2016年11月30日水曜日

●水曜日の一句〔宗田安正〕関悦史


関悦史









昼寝より起ちて巨人として去れり  宗田安正


入眠幻覚の逆というべきか、起ちあがるほどはっきりと覚醒していながら、その身は不意につねならぬ「巨人」となり、歩み去る。

去られてしまったからには、「巨人」は語り手から見て他者ではあるはずだが、この句の場合、はたから他人のさまを見ている句か、自身が昼寝から覚めての句かの区別はあまり意味をなさない。ここに描かれているのは、ドッペルゲンガー(自己像幻視)的に自身が分かれてゆく啓示的光景である。何が「巨人として」去ったのか、主格が無化されているのは、自己と他者にまたがる、そのいずれにも定義づけられない何ものかが去っていったからなのだ。

この夏の光のなかへ去っていく「巨人」を、語り手個人の生命を超えて連綿とつながり広がる「命」そのものと取ることはもちろん可能ではある。ドッペルゲンガーじみているとはいえ、季語「昼寝」は句に夏の陽光を呼び込み、怪奇小説的な不吉な滅びの予兆として「巨人」が現れているようには見えないからだ。

しかし個と全体をいきなり一元化してしまう生命主義の退屈な目出度さ(「大いなるものに生かされている……」)とは、この句は一線を画していよう。「昼寝」の日常性から「起ちて」の動作を経ての「巨人」という異様なフィギュア(形象)出現への飛躍には、そうした平板さには回収されない違和がある。その違和に「巨人」が去った後の明るさが染まる。むしろ夏の季霊とでもいうべきものが、語り手の身を過ぎったと捉えたくなるが、そうした短絡も謹むべきなのだろう。この「巨人」は何かの隠喩か寓意のような顔で一句に闖入しながら、何を指しているのかが分からない「明瞭な不可知」であってこそ初めて出現を許されるものだからである。この句を成り立たせているのは、そうした違和そのものだろう。


句集『巨人』(2016.11 沖積舎)所収。

2016年11月29日火曜日

〔ためしがき〕 クレオパトラの鼻 福田若之

〔ためしがき〕
クレオパトラの鼻

福田若之

もし、クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界は違っていただろう、と考えるなら、そのときには、クレオパトラの鼻がもう少し低くあるために世界はどれほど違っていなければならなかったのか、を考えてみる必要があるだろう(だが、そのとき、「クレオパトラの鼻がもう少し低い世界」で「クレオパトラ」と呼ばれるそのひとは、いったい何者だろうか?)。


2016/10/19

2016年11月28日月曜日

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】Nと川崎長太郎 瀬戸正洋

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】
Nと川崎長太郎

瀬戸正洋


古書オンラインショツプで、川崎長太郎の『抹香町』(講談社、昭和二十九年刊、初版)を手に入れた。私は、二十歳代に川崎長太郎の初版本を集めていた。小田原市内の書店で創作集、随筆集の新刊の初版本を買い求めた。「抹香町」という創作集は、その頃、エポナ出版から復刻版が出ていたが買わなかった。もちろん、古書店へ行くほどのお金は持ってはいなかった。その後、没後三十年記念出版で、講談社文芸文庫から六冊の創作集、随筆集が出ている。今でも、小田原市内の書店では、新刊の文庫本が六冊揃って棚に並んでいる。

Nとは、その頃からの付き合いで、今でも、書き続けている。突然、歌集が送られてきたので驚き、礼状をと思い書きはじめたのだが、書いているうちに、「週刊俳句」に投稿したくなった。それで、村田篠さんにお願いした次第である。そして、第242号(西暦2011年12月11日)に掲載していただいた。自薦というのは、おこがましいので自選ということにしていただければ幸甚である。これは、『俳句と雑文B』にも収録した。

西一村 歌集『夏の鉄橋』を読む
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/12/blog-post_1966.html

何故、Nと川崎長太郎なのかはわからない。二十歳代のころは、何となくイメージで似ているような気がしていた。

だが、川崎長太郎を読み返してみると、生に対する怨念のようなものが感じられ、そのド迫力に圧倒される。師である徳田秋声に対しても容赦がない。私は、川崎長太郎の創作集を十数冊持っている。目さえ疲れないようにすれば、通勤往復四時間の退屈な時間が貴重な時間となる。

Nは、詩集を出すと言っている。この一文は、その激励文でもある。

2016年11月26日土曜日

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】バッド・ガールへの道のり(ミート・ローフを食べながら) 小津夜景

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】
バッド・ガールへの道のり(ミート・ローフを食べながら)

小津夜景

週刊俳句の第500号を祝う趣旨でこちらにも書きましたが、わたしが初めて読んだ句集は高山れおな『俳諧曾我』でした。で、2冊目が金原まさ子『カルナヴァル』、3冊目は西原天気『けむり』なんです。読後の感想はいずれも週刊俳句に送り、ふしぎなことに(当時はそう感じた)すべて掲載してもらいました。個人的に忘れがたいこの三句集の中から、自薦記事として上げたいのはこれ。

へテロトピアとその悲しみ 
金原まさ子『カルナヴァル』を読む
http://weekly-haiku.blogspot.fr/2013/10/blog-post_7385.html

『カルナヴァル』はBL趣味にあふれた句集。ひとくちにBLと言ってもいろいろですが、本書ではセックスやジェンダーにまつわる潜在的な暴力に対する女性特有の抵抗や衝突あるいは混乱からまぬがれた場所で、どこまでもあっけらかんと世界肯定的な〈17音の祝祭〉が繰り返し催されます。

あと本書73頁の「いい人は天国へ行けるし/わるい人はどこへでも行ける。」という言葉は、中年反骨女優メイ・ウェストの言い回しだと «Good girls go to heaven, bad girls go everywhere.»となるらしい。つまり「人」でなく「少女たち」なんですね。ここ、非常に重要だと思うのはわたしだけではないはず。バッド・ガールへの道を踏み外すことなく歩みつづけた結果、金原まさ子さんは本物の黒い天使となった。週刊俳句が存在したお陰で、このような志の高い句集のレヴューを書けたことをしあわせに思います。



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2016年11月25日金曜日

●金曜日の川柳〔本間美千子〕樋口由紀子



樋口由紀子






ひと還る非常階段せまくても

本間美千子 (ほんま・みちこ) 1938~2001

「ひと」は自分のことではないだろう。傍観者として「ひと」を見ている。作者の身近な人、恋人か夫だろうか。雨露のしのげない外付けの非常階段がどんなに滑りやすくて上りにくくて狭かろうとも、それでもその「ひと」は還ってくる。

「還る」だから「帰る」よりもまっすぐではなく、なにやら複雑。それも非常階段、広い正面の一般的な階段を使わないのだから、何か事情がありそうである。たぶんそれは作者とも無関係ではなさそう。それでも、いやそれだからこそ「せまくても」還ってくる。彼女はあくまでも客観的に見ているようだが、冷静ではおれない。

11月26日は「意味なんて後からついてくる」と言った本間美千子の祥月命日。享年63歳、今の私の年齢。〈遠い国のあかい血をみたうたにした〉〈好きにいきたらええやんあさがお咲くあいだ〉〈真水真闇そろそろほうり出す一生〉〈おっかけっこは小銭落して猶予刑〉 『本間美千子川柳集』(2005年刊)所収。

2016年11月24日木曜日

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】で、ティッシュはもらえたのか 柳本々々

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】
で、ティッシュはもらえたのか

柳本々々


『週刊俳句』の編集者である西原天気さんから500号記念企画の一端として自選/自薦記事をあげてほしいとメールをいただいて、わたしがふっと思いだしたのは、『週刊俳句』に初めて投稿した記事「NO TISSUE, NO LIFE」(2014年7月13日)である。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/07/no-tissue-no-life.html

丸山進さんの句、「生きてればティッシュを呉れる人がいる」について書いたものなのだが、わたしは敬意というか天気さんに対して畏れ多いという感情をもっていたので(これは天気さんにお会いしたときに直接申し上げたこともあった)、投稿してなんだか怒られるんじゃないかとどきどきしながら返事を待っていた記憶がある。

たぶんわたしは怒られると思っていたような気がする。そして、たいていの場合は、そう思っている。わたしは怒られる、と。

記事を投稿して、土曜日にひとと待ち合わせるため、日比谷のペニンシュラホテルのロビーで重たい布のようにぐったりして長い椅子に深く腰掛けていたのだが、明日載せます、という連絡をいただいて、すごく嬉しかった記憶がある。それはわたしにとってのひとつの「ティッシュ」だった。わたしは隣の見知らぬひとの肩を叩いて「明日、のるんですよ。怒られなかったですよ。明日のるんですよ」と言いたい気持ちになった。もちろんそんなことをしたら取り押さえられてしまうので言わなかったけれど。でも、「生きてればティッシュを呉れる人がいる」というのはあながち嘘ではないな、と思った。

次の日、記事が掲載されると、丸山進さんご自身がそのことを記事で取り上げてくださって、また、わたしは「生きてればティッシュが呉れる人がいる」という句そのものを生きることになった。なんだろう、わたしは、この句の感想を書いたのだが、〈書く〉というよりも、その感想自身を〈生きている〉ような気持ちになった。また、ティッシュを、もらったのだ。

あとからあとから、ティッシュは、どんどん、やってくる。しかも、「呉れる」というそのときその場限りの〈たった一回〉のかたちをともなって。

「生きてれば」という「てれば」の性急で不器用な感じはわたしの生に似ていると思った。「生きていれば」ではない。「生きてれば」であって、そこには十全な生はない。なにかが、決定的な、致命的なかたちで、欠けている。でも、「生きてれば」ティッシュを呉れるひとがあらわれる。そしてさらに「生き」続け「てれば」わたしもいつか誰かにティッシュをあげられる人間になれるかもしれない。生きてればこそ。

わたしはそれから頻繁に『週刊俳句』に投稿をはじめた。投稿するたびに、今度こそは天気さんから怒られるかもしれないなと思ったが、天気さんは怒らなかった。今も「あとがきの冒険」は畏れ多い気持ちで提出している。おまえは「冒険」と大胆に名乗りながらもいったいなにを、と思われるかもしれないが、それは本当である。

そのうちにSさんがBさんにわたしを紹介してくださって、私は外山一機さんの後に時評を書かせていただくことになった。それはわたしが『週刊俳句』でおそれ多さを感じながらも毎回投稿させていただいたおかげである。『週刊俳句』という媒体そのものにわたしは感謝し、いまも畏れ多さを感じている。《わたしはそもそも500号続けることを続けてきた〈生きてれば〉の実践としての『週刊俳句』そのものに畏れ多さを感じていたのかもしれない》。

わたしは小心者の冒険家だと、おもう。でも小心者の冒険家でも「生きてればティッシュを呉れる人がいる」。

で、ティッシュはもらえたのか。

はい。




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2016年11月23日水曜日

●水曜日の一句〔千葉信子〕関悦史


関悦史









冬花火この骨壺といふ個室  千葉信子


現在は冬場の花火大会というものも幾つもあるらしいのだが、「冬花火」という季語はおそらくない。通常夏のものである花火が冬に持ってこられると、その光も冷たさに引き締められ、氷の一種のようにも思えてくる。

「この骨壺といふ個室」は、「この」の一語から眼前に骨壺があるとわかるが、コ音とツ音の連なりに引き入れられるようにして、やがて自分が入るものとして外から見ているとも、既に入ってしまった骨の立場から見ているともつかない位置関係を骨壺と語り手の間に組織してしまう。

ことさら感傷的であったり、恐怖にすくんでいたりするような詠みぶりではないとはいえ、一般論的な句ではない。語り手個人と密接している特定の骨壺の話である。「この」がそうした関係を形作っているのだ。

知覚のあり方も少々特異ではある。骨壺を「個室」と見なす意識は、既になかばその内側に安住している。そこには骨となった後の、しかし骨そのものからは離れた身体意識がある。「この骨壺」との位置関係を持ちうる生身の身体が同時に「冬花火」をも感じ取れているのは、そうした身体意識によるのである。

死後の知覚をそのように先取りしていながら、この「個室」の安寧や「冬花火」の輝きは、救済にも、その逆の無救済にもつながらない。物としての骨壺=個室が冬花火と重ね合わされ、やや物寂しい意識の拡張が詠まれるばかりである。

生死の間に広がるこの「冬花火」は、「銀河」や「宇宙」のひとつの擬態に近いものなのではないか。無限の宇宙への拡散は恐怖につながる。その拡散を引きとめるものとして骨壺という個室があるのである。


句集『星籠』(2016.10 深夜叢書社)所収。

2016年11月22日火曜日

〔ためしがき〕 アクシデント 福田若之

〔ためしがき〕
アクシデント

福田若之


今日届いた『俳句四季』11月号、確認していて、おっと、と思う。28頁、下段。インタビューでの僕の発言で、「トークイベント」が
トークイベン
となってしまっている。より正確に説明すると、「トークイ」までで行の底まで届いてしまっているので、「ベン」が一行、その下に十八字分の空白があり、次の行が「ト」から始まっている。ベン、おまえ誰だよ。ベンかよ。

校正稿はしっかり確認したつもりだ。こんな誤植を見落とした僕の目は、いくらなんでも節穴すぎないか。大仏でもくぐりぬけるくらいの大穴なんじゃないか(改行は空白を産むので、そこらへんの誤植とはインパクトが違う)。そこで、もしかしてと思う。校正前は、「トークイベン」までで行の底に届いていたのではないだろうか。

確認してみると、案の定、そうだったことが分かった。そこに、見えない改行が隠れていたというわけだ。この記事は校正の段階で少なくとも数人の目を経ているのだが、僕らは誰一人、見逃したわけではなかった。そいつは見えなかったのだ。これをステルス改行と名付けよう。またの名を、プレデター改行としてもよい。

どれだけ気を付けていても、こういうことは起こるときには起こってしまうものだ。泣いても笑っても、こういうふうにテキストはできてしまったんだから、こういうものとして読むしかないし、読んでいただくしかない。

読むからには面白がりたい。

面白いのは、このステルス改行が、ゲラでは「トークイベン」までで行が変わっていた、という事実をはっきりと記憶しているという点だ。とにかく、何かがそれ以前から書き換えられ、それによってこんな誤植が生じたのである。もちろん、「トークイベン」でちょうど行の底に至る文字列というのは、いくらでも考えられる。それに、発言が雑誌の体裁におさまったときに行の底になにが来るかは、偶然の出来事でしかない。そのことは何も意味しない。かといって、それは無意味でもない。すなわち、意味と無意味との対立の埒外にあるということだ。そういうものをまとめて、いたずらなもの、と呼ぶことにしたい。偶然のもっとも美しいありようは、いたずらなものとしてそのまま過ぎ去ることであるように思う。そうでないと、偶然はおそらく運命というあの胃もたれがするものにたやすく置き換えられてしまうのである。


2016/10/18

2016年11月21日月曜日

●月曜日の一句〔小津夜景〕相子智恵



相子智恵






しろながすくぢらのやうにゆきずりぬ  小津夜景

句集『フラワーズ・カンフー』(2016.10 ふらんす堂)より

世界一大きな動物種、シロナガスクジラ。

短い時間のすれ違いや「かりそめの恋」など、その場限りの軽い関係の「ゆきずり」という言葉に、「しろながずくぢらのやうに」で、途方もない大きさ、長さが加えられる。

シロナガスクジラのようにすれ違うのは、それはそれは長い時間がかかるだろう。軽い気持ちであっても、その長さ、大きさの分、ゆきずりの後の喪失感の大きさが思われてきて、なんとも切ない気持ちになる。

それでも「ゆきずり」に対して、シロナガスクジラという普通は考えもしないような、ぬーっとした巨大な比喩がなんだか少し楽しくて、さみしくて切ないのだけれど、不思議に安らかな気持ちも生まれてくるのである。

2016年11月19日土曜日

●『週刊俳句』は今晩24時に第500号

『週刊俳句』は今晩24時に第500号


およそ9年半、ということになりますね。

小津夜景さんが、ひと足先に、祝賀(?)記事を書いてくださっています。
http://yakeiozu.blogspot.jp/2016/11/blog-post_14.html

*

週俳概容

2016年11月18日金曜日

●金曜日の川柳〔細川神楽男〕樋口由紀子



樋口由紀子






掘り過ぎた穴からピエロ首を出す

細川神楽男

土を掘っていくとときたま蚯蚓が顔を出すことがある。しかし、ピエロの首は出てこない。もちろん「ピエロの首」は何かの比喩だろうけれど、ピエロなら人を笑わせるためにそれぐらいのことをやってくれそうな気もした。ピエロはおどけているが、その目は笑っていない。ピエロの身体は土に埋まったままだろう。なんだか哀しくなる。

ついつい掘り過ぎてしまったのだろう。掘りはじめると止められなくなる。そういうことは生活をしていくなかでもよくある。適当なところでストップすればいいものを、調子に乗ってついその先まで進んでしまい、見なくてもいいものを見たり、聞かなくていいものを聞いたり、知らなくてもいいものを知ったりしてしまい、後悔することがある。「ピエロの首」にすべてのものが含まれているように思った。ピエロはもう一人の自分かもしれない。『川柳新書 細川神楽男集』(1955年刊 川柳新書刊行会)所収。

2016年11月16日水曜日

●水曜日の一句〔和田耕三郎〕関悦史


関悦史









古タイヤ燃えてゐるなり冬の暮  和田耕三郎


たまたま出くわしたという以上の意味はことさらないはずの景だが、句は重厚な感触を持つ。「ゐるなり」の屈曲にディレイのような効果があるのがその一因で、これが化学製品のタイヤが黒煙を上げつつ液化していくさまに、語調の上で対応しているともいえる。その上で「古タイヤ」と「冬の暮」が頭韻を踏み揃え、この二つの体言にはさまれつつ、炎上は重く進むのである。

焚火の慕わしさといったものからは遠く、冬の暮の闇を背景にして浮かび上がる一点の炎と化す古タイヤは、何やら終末論的な光景とも思えてくる。語り手がこの「古タイヤ」を、役目を全うして世を去る満足のうちにあると見ているのか、それとも炎上を無残と見ているのかは曖昧なままであり、どちらとも判断を下さず光景のみを描いてその両義的な感情をも丸ごと伝えるのが、俳句の一つの本道に沿ったやり方ということにもなるのだろう。

いや、そうしたところへ一足飛びに行く前に、「燃えてゐる」の一語の唐突に立ちふさがるような顕現性に目を止めておく必要がある。「古タイヤ」「冬の暮」の二語の間に起こりうるありよう、言い換えれば潜勢力として「燃えてゐる」には咄嗟に思いが及ばない。

その轟然たる最期の相をいきなりつきつけられる経験がこの句の核心をなしており、それがいたって平明な言葉に移しかえられているがための重厚さなのだ。


句集『椿、椿』(2016.9 ふらんす堂)所収。

2016年11月15日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム7 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム7

福田若之




売るための芝生を踏み荒らすあそび

立ったからといって一酸化炭素中毒になったりはしないけむりハウス誰も見てないしふつうに走った

ベンツに轢かれてごめんなさいごめんなさいごめんなさい

ほとんど君ひとりのおかげで利害関係もないやつからきめえとか言い続けられんの慣れたよ


2016/9/20

2016年11月12日土曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


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2016年11月11日金曜日

●金曜日の川柳〔向山つね〕樋口由紀子



樋口由紀子






霧晴れる天狗は団扇取り落す

向山つね

霧が晴れた。天狗はあまりの急な晴れ具合にびっくりして、正体があらわになって、人間に見つかったらどうしようとあわてて手に持っていた団扇をうっかり落としてしまった。天狗が団扇を取り落した様子や音を全身で捉えている

霧がかかっているときと霧が晴れたときはまるで別世界で同じところとは思えない。本来は見えないこと(ありえないこと)を親愛の情とユーモアを持って想起した。自分の居る世界だけが世界ではなく、自分の見えない世界もどこかに存在している。一方、「霧晴れる」時間と「天狗」が「団扇」を取り落す時間が別々に流れていて、もう一つの時間を意識しているようにも思った。

掲句は平成元年の年末に開催された川柳大会の兼題「霧」の特選句。25年前にはこんな素敵な川柳が選ばれていた。「第二十八回川柳塔きゃらぼく忘年句会報」(1992年刊)収録。

2016年11月10日木曜日

〔ネット拾読・変則版〕これが世界の現実なのです 西原天気

〔ネット拾読・変則版〕
これが世界の現実なのです

西原天気



いわゆる「中八」の是非ということが言われます。つまり、忌避派か容認派か、みたいな、ね。

ところがじつはそんなことが問題なのではなかったのです。驚くべきことに、そもそも、「七五」と「八五」が区別されていない。

七五調の言葉は楽しい!記憶に残るあの言葉も「七五調」だった【声に出して読みたい日本語】
http://togetter.com/li/1046400

ここに挙げられている「七五調」のうち、相当数(ひょっとしたら半数近く!)が「八五」(およびそれにに類する字余り)。

これが世界の現実です。

これって俳句世間の外の事象なのか?

というと、そうでもなく、七五か八五かなんてことにまるで頓着しない、区別がない俳人が少なくないようです。


ところで、昨日は、米国大統領選で共和党候補トランプが勝利。

これが世界の現実です。

ちなみに、今回もっとも重要な論考のひとつ、マイケル・ムーアの予想記事は、こちら(↓)
http://www.huffingtonpost.jp/michael-moore/5-reasons-why-trump-will-win_b_11254142.html

私を含めた多くの人間が現実に目を向けていなかったようです。



〔オマケ〕
こんな記述も見つかりました。
短歌・俳句の世界しかり、それから「知らざあ言って、聞かせやしょう」「こいつは春から、縁起がいいわい」といった歌舞伎の名台詞しかり、日本語の本来もつリズムには七五調がしっくりくるんですね。
http://www.chacott-jp.com/magazine/dance-library/words/words2-58.html
前者(知らざあ~)は七六だし、後者(こいつは~)は八八だし。

ここまで来ると、「七五調」とは、呼吸4つくらいで言える文言、くらいの意味かもしれません。


2016年11月9日水曜日

●水曜日の一句〔杉山文子〕関悦史


関悦史









白皿に白ソーセージ夏の果  杉山文子


何がどうしたといった筋道もなく、好悪や是非の判断がくだされるわけでもなく、物件としてただ白皿に乗せられた白ソーセージだけが提示される。ところがこれがどちらも「白」と明示されているため、「夏の果」と組み合わさると、静物画めいた端然たる美感と情感を帯びてしまうことになるのだ。

語り手はこの白ソーセージを特に「愛でる」とも「眺める」とも言っていないのだが、逆説的なことに、そうした審美的な対象として弁別されていないがゆえに、かえって単なる食品が静謐な美しさをまとうこととなるのである。「皿にソーセージ」だけであればそうした効果は上がらない。これはひとえに、二回明示された「白」のはたらきによるものだ。「白」と繰り返し言われることで、ただの食器と食品が日常から不意に大理石の彫刻のように切り離され、いわば聖化されてしまったのである。

ただし聖化されつつも、これらが同時に相変わらずただの食器と食品に過ぎない点が重要で、句は次の場面へとなだらかに移ってゆき、そこでは「白ソーセージ」は何ごともなく食されてしまうことが予期される。ことさら審美的視線が介入しないことによって、句は大仰に永遠性を指示する力みへと凝固することをまぬがれ、どうということもない食卓や語り手の暮らしにまで聖化の光をやわらかく及ぼすことになるのである。

そう見てみたときに「晩夏」でも「夏終る」でもない「夏の果」という、季節の変わり目がなかば場所的な極限性と境界性に転じているような季語を置かれたことの必然性が際立ってくる。日常のなかに不意に聖化や永遠性がすべり込むとは、いわば時間が“流れ去るもの”から、アボリジニのドリームタイムのような一種の“場所”へと転換されることにほかならないからである。


句集『百年のキリム』(2016.10 金雀枝舎)所収。

2016年11月8日火曜日

〔ためしがき〕 偶景 福田若之

〔ためしがき〕
偶景

福田若之


改札口から続くコンコースの向こうの、地上の階へ下りるエスカレーターの脇に、喪服の男が立っているのが見える。男の下腹部のあたりで組まれた両手は、白地に黒で「藤村家」と印刷されたプラカードを握っている。プラカードの柄は短く、ちょうど男の胸部のあたりにその「藤村家」が見える寸法になっている。男は無表情で、微動だにせず、ただ立っている。

男の脇を抜けてエスカレーターを下っていくと、その向こうの、タクシー乗り場の前に、喪服の男が立っているのが見える。さっきよりすこし老けた男で、髪は白い。男の下腹部のあたりで組まれた両手は、白地に黒で「藤村家」と印刷されたプラカードを握っている。プラカードの柄は短く、ちょうど男の胸部のあたりにその「藤村家」が見える寸法になっている。男はやはり無表情で、微動だにせず、ただ立っている。だが、その顔はさっきの男とは違っている。

「藤村家」という言葉はなにも意味しない。「藤村家」という語は、そもそもなんらかの意味をもっているわけではなく、単になにかを指し示しているのだろう。だが、僕はその指し示す先を知らない。僕は、彼らが誘導しようとしている葬儀の会場を知らないのと同じように、彼らが指し示そうとしている「藤村家」のなんたるかを知らない。したがって、僕は、この「藤村家」という言葉から、死者の顔も、その血筋の系譜も、思い浮かべることはない。そして、この言葉は、なにより、あれらの看板を持った男たちが「藤村家」の人間であることを意味しない。彼らは、「藤村家」の人間ではなく、葬儀屋の人間ではないだろうか。

彼らの立ち姿は実に形式的である。誰かの「死」は確かであろうが、その出来事への感情は、いっさい顔にはあらわれない。そこには悲しみも晦みもない。おそらく、今夜、どこかで、「藤村家」の誰かのために泣く人たちがいるのだろう。だが、そうしたことのいっさいは、仮にその場かぎりのことでしかないとしても、いま、この無表情からは締め出されている。定型的な表情のなさは、ただ、その顔のかけがえのなさだけを際立たせているのだ。それゆえ、この無表情において、「死」がもつはずの意味はかぎりなく希薄になっている。

その無表情が、きれいに、身体だけを違えて、二度、繰り返される。この立ち姿との遭遇がたった一度であったなら、その立ち姿の完璧さ、出来事の唐突さなどが、ひとつの意味をもつことになってしまっただろう。三人以上と遭遇してしまったなら、それはそれで、読むべき意味を求めて街を探し歩くことになってしまっただろう。僕は第二の男がのいるほうへは進まず、駐輪場へ向かう。


2016/9/29

2016年11月7日月曜日

●月曜日の一句〔瀬戸正洋〕相子智恵



相子智恵






犬の足人間の足秋惜しむ  瀬戸正洋

句集『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』(2016.09 邑書林)より

この犬と人間は、散歩中だろうか。ベンチに座っているのかもしれない。

足元に注目すると、当たり前だが地面は近い。草紅葉しているかもしれない。土の上には落葉などもちらほらあることだろう。そんな地面を踏みながら、秋を惜しんでいる様子が浮かんでくる。……と、ここまで書きながら、そのような背景は後から想像されてくるものにすぎない。

一読、ただただ犬の四本足と、人間の二本足がぬーっと立ち現れる。そして唐突に〈秋惜しむ〉のである。なぜ作者が犬の足と人間の足を並列に並べて注目したのかわからない。そしてなぜそこで秋を惜しんだのかもわからないのだが、どこかシュールで、ふっと笑いを誘うところがある。訳がわからないが、味があるのだ。

足を並べられて脱力している間に、ひゅっと秋は行ってしまう。

2016年11月6日日曜日

【俳誌拝読】『絵空』第17号(2016年10月31日)

【俳誌拝読】
『絵空』第17号(2016年10月31日)


A5判・本文16頁。以下、同人4氏作品より。


骨壺のまだ温きかな雁渡る  茅根知子

雲割れて光の柱小鳥来る  土肥あき子

秋の蠅大粒にしてしづかなり  中田尚子

弓を引く逢魔が時の空澄みて  山崎祐子


(西原天気・記)

2016年11月5日土曜日

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俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。

2016年11月4日金曜日

●金曜日の川柳〔多田誠子〕樋口由紀子



樋口由紀子






レモン輪切りぐらいで満ちてくる神秘

多田誠子 (ただ・せいこ)

川柳は題が決められ競吟する文芸でもある。掲句は兼題「神秘」の入選句。「神秘」は「神」プラス「秘」。なんとも仰々しい言葉である。しかし、その「神秘」が「レモン輪切りぐらい」で「満ちてくる」ものだと作者は気づいた。日常とかけ離れていると思っていた「神秘」が身近なところにもあった。

夜空の星を見ていたら、神秘とはこういうものかもしれないと思うことはあっても、レモンを切ったくらいで神秘は感じなかった。確かにレモンを切るとつんとして、酸っぱいにおいが漂ってくる。今までそこにあった空気とは違う。「神秘」とは思わなかったが、言われてみれば「神秘」というものはそのようなものかもしれないと思った。「川柳たまの」(第57回玉野市民川柳大会 2006年刊)収録。

2016年11月2日水曜日

●水曜日の一句〔小津夜景〕関悦史


関悦史









風鈴のひしめく空を食べあます  小津夜景


一見ふつうの平叙文のようにも見えるなだらかな語調に乗せられて、するすると読み下してしまうものの、内容的には細かな転調が次々に繰り出され、異様なイメージを形作っている句である。

「風鈴のひしめく」がまず尋常ではない。「風鈴の見える」ならば、風鈴の下がった軒先を屋内から見上げた景となり、風鈴は一つ二つだろう。それが「ひしめく」で無数に増やされ、さらには「軒」ではなく「空」に直結されることで、空一面に風鈴が下がっている異様な状態を呈する。

そしてその「空」は、あろうことか「食べ」られてしまうのだ。語り手自身が食べていると思しい。しかしそのままスムーズに食べ尽くされることはなく、「食べあます」とここでもまた転調が繰り返される。

不思議なことに(不思議なことずくめだが)、食べあまされることで、かえってそこに漂う感情は満足感に近いものとなり、「空」の無限の広がりが感じられる。「食べ飽きる」という範列(別の選択肢)から一句が身をそらしているためである。この転調=身のそらしようの連続が、さながら身軽なダンサーによる舞踊のようなしなやかな運動感覚を一句にもたらしているのだが、句集の表題が『フラワーズ・カンフー』であることを思えば、舞踊というよりむしろ拳法的なそれというべきだろうか。

「風鈴のひしめく空」は、風鈴という指示対象を透かし見せながら、それを無限化、さらには無化し、実体をそのまま非実体にしてしまう言葉の連なりである。「霞を食う」という慣用句とは異なり、この句では食べる身体の側にまで無限化=無化が及び、空と同質に近いものに変容している。

ただしこれを一概に一方的な非実体化ととらえてはならない。ここで起こっているのは、むしろ非実体的に見える夏空を、実体(大気、光、色、音、温度、湿度、空間……)の相に引きつけながら、遍在する風鈴という非実体化された実体を介して改めて指示対象(現物としての空)からは剥離させ、身体との交通へと導きいれるという、複雑な襞をたたみ込んだ双方向的な事態なのだ。そこに充ち溢れる開放感と幸福感は、未知のものでありながら、ただちに読者の身心に住み入る。


句集『フラワーズ・カンフー』(2016.10 ふらんす堂)所収。

2016年11月1日火曜日

〔ためしがき〕 「とても新しい流れ」 福田若之

〔ためしがき〕
「とても新しい流れ」

福田若之


四ッ谷龍『夢想の大地におがたまの花が降る』(書肆山田、2016年)の29頁から31頁にかけた大地の表面を流れる川、46頁から47頁にかけて群生しているなんばんぎせるの花たち。ほとばしるようなこれらの言葉。これが抒情だ、と思う。

だが、たとえば、《君は一本の川だとても新しい流れ》というとき、この句自体は、決してモダニスティックな意味合いにおける「新しさ」を持ち合わせているわけではないだろう(この句は、モダニストから見たら古い抒情詩にすぎないのではないだろうか)。

この句の「新しさ」は、抒情の一回性とかかわっている。個別の抒情は一回性のものであるがゆえに、古くから繰り返されているにもかかわらず、「とても新しい」のだ。それは、ある川が、おなじ「一本の川」でありながら、たえず「とても新しい流れ」であることに似ている。そこに流れる水がたえず置き換わっているがゆえに、川はつねに「とても新しい」。代謝する身体としての「君」。

2016/9/29