2016年3月30日水曜日

●水曜日の一句〔加藤知子〕関悦史


関悦史









海峡の白菜割って十二階  加藤知子


難しい単語は特になく、言葉もすんなりと配置されているのでわかった気になってしまうのだが、相当に飛躍の含まれた句ではある。

素朴実在論的リアリズムに寄った読み方をしてしまえば、上五「海峡の」で軽く切れ、海峡の見下ろせる高層住宅の十二階のキッチンで白菜を割っている図ということになろうか。あるいは海峡付近で取れた白菜を割っているとも取れる。

だが言葉の並びの上では「海峡の」は「白菜割って」に直結しており、あたかも白菜を割ることによって「海峡」が生成されるかのようなダイナミズムが堂々と隠れているのだ。そこへさらに「十二階」という思いがけない下五がつく。

断ち割られた白菜の縦長の断面から高層階へという連想は無理ではない。だが割られる白菜と海峡は「分離されている」という形姿によってすでに結びつけられているのである。それが今度はいきなり、白菜の重い水気を含むかのような音韻「ジュウニカイ」にも媒介されつつ、高層階とまで同時に結びつけらることとなるのだ。

見た目の上からの「連想」を強調すると「海峡/白菜」「白菜/十二階」がそれぞれ隠喩によって結びついているように見えてしまうし、じっさいそう読めなくもないのだが、一句は先にも示したように、リアリズム的な読み方もできてしまい、そちらでは、これらは隠喩ではなく換喩によって結びついている。つまりこの句は解釈が定められないのと同時に、修辞的な原理も不定なのである。

その両方の読解を容れつつ「海峡」から「十二階」まで何ごとも起きていないかのように一気にかけぬける一句は、「十二階のキッチンで白菜を割ったら海峡が現れた」、あるいは、「海峡的な相貌をまとった白菜を割ったら十二階が現れた」といったような、スケールと遠近のシュルレアリスティックな混乱を含み込んでおり、そのいずれと取るにしても、それだけの小さからぬ混沌が、たかだか「白菜を割る」という行為によって急速に組織されるさまは爽快といえるだろう。「白菜」にこれほどの混沌的出会いを引き寄せる通路が潜在していたとは。


句集『アダムとイヴの羽音』(2014.3 ジャプラン)所収。

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