2017年9月21日木曜日

●自殺

自殺

自殺系空間きりんうるむなり  摂津幸彦

蝶むらさき自殺につけられた理屈  福田若之〔*〕

やがてバスは自殺名所の滝へかな  櫂未知子

月になまめき自殺可能のレール走る  林田紀音夫

二つ三つ不審もあれど春の自死  筑紫磐井


〔*〕福田若之『自生地』(東京四季出版/2017年8月31日)

2017年9月20日水曜日

●昨日は子規忌 橋本直

昨日は子規忌

橋本直


明治35年9月19日は「子規忌」(獺祭忌、月明忌などとも)、旧暦でいうと8月18日にあたる。ちょうど自分がいろいろ俳句を選している最中なので、この句について少し。

  三千の俳句を閲し柿二つ 子規(明治30年)

一読してこの「三千」という句の数字が具体的に何をさすのかよくわからない。わからなくてよく詠んであるのだからリアルな根拠はいらないように思う。〈たくさん〉ほどの意だろう。漢籍でよくやる「万」は俳諧以来のアンソロジーの定番「〇〇一万句」を想起させて「月並」でいただけないし、あまり多いと数自慢の匂いもするので、数と音の調子できめたものだろうか。読者に対するある種の自分らしさの演出、自己演技を感じもする。

実証的な話をすれば、二説あって、一つには『新俳句』(明治30年)の句稿説。『新俳句』を編集した直野碧玲瓏宛書簡で、『新俳句』の版の話題のあったあと、最後にこの句が付してあり、当然碧玲瓏はそう考えていた。

もう一つは、子規の「俳句稿」明治30年秋所収のこの句の前書「ある日夜にかけて俳句函の底を叩きて」を根拠とするもの。「俳句函」は子規宛に送られてきた投句を収めた箱のことらしい。虚子や『子規全集』16巻の「解題」(担当:池上浩山人)はこちらをとる。

特に池上は後者の方が「自然」(前掲文中)とまで書いているけれども、そこまで言ってよいものだろうか。実際に詠んだときは後者がきっかけだったのかもしれないが、確かに碧玲瓏宛に書いて送ったのだから、そのときはその意味も込めてあったに違いない。要は、子規が同じ句を使い分けたのであって、どっちが正しいとかいうのはナンセンスであるだろう。

子規は句に数字を使うのがけっこう好きなのだが、この「三千~」で始まる句は他に、

 三千の遊女に砧うたせばや (「寒山落木」第二)
 三千坊はなれ\/の霞哉  (「散々落木」第四)
 三千の兵たてこもる若葉哉 (「寒山落木」第五)

がある。

なお、虚子の追悼句「子規逝くや十七日の月明に」では日付のズレがときどき指摘される。子規は19日に日付が変わった頃に亡くなったとされているから、実質18日深夜になくなった。どうやら虚子は、旧暦8月17日の深夜の月を眺めたという意味でこの句を詠んでいる。たまたま新旧の日が近いせいで虚子が命日を間違ってるみたいなことになってしまったのだろう。その理由ははっきりしないけれども、この時なぜ虚子が旧暦の句にしたかは、その後の俳句史を考えると、興味深いことではある。

2017年9月19日火曜日

〔ためしがき〕 塔 福田若之

〔ためしがき〕


福田若之 

町に高い塔が建つ。浮きあがって見える。縮尺に違和感を覚える。けれど、しばらくすると、すこしずつ、町の視界にその塔があることがあたりまえになってくる。まわりの建物も、更地になり、あたらしく建物がつくられていくなかで、塔の存在を前提としはじめる。いつしか、塔は町にとって欠かせないものになっている。

2017/9/19

2017年9月18日月曜日

●月曜日の一句〔正木ゆう子〕相子智恵



相子智恵






十万年のちを思へばただ月光  正木ゆう子

句集『羽羽』(2016.09.春秋社)

前書きに〈映画「十万年後の安全」〉とある。フィンランドのオルキルト島に建設中の放射性廃棄物処理施設「オンカロ」(22世紀に完成予定)のドキュメンタリー映画。〈十万年〉は、放射性廃棄物の放射能レベルが生物に無害になるまでの時間。その時に人類は存在しているのか分からず、していたとしても今とはずいぶん違った生物になっているだろうから(今から10万年前はホモ・サピエンスの生息地域が拡大した頃らしい、そのくらいの時間だ)この施設の意味は伝わるのか……など、その途方もなさに茫然とする。

あまりに途方もないものを生み出し、その未来を見届けることなく、思うことすら無化してしまうような目の前には、ただ月光が茫然と白く映るのみ。月そのものではなく、光だけなのも象徴的だが、そもそも十万年後に月があるのどうかはわからない。

この月光は、いま目の前の光で、思うのもいまの私で〈ただ月光〉という終わらせ方は、その限界をまるごと差し出している。



2017年9月16日土曜日

【俳誌拝読】『静かな場所』第19号(2017年9月15日)

【俳誌拝読】
『静かな場所』第19号(2017年9月15日)


A5判、本文18頁。発行人:対中いずみ。

招待作品より。

虹の輪に機影かさなる添ひ寝かな  小津夜景

以下同人諸氏作品より。

仏間居間寝間と続きて冬椿  満田春日

短夜の箱振つて出す句集かな  森賀まり

あの本もこの本もある曝書かな  和田悠

トロフィーの見ゆる窓辺や夏燕  対中いずみ


(西原天気・記)

2017年9月15日金曜日

●金曜日の川柳〔山田ゆみ葉〕樋口由紀子



樋口由紀子






蜘蛛の巣をかぶって猫はあらわれた

山田ゆみ葉 (やまだ・ゆみは) 1951~

猫が蜘蛛の巣をかぶって出てきただけのことが書かれている。軒下からか天井からか、そんな猫が出てきそうであるが、奇妙な光景である。異様な、それでいてなにやら滑稽な雰囲気が漂う。

「かぶって」だから、猫の意志で蜘蛛の巣をかぶって出てきたように作者には見えて、その堂々ぶりに魅せられたのだろうか。あるいは蜘蛛の巣ごときが頭にあろうとそんなことはいっさい動じない、威風堂々とした猫に惹かれたのだろうか。が、蜘蛛の巣が頭についていることに気づかない無邪気な猫でもある。蜘蛛の巣を取り払わないのは意志なのか、ただ気づかないだけなのか。猫に対する思い入れの差も影響して、その姿を畏怖するか、可愛いと思うのか、全く異なった気持ちを引き出す。猫を比喩として使ったわけではなさそうだが、人間にも当てはまると思った。さて、この猫はどうなのだろうか。「ふらすこてん」(第53号 2017年刊)収録。

2017年9月14日木曜日

【俳誌拝読】『鏡』第25号(2017年9月1日)

【俳誌拝読】
『鏡』第25号(2017年9月1日)


A5判、本文32頁。編集人・発行人:寺澤一雄。以下同人諸氏作品より。

塔老いにけりひぐらしの声のこり  羽田野令

本棚をずらせば汽笛夏めく日  笹木くろえ

虹は水また八分の六拍子  佐藤文香

行く夏を首寝違へし人とゐる  谷雅子

姥百合の揺れて真昼の生欠伸  八田夕刈

ここからが中野サンプラザの日陰  三島ゆかり

禁色や玉子喰うとき殻を剝く  村井康司

ふらふらと来て猛りたる火取虫  森宮保子

砂浜に残る海月のその後見ず  大上朝美

キッチンを灯すと淋し夏の暮  佐川盟子

春山の奥に冬山そこまで行けず  寺澤一雄

(西原天気・記)

2017年9月12日火曜日

〔ためしがき〕 自分の書いた句を読みなおす 福田若之

〔ためしがき〕
自分の書いた句を読みなおす

福田若之


てざわりがあじさいをばらばらに知る  福田若之

僕がこの句を読むときに思い出すのは、《あぢさゐはすべて残像ではないか》(山口優夢)や《紫陽花は萼でそれらは言葉なり》(佐藤文香)のことだ。

像や言葉として理解されたあじさい。それらのあじさいが、まなざしによらない、てざわりというものからの出直しによって、生成変化する。そのとき、それらは、ばらばらなるもの(ばらばらなもの/ばらばらというもの)として把握しなおされることになる。知ることは、もはや、すでによく知られたあの知ることではない。すなわち、断片的なものの組織化による体系の獲得のことではないのだ。知ることは、これはあじさいだ、という認識を獲得することではなく(「あじさいと知る」ことではなく)、むしろ、世界についてのそうした認識を失調させ、解体し、それによって、ある引き裂かれた裸性へと到達することなのである。それこそが、ばらばらに知るということだ。

しかし、そうである以上、ばらばらに知るということについてのこの統合的な認識もまた、知ることそのものの生成変化とともに、ただちに失効するのでなければならない。それゆえ、認識の失調は、この句において、言葉の片言性によって表現されるほかはない。通用されている助詞の機能の失調によって。言葉が、書かれ、読まれながらばらばらになることによって。

2017/9/9

2017年9月11日月曜日

●月曜日の一句〔堀下翔〕相子智恵



相子智恵






田一枚夏といふ夏過ぎにけり  堀下 翔

アンソロジー『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』佐藤文香編(左右社 2017.09)所収

田圃の色は収穫期の黄金色までにはまだ遠いものの、夏の青田とは確実に違う色を見せていて、そこに夏がすべて過ぎ去ったのだという感慨を見出している。田を一枚見ながら、夏という夏が過ぎ去った……と思うのは鋭敏な感性だと思う。

もちろんこれは芭蕉の〈田一枚植て立ち去る柳かな〉を踏まえた知的な句でもある。芭蕉の句には、遊行柳の木陰で西行をしのんで感慨にふけっていたところ、その間に早乙女たちが一枚の田を植え終わって立ち去った…という「時間」が描かれている。

芭蕉がしのんだ西行の歌は〈道の辺に清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ〉で、ほんの少し休むつもりが長居をしてしまったという時間が描かれていて、芭蕉はそこを重ねてみせた。

作者はこの西行、芭蕉と続く「時間」の感覚を、「夏といふ夏過ぎにけり」とさらに大づかみに描いてみせている。少し休んでいるつもりが、一瞬のうちに夏という夏は過ぎ去ったのだ。美しく不思議な感慨である。



2017年9月8日金曜日

●金曜日の川柳〔小島蘭幸〕樋口由紀子



樋口由紀子






宇宙から持って生まれてきたセンス

小島蘭幸 (こじま・らんこう) 1948~

あの人はセンスいいとかセンスわるいとかをわりと軽々しく使う。が、さて「センス」とはなにかとあらためて考えると、原因のわからない、つかまえどころがないものであると気づく。そのどこか理解しがたい「センス」を「宇宙から持って生まれてきた」と言われた途端に、理屈ではなく、どっと広大な領域に連れていかれたような気がした。「センス」の謎が解けたような気になった。

今夏、松江で開かれた川柳大会の兼題「センス」の私の選んだ天の句である。「あっ」と思った。「ああそうだったのか」と思った。あまりいいとは思わなかった私のセンスも「宇宙から」と言われるとあきらめもつき、なにやらありがたく、かけがえのないもののように思えてくる。このように「センス」を捉える「センス」が素敵で羨ましく思う。自分の感じとる目で世界を見ている。(第10回松江市川柳大会)収録。

2017年9月7日木曜日

●螺旋

螺旋

しんじれば螺旋にかはる夏の島  大塚凱〔*〕

螺旋階下りきし人や草むしる  波多野爽波

見下ろされたる
いらだちの
夜の噴水の
爪立つ螺旋  高柳重信

階段の螺旋の中を牡丹雪  齋藤朝比古


〔*〕佐藤文香編『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』(左右社 2017年9月)

2017年9月5日火曜日

〔ためしがき〕 仏滅 福田若之

〔ためしがき〕
仏滅

福田若之



きょう、ようやく、『自生地』が奥付のうえでの発行日を迎えた。そういえばと思って六曜を調べてみると、なんと仏滅だった。

六曜のことは、正直、まったく気にしていなかった。またつまらぬ慣習を破ってしまった、とでもいったところだろうか。決して狙ったわけではないのだけれど、発行日が仏滅というのも、なかなかロックな感じで、わるくない。

仏滅にだって、子どもは生まれる。

2017/8/31

2017年9月4日月曜日

●月曜日の一句〔黒岩徳将〕相子智恵



相子智恵






指が指に逢ふ新涼のバケツリレー  黒岩徳将

アンソロジー『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』佐藤文香編(左右社 2017.09)所収

「新涼」や「指」を感じられる余裕があるのだから、このバケツリレーはもちろん、実際の火災現場のそれではない。新涼の季節には9月1日の防災の日が重なるので、防災訓練のバケツリレーが自然と思い出されてくる。

およそ詩にならなそうな〈バケツリレー〉という言葉がこんなに詩的になるとは……と、美しさと可笑しさで印象に残った。

〈指が指に逢ふ〉の淡い恋情からは、学校の防災訓練が想起される。バケツの水をこぼさないように、しかも素早く受け取って手渡さなければならない中で、恋心を抱いている相手と隣同士になった。バケツを渡すたびに指が触れ合う……そんな場面だろう。〈バケツリレー〉という語のまったく美しくないリアルが情けなくて、〈指に逢う〉が眩しくて、情けなさと眩しさが同居する、いい青春俳句だなあと思う。

バケツの中には澄み渡った秋の水が湛えられていて、それも清々しい。



2017年9月2日土曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

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【記事例】

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俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


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※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2017年9月1日金曜日

●金曜日の川柳〔柴田夕起子〕樋口由紀子



樋口由紀子






難儀とは女優の庭に生える草

柴田夕起子 (しばた・ゆきこ)

夏の草取りほど嫌な仕事はない。暑くて汗はふきでるし、虫は寄ってくるし、おまけに雨が降らないから土は硬くて抜きにくい。それなのに人の苦労も知らないで、どんどんずんずん伸びる。草のどこにその生命力があるのかと思う。

女優の庭に限らず、どこの家でも庭の草は難儀である。「女優」とは作者自身のことだろう。なにをもって「女優」と言っているのかは深く詮索してはいけない。「だって、私は女優なのだから、草取りなんてしないのよ」とおどけているのだ。自分の家の庭の草がぼうぼうになって困っていることを洒落て、ふざけて言っている。「難儀」という言葉に可笑しみがあり、「女優」という言葉にユーモアを感じる。「杜人」(2017年刊)収録。

2017年8月31日木曜日

●栞



ストーブの熱気に動く栞の尾  田川飛旅子

枯庭や栞の分けるきのふけふ  笠井亞子〔*〕

指栞して春雷を聞きゐたり  藤木倶子

〔*〕http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/12/page.html

2017年8月29日火曜日

〔ためしがき〕 世界の可能性 福田若之

〔ためしがき〕
世界の可能性

福田若之


たとえば、僕の鼻には嗅ぎとることができないにしても、誰かにとって、群生する蓮の花は、それだけで何か満ち満ちるほどの甘い香りがするのだということ。そして、それが、あるとき、ふとしたきっかけで、言葉として僕のもとに差し出されることがあるのだということ。これは、僕にとって、世界の可能性そのものだ。

2017/8/13

2017年8月28日月曜日

●月曜日の一句〔瀬戸内寂聴〕相子智恵



相子智恵






もろ乳にほたる放たれし夜も杳く  瀬戸内寂聴

句集『ひとり』(深夜叢書社 2017.05)所収

濃厚な句だ。蚊帳の中を想像した。乳房のほの白さの上に、戯れに放たれた蛍の光。その光があれば夜であり、暗いことは想像されてくるので、じつは下五がなくても景は成立するのではある。が、やはり〈夜も杳く〉の感慨があってこその句だろう。

「杳(くら)い」という語は、「暗くてよくわからない」という意味の他に、「はるかに遠いさま、奥深く暗いさま」があるので、この情景が回想の彼方にあり、暗さの中に時間の厚みのようなものも重なってくる。それが一句をさらに物語性を強いものにしている。「杳(とお)い」と読む例もあるので、もしかしたらこの句の読みも「とおく」なのかもしれない。

このように情念の濃い句は、そういえば現代にはあまり見かけないように思う。美しい句だ。

2017年8月25日金曜日

●金曜日の川柳〔佐藤みさ子〕樋口由紀子



樋口由紀子






きかんこんなんくいきのなかの「ん」

佐藤みさ子 (さとう・みさこ) 1943~

「帰還困難区域」は福島原発事故で放射線量が非常に高く、帰ることができなくなった地域である。とても住めるところではない。そこで人々は原発事故以前ごくふつうの日常生活を送っていた。

「ん」は何を意味するのだろうか。「ん」はひらがなの最後の文字。五十音図やいろは歌には出ない仮名である。行き止まりである。「ん」は不条理の表明だろうか。あれほどの事故なのに誰も責任を問われない。

「ん」があろうとなかろうと実はどうでもいいのかもしれない。ただそう言って、きょとんとさせ、まぜっかえすことで「きかんこんなんくいき」が「在ること」を確認し、露わにしていくことが作者の願い(狙い)だったように思う。それは原発事故は何だったのかという問いかけであり、怒りである。「きかんこんなんくいき」と整理整頓して、取り纏めても済まないものがあることをあらためて思う。〈おわりだとわかっていたが帰宅する〉〈とりかえしのつかない猫をどこに置く〉〈「かけがえのない」のあとには何が来る〉 「MANO」20号(2017年刊)収録。

2017年8月24日木曜日

〔人名さん〕アントニオ猪木

〔人名さん〕
アントニオ猪木


2017年8月22日火曜日

〔ためしがき〕 第一句集の出版予定日について 福田若之

〔ためしがき〕
第一句集の出版予定日について

福田若之


子どものころ、8月31日というのは、夏休みが終わってしまう日だった。僕の机のうえには、終わらないドリル、白いままの絵日記。まるで世界が終わるような心持ちで迎えた、それが夏休みの終わりだった。

そうでなくとも、夏休みの終わりというのはなんだか切ない気持ちがつきまとうものだ。だから、『自生地』は8月31日に出版することにした。夏休みの終わりをわくわくしながら待つひとがひとりでも増えてくれたら、僕としてはとてもうれしい。

2017/8/4

2017年8月21日月曜日

●月曜日の一句〔花房あすか〕相子智恵



相子智恵






高画質の魚を見てをり桃齧る  花房あすか(就実高等学校)

第20回俳句甲子園 全国高等学校俳句選手権大会 入選作品より

〈高画質の魚〉は、ハイビジョン撮影された魚なのだろう。私は美しい熱帯魚を想像した。テレビはもちろん、パソコンのスクリーンセーバーや壁紙、店の雰囲気づくりのために流しておくデジタルサイネージ、果ては一面が液晶ディスプレイの冷蔵庫まで登場している現在、高画質の魚の映像は、そういえば見かけることが増えた。

掲句は、ぼーっと見ながら桃を齧っているので、自宅のテレビかスクリーンセーバーといったところか。画面の中の魚は美しいが、今ここにあるものではない。対して今ここで齧りついている実物の桃。その味や滴る果汁、匂い、産毛の手触り……。

実物と映像の対比を鮮やかに見せ、映像が現実に近づき、境目が薄くなっている現代生活の中にあるアンニュイな気分を感じさせる一句。

2017年8月19日土曜日

【新刊】福田若之句集『自生地』

【新刊】福田若之句集『自生地』

2017年8月18日金曜日

〔人名さん〕トーリン・オーケンシールド

〔人名さん〕
トーリン・オーケンシールド

トーリン・オーケンシールドの如き溽暑  登貴


『里』2017年8月号より。

2017年8月16日水曜日

●水曜日の一句〔黒澤麻生子〕関悦史


関悦史









弟は寮より寮へつばくらめ  黒澤麻生子


学生寮から社員寮へといったことなのか、寮を出た弟は実家へ帰っては来ない。

「兄弟は他人の始まり」という、その他人化が少し進んだ局面といえる。

当たり前のように一緒にいた家族も緩やかに拡散し、別居し、やがて不在の方が当然になって、あとは法事や介護問題でもなければ顔を合わせることもなくなってゆく。この弟も順調に行けばやがて結婚し、別に一家を構えることになるのかもしれない。

「つばくらめ」のイメージをその身に反映させつつ、「弟」は身軽にしなやかに飛ぶように寮から寮へ移ってゆく。この、一度実家に戻るという過程を経ない連続した転居は、地から足が離れたまま遠ざかっていくさまを思わせ、そこがなおさら「兄弟は他人の始まり」といった格言的な一般論になめされていく前の個別の「弟」の生身と、それにまつわる生々しいもの淋しさを感じさせる。

やがてそのもの淋しさも、毎年巣をかけに帰ってくる「つばくらめ」に寄せるのと大差ない、あたたかくも、遠い関心へと移り変わってゆく。

その変移のなかで、句中の「弟」は、あたかも「つばくらめ」に変身していくようでもある。

不吉なことではあるが、死者の魂が鳥の姿で帰るという神話的な想像のパターンを考えれば、この「弟」は「つばくらめ」の面影を帯びさせられることで、句の語り手の心中に、生身を超えた、別種の存在感を持つに至る、その過程にあるといえる。別れとはそうした変移を強いるものではある。


句集『金魚玉』(2017.8 ふらんす堂)所収。

2017年8月15日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉10 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉10

福田若之


眼というのは疲れるものだ。眼が抽象的なものとして論じられるときには、しばしば、そのことが忘れられている。カメラの眼は眼ではない。

  ●

てのひらを水に押し当てる。手が水に浸ってしまうまでのあいだは、水面が手のかたちにへこんでいる。

  ●

たしかに僕にはふたしかながらもろもろの臓器があるだろう。けれど、内面はないと思う。僕がこのことを思うのは、たぶん身体のはたらきだということになるだろう。ひとが精神とか魂とか呼ぶものは、要するに、身体のはたらきのひとつにすぎないと僕は考える。幽霊は、精神とはまた別のことだ。

2017/8/3

2017年8月14日月曜日

●月曜日の一句〔宮本佳世乃〕相子智恵



相子智恵






蚊が脚をつかひ隣にをりにけり  宮本佳世乃

「あこがれ」(同人誌「オルガン」10号 2017.summer)より

ふと、童話のように泣けてきそうになる句だ。

蚊はそういえば脚が長くて、飛んでいる時も歩いている時も脚が目立つ。〈脚をつかひ〉だから、歩いているのだろうか。〈隣にをりにけり〉だから、蚊を隣で見ている人は刺されていないのかもしれない。

刺したり、刺されまいとして手で叩いて潰したり……と対決する対象として、あるいは鬱陶しさや嫌なものとして蚊を従来通りに認識するのではなく、そのような概念を外して、〈隣にをりにけり〉という静かな、ただ文字通り隣にいる状態を描いている。人間と蚊が並列に描かれることで、動物と人間が同じ言葉でしゃべることも当たり前な、童話の世界のような雰囲気が私には感じられた。

見たままを描いているという意味では写生である。ただ写生というと、今までは対象そのものの姿を(例えばこの句でいえば蚊のみ)を見えるように描くことで、直接読者の脳裏にその対象が見えてくるというような手法だったように思う。

がここ数年、対象と見る者の間を描こうとする姿勢が、特に若手の俳句の中に定着してきたような気がする。物そのものではなく、目と物の“間”にあるもの(あるいはないもの)を捉えなおすことで、視界(と認識)が洗われてハッとするような。写生の新たなステージのような気もする。不勉強なので、それは昔から俳人が考えてきたことなのかもしれないのだが。

2017年8月12日土曜日

〔人名さん〕藤原鎌足

〔人名さん〕
藤原鎌足

セロファンに包まれてきた藤原鎌足  山口ろっぱ

白夜考:200字川柳小説 川合大祐


2017年8月9日水曜日

●水曜日の一句〔樫本由貴〕関悦史


関悦史









原爆ドームの奥を撮る子や苔の花  樫本由貴


報道写真などで目にすることが多いのは原爆ドームの外観、ことにその通称の由来となったドーム部分ばかりで、遺構のなかやその奥の光景というのは、現地に行かない限りなかなかはっきり見る機会はない。

この「子」も滅多に見る機会のない物件に近づき、位置を変えつつ、写真になりにくい構図のものまで何枚も撮ったのではないか。そのようにして、建物の、歴史の、災禍の奥へ奥へと引き込まれる子を、柔らかく、地表と肉体の次元に結びつけておく「苔の花」の慎ましい優しさが素晴らしい。

奥があれば覗き込みたくなる。この子の行動は、おそらくそれだけのありふれたアフォーダンスに則ったものでしかなく、それ以上の目的はない。現在残されている建築の奥をいくら覗き、撮ったところで、原爆炸裂時の模様がわかるわけではない。この子はべつに原爆という未曽有の大規模な蛮行の表象不可能性に迫るべく、カメラを奥に向けているわけではないのだ。そもそも奥には何もない。後でネットに上げるネタとしか思っていないかもしれない。だがそこに厳然と残る現物、建築物件の力は、たしかに何十年か前、ここを原爆の爆風が吹き抜けたのだということを想像させずにはおかない。

そうしたこの子の意識、無意識に起こっているさまざまな波立ちを、句の語り手は後ろから眺め、ともに感じ取っている。この子を、安全な現在の地表という場に引きとめる静かな「苔の花」は、この語り手の化身のようでもある。


「週刊俳句」第537号(2017年8月6日)掲載。

2017年8月8日火曜日

〔ためしがき〕 批評の不要性 福田若之

〔ためしがき〕
批評の不要性

福田若之


2017年7月24日付の『朝日新聞』の11面に掲載された大辻隆弘の短歌時評、「歌会こわい」を読んだ。短歌欄と俳句欄のちょうどあいだに載るので、おのずと目にとまるのである。

「歌会こわい」がとりあつかっているツイッター上での出来事についてはよく知らないし、いまとなってはその全容を把握することも困難だろう。それに、「「歌会こわい」という声の背景には、短歌をコミュニケーションの手段だと考える人々の増大がある。そこではもはや他者の批評は不要だ。自己満足さえあればいい」という一節などは、そもそも筋が通っていないように思うし(短歌がほんとうに「コミュニケーションの手段」として求められているなら「自己満足さえあればいい」はずがない。したがって、すくなくともどちらかの記述は正確ではないはずだ)、実情を知るという意味ではこの記事はあまり役に立ちそうもない。だから、僕は、その出来事については、とくに訳知り顔で何か語ってみせるつもりもない。

だが、短歌欄と俳句欄のあいだに「批評は怖い。が、作品をそこにさらすことでしか文学は成立しない」と書かれているのを見ると、この末尾の一節についてだけは、どうにもよそごとでは済まないように思われてくる。「短歌は」ではなく、「文学は」と書かれているのだ。「歌会こわい」における「批評」や「文学」という言葉は、たとえば、「批評」とは歌会における意見交換のみを意味し、「文学」とは短歌における文学のみを意味するというように、もしかするとひどく限定された意味で用いられているのかもしれないが、そうした断りがない以上、僕には、この一節はもっと広い範囲を射程に入れた警句であるように思われてならない。なるほど短歌は書かないが、俳句を書き、句評や句集評にも手をつけている僕にとって、どうにも気にかかるのはこの一節なのである。

作品を批評にさらすことでしか文学は成立しないというのは本当だろうか。僕にとって興味深いのは、そうした言葉が新聞の短歌時評に書きこまれているということだ。そのことは、たとえば、蓮實重彥『『ボヴァリー夫人』論』(筑摩書房、2014年)のこんな一節を思いおこさせる。
あらゆるテクストはテクストを誘発するといういまではごく当然と思われがちな現象は、『ボヴァリー夫人』の書かれた十九世紀中葉のフランスでは、折から隆盛しつつあるジャーナリズムの要請により、新聞の文芸欄に掲載される時評として、文化的な商品の売れ行きを左右するという経済的な利害を惹起しつつ、理論とはいっさい無縁に一般化されたものにすぎない。それは、歴史的には未知の、当時としてはまったく目新しい文化現象だったといってよい。その「新しさ」は、多くの人が、「テクストをめぐるテクスト」を読んでから、そこで対象とされていた当の書物におもむろに目を向ける――あるいは向けずにおく――という文学的な「倒錯」を、ごく自然な事態でもあるかのように社会に定着させたことにある。それが「倒錯」たらざるをえないのは、読まずにおくために読む、あるいは読んだから読まずにおくという無意識の集団的な振る舞いが、あたかもその作品を自分が知っているかのごとき錯覚をあおりたて、その奇態な性癖が知らぬ間にあたりに蔓延し、それがごく自然なこととして社会に受け入れられてしまったからである。
もちろん、これがさしあたりあくまでもフランスに特有の事情として語られている点には注意が必要だが、作品を批評にさらすことでしか文学は成立しないという認識は、そもそも、一語で〈新聞‐の‐文芸‐欄的〉とでもいうべき錯覚にすぎないのではないか、ということは考えてみてもよいように思う。批評というのは、本来は作品にとって必要ないはずの代物ではなかったか。文学の成立のために作品が批評に自らをさらさなければならないというのは本当か、本当だとしたらそれはなぜか。ひとたびこう問いかけてみれば、書かれたテクストについて何らかの批評がなされるということを理論的に正当化することは――その批評が口頭のものであれ書かれたものであれ――不可能であるように思われる。もちろん、このためしがきもまた、そうしたことの例外ではない。

たしかに、歴史的な状況は、文芸時評の存在を前提とした読者の文学的な「倒錯」からの自由を文学にたやすく許してくれるわけではない。『『ボヴァリー夫人』論』にはこう書かれている。
それに深く影響されるか否かにはかかわりなく、名高い批評家が新聞や雑誌向けに執筆する文芸時評の存在を前提とするしかなかったのが、「近代」における読者の身にまとう歴史性にほかならない。あるいは、「テクストをめぐるテクスト」が誘発しがちな文学的な「倒錯」と同時に生まれるしかなかった不幸な存在が、読者なのだといいかえてもよい。文学は、いまなおこの「倒錯」から充分に自由たりえてはいない。
文学が「テクストをめぐるテクスト」ぬきには成立しえないという神話の歴史的な発生とその共有をぬきにしては「近代」の読者は存在しえなかったし、文学はこの神話のもとに成立する「倒錯」からいまだ充分に自由たりえてはいない。したがって、「歌会こわい」に示されている、作品を批評にさらすことなしに文学は成立しないという主張もまた、まさしく今日的な状況を物語る言葉として読むかぎりにおいては、おそらくある程度まで正しいのだろう(けれど、それはまったくもって「不幸」なことではないのか)。しかし、そもそも、作品は、その書き手や読み手がどう思っているかにかかわりなく、「テクストをめぐるテクスト」など決して必要としてはいない。他人の作品を批評するという行為には、いかなる理論的な正当性も与えられてはいないのだ。

批評は、歴史的な状況をとりあえずの背景として、いわばなしくずし的に成立してしまっているにすぎない。批評は、それゆえ、いつでもそれがめぐろうとする作品から突き放されてあるほかはない。したがって、批評の担い手が作品を怖がるというのならともかく、作品の担い手が批評を怖がらなければならない筋合いなどどこにもない。批評に作品をさらすことでしか文学が成立しえないという認識は、おそらく「近代」に生じた集団的な錯覚にすぎない(たとえば、今年の5月6日に開催されたイベント「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」では、川柳というジャンルのありようが「近代」の文学にまつわる諸前提とはおよそ異なる前提をもつものであるということがくりかえし指摘されていたように記憶しているが、その場で開かれた川柳の句会には、選はあっても批評はなかった)。

だから、僕としては、半ば備忘録的に、次のことをここに書いておきたいと思う――作品は怖い。が、さらなる言葉をそこにさらすことでしか批評は成立しない。ただし、批評の成立は、決して作品の期待するところではないのである。
2017/7/24

2017年8月7日月曜日

●月曜日の一句〔対馬康子〕相子智恵



相子智恵






病む夜の百合の重さを一人吸う  対馬康子

「草いきれ」(「俳句」2017.8月号 角川文化振興財団)より

誰かからお見舞いで手渡された百合の花か、あるいは自分で飾ったのかもしれないが、昼間は一人ではなく、誰かといたのだろう。〈一人吸う〉には、言外にそのような一日を想像させる。

夜、ベッドに横たわっている病気の私に、百合の強い香りが部屋中に満ちている。〈百合の重さを一人吸う〉にハッとする。ここに描かれているのは、百合の香りの重さなのである。香りに重さがあるとするなら、百合の香りは確かに重い。

香りの重さが病むことに重なって、欝々とした気分をもたらしている。ただ、それだけではなく、や行の音の繰り返しの幽玄な響きによって、詩的な美しさが感じられてくる句である。

2017年8月5日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】チヤホヤの科学 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
チヤホヤの科学

西原天気



チヤホヤという腹の足しにもならないものにこだわる人が、俳句世間には少なからずいらっしゃるようです。

それだけなら、世の中にはいろいろな人がいる、で済むのですが、チヤホヤ願望がヘンな方向に進展するケースがある。

phase 1 チヤホヤされたい
:まあ正常の範囲。健康という言い方もできるかもしれない。

phase 2 あの人がチヤホヤされて自分がチヤホヤされないのは不当だ
:ルサンチマン入っちゃって、かなりアブナイ。

phase 3 チヤホヤされているあの人も、チヤホヤしている奴らも、最低だ
:病気。

こうした過程は、句会後の酒席やSNSで人の目に触れたりもする。見ている・聞いているほうとしては不快で、遭遇しちゃうと、俳句世間、あるいは俳句からますます気持ちが遠のいたりもします。

対処法は無視。放っておくしかないのですが、これ、ひとつには、「人」にフォーカスしすぎているのではないか。

チヤホヤは、人じゃなく、句や連作や句集に向ければいい。というか、向けるべき。

私たちは俳句愛好者であって、俳人愛好者ではない。

誰かをさかんに持ち上げる人がいたとして、じゃあその誰かにどんな句があるのか? そう訊かれて、ろくに答えられないというケースはないか(ありそう)。

人付き合いは楽しいものですが、俳句そっちのけで、俳人同士の交流に勤しみ、サロンやら俳壇やらをかたちづくり、サロン的言説に終始するというのも、なんだかなあ、です。

2017年8月4日金曜日

●金曜日の川柳〔妹尾凛〕樋口由紀子



樋口由紀子






満ちてきて豆腐のようなものになる

妹尾凛 (せのお・りん) 1958~

「満ちてきて」も「豆腐のようなもの」も具体的に何かとはつかめない。どちらも心象風景だろう。作者の裡にある空間にじわっ~と甦ってくるような、あるいはやわらかく埋めていくようなもので、はっきりと意識していなかったこと、あるいは言葉にできなかった感覚が「豆腐のようなもの」として輪郭をつかまえたのだ。その感覚は普段はなかなか捉えることができない。そうたびたびやってきてはくれない。だから、「満ちてきて」なのだろう。

それはなにかに役立つような、りっぱなものではないように思う。悟るとか、賢くなるとか、美しくなるとか、一般的な価値基準とは別次元の、共感ベースでは割り切れない名誉の屈折感とでも言おうか、でも、まさしく「私」を実感できる。「豆腐のようなもの」は作者にとっては独自の、至福の感覚なのではないだろうか。「うみの会」(2017年)。

2017年8月3日木曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

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紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2017年8月2日水曜日

●水曜日の一句〔金子敦〕関悦史


関悦史









色白の子が日焼子に言ひ返す  金子敦


子供同士の言い争いというそれ自体としては珍しくもない光景が、どこかしら地上の世俗性を離れたそれに見える。

句の見どころとしては、ふだん野外で活発に遊んでいるらしい「日焼子」を、文弱そうな「色白の子」が押し返し、対等にやりあいだした瞬間の意外性がまず考えられているはずだ。

しかしそれが場面の意外性だけで終わっているわけではなく、「色白の子」じつは強気という転換が、瞬時に変身でも遂げたかのように鮮やかで、しかも両者が肌の焼け具合のみによって区別され、張り合っている分、皮膚(ヴァレリーはそれを最も深いものと呼んだという)の輝かしさに、両者の人格的内実とでもいうべきものが一体化して輝きあっている風情となるからである。「色白」とはいえど青白い不健康なうらなりではない。

言い返している場面の緊張、張り、照りが、そのまま皮膚と声という形で現れた官能と生命感そのものとして句に漲り、単に「日焼け」が夏の季語だからというだけではない、夏のまぶしさが一句を満たしている。


句集『音符』(2017.5 ふらんす堂)所収。

2017年8月1日火曜日

〔ためしがき〕 いましか書けないもの 福田若之

〔ためしがき〕
いましか書けないもの

福田若之

「いましか書けないものを」、とよく言われる。誰かが高校生であったり、新婚であったり、長女なり長男なりが生まれたばかりであったりすると、「いましか書けないもの」を書くことが推奨される。

だが、このような意味での「いましか書けないもの」とは、実際のところ、そのときそのひとにしか書けないものではない。それは、こういう意味で「いましか書けないもの」といわれるとき、ひとは、「いま」ということを、「そのひとが高校生であるいま」とか、「そのひとが新婚であるいま」といった特殊性においてしか把握していないからだ。そのせいで、高校生でありさえすればいまでなくてもそのひとでなくても書けるものや、新婚でありさえすればいまでなくてもそのひとでなくても書けるものが、あたかも「いましか書けないもの」であるかのように錯覚されているのである。

だが、いましか書けないものというものがあるとすれば、それは非記号的なかけがえのなさにかかわるものであるはずだ。記号は反復しうるものの反復においてこそ捉えられるものである。記号の本性は反復にある。それに対して、いましか書けないものの本性は反復しえないということにあるのでなければならない。たしかに、いましか書けないものを書くために何らかの記号を使うことがありうるけれども、そのとき、ひとは決してそれを記号のもつ記号としての性質にもとづいて書くわけではない。

「いま」とは時間のなかでのかけがえのなさにかかわる語である。「いま」とどれだけ繰り返したとしても、ひとは、引用をぬきにしては、二度とたったひとつのこのときを指し示すことはできない(《長男叫ぶ「今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!」》(山田露結)において、叫ばれる「今っ!」は差延している)。「いま」という言葉こそが、まさしくいましか書けないものなのである。もちろん、「いま」という言葉を書くだけでなにか価値が生まれるなどといいたいのではない。いましか書けないものは、べつに、それだけでは何の価値もない。そこにあるのは、ただかけがえのなさだけである。だが、このかけがえのなさを忘れてはならない。というのも、書くということは、それ自体が、このかけがえのなさによってはじめて可能になることがらなのである。

2017/7/22

2017年7月28日金曜日

●金曜日の川柳〔三上玉夫〕樋口由紀子



樋口由紀子






いつだって客を待たせるカエル売り

三上玉夫

「カエル売り」って、そのような商いが実際にあるのだろうか。検索したがわからなかった。あるかないかわからない商売なのに、「カエル売り」は客待たすだろうと確信した。

「カエル売り」はきっとカエル問屋から仕入れるのではなく、客の要望があってから、店主自らがカエルを捕まえてくるのだろう。店で飼っていたら弱ってしまう。元気なカエルをその都度、裏の田畑や川に行って捕まる。カエルの種類は多く、すばしこい。客の要望通りのカエルはなかなか見つからない。だから、客の方も最初から待つのは了承済みなのだ。なんとものんびりした商いだ。「カエル売り」を勝手に想像して、楽しんだ。「おかじょうき」(2013年刊)収録。

2017年7月26日水曜日

●水曜日の一句〔折勝家鴨〕関悦史


関悦史









梅白し死者のログインパスワード  折勝家鴨


ネットでときどきネタになっているのを見かけるが、自分の死後、パソコンの中味を見られたくないという人はかなりの割合いるはずで、その場合、パソコンの中身は自分の嗜好や性癖にまつわる恥ずかしいあれやこれやということになるはずなのだが、この句の場合、「梅白し」と、死者を悼むにふさわしい季語が合わせられていて、そういった軽躁感にはつながらない。

それ以前にこれがパソコンのログインパスワードであるとは限らない。iPadや、ネット銀行の類である可能性もある。

さらに「死者」という漠然とした語彙があえて選ばれていて、「亡母」「亡父」「亡き子」「亡き友」といった語り手との関係を窺わせる要素がここにはない。

関係が明示されない漠然とした「死者」、その「死者」に合わせるに「梅白し」という過不足のなさ。最大公約数的な語彙ばかりが選ばれ、一種の抽象化を被った句である。

そして当のログインパスワード自体も、どういう性質の言葉が選ばれていたのかは全く明かされない。好きな人や好きな作品の類であったのか、それともどこから拾ってきたのか故人とのつながりが見当もつかない謎の単語であったのか。その上に、そのログインパスワードが明かされて目の前にあるのか、それとも判明せず遺族はログインできないままになっているのかも定かでない。

それら全ての違いを無化してしまい、その上に、人の生死とログインパスワードが直結する現在の世界、及びそのなかでの「ログインパスワード」だけを抽出したのが、この句なのである。抽象化し、脱色の限りを尽くしているので、「白し」は動かしがたいだろうし、「梅」でも咲いていなければひどく無機的な抽象となっていただろう。写実における手抜きや、通俗的感傷への埋没と紙一重の抽象ぶりで描かれた句を、最終的に梅の白さが覆いつくす。この抽象と植物的生命感との茫漠たる融合はオキーフの絵画に一脈通じる。


句集『ログインパスワード』(2017.4 ふらんす堂)所収。

2017年7月25日火曜日

〔ためしがき〕 季と季題についての試論  福田若之

〔ためしがき〕
季と季題についての試論

福田若之


季語といい、季題という。かつて、僕は季語という語を季題という語よりも好んだ。それは、俳句は原則として言語をその素材とすると信じていたかつての僕の、じつに形式主義的な考えにかかわってのことだった。当時の僕にとって、季語は俳句の素材の一部であり、したがって、それはたしかに語であると考えられたのだ。

しかしながら、語というと、それは通常、意味するものとして理解される。たとえば、団扇が夏を意味する、といった具合に。 しかしながら、このことが、いまや僕には疑わしく思われてならない。それは、季ということを考えるに至ってのことだった。

夏はくりかえされるが、この夏はくりかえされない。季とは体感される差異と反復の真理そのものである。季は、自ら差延することを通じて、ほかのあらゆるものを差延のもとで思考するようにうながす。たとえば、《夏はあるかつてあつたといふごとく》(小津夜景)の「ごとく」に着目することで、こうしたことは理解されるだろう。そして、このように考えるとき、たとえば、ある句において団扇という言葉が用いられるとき、それが季とかかわりを持つのは、概念としての夏一般を意味することによってというよりは、むしろ、たったひとつのある夏を指し示そうとすることによってであるように思われる。

すると、季語という言い方がはなはだ不充分であるように思われてくる。季語というと、あたかも、季を意味する言葉であるかのようだが、実際には、季語はそうした言葉として働いているわけではないのだ。団扇という言葉は、その意味するところとは別に、そのつど、たったひとつのある夏を指し示そうとすることによって、季とかかわりをもつのである。

僕たちは、季題という語における題という字の意味を、主題すなわちテーマという意味で理解することに慣らされてきたように思う。それは句の主題としての「季のもの」(虛子)だというわけだ。 しかし、そうではなく、この題という字を、表題すなわちタイトルという意味で捉えかえすことはできないだろうか。表題とは、一般に、何か固有のものを指し示すために掲げられるものである。僕は、この意味で、季題という語を用いたい。季題とは、くりかえされることのないある固有の時間を指し示そうとする題としての言葉なのである。時間を指し示そうとするという点で、それは時計に似ている。

しかし、固有の夏を指し示そうとすることが、すなわち、季を指し示すことであるのかといえば、そうではない。固有の夏を指し示そうとすることは、あくまでも、季とかかわりをもつことにとどまる。季は直接に指し示すことができるものではなく、むしろ、僕たちの指し示そうとする行為をつうじて、その前提として遡及的に把握されるのである。

季題と季のこうしたかかわりは、もしかすると、法と正義のかかわりに似ているところがあるかもしれない。法は、正義の存在を前提としつつ、自らを正義にかなうものとして提示し、自らの力によってまさしく正義をこそ現前させようとするのだが、それにもかかわらず、そしてそれゆえに、決して正義そのものには到達しえない。季題は、季の存在を前提としつつ、自らを季にかなうものとして提示し、自らの力によってまさしく季をこそ現前させようとするのだが、それにもかかわらず、そしてそれゆえに、決して季そのものには到達しえないのである。だが、季の存在は、正義の存在と同様に、ただ信じられるものであるのみにとどまらず、確かなものとして感じとられる性質のものである。この意味において、おそらく、季とは不可能なものの経験なのである。

無季俳句と季のかかわりについても、ここから理解される。正義へ向けた歩みが必ずしも法的なものでないのと同じように、季へ向けた歩みはかならずしも季題によってのみなされるわけではない。無季俳句もまた、季とのかかわりを持ちうるのである(ただし、ここで季を正義に喩えることは、季こそが正義であるとか、ましてや、それ以外は俳句の正義に反するとかいうことを示唆するものではいささかもないという点には注意してほしい。無季俳句においても季とのかかわりこそが唯一重要なことがらであるというような考えは、おそらく妥当ではない。とはいえ、書くことは体感される差異と反復の真理なしにはありえないだろう。その限りで、ひとがそれを重要と考えるかどうかにかかわらず、書かれる俳句は季とかかわりをもたざるをえないように思われる)。

ところで、この法と正義のメタファーは、もうひとつ重要なことを示唆している。すなわち、歳時記ないしは季寄せと呼ばれるものは、しばしば、俳句を読み書きするうえでの法にあたるものと考えられがちであるが、実際にはそうではなく、むしろ、それぞれの法ごとに項目立てされた判例集にあたるものなのだ。歳時記における季題の解説と例句は、季題の解釈と運用の実例にほかならない。法そのものと個別の判例とを取り違えることは、法を運用するうえできわめて危険なことであるはずだ。歳時記によって知ることができるのは、あくまでも、季題の解釈と運用の歴史にすぎない。

2017/7/21

2017年7月24日月曜日

●月曜日の一句〔家藤正人〕相子智恵



相子智恵






みんなあの虹を見てゐる僕でなく  家藤正人

「僕でなく」(「俳句」2017.8月号 角川文化振興財団)より

「僕」に注目が集まる時など、普通に生きていればそれほどあるものではない。せいぜい会議等で発言・発表する時くらいのものだろう。(芸能人や教師など見られる職業なら別だが)。

それでも、それよりもきっと虹の出る回数の方が少ないわけである。めずらしさやありがたみ、美しさにおいて虹にかなう「僕」などなかなかいないだろう。

窓から虹が見えているのか、それとも外にいるのか、みんなと僕の関係などは分からないながら、それでも「あ、虹だ」と誰かが言えば、皆そちらに一斉に注目して、消えるまでのわずかな時間を美しさに見惚れている、その時間の止まり方はよく分かる。たとえそれが「僕」の発言中であったとしても。

一読、自意識過剰な句に見えながら、読後にふっと寂しくも明るい笑いが漏れてしまうのは、「みんな虹を見ている。それは僕ではないけれど、そりゃあ、そうだよなあ」というようなメタ認知の気配が句から感じ取れるからで、そこに明るさがある。その気配がどこから来るかといえば、下五にオチのように置かれた〈僕でなく〉の、この語の位置にあると思うのである。もし、この〈僕でなく〉が上五であったなら、どうにも息苦しい句になっていただろう。

2017年7月21日金曜日

●金曜日の川柳〔出口とき子〕樋口由紀子



樋口由紀子






あきらめてゆらりと豆腐桶の中

出口とき子 (でぐち・ときこ)

豆腐が桶の中を沈んでいく様子が見えるようだ。豆腐はまっしろで、やわらかく、口当たりもよく、それでいて自分の味がしっかりとある。それにしても豆腐はなぜあのように悟りきったように、落ち着いて沈んでいけるのだろうか。けれども、私(作者)は豆腐のようになれない。「あきらめる」ことも「ゆらりと」することもできないのだとつくづく思う。

わかっていてもなかなかできないことがある。見習いたいけれどなかなかできないことがある。おさまらなければならないのにおちつけない。いつもじたばたあくせくしてしまう。自分自身に向かって言い聞かせているのだろう。〈夫がある子もあるモデルガンもある〉〈この街に馴れて口紅買いにゆく〉〈終日をテレビの前の卑怯者〉 『合同句集 鷗たち』(1988年刊 編集工房円)所収。

2017年7月19日水曜日

●水曜日の一句〔横沢哲彦〕関悦史


関悦史









クリスマスカクタス次女はフリーター  横沢哲彦


「クリスマスカクタス」は「蝦蛄葉仙人掌(しゃこばさぼてん)」と物としては同じらしい冬の季語だが、単語としての印象はかなり違う。

一方「フリーター」という語も喧伝され始めた当初と今とではその含意がかなり違っている。「フリーター」の語が、拘束されない自由な新しい生き方という肯定的な意味合いで使われた時代もあったが、今は不安定な身分というややマイナスの意味に取る方が一般的だろう。次女がフリーターとなれば、親としては先行きが心配かもしれない。

ところが句の雰囲気は妙に明るい。しばしば俳句に不向きともいわれるカタカナ言葉同士が一句のなかでからみあうことで「フリーター」が詩的に昇華されているからである。「蝦蛄葉仙人掌」が硬く軽快な響きの「クリスマスカクタス」にならなければならなかった理由がここにある。「次女」によって若い女性のイメージを帯びた「フリーター」の語までが「クリスマスカクタス」と同様に、何やら明快で華やかなものに変わってしまうのだ。

もう一つのポイントは「は」によって、句の語り手がモチーフ「次女」から一度距離を取ってしまっていることである。これは使いようによっては、見得を切って名乗りをあげているような馬鹿馬鹿しさや、あるいは高みの見物じみた鈍感なもっともらしさにも通じてしまうのだが、この句においてはそれが「次女」と「クリスマスカクタス」の相関が想起させる愛情のようなものによって相殺されている。

そこが、親がどうにか出来ることでもないと思いつつ、温かく見守っているという心理的距離や心情を窺わせる。そしてその心情が当然まとうべきべたつきを、カタカナ言葉のからみあいが灰汁抜きしているのである。

結果としては、フリーターである次女がその辺のサボテンと同列に扱われて軽んじられているようにも見えるのだが、そこが無神経さや適当な無関心といった家族間の微細な行き違いを漂わせつつも、フリーターである次女を句中において花へと変容させることにもなっている。


句集『五郎助』(2017.6 邑書林)所収。

2017年7月18日火曜日

〔ためしがき〕 生駒大祐「例句が一句も出てこない俳句論 ver.0.0.1」についてのノート 福田若之

〔ためしがき〕
生駒大祐「例句が一句も出てこない俳句論 ver.0.0.1」についてのノート

福田若之


ウェブサイト「poecri」で、生駒大祐「例句が一句も出てこない俳句論 ver.0.0.1」(以下、「ver.0.0.1」と略記する)が配布されている。

まず確認しておきたいのだが、配布スペースの説明に「正式版」が後日発表されることが示唆されているとしても、この文章は無限に書き改められることを前提としているように思われる。 「ver.0.0.1」の、このヴァージョンの記載は、まさしくそうした前提をあからさまにするものとして読まれる(仮にver.1.0.0が「正式版」と呼ばれることになるとしても、その後、ver.1.0.1以降が書かれる可能性はつねに残るだろう)。そうでなければ、なぜ、「ver.0.0.1」などというあからさまに未完成の段階でこれを公開しなければならないことがあろう。実際、3章はまだ各節の見出ししか書かれていない。それさえ、あるとき書き換えられてしまうかもしれない。4章以降に至っては、その計画があるのかどうかさえわからない。この状態で、いったい何を読めばよいというのか。

問いかけてはみたものの、その答えははっきりしている。「ver.0.0.1」を読めばよいのだ。だから、読もう。「例句が一句も出てこない俳句論 ver.0.0.1」においては、次の三原理によって、俳句が定義される。
俳句は言語によって表現される(言語原理)
俳句は過去のある俳句に対する継承性を有する(継承原理)
俳句はある表現対象に対して最適な形で構成される(最小作用原理)
ひとまず、俳句を定義することそれ自体の妥当性は抜きにしておこう。書き手は、これ以降、あくまでもこの定義において俳句を語るだろうし、その限りにおいて、たとえば、表題の「例句」なり「一句」なりという語は、おそらくそうした俳句の定義の範囲内での「例句」か「一句」にすぎないことになるだろう。その議論にひとまずは乗ってみよう。「ver.0.0.1」を信じてみよう。すると、ただちにいくつかの疑問が生じるのだが、ここではとりわけ「ver.0.0.1」に次のとおり書かれている問いに着目したい。
継承原理は多くの言語表現の中から俳句を峻別する際に非常に有効な原理であるが、ある本質的な矛盾を内包する。すなわち「帰納的に考えた時に、最初の俳句は如何なる定義でどのように生まれたのか」という疑問(矛盾)である。
この問いに対する「ver.0.0.1」の答えは、次のとおりである。
結論から言えば俳句の場合は幸運にもこの矛盾を回避できる。俳句は初期値が比較的明らかな文芸であり、正岡子規が俳諧から発句を独立させて俳句と名付けたという時点を持って俳句の初期値を与えることは可能である。もっと言えば、俳句は自然発生的に形成された文芸ではなく、ある時点に意志を持って作られた文芸であるという点が特徴的な部分であり、本論の基盤をなしている事実認識である。
到底、にわかに納得できるものではない。子規が俳諧から発句を独立させた時点をもって俳句の初期値とすることの歴史的な妥当性を問うまでもない。「最初の俳句」が子規その人のものであったのかどうかは、ここでは本質的な問題ではない。重要なのは、ただ一点である。すなわち、仮に「最初の俳句」が「意志を持って作られた」ものであるとして、そのほとんど神的な創造者を「正岡子規」と呼ぶことにした場合、その「正岡子規」が最初に俳句と名付けたその俳句は、本論における俳句の定義に合致するものなのか、という点だ。つまり、「正岡子規」が俳句と呼んだものに対する継承性を有することは、ほんとうに、本論における俳句という語の定義にもとづいて、「過去のある俳句に対する継承性を有する」ことになるのか、という点である。

僕の考えでは、そうはならない。なぜなら、この「最初の俳句」なるものがもしあるとするならば、それが実際に子規によるものであったにせよそうではなかったにせよ、それは明らかに継承原理を満たしていないからである。「最初の俳句」は最初の俳句ではないということになる。これでは、矛盾がまったく解消されていないのだ。

もっとも、このことについては、解決策がいくらかありうる。以下に、その四つを示す。

第一の解決策は、継承原理を撤回することである。つまり、背理法的に、継承原理の矛盾をもって、この原理それ自体が誤りであるというように思考を修正して展開していく向きがある(思うに、もっともつまらない解決策だ)。

第二の解決策は、「最初の俳句」なるものの仮定を撤回して、俳句の起源を問うことをあきらめることである。俳句にははじまりなどない、それはつねにすでにはじまっていたのだ、と考えるということだ。この場合、究極的には、宇宙の誕生自体が俳句でなければならないことになるだろう。つまり、宇宙の誕生は何らかの言語による表現であって(「ver.0.0.1」によれば、「言語とはある体系的な伝達媒体の中で、再現性を持つものを指す」)、過去の数かぎりない他の宇宙の誕生に対する継承性を持ち、しかも、最少の手数で引き起こされるのだと、信じることが必要になるだろう(ひとつの信仰として、悪くない)。

第三の解決策は、やはり「最初の俳句」なるものの仮定を撤回して、俳句なるものはつねにすでに来たるべきものにとどまる、と考えることである。つまり、このような定義における俳句はいままで一度も書かれたことなどなく、したがって、継承原理を満たす可能性が閉ざされている以上、今後も俳句が現に書かれることはないだろう、と考えるということだ。これは、たとえば、高柳重信の考えとも一脈通じるところがあるように思う。1976年2月の『国文学』を初出とする「俳句形式における前衛と正統」において、重信は、「たしかに子規の予言によれば、新しい俳句形式の運命は明治を過ぎること幾許もなく尽きるであろうとされていたが、いまや俳句は、その長からぬ寿命が尽きかかっているのかもしれない」とした直後、段落を変えて、次のとおり続けている。
だが、そうだとすれば、この作品の存在に先んじて命名されたに等しい俳句形式は、いったい俳句そのものに本当にめぐりあったことがあるのであろうか。もしかすると、遂に一句の俳句作品に出会うこともなく、 その終りを迎えてしまったのではないかと、なぜか、ふと思われてくるのである。その場合、俳句形式の運命は、まず発句もどきに始まり、多くの俳句もどきを残しながら終ったことになるであろう。それは如何にも空しい軌跡のように思われるが、もともと俳句形式は、そういう絶望的な不毛さを運命づけられていたと考えるならば、むしろ当然の帰結であったろう。
(高柳重信「俳句形式における前衛と正統」、太字は原文では傍点)
重信のこうした直観的な記述を、「ver.0.0.1」の記述に照らし合わせながら、書かれるテクストが「継承原理」を満たすことが原理上ありえないがゆえに、ひとは俳句そのものには決してめぐりあえないのだという論理に読み変えていくことは可能かもしれない。重信は、前述の文章のなかで、「ver.0.0.1」と同じく子規を新しい詩型としての俳句の提唱者としたうえで、「だから、厳密に言えば、このとき、いまだ俳句は一句も存在せず、いわば既知なる発句に取り囲まれた状況の中で、俳句にかかわる諸問題が論じられつつあったのである」と述べていた。つまり、「ver.0.0.1」の記述をこの第三の解決策を講じて書き換えた場合、それは重信の提示した俳句史観とすくなくとも見かけ上は驚くほど合致するものとなることが予想されるのである。

第四の解決策は(おそらくこれが「ver.0.0.1」が暗黙に前提としていることなのだろうが)、俳句の定義自体にあらかじめ他なるものの可能性へと開かれたかけがえのなさを導入することである。つまり、この俳句の定義はそもそも一般的に適用できるものではないということを認めることである。それによって、継承原理を撤回することも、「最初の俳句」なるものの仮定を撤回することもなしに、なおかつ子規のいう俳句と「ver.0.0.1」のいう俳句との齟齬を是認しながら、俳句なるものの実在を認めることができるようになる。ただし、この場合、俳句の定義は他者にとってはまったく別のものである可能性を、受け入れなければならない。それは、たとえば、明日には俳句の定義がまったくの別物になっているかもしれないという可能性を、つねに認めつづけることにも通じている(もしかすると、それゆえの「ver.0.0.1」なのだろうか。先に書いておいたとおり、「この文章は無限に書き改められることを前提としているように思われる」)。そして、この場合には、一見科学的な客観性を担保するかのようなエクリチュールさえもが、一般的なものとしての俳句の定義(そんなものがもしありうるとすればだが)を確認するための記述としてではなく、俳句が「私にとって」いかなる価値をもっているのかを示すための(あるいは、結果としてそれを示してしまわずにはいない)パフォーマンスとして理解されることになるだろう。つまり、生駒大祐にとっての俳句の価値は、すくなくとも彼自身にとっては、表面上は「私」を排した科学的なエクリチュールによって表現されなければならない何かなのだ、と。

僕が思いつかないだけで、ほかにもこの矛盾を解消する方法があるのかもしれないが、いずれにせよ、僕にとっては、第四の読みがもっともこのテクストを豊かなものにするように感じられる。この後、生駒大祐の思考はどのように展開していくのだろう。僕の関心は、彼の提示する俳句の定義それ自体よりも、むしろ彼の思考の展開へと向けられている。

2017/7/16

2017年7月17日月曜日

●月曜日の一句〔逆井花鏡〕相子智恵



相子智恵






揚巻も浴衣で通る楽屋かな  逆井花鏡

句集『万華鏡』(雙峰書房 2017.06)

歌舞伎の芝居小屋の楽屋。『助六縁江戸桜』に出てくる花魁、三浦屋揚巻役の役者が浴衣で過ごしている。他ではあまり見たことのない、面白い浴衣の風景だ。

歌舞伎役者は夏に限らず、楽屋では浴衣で過ごすようにも思うので季感は薄いものの、見るからに重くて暑苦しそうな花魁の衣裳を脱ぎ、浴衣ですっすっと身軽に通り過ぎる姿はいかにも涼しげである。

「揚巻なのに浴衣である」という落差によって生まれるやや俗っぽい諧謔も、人事句ならではの味わいを強めている。

古格のある人事句、といった風情の一句だ。

2017年7月14日金曜日

●金曜日の川柳〔中村冨二〕樋口由紀子



樋口由紀子






みんな去って 全身に降る味の素

中村冨二 (なかむら・とみじ) 1912~1980

ほんの一昔前、どこの家庭の食卓に卓上醤油の横に赤いキャップの味の素があった。いままで食卓を囲んでいた人たちがみんな帰ってしまい、寂しくて、手持無沙汰になって、目の前にある味の素を降ってみたという意味だろうか。でも、「全身に降る」は誇張であっても、いまひとつぴんとこない。

「みんな去って」は多くの人とわかりあえないものがあるという意味ではないだろう。仲間のいないことはこらえきれなくなるほど痛く、ひしひしと孤独が感じる。しかし、だからこそ、冨二はおどけてみせる。泣いたり、しおらしくしたり、怒ったりするのは彼の美意識が許さない。ふざけて、途方もないことを敢行する。魔法の顆粒の味の素をきらきらと全身に降りかけながら、より一層孤を味わったのだろう。『中村冨二千句集』(2001年刊)所収。

2017年7月12日水曜日

●水曜日の一句〔松井眞資〕関悦史


関悦史









ゴミ屋敷のゴミがうれしい穴まどい  松井眞資


秋の彼岸を過ぎても冬眠せずにうろうろしている蛇が「穴まどい」だが、この句の「穴まどい」は、心細さがないわけではないのだろうが、夜更かしか何かを楽しんでいるようにも見える。

「うれしい」とはっきり書かれてしまっているからではあるが、これは擬人法というよりは共感を示していて、句の語り手当人もゴミ屋敷のゴミをうれしがっているようだ。

ゴミ屋敷など隣近所にあったらはた迷惑以外の何ものでもないが、今の日本の都市住民にとって、どこへ行っても規格通りで何の変化もない景観ばかりのなか、混沌を際立たせて目を引く物件は、もはやこれくらいしかないのかもしれない。

蛇にとっても、これは適度に身を隠しつつ、積み重なった廃物の隙間を、前後左右上下に自在に通り抜けることのできる迷路的な空間である。ゴミ屋敷の混沌を本当に楽しめるのはむしろ蛇なのではないか。

ゴミの隙間を通れる小さい生物ならば何でもいいというわけではない。蛇の体の形態は、紐を引き摺るようにその行程の全てを逐一可視化しながら複雑にうねって進んでゆく。

「ゴミ屋敷のゴミ」と「穴まどい」とは、互いの形態的特徴を生かし合い、開花させあう関係といえる。ごく小汚い、詩情に乏しい空間と、冬眠もせずに徘徊する蛇との関係から、童心とも無心ともつかない心弾みを引き出しているのが「うれしい」なのである。

平穏にさびれきった廃墟とは違い、居住者の孤立や荒廃した心情が生臭く溢れ出ているゴミ屋敷という物件を、穴まどいが慰撫し、景物に転じている。


句集『カラスの放心』(2017.6 文學の森)所収。

2017年7月11日火曜日

〔ためしがき〕 読み書きをめぐっての、相異なる二つの欲動 福田若之

〔ためしがき〕
読み書きをめぐっての、相異なる二つの欲動

福田若之


家の本棚の奥に偕成社文庫版の『海底二万里』(大友徳明訳、偕成社、1999年)の上巻と中巻がある。小学校の頃に買ったものだ。下巻はない。決して出版されていなかったというわけではなく、読みとおす前に飽きてしまったというわけだ。というかそもそも、最初から読みきれる気がしていなかった。なにしろ、「二万里」だ。世界じゅうの海を旅するノーチラス号の航路は、小学生の僕には、想像するだにあまりにも長すぎた。無数の知らない海洋生物の種名がいっこうにイメージを結ぶことのないまま延々と列挙される文体も、僕を退屈させた。上巻を読みはじめながら、僕は、すでにしてこう思っていたように思う――いったい、いつになったら終わるのか?

短い読みものが好きだった。僕が小学校のころに読みとおすことのできたいわゆる文学作品はたった二冊、やはり偕成社文庫版のH・G・ウェルズの『タイムマシン』(雨澤泰訳、偕成社、1998年)と、斎藤博之が絵を入れていた古い講談社青い鳥文庫版の夏目漱石の『坊っちゃん』(講談社、1983年)だけだった。中学校に入るまでは、ミヒャエル・エンデの『モモ』(大島かおり訳、岩波書店、1976年)さえ読破できなかったのだ。そのころ、僕が多く読んだのは、落語の小噺をむかしばなし風の文体に書きなおしたものやいわゆる学校の怪談などを集めた絵入りの本だった。たしか、その多くはポプラ社から出版されていたように思う。

いつだったかいわゆる「サンタクロースからのプレゼント」としてもらった学研の『読み・書き・話す故事・ことわざ辞典』(学習研究社、1999年)も、そのころの僕の愛読書のひとつだった。もらったときは、サンタクロースにまで勉強しなさいと言われているようでがっかりしたものだったけれど、それを読むことは喜びに満ちていた。ことわざそのものの短さはもちろん、その由来となったたとえ話や歴史上のできごとについて短くそのあらすじが語られているありようが、僕の性にあっていたのだろう。その後、中学校に入ってから、朝のホームルームの時間に十分か十五分の読書が義務付けられるようになったとき、父の書斎からひっぱりだされたのは、小学校時代以来の小噺に対する興味の延長線上にあった古典落語を収めた文庫本と、星新一のショートショートの群れだった。そうだ、芥川も忘れてはいけない。それは母の実家のどこかにあった古い新潮文庫版の『羅生門・鼻』(新潮社、1968年)だった。

いまにして思えば、僕が俳句に引き寄せられたのも、結局は、ひとえにこうした短いものを読むことのよろこびによることだったのかもしれない。短いものを読むことのよろこびは、短いものを書くことのよろこびとなり、そうしたものを書きつづけることへのあこがれとなった。

けれど、最近になって、僕には、どうやら、もうひとつ、一見するとまったく正反対の欲動があるらしいということがわかってきた。どういうことかというと、短いものを見ると、僕は、それをどこまでもどこまでも接ぎ木して引き延ばしてしまいたいという衝動に駆られるのだ(俳句の書き手としてはほとんど致命的だ)。

たとえば、ここに一句あるとしよう。この一句からつづけて、さらに何文字、何ページ書くことができるだろうか。このとき、僕の関心はもはやその句をめぐってどれだけ長く書き継ぐことができるかということにしかない。句評は、もちろん依頼に応じて書く場合もありうるし、そうした場合には、たいてい字数なり枚数なりについてあらかじめ指定があるものだ。けれど、そうではなく自分で好き勝手に書く場合、なによりも、その句から読まれることをどれだけ引き延ばしつづけながら書くことができるかということに思いが向いてしまうのである。

そのときは、もう、ただひたすら書き継ぎたいのだ。かくして、一字一字が、ひとつ残らず、僕のよろこびに加担する。一句は、そのとき、すくなくとも可能性としてはどこまでも長くなりうるだろう。そんなふうにして、いつか、長い長い句を書いてみたいものだ。長い長い句というのは、《凡そ天下に去來程の小さき墓に參りけり》(高濱虛子)といった程度のものではなくて、むしろ、プルーストの『失われた時を求めて』とか、ああいう長さの句を書いてみたいものだと思うのである。実際、僕は生まれてこのかた、ずっと、最初の産声からはじまって、いまこのときの一呼吸一呼吸にいたるまでの僕の生のいっさいの痕跡として、一句一句ではなく、たった一句を書きつづけてきているのではないかと思うことがある。《待遠しき俳句は我や四季の國》(三橋敏雄)。見かけ上は切れている一句一句は、そうしたたった一句に包含されて、まさしく僕自身のライフ・ワーク(一生の仕事、あるいは、生としての作品)たるその長い長い句のほんの一部を構成しているにすぎないのではないか。僕は、ときどき、そんな夢想に浸ることがある。

2017/7/11

2017年7月10日月曜日

●月曜日の一句〔山口昭男〕相子智恵



相子智恵






見えてゐる水鉄砲の中の水  山口昭男

句集『木簡』(青磁社 2017.05)

透明なプラスチックでできた水鉄砲の中に、水が見えている。ただそれだけの景なのに、なんだか泣きそうになるくらい懐かしさがこみ上げてくる句だ。

懐かしいのは、〈見えてゐる〉という淡々とした描写によって、水遊びに夢中になっている子どもの視点ではなくて、そんな頃を通り過ぎてきた大人の視点を感じるからだろう。
また、水鉄砲の中の水を「見ている」のではなく〈見えてゐる〉と、見る側の意志を感じさせないために、水鉄砲の中の水をぼーっと眺めているうちに、ふと白昼夢に誘われるように郷愁が湧き出てくるのである。「水鉄砲の中の水が見えている」という語順ではなく、いきなり〈見えてゐる〉という書き出しであることも、白昼夢への入口になっているように思う。

白昼夢の一景として

  水遊びする子に手紙来ることなく  波多野爽波

  水遊びする子に先生から手紙  田中裕明

から続く、師系三代に渡る夏の日の水遊びの、柔らかな懐かしさと寂しさを、ふと思ったりもする。

2017年7月7日金曜日

●金曜日の川柳〔高田寄生木〕樋口由紀子



樋口由紀子






しあわせをのせる がらすのぴんせっと

高田寄生木 (たかだ・やどりぎ) 1933~

生きていて、「しあわせ」と感じるのはそうたびたびあるわけではない。たまに「しあわせ」と思うときがあるから、そうではないときもなんとか遣り過ごしていける。めったにやってこない「しあわせ」だから、ありがたさも格別になる。

まれにくる「しあわせ」を「がらすのぴんせっと」でつまんでなにかにのせるのだろうか。それとも「がらすのぴんせっと」にのせるのだろうか。どちらにしても小さく、壊れやすい。そうっとそうっと大切に扱う。「しあわせ」の接し方で「しあわせ」をいかに受け止めているのかが伝わってくる。ひらがな表記のやわらかさで、「しあわせ」も「がらすのぴんせっと」もきらきら光る。

〈くちびるのゆきのあたたかさをのせる〉〈山頂に風あり人を信じます〉〈あいつはもう死んだかな防波堤の右は北〉 『東奥文芸叢書 北の炎』(2014年刊)所収。

2017年7月5日水曜日

●水曜日の一句〔横山康夫〕関悦史


関悦史









山国の深雪にゆらぐ御燈明  横山康夫


見えているのは仏壇か神棚の「御燈明」だけだろう。そのゆらぎの周りは暗く、さらに家の外には「深雪」の「山国」が広がる。そちらは気配として、あるいは認識としてあるだけだが、それら全てを集約するものとして「御燈明」はゆらいでいる。

「山国」の「山」といい、「深雪」の「深」といい、自然の闇への畏怖を強調する言葉で、ほとんど芝居がかりなまでに、一句が絵として出来過ぎている気がしなくもない。ことに「山国」は、そうでない地域との差を知っていることを窺わせるので、句の語り手が必ずしもそこでの暮らしに埋没しきっているわけではないという醒めた距離感を併せ持っているようにも感じられる。

しかし、これはその土地の歴史、風土と精神性を負って、そこで暮らす者の目か、それとも外部からたまたま訪れた者の観光客的に物珍しがる目かということになると、後者にしては、この御燈明は少々板につきすぎているようだ。山と雪の大質量のなかに暮らしてきた代々の先祖たちの営みそのもののようにして御燈明はゆらぐ。ゆらぐだけであり、それは何も語らない。それが死者の在り方であり、その御燈明に見入る者も、その時、醒めたままでありながら、代々の霊のひとつとなっている。

「山国」や「深雪」といった知覚による把握が、「御燈明」の想像力に浸透されて深化するあたり、バシュラールの『蠟燭の焔』の俳句版のようでもある。


句集『往還』(2017.7 書肆麒麟)所収。

2017年7月4日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉9 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉9

福田若之


あくまでも個人的な経験としてだが、句会で、当日に句を持ち寄るという場合、句会場に着いたときにはまだ持ち寄ることになっている数の句が手元に揃っていないというひとを見ることも、決して少なくはない。ふと思ったのだが、もしかすると、これは、歌人が聞いたら卒倒するようなことなんじゃないだろうか(あるいは、俳人も?)。だが、これを一概にそうした俳人のだらしなさと捉えるべきではないだろう。

  ●

伝統的な句会の文化においても、席題や吟行といったかたちで、参加者を即興的なでっちあげ=思いつきinventionへと駆り立てる要素が組み込まれていた。俳人は、句を揃えずに句会に行くことに驚くほど馴れている。

  ●

あるひとびとは、自らの発明的なひらめきが、手ぶらで句会に行くことで生じることを経験的に知っている。こうしたひとびとにとって、句会とは火事場にほかならない。でっちあげ=思いつきを強制する火のなかへ自らを投じることで、こうしたひとびとは自らの莫迦力を発動させるのである。

  ●

このところ、寝不足のせいか、日中、下瞼がびくびく痙攣するのを感じる。ところが、鏡で確認してみると、動いては見えない。要するに、それは僕以外のひとびとにとっては極めて微細な動きでしかなかったというわけだ。なんて滑稽なんだろう。僕は、僕の寝不足を周囲のひとたちに最もあからさまに示すのは、この下瞼の痙攣に違いないと信じていたのだ。だから、僕はいまでは、僕の寝不足はおそらく誰にも知られていないだろうと信じている。

  ●

すこし前になるけれど、あるひとから初めてメールをいただいたとき、宛名のあとの最初の一文が「突然の失礼します」となっていて、この「失礼します」は本当に「突然」だなぁと感じ入った。「突然のメール失礼します」という「メール」は、「メール」という語に自己言及性があるけれど、「突然の失礼します」では、「メール」という語の「突然」の不在によって、「失礼します」という述部に自己言及性がずらされている。このずれのありようが実に「突然」にもたらされている。この書き出しの一文は、素敵だと思った。

2017/6/24

2017年7月1日土曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2017年6月30日金曜日

●金曜日の川柳〔福永清造〕樋口由紀子



樋口由紀子






孫の写真に俺の顔が半分

福永清造 (ふくなが・せいぞう) 1906~1981

孫の写真を見ていたら、隅っこの方に自分も写っていた。顔の半分だけだったが、確かに俺。思いがけないものを見つけて、嬉しくなったのだろう。七五三とか入学式とか、なにか記念の時だろうか。そのころを思い出し、孫の成長と今よりも若かった自分を懐かしんでいる。日常のちょっとして喜びをうまく表現している。

自分の顔が半分しか写ってないのが不満というのではない。半分でも自分の顔が孫と一緒に写っていたことが何より嬉しいのだ。川柳が人生の哀歓を詠む文芸であると掲句を読んでつくづく思う。ほのぼのとした人間味が出て、現実感がある。合同句集『甍』(1972年刊)所収。

2017年6月28日水曜日

●水曜日の一句〔若林波留美〕関悦史


関悦史









光速を超えしさびしさ月夜茸  若林波留美


光速を超える物質は存在しないということに、今のところなっているらしい。数年前に光速を超えるニュートリノが観測されたとの実験結果が報じられたことがあったが誤りだった。

なのでこの句の「光速を超えしさびしさ」は、字義通りに取れば、現実を超えたところで初めて味わい得る感情ということになる。

いや、常識的に取れば《月夜茸には光速を超えたようなさびしさが感じられる》といった句意となるのだろう。発光する毒茸に対し、「光速」と「さびしさ」はそれぞれ《光》と《人への拒絶》という共通性を通じて連想が及び、しかしイメージとしては詩的な飛躍をもたらしている。月夜茸が宇宙を越えて飛来した生物のようにも見えてくるのだ。

だがそれにしても、「光速を超えしさびしさ」とは、孤立しているには違いないとしても、それは陶然たる自足に近い。その自足が発光をもたらすのだろうか。

あえて比喩的にではなく取った場合、光速を超えたのは「月夜茸」か、それともそれを見ている語り手かといった設問はおそらく無意味で、「光速を超えしさびしさ」はその両者が一瞬のうちに果たした邂逅と理解のうちに共有されている。地球の生命の起源は宇宙からの飛来物という説もあることを思いあわせれば、「月夜茸」とわれわれの間に大差はなく、別々の姿を取るにいたっているとはいえ、どちらも同根の、宇宙のなかの一現象と見えてくる。「光速を超えしさびしさ」とは、全ての生命を産み出すマトリックスなのだろう。


句集『霜柱』(2017.5 東京四季出版)所収。

2017年6月27日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム9 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム9

福田若之


ゆるい坂道沿いにばったもんのベイブレード白いかごで売るみせ

古くから古くてトポス、その前には宝くじ売り場があって

母がなくして今も北第一公園にきっと落ちている錆びた鍵

左右ひろい畑で電柱にぶつかった僕は自転車できんたまを打った生きててはじめての感覚

冷えピタ付けたまま摂氏42度の熱でリビングを駆けずり回る「死ぬ死ぬ!」

インフルエンザ以後ながらくの痰の時代

友達んちのそばの公園の前のラーメン屋いつも開いてんのかどうかもわかんなくて暗くて

蕎麦屋の裏のビデオ屋いつから日に褪せたぺらぺらのバットマンのほほえみ

2017/6/20

2017年6月26日月曜日

●月曜日の一句〔松井眞資〕相子智恵



相子智恵






時の日や宙に停まる観覧車  松井眞資

句集『カラスの放心』(文學の森 2017.06)所収

そういえば「時の記念日」というものがあったな……と、掲句を読んで思い出したくらい、私の中では認識が薄くなっていた日であり季語だった。どういう句があるのだったかと歳時記の例句も見てみたが、特に人口に膾炙した句も見られず、象徴性が湧きにくいのだろうと思う。

掲句、営業終了後の観覧車だろうか。観覧車は宙ぶらりんのまま、次の営業開始時刻まで止まっている。ただただ風に吹かれるのみの、その寂寞とした時間に、そういえば時の日が過ぎようとしているという静かな感慨が重なる。

観覧車は風の中で回り、止まることを、いつか取り壊されるその日まで繰り返す。次々と乗せては吐き出す人々は観覧車の中に留まることはなく、来ては去ってゆくのみだ。まるで『方丈記』の冒頭のような無常を、静かに、正確に時が刻んでゆく。〈時の日〉という季語が活かされた句だと思った。

2017年6月24日土曜日

●さざなみ

さざなみ

藻の上をさざ波はしる障子かな  岸本尚毅

新涼のさざなみに似し手紙あり  峯尾文世

漣のさみしくなりし日傘かな  岡本眸

羽子落ちて木場の漣あそびをり  石田波郷

さざ波のたちて仔猫の通りすぐ  小林すみれ〔*〕

桜餅今日さざ波の美しく  大木あまり

〔*〕『椋』第76号(2017年6月)より

2017年6月23日金曜日

●金曜日の川柳〔高瀬霜石〕樋口由紀子



樋口由紀子






リア王もオセロもマクベスも 馬鹿だ

高瀬霜石(たかせ・そうせき)1949~

リア王もオセロもマクベスもシェークスピアの四大悲劇。悲惨な結末を迎えるのだから、確かに馬鹿だと言える。そうならないようになんとかすればよかった。が、何故「馬鹿だ」なんて身も蓋もない言い方をするのかと思った。

「馬鹿」という言葉は一見、単純で狭い一つの意味をしか持ち合わせてないと思ってしまいがちだが、存外、そうではなくて、広範囲にありとあらゆる感情が入り乱れている言葉である。「馬鹿だ」とあらためて言うことに意味があり、それによっての全体を照射する。愛情表現であり、アプローチの仕方なのだろう。

五四五三、計十七音で、川柳であると辛うじて保証している。この十七音がつぶやきで終わらない、なにがしかの意味をもたらす装置である。人名なので仕方がないと言えるのだが、強引な句跨りにも独自の捻じれがあり、それによってアイロニーとペーソスを生み出しているように感じる。『川柳作家全集 高瀬霜石』(2010年刊)所収。

2017年6月21日水曜日

●水曜日の一句〔長谷川晃〕関悦史


関悦史









オフェーリアの眼に笑ひあり万愚節  長谷川晃


オフェーリアはシェイクスピアの「ハムレット」で恋人ハムレットに捨てられ、父を殺され、身を投げて死ぬ悲運の女性。絵画の題材としてもよく取り上げられているが、最もよく知られているのはジョン・エヴァレット・ミレー(バルビゾン派のミレーとは別人)による水死体の油彩画ではないか。

特にその絵に限定して鑑賞しなければならない句ではないので、ひとまずそのイメージは振り払うとしても、生前の「笑ひ」ではなく、身投げした水死体と取らなければこの「笑ひ」の戦慄は生きてこない。

シェイクスピアの四大悲劇はみなそうだが、「ハムレット」そのものが、さして長い話ではないにもかかわらず混沌を含んでいて、先王の幽霊の登場する序盤から、ドミノ倒し的に登場人物がバタバタ死んでいく終盤まで、人のなかにありながら人のスケールを超えた力といったものが横溢している。

この「笑ひ」はその渦中で身を滅ぼしたオフェーリアの恐怖や諦念、侮蔑など、さまざまな感情が凍りついたような笑いである。

そこに季語「万愚節」が取り合わせられると、この悲劇をすべて嘘だといってほしいといった情緒纏綿たる悲しい「笑ひ」にも見えるが、一方、オフェーリアの人生そのものが一場の嘘という扱いにされてしまっているようにも見える。

いやしかし、そもそもオフェーリアは虚構の登場人物なので、本当の意味での人生というものはない。

「オフェーリアの眼に笑ひあり」という断定自体が嘘なのではないかということも考えられるが、これは真偽が確定できる命題ではない(虚構の話だからというのもさておき、劇中ではオフェーリアの死は「死んだ」という報せだけで済まされてしまい、直接描かれてはいなかったのではなかったか)。

一見、空想と理屈で付けられただけに見える「万愚節」だが、この句の、若い悲運の女性の水死体のイメージは、嘘-本当、虚構-現実という軸を混乱させ、いかなる物語に収まればよいのかを曖昧にたゆたわせたまま、「万愚節」という碇によって一句につなぎとめられている。その曖昧なたゆたいを体現しているのが「笑ひ」なのだ。


句集『蝶を追ふ』(2017.5 邑書林)所収。

2017年6月20日火曜日

〔ためしがき〕 uninstall.exe 福田若之

〔ためしがき〕
uninstall.exe

福田若之


世のなかには、さまざまなイデオロギーがある。資本主義、民主主義、社会主義、共産主義、植民地主義、無政府主義、全体主義、テロリズム、形式主義、写実主義、象徴主義、構造主義、ポスト構造主義、モダニズム、ポストモダニズム、構造主義、経験主義、イスラム原理主義、キリスト教原理主義、マルクス主義、フロイト主義、人種差別主義、フェミニズム……まだいくらでもあるけれど、もう充分だろう。ときに重なりあい、ときに対立しあいながら働くこうしたイデオロギーは、しばしば、「物語」という言葉を使って語られてきた。

だが、ここでは次のように言ってみよう。イデオロギーはプログラムである。 プログラムという語は、ギリシャ語のπρόγραμμαを語源としている。それは、「公に書かれたもの」を意味していた。これはまた、「前もって書かれたもの」をも意味するだろう。ところで、イデオロギーとは、公的な法として自らが共有されることを要請するものであり、ハードウェアとしての僕たちを何らかの運動へと駆りたてるソフトウェアであり、何かが書かれるときにその前提として働こうとするものであり、出来事の展開をひとつの工程に従わせようとする式次第であるはずだ。だから、こうした意味で、イデオロギーとはプログラムの一種だといえる。

ここで僕は、 そうしたイデオロギーの一切を空き缶のように蹴っ飛ばして、早々にそこからの逃走をくわだててみせたりするつもりはない。そんなことはこれまでにもさんざん繰り返されてきたことなのだし、僕たちは、そんな物語を、もう、前もって繰り返し聞かされてきた。

プログラムはインストールされる。僕たちは、言葉を読みとり、あるいは聞きとるなかで、さまざまなイデオロギーを身のうちにとりこむ。必要なことがあるとすれば、それは逃走ではない。アンインストールの手順を用意することだ。もちろん、それはただちに必要とは限らない。もしかしたら、ハードウェアが壊れるまで使わずにすませることもあるかもしれない。それでも、アンインストールの可能性は、ひとつのプログラムがもはや不要とされるときのために、つねにあらかじめ担保されていなければならない。たとえば、「遺産」という語がなんらかの権威をまとって響くときに、特定のイデオロギーがこの語と結びつくことに問題があるとすれば、それは、このアンインストールの可能性が担保されていないという点にある。「遺産」という語は、それが権威をまとったときには、それを放棄すること自体を悪として意味づけるからだ。

話が逸れた。つねにあらかじめ、用意された手順。そう、アンインストーラもまた、それ自体が一個のプログラムにほかならない。そして、アンインストールの手順を用意するというのは、事実上、アンインストーラをプログラミングすることにほかならない。

アンインストーラを書くうえで注意しなければならないのは、 ひとつのプログラムがもはや不要とされるときというのは、必ずしも、そのプログラムの目的が果たされたときであるとは限らないということだ。僕たちは、インストールしたプログラムを結局は一度も起動させないままアンインストールすることもあるし、起動させてみて駄目だなと思ってプログラムを強制停止させてアンインストールすることもあるし、そうかと思えば、さしあたりこのプログラムが役に立つことはもうないだろうと判断しながらも、なんだかんだアンインストールせずにそのままにしておくこともある。だから、アンインストーラは、そうしたさまざまな場合に対応している必要がある。

ちなみに、アンインストーラのアンインストーラはといえば、際限なくアンインストーラが必要になるという事態を避けるために、通常、そのアンインストーラ自体に内包されている。アンインストーラが機能を果たしたあとで、アンインストーラが残らないのはそのためだ。それは、たとえば、ミシェル・フーコーが「書物そのものは、その効果のうちに、その効果によって消滅すべきなのです」と語ったような仕組みが必要とされるということだろうか。だが、アンインストーラのそうした仕組みについて、僕はまだよく知らない。だから、これはほんのためしがきでしかない。

けれど、ひとはアンインストーラを書くことができる。これまでにも、何度だって書いてきたはずだ。アンインストーラのプログラミングのやり方は、きっと、僕たちにプログラムされているはずだ。仮に、それもまたひとつのイデオロギーとしてでしかないとしても。

2017/6/11

2017年6月19日月曜日

●月曜日の一句〔横沢哲彦〕相子智恵



相子智恵






梅雨鯰利口な奴が増えてゐる  横沢哲彦

句集『五郎助』(邑書林 2017.06)

ここで言う「利口」とはどんな意味を持つのだろうか。〈利口な奴〉と「奴」が付くくらいだから、もちろん褒めてはいない。〈増えてゐる〉だから、裏側に「ある時点よりも」「近頃は」という時間が見えてくる。

その世界観は、取り合わせの〈梅雨鯰〉に託されている。梅雨鯰は鯰の傍題で、梅雨の頃に産卵のために水田などに姿を見せることからこう呼ばれる。

鯰の泥臭く、ゆっくりとしたイメージ、髭の生えたとぼけたような顔が思い出されることで、それと対比されるように「利口な奴」が指すイメージは、「都会的でスマートに生きる(計算高い)シュッとした奴」のように私には思われた。

利口な奴が増えたことへの皮肉の句なのだろうが、しかし、ふと鯰のパクパクとしたチャーミングな口を想像しながら「利口な奴が増えてゐる」と読んでみる。

すると皮肉だけではなく、「利口に行き過ぎだよ。少しは泥臭く、ゆっくり、ぼんやり行こうや」と鯰に言われているようにも思えてきて、肩の力も抜けていく。

鯰の取り合わせが、この句がきつくなり過ぎないチャーミングさを加えているのだ。

2017年6月16日金曜日

●金曜日の川柳〔石田柊馬〕樋口由紀子



樋口由紀子






妖精は酢豚に似ている絶対似ている

石田柊馬 (いしだ・とうま) 1941~

えっ、「酢豚に似ている」って。「妖精と酢豚」、どこも似ていないと誰もが思う。それを「絶対似ている」とまるで子どもの言いぐさのように、駄目だしする。妖精のイメージが一気に壊れる。読み手を引き込む確信犯である。

肝心なことに気づいた。妖精を見たことがない。絵かなにかでそれらしきものは見たことはあるが、架空の、想像のものである。だから、それがホンモノかどうかも疑わしい。酢豚には似ているはずがないと思いながらも、なにやら似ているような気もしてくるからくやしい。決まりきっているものへの嫌味である。

「絶対」がクセモノ。「絶対嘘はつかない」「絶対忘れない」は嘘をついてしまうから、忘れてしまうから、「絶対」をつける。そのような「絶対」に限りなく近いように思う。「絶対」はそう簡単に使いこなせる言葉ではない。たぶん、このようなヘンな川柳はいままでなかっただろう。どうでもいいことを真剣に言いたてているふりをして、現実とはどこか違うものを川柳に仕立てあげている。あくの強い語りに上手さがある。『セレクション柳人 石田柊馬』(2005年刊 邑書林)所収。

2017年6月14日水曜日

●水曜日の一句〔北大路翼〕関悦史


関悦史









柿ピーのわづかなる差異明易し  北大路翼


普段気にもとめない柿ピーの形状のわずかな違いに目が止まること、そしてそれをわざわざ客観写生風に五七五にしてみせることが持つ俳諧味が、さしあたりこの句の特徴のように見えるが、それだけではない。すぐに食われてしまうこともなく、その外観に目を止められた柿ピーは、実用性を離れた美術物件のような存在感をあらわにしつつ、その表面に「明易」の微光をまとい始めるのである。

これが早朝から柿ピーで朝食を済ませてしまっている景のはずもなく、朝の支度の気忙しさが微塵も見当たらない、放心を思わせる視線を受ける柿ピーは、前夜からの酒のつまみとしてその辺にあったものとでも見たほうがよい。柿ピーを目で彫り出すようなナンセンスに近い凝視は、暮らしのなかの倦怠の一場面をもその背後に浮き立たせることになるのだ。

すぐにはものを食う気にもならぬ二日酔いじみた消尽ぶりによって、いささか殺伐たる生活空間を思わせる句ではあるが、さしたる値段でもない柿ピーを、朝の微光のなかのオブジェに変容させてしまう「差異」という把握にユーモアがある。

そして、そのユーモアや倦怠が持つ灰汁すらも「明易し」がきれいに拭い去り、生活実感、というよりも、荒みに近い身の重みを殺さぬまま、一句を清浄なものへとまとめ上げるのである。安手な句材が静物画に化けた違和感の味わいは、同時代日本の、ある種の具象画表現に通じるところもある。


句集『時の瘡蓋』(2017.5 ふらんす堂)所収。

2017年6月13日火曜日

〔ためしがき〕 ひとはふつう裸でトランプを切らない 福田若之

〔ためしがき〕
ひとはふつう裸でトランプを切らない

福田若之


死も選べるだがトランプを切る裸   田島健一

ひとはふつう裸でトランプを切らない。それに、「死も選べるだがトランプを切る」なんてどこかのスパイ映画のヒーローみたいなことを、ふつう裸では考えない。だから、これは狂気か異常か極限なのだ。いや、狂気も異常も極限なのだから、極限なのだ。この裸の極限的なありさまは、この句を語るうえで、もっと注目されてよいはずだ。

『ただならぬぽ』(ふらんす堂、2017年)については、すでに二度書いた。けれど、そのたびに、僕はこの句集のもっとも魅力的に感じる要素のことを、書きそこなってきたように思う。なによりも、僕は次の一句に触れずに来たのだから。

鶴が見たいぞ泥になるまで人間は   同

この句集において、僕がもっとも好ましく思うのは、結局、おそらく同時代的には高野ムツオや北大路翼などの句と呼応しあうものであり、系譜的には加藤楸邨に連なるものであるのだろう、この泥臭さなのだ。それは、きっと先に挙げた句における裸の極限的なありさまとも関わっている。

そうだ。人間は、泥になってしまったら、行くところまで行ってしまっている。だから、泥というのは、裸とおなじく、狂気で、異常で、要するに極限的なありさまなのだ。

けれど、いま、僕がこうして『ただならぬぽ』についてやっと僕の核心を書きはじめたのは、決して、この二句の結びつきに起因してのことではない。

きのう、八王子駅で横浜線の出発を座席に腰かけて待ちながら、ふいに思い出してしまったのだ。夏目漱石の肖像が印刷された古い千円札の裏には、二羽の鶴が印刷されていたということを。

狂気だの異常だのと書いておいていきなりだが、引用した鶴の句は、以前から、労働にかかわる句だと考えていた。僕のそうした考えは、おそらく、書き手自身の次の発言に由来している。
僕は、以前自分が仕事に深くとらわれている時期があって、「鶴が見たいぞ泥になるまで人間は」っていう句を作った。
(「座談会II」、『オルガン』2号、53頁)
僕には、仕事をめぐって人間が泥になるということは、労働に、それも過剰な労働にかかわっているように思われてならない。だが、それにしても、「鶴が見たいぞ」がわからない。わからなかったのだ。労働の果てに見出される鶴、それはいったい何だというのか。

金銭、というのは、もちろん安易な答えである。そうなれば、泥というのも、ついには泥棒のことを意味することになってしまうだろう。人間は千円のためについには罪を犯してしまうだろう。けれど、そうではない。金銭には鶴を見出すことはできない。金銭がたんに金銭にすぎないかぎり、そこにひとが見出すことができるのは、ただ数字だけだ。

だが、そこにはたしかに、鶴が印刷されていたのだ。しかも二羽も。

思うに、ひとが紙幣の図柄のモチーフなどを気にしはじめるのは、それがそのひとにとって、もはやたんに紙幣ではなく、一枚の絵になってしまったときではないだろうか。ならば、引用した句は次のように読み替えることが可能になる。すなわち、人間が過剰な労働に極限的なありさまになるまで身を捧げるのは、金銭がもはや金銭でなくなるのを見たいからなのだ、と。これはさらに次のことを示唆している。人間が泥になってしまわないかぎり、金銭が鶴になることはない、ということだ。人間が人間でいるうちは、結局、金銭は金銭であるにとどまるのである。すくなくとも、この読みにおいては。

ところで、鶴を見るとはどういうことだろう。見ることについて、田島健一は『オルガン』7号の座談会で次の発言をしている。
田島 前に若ちゃんが「見るってことは書くことなんだ」と言っていて、それと関わってくるのかなと。書かないとならない感じが俳句にはある。
(「オルガン連句興行&座談会 「沼を背に」の巻」、『オルガン』7号、46頁)
けれど、弱った。僕はそんなことを言った覚えはないのだ。うっかりそんなことを言ったことがあっただろうか。言ったよ! と強く言われれば、そうかもしれないと思うくらいには、自信がない。けれど、すくなくとも、2016年9月10日に開かれたこの座談会のおよそふた月前にこの「ウラハイ」に掲載されたためしがきでは、僕はむしろそれと逆のことを言っていたはずだ。引用しよう。
僕にとって、「写生」は、見ることの一形態であるよりも、むしろ、描くこと、書くことの一形態なのである。
福田若之「視聴することと写生すること」
だから、僕にとって、見ることと書くことは、「写生」を通じてかかわっている。けれど、それはまったく別のふたつのこととして、たがいにかかわっているのだ。けれど、僕のことはまあいい。ここで大事なのは、どうやら田島健一にとっては、そうではないらしいということだ。ならば、鶴と書くことが、すなわち鶴を見ることなのだろうか。

もちろん、書き手がどうやってこの句を書いたのかを僕は知らない。だが、仮に、句を書くときに二音の空白を鶴という言葉で埋めることを想像してみよう。そのとき、鶴はその二音の価値のために支払われているということができる。たとえば一万七千円の支払いのとき、一万円札と五千円札を一枚ずつ出したあと、その埋め合わせのためにもう二千円を差し出すのは、その二枚に、余った二千円分の価値があるからだ。それと同じように、鶴は二音ぶんの代金として支払われるのである。

では、そのようにして支払われた鶴は、金銭的であるにとどまるだろうか。そうではない。埋めあわせとして持ち出された鶴は、鶴であるがゆえに、もはや抽象的な二音の価値以上のものを持っている。鶴と書かれてあれば、もはや、それをたんなる二音の埋め合わせとして見ることはできない。そこで、鶴は、鶴として見られるのだ。だから、そのようにして、書くことは見ることにかかわっている。それを、田島健一ならば、「書くことは見ることである」と書くだろう。

もちろん、これは僕がかつて千円札の裏に二羽の鶴の絵が印刷されていたことをふいに思い出してしまったことを契機とした、まったく恣意的な読みのひとつにすぎない。きっと、もっと自在に、この句を読み替えていくことはできるだろう。けれど、僕はこの思い出しの衝撃をまだ忘れることができないから、たぶん、しばらくはこのまま同じように読みつづけるだろう。
 
それにしても、トランプは紙幣に似ている。ひとは、実にしばしば、 トランプを数と記号に還元してしまう。けれど、そのとき、ひとはジャックがどんな表情をしているかすっかり忘れてしまう。そもそもジャックの表情など誰も見てはいないのだ。人間は、誰も。だから、トランプを切りながら、それをもはやただのトランプではないものにしていくためには、ひとは裸でトランプを切らなければならない。死ぬのではなく、切りつづけなければならない。

2017/6/4

2017年6月12日月曜日

●月曜日の一句〔高畑浩平〕相子智恵



相子智恵






大空へ早苗つぎつぎ投げ込めり  高畑浩平

句集『高畑浩平句集』(ふらんす堂 2017.05)

一読、気持ちのよい句だ。

田植えをする田に、苗の束を投げ込んで配る「苗打ち」の風景である。苗を下方の田んぼへ投げ込むのではなく、上方の〈青空へ〉としているので、できるだけ遠くへ投げようとしている様子が伝わってくる。また、空の青に放物線を描く早苗の緑の二色だけに焦点が絞られて、色彩も鮮やかだ。

勢いのよい〈つぎつぎ投げ込めり〉によって、田植えがはかどっている様子や、青空の下で田植えの人々の心が浮き立つ感じまで想像されてくる。

一つの物や動作に絞って描写することで、読者に周囲を想像させる、俳句という詩型の持ち味を最大限に生かしているような、印象明瞭な一句。

2017年6月10日土曜日

●パスタ

パスタ

遅日このパスタ天使の男性器  佐山哲郎

湯の中にパスタのひらく花曇  森賀まり

蠟製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ  関悦史




2017年6月9日金曜日

●金曜日の川柳〔堀豊次〕樋口由紀子



樋口由紀子






石けん箱と詩人銭湯の隅にいる

堀豊次 (ほり・とよじ) 1913~2007

「石けん箱」と「詩人」に似ているところなどなにもないと思っていた。二物をぶつけての詩的飛躍でもない。掲句を読んで、ああそういうことなのかと気づいた。ちょっとした、一風変わった、が、たしかにと思う共通項を現実の場面で見つけた。「詩人」を「石けん箱」と一緒にユニークに再生した。

湯のいきおいに流されて銭湯の隅に転がる石けん箱。たしかにあるある。誰とでも気安く打ち解けられず、すぐに世間話の輪に入れず、銭湯の隅でだまって湯につかっている詩人。たしかに居そうである。詩人とはどういう人なのかはなかなか言えないが、詩人の実在感と一面をうまく言い当てている。作者自身のことのような気がする。〈少年の捜すものつぎつぎ消えてゆく〉〈肉箸にはさみその時敵はなし〉〈眠っている妻に埴輪の口がある〉<妻と見し映画は五指に みたざるか〉

2017年6月8日木曜日

●ロンドン

ロンドン

ロンドンに着きは着きたれ夜半の夏  久保田万太郎

霧黄なる市に動くや影法師  夏目漱石

「しばれる」と訳す倫敦塔真裏  櫂未知子


2017年6月7日水曜日

●水曜日の一句〔高石直幸〕関悦史


関悦史









無量大数越えて矜羯羅去年今年  高石直幸


「無量大数」まではまだ耳に馴染みがあるが、「矜羯羅(こんがら)」もここでは不動明王の従者の矜羯羅童子ではなく、数の単位を指すらしい。「越えて」の一語があるおかげで、知らなくともこれが数にかかわるらしいと見当はつく。ネットで何ヶ所か検索してみると華厳経が出典で、正確な数値にはさほどの意味もないだろうが、10の112乗になるという。人のとうてい把握しきれない数であり、カントのいう数学的無限による「崇高」に達している。

「去年今年」と抽象的巨大さとの句といえば高浜虚子の《去年今年貫く棒の如きもの》が浮かぶ。この「矜羯羅」の句もそのヴァリエーションと取れるが、虚子の句においては抽象的な巨大さを持つ流れが人に接し、人が触知できる一部分のみに限定されて捉えられ、その前後は茫々たる遠さのなかに霞んでいるのにくらべ、「矜羯羅」の方は相当な遠距離まで認識だけはされている。虚子の句が、果てのしれない長さをもつ大蛇の胴体に不意に触れたかのような感触を帯びているのに対し、こちらは星空を見上げつつ、自分の存在の微小さを開放感とともに味わっているような趣きがあるのだ。

ただしその数量的無限も「矜羯羅」なる宗教味を帯びた語が用いられると、ただの抽象ではなく、あるキャラクター性を帯びてくる。この言葉は元のサンスクリット語では召使、奴僕を意味するらしいので、そこまで読み込んでしまった場合、この句の語り手にも、法理にしたがう順良さがまつわることにもなってくる。

しかしそこまではあえて踏み込まず、国宝級の伽藍の類を一観光客の目で見て悠久の時の流れに思いをはせているといったようなごく卑近な感懐を、年の変わり目と巨大な数の単位から引き出したというくらいの軽い受け止め方にとどめたほうが、「無量大数」も「矜羯羅」もかえって利く気がする。


句集『素数』(2017.5 文學の森)所収。