2017年1月4日水曜日

●水曜日の一句〔中村安伸〕関悦史


関悦史









神旅を終へて子宮に到着す  中村安伸


倉橋由美子『アマノン国往還記』や荒巻義雄『神聖代』といった幻想的な長篇小説のプロットを五七五に抽出してしまったかのような一句だが、神の旅で一応有季句になっているところにとぼけた味わいもある。もっとも神の旅は秋ごとに出雲へ行って、翌月には戻ってきてしまうので、終わったところで「子宮に到着」したりはしない。この句は普通の神の旅ではない。

子宮への到着はいわば天国への到着であり、同時にそこから再出発しなければならないものであり、輪廻の輪の完成をも意味している。句の作りとしては「終へて」と「到着す」が近すぎると見えるが、ひとつの生と宇宙の完結を示すには「終へて」もあった方が話はわかりやすい。しかし、なかったところで到着先が「子宮」となればそれだけで季語的円環のなかの神の旅ではないことはわかる。この「終へて」はむしろ、句の言葉からどっしりした手応えを奪い、一句を流動的なものにすることに寄与している。非現実であるだけではなく、非実体であることを徹底されたなかでの「子宮」であり、輪廻なのである。

これはいわば幾何学的な図形として構想はし得るものの、実際の作図は難しい、完璧な円のようなものだ。質料を切り捨てた形相のなかでのみ成り立つ愉悦にも似た完結感。その完結は即開放でもある。季節の運行という円環と、その上位で繰り返される、神の旅の宇宙創成=消滅の円環が入れ子になり、われわれが生きる物質の世界はあっさり捨て去られてしまう。

そのことが実存を瞬時に空無に化してしまうような重厚な快感をもたらすかといえば、そういうダイナミズムはなくて、一句はきれいな絵本のように無害な顔をして見せているままだ。しかしその“絵本”のなかの、重さを欠いた世界の運行が、その辺にごくあっさりとまぎれ込んでいるかのような一句の姿は、ボルヘス的な眩暈を誘う。この句に視点人物がいるとしたら、彼はその非実体世界の、胎児的満足感の方にいるのだ。


句集『虎の夜食』(2016.12 邑書林)所収。

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