2017年12月31日日曜日

■2018年 新年詠 大募集

2018年 新年詠 大募集

『週刊俳句』にて新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールをお添えください。
※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2017年11日(月)0:00~15日(金) 24:00

※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html

2017年12月30日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】『俳句年鑑2018年度版』をめぐるざわつき 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
『俳句年鑑2018年度版』をめぐるざわつき

西原天気


『俳句年鑑』を読む、ということを、むかし『週刊俳句』でやったことがあります。上田信治との対話形式。

『俳句年鑑2008年版』を読む
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/12/20081.html
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/12/20082.html
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/12/20083.html

『俳句年鑑2009年版』を読む
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/12/2009.html

もう10年前なんですね。

これ以降、記事がないのは、あるとき、ベテラン女流俳人から、「あんなもの、読んで、なんになるの?」というカジュアルな感想をいただいたことがきっかけです。「そういえば、不毛かも」と、私は真摯に受け止めて、それで、もうやらなくなったわけです。「住所録として便利」以上の意味は、少なくとも批評という点では、ない。そういう判断。実際には、取り上げて意義のある「巻頭提言」もあったように思うのですが、とにかく、信治さんと私とではやらなくなった。

それはそれとして、このところ、SNS等でほんのちょっとだけざわついていましてね、それは『俳句年鑑2018年版』の「40代・男性俳人」の項(櫂未知子)をめぐって。

ざわつきの要旨は、数名の作家が「わからない」で片付けられていること。

でもね、わからないものはわからないわけですし、書き手の櫂未知子氏も、
さんざん調べた、読んだ。でもわからない。私には氏の作品を論ずる資格がないようだ。(田島健一に関する箇所)
と書いている。「資格がない」と潔く認めています。

問題は、わからないとしか書きようのない作家を、「論ずる資格」のない書き手が取り上げねばならないという、その事情です。

書き手(櫂)にとって誠実な態度とは、一連の「わからない」作家を取り上げないことです。

ところが、そうも行かない。世代ごとの主要作家の顔ぶれがなんとなく決まっているから。

このことのほうが問題、という捉え方もできそうですよ。


取り上げる作家の陣容とそれぞれの発表句は、編集部から手渡されるらしい(伝聞です。書き手自身が資料を集めることもするのだろう)。

世代別の記事で取り上げられる作家の陣容は、書き手が変われば変わっていくのが自然かもしれない。ところが、そうはならない。

こうして「俳壇」(カギ括弧付き)が固定化されていく。

「わからない」で片付ける書き手・櫂未知子の書きぶりにざわつく以前に、それによって垣間見られる「俳壇」の固定化、俳句情況の退屈な生態(静態)をこそ、語らなければならないのではないですか。

「あんなもの、読んで、なんになるの?」という10年近く前の助言は正しかったのかもしれないなあ、と振り返りつつ、今年もあとわずか。

みなさま、良い年をお迎えください。


2017年12月29日金曜日

●金曜日の川柳〔水本石華〕樋口由紀子



樋口由紀子






消音器付きの鐘売って来いってか

水本石華 (みずもと・せっか) 1949~

我が家は寺だから、身に堪える一句である。除夜の鐘の音がうるさいと苦情が来る世の中になった。みんな、イライラしている。みんな、疲弊している。みんな、ぎりぎりなんだと思う。

寺側からなら「消音器付きの鐘」を「買って来いってか」とぼやいてしまいそうだが、それではあまりにストレートすぎて、身も蓋もない。「売って来いってか」で場面が変り、愛嬌が出た。そんな商魂もありだろう。苦情を言うのも言われるのも、商魂たくましいのも商魂にのせられるのも、人間の可笑しみである。正面からではなく、側面からの批評性と創造性。世相を把握している。〈米研けば春の小川が濁るだけ〉。来年こそはすべての人が寛容に暮らせる世の中でありますように。「杜人」(2017年刊)収録。

2017年12月27日水曜日

●蒲団干す

蒲団干す

帆をあぐるごとく布団を干す秋日  皆吉 司

干蒲団うすむらさきに沖はあり  菅原鬨也

他所者のきれいな布団干してある  行方克巳

名山に正面ありぬ干蒲団  小川軽舟

ビルに住みコンクリートに布団干す  岸本尚毅〔*〕


〔*〕『俳句界』2018年1月号

2017年12月26日火曜日

〔ためしがき〕 数えていた 福田若之

〔ためしがき〕
数えていた

福田若之


電車の窓越しに風景を見ながら、ふと、自分が無意識のうちに何かの数を数えはじめているらしいことに気づく。

頭のなかで数が自動的に増えていくので、景色を眺めながら自分が何の数を数えているのか確かめてみると、それは視野に入った架線の支柱の数だった。そんなものを数えたからといって特に意味はないはずなのだが、気がつくとそれを数えていた。

書いていて嘘みたいだけれど、昨日あったほんとうの話だ。

2017/12/19

2017年12月25日月曜日

●月曜日の一句〔上田信治〕相子智恵



相子智恵






公園の冬温かし明日世界は  上田信治

句集『リボン』(邑書林 2017.12)所収

「クリスマスだな」と思いつつ、出勤するためにドアを開けた瞬間、昨日に比べて今日の東京はずいぶんと暖かくて、ちょっと拍子抜けしながらマフラーを外した。掲句がふわっと響いた。

〈明日世界は〉という言葉には何が続くのだろうと考えると、どうしても暗いイメージが湧いてくる。ルターの「明日世界が滅ぶとしても、私はリンゴの木を植える」という人口に膾炙した言葉のように、ポジティブなことはほんの一足ずつしか進められないのに、壊すのは一瞬であって、いきなり投入された「明日」という限定性と「世界」の大きさに、どうしても“破壊までの瀬戸際感”が感じられてくるからだ。

けれどもそこに至るまでの、あまりにもありふれた「公園」という場所が思いのほか「冬温し」な状態というのはちょっと嬉しくて、〈明日世界は〉という大がかりな言葉にまで、その何気ない日常の嬉しさがうまく及んでいく。不穏で平穏、日常で非日常。ゆるゆるとした不思議な味わいのある句だ。暖かくて拍子抜けするクリスマスの朝のように、ちょっと気の抜けたハッピーな明日が、世界中に来るといいと思った。

メリークリスマス。

2017年12月24日日曜日

2017年12月22日金曜日

●金曜日の川柳〔森雄岳〕樋口由紀子



樋口由紀子






虐待された列に煮崩れたジャガイモ

森雄岳 (もり・ゆうがく)

もうすぐ一年が終わる。だんだんと生きにくい、怖い世の中になってきた。掲句もどきっとして、どうしようもないやりきれなさを感じた。「虐待」は今もどこかで行われている。そんな現実を直視している。

「煮崩れたジャガイモ」は箸でつかめない。あとかたもなく、元に戻れない。「煮崩れたジャガイモ」が目に浮かび、不安の正体のようでやるせなくなる。「列に」の「に」を省いて中七にすることも可能だが、あえて「に」をつけることによって、強く視点を押えている。言葉を洗練さす方に向かうのではなく、実在感を出し、現実をひとつの根拠にしている。どのような目で社会を見ているのか。川柳が忘れかけていたものがある。「川柳杜人創刊70周年記念句会・山河舞句追悼句会」収録。

2017年12月21日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将







命なりわづかの笠の下涼み 芭蕉

『芭蕉全句集』(桜風社)によると、『竹人本全伝』貞享元年の条に「其十三年前初下りさ夜の中山にて」と端書されているから、前回の「山のすがた蚤が茶臼の覆かな」と同じく、延宝四年の作と推定される。

前書きに「佐夜中山にて」とある。静岡県掛川市に位置する峠のことである。旅吟、いや、江戸から帰郷する際の句である。東京・静岡・三重の距離を考えると、旅程の半分も到達していない。「命なり」は、西行法師がこの地で歌った「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」(『新古今和歌集』)をふまえている。「命なりけり」は「命あってのことだ」という意味。

「佐夜」といっても、掲句は「笠の下涼み」なので、昼の景である。「命なり」は自分の命のことを言っており、木陰も何もないまま、笠の下のみの影で自分を癒し、黙々と歩んでいる。前書きと合わせると、自身の身の回りの空間しか描いていないのにも関わらず、芭蕉の目線の奥の風景を楽しむことができる。

お笑い芸人が人文字で漢字を表現することもなく、命の炎は、詠み続けることで旅の間も煌めき続けるのである。

2017年12月19日火曜日

〔ためしがき〕 意味することの演劇、ということ 福田若之

〔ためしがき〕
意味することの演劇、ということ

福田若之


前回のためしがきに、意味することの演劇、ということを書いた。なぜ「演劇」なのか。まずは、そのことについて、ためしに簡単に書いてみることにする。

エリック・ベントリーは、『ドラマの生命』The Life of the Dramaにおいて、「演劇的状況とは、それを最低限のものにまで切り詰めるなら、すなわちAがBの役を演じるところをCが観るというものである」("The theatrical situation, reduced to a minimum, is that A impersonates B while C looks on.")としている。「意味することの演劇」という喩えは、演劇についてのこうした通念を念頭においたものだった。

ベントリーの記述はしばしば演劇の「定義」とみなされるものだが、僕としては、やはりこの一文をそうしたものとして扱うことは避けたいと思う。それでも、こうした言葉が教えてくれることがひとつある。それは、演劇という形式がそれほどまでに観客を必要としてきたという歴史的な事実だ。「意味することの演劇」という喩えにおいて重要なことは、意味するということをその品詞が示唆するとおり何らかの出来事として捉えるということや、意味することを表象することに結びつけるということだけではない。経験的に、意味するということがそれを観る第三者の存在を必要としているように思われるということが、それらに劣らず重要なことだった。

基本的には意味しないはずの物たちが、それを感じとるひとの前で、意味するもの(シニフィアン)の役を、与えられたものとして演じる。ひとは、こうした状況のうちにあって、基本的には意味しないはずの物を、あたかも意味するものであるかのように捉える。すなわち、たとえば、紙に特定のかたちで染みついたインクという物を、何らかのことがらを意味する文字列として読みなすのである。

とはいえ、いったいどういう契機において、基本的には意味しないはずの物たちが、意味するものの役を演じるということが可能になるのか。要するに、意味することのチャンスとはいかなるものであるのか。

それは、少なくとも、観る者の側だけからでは説明することができない。たとえば、仮に、意味しないはずの物たちが意味するのは、観る者がそれを欲望するからだとしてみよう。すると、ただちに、その欲望はいったいどこから湧くのかという問いが浮上する。基本的には意味しないはずの物たちからなる世界には、純然たるシニフィアン、すなわち、本来的に何かを意味する宿命にあるものは存在しないはずだ。ならば、ひとは基本的には意味しないはずの物たちにどこまでもとりまかれながら、意味するという出来事が基本的にはいっさい起こらないはずのところで、いつどうしてこの出来事を欲望することになるというのか。この仮説では、それについて、何の答えも用意されていない。欲望を、たとえば直観なり解釈なりに置き換えたとしても、同じことだ。

だが、いま、この問いにこれ以上深入りすることはやめておきたい。そもそも、意味という名詞による考えも、意味するという動詞による考えも、結局は現実にあてがわれた一面的な見方にすぎなかったはずだ。現実について言える確かなことがあるとすれば、論理的にはこれらの考えは互いに相容れないように思われるにもかかわらず、経験的にはその両方を同時に信じうるということだけだ。要するに、どちらか一方が正しいとは言えないのだから、大事なのは、一方を正しいとした場合に考えられることよりはむしろ、この矛盾する考えが両立してしまうということそれ自体をもとにして考えられることだ。

もしかすると、物理学が量子について語る場合と同じようにして、意味について語る必要があるのかもしれない。量子は、おそらく、現に波動であるわけでもなければ、現に粒子であるわけでもなく、ましてや現に波動であり/粒子であるわけでもなくて、強いて言うなら、ただ量子であるにすぎないと言うべきなのだろうが、物理学は、必要に応じて、あるときは波動を扱うのと同じ仕方で、あるときは粒子を扱うのと同じ仕方で量子を扱うことで、量子のふるまいについてうまく説明することができる。

思うに、意味についての当座の問題は、むしろ、どうなっているのかおそらく正確には語りえないだろう現実を、それでも、まるで異なる二つの便宜的な説明のどちらもを同時に信じうるということをてがかりに、いったいどう生きるか、ということではないだろうか。言い換えれば、現実を構想することではなく、また、現実を意味することでもなく、まずは感じとることが問題なのではないだろうか。

たとえば、意味をある特定のかたちに組織することによってその中心にはじめて浮き彫りになる非意味を通じて、意味するものと信じられたそれらが実のところ基本的には意味しないはずの物たちであることを再認できるようにすること。二通りの便宜的な説明のあからさまな矛盾を生きるこうしたいとなみを具体化することによって、ひとはかろうじて現実を感じとることができるはずだ。たとえば、句を読み書きすることは、きっとそのようにして、おそらく正確には語りえない現実を感じとることにかかわりうるのである。

2017/12/18

2017年12月18日月曜日

●月曜日の一句〔友岡子郷〕相子智恵



相子智恵






雄ごころは檣(ほばしら)のごと暮れ易し  友岡子郷

句集『海の音』(朔出版 2017.09)所収

〈雄ごころ〉という万葉以来の言葉や〈檣(ほばしら)〉など、言葉の調べが美しく、格調が高い。

勇壮な雄々しい心は、まるで船のマストのようだという。いかにも男性的な象徴性のある中七までの力強さは、しかし冬の日が早々に暮れていく〈暮れ易し〉で、すっと哀愁に変わる。出だしが雄々しいからこそ、〈暮れ易し〉に回収されたときの寂しさが際立つ。

「ごとし」の句というのは観念の句ということになるだろうが、この句は〈檣〉と〈暮れ易し〉によって、冬の海辺の日暮れが脳裏に浮かんできて、「ごとし」の句でありながら風景句として、もの寂しい映像がくっきりと浮かんでくるのがとても美しい。

〈雄ごころ〉からの冬の夕暮れ、その残照。それはまるで老いのもつ透明な静けさや余韻のようでもある。

2017年12月15日金曜日

●金曜日の川柳〔須崎豆秋〕樋口由紀子



樋口由紀子






長靴の中で一ぴき蚊が暮し

須崎豆秋 (すざき・とうしゅう) 1892~1961

一気に寒くなった。こんなに寒いのに先日台所に蚊が一ぴき弱弱しく、けなげに飛んでいた。どうするつもりなのだろうと思った。掲句も長靴に蚊がいるなんて思わなかったのだろう。長靴を履こうと足をいれようとしたら、一ぴきの蚊が飛び出してきた。その驚きが一句になった。「一ぴき」という限定がいい。

「長靴」もいい。蚊がいそうなところを思い浮かべると水たまりとか茂みとかだが、長靴は言われてはじめて、確かに蚊がいそうだと思った。すぐ思い浮かぶ、あたりまえのところだとおもしろくない。かといって、ありえない、とんでもないところだとリアリティがなく、絵空事になってしまう。そのちょうどいいポイントが「長靴」のような気がする。「暮し」もいい。蚊にあたたかいまなざし感じる。モノとの距離の取り方がうまい。

2017年12月12日火曜日

〔ためしがき〕 意味は存在するか 福田若之

〔ためしがき〕
意味は存在するか

福田若之


意味、という名詞を認めることによって、仮にその存在を確かなものだとしてみよう。意味が、ときによって、あるいは、ところによって、あったり、なかったりするのだとしてみよう。すると、非意味は、ドーナツの穴のように、意味にとりまかれながら、場合によってそこに虚ろに現れうる何らかの感じとして理解される(非意味であって、無意味ではない。無意味とはある特別な種類の意味にすぎない)。ドーナツのないところにドーナツの穴などありえない。それはドーナツによって作り出される、ドーナツでない空白のことだ。それと同じく、意味のないところに非意味はありえない。ただし、この場合、意味は、そのありようによっては、非意味を伴わないことがある。あんドーナツには穴がない。

だが、意味する、という動詞のみが許されるのだとしたらどうだろうか。物とは別に意味なるものが存在するなどと信じることをやめてみると、どうだろうか。その場合は、ただ数々の物だけが存在し、意味するということは、それらの物に割り振られた、ある特別な演技にすぎないということになる。この場合は、物は基本的には意味しないのであって、それらの基本的には意味しないものたちによって、意味することの演劇がなりたつことになる。

だから、そもそも、意味という名詞によって考えるか、意味するという動詞によって考えるかによって、世界はがらっと変わってしまう。だが、肝心なのは、どちらかひとつを選ぶことではない。ひとは、意味という名詞によって考えられる世界と、意味するという動詞によって考えられる世界との、どちらをも同時に信じうるような現実を生きている。意味という名詞による考えも、意味するという動詞による考えも、結局はその現実にあてがわれた一面的な見方にすぎないのであって、現実そのものではないということだ。

2017/12/12

2017年12月11日月曜日

●月曜日の一句〔野崎海芋〕相子智恵



相子智恵






ラガー等のたたきあふ肩胸背腹  野崎海芋

句集『浮上』(ふらんす堂 2017.09)所収

ラガー等の喜びを、叩き合う動きと肉体の部位だけで表現した句。

試合に勝った後にチームメイトが叩き合って喜んでいるのか、または相手チームの健闘を讃えての挨拶だろうか。

眼目は下五の〈肩胸背腹〉のなだれ込むような疾走感だ。肩、胸、背、腹という肉体の断片によって、大勢で群がって叩き合っている喜びの瞬間が見えてくる。

肉体の断片の羅列が押し寄せてくるだけで、彼らの汗や体臭、雄叫びはもちろん、ノーサイドの精神といった、ラグビーの本質までイメージされてくる。その独特の「汗臭い爽やかさ」がしかと伝わってくるのである。

2017年12月9日土曜日

【新刊】上田信治句集『リボン』

【新刊】
上田信治句集『リボン』

邑書林ウェブショップ

2017年12月8日金曜日

●金曜日の川柳〔菊池良雄〕樋口由紀子



樋口由紀子






刺身なら今夜は自首をやめておく

菊池良雄

ふと、亡父を思った。仕事から帰って、晩酌するのが楽しみで、そのために働き、生きているようにみえた。夕餉の食卓に刺身がのっていると、殊の外、嬉しそうだった。男の人には珍しいほどの笑顔の似合う人だったので、それは得も言われぬくらいの満面の笑みだった。

父は就きたい職業でなかったので、不本意な仕事だったのだろう。誰に相談することなく、56歳の定年できっぱりと仕事を辞め、小さな事業を始めた。母はずっとそのことを愚痴っていた。晩酌を美味しく飲むために言っておかなければならないことも言わずに先送りしていたのだろう。そして、生涯自首をしないままに、68歳であっけなく逝ってしまった。「ふらすこてん」(第54号 2017年刊)収録。

2017年12月7日木曜日

●木曜日の談林〔井原西鶴〕浅沼璞



浅沼璞







大晦日定めなき世のさだめかな 井原西鶴

『三ケ津哥仙』(1682年)所収

宗因流の後継者といえばなんてったって西鶴。掲句はその代表作である。例によって和歌の無常観や『徒然草』の風俗描写などを下敷きに、当時の都市生活者の大晦日を詠んでる。

近世の町人は現金よりもツケ(掛け)でものを売買してた。「大晦日」はその年間貸借の総決算日だった。貨幣経済がもたらした都市生活の大きな特徴として、貸し借りの信用取引でもって生計をたてる習慣をあげることができる。太っ腹だ。

だから掲句は、〈なんの定めもない無常な浮き世にあって、大晦日だけは年間の貸借を総決算する定めの日である〉って感じ。それを受け、〈無常の浮き世を知る文学者の目と、無情な貨幣経済を認識する都市生活者の目が、ふたつながら活かされたケーザイ俳句〉と以前評したことがある。西鶴は晩年、浮世草子で「大晦日」の町人たちを描き、『世間胸算用』と題して板行。だから「ケーザイ俳句」というのもあながち間違ってはないと今でも思ってる。けど何んか足らない。

いうまでもなく当時の年齢は数え年であった。考えようによっては全員が1月1日をバースデーとするわけで、大晦日はその前日ということになる。めでたい……とばかりもいえない。なんせ人生50年という時代だ。アラフィフは言わずもがな、アラフォーの町人とて無常を感じずにはおれなかったろう。

果たして西鶴も52歳で病没したが、そこは西鶴、辞世の前書で〈人生50年、それさえ自分には十分すぎるのに、さらに2年も長生きしてしまった〉としたためた。太っ腹すぎる。(辞世については、いずれ西鶴忌の時節に)

2017年12月6日水曜日

●うつくし

うつくし

美しやさくらんばうも夜の雨も   波多野爽波

うつくしさ上から下へ秋の雨  上田信治〔*〕

東京の美しき米屋がともだち  阿部完市

美しきことはよきもの松の内  星野立子


〔*〕上田信治句集『リボン』(2017年11月/邑書林)

2017年12月5日火曜日

〔ためしがき〕 書きものをめぐる喩え 福田若之

〔ためしがき〕
書きものをめぐる喩え

福田若之


杉本徹「響きの尾の追跡」(『ふらんす堂通信』154、2017年10月)を読んだ。

この文章における「空気」あるいは「空気感」という言葉のあらわれようは、僕にとって、とても喜ばしいものだ。書きものを流れる風、あるいは、一陣の風としての書きものということを、折にふれて考える。この喩えが、いったい、何を言い留めようとしているのかということを。書きものに風を感じるということそれ自体はたしかなのだが、その喩えで何を言わんとしているのかを僕はうまく説明することができないでいる。ついしばらく前にも、野見山朱鳥の書いた句の群れを前にして、僕はそれを感じたばかりだ。


「響きの尾の追跡」に話を戻そう。この評は、まさしく喩によって、福田若之『自生地』(東京四季出版、2017年)と捉えようとしている。タイトルの「響きの尾の追跡」という言葉については、こう書かれている。

もちろん、一句の自立性を放棄したわけではないし、要所に心ふるえる一句があるのも事実である。しかし、響きの尾の追跡とでも形容しないと取っかかりがつかめないほど、連作風につづく圧倒的な句の数が、この一冊には詰めこまれている。(「響きの尾の追跡」、39頁)
形容すること。それも喩によって形容すること。それが、一冊の本を読むことの取っかかりになる。そのうえで、『自生地』に記された「よしきりの巣」という喩と「結晶する」という喩が並べられる。
雑然とからまりあうスパゲッティは、まるでよしきりの巣を思わせる。僕は、よしきりの巣のような句集を編みたいと思う。それは、僕自身の、あの懐かしい古巣の記憶にも通じるものになるだろう。(『自生地』、190頁)

僕は句集を編むことばかり考えてきたつもりだった。句集を編んでいるつもりだった。けれど、いまやそれを撤回しなければならない。僕は句集を編みたいのではなかった。僕は句集を、結晶させたかったのだ。 (同前、215頁)
「響きの尾の追跡」では、これらふたつの記述に矛盾のようなものを見出す――「「よしきりの巣のような句集」「結晶させたかったのだ」――どっちなんだ? とつっこみたくもなるが、結果をみれば「よしきりの巣」となったことは明白である」(「響きの尾の追跡」、39頁)。『自生地』は「よしきりの巣」だとする読みを、僕は否定するつもりはまったくない。むしろ、僕が多少のもどかしさを感じながら読んだのは、次の一節だった。
この人は五七五の定型を、紙の裏側から息づかせるような、独特の不思議なセンスをもっていると、ふと思う。それゆえ、そうであればなおさら、句集として提示するのだから収載句をもっと絞りこんで一冊を「結晶」させてほしかったと、つくづく感じる。 (同前、40頁)
「五七五の定型を、紙の裏側から息づかせる」、すばらしい喩だ。だから、それだけに、「よしきりの巣」と「結晶する」ということをめぐって、ひとつの可能性が見落とされてしまったことを、僕は残念に思う。それはすなわち、句集が、よしきりの巣のようなものとして、結晶する、という可能性だ。喩としてなら、それは大いにありうることのはずなのだから。 そして、これは、句集を、よしきりの巣のようなものとして、編むこととは、まったく違っている。この認識の生成変化は、『自生地』において、ひとつのターニングポイントになっている。

整理しておこう。『自生地』において、「結晶する」ということに背反しているのは、「編む」ということであって、「よしきりの巣」ということではない(そう僕は読む)。

もちろん、この喩と喩の関係の構築こそが失敗に終わっているということはあるかもしれない。けれど、僕は「響きの尾の追跡」の次の一節を読むとき、それがたとえ失敗であるとしても、単なる失敗ではなかったと思うのだ。
〔……〕この一冊は、ある一定量の句群を一単位として、それらが輻輳し、錯綜し、流れ流れてゆく、トータルで大きな連続体――読み手にはどうしたってそう印象づけられる。(同前、39頁)
流れ流れてゆくものからなるよしきりの巣というものがあるのだとしたら、結晶するよしきりの巣があったって、いいじゃないか。僕はそう思う。

2017/12/5

2017年12月3日日曜日

♣週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

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【記事例】

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※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2017年12月2日土曜日

【新刊】週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』

【新刊】
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』(草思社文庫/2017年12月6日)

2017年12月1日金曜日

●金曜日の川柳〔加藤久子〕樋口由紀子



樋口由紀子






すったもんだのあげくに顔を差し上げる

加藤久子 (かとう・ひさこ) 1939~

「擦った揉んだ」、「擦る」は「物と物が力をこめて触れ合わす」、「揉む」は「両手の間に挟みこする」が合体して、「もつれが起こって争う」「ごたごたもめるさま」になる。とんでもない言葉である。

「すったもんだ」は生きているとどうしても起ってしまい、避けては通れない。それにしても顔を差し上げてしまうなんて、そんな「私」とはなんなのだろうかと思った。「すったもんだ」の事態を自分の身体で対処して、自分を守る。突拍子である。「すったもんだ」と「顔を差し上げる」を同じ俎上にあげているところにアナーキーさを感じる。

もう顔まで差し上げてしまったのだから、私は新たな顔でなにごともなかったように平気な顔で暮らしていく。現実を乗り越え、生きにくい世の中を遣り過していく。人間のふてぶてしさとたくましさ感じる。「MANO」20号(2017年刊)収録。

2017年11月29日水曜日

●暖房

暖房

暖房機しくしくふうと止まりたる  太田うさぎ〔*〕

暖房の椅子にねむたきぬひぐるみ  西村和子

暖房の明るき間より海を見ん  横光利一

暖房の室外機の上灰皿置く  榮 猿丸


〔*〕週刊俳句編『俳コレ』(2012年1月/邑書林)

2017年11月28日火曜日

〔ためしがき〕 ひきのばし 福田若之

〔ためしがき〕
ひきのばし

福田若之


杉本徹「響きの尾の追跡」(『ふらんす堂通信』154、2017年10月)を読んだ。しばらく前に、「ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko」の「エネルギーのぶつかりあい。」という記事に次のとおり予告されていたものだ。
杉本徹さんの書評は今回も辛口である。
期待される若手俳人のひとり、福田若之句集『自生地』についてである。
この俳人の美質を十分に理解し、評価しながらも、批評の目はするどい。
詩人であるゆえに見えてくるもの、「俳句性とはなにか」。

前回の田島健一句集『ただならぬぽ』評についてもそうであるが、わたしはまず著者自身にこの「批評」を読んで欲しいって思っている。


(田島さん、読んだ?)

感想(反論?)聞かせて欲しいな。。。。←(yamaokaの心の声)
考えるところはあるし、それを書きたいとも思う。聞かせるのではなく、書きたいと思う。けれど、今日のためしがきをそのことに充てることはできそうにない。いまは時間が足りない。とはいえ、いまは足りない時間とはなんだろう? その猶予のために、僕はこのひきのばしを書いているのではないかという気はしている。
2017/11/28

2017年11月27日月曜日

●月曜日の一句〔福田若之〕相子智恵



相子智恵






雪がふるがふるがふると靴めりこみ  福田若之

句集『自生地』(東京四季出版 2017.08)所収

面白くて美しい句。

「雪がふる」で文字通りの光景を読者に見せながら、「雪がふるがふる」で「雪がふるということが、ふる」とメタな視点が表れ、入れ子状になっていく。

それが「雪がふるがふるがふる」までいくと、もう「ふるがふるがふる」は独り歩きして、雪が降り続いては降り積もるオノマトペのように感じられてくる。

そして最後に置かれた〈靴めりこみ〉でまた景が浮かぶのだが、「雪がふる」が解体し、雪がふるという言葉となって降り積もって、だけど靴が雪にめり込んだ時の音や冷たさの記憶はよみがえってきて、言葉が光景に再結晶していく俳句の詩的な過程の面白さを、一句の中でコマ送りのように味わった。

『自生地』という句集自体が、句集を編集していく過程を私小説のようにして見せていく句文集というコンセプチュアルな1冊で、構造が面白い。

掲句を始め、繰り返し出てくる「小岱シオン」や「かまきり」と「かまきりもどき」などのモチーフによって、例えば「歳時記」は、その見た目からデノテーションなものと思いがちだけれど、コノテーションの塊なのだということを再認識して、私は目が(頭が?)洗われた思いがした。

2017年11月24日金曜日

●金曜日の川柳〔小野範子〕樋口由紀子



樋口由紀子






鬼のカクランと言われ鬼かなと思う

小野範子

「鬼のカクラン」とはいつも極めて壮健な人が病気になることだが、大概は「カクラン」の方に注目する。それほどひどい症状である。しかし、掲句は「カクラン」よりも「鬼」の方に、私は「鬼」だったのかと、ひっかかってみせる。へえ~そっちの方と読み手を誘導し、「鬼」のイメージを一気に印象づける。

価値体系の横にあるものにこだわることをあからさまに出して、意表を突く。言葉尻をとって、おもしろがる。しょうもないことのなかになにかあるのだとちらっと思わせる。それらは川柳のひとつの立ち姿だと思う。このとぼけたユーモア感には俳諧性がある。「川柳研究」(226号昭和43年)収録。

2017年11月23日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将







山の姿蚤が茶臼の覆ひかな 芭蕉

『蕉翁全伝』所収。

談林の全盛期は延宝時代(1673〜1681)と言われている。これと芭蕉の年表を重ね合わせると、直前の寛文十二年に俳諧発句合『貝おほひ』を上野天満宮に奉納してから、江戸に下っている。延宝3年に初めて「桃青」の号を使う。掲句は延宝4年の句。

茶臼は、茶の葉をひいて抹茶とするのに使う石臼のことである。上部が円柱形で下部が台の形になっているので山に似ている。富士の形はその茶臼に覆いをかぶせた様に見立てたことはたやすく確定できるが、問題は「蚤」である。「蚤が茶臼」とは、「蚤が茶臼を背負うことで、不可能で分不相応の望みを持つ」という意味の諺。当時の俗謡に「蚤が茶臼を背たら負うて、背たら負うて、富士のお山をちょいと越えた」とあるものを踏まえたものでもある。背負っている蚤までを芭蕉は見せたかったのか、それとも諺や謡曲を踏まえているということだけを念頭に置いてほしかったのか。

富士の山蚤が茶臼の覆かな

また、『銭龍賦』(1705、高野百里編)には、このように記されている。内容はそれほど変わらないが、「山の姿」で字余りにするのと「富士の山」でおさめるのとでは富士の迫り方が違ってくるように思われる。

2017年11月21日火曜日

〔ためしがき〕 「ありとあらゆらない」のこと 福田若之

〔ためしがき〕
「ありとあらゆらない」のこと

福田若之


『自生地』(東京四季出版、2017年)に、次の句がある。

ひきがえるありとあらゆらない君だ 福田若之

「ありとあらゆらない」 は、もちろん、今日では連体詞として扱われる「あらゆる」の強調された連語「ありとあらゆる」を、あたかもラ行五段活用の動詞であるかのように活用して、助動詞「ない」とつなげたものだ。

もちろん、今日、一般的には「あらゆる」はそもそも用言として扱われることはない。だから、これは文法に対するあからさまな違反なのだが、もうひとつ、書いておきたいことがある。

そもそも、今日、連体詞として扱われる「あらゆる」は連語だった。それはラ行変格活用の動詞「あり」の未然形と助動詞「ゆ」の連体形の組み合わせだったのである。「あらゆるもの」が「ありうるすべてのもの」という意味になるのは、「ゆ」の可能をあらわす用法による。

「ゆ」は上代の助動詞で、平安時代にはすでに一般的ではなくなっていた。たとえば、「見ゆ」、「聞こゆ」などはその名残りで、もともと「聞かゆ」だったのが変化して一語になったものだそうだ。

いま、「見ゆ」、「聞こゆ」という例をあげたが、これらの動詞は、いずれもヤ行下二段活用だ。そして、このことは助動詞「ゆ」の活用に由来している。助動詞「ゆ」の活用形は下二段型だったのだ。したがって、語源に即して考えるならば、「ありとあらゆる」にあえて「ない」をつけるなら、「ありとあらえない」になるはずだということになる。

しかし、僕の身についた言葉で書くなら、ここはどうしたって「ありとあらゆらない」となるところだ。「ありとあらえない」なんて、まったく笑えない。そんなふうにしたら、変なものでも食べてしまったみたいな気分になるだろう。それは、ひとえにいわゆる「現代語」の活用として、下二段活用がもはや一般的ではないからかもしれない。「見ゆ」は「見える」に、「聞こゆ」は「聞こえる」になってしまった。「見える」の連体形は「見える」、「聞こえる」の連体形は「聞こえる」であって、それは「あらゆる」とはかたちが違っている。 

あえて説明するならこんなところだろうか。

けれど、ひとつ大事なことを付け足しておくなら、文法というのは、そのつど、生きた言葉を前にした驚きにもとづく、その後付けの説明として成立するもののはずだ。

たとえば、「ゆ」には可能の用法がある、とか、その活用形は下二段型だ、とか、「ゆる」は「ゆ」の連体形だ、などというもろもろの説明は、そう書いた僕自身を少なからず苛立たせる。

言葉はたんにひとつながりにそのつどそう書かれたにすぎないのであって、「ゆ」がそれとして生の言葉だったころには、「可能の用法」などという概念も、「活用形」だの「下二段型」だの「連体形」だのという概念も、それどころか、「助動詞」という概念すら、なかったはずだ。これらの概念は、まさしく文法学こそが自らのために発明したものではなかっただろうか。「ゆ」は、これらの概念がなくとも、おのずからそのような言葉として苔むしていたのだ。一般化としての文法は、言葉のこの苔むしてある感じをどうしてもいくらか捉えそこねる。そこには、それをこそ捉えようとする努力によって決定的にそれが捉えそこねられるといった不幸がある。優れた文法学者たちはもちろんそのことをよく承知しているし、ときには繰り返し、この点に注意をうながしている。

思うに、言葉の苔むしてある感じに関わる文法なき文法は、決して美しいものではない。それは「美しい日本語」なる想像物の建立に与するあの一般化としての文法ではない。文法なき文法あるいは文法以前の文法、それは僕たちにとってはむしろ崇高なものだ。それについて語る言葉を、僕はまだ充分に手にしてはいないし、おそらく決して満足なものを手に入れることはないだろう。ただそれでも、僕は、文法学の発明せざるをえなかったもろもろの言葉を前にしたときの自分自身に対する苛立ちを、そうやすやすとなかったことにするわけにもいかない。というのも、僕が母語で書くとき、そこに期待する文法とは、ただ、この文法なき文法なのだから。
2017/11/21

2017年11月20日月曜日

●月曜日の一句〔櫂未知子〕相子智恵



相子智恵






息白し形見に近き一樹あり  櫂 未知子

句集『カムイ』(ふらんす堂 2017.06)所収

亡き人との思い出のこもった一本の樹。

故人の庭木などではなく、形見分けにもらうことはできない。しかし、その樹の元での思い出の深さは、限りなく〈形見に近き〉ものだというのだ。

母との死別があったというあとがきから見るに、この樹は母との思い出が詰まった樹だと思われる。裏山や、道や、公園、この一樹がどこにあるのかは分からないが、〈形見に近き〉からは深々とした、そしてあくまでも静かな母恋いの思いが感じられてきて胸に迫った。

寒空の下で一本の樹を見上げながら、同時に空の方へ立ちのぼってゆく自分の白い息も見えている。

白息の先の、形見に近い一樹の先の、空の先の、母へ。視線がのぼっていくのと同時に、思いも空へとのぼってゆく。目の前の息の白さによって一樹にも靄がかかり、彼の世との境目もなくなっていくようだ。

2017年11月19日日曜日

【新刊】今井聖『言葉となればもう古し 加藤楸邨論』

【新刊】
今井聖『言葉となればもう古し 加藤楸邨論』(2017年11月/朔出版)

2017年11月18日土曜日

【新刊】『子どもおもしろ歳時記』金井真紀:文・イラスト/斉田仁:選句・監修

【新刊】
『子どもおもしろ歳時記』金井真紀:文・イラスト/斉田仁:選句・監修

2017年11月17日金曜日

●金曜日の川柳〔石田都〕樋口由紀子



樋口由紀子






控えには缶詰切りとおろし金

石田都 (いしだ・みやこ) 1936~

道具の便利さにはたびたび驚かされる。あたりまえに使っているが、もし無ければ、たいそう不便で、それまではどうしていたのだろうと思う。「缶詰切り」も「おろし金」もなくてはならないが、「控え」になるとは思わなかった。「控え」が眼目だろう。ユニークで意味深な言葉。「控え」のニュアンスを巧み活用している。

自分の裡にあるものをどうにかしなければならなくなったときための「控え」だろう。中身をオープンにしたり、こだわりを細かくすりおろす。決して、無理も背伸びはしない。当然、「缶詰切り」と「おろし金」の方も承知していて、そのときのために作者のうしろでじっと待機している。

「缶詰切り」と「おろし金」はどちらも食に関わるものであり、目立つものではない。作者の日頃の生活や人柄が垣間見えるような気がする。いや、へそ曲がりなのかもしれない。自分を大きく見せようとするものの対極にあるように思う。ユーモアとウイット感がある。川柳「杜人」(2017年秋号)収録。

2017年11月16日木曜日

●クリーニング店

クリーニング店

厳冬の白きをとどけ洗濯屋  能村登四郎

クリーニング店増える糸瓜の水を取る  上田信治〔*〕

壬生の鉦クリーニング屋励むなり  波多野爽波

〔*〕『里』2017年11月号より。


2017年11月14日火曜日

〔ためしがき〕 形式と自由 福田若之

〔ためしがき〕
形式と自由

福田若之


形式について認識し理解するために、形式という言葉を道徳から取りかえすことが必要だ。形式とは「こうあるべきだ」と命じる無数の掟の束だろうか。そうではない。形式とは、たんに「こうあるのだ」と告げるもののことだ。

「俳句はこうあるべきだ」と告げるのは形式ではない。 それは道徳的な規範でしかない。こうした規範のもとで、俳句は限定される。道徳は、こうした規範に照らして、ひとが「あれは俳句ではない」と言うように仕向ける。「俳句はこうあるべきだ」は否定としてしか働かない。

形式はたんに「この句はこうあるのだ」と告げる。形式は、俳句を限定することなしに、一句一句の区別をもたらす。この句の形式とあの句の形式がともに存在する。ひとの口を借りるまでもなく、形式はそれ自身において一句一句の本性をそのつど限りなく肯定する。

形式は服従とは何のかかわりもない。形式がかかわりをもつのは、個別的なものの本性に由来するものとしての自由である。

2017/11/1

2017年11月12日日曜日

【俳誌拝読】『現代俳句』2017年11月号 西原天気

【俳誌拝読】
『現代俳句』2017年11月号

西原天気


現代俳句協会『現代俳句』2017年11月号に「現代俳句新人賞」受賞作2篇(赤羽根めぐみ「おりてくる」、宮本佳世乃「ぽつねんと」)、佳作2篇(吉川千早「らうたし」、仲田陽子「雨の来る匂い」)が掲載されています。それぞれ1句ずつ紹介します。


味噌汁の味噌の重力秋に入る  赤羽根めぐみ

たしかに味噌が下に降ります。それを「重力」と大仰に言い切った可笑しみ。

「秋に入る」という言い方に、私自身は違和感を覚えないこともない。秋って、「入る」感じがしない。春も夏も同様。なぜか冬だけは「入る」感じがある。私だけの感じ方かもしれず、道理はわかりません。一方、「秋に入る」といういかにも俳句的・季語的な語と前半が相俟ってこその飄々とした味わい、という気もします。


ふくろふのまんなかに木の虚のある  宮本佳世乃

木々のなかにいるはずの梟。大きさや位置関係の逆転がこの句の主眼。梟を複数に読むと、ふつうの景色になりますが、一羽と読みました。だからこそ起こる逆転。

この「虚」には説得力があります。なんだかありそうじゃないですか、梟の腹のあたりに木の虚が。色合い的にもね。
 
語尾の「ある」はその人の口吻というものでしょう。「あり」ときっぱり終わると、いわゆる「ドヤ感」が出るのを嫌ったのかもしれません。


君の来た星には花があるんだぜ  吉川千早

いっけん地球外からやってきた宇宙人に語りかけたように見えますが、連作「らうたし」は「子」を詠んだ連作、それならば、生まれてきたことを、この星にやってきたと捉えていると読むのが順当でしょう。どちらにしても、ジュヴナイルのような味わい。若々しくスウィート。

この「花」は俳句の約束事=桜ではなく、花一般でしょう。無季ということになりますが、有季でも無季でも、私はどちらでもオッケー。


ゴールデンウィーク集荷の人を待ち  仲田陽子

一般家庭が宅配便を出すとき、どのくらいの頻度で集荷サービスを利用するのか、よくわからないが、商売をしていると、日常的に集荷してもらうことが多いだろう。

一般家庭か仕事場かで、句の印象が異なるが、後者の場合、世間が休んでいるとき、納品なり進行のために集荷を待っている。句としては何気ないが、ある種、気分のしっかりした醸成、時間の質感の提示がある。

集中、《水辺から昏れる一日青ぶどう》といったポエティックな句の一方、掲句や《フラダンス奉納のあと海開き》といった措辞・文彩を排した日常・非日常の句もいくつか。こちらのタイプの句により惹かれた。


現代俳句協会ウェブサイト

2017年11月11日土曜日

●ホテル

ホテル

さくら満つ夜の犬山ホテルかな  大野泰雄〔*1〕

このあたりホテルばかりの白夜かな  久保田万太郎

ホテルみな白しホテルは何充つ城  楠本憲吉

ホテルあり木槿づたひにグリルあり  京極杞陽

ラブホテルある日土筆にかこまるゝ  杉山久子〔*2〕


〔*1〕大野泰雄『へにやり』2017年10月/夜窓社
〔*2〕杉山久子『泉』2015年9月/ふらんす堂

2017年11月9日木曜日

新シリーズ●木曜日の談林〔西山宗因 〕浅沼璞



浅沼璞







里人のわたり候かはしの霜  西山宗因

『懐子』&『境海草』(1660年)所収

談林俳諧といえば宗因流、宗因流といえば謡曲調、謡曲調といえば掲句が発端、というのが通説である。しかし掲句は宗因流の全盛期・延宝年間(1673-81)をさかのぼること十数年の作。ともすれば過渡期の徒花として扱われがちな談林だが、十数年間という揺籃期がちゃんとあったのだ。あなどれない。

さて謡曲調は「謡曲取り」ともいうように、ようは(シャレではありません)謡曲の詞章を原テキストとしたサンプリング。掲句の上五・中七は謡曲「景清」の一節そのままだ。けれど原典では「わたり」=「あり」の尊敬語。それを文字どおり「渡り」とシャレのめし、「渡り」→「橋」と連想を広げたってわけだ。さらにそいつを「橋の霜」という歌語へともっていった。さすが宗因、もともと連歌師なだけはある。しかも御丁寧に「宇治にて」と前書があり、宇治川、宇治橋といった歌枕までシャレのめしてる……なんてことは後で調べたり考えたりしたことで、最初にこの句を目にしたのは芭蕉七部集(岩波文庫版)中の『阿羅野』でだった。「旅」の部立に〈ひとつ脱(ぬい)で後におひぬ衣がへ〉の芭蕉句などと併載されていた。

『阿羅野』は俳諧の古今集をめざしたアンソロジーで、朗詠集的な部立に蕉風以前の連歌や他門の発句もまじってる、くらいの予備知識はあったが、「旅」のパートで蕉門俳諧といっしょ(しかも前書はカット)となれば、どーしても旅人目線で鑑賞したくなる。橋上の霜にのこる足跡を見て地元の民の生活に思いを馳せる旅人のアングルである。旅情と言ってしまえばそれまでだが、漂泊する者が定住民に感じる懐かしみ、みたいなもので、そーなってくるともう(いま読みかえしてみても)謡曲調やら歌語やらの足跡などほとんど見えはしない。

けっきょく『阿羅野』の編集にまんまとヤラれたってことなんだろうな、たぶん。

2017年11月7日火曜日

〔ためしがき〕 『ファイアボール』シリーズと口のない口唇性 福田若之

〔ためしがき〕
『ファイアボール』シリーズと口のない口唇性

福田若之


ウォルト・ディズニー・ジャパン制作、荒川航監督のアニメーション作品、『ファイアボール』シリーズの一作目では、お嬢様であるロボットのドロッセルが、執事のロボット、ゲデヒトニスの名を繰り返し呼びまちがえる。たとえば、第一話では次のとおりだ。
ドロッセル おい、シシカバブー、シシカバブーはどこだ?
ゲデヒトニス はい、お嬢様。
ドロッセル イルカが見たいわ、シシカバブー。
ゲデヒトニス イルカでございますか。ちなみに、私の名前はゲデヒトニスでございます。
ゲデヒトニス イルカよ、シシカバ。
このあとも、話数を重ねるたびに、ゲデヒトニスは、「タンホイザー」(ワーグナーの作曲したオペラの主人公)、「デュラムセモリナ」(小麦粉の一種)、「クセルクセス」(アケメネス朝ペルシアの王の名)、あるいは、「パッキャマラード」(童謡「クラリネットこわしちゃった」の歌詞の一部。なお、もとのフランス語は«Au pas, camarade.»で、意味上の切れ目はむしろ「オーパッ」と「キャマラード」のあいだにある)などと、さまざまに呼ばれることになる。それにしても、こうした脈絡のない誤った名の数々は、いったいどこからくるのだろうか。

ドロッセルは、どうやら故意に違う名で呼んでいるのではなく、ほんとうにゲデヒトニスの名を忘れてしまっているらしい。シリーズ二作目にして一作目の前日譚にあたる『ファイアボールチャーミング』の第七話で、ドロッセルに物忘れ機能が備わっていることが明らかにされている。また、同じく最終回では、眠りにつこうとするドロッセルが、次に目覚めたときにはゲデヒトニスの名を忘れてしまっているかもしれないということを示唆していた。ゲデヒトニスGedächtnisはドイツ語で「記憶」を意味する。シリーズ一作目のドロッセルは、まさしく記憶を失くしているので、その名をうまく呼び出すことができないのだ。

だが、話数を重ねるにつれてはっきりしてくるのだが、彼女はどうやら自らの呼びまちがいを楽しんでいるようでもあるのだ。

ドロッセルはロボットだが、言葉に対して情緒的にふるまうことがある。たとえば、一作目の第七話で、ドロッセルの亡き父、ヴィントシュティレ卿が残した書物に記されていた人類の会話サンプルをもとにしたゲデヒトニスの発話(「チーッス、ドロちゃん」、「ドロってばチョーウケるし、もうアゲアゲ」)に対し、彼女は「微妙にむかっ腹が立ったわ」、さらに「腹に据えかねるわ」といった感想を述べ、「人類との共存は無理ね」と結論付けている。語調は、ドロッセルにとってそれほどまでに重要なことがらであり、ここで彼女はそれに対する感情的な反応を示しているのだ。これは、『ファイアボールチャーミング』の第一話で「気持ちを伝える言葉さえ見つければ、人類とも仲直りできるはず」と語っていたドロッセルの、悲しい帰結である。人類との共存の可能性を否定する彼女は、亡き父の教え――人類の言葉は常に変化しているため、その本来の意味に注目せよ、という趣旨の教え――を、もはや思い出すことはない。

さて、「サンチョ・パンサ」と呼んでおきながらさらにそれを「サンチョパ」と略したり、「タンホイザー」を「ホイサッサ」に言い換えたりしているところからしても、ドロッセルは、人類の言葉にいらだつのとは対照的に、呼びまちがいを楽しんでいることは明らかだ。そして、こうした省略や言い換えからすると、どうやら彼女の楽しみは言葉を発するときのくちびるの動きに関わっているようだ。

言葉は、ゲデヒトニスを呼ぼうとするとき、それ自身が担うはずの記憶とは無縁のものになっている。「ワンダーフォーゲル」という語が、本来の意味とは無関係に、容易に「ワンダフォー」に転化してしまうのはこのためだ。そして、ゲデヒトニスを呼ぶためだけに「マンゴスチン」や「チグリスユーフラテス」といった語彙が召喚され、しかもそれが「ゴッチン」や「チグリッパ」というかたちに省略されるとき、そうした本来の記憶を失った言葉を発することでもたらされる楽しみは、なによりもまず口唇的なものにほかならないはずである。

だが、ドロッセルのような存在がいかにして口唇的な楽しみを感じうるというのか。というのも、彼女には口が、すくなくとも一般的な人類のそれと同じようには存在していないからである。その顔には口腔も唇も見当たらないのだ。彼女は、内蔵されたスピーカーか何かから音声を発しているにすぎないように見える。それはゲデヒトニスについても同様である。

たしかに、ドロッセルは、イルカについて「愛でてよし、食べてよし」と言い、文通相手のユミルテミルを芋煮会に誘おうとし、ゲデヒトニスの言葉を「あなたは口を挟まないで」の一言で制止する。また、ゲデヒトニスはといえば、眼にゴミが入ったときの苦痛について、「喩えるなら、食事中にやにわ咳きこみ、ご飯粒が鼻のほうに入ったとき、鼻のほうから出そうと努力いたしますものの、忘れた頃に出てくるのは、決まって口のほうからでございます」とさえ述べており、しかも、ドロッセルはこの言葉に「分かるわ」と返している。

だが、こうしたことの一切にもかかわらず、やはり、彼女たちには口がないというこの事実に目をつぶるわけにはいかない。シリーズ三作目の『ファイアボールユーモラス』を観てみよう。その第一話では、あたかもこの不在を埋め合わせるかのようにして、笑った口が描かれた紙がドロッセルによってゲデヒトニスの顔にマグネットで取り付けられる。ドロッセルもまた、彼女を図書室まで連れて行ってくれるはずだったロボットのハラヅモリ3000がうまく働かないとわかると、口の代わりに表情をあらわすための絵を顔の下方に貼り付けている。そのとき彼女たちがこうした絵を用いるのは、まさしく口がないからにほかならない。ちなみに、このハラヅモリ3000には口らしきものが見受けられるが、逆に、このロボットのほうは言葉を話すことができず、ただ「ボエー……」という言葉にならない叫びをあげるばかりだ。

面白いことに、このアニメーションにおいては口のないものだけが言葉を発することができ、口のあるものは言葉を発することがないのである(口がないからといって、必ずしも言葉を発することができるとは限らないが)。たとえば、『ファイアボールチャーミング』の第七話に登場する記憶装置のレジナルドも、口なしに発話している。

言葉にかかわるものとして、いわば、口のない口唇性とでもいったものを考える必要があるだろう。なにより、エクリチュールの口唇性とはそうしたものではないだろうか。文字には唇がない。しかし、文字がそれ自体において口唇性と呼びたくなる何かを帯びることはたしかにある。

実際、『ファイアボール』シリーズのロボットたちはどこか文字的な存在なのだ。一作目の第五話には、そのことを端的に示唆するこんなやりとりがある。
ゲデヒトニス 失礼をお許し下さい、お嬢様。私このままでは非常に……頭〔ず〕が高い。
ドロッセル そうね。
ゲデヒトニス その頭〔ず〕の位置の高さたるや、「ざじずぜぞ」が「ずざじぜぞ」になる始末。
ドロッセル 縦書きね。
ゲデヒトニスはここで自らの身体性を縦書きの文字列になぞらえているのである。次の第七話でドロッセルがゲデヒトニスのことを「サンチョ・パンサ」と呼んでいるのは示唆的だ。ドン・キホーテとサンチョ・パンサは、まさしく文字の世界から抜け出て来たかのような二人組である。

ドロッセルには、おそらくは彼女の亡き父によって、停電のときに目が光る機能が授けられていた。彼女自身がいうには、それは「便利」である。ただし、「でも、これではまぶしくて、私には何も見えないわ」。何かを照らしていながら、自分自身では何ひとつ見ることができない。文字とはそうしたものではないだろうか。文字のまなざしは、見るためにではなく、見せるために機能する。

ドロッセルとゲデヒトニスの暮らす屋敷は、ブリューゲルの描いたバベルの塔を思わせる外観をしている。データベースを備え付けているこの屋敷は、それ自体が巨大な書物のようでもある。『ファイアボールユーモラス』の第一話によれば、西の彼方には図書室もあるらしい。要するに、この屋敷はボルヘスのバベルの図書館を思わせるものなのだ。彼女たちは書物に住むもの、一冊の書物としてのバベルの図書館に住むものとして、そのなかにある書物を読むのである。

ドロッセルとゲデヒトニスが触れる書物のなかでいちばん重要なのは、ゲデヒトニスがしばしば大事そうに取り出す『プロスペロ』という名の書物であろう。ドロッセルによってシャーデンフロイデと名付けられた猿型ロボットが、この書物について語ったヴィントシュティレ卿の言葉を記憶していた。

第一作の最終話で再生されたその言葉によれば、『プロスペロ』は「この世界の始まり、はたまたその世界とあの世界、あるいは科学と迷信、そのあいだに横たわる何某、などについて書かれている」という(もっとも、ゲデヒトニスに言わせれば、これは「主にテーブルマナーについて書かれた本」だそうだが)。

シャーデンフロイデもまた口をもたないが、ヴィントシュトレ卿の言葉をそのままに再生する機能を授けられているのである。しかも、その言葉の一部は『プロスペロ』の一節重なり合うものだった。「遠い昔、世界は一つだった。機械とヒトは、同じ言葉を話し、花は歌い、木々は踊り、砂漠は生きていた」。『ファイアボール』シリーズにおいて、ロボットと人類はどこまでも言葉の差異によって隔てられている。その意味で、ドロッセルたちはバベルの塔の崩壊以後のバベルの塔に住まう存在だともいえるのだが、いま重要なのはこの点ではない。

ヴィントシュトレ卿の言葉を一字一句正確に記憶し、『プロスペロ』と重複する役目を担うシャーデンフロイデは、その意味で、書物そのものなのである。ならば、同じように『プロスペロ』に書かれていることを口のない口唇性において読みあげるゲデヒトニスもまた、書物であるといえるのではないだろうか。実際、ドロッセルはゲデヒトニスの読み聞かせによってはじめて『プロスペロ』の本文に接触するのである。

そして、読み聞かせにおけるドロッセルとゲデヒトニスの役回りは容易に入れ替わる。ドロッセルに対してゲデヒトニスが書物であるのと同様に、ゲデヒトニスに対してドロッセルが書物であるということがあるのだ。

たとえば、彼女は、『ファイアボールユーモラス』の第一話において、手にしている書物に記されているらしい、イソップの『アリとキリギリス』とは似て非なるアリとキリギリスの物語をゲデヒトニスに伝えている。「いいこと、アリさんが熱心に働く一年間、キリギリスさんはバイオリンを弾いて歌って暮らしました」、「その結果、キリギリスはどうなったか」、「バイオリンと歌がチョーうまくなりました」、「そのままメジャーレーベルと契約して全米デビュー」。ドロッセルもまたゲデヒトニスに対して書物なのである。

もちろん、彼女たちの口のない口唇性というのは、実際には、18世紀のチェスの自動人形の思考に近しいものだとも言えないことはない。「トルコ人」と呼ばれたその機械には、実は、チェスの名人が見えないように入りこんでいた。同じように、口のないドロッセルの代わりに、声優の川庄美雪が「中の人」として唇を動かしているのだ――こうした見方を否定することはできない。

とはいえ、『ファイアボール』シリーズが、いわばそのフィクションにおいて、口のない口唇性という概念を呼びよせるものであるということもまた、否定しようのないことだろう。それは、文字についての考えにもつながるひとつのアイディアをもたらしてくれているのである。

2017/10/26

2017年11月6日月曜日

●月曜日の一句〔小野あらた〕相子智恵



相子智恵






秋冷やチーズに皮膚のやうなもの  小野あらた

句集『毫』(ふらんす堂 2017.08)所収

ああ、たしかに「皮膚」という感じ、あるなあと思った。私はカマンベールチーズの白黴の膜などを思ったりしたが、人によっていろんなチーズを思い出すことだろう。

この比喩は個性的な把握でありながら、言われてみればそれ以外にないというような必然性があり、いわゆる「発見のある句」とはこういう句のことを言うのかもしれないな、と思う。しかしそれが〈のやうなもの〉とすーっと流すように淡々と一句の中に着地していていて、いわゆる「ドヤ感」がないのがいい。そのさりげなさにふっと笑ってしまう。さりげなさが味わいとして長く心に残り、飽きがこないのだ。

取り合わされた〈秋冷〉も、うまいなあと思う。皮膚がひやっとする感じが内容によく響き合っているし、チーズという寒くなると食べたくなる食材に対する確かな季節感も示し、さらに形のない季語なのでチーズの微細な膜に焦点が定まる。

鑑賞がなんだか理屈っぽい解説になってしまったが、チーズを見るたびに思い出すであろう、大好きな一句となった。

2017年11月5日日曜日

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2017年11月3日金曜日

●文化の日

文化の日

文化の日一日賜ふ寝てゐたり  清水基吉

秒針のきざみて倦まず文化の日  久保田万太郎

助手席の犬が舌出す文化の日  大木あまり

過去記事≫http://hw02.blogspot.jp/2009/11/blog-post_03.html

2017年10月31日火曜日

〔ためしがき〕 『ゴドーを待ちながら』の問い 福田若之

〔ためしがき〕
『ゴドーを待ちながら』の問い

福田若之


サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を最初に観るとき、ひとが問うのは、おそらく、ゴドーはいつ現れるのだろうか、ということだろう。

つぎに観るとき、そのひとが問うのは、おそらく、ゴドーはいつか現れるのだろうか、ということだろう。だが、そんなことは分からない。それは何度この劇を観ても分からないことだ。だから、ひとはついついこの問いのもとで立ち止まってしまう。そのとき、このひとは図らずも『ゴドーは待ちながら』の登場人物のひとりになってしまうだろう。

だが、この演劇が提起している問いはもっと別にあるのではないか。たとえば、昨日ゴドーが来なかったという出来事と、今日ゴドーが来なかったという出来事とは、本当に、同じ、ゴドーは来なかったという出来事だろうか。この問いがこれまでの問いと違っているのは、もはやゴドーが何者であろうとかまわないという点である。

ゴドーはいつ現れるのだろうかという問いも、ゴドーはいつか現れるのだろうかという問いも、結局のところ、ゴドーとは何者なのかという問題に行きついてしまう。だが、それは分からない。したがって、こうした問いをめぐる一切は、結局のところ、思考の空費に終わるだろう。要するに、この劇においてはゴドーが何者であるかはそもそも問題にされていない以上、この劇にふさわしい問いは、ゴドーが何者であろうと問題にならないものであるはずなのだ。

だいたい、なぜ、ひとびとは、自分にとってほとんどどうでもいいような連中が待っている相手のことをそこまで知りたがるのだろうか。どうでもいい連中が待っている知らない奴のことがどうしてそんなに気になるのだろうか。ゴドーが神であろうと知ったことではない。考える価値のある問いは、おそらく、もっと別のことである。

2017/10/20

2017年10月29日日曜日

【人名さん】八木沼純子

【人名さん】
八木沼純子






2017年10月27日金曜日

●金曜日の川柳〔西来みわ 〕樋口由紀子



樋口由紀子






ふざけてるんぢやないかしら子ら喰べすぎる

西来みわ (にしらい・みわ) 1930~

食欲旺盛な孫たちを見たら思い出す川柳。「まだ食べるの?」と思わず言ってしまう。本当にふざけているのかと思う。子どもの動作はもうそれだけで微笑ましく、滑稽である。その行為をとらえるだけでも絵になるが、食べている姿はその極め付けともいえる。とぼけて軽妙でその場の雰囲気や心情をとてもうまく伝えている。

子どもの成長記録を川柳にことづけている。定型にとらわれていない自由さがあり、心地よい。話し言葉のようで、その舌足らずに見える口ぶりに生気が通う。〈歩いてみる駆けてみる展けるかも知れず〉〈2001年踏み出す歯型整える〉「川柳研究」(第226号・昭和43年)収録。

2017年10月26日木曜日

●駅前

駅前

駅前の夜風に葡萄買ひにけり  小川軽舟〔*〕

暮早し駅前にして暗き灯も  高浜年尾

駅前のだるま食堂さみだるる  小豆澤裕子

駅前の蚯蚓鳴くこと市史にあり  高山れおな

少年液化す宮沢賢治の駅前まで  高野ムツオ


〔*〕『鷹』2017年11月号より

2017年10月24日火曜日

〔ためしがき〕 歴史を書くとは…… 福田若之

〔ためしがき〕
歴史を書くとは……

福田若之 

歴史を書くとは、年号に表情を与えることである。
(ヴァルター・ベンヤミン「セントラルパーク」、『ベンヤミン・コレクション1』、浅井健二郎編訳、久保哲司訳、筑摩書房、1995年、366頁)
だとすれば、このためしがきを書くこともまた、日付になんらかの表情を与えることなのだろう。ただし、もちろん、それらの表情はあくまでも主観的なものにとどまるはずだ。

ふと、日付の肖像画家という言葉の連なりが思い浮かんだ。悪くない気がする。

2017/10/12

2017年10月23日月曜日

●月曜日の一句〔衛藤夏子〕相子智恵



相子智恵






点滴の音の広がる夜長かな  衛藤夏子

俳句とエッセー『蜜柑の恋』(創風社出版 2017.09)所収

夜の病室。消灯時間も過ぎて、イヤホンで備え付けのテレビを見ることもできないし、本を読むこともできない。しかも夜が長くなった秋のことだ。静かな暗闇の中で時間だけはたっぷりある。

音らしい音は点滴の薬液が規則正しく落ちていく音だけ。それが闇の中で広がっていく。水音は想像の中でどんどん広がり、やがて水の中に自分がいるような想像にまで進んでいくのかもしれない。〈広がる〉からはそんな心象風景が浮かび上がってくる。

2017年10月20日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋蘭 〕樋口由紀子



樋口由紀子






十年先の花簪も面白い

高橋蘭 (たかはし・らん) 1934~

「花簪」、キク科の一年草にそんな名前のかわいい花がある。よくドライフラワーにする。しかし、この「花簪」は髪飾りだと思う。小さな布を花の形につまんで作るかんざしである。舞妓さんの簪や七五三の髪飾りに使われている。

「面白い」はいろいろと含みのある言葉である。十年先が見ものであると面白がっている。変色したり、形が崩れたり、見るに堪えないものになっているのか、あるいは十年先も同じ美しさを保っているのか。扱われ方が一変しているかもしれない。

「花簪も」だから、私も歳はとるが面白いぞと言っている。あるいは「花簪」はあっても、私はもう存在していないかもしれない。さて、どうなっているのか。図太い川柳である。〈棒読みの台詞も十月十日まで〉〈どうだっていいけど息をしてしまう〉〈ぶち切った鎖に生える月夜茸〉 「ふらすこてん」(2017年刊)収録。

2017年10月17日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉11 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉11

福田若之


歴史を紐解いてみれば、自作についてほとんど何も語らずに済ませた書き手にも、自作について多くを語った書き手にも、優れた書き手はたくさんいる。たんに、多くのひとがそのどちらか一方にしか共鳴しえないというだけだ。『新生』におけるダンテの饒舌ぶりを思えば、俳句の書き手たちはまだあまりにも自作について語ることを知らない。

  ●

生きることの目的などと、ひとはたやすく言ってみせる。けれど、生きることに目的があってたまるか。生きることをその目的から考えることは、その目的の達成された具合に応じて生の価値を測ろうとすることにそのまま通じている。それは生を優劣で考えることにほかならない。生きることに目的を与えようとするあの道徳こそが、生についてのおよそ堪えがたい考えの温床となる。生きることに価値などない。どう生きようが価値だけはありえない。この価値のなさにおいてこそ、生は絶対的に肯定されるはずだ。僕は、書くことをこの次元において考える生きものでありたい。これは目的でも価値でもないが、とにかくそのような価値のなさを、思う存分に生きてみたいと思う。

  ●

書かなければ伝わらないかもしれないから、書こう。僕が裏庭で限界だったのは、たしか十歳か十一歳ごろのことだったと思うのだが、いずれにせよ大きいほうだ。尻を拭いたポケットティッシュと一緒に、園芸用のスコップで埋めた。噛まれ、こなされ、数種類の消化液と混ざり合った、じつに健康的な体温を感じさせる、たぶん給食の献立か何かだったのだろう。しばらく前、いまあそこに住んでいるひとの家を見に行ったときには、かつて裏庭だった場所はコンクリートで塗り固められてしまっていたけれど、あの窒息した土のなかには、おそらく、そのあとかたが何らかのかたちでいまだに残っているはずだ。おそらくは、僕が飼い殺した昆虫たちの死骸やなにやらとともに、土のなかの微生物たちによって、気の遠くなるほど分解されて。あの裏庭では、毎年、時期になると、決まっておいしい茗荷が採れたものだったのだけれど。

2017/10/11

2017年10月16日月曜日

●月曜日の一句〔日高玲〕相子智恵



相子智恵






馬肥ゆる大津絵の鬼どんぐり目  日高 玲

句集『短篇集』(ふらんす堂 2017.09)所収

大津絵は、江戸時代初期に東海道の宿場町である近江の大津で始まった素朴な民画。元は仏画であったが、後には世俗的な絵も描かれ、旅人のお土産となった。有名な画題としては、仏や鬼(鬼の寒念仏)、藤娘など。藤娘はのちに歌舞伎の舞踊などにも取り入れられていく。

掲句、大津絵の鬼は確かにクリクリしたどんぐりまなこで可愛らしい。3頭身ほどに描かれていて、まったく恐ろしくない。むしろ今のゆるキャラのような雰囲気だ。そこに〈馬肥ゆ〉という、澄んだ秋空の下で馬が豊かに肥えてゆく様子を取り合わせることで、馬を使って往来していた江戸時代の東海道の世界に自然に引き込まれる。季語によって俳味に厚みが出ている。

憂鬱な雨の月曜日にこの句を読むと、どんぐりまなこの鬼と一緒に、秋空のもとでボーっと往来する肥えた馬を眺めていたくなってくる。

2017年10月15日日曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

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2017年10月14日土曜日

●本日はトニー谷生誕100周年かつ正岡子規生誕150周年

本日はトニー谷生誕100周年かつ正岡子規生誕150周年

トニー谷 1917年(大正6年)10月14日 - 1987年(昭和62年)7月16日

正岡子規 1867年10月14日(慶応3年9月17日) - 1902年(明治35年)9月19日








≫『子規に学ぶ俳句365日』文庫化記念リンク集
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/10/365.html

2017年10月13日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋かづき〕樋口由紀子



樋口由紀子






旅をするハンサムな雲ひき連れて

高橋かづき(たかはし・かづき)

秋祭りのシーズンである。あちこちから太鼓や笛が聞こえてくる。その音色が秋空に向かって高く高く響き渡る。秋空の中にただよう雲。空に負けないくらいに澄んでいて、しなやかできりりとしていて形状も美しい。「ハンサムは雲」、いままでとそういう見方をしたことがなかった。あの鷹揚ぶりはまさしく美男子ならではのものである。「ハンサムな雲」とはなんと深くて優しい言葉だろうか。

日々生きていくにはたいへんなことも嫌なこともある。しかし、誰にも公平な雲がある。余計なことは言わず、黙って私を見ていてくれている。「ハンサムな雲」をひき連れている人生なのだから、日々の多少の不満は遣り過していかなくてはならないと思う。空気も爽やかで美味しい。〈自転車にはじめて乗れた日のように〉〈夕暮れのうしろ姿を手摑みに〉 川柳「杜人」(2017年秋号)収録。

2017年10月12日木曜日

●うどん

うどん


汗女房饂飩地獄といひつべし  小澤實

子規の忌の饂飩が繋ぐ皿と喉  黒岩徳将〔*〕

草の穂を重しと思いうどん屋へ  四ツ谷龍

空爆や鍋焼うどんに太い葱  下村まさる


〔*〕佐藤文香編著『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』(2017年8月31日/左右社)

2017年10月10日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム10 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム10

福田若之 


鍵忘れて裏庭で限界だったの

転校する子に寄せ書きもうあうことはないだろうけどげんきでね。

土と水になって帰って来たんだから誉めてよ

遊戯室はトランポリンときどき顔面に球が当たる

2017/10/4

2017年10月9日月曜日

●牛乳

牛乳

梅雨日曜牛乳ほどのあかるさに  阪西敦子〔*〕

蛍死んで牛乳びんとなりにけり  五島高資

大脳やミルクの湯気の立ち込めり  松本恭子

愛撫のやうに牛乳流す朝の駅  攝津幸彦


〔*〕佐藤文香編著『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』(2017年8月31日/左右社)

2017年10月7日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】句集レビューのありがたみ 『ににん』第68号の川村研治句集『ぴあにしも』特集 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
句集レビューのありがたみ
『ににん』第68号の川村研治句集『ぴあにしも』特集

西原天気


句集レビューは、読んでいない/おそらく読まない句集の場合も、有益。書き手がどう評しているかもあるんだけれど、引いてある句を読める/知るという点が便利なのです(間接じゃなくて直接読め、という声も聞こえてきそうですが、出る句集ぜんぶを読めるわけがないし、数を追うと、死にます。人生は短い)。

例えば『ににん』第68号(2017年10月1日)には、川村研治句集『ぴあにしも』(2017年6月1日/現代俳句協会)を特集。

海原に雨しみてゆくくらげかな  川村研治

冬支度せねば駱駝の瘤ふたつ  同

ひとつの場面・モチーフにとどまって質感を定着させる前者、いわゆる二物併置で意味を逃れる後者、対照的な二句をメモできた。

句集から、あるいは俳句から、そんなに欲張りに多くのものを得たいと思わなければ、気持ちよさ・愉しみを、日常的にカジュアルに受け取ることができる。

ってことは、あまり肩肘張らずに気軽に句集をレビューしろよ、それはきっと誰かのためになるよ、ということなのでしょう。


ほら、これ読んでる人、書けよ、もとい、書いてください(≫週俳の記事募集)。私も書こうと思います。

2017年10月6日金曜日

●金曜日の川柳〔きゅういち〕樋口由紀子



樋口由紀子






輪を叩きつけて天使は出ていった

きゅういち(1959~)

こんな天使は見たことはない。いや、どんな天使も見たことはないのだが、私の想像する天使は輪を叩きつけることなんて決してしない。天使に勝手なイメージを作り上げていたことに気づかされる。言われてみれば、天使だって怒ることはある。いつもいつも平和で穏やかでいられるわけがない。天使なんてやってられないと輪を叩きつけて出ていくのだから、よほどのことで、激昂で、抵抗だろう。違和の感情を持ち、このような行動をとる天使の存在に親近感をもつ。

一般的な天使のイメージをとっぱらって、自ら感じ取った世界を切り取った。威勢のいい言い放ちはユーモアのエッセンスを撒き散らして、天使の行動を一方的に立ち現せた。天使を瞬時に自分のなかにあるものに置き換えているようにも思う。怒るのも、怒っているのを見るのも生きている実感の一つである。不条理の感覚を視覚化している。『ほぼむほん』(川柳カード叢書① 2014年刊)所収。

2017年10月5日木曜日

●酒場

酒場

バーを出て霧の底なるわが影よ  草間時彦

銀河系のとある酒場のヒヤシンス  橋閒石

もの枯れて酒場に地獄耳揃ふ  小檜山繁子

雪降るとラジオが告げている酒場  清水哲男

打水の向ひのバーに及びけり  鈴木真砂女

2017年10月3日火曜日

〔ためしがき〕 雑感 福田若之

〔ためしがき〕
雑感

福田若之 


ことばにして伝わるかは分からないけれど、なんというか、血圧を感じさせる句が書きたい。それも、最近は、どちらかというと、わりと血圧低めのときの感じの句が、書きたい。



このごろ痛感しているのは、僕が、生きているひとたちのことを知らなすぎるということだ。みんなどこで生きているひとたちのことを学んでいるのだろう。



俳句のほかでは自己PRしないことに対する圧を感じてて、俳句では自己PRすることに対する圧を感じてる。けれど、そんなに器用ではないから、どちらかの圧には鈍感に生きていくしかない。いずれにせよ、真空では生きていけないのだから。

2017/10/2

2017年10月2日月曜日

●月曜日の一句〔九条道子〕相子智恵



相子智恵






天高し校歌五番を歌ひ切る  九条道子

句集『薔薇とミシン』(雙峰書房 2017.09)所収

そういえば私の学校の校歌も4番まであった。校歌が長い学校はわりと多いのだろうか。掲句は5番までだから、相当長くて全部覚えるのは大変だろう。それでも歌い切るところに、学校ならではの時間軸を感じる。省略して効率化したりはしないのだ。〈天高し〉が、歌い切った満足感と呼応して爽やかだ。

全部は覚えていなくても出だしは覚えていたりする。校歌というのは案外、大人になっても記憶に残っているものだな、と掲句を読んで思った。

2017年9月30日土曜日

【新刊】週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』文庫化

【新刊】
週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』文庫化

執筆:相子智恵 上田信治 江渡華子 神野紗希 関悦史 髙柳克弘 野口る理 村田篠 山田耕司 週刊俳句編集部

2017年9月29日金曜日

●金曜日の川柳〔月波与生〕樋口由紀子



樋口由紀子






ふたしかな記憶で描いた王の鼻

月波与生 (つきなみ・よじょう)

何のために「王の鼻」を描いたのだろうか。「王の顔」ならまだしもわかるような気もするが、「鼻」である。なぜ鼻だけを描く必要があったのか。誰かに頼まれたのか。思い出しながら、なんとか描きあげたようだ。どんな鼻を描いたのかと次の疑問が湧いてきた。鼻なんて、そんなに大差はない。で、いろいろな鼻を思い浮かべた。思い浮かべながら、なぜそんなことを想像しているのだろうと思った。

〈捺印をふたつ残して歯の予約〉〈快速でいけば砂糖が二個余り〉〈ベンチにも死ぬ順番があり「へ」の5番〉。不可解であいまいで奇妙な川柳であるが、日常生活のおける実感や手触りに根差したもののような気がする。本意でなくても、理由がわかなくても、「私」に課せられることが「社会」にある。「社会」と「私」の関係はわからないことだらけである。「ふらすこてん」(第53号 2017年刊)収録。

2017年9月28日木曜日

【新刊】robin d. gill 古狂歌シーリーズ

【新刊】
robin d. gill 古狂歌シーリーズ



あと1冊、『古狂歌 滑稽の蒸すまで: 鮑の貝も戸ざさぬ国を祝ふ』も刊行済みだそうですが(このもじり「滑稽の蒸すまで」、ナイス)、現在、amazonに見当たらず。行方が判明したら続報します。

(催馬楽天気・記)

↑ギルさんは、こう書いてくるので、今回は西原ではなくこちらで。

2017年9月27日水曜日

【人名さん】要潤

【人名さん】
要潤

Wikipedia


2017年9月26日火曜日

〔ためしがき〕 記憶違い 福田若之

〔ためしがき〕
記憶違い

福田若之 

「しびれることです。感電すること。それと、本っていうのは物体です。」のなかで、ひとつ、記憶違いでしゃべってしまったことがあるのに気づいた。ジョイスのことだ。学部時代には読んでいなかったと言ってしまったけれど、僕は、『ダブリナーズ』を学部の3年の夏に読んでいた。読んでいたのだ。

2017/9/20

2017年9月23日土曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


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句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

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そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


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※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2017年9月22日金曜日

●金曜日の川柳〔山本洵一〕樋口由紀子



樋口由紀子






エレベーターをわたしのために呼びつける

山本洵一 (やまもと・じゅんいち)

エレベーターはボタンを押すだけでいつでもすぐに来てくれる。それは当然のことで、あらためて考えることはなかった。わたしのために黙って来てくれて、希望の階まで連れていってくれる、確かに、ほんとにありがたい。「呼びつけているでしょう」と問いかけられているような気がした。

「呼びつける」というあまり好感の持てない言葉が背景を変えるだけでガラリと変容する。あたりまえのことでも見方を変えると物事は異なった相になる。その一方、誤解を与えてしまいやすい言葉のむずかしさ、ややこしさも考えてしまう。先日、メールのやりとりで思い違いがあって気まずくなったことがあった。幸い、わかりあえたが、気をつけなくてはいけないとつくづく思った。

2017年9月21日木曜日

●自殺

自殺

自殺系空間きりんうるむなり  攝津幸彦

蝶むらさき自殺につけられた理屈  福田若之〔*〕

やがてバスは自殺名所の滝へかな  櫂未知子

月になまめき自殺可能のレール走る  林田紀音夫

二つ三つ不審もあれど春の自死  筑紫磐井


〔*〕福田若之『自生地』(東京四季出版/2017年8月31日)

2017年9月20日水曜日

●昨日は子規忌 橋本直

昨日は子規忌

橋本直


明治35年9月19日は「子規忌」(獺祭忌、月明忌などとも)、旧暦でいうと8月18日にあたる。ちょうど自分がいろいろ俳句を選している最中なので、この句について少し。

  三千の俳句を閲し柿二つ 子規(明治30年)

一読してこの「三千」という句の数字が具体的に何をさすのかよくわからない。わからなくてよく詠んであるのだからリアルな根拠はいらないように思う。〈たくさん〉ほどの意だろう。漢籍でよくやる「万」は俳諧以来のアンソロジーの定番「〇〇一万句」を想起させて「月並」でいただけないし、あまり多いと数自慢の匂いもするので、数と音の調子できめたものだろうか。読者に対するある種の自分らしさの演出、自己演技を感じもする。

実証的な話をすれば、二説あって、一つには『新俳句』(明治30年)の句稿説。『新俳句』を編集した直野碧玲瓏宛書簡で、『新俳句』の版の話題のあったあと、最後にこの句が付してあり、当然碧玲瓏はそう考えていた。

もう一つは、子規の「俳句稿」明治30年秋所収のこの句の前書「ある日夜にかけて俳句函の底を叩きて」を根拠とするもの。「俳句函」は子規宛に送られてきた投句を収めた箱のことらしい。虚子や『子規全集』16巻の「解題」(担当:池上浩山人)はこちらをとる。

特に池上は後者の方が「自然」(前掲文中)とまで書いているけれども、そこまで言ってよいものだろうか。実際に詠んだときは後者がきっかけだったのかもしれないが、確かに碧玲瓏宛に書いて送ったのだから、そのときはその意味も込めてあったに違いない。要は、子規が同じ句を使い分けたのであって、どっちが正しいとかいうのはナンセンスであるだろう。

子規は句に数字を使うのがけっこう好きなのだが、この「三千~」で始まる句は他に、

 三千の遊女に砧うたせばや (「寒山落木」第二)
 三千坊はなれ\/の霞哉  (「散々落木」第四)
 三千の兵たてこもる若葉哉 (「寒山落木」第五)

がある。

なお、虚子の追悼句「子規逝くや十七日の月明に」では日付のズレがときどき指摘される。子規は19日に日付が変わった頃に亡くなったとされているから、実質18日深夜になくなった。どうやら虚子は、旧暦8月17日の深夜の月を眺めたという意味でこの句を詠んでいる。たまたま新旧の日が近いせいで虚子が命日を間違ってるみたいなことになってしまったのだろう。その理由ははっきりしないけれども、この時なぜ虚子が旧暦の句にしたかは、その後の俳句史を考えると、興味深いことではある。

2017年9月19日火曜日

〔ためしがき〕 塔 福田若之

〔ためしがき〕


福田若之 

町に高い塔が建つ。浮きあがって見える。縮尺に違和感を覚える。けれど、しばらくすると、すこしずつ、町の視界にその塔があることがあたりまえになってくる。まわりの建物も、更地になり、あたらしく建物がつくられていくなかで、塔の存在を前提としはじめる。いつしか、塔は町にとって欠かせないものになっている。

2017/9/19

2017年9月18日月曜日

●月曜日の一句〔正木ゆう子〕相子智恵



相子智恵






十万年のちを思へばただ月光  正木ゆう子

句集『羽羽』(2016.09.春秋社)

前書きに〈映画「十万年後の安全」〉とある。フィンランドのオルキルト島に建設中の放射性廃棄物処理施設「オンカロ」(22世紀に完成予定)のドキュメンタリー映画。〈十万年〉は、放射性廃棄物の放射能レベルが生物に無害になるまでの時間。その時に人類は存在しているのか分からず、していたとしても今とはずいぶん違った生物になっているだろうから(今から10万年前はホモ・サピエンスの生息地域が拡大した頃らしい、そのくらいの時間だ)この施設の意味は伝わるのか……など、その途方もなさに茫然とする。

あまりに途方もないものを生み出し、その未来を見届けることなく、思うことすら無化してしまうような目の前には、ただ月光が茫然と白く映るのみ。月そのものではなく、光だけなのも象徴的だが、そもそも十万年後に月があるのどうかはわからない。

この月光は、いま目の前の光で、思うのもいまの私で〈ただ月光〉という終わらせ方は、その限界をまるごと差し出している。

2017年9月16日土曜日

【俳誌拝読】『静かな場所』第19号(2017年9月15日)

【俳誌拝読】
『静かな場所』第19号(2017年9月15日)


A5判、本文18頁。発行人:対中いずみ。

招待作品より。

虹の輪に機影かさなる添ひ寝かな  小津夜景

以下同人諸氏作品より。

仏間居間寝間と続きて冬椿  満田春日

短夜の箱振つて出す句集かな  森賀まり

あの本もこの本もある曝書かな  和田悠

トロフィーの見ゆる窓辺や夏燕  対中いずみ


(西原天気・記)

2017年9月15日金曜日

●金曜日の川柳〔山田ゆみ葉〕樋口由紀子



樋口由紀子






蜘蛛の巣をかぶって猫はあらわれた

山田ゆみ葉 (やまだ・ゆみは) 1951~

猫が蜘蛛の巣をかぶって出てきただけのことが書かれている。軒下からか天井からか、そんな猫が出てきそうであるが、奇妙な光景である。異様な、それでいてなにやら滑稽な雰囲気が漂う。

「かぶって」だから、猫の意志で蜘蛛の巣をかぶって出てきたように作者には見えて、その堂々ぶりに魅せられたのだろうか。あるいは蜘蛛の巣ごときが頭にあろうとそんなことはいっさい動じない、威風堂々とした猫に惹かれたのだろうか。が、蜘蛛の巣が頭についていることに気づかない無邪気な猫でもある。蜘蛛の巣を取り払わないのは意志なのか、ただ気づかないだけなのか。猫に対する思い入れの差も影響して、その姿を畏怖するか、可愛いと思うのか、全く異なった気持ちを引き出す。猫を比喩として使ったわけではなさそうだが、人間にも当てはまると思った。さて、この猫はどうなのだろうか。「ふらすこてん」(第53号 2017年刊)収録。

2017年9月14日木曜日

【俳誌拝読】『鏡』第25号(2017年9月1日)

【俳誌拝読】
『鏡』第25号(2017年9月1日)


A5判、本文32頁。編集人・発行人:寺澤一雄。以下同人諸氏作品より。

塔老いにけりひぐらしの声のこり  羽田野令

本棚をずらせば汽笛夏めく日  笹木くろえ

虹は水また八分の六拍子  佐藤文香

行く夏を首寝違へし人とゐる  谷雅子

姥百合の揺れて真昼の生欠伸  八田夕刈

ここからが中野サンプラザの日陰  三島ゆかり

禁色や玉子喰うとき殻を剝く  村井康司

ふらふらと来て猛りたる火取虫  森宮保子

砂浜に残る海月のその後見ず  大上朝美

キッチンを灯すと淋し夏の暮  佐川盟子

春山の奥に冬山そこまで行けず  寺澤一雄

(西原天気・記)