2017年11月19日日曜日

【新刊】今井聖『言葉となればもう古し 加藤楸邨論』

【新刊】
今井聖『言葉となればもう古し 加藤楸邨論』(2017年11月/朔出版)

2017年11月18日土曜日

【新刊】『子どもおもしろ歳時記』金井真紀:文・イラスト/斉田仁:選句・監修

【新刊】
『子どもおもしろ歳時記』金井真紀:文・イラスト/斉田仁:選句・監修

2017年11月17日金曜日

●金曜日の川柳〔石田都〕樋口由紀子



樋口由紀子






控えには缶詰切りとおろし金

石田都 (いしだ・みやこ) 1936~

道具の便利さにはたびたび驚かされる。あたりまえに使っているが、もし無ければ、たいそう不便で、それまではどうしていたのだろうと思う。「缶詰切り」も「おろし金」もなくてはならないが、「控え」になるとは思わなかった。「控え」が眼目だろう。ユニークで意味深な言葉。「控え」のニュアンスを巧み活用している。

自分の裡にあるものをどうにかしなければならなくなったときための「控え」だろう。中身をオープンにしたり、こだわりを細かくすりおろす。決して、無理も背伸びはしない。当然、「缶詰切り」と「おろし金」の方も承知していて、そのときのために作者のうしろでじっと待機している。

「缶詰切り」と「おろし金」はどちらも食に関わるものであり、目立つものではない。作者の日頃の生活や人柄が垣間見えるような気がする。いや、へそ曲がりなのかもしれない。自分を大きく見せようとするものの対極にあるように思う。ユーモアとウイット感がある。川柳「杜人」(2017年秋号)収録。

2017年11月16日木曜日

●クリーニング店

クリーニング店

厳冬の白きをとどけ洗濯屋  能村登四郎

クリーニング店増える糸瓜の水を取る  上田信治〔*〕

壬生の鉦クリーニング屋励むなり  波多野爽波

〔*〕『里』2017年11月号より。


2017年11月14日火曜日

〔ためしがき〕 形式と自由 福田若之

〔ためしがき〕
形式と自由

福田若之


形式について認識し理解するために、形式という言葉を道徳から取りかえすことが必要だ。形式とは「こうあるべきだ」と命じる無数の掟の束だろうか。そうではない。形式とは、たんに「こうあるのだ」と告げるもののことだ。

「俳句はこうあるべきだ」と告げるのは形式ではない。 それは道徳的な規範でしかない。こうした規範のもとで、俳句は限定される。道徳は、こうした規範に照らして、ひとが「あれは俳句ではない」と言うように仕向ける。「俳句はこうあるべきだ」は否定としてしか働かない。

形式はたんに「この句はこうあるのだ」と告げる。形式は、俳句を限定することなしに、一句一句の区別をもたらす。この句の形式とあの句の形式がともに存在する。ひとの口を借りるまでもなく、形式はそれ自身において一句一句の本性をそのつど限りなく肯定する。

形式は服従とは何のかかわりもない。形式がかかわりをもつのは、個別的なものの本性に由来するものとしての自由である。

2017/11/1

2017年11月12日日曜日

【俳誌拝読】『現代俳句』2017年11月号 西原天気

【俳誌拝読】
『現代俳句』2017年11月号

西原天気


現代俳句協会『現代俳句』2017年11月号に「現代俳句新人賞」受賞作2篇(赤羽根めぐみ「おりてくる」、宮本佳世乃「ぽつねんと」)、佳作2篇(吉川千早「らうたし」、仲田陽子「雨の来る匂い」)が掲載されています。それぞれ1句ずつ紹介します。


味噌汁の味噌の重力秋に入る  赤羽根めぐみ

たしかに味噌が下に降ります。それを「重力」と大仰に言い切った可笑しみ。

「秋に入る」という言い方に、私自身は違和感を覚えないこともない。秋って、「入る」感じがしない。春も夏も同様。なぜか冬だけは「入る」感じがある。私だけの感じ方かもしれず、道理はわかりません。一方、「秋に入る」といういかにも俳句的・季語的な語と前半が相俟ってこそ、飄々とした味わいが出ている気もします。


ふくろふのまんなかに木の虚のある  宮本佳世乃

木々のなかにいるはずの梟。大きさや位置関係の逆転がこの句の主眼。梟を複数に読むと、ふつうの景色になりますが、一羽と読みました。だからこそ起こる逆転。

この「虚」には説得力があります。なんだかありそうじゃないですか、梟の腹のあたりに木の虚が。色合い的にもね。
 
語尾の「ある」はその人の口吻というものでしょう。「あり」ときっぱり終わると、いわゆる「ドヤ感」が出るのを嫌ったのかもしれません。


君の来た星には花があるんだぜ  吉川千早

いっけん地球外からやってきた宇宙人に語りかけたように見えますが、連作「らうたし」は「子」を詠んだ連作、それならば、生まれてきたことを、この星にやってきたと捉えていると読むのが順当でしょう。どちらにしても、ジュヴナイルのような味わい。若々しくスウィート。

この「花」は俳句の約束事=桜ではなく、花一般でしょう。無季ということになりますが、有季でも無季でも、私はどちらでもオッケー。


ゴールデンウィーク集荷の人を待ち  仲田陽子

一般家庭が宅配便を出すとき、どのくらいの頻度で集荷サービスを利用するのか、よくわからないが、商売をしていると、日常的に集荷してもらうことが多いだろう。

一般家庭か仕事場かで、句の印象が異なるが、後者の場合、世間が休んでいるとき、納品なり進行のために集荷を待っている。句としては何気ないが、ある種、気分のしっかりした醸成、時間の質感の提示がある。

集中、《水辺から昏れる一日青ぶどう》といったポエティックな句の一方、掲句や《フラダンス奉納のあと海開き》といった措辞・文彩を排した日常・非日常の句もいくつか。こちらのタイプの句により惹かれた。


現代俳句協会ウェブサイト

2017年11月11日土曜日

●ホテル

ホテル

さくら満つ夜の犬山ホテルかな  大野泰雄〔*1〕

このあたりホテルばかりの白夜かな  久保田万太郎

ホテルみな白しホテルは何充つ城  楠本憲吉

ホテルあり木槿づたひにグリルあり  京極杞陽

ラブホテルある日土筆にかこまるゝ  杉山久子〔*2〕


〔*1〕大野泰雄『へにやり』2017年10月/夜窓社
〔*2〕杉山久子『泉』2015年9月/ふらんす堂

2017年11月9日木曜日

新シリーズ●木曜日の談林〔西山宗因 〕浅沼璞



浅沼璞







里人のわたり候かはしの霜  西山宗因

『懐子』&『境海草』(1660年)所収

談林俳諧といえば宗因流、宗因流といえば謡曲調、謡曲調といえば掲句が発端、というのが通説である。しかし掲句は宗因流の全盛期・延宝年間(1673-81)をさかのぼること十数年の作。ともすれば過渡期の徒花として扱われがちな談林だが、十数年間という揺籃期がちゃんとあったのだ。あなどれない。

さて謡曲調は「謡曲取り」ともいうように、ようは(シャレではありません)謡曲の詞章を原テキストとしたサンプリング。掲句の上五・中七は謡曲「景清」の一節そのままだ。けれど原典では「わたり」=「あり」の尊敬語。それを文字どおり「渡り」とシャレのめし、「渡り」→「橋」と連想を広げたってわけだ。さらにそいつを「橋の霜」という歌語へともっていった。さすが宗因、もともと連歌師なだけはある。しかも御丁寧に「宇治にて」と前書があり、宇治川、宇治橋といった歌枕までシャレのめしてる……なんてことは後で調べたり考えたりしたことで、最初にこの句を目にしたのは芭蕉七部集(岩波文庫版)中の『阿羅野』でだった。「旅」の部立に〈ひとつ脱(ぬい)で後におひぬ衣がへ〉の芭蕉句などと併載されていた。

『阿羅野』は俳諧の古今集をめざしたアンソロジーで、朗詠集的な部立に蕉風以前の連歌や他門の発句もまじってる、くらいの予備知識はあったが、「旅」のパートで蕉門俳諧といっしょ(しかも前書はカット)となれば、どーしても旅人目線で鑑賞したくなる。橋上の霜にのこる足跡を見て地元の民の生活に思いを馳せる旅人のアングルである。旅情と言ってしまえばそれまでだが、漂泊する者が定住民に感じる懐かしみ、みたいなもので、そーなってくるともう(いま読みかえしてみても)謡曲調やら歌語やらの足跡などほとんど見えはしない。

けっきょく『阿羅野』の編集にまんまとヤラれたってことなんだろうな、たぶん。

2017年11月7日火曜日

〔ためしがき〕 『ファイアボール』シリーズと口のない口唇性 福田若之

〔ためしがき〕
『ファイアボール』シリーズと口のない口唇性

福田若之


ウォルト・ディズニー・ジャパン制作、荒川航監督のアニメーション作品、『ファイアボール』シリーズの一作目では、お嬢様であるロボットのドロッセルが、執事のロボット、ゲデヒトニスの名を繰り返し呼びまちがえる。たとえば、第一話では次のとおりだ。
ドロッセル おい、シシカバブー、シシカバブーはどこだ?
ゲデヒトニス はい、お嬢様。
ドロッセル イルカが見たいわ、シシカバブー。
ゲデヒトニス イルカでございますか。ちなみに、私の名前はゲデヒトニスでございます。
ゲデヒトニス イルカよ、シシカバ。
このあとも、話数を重ねるたびに、ゲデヒトニスは、「タンホイザー」(ワーグナーの作曲したオペラの主人公)、「デュラムセモリナ」(小麦粉の一種)、「クセルクセス」(アケメネス朝ペルシアの王の名)、あるいは、「パッキャマラード」(童謡「クラリネットこわしちゃった」の歌詞の一部。なお、もとのフランス語は«Au pas, camarade.»で、意味上の切れ目はむしろ「オーパッ」と「キャマラード」のあいだにある)などと、さまざまに呼ばれることになる。それにしても、こうした脈絡のない誤った名の数々は、いったいどこからくるのだろうか。

ドロッセルは、どうやら故意に違う名で呼んでいるのではなく、ほんとうにゲデヒトニスの名を忘れてしまっているらしい。シリーズ二作目にして一作目の前日譚にあたる『ファイアボールチャーミング』の第七話で、ドロッセルに物忘れ機能が備わっていることが明らかにされている。また、同じく最終回では、眠りにつこうとするドロッセルが、次に目覚めたときにはゲデヒトニスの名を忘れてしまっているかもしれないということを示唆していた。ゲデヒトニスGedächtnisはドイツ語で「記憶」を意味する。シリーズ一作目のドロッセルは、まさしく記憶を失くしているので、その名をうまく呼び出すことができないのだ。

だが、話数を重ねるにつれてはっきりしてくるのだが、彼女はどうやら自らの呼びまちがいを楽しんでいるようでもあるのだ。

ドロッセルはロボットだが、言葉に対して情緒的にふるまうことがある。たとえば、一作目の第七話で、ドロッセルの亡き父、ヴィントシュティレ卿が残した書物に記されていた人類の会話サンプルをもとにしたゲデヒトニスの発話(「チーッス、ドロちゃん」、「ドロってばチョーウケるし、もうアゲアゲ」)に対し、彼女は「微妙にむかっ腹が立ったわ」、さらに「腹に据えかねるわ」といった感想を述べ、「人類との共存は無理ね」と結論付けている。語調は、ドロッセルにとってそれほどまでに重要なことがらであり、ここで彼女はそれに対する感情的な反応を示しているのだ。これは、『ファイアボールチャーミング』の第一話で「気持ちを伝える言葉さえ見つければ、人類とも仲直りできるはず」と語っていたドロッセルの、悲しい帰結である。人類との共存の可能性を否定する彼女は、亡き父の教え――人類の言葉は常に変化しているため、その本来の意味に注目せよ、という趣旨の教え――を、もはや思い出すことはない。

さて、「サンチョ・パンサ」と呼んでおきながらさらにそれを「サンチョパ」と略したり、「タンホイザー」を「ホイサッサ」に言い換えたりしているところからしても、ドロッセルは、人類の言葉にいらだつのとは対照的に、呼びまちがいを楽しんでいることは明らかだ。そして、こうした省略や言い換えからすると、どうやら彼女の楽しみは言葉を発するときのくちびるの動きに関わっているようだ。

言葉は、ゲデヒトニスを呼ぼうとするとき、それ自身が担うはずの記憶とは無縁のものになっている。「ワンダーフォーゲル」という語が、本来の意味とは無関係に、容易に「ワンダフォー」に転化してしまうのはこのためだ。そして、ゲデヒトニスを呼ぶためだけに「マンゴスチン」や「チグリスユーフラテス」といった語彙が召喚され、しかもそれが「ゴッチン」や「チグリッパ」というかたちに省略されるとき、そうした本来の記憶を失った言葉を発することでもたらされる楽しみは、なによりもまず口唇的なものにほかならないはずである。

だが、ドロッセルのような存在がいかにして口唇的な楽しみを感じうるというのか。というのも、彼女には口が、すくなくとも一般的な人類のそれと同じようには存在していないからである。その顔には口腔も唇も見当たらないのだ。彼女は、内蔵されたスピーカーか何かから音声を発しているにすぎないように見える。それはゲデヒトニスについても同様である。

たしかに、ドロッセルは、イルカについて「愛でてよし、食べてよし」と言い、文通相手のユミルテミルを芋煮会に誘おうとし、ゲデヒトニスの言葉を「あなたは口を挟まないで」の一言で制止する。また、ゲデヒトニスはといえば、眼にゴミが入ったときの苦痛について、「喩えるなら、食事中にやにわ咳きこみ、ご飯粒が鼻のほうに入ったとき、鼻のほうから出そうと努力いたしますものの、忘れた頃に出てくるのは、決まって口のほうからでございます」とさえ述べており、しかも、ドロッセルはこの言葉に「分かるわ」と返している。

だが、こうしたことの一切にもかかわらず、やはり、彼女たちには口がないというこの事実に目をつぶるわけにはいかない。シリーズ三作目の『ファイアボールユーモラス』を観てみよう。その第一話では、あたかもこの不在を埋め合わせるかのようにして、笑った口が描かれた紙がドロッセルによってゲデヒトニスの顔にマグネットで取り付けられる。ドロッセルもまた、彼女を図書室まで連れて行ってくれるはずだったロボットのハラヅモリ3000がうまく働かないとわかると、口の代わりに表情をあらわすための絵を顔の下方に貼り付けている。そのとき彼女たちがこうした絵を用いるのは、まさしく口がないからにほかならない。ちなみに、このハラヅモリ3000には口らしきものが見受けられるが、逆に、このロボットのほうは言葉を話すことができず、ただ「ボエー……」という言葉にならない叫びをあげるばかりだ。

面白いことに、このアニメーションにおいては口のないものだけが言葉を発することができ、口のあるものは言葉を発することがないのである(口がないからといって、必ずしも言葉を発することができるとは限らないが)。たとえば、『ファイアボールチャーミング』の第七話に登場する記憶装置のレジナルドも、口なしに発話している。

言葉にかかわるものとして、いわば、口のない口唇性とでもいったものを考える必要があるだろう。なにより、エクリチュールの口唇性とはそうしたものではないだろうか。文字には唇がない。しかし、文字がそれ自体において口唇性と呼びたくなる何かを帯びることはたしかにある。

実際、『ファイアボール』シリーズのロボットたちはどこか文字的な存在なのだ。一作目の第五話には、そのことを端的に示唆するこんなやりとりがある。
ゲデヒトニス 失礼をお許し下さい、お嬢様。私このままでは非常に……頭〔ず〕が高い。
ドロッセル そうね。
ゲデヒトニス その頭〔ず〕の位置の高さたるや、「ざじずぜぞ」が「ずざじぜぞ」になる始末。
ドロッセル 縦書きね。
ゲデヒトニスはここで自らの身体性を縦書きの文字列になぞらえているのである。次の第七話でドロッセルがゲデヒトニスのことを「サンチョ・パンサ」と呼んでいるのは示唆的だ。ドン・キホーテとサンチョ・パンサは、まさしく文字の世界から抜け出て来たかのような二人組である。

ドロッセルには、おそらくは彼女の亡き父によって、停電のときに目が光る機能が授けられていた。彼女自身がいうには、それは「便利」である。ただし、「でも、これではまぶしくて、私には何も見えないわ」。何かを照らしていながら、自分自身では何ひとつ見ることができない。文字とはそうしたものではないだろうか。文字のまなざしは、見るためにではなく、見せるために機能する。

ドロッセルとゲデヒトニスの暮らす屋敷は、ブリューゲルの描いたバベルの塔を思わせる外観をしている。データベースを備え付けているこの屋敷は、それ自体が巨大な書物のようでもある。『ファイアボールユーモラス』の第一話によれば、西の彼方には図書室もあるらしい。要するに、この屋敷はボルヘスのバベルの図書館を思わせるものなのだ。彼女たちは書物に住むもの、一冊の書物としてのバベルの図書館に住むものとして、そのなかにある書物を読むのである。

ドロッセルとゲデヒトニスが触れる書物のなかでいちばん重要なのは、ゲデヒトニスがしばしば大事そうに取り出す『プロスペロ』という名の書物であろう。ドロッセルによってシャーデンフロイデと名付けられた猿型ロボットが、この書物について語ったヴィントシュティレ卿の言葉を記憶していた。

第一作の最終話で再生されたその言葉によれば、『プロスペロ』は「この世界の始まり、はたまたその世界とあの世界、あるいは科学と迷信、そのあいだに横たわる何某、などについて書かれている」という(もっとも、ゲデヒトニスに言わせれば、これは「主にテーブルマナーについて書かれた本」だそうだが)。

シャーデンフロイデもまた口をもたないが、ヴィントシュトレ卿の言葉をそのままに再生する機能を授けられているのである。しかも、その言葉の一部は『プロスペロ』の一節重なり合うものだった。「遠い昔、世界は一つだった。機械とヒトは、同じ言葉を話し、花は歌い、木々は踊り、砂漠は生きていた」。『ファイアボール』シリーズにおいて、ロボットと人類はどこまでも言葉の差異によって隔てられている。その意味で、ドロッセルたちはバベルの塔の崩壊以後のバベルの塔に住まう存在だともいえるのだが、いま重要なのはこの点ではない。

ヴィントシュトレ卿の言葉を一字一句正確に記憶し、『プロスペロ』と重複する役目を担うシャーデンフロイデは、その意味で、書物そのものなのである。ならば、同じように『プロスペロ』に書かれていることを口のない口唇性において読みあげるゲデヒトニスもまた、書物であるといえるのではないだろうか。実際、ドロッセルはゲデヒトニスの読み聞かせによってはじめて『プロスペロ』の本文に接触するのである。

そして、読み聞かせにおけるドロッセルとゲデヒトニスの役回りは容易に入れ替わる。ドロッセルに対してゲデヒトニスが書物であるのと同様に、ゲデヒトニスに対してドロッセルが書物であるということがあるのだ。

たとえば、彼女は、『ファイアボールユーモラス』の第一話において、手にしている書物に記されているらしい、イソップの『アリとキリギリス』とは似て非なるアリとキリギリスの物語をゲデヒトニスに伝えている。「いいこと、アリさんが熱心に働く一年間、キリギリスさんはバイオリンを弾いて歌って暮らしました」、「その結果、キリギリスはどうなったか」、「バイオリンと歌がチョーうまくなりました」、「そのままメジャーレーベルと契約して全米デビュー」。ドロッセルもまたゲデヒトニスに対して書物なのである。

もちろん、彼女たちの口のない口唇性というのは、実際には、18世紀のチェスの自動人形の思考に近しいものだとも言えないことはない。「トルコ人」と呼ばれたその機械には、実は、チェスの名人が見えないように入りこんでいた。同じように、口のないドロッセルの代わりに、声優の川庄美雪が「中の人」として唇を動かしているのだ――こうした見方を否定することはできない。

とはいえ、『ファイアボール』シリーズが、いわばそのフィクションにおいて、口のない口唇性という概念を呼びよせるものであるということもまた、否定しようのないことだろう。それは、文字についての考えにもつながるひとつのアイディアをもたらしてくれているのである。

2017/10/26

2017年11月6日月曜日

●月曜日の一句〔小野あらた〕相子智恵



相子智恵






秋冷やチーズに皮膚のやうなもの  小野あらた

句集『毫』(ふらんす堂 2017.08)所収

ああ、たしかに「皮膚」という感じ、あるなあと思った。私はカマンベールチーズの白黴の膜などを思ったりしたが、人によっていろんなチーズを思い出すことだろう。

この比喩は個性的な把握でありながら、言われてみればそれ以外にないというような必然性があり、いわゆる「発見のある句」とはこういう句のことを言うのかもしれないな、と思う。しかしそれが〈のやうなもの〉とすーっと流すように淡々と一句の中に着地していていて、いわゆる「ドヤ感」がないのがいい。そのさりげなさにふっと笑ってしまう。さりげなさが味わいとして長く心に残り、飽きがこないのだ。

取り合わされた〈秋冷〉も、うまいなあと思う。皮膚がひやっとする感じが内容によく響き合っているし、チーズという寒くなると食べたくなる食材に対する確かな季節感も示し、さらに形のない季語なのでチーズの微細な膜に焦点が定まる。

鑑賞がなんだか理屈っぽい解説になってしまったが、チーズを見るたびに思い出すであろう、大好きな一句となった。

2017年11月5日日曜日

◆週俳の記事募集

週俳の記事募集


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そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


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※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2017年11月3日金曜日

●文化の日

文化の日

文化の日一日賜ふ寝てゐたり  清水基吉

秒針のきざみて倦まず文化の日  久保田万太郎

助手席の犬が舌出す文化の日  大木あまり

過去記事≫http://hw02.blogspot.jp/2009/11/blog-post_03.html

2017年10月31日火曜日

〔ためしがき〕 『ゴドーを待ちながら』の問い 福田若之

〔ためしがき〕
『ゴドーを待ちながら』の問い

福田若之


サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を最初に観るとき、ひとが問うのは、おそらく、ゴドーはいつ現れるのだろうか、ということだろう。

つぎに観るとき、そのひとが問うのは、おそらく、ゴドーはいつか現れるのだろうか、ということだろう。だが、そんなことは分からない。それは何度この劇を観ても分からないことだ。だから、ひとはついついこの問いのもとで立ち止まってしまう。そのとき、このひとは図らずも『ゴドーは待ちながら』の登場人物のひとりになってしまうだろう。

だが、この演劇が提起している問いはもっと別にあるのではないか。たとえば、昨日ゴドーが来なかったという出来事と、今日ゴドーが来なかったという出来事とは、本当に、同じ、ゴドーは来なかったという出来事だろうか。この問いがこれまでの問いと違っているのは、もはやゴドーが何者であろうとかまわないという点である。

ゴドーはいつ現れるのだろうかという問いも、ゴドーはいつか現れるのだろうかという問いも、結局のところ、ゴドーとは何者なのかという問題に行きついてしまう。だが、それは分からない。したがって、こうした問いをめぐる一切は、結局のところ、思考の空費に終わるだろう。要するに、この劇においてはゴドーが何者であるかはそもそも問題にされていない以上、この劇にふさわしい問いは、ゴドーが何者であろうと問題にならないものであるはずなのだ。

だいたい、なぜ、ひとびとは、自分にとってほとんどどうでもいいような連中が待っている相手のことをそこまで知りたがるのだろうか。どうでもいい連中が待っている知らない奴のことがどうしてそんなに気になるのだろうか。ゴドーが神であろうと知ったことではない。考える価値のある問いは、おそらく、もっと別のことである。

2017/10/20

2017年10月29日日曜日

【人名さん】八木沼純子

【人名さん】
八木沼純子






2017年10月27日金曜日

●金曜日の川柳〔西来みわ 〕樋口由紀子



樋口由紀子






ふざけてるんぢやないかしら子ら喰べすぎる

西来みわ (にしらい・みわ) 1930~

食欲旺盛な孫たちを見たら思い出す川柳。「まだ食べるの?」と思わず言ってしまう。本当にふざけているのかと思う。子どもの動作はもうそれだけで微笑ましく、滑稽である。その行為をとらえるだけでも絵になるが、食べている姿はその極め付けともいえる。とぼけて軽妙でその場の雰囲気や心情をとてもうまく伝えている。

子どもの成長記録を川柳にことづけている。定型にとらわれていない自由さがあり、心地よい。話し言葉のようで、その舌足らずに見える口ぶりに生気が通う。〈歩いてみる駆けてみる展けるかも知れず〉〈2001年踏み出す歯型整える〉「川柳研究」(第226号・昭和43年)収録。

2017年10月26日木曜日

●駅前

駅前

駅前の夜風に葡萄買ひにけり  小川軽舟〔*〕

暮早し駅前にして暗き灯も  高浜年尾

駅前のだるま食堂さみだるる  小豆澤裕子

駅前の蚯蚓鳴くこと市史にあり  高山れおな

少年液化す宮沢賢治の駅前まで  高野ムツオ


〔*〕『鷹』2017年11月号より

2017年10月24日火曜日

〔ためしがき〕 歴史を書くとは…… 福田若之

〔ためしがき〕
歴史を書くとは……

福田若之 

歴史を書くとは、年号に表情を与えることである。
(ヴァルター・ベンヤミン「セントラルパーク」、『ベンヤミン・コレクション1』、浅井健二郎編訳、久保哲司訳、筑摩書房、1995年、366頁)
だとすれば、このためしがきを書くこともまた、日付になんらかの表情を与えることなのだろう。ただし、もちろん、それらの表情はあくまでも主観的なものにとどまるはずだ。

ふと、日付の肖像画家という言葉の連なりが思い浮かんだ。悪くない気がする。

2017/10/12

2017年10月23日月曜日

●月曜日の一句〔衛藤夏子〕相子智恵



相子智恵






点滴の音の広がる夜長かな  衛藤夏子

俳句とエッセー『蜜柑の恋』(創風社出版 2017.09)所収

夜の病室。消灯時間も過ぎて、イヤホンで備え付けのテレビを見ることもできないし、本を読むこともできない。しかも夜が長くなった秋のことだ。静かな暗闇の中で時間だけはたっぷりある。

音らしい音は点滴の薬液が規則正しく落ちていく音だけ。それが闇の中で広がっていく。水音は想像の中でどんどん広がり、やがて水の中に自分がいるような想像にまで進んでいくのかもしれない。〈広がる〉からはそんな心象風景が浮かび上がってくる。

2017年10月20日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋蘭 〕樋口由紀子



樋口由紀子






十年先の花簪も面白い

高橋蘭 (たかはし・らん) 1934~

「花簪」、キク科の一年草にそんな名前のかわいい花がある。よくドライフラワーにする。しかし、この「花簪」は髪飾りだと思う。小さな布を花の形につまんで作るかんざしである。舞妓さんの簪や七五三の髪飾りに使われている。

「面白い」はいろいろと含みのある言葉である。十年先が見ものであると面白がっている。変色したり、形が崩れたり、見るに堪えないものになっているのか、あるいは十年先も同じ美しさを保っているのか。扱われ方が一変しているかもしれない。

「花簪も」だから、私も歳はとるが面白いぞと言っている。あるいは「花簪」はあっても、私はもう存在していないかもしれない。さて、どうなっているのか。図太い川柳である。〈棒読みの台詞も十月十日まで〉〈どうだっていいけど息をしてしまう〉〈ぶち切った鎖に生える月夜茸〉 「ふらすこてん」(2017年刊)収録。

2017年10月17日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉11 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉11

福田若之


歴史を紐解いてみれば、自作についてほとんど何も語らずに済ませた書き手にも、自作について多くを語った書き手にも、優れた書き手はたくさんいる。たんに、多くのひとがそのどちらか一方にしか共鳴しえないというだけだ。『新生』におけるダンテの饒舌ぶりを思えば、俳句の書き手たちはまだあまりにも自作について語ることを知らない。

  ●

生きることの目的などと、ひとはたやすく言ってみせる。けれど、生きることに目的があってたまるか。生きることをその目的から考えることは、その目的の達成された具合に応じて生の価値を測ろうとすることにそのまま通じている。それは生を優劣で考えることにほかならない。生きることに目的を与えようとするあの道徳こそが、生についてのおよそ堪えがたい考えの温床となる。生きることに価値などない。どう生きようが価値だけはありえない。この価値のなさにおいてこそ、生は絶対的に肯定されるはずだ。僕は、書くことをこの次元において考える生きものでありたい。これは目的でも価値でもないが、とにかくそのような価値のなさを、思う存分に生きてみたいと思う。

  ●

書かなければ伝わらないかもしれないから、書こう。僕が裏庭で限界だったのは、たしか十歳か十一歳ごろのことだったと思うのだが、いずれにせよ大きいほうだ。尻を拭いたポケットティッシュと一緒に、園芸用のスコップで埋めた。噛まれ、こなされ、数種類の消化液と混ざり合った、じつに健康的な体温を感じさせる、たぶん給食の献立か何かだったのだろう。しばらく前、いまあそこに住んでいるひとの家を見に行ったときには、かつて裏庭だった場所はコンクリートで塗り固められてしまっていたけれど、あの窒息した土のなかには、おそらく、そのあとかたが何らかのかたちでいまだに残っているはずだ。おそらくは、僕が飼い殺した昆虫たちの死骸やなにやらとともに、土のなかの微生物たちによって、気の遠くなるほど分解されて。あの裏庭では、毎年、時期になると、決まっておいしい茗荷が採れたものだったのだけれど。

2017/10/11

2017年10月16日月曜日

●月曜日の一句〔日高玲〕相子智恵



相子智恵






馬肥ゆる大津絵の鬼どんぐり目  日高 玲

句集『短篇集』(ふらんす堂 2017.09)所収

大津絵は、江戸時代初期に東海道の宿場町である近江の大津で始まった素朴な民画。元は仏画であったが、後には世俗的な絵も描かれ、旅人のお土産となった。有名な画題としては、仏や鬼(鬼の寒念仏)、藤娘など。藤娘はのちに歌舞伎の舞踊などにも取り入れられていく。

掲句、大津絵の鬼は確かにクリクリしたどんぐりまなこで可愛らしい。3頭身ほどに描かれていて、まったく恐ろしくない。むしろ今のゆるキャラのような雰囲気だ。そこに〈馬肥ゆ〉という、澄んだ秋空の下で馬が豊かに肥えてゆく様子を取り合わせることで、馬を使って往来していた江戸時代の東海道の世界に自然に引き込まれる。季語によって俳味に厚みが出ている。

憂鬱な雨の月曜日にこの句を読むと、どんぐりまなこの鬼と一緒に、秋空のもとでボーっと往来する肥えた馬を眺めていたくなってくる。

2017年10月15日日曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


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2017年10月14日土曜日

●本日はトニー谷生誕100周年かつ正岡子規生誕150周年

本日はトニー谷生誕100周年かつ正岡子規生誕150周年

トニー谷 1917年(大正6年)10月14日 - 1987年(昭和62年)7月16日

正岡子規 1867年10月14日(慶応3年9月17日) - 1902年(明治35年)9月19日








≫『子規に学ぶ俳句365日』文庫化記念リンク集
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/10/365.html

2017年10月13日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋かづき〕樋口由紀子



樋口由紀子






旅をするハンサムな雲ひき連れて

高橋かづき(たかはし・かづき)

秋祭りのシーズンである。あちこちから太鼓や笛が聞こえてくる。その音色が秋空に向かって高く高く響き渡る。秋空の中にただよう雲。空に負けないくらいに澄んでいて、しなやかできりりとしていて形状も美しい。「ハンサムは雲」、いままでとそういう見方をしたことがなかった。あの鷹揚ぶりはまさしく美男子ならではのものである。「ハンサムな雲」とはなんと深くて優しい言葉だろうか。

日々生きていくにはたいへんなことも嫌なこともある。しかし、誰にも公平な雲がある。余計なことは言わず、黙って私を見ていてくれている。「ハンサムな雲」をひき連れている人生なのだから、日々の多少の不満は遣り過していかなくてはならないと思う。空気も爽やかで美味しい。〈自転車にはじめて乗れた日のように〉〈夕暮れのうしろ姿を手摑みに〉 川柳「杜人」(2017年秋号)収録。

2017年10月12日木曜日

●うどん

うどん


汗女房饂飩地獄といひつべし  小澤實

子規の忌の饂飩が繋ぐ皿と喉  黒岩徳将〔*〕

草の穂を重しと思いうどん屋へ  四ツ谷龍

空爆や鍋焼うどんに太い葱  下村まさる


〔*〕佐藤文香編著『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』(2017年8月31日/左右社)

2017年10月10日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム10 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム10

福田若之 


鍵忘れて裏庭で限界だったの

転校する子に寄せ書きもうあうことはないだろうけどげんきでね。

土と水になって帰って来たんだから誉めてよ

遊戯室はトランポリンときどき顔面に球が当たる

2017/10/4

2017年10月9日月曜日

●牛乳

牛乳

梅雨日曜牛乳ほどのあかるさに  阪西敦子〔*〕

蛍死んで牛乳びんとなりにけり  五島高資

大脳やミルクの湯気の立ち込めり  松本恭子

愛撫のやうに牛乳流す朝の駅  攝津幸彦


〔*〕佐藤文香編著『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』(2017年8月31日/左右社)

2017年10月7日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】句集レビューのありがたみ 『ににん』第68号の川村研治句集『ぴあにしも』特集 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
句集レビューのありがたみ
『ににん』第68号の川村研治句集『ぴあにしも』特集

西原天気


句集レビューは、読んでいない/おそらく読まない句集の場合も、有益。書き手がどう評しているかもあるんだけれど、引いてある句を読める/知るという点が便利なのです(間接じゃなくて直接読め、という声も聞こえてきそうですが、出る句集ぜんぶを読めるわけがないし、数を追うと、死にます。人生は短い)。

例えば『ににん』第68号(2017年10月1日)には、川村研治句集『ぴあにしも』(2017年6月1日/現代俳句協会)を特集。

海原に雨しみてゆくくらげかな  川村研治

冬支度せねば駱駝の瘤ふたつ  同

ひとつの場面・モチーフにとどまって質感を定着させる前者、いわゆる二物併置で意味を逃れる後者、対照的な二句をメモできた。

句集から、あるいは俳句から、そんなに欲張りに多くのものを得たいと思わなければ、気持ちよさ・愉しみを、日常的にカジュアルに受け取ることができる。

ってことは、あまり肩肘張らずに気軽に句集をレビューしろよ、それはきっと誰かのためになるよ、ということなのでしょう。


ほら、これ読んでる人、書けよ、もとい、書いてください(≫週俳の記事募集)。私も書こうと思います。

2017年10月6日金曜日

●金曜日の川柳〔きゅういち〕樋口由紀子



樋口由紀子






輪を叩きつけて天使は出ていった

きゅういち(1959~)

こんな天使は見たことはない。いや、どんな天使も見たことはないのだが、私の想像する天使は輪を叩きつけることなんて決してしない。天使に勝手なイメージを作り上げていたことに気づかされる。言われてみれば、天使だって怒ることはある。いつもいつも平和で穏やかでいられるわけがない。天使なんてやってられないと輪を叩きつけて出ていくのだから、よほどのことで、激昂で、抵抗だろう。違和の感情を持ち、このような行動をとる天使の存在に親近感をもつ。

一般的な天使のイメージをとっぱらって、自ら感じ取った世界を切り取った。威勢のいい言い放ちはユーモアのエッセンスを撒き散らして、天使の行動を一方的に立ち現せた。天使を瞬時に自分のなかにあるものに置き換えているようにも思う。怒るのも、怒っているのを見るのも生きている実感の一つである。不条理の感覚を視覚化している。『ほぼむほん』(川柳カード叢書① 2014年刊)所収。

2017年10月5日木曜日

●酒場

酒場

バーを出て霧の底なるわが影よ  草間時彦

銀河系のとある酒場のヒヤシンス  橋閒石

もの枯れて酒場に地獄耳揃ふ  小檜山繁子

雪降るとラジオが告げている酒場  清水哲男

打水の向ひのバーに及びけり  鈴木真砂女

2017年10月3日火曜日

〔ためしがき〕 雑感 福田若之

〔ためしがき〕
雑感

福田若之 


ことばにして伝わるかは分からないけれど、なんというか、血圧を感じさせる句が書きたい。それも、最近は、どちらかというと、わりと血圧低めのときの感じの句が、書きたい。



このごろ痛感しているのは、僕が、生きているひとたちのことを知らなすぎるということだ。みんなどこで生きているひとたちのことを学んでいるのだろう。



俳句のほかでは自己PRしないことに対する圧を感じてて、俳句では自己PRすることに対する圧を感じてる。けれど、そんなに器用ではないから、どちらかの圧には鈍感に生きていくしかない。いずれにせよ、真空では生きていけないのだから。

2017/10/2

2017年10月2日月曜日

●月曜日の一句〔九条道子〕相子智恵



相子智恵






天高し校歌五番を歌ひ切る  九条道子

句集『薔薇とミシン』(雙峰書房 2017.09)所収

そういえば私の学校の校歌も4番まであった。校歌が長い学校はわりと多いのだろうか。掲句は5番までだから、相当長くて全部覚えるのは大変だろう。それでも歌い切るところに、学校ならではの時間軸を感じる。省略して効率化したりはしないのだ。〈天高し〉が、歌い切った満足感と呼応して爽やかだ。

全部は覚えていなくても出だしは覚えていたりする。校歌というのは案外、大人になっても記憶に残っているものだな、と掲句を読んで思った。

2017年9月30日土曜日

【新刊】週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』文庫化

【新刊】
週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』文庫化

執筆:相子智恵 上田信治 江渡華子 神野紗希 関悦史 髙柳克弘 野口る理 村田篠 山田耕司 週刊俳句編集部

2017年9月29日金曜日

●金曜日の川柳〔月波与生〕樋口由紀子



樋口由紀子






ふたしかな記憶で描いた王の鼻

月波与生 (つきなみ・よじょう)

何のために「王の鼻」を描いたのだろうか。「王の顔」ならまだしもわかるような気もするが、「鼻」である。なぜ鼻だけを描く必要があったのか。誰かに頼まれたのか。思い出しながら、なんとか描きあげたようだ。どんな鼻を描いたのかと次の疑問が湧いてきた。鼻なんて、そんなに大差はない。で、いろいろな鼻を思い浮かべた。思い浮かべながら、なぜそんなことを想像しているのだろうと思った。

〈捺印をふたつ残して歯の予約〉〈快速でいけば砂糖が二個余り〉〈ベンチにも死ぬ順番があり「へ」の5番〉。不可解であいまいで奇妙な川柳であるが、日常生活のおける実感や手触りに根差したもののような気がする。本意でなくても、理由がわかなくても、「私」に課せられることが「社会」にある。「社会」と「私」の関係はわからないことだらけである。「ふらすこてん」(第53号 2017年刊)収録。

2017年9月28日木曜日

【新刊】robin d. gill 古狂歌シーリーズ

【新刊】
robin d. gill 古狂歌シーリーズ



あと1冊、『古狂歌 滑稽の蒸すまで: 鮑の貝も戸ざさぬ国を祝ふ』も刊行済みだそうですが(このもじり「滑稽の蒸すまで」、ナイス)、現在、amazonに見当たらず。行方が判明したら続報します。

(催馬楽天気・記)

↑ギルさんは、こう書いてくるので、今回は西原ではなくこちらで。

2017年9月27日水曜日

【人名さん】要潤

【人名さん】
要潤

Wikipedia


2017年9月26日火曜日

〔ためしがき〕 記憶違い 福田若之

〔ためしがき〕
記憶違い

福田若之 

「しびれることです。感電すること。それと、本っていうのは物体です。」のなかで、ひとつ、記憶違いでしゃべってしまったことがあるのに気づいた。ジョイスのことだ。学部時代には読んでいなかったと言ってしまったけれど、僕は、『ダブリナーズ』を学部の3年の夏に読んでいた。読んでいたのだ。

2017/9/20

2017年9月23日土曜日

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2017年9月22日金曜日

●金曜日の川柳〔山本洵一〕樋口由紀子



樋口由紀子






エレベーターをわたしのために呼びつける

山本洵一 (やまもと・じゅんいち)

エレベーターはボタンを押すだけでいつでもすぐに来てくれる。それは当然のことで、あらためて考えることはなかった。わたしのために黙って来てくれて、希望の階まで連れていってくれる、確かに、ほんとにありがたい。「呼びつけているでしょう」と問いかけられているような気がした。

「呼びつける」というあまり好感の持てない言葉が背景を変えるだけでガラリと変容する。あたりまえのことでも見方を変えると物事は異なった相になる。その一方、誤解を与えてしまいやすい言葉のむずかしさ、ややこしさも考えてしまう。先日、メールのやりとりで思い違いがあって気まずくなったことがあった。幸い、わかりあえたが、気をつけなくてはいけないとつくづく思った。

2017年9月21日木曜日

●自殺

自殺

自殺系空間きりんうるむなり  攝津幸彦

蝶むらさき自殺につけられた理屈  福田若之〔*〕

やがてバスは自殺名所の滝へかな  櫂未知子

月になまめき自殺可能のレール走る  林田紀音夫

二つ三つ不審もあれど春の自死  筑紫磐井


〔*〕福田若之『自生地』(東京四季出版/2017年8月31日)

2017年9月20日水曜日

●昨日は子規忌 橋本直

昨日は子規忌

橋本直


明治35年9月19日は「子規忌」(獺祭忌、月明忌などとも)、旧暦でいうと8月18日にあたる。ちょうど自分がいろいろ俳句を選している最中なので、この句について少し。

  三千の俳句を閲し柿二つ 子規(明治30年)

一読してこの「三千」という句の数字が具体的に何をさすのかよくわからない。わからなくてよく詠んであるのだからリアルな根拠はいらないように思う。〈たくさん〉ほどの意だろう。漢籍でよくやる「万」は俳諧以来のアンソロジーの定番「〇〇一万句」を想起させて「月並」でいただけないし、あまり多いと数自慢の匂いもするので、数と音の調子できめたものだろうか。読者に対するある種の自分らしさの演出、自己演技を感じもする。

実証的な話をすれば、二説あって、一つには『新俳句』(明治30年)の句稿説。『新俳句』を編集した直野碧玲瓏宛書簡で、『新俳句』の版の話題のあったあと、最後にこの句が付してあり、当然碧玲瓏はそう考えていた。

もう一つは、子規の「俳句稿」明治30年秋所収のこの句の前書「ある日夜にかけて俳句函の底を叩きて」を根拠とするもの。「俳句函」は子規宛に送られてきた投句を収めた箱のことらしい。虚子や『子規全集』16巻の「解題」(担当:池上浩山人)はこちらをとる。

特に池上は後者の方が「自然」(前掲文中)とまで書いているけれども、そこまで言ってよいものだろうか。実際に詠んだときは後者がきっかけだったのかもしれないが、確かに碧玲瓏宛に書いて送ったのだから、そのときはその意味も込めてあったに違いない。要は、子規が同じ句を使い分けたのであって、どっちが正しいとかいうのはナンセンスであるだろう。

子規は句に数字を使うのがけっこう好きなのだが、この「三千~」で始まる句は他に、

 三千の遊女に砧うたせばや (「寒山落木」第二)
 三千坊はなれ\/の霞哉  (「散々落木」第四)
 三千の兵たてこもる若葉哉 (「寒山落木」第五)

がある。

なお、虚子の追悼句「子規逝くや十七日の月明に」では日付のズレがときどき指摘される。子規は19日に日付が変わった頃に亡くなったとされているから、実質18日深夜になくなった。どうやら虚子は、旧暦8月17日の深夜の月を眺めたという意味でこの句を詠んでいる。たまたま新旧の日が近いせいで虚子が命日を間違ってるみたいなことになってしまったのだろう。その理由ははっきりしないけれども、この時なぜ虚子が旧暦の句にしたかは、その後の俳句史を考えると、興味深いことではある。

2017年9月19日火曜日

〔ためしがき〕 塔 福田若之

〔ためしがき〕


福田若之 

町に高い塔が建つ。浮きあがって見える。縮尺に違和感を覚える。けれど、しばらくすると、すこしずつ、町の視界にその塔があることがあたりまえになってくる。まわりの建物も、更地になり、あたらしく建物がつくられていくなかで、塔の存在を前提としはじめる。いつしか、塔は町にとって欠かせないものになっている。

2017/9/19

2017年9月18日月曜日

●月曜日の一句〔正木ゆう子〕相子智恵



相子智恵






十万年のちを思へばただ月光  正木ゆう子

句集『羽羽』(2016.09.春秋社)

前書きに〈映画「十万年後の安全」〉とある。フィンランドのオルキルト島に建設中の放射性廃棄物処理施設「オンカロ」(22世紀に完成予定)のドキュメンタリー映画。〈十万年〉は、放射性廃棄物の放射能レベルが生物に無害になるまでの時間。その時に人類は存在しているのか分からず、していたとしても今とはずいぶん違った生物になっているだろうから(今から10万年前はホモ・サピエンスの生息地域が拡大した頃らしい、そのくらいの時間だ)この施設の意味は伝わるのか……など、その途方もなさに茫然とする。

あまりに途方もないものを生み出し、その未来を見届けることなく、思うことすら無化してしまうような目の前には、ただ月光が茫然と白く映るのみ。月そのものではなく、光だけなのも象徴的だが、そもそも十万年後に月があるのどうかはわからない。

この月光は、いま目の前の光で、思うのもいまの私で〈ただ月光〉という終わらせ方は、その限界をまるごと差し出している。

2017年9月16日土曜日

【俳誌拝読】『静かな場所』第19号(2017年9月15日)

【俳誌拝読】
『静かな場所』第19号(2017年9月15日)


A5判、本文18頁。発行人:対中いずみ。

招待作品より。

虹の輪に機影かさなる添ひ寝かな  小津夜景

以下同人諸氏作品より。

仏間居間寝間と続きて冬椿  満田春日

短夜の箱振つて出す句集かな  森賀まり

あの本もこの本もある曝書かな  和田悠

トロフィーの見ゆる窓辺や夏燕  対中いずみ


(西原天気・記)

2017年9月15日金曜日

●金曜日の川柳〔山田ゆみ葉〕樋口由紀子



樋口由紀子






蜘蛛の巣をかぶって猫はあらわれた

山田ゆみ葉 (やまだ・ゆみは) 1951~

猫が蜘蛛の巣をかぶって出てきただけのことが書かれている。軒下からか天井からか、そんな猫が出てきそうであるが、奇妙な光景である。異様な、それでいてなにやら滑稽な雰囲気が漂う。

「かぶって」だから、猫の意志で蜘蛛の巣をかぶって出てきたように作者には見えて、その堂々ぶりに魅せられたのだろうか。あるいは蜘蛛の巣ごときが頭にあろうとそんなことはいっさい動じない、威風堂々とした猫に惹かれたのだろうか。が、蜘蛛の巣が頭についていることに気づかない無邪気な猫でもある。蜘蛛の巣を取り払わないのは意志なのか、ただ気づかないだけなのか。猫に対する思い入れの差も影響して、その姿を畏怖するか、可愛いと思うのか、全く異なった気持ちを引き出す。猫を比喩として使ったわけではなさそうだが、人間にも当てはまると思った。さて、この猫はどうなのだろうか。「ふらすこてん」(第53号 2017年刊)収録。

2017年9月14日木曜日

【俳誌拝読】『鏡』第25号(2017年9月1日)

【俳誌拝読】
『鏡』第25号(2017年9月1日)


A5判、本文32頁。編集人・発行人:寺澤一雄。以下同人諸氏作品より。

塔老いにけりひぐらしの声のこり  羽田野令

本棚をずらせば汽笛夏めく日  笹木くろえ

虹は水また八分の六拍子  佐藤文香

行く夏を首寝違へし人とゐる  谷雅子

姥百合の揺れて真昼の生欠伸  八田夕刈

ここからが中野サンプラザの日陰  三島ゆかり

禁色や玉子喰うとき殻を剝く  村井康司

ふらふらと来て猛りたる火取虫  森宮保子

砂浜に残る海月のその後見ず  大上朝美

キッチンを灯すと淋し夏の暮  佐川盟子

春山の奥に冬山そこまで行けず  寺澤一雄

(西原天気・記)

2017年9月12日火曜日

〔ためしがき〕 自分の書いた句を読みなおす 福田若之

〔ためしがき〕
自分の書いた句を読みなおす

福田若之


てざわりがあじさいをばらばらに知る  福田若之

僕がこの句を読むときに思い出すのは、《あぢさゐはすべて残像ではないか》(山口優夢)や《紫陽花は萼でそれらは言葉なり》(佐藤文香)のことだ。

像や言葉として理解されたあじさい。それらのあじさいが、まなざしによらない、てざわりというものからの出直しによって、生成変化する。そのとき、それらは、ばらばらなるもの(ばらばらなもの/ばらばらというもの)として把握しなおされることになる。知ることは、もはや、すでによく知られたあの知ることではない。すなわち、断片的なものの組織化による体系の獲得のことではないのだ。知ることは、これはあじさいだ、という認識を獲得することではなく(「あじさいと知る」ことではなく)、むしろ、世界についてのそうした認識を失調させ、解体し、それによって、ある引き裂かれた裸性へと到達することなのである。それこそが、ばらばらに知るということだ。

しかし、そうである以上、ばらばらに知るということについてのこの統合的な認識もまた、知ることそのものの生成変化とともに、ただちに失効するのでなければならない。それゆえ、認識の失調は、この句において、言葉の片言性によって表現されるほかはない。通用されている助詞の機能の失調によって。言葉が、書かれ、読まれながらばらばらになることによって。

2017/9/9

2017年9月11日月曜日

●月曜日の一句〔堀下翔〕相子智恵



相子智恵






田一枚夏といふ夏過ぎにけり  堀下 翔

アンソロジー『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』佐藤文香編(左右社 2017.09)所収

田圃の色は収穫期の黄金色までにはまだ遠いものの、夏の青田とは確実に違う色を見せていて、そこに夏がすべて過ぎ去ったのだという感慨を見出している。田を一枚見ながら、夏という夏が過ぎ去った……と思うのは鋭敏な感性だと思う。

もちろんこれは芭蕉の〈田一枚植て立ち去る柳かな〉を踏まえた知的な句でもある。芭蕉の句には、遊行柳の木陰で西行をしのんで感慨にふけっていたところ、その間に早乙女たちが一枚の田を植え終わって立ち去った…という「時間」が描かれている。

芭蕉がしのんだ西行の歌は〈道の辺に清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ〉で、ほんの少し休むつもりが長居をしてしまったという時間が描かれていて、芭蕉はそこを重ねてみせた。

作者はこの西行、芭蕉と続く「時間」の感覚を、「夏といふ夏過ぎにけり」とさらに大づかみに描いてみせている。少し休んでいるつもりが、一瞬のうちに夏という夏は過ぎ去ったのだ。美しく不思議な感慨である。



2017年9月8日金曜日

●金曜日の川柳〔小島蘭幸〕樋口由紀子



樋口由紀子






宇宙から持って生まれてきたセンス

小島蘭幸 (こじま・らんこう) 1948~

あの人はセンスいいとかセンスわるいとかをわりと軽々しく使う。が、さて「センス」とはなにかとあらためて考えると、原因のわからない、つかまえどころがないものであると気づく。そのどこか理解しがたい「センス」を「宇宙から持って生まれてきた」と言われた途端に、理屈ではなく、どっと広大な領域に連れていかれたような気がした。「センス」の謎が解けたような気になった。

今夏、松江で開かれた川柳大会の兼題「センス」の私の選んだ天の句である。「あっ」と思った。「ああそうだったのか」と思った。あまりいいとは思わなかった私のセンスも「宇宙から」と言われるとあきらめもつき、なにやらありがたく、かけがえのないもののように思えてくる。このように「センス」を捉える「センス」が素敵で羨ましく思う。自分の感じとる目で世界を見ている。(第10回松江市川柳大会)収録。

2017年9月7日木曜日

●螺旋

螺旋

しんじれば螺旋にかはる夏の島  大塚凱〔*〕

螺旋階下りきし人や草むしる  波多野爽波

見下ろされたる
いらだちの
夜の噴水の
爪立つ螺旋  高柳重信

階段の螺旋の中を牡丹雪  齋藤朝比古


〔*〕佐藤文香編『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』(左右社 2017年9月)

2017年9月5日火曜日

〔ためしがき〕 仏滅 福田若之

〔ためしがき〕
仏滅

福田若之



きょう、ようやく、『自生地』が奥付のうえでの発行日を迎えた。そういえばと思って六曜を調べてみると、なんと仏滅だった。

六曜のことは、正直、まったく気にしていなかった。またつまらぬ慣習を破ってしまった、とでもいったところだろうか。決して狙ったわけではないのだけれど、発行日が仏滅というのも、なかなかロックな感じで、わるくない。

仏滅にだって、子どもは生まれる。

2017/8/31

2017年9月4日月曜日

●月曜日の一句〔黒岩徳将〕相子智恵



相子智恵






指が指に逢ふ新涼のバケツリレー  黒岩徳将

アンソロジー『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』佐藤文香編(左右社 2017.09)所収

「新涼」や「指」を感じられる余裕があるのだから、このバケツリレーはもちろん、実際の火災現場のそれではない。新涼の季節には9月1日の防災の日が重なるので、防災訓練のバケツリレーが自然と思い出されてくる。

およそ詩にならなそうな〈バケツリレー〉という言葉がこんなに詩的になるとは……と、美しさと可笑しさで印象に残った。

〈指が指に逢ふ〉の淡い恋情からは、学校の防災訓練が想起される。バケツの水をこぼさないように、しかも素早く受け取って手渡さなければならない中で、恋心を抱いている相手と隣同士になった。バケツを渡すたびに指が触れ合う……そんな場面だろう。〈バケツリレー〉という語のまったく美しくないリアルが情けなくて、〈指に逢う〉が眩しくて、情けなさと眩しさが同居する、いい青春俳句だなあと思う。

バケツの中には澄み渡った秋の水が湛えられていて、それも清々しい。



2017年9月2日土曜日

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2017年9月1日金曜日

●金曜日の川柳〔柴田夕起子〕樋口由紀子



樋口由紀子






難儀とは女優の庭に生える草

柴田夕起子 (しばた・ゆきこ)

夏の草取りほど嫌な仕事はない。暑くて汗はふきでるし、虫は寄ってくるし、おまけに雨が降らないから土は硬くて抜きにくい。それなのに人の苦労も知らないで、どんどんずんずん伸びる。草のどこにその生命力があるのかと思う。

女優の庭に限らず、どこの家でも庭の草は難儀である。「女優」とは作者自身のことだろう。なにをもって「女優」と言っているのかは深く詮索してはいけない。「だって、私は女優なのだから、草取りなんてしないのよ」とおどけているのだ。自分の家の庭の草がぼうぼうになって困っていることを洒落て、ふざけて言っている。「難儀」という言葉に可笑しみがあり、「女優」という言葉にユーモアを感じる。「杜人」(2017年刊)収録。

2017年8月31日木曜日

●栞



ストーブの熱気に動く栞の尾  田川飛旅子

枯庭や栞の分けるきのふけふ  笠井亞子〔*〕

指栞して春雷を聞きゐたり  藤木倶子

〔*〕http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/12/page.html

2017年8月29日火曜日

〔ためしがき〕 世界の可能性 福田若之

〔ためしがき〕
世界の可能性

福田若之


たとえば、僕の鼻には嗅ぎとることができないにしても、誰かにとって、群生する蓮の花は、それだけで何か満ち満ちるほどの甘い香りがするのだということ。そして、それが、あるとき、ふとしたきっかけで、言葉として僕のもとに差し出されることがあるのだということ。これは、僕にとって、世界の可能性そのものだ。

2017/8/13

2017年8月28日月曜日

●月曜日の一句〔瀬戸内寂聴〕相子智恵



相子智恵






もろ乳にほたる放たれし夜も杳く  瀬戸内寂聴

句集『ひとり』(深夜叢書社 2017.05)所収

濃厚な句だ。蚊帳の中を想像した。乳房のほの白さの上に、戯れに放たれた蛍の光。その光があれば夜であり、暗いことは想像されてくるので、じつは下五がなくても景は成立するのではある。が、やはり〈夜も杳く〉の感慨があってこその句だろう。

「杳(くら)い」という語は、「暗くてよくわからない」という意味の他に、「はるかに遠いさま、奥深く暗いさま」があるので、この情景が回想の彼方にあり、暗さの中に時間の厚みのようなものも重なってくる。それが一句をさらに物語性を強いものにしている。「杳(とお)い」と読む例もあるので、もしかしたらこの句の読みも「とおく」なのかもしれない。

このように情念の濃い句は、そういえば現代にはあまり見かけないように思う。美しい句だ。

2017年8月25日金曜日

●金曜日の川柳〔佐藤みさ子〕樋口由紀子



樋口由紀子






きかんこんなんくいきのなかの「ん」

佐藤みさ子 (さとう・みさこ) 1943~

「帰還困難区域」は福島原発事故で放射線量が非常に高く、帰ることができなくなった地域である。とても住めるところではない。そこで人々は原発事故以前ごくふつうの日常生活を送っていた。

「ん」は何を意味するのだろうか。「ん」はひらがなの最後の文字。五十音図やいろは歌には出ない仮名である。行き止まりである。「ん」は不条理の表明だろうか。あれほどの事故なのに誰も責任を問われない。

「ん」があろうとなかろうと実はどうでもいいのかもしれない。ただそう言って、きょとんとさせ、まぜっかえすことで「きかんこんなんくいき」が「在ること」を確認し、露わにしていくことが作者の願い(狙い)だったように思う。それは原発事故は何だったのかという問いかけであり、怒りである。「きかんこんなんくいき」と整理整頓して、取り纏めても済まないものがあることをあらためて思う。〈おわりだとわかっていたが帰宅する〉〈とりかえしのつかない猫をどこに置く〉〈「かけがえのない」のあとには何が来る〉 「MANO」20号(2017年刊)収録。

2017年8月24日木曜日

〔人名さん〕アントニオ猪木

〔人名さん〕
アントニオ猪木


2017年8月22日火曜日

〔ためしがき〕 第一句集の出版予定日について 福田若之

〔ためしがき〕
第一句集の出版予定日について

福田若之


子どものころ、8月31日というのは、夏休みが終わってしまう日だった。僕の机のうえには、終わらないドリル、白いままの絵日記。まるで世界が終わるような心持ちで迎えた、それが夏休みの終わりだった。

そうでなくとも、夏休みの終わりというのはなんだか切ない気持ちがつきまとうものだ。だから、『自生地』は8月31日に出版することにした。夏休みの終わりをわくわくしながら待つひとがひとりでも増えてくれたら、僕としてはとてもうれしい。

2017/8/4

2017年8月21日月曜日

●月曜日の一句〔花房あすか〕相子智恵



相子智恵






高画質の魚を見てをり桃齧る  花房あすか(就実高等学校)

第20回俳句甲子園 全国高等学校俳句選手権大会 入選作品より

〈高画質の魚〉は、ハイビジョン撮影された魚なのだろう。私は美しい熱帯魚を想像した。テレビはもちろん、パソコンのスクリーンセーバーや壁紙、店の雰囲気づくりのために流しておくデジタルサイネージ、果ては一面が液晶ディスプレイの冷蔵庫まで登場している現在、高画質の魚の映像は、そういえば見かけることが増えた。

掲句は、ぼーっと見ながら桃を齧っているので、自宅のテレビかスクリーンセーバーといったところか。画面の中の魚は美しいが、今ここにあるものではない。対して今ここで齧りついている実物の桃。その味や滴る果汁、匂い、産毛の手触り……。

実物と映像の対比を鮮やかに見せ、映像が現実に近づき、境目が薄くなっている現代生活の中にあるアンニュイな気分を感じさせる一句。

2017年8月19日土曜日

【新刊】福田若之句集『自生地』

【新刊】福田若之句集『自生地』

2017年8月18日金曜日

〔人名さん〕トーリン・オーケンシールド

〔人名さん〕
トーリン・オーケンシールド

トーリン・オーケンシールドの如き溽暑  登貴


『里』2017年8月号より。

2017年8月16日水曜日

●水曜日の一句〔黒澤麻生子〕関悦史


関悦史









弟は寮より寮へつばくらめ  黒澤麻生子


学生寮から社員寮へといったことなのか、寮を出た弟は実家へ帰っては来ない。

「兄弟は他人の始まり」という、その他人化が少し進んだ局面といえる。

当たり前のように一緒にいた家族も緩やかに拡散し、別居し、やがて不在の方が当然になって、あとは法事や介護問題でもなければ顔を合わせることもなくなってゆく。この弟も順調に行けばやがて結婚し、別に一家を構えることになるのかもしれない。

「つばくらめ」のイメージをその身に反映させつつ、「弟」は身軽にしなやかに飛ぶように寮から寮へ移ってゆく。この、一度実家に戻るという過程を経ない連続した転居は、地から足が離れたまま遠ざかっていくさまを思わせ、そこがなおさら「兄弟は他人の始まり」といった格言的な一般論になめされていく前の個別の「弟」の生身と、それにまつわる生々しいもの淋しさを感じさせる。

やがてそのもの淋しさも、毎年巣をかけに帰ってくる「つばくらめ」に寄せるのと大差ない、あたたかくも、遠い関心へと移り変わってゆく。

その変移のなかで、句中の「弟」は、あたかも「つばくらめ」に変身していくようでもある。

不吉なことではあるが、死者の魂が鳥の姿で帰るという神話的な想像のパターンを考えれば、この「弟」は「つばくらめ」の面影を帯びさせられることで、句の語り手の心中に、生身を超えた、別種の存在感を持つに至る、その過程にあるといえる。別れとはそうした変移を強いるものではある。


句集『金魚玉』(2017.8 ふらんす堂)所収。

2017年8月15日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉10 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉10

福田若之


眼というのは疲れるものだ。眼が抽象的なものとして論じられるときには、しばしば、そのことが忘れられている。カメラの眼は眼ではない。

  ●

てのひらを水に押し当てる。手が水に浸ってしまうまでのあいだは、水面が手のかたちにへこんでいる。

  ●

たしかに僕にはふたしかながらもろもろの臓器があるだろう。けれど、内面はないと思う。僕がこのことを思うのは、たぶん身体のはたらきだということになるだろう。ひとが精神とか魂とか呼ぶものは、要するに、身体のはたらきのひとつにすぎないと僕は考える。幽霊は、精神とはまた別のことだ。

2017/8/3

2017年8月14日月曜日

●月曜日の一句〔宮本佳世乃〕相子智恵



相子智恵






蚊が脚をつかひ隣にをりにけり  宮本佳世乃

「あこがれ」(同人誌「オルガン」10号 2017.summer)より

ふと、童話のように泣けてきそうになる句だ。

蚊はそういえば脚が長くて、飛んでいる時も歩いている時も脚が目立つ。〈脚をつかひ〉だから、歩いているのだろうか。〈隣にをりにけり〉だから、蚊を隣で見ている人は刺されていないのかもしれない。

刺したり、刺されまいとして手で叩いて潰したり……と対決する対象として、あるいは鬱陶しさや嫌なものとして蚊を従来通りに認識するのではなく、そのような概念を外して、〈隣にをりにけり〉という静かな、ただ文字通り隣にいる状態を描いている。人間と蚊が並列に描かれることで、動物と人間が同じ言葉でしゃべることも当たり前な、童話の世界のような雰囲気が私には感じられた。

見たままを描いているという意味では写生である。ただ写生というと、今までは対象そのものの姿を(例えばこの句でいえば蚊のみ)を見えるように描くことで、直接読者の脳裏にその対象が見えてくるというような手法だったように思う。

がここ数年、対象と見る者の間を描こうとする姿勢が、特に若手の俳句の中に定着してきたような気がする。物そのものではなく、目と物の“間”にあるもの(あるいはないもの)を捉えなおすことで、視界(と認識)が洗われてハッとするような。写生の新たなステージのような気もする。不勉強なので、それは昔から俳人が考えてきたことなのかもしれないのだが。

2017年8月12日土曜日

〔人名さん〕藤原鎌足

〔人名さん〕
藤原鎌足

セロファンに包まれてきた藤原鎌足  山口ろっぱ

白夜考:200字川柳小説 川合大祐


2017年8月9日水曜日

●水曜日の一句〔樫本由貴〕関悦史


関悦史









原爆ドームの奥を撮る子や苔の花  樫本由貴


報道写真などで目にすることが多いのは原爆ドームの外観、ことにその通称の由来となったドーム部分ばかりで、遺構のなかやその奥の光景というのは、現地に行かない限りなかなかはっきり見る機会はない。

この「子」も滅多に見る機会のない物件に近づき、位置を変えつつ、写真になりにくい構図のものまで何枚も撮ったのではないか。そのようにして、建物の、歴史の、災禍の奥へ奥へと引き込まれる子を、柔らかく、地表と肉体の次元に結びつけておく「苔の花」の慎ましい優しさが素晴らしい。

奥があれば覗き込みたくなる。この子の行動は、おそらくそれだけのありふれたアフォーダンスに則ったものでしかなく、それ以上の目的はない。現在残されている建築の奥をいくら覗き、撮ったところで、原爆炸裂時の模様がわかるわけではない。この子はべつに原爆という未曽有の大規模な蛮行の表象不可能性に迫るべく、カメラを奥に向けているわけではないのだ。そもそも奥には何もない。後でネットに上げるネタとしか思っていないかもしれない。だがそこに厳然と残る現物、建築物件の力は、たしかに何十年か前、ここを原爆の爆風が吹き抜けたのだということを想像させずにはおかない。

そうしたこの子の意識、無意識に起こっているさまざまな波立ちを、句の語り手は後ろから眺め、ともに感じ取っている。この子を、安全な現在の地表という場に引きとめる静かな「苔の花」は、この語り手の化身のようでもある。


「週刊俳句」第537号(2017年8月6日)掲載。

2017年8月8日火曜日

〔ためしがき〕 批評の不要性 福田若之

〔ためしがき〕
批評の不要性

福田若之


2017年7月24日付の『朝日新聞』の11面に掲載された大辻隆弘の短歌時評、「歌会こわい」を読んだ。短歌欄と俳句欄のちょうどあいだに載るので、おのずと目にとまるのである。

「歌会こわい」がとりあつかっているツイッター上での出来事についてはよく知らないし、いまとなってはその全容を把握することも困難だろう。それに、「「歌会こわい」という声の背景には、短歌をコミュニケーションの手段だと考える人々の増大がある。そこではもはや他者の批評は不要だ。自己満足さえあればいい」という一節などは、そもそも筋が通っていないように思うし(短歌がほんとうに「コミュニケーションの手段」として求められているなら「自己満足さえあればいい」はずがない。したがって、すくなくともどちらかの記述は正確ではないはずだ)、実情を知るという意味ではこの記事はあまり役に立ちそうもない。だから、僕は、その出来事については、とくに訳知り顔で何か語ってみせるつもりもない。

だが、短歌欄と俳句欄のあいだに「批評は怖い。が、作品をそこにさらすことでしか文学は成立しない」と書かれているのを見ると、この末尾の一節についてだけは、どうにもよそごとでは済まないように思われてくる。「短歌は」ではなく、「文学は」と書かれているのだ。「歌会こわい」における「批評」や「文学」という言葉は、たとえば、「批評」とは歌会における意見交換のみを意味し、「文学」とは短歌における文学のみを意味するというように、もしかするとひどく限定された意味で用いられているのかもしれないが、そうした断りがない以上、僕には、この一節はもっと広い範囲を射程に入れた警句であるように思われてならない。なるほど短歌は書かないが、俳句を書き、句評や句集評にも手をつけている僕にとって、どうにも気にかかるのはこの一節なのである。

作品を批評にさらすことでしか文学は成立しないというのは本当だろうか。僕にとって興味深いのは、そうした言葉が新聞の短歌時評に書きこまれているということだ。そのことは、たとえば、蓮實重彥『『ボヴァリー夫人』論』(筑摩書房、2014年)のこんな一節を思いおこさせる。
あらゆるテクストはテクストを誘発するといういまではごく当然と思われがちな現象は、『ボヴァリー夫人』の書かれた十九世紀中葉のフランスでは、折から隆盛しつつあるジャーナリズムの要請により、新聞の文芸欄に掲載される時評として、文化的な商品の売れ行きを左右するという経済的な利害を惹起しつつ、理論とはいっさい無縁に一般化されたものにすぎない。それは、歴史的には未知の、当時としてはまったく目新しい文化現象だったといってよい。その「新しさ」は、多くの人が、「テクストをめぐるテクスト」を読んでから、そこで対象とされていた当の書物におもむろに目を向ける――あるいは向けずにおく――という文学的な「倒錯」を、ごく自然な事態でもあるかのように社会に定着させたことにある。それが「倒錯」たらざるをえないのは、読まずにおくために読む、あるいは読んだから読まずにおくという無意識の集団的な振る舞いが、あたかもその作品を自分が知っているかのごとき錯覚をあおりたて、その奇態な性癖が知らぬ間にあたりに蔓延し、それがごく自然なこととして社会に受け入れられてしまったからである。
もちろん、これがさしあたりあくまでもフランスに特有の事情として語られている点には注意が必要だが、作品を批評にさらすことでしか文学は成立しないという認識は、そもそも、一語で〈新聞‐の‐文芸‐欄的〉とでもいうべき錯覚にすぎないのではないか、ということは考えてみてもよいように思う。批評というのは、本来は作品にとって必要ないはずの代物ではなかったか。文学の成立のために作品が批評に自らをさらさなければならないというのは本当か、本当だとしたらそれはなぜか。ひとたびこう問いかけてみれば、書かれたテクストについて何らかの批評がなされるということを理論的に正当化することは――その批評が口頭のものであれ書かれたものであれ――不可能であるように思われる。もちろん、このためしがきもまた、そうしたことの例外ではない。

たしかに、歴史的な状況は、文芸時評の存在を前提とした読者の文学的な「倒錯」からの自由を文学にたやすく許してくれるわけではない。『『ボヴァリー夫人』論』にはこう書かれている。
それに深く影響されるか否かにはかかわりなく、名高い批評家が新聞や雑誌向けに執筆する文芸時評の存在を前提とするしかなかったのが、「近代」における読者の身にまとう歴史性にほかならない。あるいは、「テクストをめぐるテクスト」が誘発しがちな文学的な「倒錯」と同時に生まれるしかなかった不幸な存在が、読者なのだといいかえてもよい。文学は、いまなおこの「倒錯」から充分に自由たりえてはいない。
文学が「テクストをめぐるテクスト」ぬきには成立しえないという神話の歴史的な発生とその共有をぬきにしては「近代」の読者は存在しえなかったし、文学はこの神話のもとに成立する「倒錯」からいまだ充分に自由たりえてはいない。したがって、「歌会こわい」に示されている、作品を批評にさらすことなしに文学は成立しないという主張もまた、まさしく今日的な状況を物語る言葉として読むかぎりにおいては、おそらくある程度まで正しいのだろう(けれど、それはまったくもって「不幸」なことではないのか)。しかし、そもそも、作品は、その書き手や読み手がどう思っているかにかかわりなく、「テクストをめぐるテクスト」など決して必要としてはいない。他人の作品を批評するという行為には、いかなる理論的な正当性も与えられてはいないのだ。

批評は、歴史的な状況をとりあえずの背景として、いわばなしくずし的に成立してしまっているにすぎない。批評は、それゆえ、いつでもそれがめぐろうとする作品から突き放されてあるほかはない。したがって、批評の担い手が作品を怖がるというのならともかく、作品の担い手が批評を怖がらなければならない筋合いなどどこにもない。批評に作品をさらすことでしか文学が成立しえないという認識は、おそらく「近代」に生じた集団的な錯覚にすぎない(たとえば、今年の5月6日に開催されたイベント「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」では、川柳というジャンルのありようが「近代」の文学にまつわる諸前提とはおよそ異なる前提をもつものであるということがくりかえし指摘されていたように記憶しているが、その場で開かれた川柳の句会には、選はあっても批評はなかった)。

だから、僕としては、半ば備忘録的に、次のことをここに書いておきたいと思う――作品は怖い。が、さらなる言葉をそこにさらすことでしか批評は成立しない。ただし、批評の成立は、決して作品の期待するところではないのである。
2017/7/24

2017年8月7日月曜日

●月曜日の一句〔対馬康子〕相子智恵



相子智恵






病む夜の百合の重さを一人吸う  対馬康子

「草いきれ」(「俳句」2017.8月号 角川文化振興財団)より

誰かからお見舞いで手渡された百合の花か、あるいは自分で飾ったのかもしれないが、昼間は一人ではなく、誰かといたのだろう。〈一人吸う〉には、言外にそのような一日を想像させる。

夜、ベッドに横たわっている病気の私に、百合の強い香りが部屋中に満ちている。〈百合の重さを一人吸う〉にハッとする。ここに描かれているのは、百合の香りの重さなのである。香りに重さがあるとするなら、百合の香りは確かに重い。

香りの重さが病むことに重なって、欝々とした気分をもたらしている。ただ、それだけではなく、や行の音の繰り返しの幽玄な響きによって、詩的な美しさが感じられてくる句である。

2017年8月5日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】チヤホヤの科学 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
チヤホヤの科学

西原天気



チヤホヤという腹の足しにもならないものにこだわる人が、俳句世間には少なからずいらっしゃるようです。

それだけなら、世の中にはいろいろな人がいる、で済むのですが、チヤホヤ願望がヘンな方向に進展するケースがある。

phase 1 チヤホヤされたい
:まあ正常の範囲。健康という言い方もできるかもしれない。

phase 2 あの人がチヤホヤされて自分がチヤホヤされないのは不当だ
:ルサンチマン入っちゃって、かなりアブナイ。

phase 3 チヤホヤされているあの人も、チヤホヤしている奴らも、最低だ
:病気。

こうした過程は、句会後の酒席やSNSで人の目に触れたりもする。見ている・聞いているほうとしては不快で、遭遇しちゃうと、俳句世間、あるいは俳句からますます気持ちが遠のいたりもします。

対処法は無視。放っておくしかないのですが、これ、ひとつには、「人」にフォーカスしすぎているのではないか。

チヤホヤは、人じゃなく、句や連作や句集に向ければいい。というか、向けるべき。

私たちは俳句愛好者であって、俳人愛好者ではない。

誰かをさかんに持ち上げる人がいたとして、じゃあその誰かにどんな句があるのか? そう訊かれて、ろくに答えられないというケースはないか(ありそう)。

人付き合いは楽しいものですが、俳句そっちのけで、俳人同士の交流に勤しみ、サロンやら俳壇やらをかたちづくり、サロン的言説に終始するというのも、なんだかなあ、です。

2017年8月4日金曜日

●金曜日の川柳〔妹尾凛〕樋口由紀子



樋口由紀子






満ちてきて豆腐のようなものになる

妹尾凛 (せのお・りん) 1958~

「満ちてきて」も「豆腐のようなもの」も具体的に何かとはつかめない。どちらも心象風景だろう。作者の裡にある空間にじわっ~と甦ってくるような、あるいはやわらかく埋めていくようなもので、はっきりと意識していなかったこと、あるいは言葉にできなかった感覚が「豆腐のようなもの」として輪郭をつかまえたのだ。その感覚は普段はなかなか捉えることができない。そうたびたびやってきてはくれない。だから、「満ちてきて」なのだろう。

それはなにかに役立つような、りっぱなものではないように思う。悟るとか、賢くなるとか、美しくなるとか、一般的な価値基準とは別次元の、共感ベースでは割り切れない名誉の屈折感とでも言おうか、でも、まさしく「私」を実感できる。「豆腐のようなもの」は作者にとっては独自の、至福の感覚なのではないだろうか。「うみの会」(2017年)。

2017年8月3日木曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


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2017年8月2日水曜日

●水曜日の一句〔金子敦〕関悦史


関悦史









色白の子が日焼子に言ひ返す  金子敦


子供同士の言い争いというそれ自体としては珍しくもない光景が、どこかしら地上の世俗性を離れたそれに見える。

句の見どころとしては、ふだん野外で活発に遊んでいるらしい「日焼子」を、文弱そうな「色白の子」が押し返し、対等にやりあいだした瞬間の意外性がまず考えられているはずだ。

しかしそれが場面の意外性だけで終わっているわけではなく、「色白の子」じつは強気という転換が、瞬時に変身でも遂げたかのように鮮やかで、しかも両者が肌の焼け具合のみによって区別され、張り合っている分、皮膚(ヴァレリーはそれを最も深いものと呼んだという)の輝かしさに、両者の人格的内実とでもいうべきものが一体化して輝きあっている風情となるからである。「色白」とはいえど青白い不健康なうらなりではない。

言い返している場面の緊張、張り、照りが、そのまま皮膚と声という形で現れた官能と生命感そのものとして句に漲り、単に「日焼け」が夏の季語だからというだけではない、夏のまぶしさが一句を満たしている。


句集『音符』(2017.5 ふらんす堂)所収。

2017年8月1日火曜日

〔ためしがき〕 いましか書けないもの 福田若之

〔ためしがき〕
いましか書けないもの

福田若之

「いましか書けないものを」、とよく言われる。誰かが高校生であったり、新婚であったり、長女なり長男なりが生まれたばかりであったりすると、「いましか書けないもの」を書くことが推奨される。

だが、このような意味での「いましか書けないもの」とは、実際のところ、そのときそのひとにしか書けないものではない。それは、こういう意味で「いましか書けないもの」といわれるとき、ひとは、「いま」ということを、「そのひとが高校生であるいま」とか、「そのひとが新婚であるいま」といった特殊性においてしか把握していないからだ。そのせいで、高校生でありさえすればいまでなくてもそのひとでなくても書けるものや、新婚でありさえすればいまでなくてもそのひとでなくても書けるものが、あたかも「いましか書けないもの」であるかのように錯覚されているのである。

だが、いましか書けないものというものがあるとすれば、それは非記号的なかけがえのなさにかかわるものであるはずだ。記号は反復しうるものの反復においてこそ捉えられるものである。記号の本性は反復にある。それに対して、いましか書けないものの本性は反復しえないということにあるのでなければならない。たしかに、いましか書けないものを書くために何らかの記号を使うことがありうるけれども、そのとき、ひとは決してそれを記号のもつ記号としての性質にもとづいて書くわけではない。

「いま」とは時間のなかでのかけがえのなさにかかわる語である。「いま」とどれだけ繰り返したとしても、ひとは、引用をぬきにしては、二度とたったひとつのこのときを指し示すことはできない(《長男叫ぶ「今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!」》(山田露結)において、叫ばれる「今っ!」は差延している)。「いま」という言葉こそが、まさしくいましか書けないものなのである。もちろん、「いま」という言葉を書くだけでなにか価値が生まれるなどといいたいのではない。いましか書けないものは、べつに、それだけでは何の価値もない。そこにあるのは、ただかけがえのなさだけである。だが、このかけがえのなさを忘れてはならない。というのも、書くということは、それ自体が、このかけがえのなさによってはじめて可能になることがらなのである。

2017/7/22

2017年7月28日金曜日

●金曜日の川柳〔三上玉夫〕樋口由紀子



樋口由紀子






いつだって客を待たせるカエル売り

三上玉夫

「カエル売り」って、そのような商いが実際にあるのだろうか。検索したがわからなかった。あるかないかわからない商売なのに、「カエル売り」は客待たすだろうと確信した。

「カエル売り」はきっとカエル問屋から仕入れるのではなく、客の要望があってから、店主自らがカエルを捕まえてくるのだろう。店で飼っていたら弱ってしまう。元気なカエルをその都度、裏の田畑や川に行って捕まる。カエルの種類は多く、すばしこい。客の要望通りのカエルはなかなか見つからない。だから、客の方も最初から待つのは了承済みなのだ。なんとものんびりした商いだ。「カエル売り」を勝手に想像して、楽しんだ。「おかじょうき」(2013年刊)収録。

2017年7月26日水曜日

●水曜日の一句〔折勝家鴨〕関悦史


関悦史









梅白し死者のログインパスワード  折勝家鴨


ネットでときどきネタになっているのを見かけるが、自分の死後、パソコンの中味を見られたくないという人はかなりの割合いるはずで、その場合、パソコンの中身は自分の嗜好や性癖にまつわる恥ずかしいあれやこれやということになるはずなのだが、この句の場合、「梅白し」と、死者を悼むにふさわしい季語が合わせられていて、そういった軽躁感にはつながらない。

それ以前にこれがパソコンのログインパスワードであるとは限らない。iPadや、ネット銀行の類である可能性もある。

さらに「死者」という漠然とした語彙があえて選ばれていて、「亡母」「亡父」「亡き子」「亡き友」といった語り手との関係を窺わせる要素がここにはない。

関係が明示されない漠然とした「死者」、その「死者」に合わせるに「梅白し」という過不足のなさ。最大公約数的な語彙ばかりが選ばれ、一種の抽象化を被った句である。

そして当のログインパスワード自体も、どういう性質の言葉が選ばれていたのかは全く明かされない。好きな人や好きな作品の類であったのか、それともどこから拾ってきたのか故人とのつながりが見当もつかない謎の単語であったのか。その上に、そのログインパスワードが明かされて目の前にあるのか、それとも判明せず遺族はログインできないままになっているのかも定かでない。

それら全ての違いを無化してしまい、その上に、人の生死とログインパスワードが直結する現在の世界、及びそのなかでの「ログインパスワード」だけを抽出したのが、この句なのである。抽象化し、脱色の限りを尽くしているので、「白し」は動かしがたいだろうし、「梅」でも咲いていなければひどく無機的な抽象となっていただろう。写実における手抜きや、通俗的感傷への埋没と紙一重の抽象ぶりで描かれた句を、最終的に梅の白さが覆いつくす。この抽象と植物的生命感との茫漠たる融合はオキーフの絵画に一脈通じる。


句集『ログインパスワード』(2017.4 ふらんす堂)所収。

2017年7月25日火曜日

〔ためしがき〕 季と季題についての試論  福田若之

〔ためしがき〕
季と季題についての試論

福田若之


季語といい、季題という。かつて、僕は季語という語を季題という語よりも好んだ。それは、俳句は原則として言語をその素材とすると信じていたかつての僕の、じつに形式主義的な考えにかかわってのことだった。当時の僕にとって、季語は俳句の素材の一部であり、したがって、それはたしかに語であると考えられたのだ。

しかしながら、語というと、それは通常、意味するものとして理解される。たとえば、団扇が夏を意味する、といった具合に。 しかしながら、このことが、いまや僕には疑わしく思われてならない。それは、季ということを考えるに至ってのことだった。

夏はくりかえされるが、この夏はくりかえされない。季とは体感される差異と反復の真理そのものである。季は、自ら差延することを通じて、ほかのあらゆるものを差延のもとで思考するようにうながす。たとえば、《夏はあるかつてあつたといふごとく》(小津夜景)の「ごとく」に着目することで、こうしたことは理解されるだろう。そして、このように考えるとき、たとえば、ある句において団扇という言葉が用いられるとき、それが季とかかわりを持つのは、概念としての夏一般を意味することによってというよりは、むしろ、たったひとつのある夏を指し示そうとすることによってであるように思われる。

すると、季語という言い方がはなはだ不充分であるように思われてくる。季語というと、あたかも、季を意味する言葉であるかのようだが、実際には、季語はそうした言葉として働いているわけではないのだ。団扇という言葉は、その意味するところとは別に、そのつど、たったひとつのある夏を指し示そうとすることによって、季とかかわりをもつのである。

僕たちは、季題という語における題という字の意味を、主題すなわちテーマという意味で理解することに慣らされてきたように思う。それは句の主題としての「季のもの」(虛子)だというわけだ。 しかし、そうではなく、この題という字を、表題すなわちタイトルという意味で捉えかえすことはできないだろうか。表題とは、一般に、何か固有のものを指し示すために掲げられるものである。僕は、この意味で、季題という語を用いたい。季題とは、くりかえされることのないある固有の時間を指し示そうとする題としての言葉なのである。時間を指し示そうとするという点で、それは時計に似ている。

しかし、固有の夏を指し示そうとすることが、すなわち、季を指し示すことであるのかといえば、そうではない。固有の夏を指し示そうとすることは、あくまでも、季とかかわりをもつことにとどまる。季は直接に指し示すことができるものではなく、むしろ、僕たちの指し示そうとする行為をつうじて、その前提として遡及的に把握されるのである。

季題と季のこうしたかかわりは、もしかすると、法と正義のかかわりに似ているところがあるかもしれない。法は、正義の存在を前提としつつ、自らを正義にかなうものとして提示し、自らの力によってまさしく正義をこそ現前させようとするのだが、それにもかかわらず、そしてそれゆえに、決して正義そのものには到達しえない。季題は、季の存在を前提としつつ、自らを季にかなうものとして提示し、自らの力によってまさしく季をこそ現前させようとするのだが、それにもかかわらず、そしてそれゆえに、決して季そのものには到達しえないのである。だが、季の存在は、正義の存在と同様に、ただ信じられるものであるのみにとどまらず、確かなものとして感じとられる性質のものである。この意味において、おそらく、季とは不可能なものの経験なのである。

無季俳句と季のかかわりについても、ここから理解される。正義へ向けた歩みが必ずしも法的なものでないのと同じように、季へ向けた歩みはかならずしも季題によってのみなされるわけではない。無季俳句もまた、季とのかかわりを持ちうるのである(ただし、ここで季を正義に喩えることは、季こそが正義であるとか、ましてや、それ以外は俳句の正義に反するとかいうことを示唆するものではいささかもないという点には注意してほしい。無季俳句においても季とのかかわりこそが唯一重要なことがらであるというような考えは、おそらく妥当ではない。とはいえ、書くことは体感される差異と反復の真理なしにはありえないだろう。その限りで、ひとがそれを重要と考えるかどうかにかかわらず、書かれる俳句は季とかかわりをもたざるをえないように思われる)。

ところで、この法と正義のメタファーは、もうひとつ重要なことを示唆している。すなわち、歳時記ないしは季寄せと呼ばれるものは、しばしば、俳句を読み書きするうえでの法にあたるものと考えられがちであるが、実際にはそうではなく、むしろ、それぞれの法ごとに項目立てされた判例集にあたるものなのだ。歳時記における季題の解説と例句は、季題の解釈と運用の実例にほかならない。法そのものと個別の判例とを取り違えることは、法を運用するうえできわめて危険なことであるはずだ。歳時記によって知ることができるのは、あくまでも、季題の解釈と運用の歴史にすぎない。

2017/7/21