の人は死のぎりぎりまで夢をみる。
 死とひきかえに夢をみる人さえいるだろう。
 夢を見る人は、つまり何を見ているのか? 
 僕はね、記憶をたぐると、そのたび過去が新たに生まれるような心地がする。記憶は書庫に似て、なんどでも読み返せるんだ。記憶をモニュメントと捉えるのは、あれは噓だよ。モニュメントは夢の終わった場所に建つものだからね——叔父はごくふつうの顔で、そう語った。


使用済みインクの滲む雲や秋
8ミリの濁りが蔦の記念日に
虫籠の眩しい祖母はぼけてゐる 
手を引いて回るモビール美術展
鳳仙花時間をかけて書き損ず
うたたねを食めば過客が月代に
郵趣家とすれちがふなり秋の虹
流れ星あまた高胸坂に死す
未公開シーンは雨のきのこ狩り
長き夜フイルム静止したままの

2015年10月2日金曜日

●金曜日の川柳〔森田律子〕樋口由紀子



樋口由紀子






タスマニアデビルに着せる作業服

森田律子 (もりた・りつこ) 1950~

「タスマニアデビル」って、私の苦手な猫だ。夜行性で日中は岩穴などに隠れていて、かなり凶暴であるらしい。それにしても「デビル」っていう名前をつけるのって、どうかと思う。街で愛玩猫や犬にいろんな衣裳を着せている人をたまに見かける。可愛い系のふりふりの服が多い。しかし、ここでは「作業服」。

「作業服」だからなにか作業をさせるつもりなのだろう。が、なんのために着せるかとは書いていない。言いっぱなしの、プチンと切れたテレビ画面のように印象に残った。それでしかたなく、どんな格好になるのかと想像してみたら、思いのほか存在感があり、ありえると思った。

「タスマニアデビル」と「作業服」の言葉で作った像が不思議なインパクトをもって迫ってきた。ガチガチの批評性はなさそうだが、ほんのりとした悪意がありそうである。「はなわらび」(2014年刊)収録。

2015年10月1日木曜日

●戦前

戦前


戦前・戦後・正午・服部時計店  高野万理

蟬しぐれもはや戦前かもしれぬ  攝津幸彦

戦前を鼠花火はくるしめり  三橋敏雄