2016年12月31日土曜日

●2017年 新年詠 大募集

2017年 新年詠 大募集

『週刊俳句』は新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールをお添えください。
※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2017年11日(日)~16日(金) 24:00

※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html

2016年12月30日金曜日

●金曜日の川柳〔敬介〕樋口由紀子



樋口由紀子






寝ころんで猫さし上げて職がなし

敬介

「職がなし」が需要なポイント。寝ころんで猫を高くさし上げているのはのんびりとしてなんともおだやかである。が、無職なのだ。これはたいへんで、直に生活に支障をきたす。なんとかしなくてはならないと思っているが、なかなかうまくいかない。

猫とじゃれている場合ではないこともわかっている。といって、無職なのだから他にやることもない。家族やまわりの人は早く職を探せとなにかとうるさいが、猫はニャーとなくだけで説教なんかしない。さてさてどうしたものかとつぶやきながらまた猫をさし上げる。

今月出版された『猫の国語辞典』はどの猫にも愛情たっぷりなユニークな国語辞典。掲句は「ねこといる」(人は猫から安らぎを、猫は人から食べ物と安全をもらう)の項目より。〈金沢のしぐれをおもふ火鉢かな 室生犀星〉〈火が灰になり行く猫と静けさ 尾崎放哉〉 『猫の国語辞典』(2016年刊 佛渕健悟 小暮正子編 三省堂)所収。

2016年12月28日水曜日

●水曜日の一句〔岡村知昭〕関悦史


関悦史









ヒトラーの忌に頼まれて然るべく  岡村知昭


死んでゆく者から何ごとかを託されたら、それを反故にできる者はあまりいない。縁があろうがあるまいが、それは神からの召命にも似た道徳的・超越的強制力を帯びることになるからである。その強制力をもって、当人には何の動機もないまま物語を起動させることができるので、小説などのプロットにもこの依頼・代行のテーマはよく使われる。

この句の場合は、ヒトラー当人から頼まれたわけではない(「ヒトラーの忌」には当人はもういない)。しかし意向としてはヒトラーのそれを受け継いでいる。実質、死者からの依頼と同じこととなる。同じ死者からの依頼であっても「終戦の日」「敗戦の日」であれば戦災犠牲者の意向を継ぐことになるが、この句はそうではない。もちろん実際にはおよそあり得ないことである。

この句は、無自覚にファシズムに呑み込まれる危険を描いているわけではない。相手がヒトラーであることはわかっており、「然るべく」はもはやその着実な積極的遂行への意志を示している。

では道徳的・超越的強制力がかえって悪への一歩を踏み出させてしまう機微を描いているのかといえば、そういうわけでもない。

この句は、その語り手が作者に近い普通の暮らしを営む日本人であればおよそあり得ない、ヒトラーからの召命による選抜という妙な事態のみを描いているのである。ヒトラーがいわば唐突にトーテムとなって寄り添い、語り手はその威光を帯びた自分となるのだ。

この句はそうした、いわゆる中二病的な誇大妄想からその熱狂を差し引いた、妄想の極薄の痕跡だけを言葉で掬い取った句であり、そうなるためには依頼する主体は善良なものであってはならなかったのである。


句集『然るべく』(2016.11 人間社・草原詩社)所収。

2016年12月27日火曜日

〔ためしがき〕 カレーの匂い 福田若之

〔ためしがき〕
カレーの匂い

福田若之


カレーというのは、どうやらとても匂うものであるらしいと知ったのは、小学校に入ってからのことだったと思う。僕はそれを知ったのであって、気づいたのではない。僕にとって、それを知ることは、すなわち、僕がひとの嗅ぎうるものを嗅ぎえないということを知ることでもあった。カレーとは匂いのするものだということは、僕にとっては、いまなおひとつの知識でしかない。

給食がカレーライスの日に、クラスメイトが、カレーの匂いがする、と言った。僕らの教室と給食室とは、階も違うし、直線距離でも数十メートルは離れているはずで、それなのに、今日の献立を正確に当てたそのクラスメイトは、きっと並外れた嗅覚の持ち主なのだろう、と思った。べつに、そうではなかった。

べつに、カレーの匂いだけが分からないというわけではない。高校時代は、山手線に乗ったとき、空いている席に座ってふと隣をみたら丸一年は着替えていないのではないかといった風体の人が座っていた、というようなことが少なくとも二回はあった。よく見ると、周りのひとびとがそのひとから距離をとるその仕方は、きれいな同心円を描いていて、ああ、臭いがするんだな、と思った。

僕のからだが、いったいどういう仕組みで匂いを感じないのかは、よくわからない。もちろん、一度、耳鼻科には行ってみた。子どものころのことだ。原因を特定できないまま、もしかすると治るかもしれないというので、ビタミンを注射された。下手な注射のせいで腕は腫れたが、匂いについては相変わらずだった。それ以来、この件で耳鼻科にかかったことはない。

幸い、匂いがわからないからといって、これまで、さほど困ったことはない。理科の実験でつくったアンモニアやら硫化水素やらは、ちゃんと鼻に痛みを催したので、刺激臭やら腐卵臭を感じなくとも、たぶん危険を察知するには困らないだろうと思っている。もちろん、硫化水素は腐卵臭がする、という事項を覚えておけば、腐った卵の臭いを感じなくとも理科のテストで点をとることはできた。それは、つまり、言葉と言葉のつながりを覚えることだ。僕は、自分が感じえないものについて、それを知っていることとして言葉にすることができる。できてしまう。

俳句における客観とは、つまるところ、これだと思う。金木犀は匂うのだ。みんながそう言うときには、ことばのうえで、金木犀は匂うのだ。だから、僕はきっと死ぬまでその匂いを感じることはないだろうけれど、金木犀が匂うことを前提とした句を書くことができる。金木犀を、匂いのする花として語ることができる。硫化水素の臭いについて、答案に「腐卵臭」と書くことができるように。それは、嘘をつくことではなく、客観的なことばに身をゆだねることだ。現に、僕は過去に何度か匂いの句を書いてきたし、それらの句のいくらかは、「共感」を得たように記憶している。たとえば、「カレーの匂い」というとき、その言葉が持つコノテーション(たとえば、庶民性であるとか、カレーという料理がどういう場に似つかわしいかといったことなど)を十全に理解していれば、「共感」を産むことはできるはずだ。そればかりか、僕はたとえば《夕焼やカレーの匂ふ坂帰る》(平井湊)といった句に「共感」することだってできる。この句には、郊外の住宅地の夏の風情がたしかにあり、住む町、帰る家への愛着が感じられる。カレーの匂いを感じることはできないけれども、この句から僕は多くのことを感じることができるし、カレーは遠くまで匂うということを知識としては知っているから、僕は、この句の「カレーの匂ふ坂」ということばを、どこかの家からカレーの匂いが漂ってきているのだろう、と理解することができる。嗅覚の語彙をめぐる僕のこうしたありようは、まわりのひととうまくやっていくうえでも必要なことだった。匂いについての語り口を習得することは、ひとがそれらを嗅ぐしぐさをまねながら、自分には嗅げないものをあたかも嗅げているかのようにとりつくろう仕方を覚えることでもあったように思う。

その一方で、いま、僕は、僕にとってはあくまでも金木犀は匂わない花なのだ、といつでも言うことができる。匂う花があるのではない、花に匂いを感じると言うものがいるだけだ。ならば、僕の書く匂わない金木犀は、みんなの書く匂う金木犀と比べて、すこしも嘘ではないはずだ。そして、僕が匂わない金木犀を眺めながら感じたことの一切は、みんなが金木犀に匂いを感じるということによって否定されはしないはずだ。主観は、けっして、客観に比して劣るものではない。ここには二通りの真実があるのだ。そしてまた、二通りの誠実さがあるのだ。

2016/10/30

2016年12月25日日曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

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※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2016年12月24日土曜日

〔人名さん〕プレスリー

〔人名さん〕
プレスリー

聖夜の「じゃがりこ」どの局もプレスリー  今井 聖

『俳句界』2016年12月号より。

2016年12月23日金曜日

●金曜日の川柳〔但見石花菜〕樋口由紀子



樋口由紀子






すっぽりと包めば怖いことはない

但見石花菜 (たじみ・せっかさい)1936~

自分に言っているのか、他人に言っているのか。怖いのは世間か、上司か、妻か、失態か。世の中には怖いものがいっぱいある。怖いからつい目を逸らしたり、見ないようにしてしまう。

「怖いことはない」は「怖い事」ではなく、「ことがない」の連語で「する必要がない意」で「怖がる必要なない」を表しているのだろう。しかし、すっぽりと包んだって、そのなかにあるものは変わらない。消えていくわけでもなく、減っていくわけでもない。ただ見えなくなっただけなのにと、作者に忠告したくなってしまうが、それは作者の想定内で、読み手が掌中に嵌ったことになるのだろう。すっとぼけた楽天性を出している川柳である。第28回川柳塔きゃらぼく忘年句会報(平成4年刊)収録。

2016年12月22日木曜日

●思想

思想


思想とは痩せるものなり鎌鼬  谷口慎也〔*〕

降り積む雪赤き思想を覆いきれず  橋本夢道

父の思想の桜の国のラヂオ商  攝津幸彦

無思想の肉が水着をはみ出せる  長谷川 櫂

芒原シャツと思想を交換す  岡野泰輔

わが友の思想の底の車海老  西原天気


〔*〕『連衆』第79号(2016年12月)

2016年12月20日火曜日

〔ためしがき〕 信号機 福田若之

〔ためしがき〕
信号機

福田若之


信号機というと、「記号」の一例としてとりあげられることが多い。赤が停止を意味する。これが「記号」だ、というわけだ。けれど、おそらく、信号機の本分は、それが「記号」として働くことにあるのではない。

思うに、信号機の本分は、二重の意味で、「接触」をなくすことにある。

まず、信号機は、生身のひとにせよ、乗りものにせよ、とにかく複数のものがふれあいそうなところで、それを防ぐために働く。ひとや乗りものがぶつかったり、同じ線路を取りあったりして事故を起こすことがないように。

では、どうやってそうするのか。「接触」しそうになるものたちのコミュニケーションに割って入ることによってだ。信号機が働いてさえいれば、もはやドライバーに会釈しなくとも、あなたは車道を渡ることができる。あなたは止まった車のドライバーの顔色をうかがう代わりに、信号機の光の色をうかがう。信号機によって、僕らは、互いの進む道が交わるときにも、相手と全く交わることなしにそこを通り過ぎるだろう。信号機が灯るところで、僕たちはもはやふれあわない。すなわち、「接触」しない。これこそ、信号機の第二の効果だ。

信号機は、徹底的に、僕たちの「接触」をなくすために働いている。

2016/10/28

2016年12月19日月曜日

●月曜日の一句〔森山いほこ〕相子智恵



相子智恵






絨毯に置く花嫁のスニーカー  森山いほこ

句集『サラダバー』(2016.10 朔出版)より

一点のみ、一瞬のみを切り取り、背後に大きなドラマを想像させるという、俳句の一つの面白さがある写生句。

ただの嫁ではなく「花嫁」であるから、当然、結婚式当日が思われてきて、この絨毯も結婚式場のそれなのだろうと想像される。

この花嫁は、式場までは普段通りの自分であるカジュアルな服装とスニーカーで来て、控室で上から下まで貸衣裳の花嫁衣裳に着替えたのだ。式場はすべて非日常だから、控室の絨毯だって華やかで上品だろう。そこに場違いなスニーカーがぽつりと置かれている。

非日常なハレの場の、ケの綻び。それがみじめではなく、明るい。花嫁のスニーカーという意外性と、そこから感じられるアクティブな人物像、現代的な軽い空気感が、一句を爽やかなものにしている。

2016年12月17日土曜日

●包帯/繃帯

包帯/繃帯

包帯をほどき焼け野のそらもやう  小津夜景

繃帯の指を離れよしゃぼん玉  岡田史乃

繃帯の喉にゆるやか卯浪寄せ  波多野爽波

包帯のぬくさに似たる花の中  大木あまり

歯を借りて繃帯むすぶ子規忌かな  秋元不死男


2016年12月16日金曜日

●金曜日の川柳〔永田帆船〕樋口由紀子



樋口由紀子






独り寝のムードランプがアホらしい

永田帆船 (ながた・はんせん) 1914~1996

就寝時につける小さい灯りを買ってきたのだろう。その商品名が「ムードランプ」だったのだろう。今だったら、こんなベタな名前はそうない。その当時は「ムード」という言葉が流行っていたのかもしれない。「独り寝」にはムードもへったくれもない。「ムードランプ」という命名を茶化している。

「アホらしい」の「らしい」は「の様子である」とか「の風である」とか、感じがするとか推量を表わす助動詞ではないだろう。ムードランプが壊れているとか、アホのように見えることではないと思う。関西弁の「アホらしい」で、あきれてしまっての「ばかばかしい。あほくさい」ということであろう。〈とある日の客が写楽に似ておかし〉〈スタイルにペーソスがあるチャップリン〉 『永田帆船句集』(1990年刊)所収。

2016年12月15日木曜日

〔人名さん〕モナリザ

〔人名さん〕
モナリザ


モナリザはまつ白な息吐きさうな  大木あまり


『星の木』第16号(2016年2月3日)所収。



2016年12月14日水曜日

●水曜日の一句〔森山いほこ〕関悦史


関悦史









新社員動く歩道にさざめけり  森山いほこ


動く歩道も大都市では物珍しいものではなくなって久しい。俳句で扱われることは多くはないかもしれないが、必ずしも素材の新奇さに頼った句ではない。

季語「新社員」はその初々しい、不慣れな挙措、行動が直接モチーフにされることが多くて、どちらかというと微笑ましくも野暮ったい句になることが多い気がするのだが、ここでは彼らは真新しいスーツに身を包み、一団となって動く歩道で移動しつつ、気安く談笑しあっているだけである。

だが、そのスマートさがかえって新社員たちの緊張や晴れがましさといった気分全てを、その存在感とひとまとめにして、より際立たせることになる。

この句の「新社員」たちは、都市を舞台とするアクターのようでもあり、水族館の水槽内の魚たちのようでもあり、マネキンじみた美神のようでもある(「さざめき」に秘められた生気と歓喜性……)。動く歩道で一団となってなめらかに水平移動していく新社員たちは、大都市というものが持つ一種の虚実皮膜性を体現しているといえる。「新社員」から、都市部ならではの抒情を清新に引き出した句である。


句集『サラダバー』(2016.10 朔出版)所収。

2016年12月13日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム8 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム8

福田若之


ひめりんご夢の乾電池の味だ



液晶画面の粗いローマ字、悪魔か何かの名みたいに見た


さんすうが算数になったなのはな


校門でおじさんがくれた聖書おしつけあう下校


来る日も来る日もプププランドでなぶりあう


2016/10/22

2016年12月12日月曜日

●月曜日の一句〔千葉信子〕相子智恵



相子智恵






影はみな主をもてり冬座敷  千葉信子

句集『星籠』(2016.10 深夜叢書社)より

「人や物は、みな影をもっている」というのとは真逆の発想で、ハッとさせられる。初めから作者の心を離れないのは影の方で、主ではなく影が主体なのだ。

主がいなければ影も生まれない。ここに描かれた影たちは、その事実の寂しさと哀しさを内包している。しかし、そうでありながら影が主体として語られた時、そこにわずかな浮遊感というか愉悦というか、そういう不思議な感じが私の中に立ち現れてきた。

「冬座敷」という季語が選ばれていることも大きい。室内の灯火と暖房と人々の気配に、寒さの中にぬくもりが感じられてくる季語である。掲句を読んで、あたたかな冬座敷の中であちこちに動く、寂しくて楽しい「影絵」を見ている気持ちになった。影が主で、主が影なのだ。

もしかしたら、この作者が影と主との間に見出してしまう距離感は、冬座敷に集う人と作者との心理的な距離感でもあるのかもしれない。

雪に産みまた一人産み吾子とよぶ〉この句の吾子と母の距離感にも同じような寂しさと美しさがあるのではあるまいか。

吾子は産み落とした最初から吾子なのではなく、呼んで初めて吾子になる。その距離感と、まだ母から呼ばれていない雪の中の吾子の、何物も近づけないような清らかさ。

近いのに遠い、透明な距離感。その寂しくも浮遊する感じが美しいと思った。

2016年12月10日土曜日

●学校

学校

学校が早く終つて竹の秋  岡野泰輔

すかんぽのひる学校に行かぬ子は  長谷川素逝

学校の鶏鳴いてゐる秋の暮  辻田克巳

学校をからつぽにして兎狩  茨木和生

雪垂れて落ちず学校はじまれり  前田普羅


2016年12月9日金曜日

●金曜日の川柳〔富田産詩朗〕樋口由紀子



樋口由紀子






おかめフト真昼の顔を持て余し

富田産詩朗 (とみた・さんしろう) 1926~

「おかめ」とはとりもなおさず愛嬌のある顔。お多福のお面のように低い鼻で赤くふっくらしている頬で、他の人を安心させてくれる顔だろう。そのおかめのそれもお日様が燦々と輝いている真昼の顔。

どうしてこういう顔をしているようになったのだろうか。いままであまり深く考えずに過ごしてきたが、「フト」そう思った。そんなもろもろに嫌気がさしてきたのだ。「フト」のカタカナ表記が核心を突いていて、ぴりりと効いている。

生きていれば、あるいは世の中には持て余すものや持て余したいものがわんさとある。おかめは女性だから、作者はそのような女の人を見てそう思ったのだろう。あるいは自分を投影したのかもしれない。鋭い目線である。〈花終る、花のことばのなかりしまま〉〈たはむれに空の深さへ唾を吐き〉 『川柳新書』(昭和31年刊)所収。

2016年12月8日木曜日

【俳誌拝読】『靑猫』創刊第一号

【俳誌拝読】
『靑猫』創刊第一号(2016年9月20日)


編集:靑猫句会・大江進、本文24頁、モノクロ(表紙2色)。本文字組を含めデザイン全体に洗練味。同人諸氏は山形県在住。

鷲の巣や暗き谷間の喉開く  大江進

さざ波に揺れのやまずや桜貝  佐藤歌音

初秋の木の間木の間に水の音  大場昭子

コロッセオに猫の影殺すなネロ  相蘇清太郎

夏草にダルマ転んで起きられず  今井富世

手袋のやうな手首を拾ひけり  南悠一

雪解田の遠くに誰か動きけり  あべ小萩

(西原天気・記)




2016年12月7日水曜日

●水曜日の一句〔大木あまり〕関悦史


関悦史









海鳥の切手を集め生身魂  大木あまり


生身魂と切手収集を取り合わせの句は見た覚えがなく、清新さがある。しかし切手収集の世界も高齢化が進んでいるようで、実際にこうした生身魂もいるのだろう。あまり無駄な元気さのない、大声を出したりはしない男性が思い浮かぶ。マイペースに淡々とそれなりの健康を維持していそうでもある。

切手ならば有用性はあるし換金もできるが、収集癖となれば、関心はいずれ無益さに軸足が移る。生身魂と呼ばれる年になってなおコレクションを処分せず、収集を続ける姿には、そうした虚無に隣り合わせつつ、それを飼いならしてゆく安定とでもいったものが感じられるのだ。

ただし収集の対象となっている切手は「海鳥」である。広大な見果てぬ外部への飛翔という形でここにロマン性がひそむので、虚無や不毛といった要素はうすれる。ひねた辛気臭い老人ではなくなるのだ。際限なく種類が増えていく小さな官製印刷物の意匠を集めつづける老いた身心は、無限とロマン性と明晰な審美的判断力(それは単なる独断や偏愛に過ぎないものかもしれないのだが)を集約しながら、見かけはごく慎ましく平凡に家に居る。

集めた切手に触れる生きた身と、切手の意匠「海鳥」の上を悦びに満たされつつ横滑りし続けていく魂。

見慣れた季語に過ぎない「生身魂」の、「生」「身」「魂」それぞれの文字が洗い直され、リフレッシュされて現物とあらためて結びつきつつ一句に据えられた趣きが、そこから生じてくる。


句集『遊星』(2016.10 ふらんす堂)所収。

2016年12月6日火曜日

〔ためしがき〕 昨日(あなたがこのためしがきを読むときには、すでに昨日ではなくなっているだろう) 福田若之

〔ためしがき〕
昨日(あなたがこのためしがきを読むときには、すでに昨日ではなくなっているだろう)

福田若之


「不動産×イノベーション」を「不眠症×イノベーション」と見誤るくらい瞼が重たかった昨日の三時ごろ。僕は夕暮れまで外を歩いていた。足が疲れたころには、もう眠くなくなっていた。

代謝を成長と呼ぶことは、偶然を運命と呼ぶことに似ている。こうしたことばは、横倒しにされたペンキ缶のように、出来事をひとつの意味で塗りこめてしまう。僕は、単に、過去の僕を失い忘れてゆくのでしかない。僕は成長するのではない。ただ変わっていくだけだ。すこしづつ。変わっていってしまうだけだ。


2016/10/22

2016年12月5日月曜日

●月曜日の一句〔杉山文子〕相子智恵



相子智恵






運命と片付けられてちやんちやんこ  杉山文子

句集『百年のキリム』(2016.10 金雀枝舎)より

〈運命〉という言葉はずいぶん重いように見えながら、とても都合の良い「思考停止ワード」なのだということに、掲句を読んで気づいた。

運命と片付けられてしまった人は、何か重い話をしたのだろう。〈片付けられて〉という言葉に表れている怒りや諦めは、それを打ち明けるのにとても勇気がいったのだという心情も見せてくれる。
その話を聞いた相手は「仕方ないね、それが運命だったんだよ」と励ましたのだろう。きっと、相手もそうとしか励ましようがない話だったのだ。そういう話、たしかにある。

受け止めきれない大きなことを「運命」という言葉でパッケージして受け流すのは生きていく知恵だろうし、思考を停止しないと生きていけない場面はある。

「ちゃんちゃんこ」という、庶民的な生活を感じさせるアイテムによって、それは誰にでも起こることなのだということが伝わる。この句に見られる「打ち明けた本人と聞いた相手の温度差」というのもよく起こることだ。よくあることだが、俳句にされたことで顕在化したのだ。

〈励まして寂しくなりぬつくしんぼ〉という句もあった。これも他者との関係の中にある温度差をうまく伝えている。

2016年12月4日日曜日

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】ぼさっとしていたら四年も経っていたよ千鳥君 関悦史

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】
ぼさっとしていたら四年も経っていたよ千鳥君

関悦史


さて、週俳500号を迎えての「私の自薦記事」でありますが。

今わざわざ読み返してみようかなと思うのはこれでした。

藤後左右の初期作品以外の句をほとんど知らないので全句集を勉強会に持ち込んで読んでみた
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/08/blog-post_5.html

どうでもよさにおいて一番というか。

全句集の実況中継みたいなことをやっている。

最近、自分の評論集を作るのに過去の原稿を絞り込まねばならず、ちょっとまとめて見返したのですが、これなどもう本には絶対入らない。雑誌であっても、活字媒体だったらこんなダラダラ長い書き方はできない。ネットならでは。

評論集には入れられないけど、句集を読むのが楽しそうではある。

このところ新しく出る句集を、片端から時間に追われつつ通読するというようなことになっているので、今こんな書き方はちょっとできない。

『藤後左右全句集』を通読したのは、本文にもあるとおり、某所で行われた若手勉強会のためでしたが、場所が都内の西の方で、うちからだとけっこう遠かったもので、だんだん出席率が悪くなり、そのせいでクビになったのか、いつの間にか連絡も来なくなってしまった。

もっとも当時一緒に出ていた人たちは、今それぞれ子育て中だったりして忙しそうで、勉強会自体は同じ場所で、20代の人たちが代わって続けている。

何の変化もないようだが、四年前というのもけっこう前で、四年間経ってしまっているののだよ千鳥君。



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2016年12月3日土曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


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2016年12月2日金曜日

●金曜日の川柳〔星井五郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






湯たんぽの位置がなかなか決まらない

星井五郎

急に寒くなった。自身の自家発電力がめっきり弱くなってきたので、生活にどんどん暖房モノを投入していかなくてはならない。暖房モノを見繕いに店頭にいくと「湯たんぽ」の品数の多さに驚かされる。オシャレ度も増し、カラフルでひと昔前に一般的だった表面が波型に加工された金属性のものとはまるで別物の様相である。掲句の「湯たんぽ」はひと昔前の温度調節のしにくい、軽量ではないもののような気がする。

「湯たんぽの位置」なんて、すぐに決まるでしょう、他にもっと決まらないことがあるでしょう。よりにもよって「湯たんぽの位置」なんかで悩むのか、とつい言いたくなる。それなのに「なかなか決まらない」といけしゃあしゃあ言われると、眠ることは大事だから、「湯たんぽの位置」は大切なことなのかもしれないと思い直したりする。「触光」(46号 2016年刊)収録。

2016年12月1日木曜日

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】今年もあちらこちらで 近恵

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】
今年もあちらこちらで

近 恵


私の俳句の歴史は週刊俳句準備号より2ヶ月ほど早い2007年2月から始まった。だから週刊俳句が何周年とか言ってくれると「ああ、私も何年目に突入したのね」と解りやすくてよろしい。

ま、そんな事とは全く関係ない自選記事。

初めての文章は2008年3月の第45号で「2月の週俳を読む」を書いている。俳句を始めてほぼ1年しかやっていない、どこの馬の骨かわからないような私によくぞ振ってくれましたという感じだが、週刊俳句も最初の頃は近場の人を頼って書き手を募っていたわけで、まあこれはラッキーなデビューだというべきか。

そもそも論文は読んだことも書いたこともなく、鑑賞ならまだなんとかなるけれど、俳句の知識も乏しいので批評もできない。かと言って何かほかに精通していることもない。けれども俗なことなら書けそう。総合俳句誌は真面目な記事ばっかりで、せいぜい年賀状に添えたい一句なんて特集くらいしかなかったから、ここは思い切って週刊誌的な見出しで書いてみようと思ったのである。それが2008年12月21日第87号の記事「クリスマスは俳句でキメる!」だった。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/12/blog-post_21.html

この記事を書くにあたり、句会でも協力をしていただいた。そこには現在若手俳人の中核として活躍中の週俳スタッフ、当時はまだ大学生で紅顔の美少年のようだった生駒大祐さんや今年句集『天使の涎』で田中裕明賞を受賞した北大路翼さん、第3回芝不器男俳句新人賞にて対馬康子奨励賞受賞を受賞した中村安伸さん、また翌年2009年12月に邑書林から発行された『新撰21』には北大路翼さん、中村安伸さん、谷雄介さんが入集されるなど、その後活躍を見せることとなる結構な顔ぶれが集ってくれていた。そしてアップされた記事は「業界初・袋綴じ」という、週刊俳句でも後にも先にもない異例の処置がなされた記事となった。

で、今年もあちらこちらでクリスマスイルミネーションの輝く季節がやってきたのです。
最近はテレビ番組を見て俳句を始める若い人も増えてきたらしいし、ちょうど良いタイミングではないかと思いこの記事を引っ張り出してきたという次第。

最期に余談だが、当時この記事を読んで実際に彼女に試してみたという強者がいた。目的を果たせたかという点から言えば結果は玉砕だったらしい(要するに他のスキルが足りていなかったということか)が、現在はその彼女と結婚して一児の父である。よかったよかった。



タグ(ラベル):近恵

2016年11月30日水曜日

●水曜日の一句〔宗田安正〕関悦史


関悦史









昼寝より起ちて巨人として去れり  宗田安正


入眠幻覚の逆というべきか、起ちあがるほどはっきりと覚醒していながら、その身は不意につねならぬ「巨人」となり、歩み去る。

去られてしまったからには、「巨人」は語り手から見て他者ではあるはずだが、この句の場合、はたから他人のさまを見ている句か、自身が昼寝から覚めての句かの区別はあまり意味をなさない。ここに描かれているのは、ドッペルゲンガー(自己像幻視)的に自身が分かれてゆく啓示的光景である。何が「巨人として」去ったのか、主格が無化されているのは、自己と他者にまたがる、そのいずれにも定義づけられない何ものかが去っていったからなのだ。

この夏の光のなかへ去っていく「巨人」を、語り手個人の生命を超えて連綿とつながり広がる「命」そのものと取ることはもちろん可能ではある。ドッペルゲンガーじみているとはいえ、季語「昼寝」は句に夏の陽光を呼び込み、怪奇小説的な不吉な滅びの予兆として「巨人」が現れているようには見えないからだ。

しかし個と全体をいきなり一元化してしまう生命主義の退屈な目出度さ(「大いなるものに生かされている……」)とは、この句は一線を画していよう。「昼寝」の日常性から「起ちて」の動作を経ての「巨人」という異様なフィギュア(形象)出現への飛躍には、そうした平板さには回収されない違和がある。その違和に「巨人」が去った後の明るさが染まる。むしろ夏の季霊とでもいうべきものが、語り手の身を過ぎったと捉えたくなるが、そうした短絡も謹むべきなのだろう。この「巨人」は何かの隠喩か寓意のような顔で一句に闖入しながら、何を指しているのかが分からない「明瞭な不可知」であってこそ初めて出現を許されるものだからである。この句を成り立たせているのは、そうした違和そのものだろう。


句集『巨人』(2016.11 沖積舎)所収。

2016年11月29日火曜日

〔ためしがき〕 クレオパトラの鼻 福田若之

〔ためしがき〕
クレオパトラの鼻

福田若之

もし、クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界は違っていただろう、と考えるなら、そのときには、クレオパトラの鼻がもう少し低くあるために世界はどれほど違っていなければならなかったのか、を考えてみる必要があるだろう(だが、そのとき、「クレオパトラの鼻がもう少し低い世界」で「クレオパトラ」と呼ばれるそのひとは、いったい何者だろうか?)。


2016/10/19

2016年11月28日月曜日

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】Nと川崎長太郎 瀬戸正洋

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】
Nと川崎長太郎

瀬戸正洋


古書オンラインショツプで、川崎長太郎の『抹香町』(講談社、昭和二十九年刊、初版)を手に入れた。私は、二十歳代に川崎長太郎の初版本を集めていた。小田原市内の書店で創作集、随筆集の新刊の初版本を買い求めた。「抹香町」という創作集は、その頃、エポナ出版から復刻版が出ていたが買わなかった。もちろん、古書店へ行くほどのお金は持ってはいなかった。その後、没後三十年記念出版で、講談社文芸文庫から六冊の創作集、随筆集が出ている。今でも、小田原市内の書店では、新刊の文庫本が六冊揃って棚に並んでいる。

Nとは、その頃からの付き合いで、今でも、書き続けている。突然、歌集が送られてきたので驚き、礼状をと思い書きはじめたのだが、書いているうちに、「週刊俳句」に投稿したくなった。それで、村田篠さんにお願いした次第である。そして、第242号(西暦2011年12月11日)に掲載していただいた。自薦というのは、おこがましいので自選ということにしていただければ幸甚である。これは、『俳句と雑文B』にも収録した。

西一村 歌集『夏の鉄橋』を読む
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/12/blog-post_1966.html

何故、Nと川崎長太郎なのかはわからない。二十歳代のころは、何となくイメージで似ているような気がしていた。

だが、川崎長太郎を読み返してみると、生に対する怨念のようなものが感じられ、そのド迫力に圧倒される。師である徳田秋声に対しても容赦がない。私は、川崎長太郎の創作集を十数冊持っている。目さえ疲れないようにすれば、通勤往復四時間の退屈な時間が貴重な時間となる。

Nは、詩集を出すと言っている。この一文は、その激励文でもある。

2016年11月26日土曜日

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】バッド・ガールへの道のり(ミート・ローフを食べながら) 小津夜景

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】
バッド・ガールへの道のり(ミート・ローフを食べながら)

小津夜景

週刊俳句の第500号を祝う趣旨でこちらにも書きましたが、わたしが初めて読んだ句集は高山れおな『俳諧曾我』でした。で、2冊目が金原まさ子『カルナヴァル』、3冊目は西原天気『けむり』なんです。読後の感想はいずれも週刊俳句に送り、ふしぎなことに(当時はそう感じた)すべて掲載してもらいました。個人的に忘れがたいこの三句集の中から、自薦記事として上げたいのはこれ。

へテロトピアとその悲しみ 
金原まさ子『カルナヴァル』を読む
http://weekly-haiku.blogspot.fr/2013/10/blog-post_7385.html

『カルナヴァル』はBL趣味にあふれた句集。ひとくちにBLと言ってもいろいろですが、本書ではセックスやジェンダーにまつわる潜在的な暴力に対する女性特有の抵抗や衝突あるいは混乱からまぬがれた場所で、どこまでもあっけらかんと世界肯定的な〈17音の祝祭〉が繰り返し催されます。

あと本書73頁の「いい人は天国へ行けるし/わるい人はどこへでも行ける。」という言葉は、中年反骨女優メイ・ウェストの言い回しだと «Good girls go to heaven, bad girls go everywhere.»となるらしい。つまり「人」でなく「少女たち」なんですね。ここ、非常に重要だと思うのはわたしだけではないはず。バッド・ガールへの道を踏み外すことなく歩みつづけた結果、金原まさ子さんは本物の黒い天使となった。週刊俳句が存在したお陰で、このような志の高い句集のレヴューを書けたことをしあわせに思います。



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2016年11月25日金曜日

●金曜日の川柳〔本間美千子〕樋口由紀子



樋口由紀子






ひと還る非常階段せまくても

本間美千子 (ほんま・みちこ) 1938~2001

「ひと」は自分のことではないだろう。傍観者として「ひと」を見ている。作者の身近な人、恋人か夫だろうか。雨露のしのげない外付けの非常階段がどんなに滑りやすくて上りにくくて狭かろうとも、それでもその「ひと」は還ってくる。

「還る」だから「帰る」よりもまっすぐではなく、なにやら複雑。それも非常階段、広い正面の一般的な階段を使わないのだから、何か事情がありそうである。たぶんそれは作者とも無関係ではなさそう。それでも、いやそれだからこそ「せまくても」還ってくる。彼女はあくまでも客観的に見ているようだが、冷静ではおれない。

11月26日は「意味なんて後からついてくる」と言った本間美千子の祥月命日。享年63歳、今の私の年齢。〈遠い国のあかい血をみたうたにした〉〈好きにいきたらええやんあさがお咲くあいだ〉〈真水真闇そろそろほうり出す一生〉〈おっかけっこは小銭落して猶予刑〉 『本間美千子川柳集』(2005年刊)所収。

2016年11月24日木曜日

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】で、ティッシュはもらえたのか 柳本々々

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】
で、ティッシュはもらえたのか

柳本々々


『週刊俳句』の編集者である西原天気さんから500号記念企画の一端として自選/自薦記事をあげてほしいとメールをいただいて、わたしがふっと思いだしたのは、『週刊俳句』に初めて投稿した記事「NO TISSUE, NO LIFE」(2014年7月13日)である。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/07/no-tissue-no-life.html

丸山進さんの句、「生きてればティッシュを呉れる人がいる」について書いたものなのだが、わたしは敬意というか天気さんに対して畏れ多いという感情をもっていたので(これは天気さんにお会いしたときに直接申し上げたこともあった)、投稿してなんだか怒られるんじゃないかとどきどきしながら返事を待っていた記憶がある。

たぶんわたしは怒られると思っていたような気がする。そして、たいていの場合は、そう思っている。わたしは怒られる、と。

記事を投稿して、土曜日にひとと待ち合わせるため、日比谷のペニンシュラホテルのロビーで重たい布のようにぐったりして長い椅子に深く腰掛けていたのだが、明日載せます、という連絡をいただいて、すごく嬉しかった記憶がある。それはわたしにとってのひとつの「ティッシュ」だった。わたしは隣の見知らぬひとの肩を叩いて「明日、のるんですよ。怒られなかったですよ。明日のるんですよ」と言いたい気持ちになった。もちろんそんなことをしたら取り押さえられてしまうので言わなかったけれど。でも、「生きてればティッシュを呉れる人がいる」というのはあながち嘘ではないな、と思った。

次の日、記事が掲載されると、丸山進さんご自身がそのことを記事で取り上げてくださって、また、わたしは「生きてればティッシュが呉れる人がいる」という句そのものを生きることになった。なんだろう、わたしは、この句の感想を書いたのだが、〈書く〉というよりも、その感想自身を〈生きている〉ような気持ちになった。また、ティッシュを、もらったのだ。

あとからあとから、ティッシュは、どんどん、やってくる。しかも、「呉れる」というそのときその場限りの〈たった一回〉のかたちをともなって。

「生きてれば」という「てれば」の性急で不器用な感じはわたしの生に似ていると思った。「生きていれば」ではない。「生きてれば」であって、そこには十全な生はない。なにかが、決定的な、致命的なかたちで、欠けている。でも、「生きてれば」ティッシュを呉れるひとがあらわれる。そしてさらに「生き」続け「てれば」わたしもいつか誰かにティッシュをあげられる人間になれるかもしれない。生きてればこそ。

わたしはそれから頻繁に『週刊俳句』に投稿をはじめた。投稿するたびに、今度こそは天気さんから怒られるかもしれないなと思ったが、天気さんは怒らなかった。今も「あとがきの冒険」は畏れ多い気持ちで提出している。おまえは「冒険」と大胆に名乗りながらもいったいなにを、と思われるかもしれないが、それは本当である。

そのうちにSさんがBさんにわたしを紹介してくださって、私は外山一機さんの後に時評を書かせていただくことになった。それはわたしが『週刊俳句』でおそれ多さを感じながらも毎回投稿させていただいたおかげである。『週刊俳句』という媒体そのものにわたしは感謝し、いまも畏れ多さを感じている。《わたしはそもそも500号続けることを続けてきた〈生きてれば〉の実践としての『週刊俳句』そのものに畏れ多さを感じていたのかもしれない》。

わたしは小心者の冒険家だと、おもう。でも小心者の冒険家でも「生きてればティッシュを呉れる人がいる」。

で、ティッシュはもらえたのか。

はい。




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2016年11月23日水曜日

●水曜日の一句〔千葉信子〕関悦史


関悦史









冬花火この骨壺といふ個室  千葉信子


現在は冬場の花火大会というものも幾つもあるらしいのだが、「冬花火」という季語はおそらくない。通常夏のものである花火が冬に持ってこられると、その光も冷たさに引き締められ、氷の一種のようにも思えてくる。

「この骨壺といふ個室」は、「この」の一語から眼前に骨壺があるとわかるが、コ音とツ音の連なりに引き入れられるようにして、やがて自分が入るものとして外から見ているとも、既に入ってしまった骨の立場から見ているともつかない位置関係を骨壺と語り手の間に組織してしまう。

ことさら感傷的であったり、恐怖にすくんでいたりするような詠みぶりではないとはいえ、一般論的な句ではない。語り手個人と密接している特定の骨壺の話である。「この」がそうした関係を形作っているのだ。

知覚のあり方も少々特異ではある。骨壺を「個室」と見なす意識は、既になかばその内側に安住している。そこには骨となった後の、しかし骨そのものからは離れた身体意識がある。「この骨壺」との位置関係を持ちうる生身の身体が同時に「冬花火」をも感じ取れているのは、そうした身体意識によるのである。

死後の知覚をそのように先取りしていながら、この「個室」の安寧や「冬花火」の輝きは、救済にも、その逆の無救済にもつながらない。物としての骨壺=個室が冬花火と重ね合わされ、やや物寂しい意識の拡張が詠まれるばかりである。

生死の間に広がるこの「冬花火」は、「銀河」や「宇宙」のひとつの擬態に近いものなのではないか。無限の宇宙への拡散は恐怖につながる。その拡散を引きとめるものとして骨壺という個室があるのである。


句集『星籠』(2016.10 深夜叢書社)所収。

2016年11月22日火曜日

〔ためしがき〕 アクシデント 福田若之

〔ためしがき〕
アクシデント

福田若之


今日届いた『俳句四季』11月号、確認していて、おっと、と思う。28頁、下段。インタビューでの僕の発言で、「トークイベント」が
トークイベン
となってしまっている。より正確に説明すると、「トークイ」までで行の底まで届いてしまっているので、「ベン」が一行、その下に十八字分の空白があり、次の行が「ト」から始まっている。ベン、おまえ誰だよ。ベンかよ。

校正稿はしっかり確認したつもりだ。こんな誤植を見落とした僕の目は、いくらなんでも節穴すぎないか。大仏でもくぐりぬけるくらいの大穴なんじゃないか(改行は空白を産むので、そこらへんの誤植とはインパクトが違う)。そこで、もしかしてと思う。校正前は、「トークイベン」までで行の底に届いていたのではないだろうか。

確認してみると、案の定、そうだったことが分かった。そこに、見えない改行が隠れていたというわけだ。この記事は校正の段階で少なくとも数人の目を経ているのだが、僕らは誰一人、見逃したわけではなかった。そいつは見えなかったのだ。これをステルス改行と名付けよう。またの名を、プレデター改行としてもよい。

どれだけ気を付けていても、こういうことは起こるときには起こってしまうものだ。泣いても笑っても、こういうふうにテキストはできてしまったんだから、こういうものとして読むしかないし、読んでいただくしかない。

読むからには面白がりたい。

面白いのは、このステルス改行が、ゲラでは「トークイベン」までで行が変わっていた、という事実をはっきりと記憶しているという点だ。とにかく、何かがそれ以前から書き換えられ、それによってこんな誤植が生じたのである。もちろん、「トークイベン」でちょうど行の底に至る文字列というのは、いくらでも考えられる。それに、発言が雑誌の体裁におさまったときに行の底になにが来るかは、偶然の出来事でしかない。そのことは何も意味しない。かといって、それは無意味でもない。すなわち、意味と無意味との対立の埒外にあるということだ。そういうものをまとめて、いたずらなもの、と呼ぶことにしたい。偶然のもっとも美しいありようは、いたずらなものとしてそのまま過ぎ去ることであるように思う。そうでないと、偶然はおそらく運命というあの胃もたれがするものにたやすく置き換えられてしまうのである。


2016/10/18

2016年11月21日月曜日

●月曜日の一句〔小津夜景〕相子智恵



相子智恵






しろながすくぢらのやうにゆきずりぬ  小津夜景

句集『フラワーズ・カンフー』(2016.10 ふらんす堂)より

世界一大きな動物種、シロナガスクジラ。

短い時間のすれ違いや「かりそめの恋」など、その場限りの軽い関係の「ゆきずり」という言葉に、「しろながずくぢらのやうに」で、途方もない大きさ、長さが加えられる。

シロナガスクジラのようにすれ違うのは、それはそれは長い時間がかかるだろう。軽い気持ちであっても、その長さ、大きさの分、ゆきずりの後の喪失感の大きさが思われてきて、なんとも切ない気持ちになる。

それでも「ゆきずり」に対して、シロナガスクジラという普通は考えもしないような、ぬーっとした巨大な比喩がなんだか少し楽しくて、さみしくて切ないのだけれど、不思議に安らかな気持ちも生まれてくるのである。

2016年11月19日土曜日

●『週刊俳句』は今晩24時に第500号

『週刊俳句』は今晩24時に第500号


およそ9年半、ということになりますね。

小津夜景さんが、ひと足先に、祝賀(?)記事を書いてくださっています。
http://yakeiozu.blogspot.jp/2016/11/blog-post_14.html

*

週俳概容

2016年11月18日金曜日

●金曜日の川柳〔細川神楽男〕樋口由紀子



樋口由紀子






掘り過ぎた穴からピエロ首を出す

細川神楽男

土を掘っていくとときたま蚯蚓が顔を出すことがある。しかし、ピエロの首は出てこない。もちろん「ピエロの首」は何かの比喩だろうけれど、ピエロなら人を笑わせるためにそれぐらいのことをやってくれそうな気もした。ピエロはおどけているが、その目は笑っていない。ピエロの身体は土に埋まったままだろう。なんだか哀しくなる。

ついつい掘り過ぎてしまったのだろう。掘りはじめると止められなくなる。そういうことは生活をしていくなかでもよくある。適当なところでストップすればいいものを、調子に乗ってついその先まで進んでしまい、見なくてもいいものを見たり、聞かなくていいものを聞いたり、知らなくてもいいものを知ったりしてしまい、後悔することがある。「ピエロの首」にすべてのものが含まれているように思った。ピエロはもう一人の自分かもしれない。『川柳新書 細川神楽男集』(1955年刊 川柳新書刊行会)所収。

2016年11月16日水曜日

●水曜日の一句〔和田耕三郎〕関悦史


関悦史









古タイヤ燃えてゐるなり冬の暮  和田耕三郎


たまたま出くわしたという以上の意味はことさらないはずの景だが、句は重厚な感触を持つ。「ゐるなり」の屈曲にディレイのような効果があるのがその一因で、これが化学製品のタイヤが黒煙を上げつつ液化していくさまに、語調の上で対応しているともいえる。その上で「古タイヤ」と「冬の暮」が頭韻を踏み揃え、この二つの体言にはさまれつつ、炎上は重く進むのである。

焚火の慕わしさといったものからは遠く、冬の暮の闇を背景にして浮かび上がる一点の炎と化す古タイヤは、何やら終末論的な光景とも思えてくる。語り手がこの「古タイヤ」を、役目を全うして世を去る満足のうちにあると見ているのか、それとも炎上を無残と見ているのかは曖昧なままであり、どちらとも判断を下さず光景のみを描いてその両義的な感情をも丸ごと伝えるのが、俳句の一つの本道に沿ったやり方ということにもなるのだろう。

いや、そうしたところへ一足飛びに行く前に、「燃えてゐる」の一語の唐突に立ちふさがるような顕現性に目を止めておく必要がある。「古タイヤ」「冬の暮」の二語の間に起こりうるありよう、言い換えれば潜勢力として「燃えてゐる」には咄嗟に思いが及ばない。

その轟然たる最期の相をいきなりつきつけられる経験がこの句の核心をなしており、それがいたって平明な言葉に移しかえられているがための重厚さなのだ。


句集『椿、椿』(2016.9 ふらんす堂)所収。

2016年11月15日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム7 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム7

福田若之




売るための芝生を踏み荒らすあそび

立ったからといって一酸化炭素中毒になったりはしないけむりハウス誰も見てないしふつうに走った

ベンツに轢かれてごめんなさいごめんなさいごめんなさい

ほとんど君ひとりのおかげで利害関係もないやつからきめえとか言い続けられんの慣れたよ


2016/9/20

2016年11月12日土曜日

★週俳の記事募集

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2016年11月11日金曜日

●金曜日の川柳〔向山つね〕樋口由紀子



樋口由紀子






霧晴れる天狗は団扇取り落す

向山つね

霧が晴れた。天狗はあまりの急な晴れ具合にびっくりして、正体があらわになって、人間に見つかったらどうしようとあわてて手に持っていた団扇をうっかり落としてしまった。天狗が団扇を取り落した様子や音を全身で捉えている

霧がかかっているときと霧が晴れたときはまるで別世界で同じところとは思えない。本来は見えないこと(ありえないこと)を親愛の情とユーモアを持って想起した。自分の居る世界だけが世界ではなく、自分の見えない世界もどこかに存在している。一方、「霧晴れる」時間と「天狗」が「団扇」を取り落す時間が別々に流れていて、もう一つの時間を意識しているようにも思った。

掲句は平成元年の年末に開催された川柳大会の兼題「霧」の特選句。25年前にはこんな素敵な川柳が選ばれていた。「第二十八回川柳塔きゃらぼく忘年句会報」(1992年刊)収録。

2016年11月10日木曜日

〔ネット拾読・変則版〕これが世界の現実なのです 西原天気

〔ネット拾読・変則版〕
これが世界の現実なのです

西原天気



いわゆる「中八」の是非ということが言われます。つまり、忌避派か容認派か、みたいな、ね。

ところがじつはそんなことが問題なのではなかったのです。驚くべきことに、そもそも、「七五」と「八五」が区別されていない。

七五調の言葉は楽しい!記憶に残るあの言葉も「七五調」だった【声に出して読みたい日本語】
http://togetter.com/li/1046400

ここに挙げられている「七五調」のうち、相当数(ひょっとしたら半数近く!)が「八五」(およびそれにに類する字余り)。

これが世界の現実です。

これって俳句世間の外の事象なのか?

というと、そうでもなく、七五か八五かなんてことにまるで頓着しない、区別がない俳人が少なくないようです。


ところで、昨日は、米国大統領選で共和党候補トランプが勝利。

これが世界の現実です。

ちなみに、今回もっとも重要な論考のひとつ、マイケル・ムーアの予想記事は、こちら(↓)
http://www.huffingtonpost.jp/michael-moore/5-reasons-why-trump-will-win_b_11254142.html

私を含めた多くの人間が現実に目を向けていなかったようです。



〔オマケ〕
こんな記述も見つかりました。
短歌・俳句の世界しかり、それから「知らざあ言って、聞かせやしょう」「こいつは春から、縁起がいいわい」といった歌舞伎の名台詞しかり、日本語の本来もつリズムには七五調がしっくりくるんですね。
http://www.chacott-jp.com/magazine/dance-library/words/words2-58.html
前者(知らざあ~)は七六だし、後者(こいつは~)は八八だし。

ここまで来ると、「七五調」とは、呼吸4つくらいで言える文言、くらいの意味かもしれません。


2016年11月9日水曜日

●水曜日の一句〔杉山文子〕関悦史


関悦史









白皿に白ソーセージ夏の果  杉山文子


何がどうしたといった筋道もなく、好悪や是非の判断がくだされるわけでもなく、物件としてただ白皿に乗せられた白ソーセージだけが提示される。ところがこれがどちらも「白」と明示されているため、「夏の果」と組み合わさると、静物画めいた端然たる美感と情感を帯びてしまうことになるのだ。

語り手はこの白ソーセージを特に「愛でる」とも「眺める」とも言っていないのだが、逆説的なことに、そうした審美的な対象として弁別されていないがゆえに、かえって単なる食品が静謐な美しさをまとうこととなるのである。「皿にソーセージ」だけであればそうした効果は上がらない。これはひとえに、二回明示された「白」のはたらきによるものだ。「白」と繰り返し言われることで、ただの食器と食品が日常から不意に大理石の彫刻のように切り離され、いわば聖化されてしまったのである。

ただし聖化されつつも、これらが同時に相変わらずただの食器と食品に過ぎない点が重要で、句は次の場面へとなだらかに移ってゆき、そこでは「白ソーセージ」は何ごともなく食されてしまうことが予期される。ことさら審美的視線が介入しないことによって、句は大仰に永遠性を指示する力みへと凝固することをまぬがれ、どうということもない食卓や語り手の暮らしにまで聖化の光をやわらかく及ぼすことになるのである。

そう見てみたときに「晩夏」でも「夏終る」でもない「夏の果」という、季節の変わり目がなかば場所的な極限性と境界性に転じているような季語を置かれたことの必然性が際立ってくる。日常のなかに不意に聖化や永遠性がすべり込むとは、いわば時間が“流れ去るもの”から、アボリジニのドリームタイムのような一種の“場所”へと転換されることにほかならないからである。


句集『百年のキリム』(2016.10 金雀枝舎)所収。

2016年11月8日火曜日

〔ためしがき〕 偶景 福田若之

〔ためしがき〕
偶景

福田若之


改札口から続くコンコースの向こうの、地上の階へ下りるエスカレーターの脇に、喪服の男が立っているのが見える。男の下腹部のあたりで組まれた両手は、白地に黒で「藤村家」と印刷されたプラカードを握っている。プラカードの柄は短く、ちょうど男の胸部のあたりにその「藤村家」が見える寸法になっている。男は無表情で、微動だにせず、ただ立っている。

男の脇を抜けてエスカレーターを下っていくと、その向こうの、タクシー乗り場の前に、喪服の男が立っているのが見える。さっきよりすこし老けた男で、髪は白い。男の下腹部のあたりで組まれた両手は、白地に黒で「藤村家」と印刷されたプラカードを握っている。プラカードの柄は短く、ちょうど男の胸部のあたりにその「藤村家」が見える寸法になっている。男はやはり無表情で、微動だにせず、ただ立っている。だが、その顔はさっきの男とは違っている。

「藤村家」という言葉はなにも意味しない。「藤村家」という語は、そもそもなんらかの意味をもっているわけではなく、単になにかを指し示しているのだろう。だが、僕はその指し示す先を知らない。僕は、彼らが誘導しようとしている葬儀の会場を知らないのと同じように、彼らが指し示そうとしている「藤村家」のなんたるかを知らない。したがって、僕は、この「藤村家」という言葉から、死者の顔も、その血筋の系譜も、思い浮かべることはない。そして、この言葉は、なにより、あれらの看板を持った男たちが「藤村家」の人間であることを意味しない。彼らは、「藤村家」の人間ではなく、葬儀屋の人間ではないだろうか。

彼らの立ち姿は実に形式的である。誰かの「死」は確かであろうが、その出来事への感情は、いっさい顔にはあらわれない。そこには悲しみも晦みもない。おそらく、今夜、どこかで、「藤村家」の誰かのために泣く人たちがいるのだろう。だが、そうしたことのいっさいは、仮にその場かぎりのことでしかないとしても、いま、この無表情からは締め出されている。定型的な表情のなさは、ただ、その顔のかけがえのなさだけを際立たせているのだ。それゆえ、この無表情において、「死」がもつはずの意味はかぎりなく希薄になっている。

その無表情が、きれいに、身体だけを違えて、二度、繰り返される。この立ち姿との遭遇がたった一度であったなら、その立ち姿の完璧さ、出来事の唐突さなどが、ひとつの意味をもつことになってしまっただろう。三人以上と遭遇してしまったなら、それはそれで、読むべき意味を求めて街を探し歩くことになってしまっただろう。僕は第二の男がのいるほうへは進まず、駐輪場へ向かう。


2016/9/29

2016年11月7日月曜日

●月曜日の一句〔瀬戸正洋〕相子智恵



相子智恵






犬の足人間の足秋惜しむ  瀬戸正洋

句集『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』(2016.09 邑書林)より

この犬と人間は、散歩中だろうか。ベンチに座っているのかもしれない。

足元に注目すると、当たり前だが地面は近い。草紅葉しているかもしれない。土の上には落葉などもちらほらあることだろう。そんな地面を踏みながら、秋を惜しんでいる様子が浮かんでくる。……と、ここまで書きながら、そのような背景は後から想像されてくるものにすぎない。

一読、ただただ犬の四本足と、人間の二本足がぬーっと立ち現れる。そして唐突に〈秋惜しむ〉のである。なぜ作者が犬の足と人間の足を並列に並べて注目したのかわからない。そしてなぜそこで秋を惜しんだのかもわからないのだが、どこかシュールで、ふっと笑いを誘うところがある。訳がわからないが、味があるのだ。

足を並べられて脱力している間に、ひゅっと秋は行ってしまう。

2016年11月6日日曜日

【俳誌拝読】『絵空』第17号(2016年10月31日)

【俳誌拝読】
『絵空』第17号(2016年10月31日)


A5判・本文16頁。以下、同人4氏作品より。


骨壺のまだ温きかな雁渡る  茅根知子

雲割れて光の柱小鳥来る  土肥あき子

秋の蠅大粒にしてしづかなり  中田尚子

弓を引く逢魔が時の空澄みて  山崎祐子


(西原天気・記)

2016年11月5日土曜日

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2016年11月4日金曜日

●金曜日の川柳〔多田誠子〕樋口由紀子



樋口由紀子






レモン輪切りぐらいで満ちてくる神秘

多田誠子 (ただ・せいこ)

川柳は題が決められ競吟する文芸でもある。掲句は兼題「神秘」の入選句。「神秘」は「神」プラス「秘」。なんとも仰々しい言葉である。しかし、その「神秘」が「レモン輪切りぐらい」で「満ちてくる」ものだと作者は気づいた。日常とかけ離れていると思っていた「神秘」が身近なところにもあった。

夜空の星を見ていたら、神秘とはこういうものかもしれないと思うことはあっても、レモンを切ったくらいで神秘は感じなかった。確かにレモンを切るとつんとして、酸っぱいにおいが漂ってくる。今までそこにあった空気とは違う。「神秘」とは思わなかったが、言われてみれば「神秘」というものはそのようなものかもしれないと思った。「川柳たまの」(第57回玉野市民川柳大会 2006年刊)収録。

2016年11月2日水曜日

●水曜日の一句〔小津夜景〕関悦史


関悦史









風鈴のひしめく空を食べあます  小津夜景


一見ふつうの平叙文のようにも見えるなだらかな語調に乗せられて、するすると読み下してしまうものの、内容的には細かな転調が次々に繰り出され、異様なイメージを形作っている句である。

「風鈴のひしめく」がまず尋常ではない。「風鈴の見える」ならば、風鈴の下がった軒先を屋内から見上げた景となり、風鈴は一つ二つだろう。それが「ひしめく」で無数に増やされ、さらには「軒」ではなく「空」に直結されることで、空一面に風鈴が下がっている異様な状態を呈する。

そしてその「空」は、あろうことか「食べ」られてしまうのだ。語り手自身が食べていると思しい。しかしそのままスムーズに食べ尽くされることはなく、「食べあます」とここでもまた転調が繰り返される。

不思議なことに(不思議なことずくめだが)、食べあまされることで、かえってそこに漂う感情は満足感に近いものとなり、「空」の無限の広がりが感じられる。「食べ飽きる」という範列(別の選択肢)から一句が身をそらしているためである。この転調=身のそらしようの連続が、さながら身軽なダンサーによる舞踊のようなしなやかな運動感覚を一句にもたらしているのだが、句集の表題が『フラワーズ・カンフー』であることを思えば、舞踊というよりむしろ拳法的なそれというべきだろうか。

「風鈴のひしめく空」は、風鈴という指示対象を透かし見せながら、それを無限化、さらには無化し、実体をそのまま非実体にしてしまう言葉の連なりである。「霞を食う」という慣用句とは異なり、この句では食べる身体の側にまで無限化=無化が及び、空と同質に近いものに変容している。

ただしこれを一概に一方的な非実体化ととらえてはならない。ここで起こっているのは、むしろ非実体的に見える夏空を、実体(大気、光、色、音、温度、湿度、空間……)の相に引きつけながら、遍在する風鈴という非実体化された実体を介して改めて指示対象(現物としての空)からは剥離させ、身体との交通へと導きいれるという、複雑な襞をたたみ込んだ双方向的な事態なのだ。そこに充ち溢れる開放感と幸福感は、未知のものでありながら、ただちに読者の身心に住み入る。


句集『フラワーズ・カンフー』(2016.10 ふらんす堂)所収。

2016年11月1日火曜日

〔ためしがき〕 「とても新しい流れ」 福田若之

〔ためしがき〕
「とても新しい流れ」

福田若之


四ッ谷龍『夢想の大地におがたまの花が降る』(書肆山田、2016年)の29頁から31頁にかけた大地の表面を流れる川、46頁から47頁にかけて群生しているなんばんぎせるの花たち。ほとばしるようなこれらの言葉。これが抒情だ、と思う。

だが、たとえば、《君は一本の川だとても新しい流れ》というとき、この句自体は、決してモダニスティックな意味合いにおける「新しさ」を持ち合わせているわけではないだろう(この句は、モダニストから見たら古い抒情詩にすぎないのではないだろうか)。

この句の「新しさ」は、抒情の一回性とかかわっている。個別の抒情は一回性のものであるがゆえに、古くから繰り返されているにもかかわらず、「とても新しい」のだ。それは、ある川が、おなじ「一本の川」でありながら、たえず「とても新しい流れ」であることに似ている。そこに流れる水がたえず置き換わっているがゆえに、川はつねに「とても新しい」。代謝する身体としての「君」。

2016/9/29

2016年10月29日土曜日

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2016年10月28日金曜日

●金曜日の川柳〔岩田多佳子〕樋口由紀子



樋口由紀子






アフリカのもしもが燃えている箪笥

岩田多佳子(いわた・たかこ)

「アフリカのもしも」って、なんだ?それが「燃えている」。それも「箪笥」で。一般的な意味では解釈できない。けれども、「アフリカ」「もしも」「燃えている」「箪笥」の言葉のつながりになにかありそうな気がする。「箪笥」には何かを仕舞う。本来箪笥には入れないものも入っている。それは恋文・現金・秘密だったりする。「箪笥」のある一面を捉えているのかもしれない。

ふと、天狗俳諧のようだと思った。天狗俳諧は上五字・中七字・下五字を各自がそれぞれ無関係に作り、それを無作為に組み合わせて一句にするものだが、出来上がった句はそれなりに読めておもしろく、意外に句意が通ったりすることもある。あるいは句意が通じなくても、何かを感じさせるものができ上がる。

〈喉の奥から父方の鹿 顔を出す〉〈いちにちの広さコンニャクひとつ分〉〈ステンレスの集中力に触れている〉 『ステンレスの木』(2016年刊 あざみエージェント)所収。

2016年10月26日水曜日

●水曜日の一句〔森澤程〕関悦史


関悦史









一点のゴリラがぬくし観覧車  森澤 程


観覧車の上からの眺めにゴリラがいる。むろん数は多くはなく、動物園に飼われているものらしい一匹が目に入るのみである。観覧車から外を見下ろすならば視線をはるか遠くに向けてもいいはずだし、ゆるやかに移動するにつれて変わっていく高さのなかから、さまざまなものに次々に視線を向けてもかまわない。

しかしある高さまで来たときに、たまたま目に入ったゴリラは、その黒い裸体を上空から見られていることには、おそらく気づくこともなく、語り手の目を絡め取ってしまい離さない。「一点の」から、かなりの距離をもって眺められていることがわかるのだが、点にまで縮減されたことで、そのなまなましさはかえって強められ、「ぬくし」との体感をもたらし複合することになる。

ゆるやかに大きく回るしかなく、また乗ってしまった客の立場からはもはや統御もきかない観覧車と「一点」のゴリラとは、その持っているエネルギーが全くつりあい、対等になってしまったかのようで、となれば点に集約されたゴリラの方がそのテンションは強い。いわばゴリラに目は支配されている。

高野素十の《ひつぱれる糸まつすぐや甲虫》の、真っ直ぐな糸のようなものが、語り手とゴリラとの間に不意に組織されてしまった格好だが、観覧車はその間にも回り続け、その緊張をゆるやかにはぐらかしてゆく。ほどなく観覧車は地上に戻り、ゴリラは視界から消え去ることになるだろう。それを予感しつつも、語り手は、神の視点じみた高所から、しかし自力で移動することもさしあたりできず、宙吊りになったままだ。

視野への予想外の闖入者「ゴリラ」は、滑稽にも共感にも至ることなくその手前で止められ、語り手と感覚的につながり続けているのである。「ゴリラ」が風景のなかの点として「ぬくし」となりおおせるには、この距離と偶然が必要だったのであり、この奇妙な関係は、俳句という形式と出会うことなしには、気づかれないまま潜在したきりになっていたかもしれない。

句集『プレイ・オブ・カラー』(2016.10 ふらんす堂)所収。

2016年10月25日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダムについて 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダムについて

福田若之


あれらのメモは、ただ、僕がそこに書かれたことを忘れるためだけに、書かれている。単に、僕がそれらを忘れることを、僕自身に許すために。ただし、この心の動きは、なんらかの成長がもたらしたものではない。僕は、決して、あれらのことがらについて自らに忘却を許すことができるほどの何者かになったわけではないはずだ。

幼稚園から逃げるように卒園し、小学校からも中学校からもやはり逃げるようにして卒業した僕は、結局のところ、その頃と何も変わらないまま、今度は自分の記憶から逃げることを望んでいる。

もちろん、悪いことばかりではなかった。恥ずかしいことばかりではなかった。一方には、これからも大切にしていきたい思い出がたくさんある。それなのに、悪い記憶ばかりがときおりやたらと鮮烈にぶり返してくるのは、どういうわけだろう。

僕は、ただ単に、あれらのことをいつまでも腹の底にかかえこんだまま、ときどき不意にそれらを思い出してひとり苛まれるという生き方に、もう耐えられなくなってしまったのだと思う。僕は弱くなったのだと思う。

書いてしまったことは、読み返せばわかることだから、僕が覚えていなくてもいい。あれらのメモが俳句なのか何なのかよくわからないかたちをしているのは、僕にとって、そうしたかたちが、もっとも忘れやすいかたちだからなのだと思う。僕は、おそらく、あれらのメモを、もう二度と書かなくていいようにするために、書いているのだと思う。

あれらのメモは、さしあたり、そんな僕にとってしか切実なものではないだろう。ためしがきにおいてさえ自分よりも他の誰かにとって意味のありそうに思えることをつい書き並べようとしてしまう心の動きを、僕は、これらの極めて私的なメモによって、どうにか抑えようとしているのかもしれない。

メモは、今後も、誰が読もうが読むまいが、断続的に書かれることになると思う。書かずに覚えていることはまだいくつもある。


2016/9/28

2016年10月24日月曜日

●月曜日の一句〔九里順子〕相子智恵



相子智恵






去る者を秋の向うに置いてみる  九里順子

句集『風景』(2016.09 邑書林)より

「来る者は拒まず、去る者は追わず」ということわざがある。掲句はそれを意識して作られているのかもしれない。

去る者を追わずに「向うに置いてみ」たとき、どんな風景が広がるだろう。

まず「秋の向う」がどこなのかといえば、時の流れからして自然に「冬」が思われてくる。去る者は、冬の寒い場所に置かれる。

では「秋の向うに置いてみる」と言っている人はどこにいるのか。おそらく秋か、秋を挟んでひとつ手前の季節である夏かもしれない。

「去る者は追わず」ということわざでは、追わないのだから去る者とは一生会えない。しかし「秋の向うに置いてみ」た人とは、追わなくても季節が勝手に進んで、自然に巡りあえそうな気がしてくる。

だから、冬という寒い場所に置かれた「去る者」は、さほど寂しそうに感じられない。秋の向うに置いた人自身も、寂しそうではない。

「いつかは会える」という気持ちがありつつ、それが春や夏ではなく、秋や冬であるところが暑苦しくなく、さっぱりしている。冷ややかであるともいえるだろう。そんな二人の微妙な距離が感じられてくる面白い句だ。

2016年10月22日土曜日

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2016年10月21日金曜日

●金曜日の川柳〔藤井小鼓〕樋口由紀子



樋口由紀子






コンパスの巾、平面を生まんとす

藤井小鼓 1900~1925

こういう雰囲気の川柳はあまり見たことがない。コンパスを使うとその巾によって平面ができる。たったそれだけのことを書いている。しかし、こういうかたちで世界観を出すことができるのだと思った。

実際にコンパスを使って円を作ったのだろう。それともその光景を目にしたのだろうか。コンパスの巾を狭くすると小さな円、広げると大きな円、同じ円や大小異なる円が単純な作業で確かなものとしてつぎつぎと生まれる。そのあたりまえのことが自分自身も何かと繋がっていくような、不思議な増幅感をもたらしてくれたのだろう。平面の向こう側の知らない彼方、目の前の世界を確認しようとしている。不思議な句である。

〈今日此家に日の丸が赤い〉〈豆腐屋が昨日と今日を知っていた〉〈箒の不徹底を叫ぶ日が来る〉〈鰻、鰻、なるほど串に刺されやう〉 このような川柳が大正時代に書かれていた。

2016年10月19日水曜日

●水曜日の一句〔正木ゆう子〕関悦史


関悦史









降る雪の無量のひとつひとつ見ゆ  正木ゆう子


きりもなく降ってくる雪に見入る時、はじめはその全景が漠然と意識され、やがてひとつひとつの雪の動きを目が追うようになり、他の雪との動きや遠近のずれに身心が同調し始める。そのさなかにも雪は際限なく降ってくる。「無量のひとつひとつ見ゆ」とはそうした事態を指していると、ひとまず取ることができる。

「降る雪の無量のひとつひとつ」に人の世の無常やそのなかの自分といったことを観想することも無論できるのだが、この句はそうした一般論的な感慨や情趣に接近しながら、必ずしもそればかりに終始するわけではない。「見る」ならば能動性が際立つが、「見ゆ」はどちらかといえば受動的で、この視点人物は無量のひとつひとつとして立ち現われる雪という状況に巻き込まれつつ、それを視認するばかりである。

いわばこの句の感動や発見は、無量の雪のなかから「ひとつひとつ」が個別に見え始めたという点にかかっている。この「無量」の無限性と「ひとつひとつ」の個別性が同時に立ち現われていることが眩暈を誘うのだが、最後が「見ゆ」としめられている点、没入しているわけではなく、局外の視点にとどまってはいる。

スケールの違いが同時に見えてしまうこと、それによって自分の立ち位置が明晰なまま曖昧になること、この句のものがなしいような情感はそうした「降る雪」によって空無化される身体から来ているのである。「~ひとつひとつかな」でも「~ひとつひとつなり」でもない「~ひとつひとつ見ゆ」は、そのような空無化される身体に対応している。


句集『羽羽』(2016.9 春秋社)所収。

2016年10月18日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム6 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム6

福田若之


かさぶたが剥げて元通りの手相

野良犬が車に轢かれそうになる

動物病院では野良犬をどうにもできないという

保健所は友人Bが許さない

まきこむ前輪そして宙がえりの自転車

意識されたくつしたのように不愉快牛乳瓶のふたを指で開けるときの感触

くだらないことばかり覚えているしいつのまにかかなかなの声も聞かなくなったね



2016/9/20

2016年10月17日月曜日

●月曜日の一句〔鈴木多江子〕相子智恵



相子智恵






完結は愉悦のかたち晩白柚  鈴木多江子

句集『鳥船』(2016.09 ふらんす堂)より

単に「完結とは、愉悦である」といえば、完結するものならば何にでも当てはまりそうだが、「愉悦のかたち」で最後に晩白柚が出てくるので、ここでは円や球体が完結のかたちであるのだな、ということが伝わる。取り合わせとも、一物仕立てとも取れる句だ。

晩白柚は大きいとは思っていたが、調べてみると世界最大級の柑橘だという。大きいものでは直径約25cmにもなるそうだ。黄色いつやつやとしたボーリング球みたいな見た目である。

ずっしりと、巨大で明るい黄色の果物。なんともめでたくて満ち足りていて、楽しく喜ばしい感じがする。

なるほど「完結は愉悦のかたち」であることだ。

2016年10月14日金曜日

●金曜日の川柳〔石川重尾〕樋口由紀子



樋口由紀子






カレーライスにぶすぶす埋める平均値

石川重尾 (いしかわ・しげお) 1925~

カレーライスは手軽ですぐに満腹感を与えてくれる優良な料理である。カレーライスが嫌いな人はあまりいない。そんな満足度の高いカレーライスに八つ当たりしている。「カレーの好きな人は現状維持を求める保守派」と寺山修司は言ったらしい。

今の世の中はいろいろなことを一様化しようとする時代のいきおいのようなものがある。それは心にも感受性に対しても平均化がはかられる。平均値から外れたくない、外れていると思われたくない風潮。そのようなものに対峙し、対抗するための、いや、どうすることもできなくて、「ぶずぶす」なのだろう。

「ぶすぶす」の擬音語にいやな感じがでている。「ぶすぶす」は尖ったものを柔らかい厚みのあるものに繰り返し刺す音で、切実感もあり、強い意思表示がある。石川重尾は反骨の人である。〈そして河口に青い刃物が捨ててある〉〈足早に人を逝かせて冬したたか〉。

2016年10月12日水曜日

●水曜日の一句〔山本敏幸〕関悦史


関悦史









白梅は完全犯罪である  山本敏幸


直観的に言いきった句で、読者としても瞬時に深く説得されるか、逆にわからないとなれば、どう考えても鑑賞の扉が開かないという作りである。その取りつく島のなさ自体が密室性を帯びてくるあたりも「完全犯罪」的であるといえる。

この句、「白梅」が完全犯罪のあったしるしや手がかりであるわけではない。「白梅」そのものが「完全犯罪」なのである。これを暗喩的に取ってしまえば話は簡単で、「白梅はあたかも完全犯罪のように完全性を持っていて犯罪的に美しい」とでもいったことになるし、じっさいそう取る余地があるからこそ読めるという読者もいるはずだが、このようにパラフレーズしたのでは、句から消えてしまうものがある。

口語調の「は~である」がそう思わせる当のものだが、断言していることが必ずしも重要であるわけではなく「~であろう」などの推量に変えても、事態はあまり変わらない。とはいうものの、断定されていることによって、この句はそっくり命題と化すように見えてくる。つまり、真であるか偽であるかが判定可能な平叙文となり、偽であった場合は「白梅は完全犯罪ではない」と判定しうる可能性も出てくるのだが、しかし、一見命題のように見えながら、じつのところこの言明の真偽を明らかにする手段はない。「白梅」が何ものかの犯行であるということが、そもそもナンセンスだからである。

かくしてこの句は命題に見えてそうではなく、真偽の判定の彼方に去るというか、むしろ反対に読者へと迫ってきて、適切な距離を取ることを不可能にしてしまう。その意味では禅の公案にも似ているが、この句が目指しているのはもちろん禅的な指導要綱と化すことではない。また造化のすべてが、人間にとっては解けない謎や奇跡だということをいっているわけでもない。

「白梅」が「完全犯罪」であるという世界律が、われわれの住む世界をひっくり返す異物として不意に立ち現れる。その衝撃がこの句の詩的内実であり、その辺に咲く現物の白梅は、現物として愛でられる余地を保ったまま、その足がかりに変えられてしまう。

「白梅」の向こう側にいかなる世界が構築されているのかは、われわれにうかがい知ることはできない。それが「完全犯罪」であるということである。


句集『断片以前』(2016.8 山河俳句会)所収。

2016年10月11日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム5 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム5

福田若之


僕の手に祖父の手が噛みついてくる

人形が広間に三つ冴え返る

キャベツ畑は夜生首が並んでいる

暗く赤い終バスの行き先表示

2016/9/10

2016年10月10日月曜日

●月曜日の一句〔恩田侑布子〕相子智恵



相子智恵






落石のみな途中なり秋の富士  恩田侑布子

句集『夢洗ひ』(2016.08 角川文化振興財団)より

景は明瞭でありながら、哲学的な味わいのある句だ。

富士山の均整の取れた美しい姿。そこにごろごろとある岩石は、みな落ちてゆく途中にあるというのである。

富士の名前の由来のひとつ「不死」という語にも象徴されるが、富士は不老不死の、永遠の美しさを持つ山と思われている。が、実際には今は休んでいるものの、火が吹いて形が変わることも考えられなくはない。

それでなくとも、長くその場にあるように見える岩石は、今その場所にあるだけで、いつ転がりだすかわからない。斜面にある石はみな落ちる途中なのだ。石が落ちていくだけでも、富士の輪郭は変わるだろう。不死の山でさえ、永遠ではなく変化の中に置かれている。

同様に哲学的な句といえば永田耕衣の〈いづかたも水行く途中春の暮〉を思い出すが、こちらは春の柔らかさがあり、恩田の「落石」と「秋の富士」には、くっきりした固さと清々しさがあって、どちらもとても魅力的だ。

掲句は、他の季節の富士ではだめで、「秋の富士」でなければ出ない味わいだと思う。空気の澄んだ秋の富士は岩石の固さも際立つ。さらに移ろいを感じさせる秋が「みな途中なり」を感慨深いものにしてくれるのである。

2016年10月8日土曜日

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2016年10月7日金曜日

●金曜日の川柳〔熊谷冬鼓〕樋口由紀子



樋口由紀子






渡された蛍に両手ふさがれる

熊谷冬鼓 (くまがい・とうこ) 1949~

蛍を手渡されたなら籠がなければ両手で受けるしかない。もう両手は他のことに使えない。それどころか開くことすらできない。両手は蛍に占有される。

だれに蛍を渡されたのか。蛍は何を告げているのか。ふさがれたのは両手よりも心の方ではなかったか。その後どうなったのか。などなど初夏の夜のできごとをいろいろと想像する。うしろの事情の方に関心がついいってしまうのが川柳の一般的な読みのような気がする。

〈花火と花火の合間に話し合えたこと〉〈折り返し地点で貰う紙コップ〉〈百円の傘にひゃくえんぶんの骨〉 『雨の日は』(2016年刊 東奥日報社)所収。

2016年10月6日木曜日

●蕎麦

蕎麦

友二忌の昼いちまいの蕎麦せいろ  星野麥丘人

蕎麦の香のはや夏痩の眉目かな  石田波郷

蕎麦よりも湯葉の香のまづ秋の雨   久保田万太郎

新蕎麦や宿出でてすぐくさはらに  田中裕明

一茶忌の蕎麦を雀のごとく食ふ  青柳志解樹



2016年10月5日水曜日

●水曜日の一句〔齋藤愼爾〕関悦史


関悦史









枯山から葬の手順を指図せり  齋藤愼爾


既に死んでいる立場から、自分の葬儀の手順を指図しているというのが、さしあたり妥当な句意ということになるのだろう。死んでいながら葬儀のあれこれにこだわるあたり、まだ成仏できていないどころか、そろそろ妄執の域に入るが、こだわりの対象が遺産や人事でない点は、脱俗の徒であるともいえて、死後の話なのだから当然と言えば当然なのだが、実利を放り出して儀式の形式に執しているところなど、スタイリッシュな人物なのではないか。その過度のスタイルへのこだわりが、はたから見れば滑稽ともなり、グロテスクともなるのだが。

死後の話と見た場合、「枯山」はその比喩や象徴であることになるが、そうした説明に終わる言葉としては、枯木のひしめく山という場は、「空」や「あの世」に比べて、錯雑たるところ、枯木のように細った身が軋んでいるような妖気があり、古代の殯(もがり)の最中の身体のような、奇妙ななまなましさがある。また「指図せむ」と先々の意志をあらわすのではなく、「指図せり」と既にその渦中にある句形となっている点もそのなまなましさを強める。

生身はまだこの世で動きながら、その本質的部分は既に他界しているという、非直線的な、重層した時間感覚と生命感覚を詠んでいるが、その、あの世この世の位置関係が、たとえば永田耕衣のような無限の球体じみた包摂性ではなく、歩いて行けそうな地続きの距離感を持ちながら、あきらかにつねの世ではない「枯山」との、直線的で、なおかつ同時に別次元の場という関係として提示されている点がこの句の特色だろう。世界観自体が、ふくよかさよりも細さのなかに凝縮させられている。

平地よりはいささか高いとはいえ、そちらはそちらであまり自由自在におのれを解放したり無化したりできる場でもなさそうである。その枯木の稠密なこみあいと静粛のなかに、からめとられてあり続けること自体に、多少の悦びがひめられていはしまいか。


『陸沈』(2016.9 東京四季出版)所収。