2016年8月16日火曜日

〔ためしがき〕 形式について、僕が考えていること 福田若之

〔ためしがき〕
形式について、僕が考えていること

福田若之


芸術における形式主義というと、個々の作品のかたちがすべてだ、という話になりがちだ。

まず、「内容」と名指されるものがそこから取り去られる。美に意味は関係ない、と。

それを手始めに、「作者」や「社会」、「経済」、「政治」などと名指されるものがそこから取り去られる。要するに、背後にあるものたちが取り去られるのだ。美に背景や支持体は関係ない、と。 芸術は決して象徴などしないのだ、と。

だが、まず、僕は、彼らが「内容」と呼ぶことで個々の作品の「形式」から切り離そうとしているものを、まさしく、形式が形式としてかたちづくっているものとして捉えている。逆にいえば、僕は、「形式」と「内容」の区別を信じない。形式は、「内容」を含んでいるのではなく(あるいは「無内容」なのではなく)、意味する仕組み(あるいは意味しない仕組み)を備えている。

僕は、つぎに、個々のかたちが世界のうちに確かに現われていることを信じる。それは、他のものたちに包まれるようにして、そこにある。仮にこの世界と何のかかわりもない作品があったとしても、そんな作品は僕らには何のかかわりもない。なぜなら、僕らはその作品と何のかかわりもないこの世界に属しているからだ。僕らの知りうる作品は、僕らの世界にあり、そのかぎりで、周囲のあらゆるものとつながっている。作品は、そういうかたちで、世界にあるのだ。だから、形式は、むしろ、ごく自然に、作者や社会、経済、政治などと関わっているし、それらとつながったかたちをしている。かたちとしてそうだというのが肝心なところだ。ある作品の形式は、それ自体が、世界の一部であるという性質を帯びていて、世界を構成するその他あらゆる要素と、直接的であれ、間接的であれ、つながっている。

要するに、僕は、芸術について考えるうえで形式を第一に考えるのだけれど、それは、形式を、他とつながったかたちとして信頼するということだ。

けれど、僕は、たとえば社会に対して、ひとつの作品がどう働きかけることになるのかは、予想できない。僕の作品を読んだ誰かが、僕の作品について考えてうわの空で歩いていたせいで、車に轢かれるかもしれない。ハンバーグについては一言も書かれていない僕の句を読んで、どうしたわけかハンバーグを食べたくなってしまった誰かが、ハンバーグを作って実においしそうな写真をブログにあげたせいで、みんなハンバーグが食べたくなってしまい、肉の売り上げがすこしだけ上がる、とかいうことだってありうるかもしれない。そんなことまで予測することは僕にはできない。でも、そうしたことは、現にありうると僕は思う。

もちろん、予測が立たないのだから、僕は、社会や経済や政治などに対して、いま書きつつある作品を通じて、積極的に、実質的に役立つことができるなどと確信することはできない。結局のところ、僕は、ただ、自分の書きたい文字や伝えたい言葉を、使い慣れた筆記具で、なじみのメモ帳に、書くしかない。けれど、僕は、とにかく、世界におけるそういうかかわりを度外視しては、芸術において形式が至上だと主張する気にはなれない。それは、形式のうち、ほんのすこしの限られた部分しか見ていないように僕には思われてならないから。

2016/7/15

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