2016年9月6日火曜日

〔ためしがき〕 松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」に応えて 福田若之

〔ためしがき〕
松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」に応えて

福田若之


松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」は、『オルガン』4号掲載の座談会「震災と俳句」に対する、BL俳句の担い手の側からの批判だった。

まず、座談会の時点での僕の立ち位置について書いておくことにする。僕はあの座談会の時点では、BL俳句について、ほとんど何も知らなかった。だから、当然、いわゆる震災俳句とそれとがどう関わるのかも分からなかった。僕が「じゃあ、BL読みが先にあって、そのニーズに応えるためにBL俳句が作られるようになってくるってことですか」と問うことしかできなかったのは、そうした理由による。

それでも、かなり切実な批判が行われた以上、それに対して、僕は自分なりに応えたいと考えた。 僕がここでなそうとしているのは、批判に対する反論でもBL俳句に対する非難でもなく、単に、応答である。これまではっきりさせてこなかったBL俳句についての自分の立場を、どうにか書いておこうと思ったのだ。その上で、改めて反論があれば、また、可能なかぎり、考えていきたい。



立場をはっきりさせるために、まずは僕なりの理解を整理しておかなければならないだろう。最初に考えたのは、BL俳句は、BLと俳句との関係ではなく、BとLと俳句との関係で捉える必要がありそうだということだった。そこで、三者の関係を、ラカン派の精神分析の用語をごく表面的に借り受けて、以下のように定式化してみたい――
B(少年):現実的なもの
L(愛):想像的なもの
俳句:象徴的なもの
つまり、分かりやすくいえば、現実的な存在としての少年をめぐって、愛を想像するために、俳句という言語形式があるように思われるとき、そこにBL俳句と呼びうる何かがあるのではないかということだ。

ただし、ここでひとまず「少年」と書いておいたのは、僕らの漠然とイメージするあの典型的な「少年」ではなく、具体的な骨肉の塊としての実体のことであり、僕らがそれを「少年」と認識する前の、何者かである。それは、要するに、松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」において、「真の理解にはたどり着けないであろうもの」として言及されている、その実体のことだ。二人の少年という現実、その関係としての「×」の想像、一句という象徴。それら三者の有機的なかかわりにおいてBL俳句というものが立ち上がるのだと言って、ひとまずはさしつかえないだろう。

もちろん、「現実」というのは、この場合、少年がいわゆる架空のキャラクターである場合も含む。実在であれ非実在であれ、彼らの実体を「現実」と呼ぶことはできる。それがインクの染みであろうが骨と肉とのかたまりであろうが、「現実」には違いないのだから。

さて、現実的なもの、想像的なもの、象徴的なものの三つは、どれかが欠けると、残りの二者の関係もまた失われる(ラカンはそのことをボロメオの輪の隠喩で語った)。 三者がそろったとき、はじめて、これらの結びつきがたしかなものとなる。現実的なものなしには、そこに愛を想像することはできず、俳句は象徴たりえない。想像的なものなしには、象徴たるはずの俳句は少年という現実的なものとの結びつきを失う。そして、象徴的なものなしには、現実的な少年と想像的な愛との関係は示されえない。

これに対して、もちろん、次のように問うことはできるだろう――現実的なもの、想像的なもの、象徴的なものという三者の関係を成立させることだけが問題であれば、現実的なものは少年でなくともよく、想像的なものは愛でなくともよく、象徴的なものは俳句でなくともよいのではないか。

おそらく、科学的にはその通りだ。現に、BL小説は小説を、BL短歌は短歌を象徴的なものとしてそこにあてがうだろう。現実的なものは、たとえば少女同士でもいいだろうし、にくまん・あんまんでも構わないだろう(ガールズラブ、擬人化などなど)。想像的なものは、闘争や友情でも成立する(少年漫画的なもの)。

だが、個人にとってはどうだろうか。BL俳句には「自らの切実な苦しみ」が混ぜ込まれているのだと、松本てふこは書いている。彼女にとって、それは「自分を切り刻んで、煮て焼いて自分で食べているような息苦しさ」と隣り合わせなのだという。さらに、BL俳句誌『庫内灯』をひらけば、「斯くして私は少年だったのだ」(なかやまなな「BL抒情事情」)といった文言も見出される。こうした極度の私性は、おなじ一冊に書かれた、「BL俳句に決まった読み方はありません」(石原ユキオ「BL俳句の釀し方」)ということにも関わっているに違いない。BL俳句の読み書きは明らかに個々の「私」と深く結びついているのだ。

したがって、BL俳句を考える上で重要なことは、BとLと俳句が現実的なものと想像的なものと象徴的なものとにそれぞれ対応しているといった抽象化それ自体に関わるものではない。それは、むしろ、現実的なものとしてなぜ少年なのか、想像的なものとしてなぜ愛なのか、象徴的なものとしてなぜ俳句なのか、と問うときに明らかになる客観的な必然性のなさにこそ関わっているはずだ。その必然性のなさ、説明のつかなさについて、たとえば、佐々木紺は次のとおり書いている――
男性どうしが何故ひかれあうのか、もよく考えますが、なぜこんなに自分(達)はBLにひかれるのかも良く考えてみます。男女と違って完全な対等性が実現できるところなのか、女性とちがって作品中で傷ついても傷つきすぎない感じがするのがいいのか、とか、純粋にうつくしい男性2人が画として快いのか、とか・・・でも結局のところときめく時は理屈じゃないのでこれも本能でしょうか(笑)(あと男性どうしではなく男女でもこれはBLだ・・・!!と感じる時もあります)
(佐々木紺による金原まさ子宛て書簡。2015年6月3日付。『庫内灯』所収)
もちろん、こうした客観的な必然性のなさは、BL俳句の欠陥ではない。むしろ、BL俳句が客観的な必然性を持たずに書かれているということは、BL俳句が、徹頭徹尾、それに理由もなく惹かれてしまう個人のかけがえのなさによるものであることを示している。実際、そうでなければ、松本てふこは「あなたとオルガン」という与えられたテーマに対して、「『オルガン』とBL俳句」というかたちでは応答しえなかったに違いない。

だから、もしBL俳句に欠けているものがあるとすれば、それは「現実」ではなく、むしろ、「公共性」ではなかろうか。この考えが正しければ、たとえば、BL俳句は同性愛をめぐる社会的な運動に対して、少なくとも直接的に役立つ何かではありえないということになるだろう。だが、そのことは、BL俳句の価値を決して損ないはしないはずだ。BL俳句の価値は、まずもって私的なものにほかならないのだから。

これ以上のことは、具体的な句について語るのでなければ、おそらくは意味をなさないだろう。 だが、そのためには、何よりも僕が、BL俳句に僕自身の切実さを見出しているのでなければならないはずだ。となれば、僕には、少なくとも今のところ、それらについて語る資格がない。結局のところ、BL俳句に応えるために、僕は僕で、僕自身にとっての切実なものについて語っていくよりほかにないのだろう。


2016/8/22

10 件のコメント:

福田若之 さんのコメント...

「公共性」という語をめぐって大きな誤解が生じてしまっているようですので追記しておきます。

まず、異性愛を描いた俳句のほうが同性愛を描いた俳句より「公共性」があるなどとは、僕はいっさい主張していません。性愛のみならず、具体的な愛について述べる俳句の多くは、それぞれの書き手にとって、また、読み手にとって、極私的であるように思われます。

ここで、僕が「公共性」のある(少なくとも志向している)俳句として仮定しているのは、たとえば、金子兜太の定義によるところの「社会性俳句」などのことです。また、ホトトギス派の「写生」も、万人に読み書きできる表現法の確立を目指す側面を持っていたという点では、かつては「公共性」を志向していました。あるいは、戦時下において戦意高揚のために作られた俳句も、同時代的には「公共性」をもっていたはずです。平たく言えば、「みんな」(仲間の「みんな」ではなく、誰でも「みんな」)というものの実在を信じて、その「みんな」に等しく共有されることに価値を置く類の俳句には、「公共性」があります。

こうした「公共性」について、ここであえて僕自身の立場を書くならば、そうした態度への偏重は個人のかけがえのなさを見えにくくするので、はっきり言って否定的です。「もし……欠けているものがあるとすれば」という一節は、仮にそれがBL俳句になかったとして何が悪いの?それって「欠けている」ことになるの?というニュアンスを含んだものとお読みいただければ幸いです。

匿名 さんのコメント...

その文脈でいうとですね、同性愛者をめぐる社会的軋轢が存在する以上、BL俳句は「BL」を冠した時点で「公共性」を帯びざるを得ないわけですよ。「欠けている」のはそのことに対する認識の方なんですね。

匿名 さんのコメント...

まあ、「公共性」を「認識」したBL俳句もありうるでしょうけど、怖気立つほどつまらないものになるでしょうね。文学では「公共性」を欠いたものが悪ではありません。つまらないものが悪なのです。

匿名 さんのコメント...

↑それは文学の善悪ではなくあなたの「嗜好」でしょう。怖気だつほどアナクロですが。

匿名 さんのコメント...

私の言っているのは、文学のごく基礎的な前提ですので、アナクロに映るのでしょうね。貴殿はご自身の「嗜好」からそれを認めていないので、そもそも文学の話になっていないのです。ここは俳句のホームページですから、文学について最低限のことをきちんと学んできてから、書き込まれた方がよいのではないでしょうか。

匿名 さんのコメント...

面白い方ですねぇ。残念ながらそんな前提はあなたの脳内にしかありませんよ。俳句より、もう少し自分を見つめなおされた方がよろしいかと。

福田若之 さんのコメント...

匿名のみなさまへ。

まず最初に。表面的な言葉尻を捉えただけの揚げ足の取り合いが建設的な議論につながるとも思えません。場が荒れます。無用な挑発は極力ひかえていただきたいと思います。これは、記事の執筆者からのお願いです。

それと、できれば、ハンドルネームを使っていただきたい。コメントを投稿する際、「ログイン情報を選択」のところで「名前/URL」という項目にチェックをいれていただくと、コメントに発言者の名前を入れることができます。どのコメントが同じ方のコメントなのかが分からないと、どういう立場から発言されているのかわかりにくく、議論が成立しづらくなるように思われます。

以下、いくつかのコメントについて、個別に意見を述べさせていただきます。

>その文脈でいうとですね、同性愛者をめぐる社会的軋轢が存在する以上、BL俳句は「BL」を冠した時点で「公共性」を帯びざるを得ないわけですよ。

「公共性」については、拙いながら、僕なりに定義をしておきました。冒頭に、「その文脈でいうとですね」という文言があるので、この定義にもとづいてコメントをくださっているというふうに受け取ったのですが、そうした読みで間違いありませんか。それでよいという場合、ここで匿名さんが主張しているのは、同性愛者をめぐる社会的軋轢が存在する以上、BL俳句は「みんな」に等しく共有されることに価値を置かざるをえない、ということになると思うのですが、そこには論理の飛躍がありませんか。

>文学では「公共性」を欠いたものが悪ではありません。つまらないものが悪なのです。

最初の一文については、同意します。ですが、次の一文については、同意できかねます。巧拙と善悪はまったく別の問題であり、両者を混同することは危険であるように思います。たとえば、肉親を亡くした方がその追悼のために書いた俳句が、あなたの目に、拙いものとして映ったとしましょう。この俳句は文学では「悪」なのでしょうか。つまらないものはつまらない、それで充分ではありませんか。それも、しばしば、個人にとってつまらないというだけのことではありませんか。

福田若之 さんのコメント...

僕の二番目のコメントについて。

後になって気がつきましたが、巧拙とおもしろい/つまらないの問題を混同してしまったのはうかつでした。拙なくてもおもしろいとか、巧くてもつまらないとかいうこともあります(そうした感じ方は、いずれも、あくまで個人的なものですが)。いずれにせよ、それらを善悪と混同することに僕は同意できかねる、ということです。

はじめの匿名 さんのコメント...

念のために書いておきますが、2016/09/11 0:17および2016/09/11 1:08は私ではありません。

>同性愛者をめぐる社会的軋轢が存在する以上、BL俳句は「みんな」に等しく共有されることに価値を置かざるをえない

より正確にいうならば、民主主義社会として共有される価値を認識することが要請されることになるだろう、ということです。
認識した上でそれと逆行することも表現としてはありうるでしょうし、それに対して批判が起こることもあるでしょう。これは表現として当たり前のことであり、それを拒否する姿勢はあまりに前時代的だと思いませんか。

町屋 さんのコメント...

関連あるような感じの記事が話題になっていたので置いておきます。
差別する身体:腐女子とホモフォビアを考える
https://megalodon.jp/2016-1216-0102-19/rinriko-web.hatenablog.com/entry/2016/12/15/221141